水縹 詩雨

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水縹 詩雨

みなはだ しう 作家、作詞家、作曲家 X⇨Minamata_novel 小説家になろう⇨王道恋愛系   Novelee ⇨失恋系  エブリスタ ⇨コンテスト用 アルファポリス⇨その他

君がいない秋を、嫌いになる。

 秋が嫌いになったのは、いつからだっただろう。  金木犀の香りがする帰り道も、少しずつ短くなる昼間も、夕方の空に溶けていく薄い橙色も。  どれも、嫌いになる理由なんてなかった。  むしろ、好きだった。  だからこそ、困っていた。  好きなものが、ひとつずつ思い出に変わっていく季節だったから。 「白瀬、寒くないの」  隣を歩く久瀬が言った。 「別に」 「手、冷たそうだけど」 「見ただけでわかるの?」 「顔色」 「それ、手の話じゃないでしょ」  彼は小さく笑った。  私は笑わなかった。  笑えば、頬にエクボができる。彼はそれを見ると、なぜか少しだけ安心したような顔をする。  それが嫌だった。  私が笑っているだけで、彼が安心できてしまうことが。  私は、そんなにわかりやすい人間ではない。  少なくとも、彼にだけは、そう思われていたかった。 「ねえ、久瀬」 「ん?」 「秋って、短いよね」  彼は空を見上げた。 「そうだね」 「どうしてだと思う?」 「夏と冬の間だから?」 「答えになってない」 「じゃあ、白瀬は?」  私は少し考えた。  そして、言った。 「終わるのが惜しいからじゃない」  彼は何も答えなかった。  冷たい風が吹いて、街路樹の葉が一枚、私たちの間に落ちた。  その葉を踏まないように、私は少しだけ歩く位置をずらした。  彼も、同じようにした。  たったそれだけのことが、どうしようもなく悲しかった。  私たちは、いつだって歩幅が合っていた。  だからきっと、別々の場所へ向かっていることにも、気づかないふりができたのだと思う。

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君がいない秋を、嫌いになる。

恋は必要?

 彼女は、間違っていると思ったことを、間違っていると言える人だった。  たとえ相手が先生でも、クラスの大半が賛成していても、自分が違うと思えば、きちんとそう口にした。  だから、彼女が恋をしていると知ったとき、私は少しだけ安心した。  彼女にも、どうにもならないものがあるのだと思ったから。  放課後の教室で、彼女は窓の外を眺めていた。  夕暮れの光が横顔を薄く染めている。机の上には、読みかけの小説と、使い古されたサックスのリードケース。 「ねえ」  私が呼ぶと、彼女はこちらを向いた。 「好きな人って、忘れたほうがいいと思う?」  彼女はすぐには答えなかった。  それから、ほんの少し眉を寄せた。 「忘れられるなら、そもそも悩んでないでしょ」  あまりにも彼女らしい答えだった。  私は笑った。  彼女も笑った。  頬に、小さなエクボが浮かんだ。  そのとき私は、彼女がその人の前でも同じように笑うのか、聞いてみたくなった。  けれど、聞かなかった。  聞いてしまったら、彼女の恋が、本当にそこにあるものになってしまう気がした。

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君が残した手紙

第一章 ー君がくれた、最後の手紙ー  彼女は、僕に告白をしたことがない。  僕も、彼女に告白をしたことがない。  それなのに僕たちは、三年間、まるで恋人みたいに過ごしてきた。  朝は駅で待ち合わせて、一緒に大学へ向かう。昼は学食で隣に座る。講義が終われば、どちらからともなく「帰ろう」と言って、同じ電車に乗る。  休日には映画を観た。  彼女が観たいと言った映画を、僕は必ず覚えていた。僕が好きだと言った音楽を、彼女はいつの間にか口ずさむようになった。  誕生日にはプレゼントを贈った。  クリスマスには、少しだけ高いレストランへ行った。  周囲からは、付き合っているのかと何度も聞かれた。  そのたびに彼女は笑って、こう答えた。 「違うよ。私たち、そういうのじゃないから」  僕も笑った。 「そうそう。こいつとは、ただの友達」  その言葉を口にするたび、胸の奥で何かが静かに沈んでいった。  それでも僕は、彼女の隣にいることをやめられなかった。  友達という名前がついているだけで、彼女の一番近くにいられるのなら。  いつか、その名前が変わる日を待っていてもいいと思った。  ――あの日までは。      *  大学四年の十一月。  キャンパスの木々は、すっかり赤や黄色に染まっていた。  卒業まで、あと半年。  就職先も決まり、卒業論文も残すところわずかとなった僕たちは、人生で一番、自由な時間を過ごしていた。  少なくとも、僕はそう思っていた。 「ねえ、悠真」 「ん?」 「卒業したら、どうするの?」  昼休み。  いつものベンチで、彼女は紙パックのミルクティーを両手で持っていた。  白石紬。  僕が三年間、好きだった人。  肩に触れるくらいの黒髪と、少しだけ垂れた目。笑うと右頬に小さなくぼみができる。  彼女は誰にでも優しかった。  困っている人がいれば手を差し伸べるし、友達の相談には夜中まで付き合う。自分が損をすることになっても、誰かが傷つくよりはいいと考えるような人だった。  だからこそ、僕は彼女の優しさを、自分だけのものにしたいと思ってしまう。 「普通に働くよ。東京の会社」 「そっか」 「紬は?」 「私も、就職するよ」 「知ってる。地元の出版社だろ?」 「うん」  そこで会話が途切れた。  いつもなら、次の話題を探すのは僕の役目だった。  けれど、その日の彼女は違った。 「……遠くなるね」  ぽつりと落とされた言葉に、僕は思わず彼女を見た。 「まあ、電車で二時間くらいだし。そんなに遠くないだろ」 「そうだね」  彼女は笑った。  その笑顔が、どうしてか、ひどく寂しそうに見えた。 「ねえ、悠真」 「今度は何?」 「私たちってさ、卒業したら、もう会わなくなるのかな」  心臓が、一度だけ大きく跳ねた。  それは、三年間、ずっと聞きたかった質問に似ていた。  僕たちの関係は、大学を卒業しても続くのか。  彼女は、僕と離れても平気なのか。  僕がいなくなったら、少しは寂しいと思ってくれるのか。  聞きたいことは、いくらでもあった。  なのに。 「……何だよ、それ。会おうと思えばいつでも会えるだろ」  僕は、いつものように笑った。 「そっか」  紬も笑った。  そして、ミルクティーのストローをくわえた。 「よかった」  その声が、あまりにも小さかったから。  僕は、聞かなかったことにした。      *  十二月十日。  紬から、珍しく夜遅くに連絡が来た。 『明日、少し時間ある?』  すぐに返信した。 『あるよ。どうした?』  既読は、すぐについた。  けれど、返事はなかなか来なかった。  十分。  二十分。  そして、三十分が経った頃。 『渡したいものがあるの』  続けて、もう一通。 『明日、大学の図書館に来てほしい』  僕は、しばらく画面を見つめていた。  渡したいもの。  誕生日はまだ先だし、クリスマスプレゼントには早すぎる。  何だろう。  卒業旅行の計画でも立てるのだろうか。それとも、就職先のことで相談があるのか。  いくつか考えてみたけれど、どれもしっくりこなかった。  結局、僕は短く返した。 『分かった。何時?』 『午後三時』 『了解』  そこで会話は終わった。  いつもなら、くだらないスタンプを送り合って、最後にはどちらかが「おやすみ」と言う。  その夜は、何もなかった。  僕はベッドに寝転がりながら、何度もスマートフォンを確認した。  紬からの連絡は、それきり来なかった。        翌日。  午後二時五十分に図書館へ着いた僕は、入口の前で彼女を探した。  けれど、紬はいなかった。  いつも座っている窓際の席にも、参考書を借りるカウンターの近くにも、姿は見当たらない。  おかしいな。  そう思いながら、スマートフォンを取り出した。  そのとき。 「悠真」  背後から、声がした。  振り返る。  紬が立っていた。  薄いベージュのコートに、白いマフラー。両手で、小さな封筒を抱えていた。 「ごめん、待った?」 「いや、今来たとこ」 「嘘。十分前からいたでしょ」 「……何で分かるんだよ」 「三年間、一緒にいたから」  紬は、少しだけ笑った。  そして、僕の前に封筒を差し出した。 「はい」 「何これ?」 「手紙」 「手紙?」 「うん」  封筒は、白かった。  宛名も、差出人の名前も書かれていない。  ただ、裏側に小さな文字で、こう書かれていた。  ――十二月二十四日まで、開けないこと。 「……何だよ、これ」 「読んでほしいの」 「いや、だから、何で二十四日?」 「約束して」  彼女は、僕をまっすぐに見た。  いつも柔らかく笑っている瞳が、そのときだけは、少しも笑っていなかった。 「絶対に、二十四日まで開けないで」 「分かったよ」 「本当に?」 「本当だって」 「……そっか」  紬は、安心したように息を吐いた。  それから、ほんの少しだけ迷うように視線を落とした。 「ねえ、悠真」 「ん?」 「もし私が、いなくなったら」  彼女はそこで言葉を切った。  図書館の窓から差し込む冬の光が、彼女の横顔を照らしていた。 「……いや、何でもない」 「何だよ。気になるだろ」 「忘れて」  彼女は笑った。 「今の、忘れてね」  忘れられるわけがなかった。  けれど、僕はそれ以上、何も聞かなかった。  彼女が話したくないことを、無理に聞き出したくなかったから。  それが優しさだと思っていた。  今でも、ときどき考える。  あのとき、もっと強く聞いていたら。  彼女の言葉を、笑って流さなかったら。  僕たちは、違う未来を迎えていたのだろうか。        十二月二十四日。  約束の日。  朝から、雪が降っていた。  僕は自分の部屋で、机の上に置いた封筒を眺めていた。  十四日間。  たった一通の手紙を開けるのに、十四日も待った。  その間、紬とは何度も会った。  講義にも一緒に出たし、昼食も食べた。駅までの帰り道、くだらない話をして笑い合った。  何も変わらなかった。  だから、僕は安心していた。  手紙は、きっと大したものではない。  卒業後も友達でいよう、とか。  今までありがとう、とか。  あるいは、三年間の思い出を綴った、少し気恥ずかしい文章かもしれない。  そう考えながら、封筒を開けた。  中には、便箋が一枚。  見慣れた文字が、そこに並んでいた。 『悠真へ。  この手紙を読んでいるということは、今日は十二月二十四日なんだね。  ちゃんと約束を守ってくれて、ありがとう。  最初に謝っておきます。  ごめんなさい。  私は、あなたにずっと嘘をついていました。  三年間、あなたの隣にいたこと。  あなたと過ごした時間。  あなたがくれた言葉も、笑顔も、全部。  私は一度だって、忘れたいと思ったことはありません。  だからこそ、あなたには知ってほしくなかった。  私が、あなたを好きだったことを。』  そこで、僕の指が止まった。  好きだった。  過去形だった。  何度も読み返した。  文字が変わるはずもないのに、何度も。  好きだった。  好きだった。  好きだった。  喉の奥が、ひどく乾いた。  僕は、次の行を読んだ。 『もし、あの日に戻れるのなら。  私はきっと、あなたに告白していたと思います。  あなたが好きだと。  あなたと恋人になりたいと。  卒業しても、ずっと一緒にいたいと。  でも、私は言いませんでした。  あなたが優しい人だと知っていたから。  あなたが、誰かを傷つけることを何よりも嫌う人だと知っていたから。  そして、私があなたにとって、どんな存在なのかを知っていたから。』  そこで、便箋は一度、途切れていた。  まるで、彼女が続きを書くことをためらったみたいに。  僕は、震える指で紙をめくった。 『ねえ、悠真。  あなたは、私のことが好きですか?』  息が止まった。  そんなの。  そんなの、決まっている。  三年間、ずっと。  ずっと、君だけを見ていた。  君が笑えば嬉しかった。  君が泣けば、どうにかして笑わせたかった。  君がほかの誰かと楽しそうに話しているだけで、胸の奥がざわついた。  君の好きなものを覚えて、君の嫌いなものを避けて、君が喜ぶ顔を見るために、何度も自分の気持ちを飲み込んだ。  好きだった。  そんな一言では、足りないくらいに。  なのに。 『もし、あなたが私を好きだったのなら。  どうか、私を許さないでください。』  その一文を読んだ瞬間、部屋の時計の音が、やけに大きく聞こえた。  許さないで。  どういう意味だ。  何を、許さないというのだろう。  僕は、最後の一行に目を落とした。 『あなたがこの手紙を読んでいる頃、私はもう――』  文章は、そこで終わっていた。  いや。  終わっていたのではない。  その先の紙が、乱暴に破り取られていた。  僕は、便箋を裏返した。  何も書かれていない。  もう一度、表を見た。  続きはない。  どこにもない。 「……何だよ、これ」  声が、ひどく掠れた。  スマートフォンを掴み、紬に電話をかける。  呼び出し音が鳴った。  一回。  二回。  三回。  やがて、機械的な音声に切り替わった。  メッセージを送る。 『手紙を読んだ。どういう意味?』  既読は、つかなかった。  もう一度、電話をかけた。  つながらない。  そのとき、ふと、彼女が最後に会った日のことを思い出した。  十二月二十三日。  昨日だ。  いつもどおり大学の講義を受けて、いつもどおり学食で昼食を食べた。  帰り際、彼女は僕に尋ねた。 『ねえ、悠真。私のこと、忘れないでね』  僕は笑って答えた。 『忘れるわけないだろ』  彼女は、何も言わなかった。  ただ、少しだけ困ったように笑っていた。  あのとき。  彼女は、何を考えていたのだろう。  僕は上着を掴み、部屋を飛び出した。  行き先は、決まっていた。  彼女の家。  何度も訪れた、あの小さなアパート。  何度も夕食をごちそうになって、何度もくだらない映画を観て、何度も終電を逃しかけた場所。  そこに行けば、彼女がいる。  きっと、いつものように笑って、「どうしたの?」と聞いてくれる。  そして僕は、今度こそ言うのだ。  好きだと。  三年間、ずっと好きだったと。  友達なんかじゃ足りなかったと。  だから、どうか。  僕を置いていかないでくれと。        アパートに着いたのは、午後四時を少し過ぎた頃だった。  雪は、まだ降り続いていた。  息を切らしながら、二階へ上がる。  見慣れた扉。  白い郵便受け。  ドアノブの横に貼られた、小さな花のシール。  僕は、何度もインターホンを押した。 「紬!」  返事はなかった。 「おい、いるんだろ? 開けてくれよ!」  もう一度、インターホンを押した。  何も聞こえない。  仕方なく、スマートフォンを取り出そうとしたときだった。  隣の部屋の扉が開いた。 「あら、白石さんのお友達?」  出てきたのは、見覚えのある年配の女性だった。  以前、紬の部屋で何度か顔を合わせたことがある。 「あ、はい。そうですけど……」 「あなた、悠真くん?」 「……そうです」  女性は、少し驚いたような顔をした。  それから、困ったように眉を下げた。 「白石さんなら、もう引っ越したわよ」  頭の中が、真っ白になった。 「……え?」 「昨日の朝だったかしら。荷物をまとめて、出ていったの。ご実家に帰るって言っていたけれど」  昨日。  十二月二十三日。  僕と別れた、そのあとに。 「連絡先は……」 「ごめんなさいね。私も知らないの」  女性は申し訳なさそうに頭を下げた。 「でも、白石さん、あなたのことを話していたわよ」  僕は顔を上げた。 「……僕のこと?」 「ええ。とても大切な人なんだって」  大切な人。  その言葉が、胸の奥に突き刺さった。 「ただね」  女性は、少しだけ不思議そうに首を傾げた。 「最後に会ったとき、あの子、変なことを言っていたのよ」 「……何ですか」 「『もし、あの人が私を探しに来たら、何も知らないと言ってください』って」  僕は、何も言えなかった。  女性は、続けた。 「それから、もう一つ」 「……何ですか」 「『私がいなくなったことを、あの人には絶対に知らせないでください』って」  雪が、肩に積もっていた。  寒いはずなのに、何も感じなかった。  僕はポケットから、あの手紙を取り出した。  何度も読み返した便箋。  最後の行。  破り取られた、その先。  僕は、初めて気づいた。  彼女は、僕に手紙を渡した。  十二月二十四日に読めと、約束させた。  そのうえで、僕に何も知らせず、いなくなった。  まるで。  まるで、僕が彼女を探しに来ることを、最初から知っていたかのように。 「……紬」  名前を呼んでも、返事はなかった。  当たり前だ。  彼女は、もうここにはいないのだから。  僕は、その場に立ち尽くした。  手の中の手紙を、強く握りしめた。  好きだった。  そう書いてあった。  けれど、それが本当なら。  どうして、彼女は僕から逃げたのだろう。  どうして、好きだったと言いながら、僕を置いていったのだろう。  そして。  どうして、僕は。  彼女がいなくなるまで、一度も、自分の気持ちを伝えられなかったのだろう。        その夜。  僕は、手紙をもう一度読み返した。  何度も、何度も。  そして、最後に。  便箋のいちばん下に、小さな文字があることに気づいた。  破り取られた部分の、すぐ手前。  今まで、涙で滲んで見えなかった文字。 『もし、あなたが私を探してくれたなら。』  そこまで書かれていた。  その先は、ない。  僕は、便箋を机に置いた。  窓の外では、雪が降り続いていた。  十二月二十四日。  クリスマスイブ。  街はきっと、恋人たちで賑わっているのだろう。  僕は、一人だった。  三年間、ずっと隣にいた人を。  好きだと伝えることさえできなかった人を。  もう一度、探したいと思った。  けれど、同時に。  彼女が本当に僕を好きだったのなら。  彼女が本当に僕に幸せになってほしいと思っていたのなら。  僕は、彼女を探すべきではないのかもしれない。  机の上で、スマートフォンが震えた。  知らない番号からのメッセージだった。  本文は、一行。 『白石紬さんのことで、お話があります』  僕は、画面を見つめた。  送信者の名前は、表示されていない。  続けて、もう一通届いた。 『あなたは、彼女に何も聞いていないのですね』  その下に、住所が記されていた。  そして最後に。 『彼女があなたに手紙を渡した、本当の理由を知りたければ、明日の午後六時に来てください』  僕は、しばらく動けなかった。  紬は、何を隠しているのだろう。  僕は、彼女の何を知らなかったのだろう。  そして。  僕たちは、本当に、ただの友達だったのだろうか。  答えは、まだ分からない。  ただ一つだけ、確かなことがある。  僕は明日、そこへ行く。  彼女が望んでいなかったとしても。  彼女が僕に知られたくなかったとしても。  今度こそ、聞かなければならない。  君は、僕を。  どう思っていたのか。  ――そして、なぜ。  僕に、さよならさえ言わなかったのか。

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大切な人

 君は、私の恋人ではなかった。  家族でも、友人でもなかった。  それなのに、私の人生において、君は何よりも大切な人だった。  そう言うと、君はいつも困ったように笑った。 「それって、どういう意味?」  私にも分からなかった。  恋愛感情なのかと聞かれれば、違う気がした。    家族愛なのかと聞かれても、やっぱり違う。  友情という言葉を当てはめるには、あまりにも私たちの間にあるものは、名前のつけようがなかった。  ただ、君がいなくなることを想像すると、世界から色が消えてしまうような気がした。  それだけは、確かだった。    私は、自分のことが嫌いだった。  ー正確には、自分を説明するための言葉が、ひとつも見つからないことが嫌いだった。  誰かを好きになるとき、相手の性別は関係なかった。  男の人を好きになったこともある。  女の人を好きになったこともある。  性別という枠組みそのものに、どうしても当てはめられない感情だってあった。   パンセクシュアル。  そういう言葉があることを知ったとき、私は少しだけ救われた。  けれど、言葉を知ることと、それを誰かに伝えることは違った。  私はノンバイナリーでもあった。  生まれたときに割り当てられた性別を、自分自身の性別として認識することができなかった。  それを説明するたび、相手の顔色をうかがった。  理解してほしかった。  でも、理解されなかったときに傷つくのが怖くて、最初から誰にも話せなかった。  初めてそれを告白した私に、君は言った。 「そっか」  たった、それだけだった。  私が勇気を振り絞って、自分のことを話し終えたとき。  君は、いつもと変わらない顔で、買ってきたばかりの缶コーヒーを私に差し出した。 「話してくれてありがとう」  それから、少し考えるように首を傾げて。 「これからも、君は君でしょ?」  私は、泣いてしまった。  君は慌てた。  どうして泣くの、と聞きながら、ポケットから取り出したハンカチを差し出してくれた。  私はそれを受け取れなかった。  代わりに、君の服の袖を握った。  離したら、今度こそ壊れてしまう気がした。  君は何も言わず、私が泣きやむまで隣にいてくれた。  その日から、君は私にとって、特別な人になった。    私たちには、約束がなかった。  毎日連絡を取り合うわけでもなければ、誕生日を必ず祝うわけでもない。  お互いの過去を、すべて知っているわけでもなかった。  君には君の生活があったし、私には私の生活があった。  それでも、何かあったとき、私は君に連絡をした。 『今日、ちょっと疲れた』 『お疲れさま』 『理由はない』 『じゃあ、理由がなくてもお疲れさま』  そんなやり取りを、何度も繰り返した。  君は私のことを、特別な呼び方では呼ばなかった。  男の子でも、女の子でもなく、ただ私の名前を呼んだ。  それが、好きだった。  誰かの期待する性別を演じなくていい。  誰かの望む恋人にならなくていい。  誰かにとって都合のいい自分にならなくていい。  君の隣では、私はただ、私でいられた。  だから、いつしか私は思うようになった。  この人さえいれば、私はきっと大丈夫だ、と。  けれど、君は私のものではなかった。  君の人生には、私の知らない人たちがいた。  君が大切にしている家族がいて、友人がいて、いつか君の恋人になるかもしれない人がいた。  私は、そのどれでもなかった。  そのことが、ときどき、どうしようもなく寂しかった。  君にとって私は何なのだろう。  君の人生に、私は必要なのだろうか。  私が君を何よりも大切に思っていることを、君は知っているのだろうか。  聞きたくて、聞けなかった。  名前をつけてしまったら、今の関係が壊れてしまう気がしたから。    ある日、君が言った。  「私ね、来月から遠くに行くんだ」  私は、うまく笑えなかった。 「そっか」 「うん。ずっと行きたかったところ」 「よかったね」 「ありがとう」  君は嬉しそうだった。  私は、その顔が好きだった。  君が自分の人生を、自分の足で歩いていることが嬉しかった。  君が私の知らない世界を知って、私の知らない人と出会って、私の知らない幸せを見つけることが嬉しかった。  それなのに。  心のどこかが、私を置いていかないでと叫ぶ。  そんな自分が、ひどく嫌だった。  君に救われたからといって、君の人生を私のために使わせていいわけがない。  君が私を認めてくれたからといって、君のすべてを欲しがっていいわけではない。  私は、君の大切な人になりたかった。  でも、君の世界を狭める人にはなりたくなかった。 「寂しくなるね」  ようやく、それだけ言った。  君は少し驚いて、それから笑った。 「うん。私も寂しいよ」  その言葉に、救われた。  君も寂しいと思ってくれる。  それだけで、私は十分だった。  十分だと、思わなければならなかった。    別れの日、君は駅まで見送りに来てくれた私に、小さな封筒を渡した。 「これ、帰ってから読んで」 「手紙?」 「うん。直接言うと、ちょっと恥ずかしいから」  君は照れくさそうに笑った。  電車が来て、君が乗り込む。  扉が閉まる直前、私は思わず声を上げた。 「ねえ!」  君が振り返った。  何を言いたかったのか、自分でも分からなかった。  行かないで、だったのかもしれない。  忘れないで、だったのかもしれない。  でも。 「ありがとう!」  結局、口から出てきたのは、それだけだった。  君は一瞬目を丸くして、それから、いつもの顔で笑った。  私が初めて自分のことを話した日と、同じ顔だった。  電車が走り出す。  君の姿が見えなくなってから、私は封筒を開けた。  中には、一枚の便箋が入っていた。 『君へ。  君が自分のことを話してくれた日、私は何か特別なことを言わなきゃいけないと思っていました。   でも、何を言えばいいのか分からなかった。  だから、思ったままのことを言いました。  君は君でしょう、って。  あれは、今でも私の本心です。  君が誰を好きになっても、どんな性別で生きていても、君が君であることに変わりはありません。  そして、君が私を大切に思ってくれていることを、私は知っています。  私も、君のことを大切に思っています。  恋人とか、家族とか、友達とか。  世の中には、関係に名前をつける言葉がたくさんあるけれど。  そのどれかに当てはまらないと、大切に思ってはいけないのでしょうか。  私は、そうは思いません。  君が私を何と呼んでもいい。  呼び方が見つからなくてもいい。  ただ、君が君の人生を生きてくれたら、それでいいです。  いつか君が、自分のことを少しだけ好きになれたら。  そのときは、私が君を認めたことなんて、忘れてしまっても構いません。  君が君を認められるようになったのなら、それがいちばん嬉しいから。  それでも、もし。  どうしようもなく苦しい日があったら、連絡してください。  私は、君の恋人でも、家族でも、友達でもないかもしれないけれど。  君の味方であることに、名前はいらないから。  また会おうね』  最後の一行を読み終えたとき、私は空を見上げた。  泣いた。  けれど、あの日とは違った。  あの日、私は君に自分を認めてもらって泣いた。  今日は、君がいなくても、君に認めてもらった自分を生きていける気がして泣いた。  君がいなくなっても、君がくれたものは、私の中に残っている。  誰かを好きになることを、怖がらなくてもいい。  自分のことを、無理に説明できなくてもいい。  私は私でいい。  君が教えてくれたことを、これからは私が、私自身に伝えていこうと思った。    数か月後。  私は、久しぶりに君に連絡をした。 『元気?』  すぐに返事が来た。 『元気だよ。そっちは?』 『元気』 『よかった』  それだけのやり取りだった。  けれど、私は嬉しかった。  君が今もどこかで生きていて、私の知らない毎日を過ごしていて、それでも私のことを覚えていてくれる。  それだけで、世界は少しだけ優しくなった。  私は、君の恋人ではない。  家族でも、友人でもない。  君の人生の中心にいるわけでもない。  それでも。  君は、私の人生を変えた人だった。  私が私として生きることを、初めて肯定してくれた人だった。  きっと、これから先、君よりも長い時間を一緒に過ごす人が現れるだろう。  君よりも私のことを深く知る人が現れるかもしれない。  君よりも頻繁に連絡を取り合う人も、君よりも近くにいてくれる人も。  それでも、君が私にとって特別な人であることは、変わらない。  だって、君は。  私が私であることを、何よりも先に認めてくれた人だから。  君が私の人生にいてくれたこと。  君に出会えたこと。  君が、君でいてくれたこと。  それはきっと、どんな名前をつけても足りないくらい、私にとって大切なことだった。  恋人でも、家族でも、友人でもない。  誰にも説明できない、不思議な関係。  けれど、私はもう、そのことを悲しいとは思わない。  名前がなくても、大切なものは大切なままでいい。  君がそう教えてくれたから。  そして、いつかまた会えたなら。  私はきっと、同じ言葉を伝えるだろう。  あの日、駅で言った言葉を。  何度だって。  何年経ったって。  「私を、私のままでいさせてくれて、ありがとう」  君はきっと、困ったように笑って。  そんなの当たり前でしょう、と言うのだろう。  その当たり前が、私には、何よりも大切だった。

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三日月は、満ちていく。

 少し肌寒くなってきた、十月。  残業をようやく終わらせて家に帰る途中だった。  ふと、空を見上げると綺麗な三日月が澄んだ空に浮かんでいる。  これまでは、こんな形の月を見ると三年前を思い出していた。  その記憶は、大学二年生まで遡る。  高校時代からの親友、悠馬に声をかけられていった飲み会。  そのちょうど一か月前くらいに、彼女と別れていた。 (まあ、行ってみるか)と興味があって、軽い気持ちで顔を出してみた。  僕を誘った友達は、どうやら好みの人を見つけたみたいだ。  別に仲の良い人もいなくて、聞き役に徹した。  その中に、よく喋って、笑う女の子がいた。  名前は美月だよ、って自己紹介してくれた。  帰る人も出てきて、(ぼちぼち帰ろうかな)と思い始めていたころ。 「一緒に帰ってくれ」  そう、困ったように眉を下げた友達に頼まれた。  すごく酔った人が僕と同じ方面だったらしい。 ちょっと(いや大分)面倒だったけど、お世話になっているから渋々引き受けた。 (すごく悠馬がお持ち帰りしたそうな子がいたし?)  彼女、美月は確かに家が近くて、僕の家から徒歩15分ほどのところに  駅までの歩く途中に、蛍で有名な河川敷があった。  夜空を仰ぎ見ると、澄んだ星が輝いている。  何となく足を止めて、ぼんやりと眺める。 (今日は、新月らしい) 「あ」  何やら後ろでごそごそしていた彼女は、そう言って口を閉ざしてしまう。 「どうしたの?」 「何でもない」 疑問に思って尋ねると、彼女はそう答えた。  それ以上は言わなさそうだったから、察しをつけてみる。  十中八九、忘れ物だろうな。 「お財布失くしたかも」  彼女が、ふと溢すように呟く。 (財布は困るだろ)  そう思って悠馬達に連絡すると、向こうにはないらしい。  それならここまでの道だろうって思って、散歩がてら一緒に探した。  見つかったのは割とその店の近くだった。  はい、って手渡すと「ありがとう」って笑う。  「理人くんは優しいね」  続けてそんなことを言うから、少し恥ずかしくなって。 「当たり前だろ」  思わず強がってしまった僕に、美月ははじけるように笑った。  思わず、彼女の笑顔に目を奪われる。  それが、彼女のことを気になり始めたきっかけだったと思う。  付き合い始めたのは、それから半年後くらい。  彼女とは正反対な性格なのに、なぜか気が合った。 「付き合ってください」  玉砕する覚悟で口にした告白の言葉。  それを聞いた彼女は、また太陽のような笑みを浮かべた。  大学の学部は違ったけど、毎日一緒に帰った。  大学から駅までの途中にある大きな公園。  そこにある大きな池に浮かぶ月が気に入った彼女と、毎日のようにそこを通って帰った。 「私、三日月好き」  唐突に美月がつぶやく。  何気なく、その理由を聞く。 「完成してないからいいの」 「なにそれ」  ぼくが笑うと 「理人が寂しそうな顔してるから」  美月は拗ねたような、可愛い表情でむくれる。 「満月の方が綺麗じゃない?」 「三日月がいいの」  子どもみたいな、やりとりに顔を見合せて笑う。  彼女と行ったり、見たりした景色は夜空が多かった気がする。  プラネタリウム。  キャンプ場。  天文台。  僕らの住んでいた町は海沿いにあったから、灯台にもよくいった。  色々な場所で、同じやりとりをした。  そして、迎えた大学卒業。  僕は地元の企業で、美月は上京した先の会社から内定を貰っていた。  遠距離だったけど、ちゃんと毎日連絡してた。  でも、時間が経つにつれて距離を感じるようになった。 「連絡を忘れてたとか」 「寝ちゃってた」  そんな一つ一つは何気ないものが続いた。  リモート通話でも、直接会っても。 「なんか、違うな」  お互いにそう思っているのが、手に取るように分かった。   だから、それは当たり前の結末だったんだろう。  出会ってから三年半ほどになる十二月。  三ヶ月ぶりくらいに直接会った。  少し前からクリスマスムードになって、町が光で彩られていた。  何色にも輝く、とても美しいクリスマスツリー。 「理人は、これからどうしたい?」  美月はふいに、そんなことを聞いた。  ……答えられなかった。  きっと、どちらかが譲ったら解決する。  例えば、僕が上京すれば、関係は続くだろう。  逆も同じ。  でも、どうしても彼女に合わせることはできなかった。  これまで過ごした日々を壊してしまう。  僕が、僕でなくなってしまうような気がした。  黙り込んでしまった僕を見て、美月は再び口を開く。 「楽しもうね」  初めて見る、少し寂しげな笑顔で。  いつもみたいに、一緒に店を回ったり夕食を食べたりした。  ープレゼントを贈り合わなかったこと。  それ以外は、何も変わらなかった。  だからこそ覚悟していたのに、それを忘れてしまった。 「ずっとこのままでいたい」  そう願ってしまった僕は、愚かだったんだろうか。  いつか、君と歩いた河川敷。  ふとそこで、君が立ち止まって振り返る。  冷たい風が吹いて、君の髪が宙に舞う。 「ねぇ、理人」  心がきっと締めつけられるような、そんな気持になる。  何とか、か細い声で聞き返す。 「……何?」 「私たち、終わりにしよう」  沈黙が二人を包む。  本当は嫌だった。  でも、いつかはそうなるって分かっていたから。  「…うん」  美月も僕も泣かなかった。  ーいや泣けなかった、のかもしれない。 「今までありがとう」 「こちらこそ」  そんなありきたりな言葉で僕らの関係は終わる。  そうして、僕らは別々の道を歩いていく。  何気なく、振り返った。  彼女はもう、そこにはいなかった。  冬らしい冴え渡った空には、三日月が浮かんでいた。  美月がいなくなった僕の日常は、何事もなかったように続いていく。  起きて、うがいをして、朝食を食べる。  それから出社して、仕事をして帰る。  夕飯を食べて、……彼女のSNSを見る。  それだけが新しく増えた習慣。  そしてお風呂に入って、寝る。  最初は毎日SNSをチェックしていた。  仕事はどうかな。  何してるんだろう。  ……結婚はするのかな。  少しずつ彼女のことを気にする時間が減って、その代わりのように新しいことが増えた。  大切な仕事を任せてもらえるようになった。  新しく趣味として、料理を学んだ。  完全に見なくなって、しばらく経った。  決して、忘れたわけじゃない。  でも美月がいない暮らしが、普通になっていった。  ただ、それだけ。  そして、その三年後。  久しぶりに、彼女と会った。  会社の取引先が、彼女の働いていた会社だった。 (もしかしたら)  そう思って確認すると、美月の名前も記載されていた。 再会した彼女は呆気ないくらい、普通に話しかけてきた。    記憶にある彼女よりも、少し髪が伸びて大人っぽくなっていた。  仕事が終わると、やっぱり方面は一緒で。  二人で、並んで帰った。 「あの頃、楽しかったね」 「うん」  当たり前のように、そんな会話を交わす。 「…私、結婚するんだ」  言葉につまる。 「そっか、おめでとう」  それも束の間で、僕は笑う。  ー自分の発した言葉を聞いて、少し安心した。  この瞬間に僕はきっと、彼女との思い出に浸るのをやめた。    だから、再び前を向けるようになったんだと思う。  彼女と別れて、一人で歩き出す。  今度は、振り返らない。 「完成してないからいいの」  彼女が言った、そんな言葉を想い出す。  失ったもの。  欠けたもの。  終わってしまった恋。  何かが足りないものが、三日月だと思っていた。  ーでも今なら。  今なら、それは間違ってるって分かる。  三日月は満ちていく途中だったんだ。  ふいに、着信音が鳴る。  視線を落とすと、一通のメッセージが届いている。  最近、新しくやりとりを始めた人からだ。  水面に映った僕が、少し微笑んだような気がした。 「今、帰り?」 「うん」  それから、思いついたように言葉を送る。 「月、綺麗だよ」  きっと、三日月はまだ細い。  でも、僕は知っている。  これから満ちていくことを。  これからの、僕の人生も、きっと同じだ。

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三日月は、満ちていく。

恋の終わりに、花は散る。

 彼と別れた日、桜が咲いていた。 「ごめん。好きな人ができた」  それだけだった。  三年間、当たり前のように隣にいた人が、明日からは他人になる。  それなのに、どこまでも空は青く澄んでいた。  世界は何事もなかったように回っていて、通りすがりの人たちは笑っていた。  私だけが、昨日までの世界に取り残されていた。 「……そっか」  泣かないと決めていた。  泣けなかった。  彼を困らせたくなかったし、最後くらい、好きになってよかったと思える自分でいたかった。  だから笑った。  彼は少しだけ安心したような顔をして、「今までありがとう」と言った。  ………ずるい。  ありがとう。    そんな綺麗な、ありふれた言葉で終わらせないで。  私はまだ、あなたに伝えたいことがたくさんあったのに。  来年も一緒に桜を見たかったこと。  いつか二人で暮らしたかったこと。  あなたの隣で年を取る未来を、本気で信じていたこと。  全部全部、言えなかった。  言ったところで、あなたの心は戻ってこないと分かっていたから。  彼の背中が遠く、見えなくなってから私はようやく泣けた。  好きだった。  大好きだった。  誰よりも、何よりも強い感情。  そしてあなたが思っているより、ずっと。  それから一年が経った。  大学の帰り道、私はあの日と同じ桜並木を歩いていた。  去年よりも少しだけ綺麗に見えるのは、きっと、私が前を向けるようになったからだ。  スマートフォンには、新しい恋人からのメッセージが届いていた。 『駅に着いたよ。待ってるね』  私は小さく笑って、返信を打った。 『今行くね』  もう、彼のことを思い出して泣くことはない。  彼が好きだった曲を聴いても。  彼とよく行った店の前を通っても。  あの日と同じ香水の匂いがしても。  胸が少し痛むだけで、ちゃんと歩いていける。  それが、失恋から立ち直るということなのだと思う。  忘れることではない。  思い出しても、戻りたいと思わなくなること。  そうして私は、桜の下で足を止めた。  風が吹いて、花びらがひとひら、手のひらに落ちてくる。  ふと、思った。  ああ、私は。  あなたがいなくても、春を綺麗だと思えるようになったんだ。  それはきっと、喜んでいいことだった。  私は花びらを風に返して、子どもみたいに駅へと走り出した。  私を待っている人に会うために。  もう振り返らずに。  ――ただ、一つだけ。  もし、あの日の私に会えるのなら。  泣かないで、大丈夫だよ。  そんなことは、言わないと思う。  だって、あの儚くて切ない恋をした私まで否定したくないから。  あんなに好きになれたことも。  叶わなかった未来を夢見たことも。  全部、私の人生の一部だから。  だから私は、あの日の私にこう言うだろう。  「あなたが最後に見た桜は、来年も、再来年もちゃんと綺麗だよ」

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恋の終わりに、花は散る。