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Je dois m'ennuyer 11.4 ~

『第3回NSS』ふたご座流星群

「地球ってさ、動いてるのね」 そうですね。 「ふたご座流星群も動いてるのよ」 はい、はいと返してみる。 「だったらさ、あっちにも絶対、生き物いるよね」 手ぐらい、振ってくれればいいのにと、彼女は黙々と続ける。 どこへだって行こうとしないのに、空から石ころが降ってくるとなれば、アパートから這い出てくる。丁重に築かれた根城から彼女を連れ出す唯一の方法だ。開け放たれた扉の奥に、使い古された星図が見える。ぶちまけられた紙くずと無惨に破かれた写真の束が、インテリアよろしく居座っている。 「流星群って呑気だよね。地動説とか天動説なんて関係なしに、落っこちてくるんだよ」 「居眠り運転」 「それだ」 世界はこうも広いのに、僕らが知覚できるのは僅か一部でしかない。だからこそ、不埒な妄想が前に出てくる。流星群のように宇宙をぶっ飛ばせればどれほど良かっただろうか。 「流星群は落ちるだけだよ」 冷静に指摘されて、言い返すこともできずに二人で笑う。 「こうやって手を伸ばしても触れられない」 妄想を膨らませても、あの石ころにだけは触れられない。 その代わりに繋がれた手は、じんわりと暖かい。

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こうまのかいば

ざくざくと歩く その後ろ姿に模糊たる温情を感じ 寒くはないかと もう一枚羽織らせる まだ幼い君は 庭先を悠々と進んでいく 小道を歩いて 青臭い雑草を抜けて 凧を揚げる まだ幼い君は すぐ忘れるかもしれない 子馬はすぐから走れるが 海馬は脳髄にぷかぷか浮かぶだけ 君だけの人生はすぐから始まるが 君だけの綴り口は まだ準備中 ああ もしも脳髄が 生まれた瞬間から天才なら 君はその幼いだけの春風を しっかり感じることができるのに あぜ道に転がる車輪の名前 惰眠を貪る蝶の群れ 一刻しかない その世界を 覚えて 留めることができるのに そのために僕らは 新たに筆を握る 君の見る景色をぜんぶ 代わりに記録するから 幼い君の準備ができる前に もしも 虹色の温泉が湧き出てきたら 僕がシャッターを押してあげる 幼い君が起き上がる前に もしも 硝子の先でユニコーンの群れを見たら こっそり追いかけて その姿を書き記しておく だから 安心してお行き 何も知らない旅路へ 雀の涙ながら知っている 僕らを置いて 旧年が背を伸ばして帰った 顔の赤い新年がやってきた 幼い君を見つめる 四つのひとみ

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安寧のフィロソフィー

安寧のフィロソフィー 目次 あいびぃ 不変的なイデー(1) 蒼 スキキライ 歩道橋 07 Tsuna銀 少しでも負けず嫌いな君がいますか? ot わからない夜 June4 本物の君を、愛していますか? しろくま 君がいれば、世界も愛せる あいびぃ 不変的なイデー(2) 孤独な者よ、君は想像者の道を行く フリードリヒ・ニーチェ あいびぃ 不変的なイデー(1) 『貴方は確信を持って“生きている”と言えますか?』 生きているって、なんだろう。 人生は波瀾万丈だと言うけれど、全くその通りで、二十年も生きていない私でさえ、その起伏を感じる。 時折、いついつに戻りたいという声を聞く。やり直したい事があるとか、一番気楽だったとか。だが、当時の自分は今の自分の年頃に憧れていた筈だ。登校班で歩く道中に中学生を見かけるとアニメのようだと興奮し、高校生はもはや大人で、六年生さえ遠い未来な気がするくらい。そのくらい、時はゆっくりと流れて、それなのに早く大人になる事を望んでいた。 だがどうだろう。今の私達は、後悔に後悔を重ね、やり直したいと嘆き、あまりにも早すぎる時の流れに“死”の背中を見て怯える日々だ。考えてみれば、こんな筈ではなかったという言葉は、すんなり現れる。ではどんな筈だったのかと、聞かれても何も浮かんで気やしないが、少なくとも今より輝いていた事は確かである。 今私は、あの時憧れていた私になれているのだろうか。小さな彼らの瞳に、私はどう映っているのだろうか。案外、映ってすらいないのかもしれない。だって、今が充実しているなら、何も羨む事はないのだから。歩いている他人を見ている暇なんてないのだから。 ある日、無機質で無駄に広い部屋で、たった一つの椅子に掛けたナニカが私に問うた。 『貴方は、確信を持って“生きている”と言えますか?』 彼が何者か、それは言い表しようのない存在であったと明言できる。そうとしか言えない。だが、確かに存在はしていた。 声は心地よい低音で耳に優しいのに、一々違和感を感じさせる。 落ち着いた男性の声だったから、彼と呼ぶのだ。コイツはいきなり何を言い出すんだと、私は思った。数ヶ月前から毎日届いたメッセージカード。初めの頃は、今時アナログな人だと思っていたが、その内容は明らかに異質だった。読めない文字の羅列の中で、なぜか読める単語。最初は気味悪がって捨てていたが、一抹の好奇心が逸らしていた目をカードに合わせた。本来あるはずのない形を成す文字。ありそうでないのに、無いと分かるのに何故か理解できる。 それを声に出した。今はもう、それがどんな音だったか思い出せない。この世の言葉だったかすら、怪しいのだ。 その言葉を発した時、気づけばここにへたり込んでいた。 「……貴方は誰ですか?」 『当方は概念です』 彼は平然とそう答えた。 「概念……さん」 『はい、概念と申します。さて当方は、生と死は表裏一体であり、物事には裏面がつきものであると考えております』 淡々と話し始める“概念”には、顔も体も無い。確かに存在しているのに、“ある”と“ない”のちょうど中間のような。 私が、座っている彼を見ているのは、椅子の上にいるからであって、それは思い込んでいるだけかもしれない。実際は座っていないと言われても、今なら納得できる。 『つまり、“生”を感じるためには“死”の傍に行かなければならないのです』 「死の傍に……。それって、臨死体験って事ですか?」 『そういう考え方もありますね。死の恐怖に触れてこその“生”ですから。では、質問を変えましょう。“死”とは何ですか?』 「“死”とは、心臓が止まり、脈が無くなり、この身が朽ちる事です。でも、それはあくまでも身体的な死。人間は思考をやめた時、本当の意味で死ぬのだと、私は思います」 『なるほど……。貴方は、人間は思考をやめると真に死ぬと考えるのですね』 概念は真っ直ぐとこちらを見つめている。私は何か間違ったことを言ってしまったのかと不安になった。すると私の不安を感じ取ったのか、概念は一間置いて、朗らかに続けた。顔など無いから分からないが、多分、微笑んでいたのだろう。 『ああ、いえ。私の問いに答えなどありませんから、お気になさらず。私はただ、間違いも正解も無く、その人の中で不変的でありながら、普遍的ではない視点を欲しているのです』 「……そう、なんですか。」 『ええ。では何故、思考が失われれば死ぬと考えるのですか?」 「……人間が絶えず思考し、感情と共に歩む事は、即ち人間が人間であるからです。思うに、思考し続け、その先に感情が立ちはだかる事。またその逆も然り、人間を人間たらしめる要素は、全て“感情”と“思考力”の二つから出来ています」 「感情が失われ、何をされても何も思わなくなっても、外的な刺激によって好奇心と思考力が擽られて、新たな発見や発明があれば、自ずと達成感から喜びが生まれ、それを見てもらえない事の孤独から寂しさが生まれ、この状況を作り出した、何者かへの怒りが生まれ、いつしか感情は回復するでしょう。逆もまた然りです。鶏が先か、卵が先かでは無いのです。どちらかがあれば、いずれどちらも揃いますから。揃えば、親子の生活が営まれ、絆が育まれる……いつしか親子丼も食べられますね。卵が先であっても、鶏はその場に同席しているでしょうし、鶏が先だとしても、そこに卵は転がっています」 「どちらかさえ残っていれば、どちらかはあるから本当の死はありませんよ。どちらもなくなれば、それが死です」 『なるほど。では、“生”とは?』 「“生”とは……」 私は言葉に詰まった。“死”について考える事はあれど、“生”について考える事は無い。特段、自分が“今、私は生きている”などと感じる事もそう無い。生きているって何なのか。何一つとして答えがわからない。だが答えなどないと、“概念”は言う。 しかし、何故か“生”と“死”とは全く違う存在であるという事だけは、わかるのだ。“概念”は、生と死が表裏一体だと言うが、私には別紙の裏と表であるように思えてならない。だから、思考が働き感情が豊かにある事と言うのは違うように思えたのだ。 そして、机上に並んだ二枚の紙。片一方の紙の裏には“死”について書かれており、私はそれを読み解き、自分なりに解釈する事が出来た。しかし、もう一方の紙の表に書かれた“生”に関しては、形はわかるのに一文字も読めないのだ。 まるで、あのカードのように。 『 「人はなぜだか、今はまだ、死なないと思っている。死ぬのは何十年も先だから、不安はいらないと言っている。 だからハイデガーは、死の先駆的覚悟を説いた。 いつでも死ねてしまう事を理解しないと、本当の意味で、今を生きれないのだと、私なんかは思うのですよ」 死は、ある種の相棒なんですよ。最後を共にする』 蒼 スキキライ ロボットは感情を持てるのか? 運命は変えられるのか? 作品の主題に添えられることの多い、ありふれた質問だ。 街灯が輝き始め、夜の訪れを知らせる。 あの間達のように、あの質問も、ありふれたものの筈だった。 そのありふれた問が、私の中で反芻している。 「あなたは、自分が好きですか?」 一週間か二週間前、私はテレビの番組でそれを見た。 少し、汗をかいた。ひんやりとしていた。 あの日以来、ずっとこの質問が頭の中で繰り返されている。 ……あなたは、自分が好きですか? …………アナタハ、自分が好きですか? ………………アナタハジブンガスキデスカ? ノイズのように響く。 邪魔くさくて、鬱陶しくて仕方がない。 “なぜ一位じゃないんだ!” “なんで!? ねぇ! どうして!?” ……うるさいなぁ。ノイズキャンセルでもあればよかったのに。 翌日、私は帰宅途中の友達に向かって質問した。 「ねぇ、陽奈。……自分のこと、好き?」少し、時が止まった気さえした。 お互いに白い息を吐いた。乾燥した風が私達の間を駆け抜けた。 あれだけ高い塾に行かせてるのに、お前はなぜ……! もっと上手く弾けるでしょ! ……講師の先生がダメなのかしら なぜ100点じゃない!? 勉強しなかったな!? もう……! なんで! 講師の先生も変えたのに…… アナタハジブンガスキデスカ? 息が出ない。言葉に詰まる。寒い。 ……このまま、凍え死んだ方がマシかもしれない。 私がこの世から消えた方が、みんな幸せかもしれない。 「ちなみに私は……私のこと、きら……」 『ねぇ、まだ早いと思うよ。その言葉』 「……え?」 『だから、早いと思う。その言葉』 陽菜が突然口を開いた。 私の言葉を遮ったのは初めてだった。 『あのさ、私、友達でいれて誇らしいよ。 文武両道で優しい、貴方の友達になれて、良かった』 『だから、私の誇りをバカにするの、やめてくれる?』 「でも……私親に叱られてばっかりで……」 何をしても、一位を取れなかった。 『だから前に言ったでしょ。それは親がおかしいんだって』 「一位になったこと……ないし……」 それに私は出来損ないだ。 『……あのさ、別に、一位じゃなくてもいいんじゃない? こだわる必要はないと思う』 『私は自分が好きだよ。一位になれなくとも』 『別に一位じゃなくたって、死ぬわけじゃないんだから。 ……なんとかなるよ』 気づけば、雪が降り始めていた。 『……こんなことで泣かないでよー!』 いや、違う。泣いてなんかない。 「雪解け水だよ……! バーカ!」 もちろん嘘だ。 『突然のバカは酷くない? まあ事実だけど……』 家に帰ったあと、頭の中であの言葉が出てきた。 アナタハジブンノコトガスキデスカ? 私は陽菜に認められていた。 両親に認められなくたってどうでもいい。 私にとって、両親より大切な人だから。 両親だけが、私の全てじゃない。だから、こう言ってやった。 「私は、自分が好きだよ」 『 万事に先立ち、汝自身を尊敬せよ ピタゴラス 生きた、ではなく、生きていたい。過去形ではなく、ただひたすらに“wanna”と叫びたい。崇高な信念なんて蹴っ飛ばして、神様なんて蚊帳の外。僕は僕なんだ』 歩道橋 07 布団の中で、体をくの字にする。 これで耐えられるわけでもない。 どうにか私のカタチが崩れないように。 意味もなく何かを抱えているだけだ。 ぐぅんと押し寄せてくる不安は、 浜から離れたときのあの大きな波なんだろう。 不安の波が襲いかかったとき。 その波に揺られてみましょう。 無理に逃げたり、対抗したりしなくてもいいのよ。 波がただ怖くなって、もうひとつの怪獣を呼んでしまうから。 はじめはその波の動きが大きく、激しくて、 たいていは酔うことでしょう。 すこし吐き気がマシになったら、 くの字にしていた身体を伸ばしてみてください。 圧迫されたお腹の苦しさに後から気づくはずです。 そして、手と足の力を抜いてください。 これはとても大切なことですから、忘れないで。 次は波の行く先に目を向けてください。 それは砂浜です。 波は砂浜の上で寄ってひいてを繰り返します。 砂浜をゆっくりと見てください。 少しずつ、少しずつ、波でならされていきます。 誰かがあなたに踏み込んだときの足跡や、 世界が勝手に創っていく塔を。 すこしずつ、すこしずつ、ならしていきます。 不安は、 あなたを殴ったり蹴ったりするような暴力ではないの。 それを、どうか忘れないで。 あなたが受け止めて、手首を捻挫したのは、 固まったばかりのバターを投げられたからだと思って。 寝る前にそんなものを投げられても、受け止められるわけがないじゃないの。 だから、あなたはそのバターをお皿に置いて一晩おくの。 柔らかくするためにね。 そして、そのバターのベタベタは手を洗って忘れるわ。 そして朝起きて、そのお皿を見て、 あぁ、バターが柔らかくなったなと思ったら、 小さく小切りにして、トースト用に置いておきます。 毎朝、一切れのバターを塗って食べてしまえば、 いつのまにかお皿からなくなって、 あなたの胃や腸が消化するから。 大丈夫よ、大丈夫なの。 身を固めたまま。 あなたが泣くことが一番、あなたにとって苦しいのよ。 『 「バターをばったばったとなぎ倒していくみたいな」 「ばったばった」 「はい」 「まあ、要はお気楽にということですよね」 「そうなんですか」 「そうなんですよ」 柔らかいバターが、フォークを経由して、トーストの上を滑り落ちていく』 Tsuna銀 少しでも負けず嫌いな君がいますか? 『何に』負けたくないのか。 『なぜ』負けたくないのか。 それによって答えは大きく変わる。 何かの目的のために努力を積み重ね、 “負けたくない”と思う負けず嫌いな人がいる。 理解できる。努力は素晴らしいことだ。努力しても負けてしまうことがある。努力を重ねてきたからこその『負けず嫌い』である。 しかし、ただ“目の前にいる人に負けたくない”という目的だけで勝とうとする負けず嫌いもいる。 この後者にとって『勝ち』とする基準は感情である。 おそらく相手が自分の思い通りになって自分が勝ったと思えたら『勝ち』なのであろう。 後者は争っている訳でもないのに勝手に争おうとする。 競っている訳でもないのに手に競ってくる。 後者が勝ったと思えば勝ち。 そして後者は負けを認めない。 今まで出会った負けず嫌いな人は、圧倒的に後者が多かった。 後者は特に何かが気に入らなかった時に、その性質を発揮する。 後者は感情でしか考えることができない。 理論で答えを出すと、後者にとって、それは『負け』になるからだ。 後者は誰かに意見されるのを嫌う。 従うと“負けた気がする”からだ。 勝ち負けの問題ではないのに、後者は、勝ち負けの問題にしたがる。 面倒なのでこちらが引く。 すると後者は「勝った」と勘違いし、その誤った負けず嫌いを増長させる。 そうして、“勝ち”を重ねた後者は自分が強いと勘違いをする。 後者が戦っているのは、他人だ。 対して前者が戦っているのは、自分自身だ。 前者は自分自身に負けたくないから努力をする。 『昨日の自分を超える』という目的のために。 結局は何に、何のために負けたくないのかが重要だ。 後者が“勝っていると思い込む”ことで得るものは、 後者自身の自己満足だけである。 言い換えれば、後者は、 『自分だけの満足感を得るために、目の前の人を負けにしたい』のだ。 そして、人は誰でも後者になり得る。 もちろん私もだ。 何かと戦っている時。 何かと争っている時。 他人と競っている時。 少しだけ考えてみてほしい。 『自分は今、何のために争っているのか』 『自分は今、なぜ負けたくないのか』 『自分が勝って得るものは何なのか』 もし得られるものが“自分だけの自己満足”であるなら、 その争いは多くの場合、不毛である。 だから無駄に誰かに勝とうとしなくていい。 戦う相手は、いつだって自分自身であるべきだ。 自分に負けずに歩き続ければ、気づいた時にはもう他人にも負けていないはずだから。 タイトルでもある質問の答えに移ろう。 「少しでも負けず嫌いな君がいますか?」 「います」 私は自分自身に対しては、負けず嫌いでいたいと思っている。 しかし先ほど、真夜中だというのにアイスを食べてしまった。 私は早速『夜中まで起きてアイスを食べるという不摂生をする自分』に負けたのだ。 明日は勝ちたいと思う。 『夜中まで起きてアイスを食べるという不摂生をする自分』に打ち勝つために、明日はアイスを買わない。 『 僕は負けるのが好きです。それを理由に、面白い言い訳を考えることができるからです。奇天烈なことを言って、それを友達と共有して笑うのがとても心地良いのです。 僕は負けてしまうのが嫌いです。努力を蔑ろにされるからです。 だから僕は、負けないために、ではなく、負けてしまわないために、前を向くんです。 そう教えられたんです』 ot わからない夜 我思う。故に我あり。 フランスの哲学者であるデカルトはこう言った。真理を探すために全てを疑い、存在を否定した中で、彼は気づいたのだ。 何かを疑う自分の存在は、絶対に否定できないということを。 頭が良くないから、空を指さして、あれは何ですかと問う。 あれってそもそもどれだと、尋ねられた人も疑問に思う。 あいつらは何をしているんだと、遠くの方から、レジ袋を手に持った夫人なんかが疑っている。 スーパーの中では、まだたくさんの人が、今晩の夕食を何にしようかと考えている。 疑って、考えて、疑問に思う。クエスチョンマークの滑らかな曲線さえ、解明されるその時まで、誰かしらが疑問に思っていた。 二十世紀最大の哲学者と呼ばれるハイデガーでさえ、存在や死の哲学以外はなんだって疑問に思うだろう。それどころか、わかっていると思い込んでいる物事ですら、突き詰めて細部にピンセットなんかを突っ込んでみれば、疑問に思う物事を掴み出せるかもしれない。 不明な世界が普通なのであって、正しい世界なんて誰だってわかりはしない。そんな奴いたら、それこそ嘘だと疑うべきだ。 だから僕は、明日も生きる。 だってまだ、近所に生える草の種類も、本当に面白いと思える作家も、僕が生きる人生を表す一語も、知りやしないから。 不明だからこそ美しい。 不明だからこそ生きがいがある。 不明だからこそ、色んな感情が生まれて味が出る。 さあ、旅の始まりだ。 『 わからないから、疑問に思う。 疑問に思うから、感情を伴う。 感情を伴うから、生きた心地がする。 生きた心地がするから、気力を兼ね備える。 わからないって、最高なんだなって』 June4 本物の君を、愛していますか? 「そんな暇ない!」 「ふん、なんだこんなありきたりな問いは……」 「好きじゃなかったら生きてねーよ」 「大っ嫌い!」 「えー分かんない」 「自分ってどんなんだっけ?」 「本物の自分と偽物の自分はどうやって決める?」 返ってきそうな答えをおおまかに分けるとこのようになるのではないか。 私も自己嫌悪感や後悔、やるせ無さなどを少なからず経験している。 一見ありきたりに見えるこの問いも、深く掘り下げたら今後の人生にきっと役に立つ発見があるはずだ。 まず、この問いに取り組むにあたって、本物の自分について考えていかなければならない。 ここで重要だと考えるのが、どこまで客観的に自分を捉えられるかだ。自己嫌悪に陥った場合、大半の人は感情的になり、そのきっかけとなった言動をした時の自分を思い返すだろう。しかし、本物の自分、すなわち今の自分というのは、その出来事について省察している真っ最中ということを忘れてはいけない。この省察の結果、自分がどう行動するのかということも含めて、自己について考えるべきだと思う。 このことを踏まえた上で、いよいよ、この間の本質に迫ろうと思う。 まず、自己嫌悪感を抱くような状況に直面した場合に私はどう思考し、行動するのかを考えてみた。 俗に言う黒歴史というものを幸か不幸か私は多く持っている。皆から失望されたと嘆いた日々もあった。自分勝手な言動に嫌気がさした日もあった。 しかし、結果的には自分の心の全体が一気に機能停止したように冷静になり、ある意味吹っ切れるのだ。 この状態になると物事を落ち着いて考えることもでき、今悩むべきでないことや、するべきことを判断できる。 こうしたことを繰り返していくと、自己嫌悪につながるような出来事も、反省しないわけでは全くないのだが、ある種の経験だとも思えてくる。 「未来の自分のための経験なのだ」と、自分に言い聞かせる。 ここまで軽々とこのようなことを書いてきたが、実際は言葉を絶するほど辛く、大変になる。 だから、そのような出来事の時こそ弱気になるのではなく、未来の自分のための経験だと自己暗示をかけて対処してみてはいかがだろうか。 この流れを掴んでしまえば大抵のことは対処することができ、自己嫌悪も減るだろう。 自己嫌悪が減るということは相対的に本物の自分を好きになれる人が増える可能性を高めるではないか。 『もしも、世界に自分が百人いたら、綺麗に五十組のダブルスを作れるだろう。盛大に鬼ごっこを開催できるだろう。世界大会を開こう。商品は皆で山分けだ。 みんな、友達じゃないか』 『と、紛れもない自分が言いました』 しろくま 君がいれば、世界も愛せる 彼女がいなければ、私はとうに人間に絶望していた。 私の友人は善人だ。 聖人君子とまでは言わない。 それでも善良に、誰にも迷惑をかけず、 ひたむきに毎日を生きる真面目な人だ。 学生の頃から働き者で、 住み込みで学校に通いながら、 あくせく夜遅くまで働いていた。 なのにいつも疲れた様子なんて微塵も見せずに、 むしろ働いている彼女は生き生きとしていた。 私は彼女の生き方に強い尊敬の念を抱いている。 時に、羨ましささえ感じるほどに強く。 なぜなら彼女は嘘をつかず、 誤魔化さず、 どんな時も誠実に、 己の人生に向き合い続けているからだ。 そんな人間が果たして存在するのだろうか。 私の都合のいい夢なのではないだろうか。 ついそんなことを思っては、 彼女の嫌なところでも探すかとしばし思案する。 …… …… 私以外にも友達がたくさんいるところ。 今はそれしか見つからなかった。命拾いしたな。 それに付随してよく考えることがある。 彼女のたくさんいる友達の中で、 私がいちばん面倒くさくて面白味のない、 いつでも捨てられる鞄の中のレシートのような存在、 ……なんじゃなかろうかってことだ。 だけど彼女と会うたびに、 私に向けられる笑顔、 少し高めの声、 与えられる親愛の眼差しに勇気をもらえる。 だから私は彼女の友達として相応しくあろうと思う。 たまの一度会う時くらいは、 格好つけられる私でいたいのだ。 つまり私にとって彼女は、 世界でいちばんの友達であり、 私の人生に希望を与えた存在でもあり、 その一挙一動で、 私を一喜一憂させる、 とんでもない存在なのだ。 …… ちなみに本物の友達かどうかについてだが、 現在の私には彼女しか友達がいない。 つまり偽物は存在しない。 仮に私の友達のふりをした偽物が現れても、 即座に見分けられる自信がある。 愛しているかという問いについても、 たった一人の友達だからこそ、 愛を惜しみなく注げるのだと自負しているので、 私はかの問いに自倍を持って答えようと思う。 私は、本物の友達を、 愛しています。 ご清聴ありがとうございました。 『 僕の後ろを歩かないでくれ。僕は導かないかもしれない。僕の前を歩かないでくれ。僕はついていかないかもしれない。 ただ僕と一緒に歩いて、友達でいてほしい。 アルベール・カミュ』 『いつもありがとう。これからも、よろしくね』 あいびぃ 不変的なイデー(2) 『……これは、当方の考えですから、参考に』そう前置きを置いて“概念”はゆったりと話し始める。 『当方は“身体的”な“生”を、物質に触れられる状態の事と解釈しております。そして、身体的でない“生”とは、人生という砂時計が落ち切るまでを、怯えながらじっと待つ事です。この時間をいかに有意義に過ごすか。これが豊かな人生や悔いなき死というものに繋がってゆくのだと、当方は思います』 「なるほど……」 『では、もうわかったのではありませんか、あの答えが。さて、今一度問いましょう』 『貴方は、確信を持って生きていると言えますか?』 聞かれたことを飲み込んで、頭の中で何度も繰り返す。脳内再生を繰り返す。概念が言うように、私は死にえながら無駄な時間を過ごし、それで痛い目をみても懲りずにだらけている。そして、朝起きてスマホに触れた時、スベスベした感覚があるのも、登下校で道の小石をふむ感覚があることも、液晶と睨めっこしている今も、乾燥した唇に舌の先が張り付く事も、夜枕に髪が張り付く事も、順がカバーに擦れる事も、ふと手のひらを握り込むと、柔らかく滑る事も、爪があたる事も、走ると頬が火照ることも、睡覧に勝てないことも、スマホカバーの形を感じる事も。 手が暖かい事、体内で脈が打つ事、それに違和感を感じる事、考えてみた事、眠ると損した気分になる日、誘惑に負ける日、笑いが絶えない日、その全てが私に“生”を与えているのだ。春夏秋冬喜怒哀楽。時々刻々と変化するそれらの中で、私は確実に生かされている。 そして、“生きている”のだ。 「はい」 その瞬間、“概念”を覆う霧が晴れた気がした。優しく朗らかな笑顔を浮かべた彼の顔が、はっきりと私の瞳に映った。 突然の事に固まっていると、いつのまにか彼の顔が、自室の机上のカードに、変わっていた。 安寧のフィロソフィー 作 あいびぃ 蒼 歩道橋 Tsuna銀 ot June4 しろくま 主催 ot ※可能な限り原文を使用していますが、作品集としてまとめるにあたり、少し調整を加えた箇所がございます。

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安寧のフィロソフィー

第8回N1決勝 うみのした

『続編』 漁獲量が増えた。それ以上でも、以下でもない。崩壊した古代文明の平均と比べてみても、かなり多い。 その点では、まあ良かったのではないかとも思う。 人類史に残るであろう豪雨は、四十日四十夜降り続け、世界人口の九割を排水溝へと流した。神の怒りだとか、自然を蔑ろにした人類への罰だとする説が主流だが、神様が居眠りをこいていても世界は回るのだ。その証拠に、なぜだか僕なんかが、生き残る側の一割に含まれている。 職務上の怠慢というやつである。 「どうせ、誰が生き残っても変わらないさ」 モーセは言う。海は割れない男で、ユダヤ教の預言者とは別人に違いなく、末裔とかそんな陳腐な類でもなく、侍の国に生きる異国人として、どちらかといえば、かの織田信長公に仕えた弥助と類似している。 そんな彼が言うのだから、信憑性はそれなりにある。 富や名声を唯一無二の力と扱っていた連中は、此度の天災で全てを失う。富は文字通り水に溶けてしまっただろうし、名声も、人が大量に死んでしまったからないに等しい。蓄えた頭脳も狂気じみた現実に水没し、治そうにも病院の方が息をしていない。 何を持っていても、何も持っていなくとも、終末が描かれたあとの続編では、意味をなさない。それが彼の言い分だ。 僕らの街は山の傾斜の最中にあって、弧を描く二次関数のグラフみたいな線の上に、小さな商店や住宅地が乗っている。バランスを崩せばすぐに滑り落ちていきそうだが、案外耐えている。 街には十数人ほどが住んでいて、モーセと僕が唯一の子供だ。 少子高齢化の影響をもろに受けているここは、爺さん婆さんが非常に多い。中には盗塁王を自称する者がいたり、世界一のショーマンと謳う輩がいる。いっそのこと、それを売り出してしまえば良いのにと思う。だが意外にも、観光大使とか、街の顔になろうとする志願者はいない。 おんぼろな設備にしては、死亡者は出ていない。三丁目の平田さんが腰を痛めたぐらいを事件として、一連の物語は穏やかに幕を閉じた。 前もって、とてつもない雨雲がやってくると通達はあったから、みんなで頂上を目指していた。僕やモーセは若者らしく年長者をおぶったり、語られる武勇伝を和やかにやり過ごしたりして、雨滴の到来を、月が輝く開けた大地で迎えた。 蛇口を思い切り捻った時のシャワーに近い。雨が強いだけで風は吹かなかった。同時並行で仕事をできない神の要領の悪さがひたすら垣間見えた。歳なのだろう。 「疲れたよ。何もしてないのに戦場に呼び出されてさ、やることといったら老いぼれの介護だけで、報酬は、仲直りの虹だけ。無賃労働を強要するのが神様なんだから、腹立つよほんとに。郷に入っては郷に従えと言うだろ。神様だって例外じゃないんだからさ、礼儀の一つぐらいわきまえればいいのに」 モーセの愚痴は止まらない。背筋を伸ばして、寒い外気の中で身震いする。麓まで降りて、澄んだ雨水に足先をつける。そこでようやく苦い労働から開放された、というように言葉を吐き出した。昔からなかなか口が悪い性格をしていた。ここ最近はその性質が、特に顕著になっていた。 「あとで介護してもらった本人たちから巻き上げればいいよ」 こう話すのはジョーで、無理難題と屁理屈を絡めるところが、いかにもモーセの兄らしい。十歳年上で、本来なら昨日の便で、ケチャップとマスタード臭いアメリカへと渡っていたはずの男だ。 「あっちはここよりもひどい。アトランティスと同じだよ。完全に沈んだんだ」 掴みどころがない性格で有名である。 麓から船を漕ぎ、裏手へ行くと、街一番の老婆がいる。 誰からも好かれていないし、嫌われていない。皺をぎっしりと蓄えて、何年もこの地に居座っている。一体何の縁があってやってきたのかはわからない。ピルグリムの真似事でもしたかったのだろうか。まじない師のような風貌と、人を選ばない天性の無鉄砲さが光っている。 「流されたね」婆さんは言った。 「いつかは起きるはずだったんだ。しょうがない」 「みんな無事だから。方舟はないけど」 厳かに笑い、疲れた身体を労った。 出されたお茶を飲み干し、僕らは湿った畳の上に寝転んだ。背中を押し付けるように大の字になり、大きく息を吸って、吐いた。この時間だけは、世界の人口がまだ八十億人な気がして仕方がない。終わりにしては、どうも続編がありそうである。 「それで、これからどうするのさ」モーセとジョーが、兄弟らしく同時に呟く。 「喧騒は忘れて長生きしよう」 「長生きなんかするもんじゃないよ」ジョーが笑う。 時刻は十時を回っていた。 「そういえば」 彼女が死んだと、またもやジョーが、今度はカメレオンみたいに表情を変えて呟いた。笑ったり悲しんだり、感情が忙しいなと個人的に思った。 「病気だったんだとか」 暫しの沈黙が流れて、今度は弟が微睡むような声で言った。 「可愛かった?」 ノイズが挟まっているかのように、ぼそぼそとした声がして、モーセが優しく微笑み、同情するようにまた喋った。 「そうだったんだ」秒針がゆっくりと進み、会話はまた止まる。 「僕がもし海を割れたら、兄さんを病室まで連れて行ったのに」 「もう、いいんだ」何がいいのかよくわからないが、そうらしい。 婆さんの畑の後片付けをするジョーと別れ、僕とモーセはまた頂上へ向かった。ぬかるんで安定しない足元に気をつけながらゆっくりと歩を進めた。単に人がいないからか、高齢者特有の静けさなのかは不明だが、鳥のさえずりすらない周囲が異質だった。 「実感がないな。世界の終わりはこんなんだろうって理解してたつもりなのに、いざ対面となると、どうも落ち着かない。落ち着こうとはできるが、冷静にはなれない」 「そんなもんだよ。神様ですら制御できないんだから」 泥で汚れた手を服の裾で拭い、頬をかきながらモーセは言った。 「みんな辛い思いするけどさ、長引かないんだ。時計の針が止まったように見えたり、学校の窓から、上から迫ってくる海洋を眺めたり。絶望だらけで、腹が立つ。違いはたった一つだけ。それから生き延びるか、死ぬか。前者はなんとなく普通の生活に戻って、後者は土の中に還る」 「それか、海を泳ぐ」 「そう。そう」 「悲しいだけじゃない。多種多様な不純物が混じって、それこそ海みたいになる。踏みにじられて、不平等に談判をしたくなる」 生きるって不思議だよねと、モーセは最後に付け加えて、長い説法を終えた。 婆さんからもらったお菓子やジュースをリュックに押し込んで、頂上へと向かう。 「君は、死にたいとか思ったりするの」 「いいや」 「生きたいとは」 「思わないね。生きてるから生きる。死んでないから、死なない」 「何も変わらないんだね」 小鳥が空を飛んでいた。沈んだ都市の上を優雅に飛んで、少なくなった陸地であるここに向かって飛んでいる。生きるために死にたいとは考えない。そこに、僕らが今、確かに欠けていたものを理解した。 「何がしたいんだろう」 「したいとか、したくないじゃなくて。できないんだよ」 木々に手を置いて、ゆっくりと道を進む。しとしとと、雨滴が頭を打ったような、そんな気がした。 穏やかに終わったなんて、そんなのは嘘なのかもしれない。身近な人は全員生きている。辺鄙な環境に救われて、人の死を知ることなく天災は幕を閉じた。それなのに、心は、同等かそれ以上に沈んでいた。他人の不幸が刺さった。自分でも身内でもない、本物の他人に、僕の精神は殺されていた。 なぜだか、酷く嫌な気持ちになった。 「逃げたい」 不意に、言葉が漏れた。 それを聞き逃さなかったモーセが、当たり前かのように言った。 「海でも割ってあげようか」 「死にたくないなら、生きるために何でもするよ。君がただ一言、滅亡に差し掛かった世界で革命を起こしたいと言うのなら、僕は肩を持つよ」 僕は、何も言えなかった。 「俯いても、世界は変わってくれないんだ。しがない人間風情に、世界は興味を持たないんだ。ただの舞台装置で、必要以上のことをしたら、邪魔だと片付けられる。それが人間なんじゃないかな」 日が落ちてきて、太陽が水面に浸かっていた。その光景が幻想的で、余計に心に傷を残した。人類にとっての物語は終わりを迎えたのに、世界は依然として美しかった。 「君は人間だけど、人の一員として生きようとしてはいけないんじゃないかな。君という動物は、君だけなんだ。僕という命も、僕だけなんだ。一緒に心を痛める、君の友達なんだ」 大きな心を持った一人の友人が、僕に近づいて、その透き通った瞳で僕を見て、強い掌で僕の肩を叩いた。 「だから、死なないでくれてありがとう」 「世界がまだ続くなら、しっかり暮れるまで拝んでから死のうよ。そうじゃないと、あの世の連中に怒られる」 モーセは踵を返し、黙り込む僕をよそに、すぐ先で待っている頂上へ走り去っていく。 不意に振り返ってみたくなって、後ろの方へ身体を捻った。 するとそこには、残酷なまでに美しい青の水面が、煌々と生きていた。波を立てることもなく静かに、厳かに世界を覆っていた。反射して空を映す傍ら、その中には人類の全てとも言うべき都市が埋まっている。テクノロジーだけではなく、何十億という人が、まだ死んでいないかのように沈んでいる。 そして、空には虹が広がっていた。消えることのない七色の大道が、空と宇宙を繋いでいた。どこまでがこの世界で、どこからが別世界なのか、その境界線すらも曖昧になるほど、ただ綺麗だった。 気分は相変わらず晴れなかった。だが、違うのは、それもしょうがないのではないか、という一種の安堵を伴っていることだった。 由来を知れぬ感情よりも、一緒に生き残った人々と、遺されたものを担っていきたいと、思ったのだ。 「ノア」 そう呼ばれた気がして、また頂上の方へ振り返る。 「良い眺めだよ」 友達の笑顔とは、こうもなぐさめになるのかと、涙にならない感動が、ひっそりと押し寄せてきた。 かつての賑やかさはなくなるかもしれない。紡いできたテクノロジーの軌跡はここで途絶えるかもしれない。様々な土地を開拓した遍歴も、全てなかったことになる。 だが、それらと同じくらい尊い明日が、これから始まるのだと、僕なんかは思うわけだ。 だから、必死に明日を生きようと思う。 「待ってろ」 今、そっちに行く。

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第8回N1 リモナイア

『運命』 1 旅の間に本は読めない。だから、列車の中では会話が進む。 人の営みなんて気にせず列車は進むから、当たり前のような気はする。マイペースな活字は遅れてやってきて、人の視線に預かろうと奮起する。可愛げはあるが、どうも弁護のしようがない。視線とそれのリズムが妙に合わなくて、理解しようにも頭に入ってこないのだ。 過ぎ去っていく窓外の景色の方が実権を握るのはその時分だけに違いない。一人旅の場合は重宝する。 だが、今回は旅仲間がいた。おまけに饒舌ときたものだから、揺れる水面だとか、美味そうな空気などが介入する余地はなかった。 皺のないシャツを着て、腕にはきっちりと時計を巻いている。トレードマークにはバケットハットを採用していて、時折オーシャンブルーの瞳が覗く。洒落たリングを右の小指にはめている。独創的だなと僕は思った。その独創性こそが彼なのだなと僕は考えた。 同業者と言おうか、なかなか奇妙な縁をしている。 2 「運命があるとして、それが、絶対に避けられない悲劇としてやってきたら、佐伯さんはどうしますか」 「避ける」 運命以前に、絶対という価値観すら否定するところが佐伯さんらしい。出会った時から一貫している。おそらくは、頭ごなしに決めつけられるのが嫌いなのだろう。 膝の上に弁当を広げ、お新香を頬張っている。マイペースな人に違いないという、出会った時からの印象は変わってない。 「美味い」 とても天気の良い日だった。お互い激務に追われていたが、とりあえず区切りがついたということで、こうして旅に出ている。夏休み後半の第三日曜日ということもあって、車内はごった返していたが、付近一帯は静かだった。少子高齢化を実感する瞬間だった。 向かう先は大して決まっていない。旅行しようと言うから着いてきたが、佐伯さんの方は、特段プランもないらしい。重々承知してはいたが、彼はどこか他人任せなところがある。 3 佐伯李白。二○○○年、ロサンゼルス生まれ。日本国籍の父とフィンランド国籍の母を持ち、その母がアルコール過多で死んだのを機に渡日する。 その後は、学業でめざましい成績を残し、特に言語学で顕著だった。日本語、英語、そして中国語。その他十ヶ国語においても免許皆伝に成功し、アメリカの大学へ進む。 大学では言語の研究に勤しみ、様々な技術を開発する。その中でも、国籍を問わずに理解することが可能な“統一言語”の開発で一世を風靡した。 国籍どころか年齢すらも問わない。だからこそ、知能が堪能ではない赤子の世話をする主婦層なんかにも受けた。彼いわく、耳を介さずに、脳に直接訴えかけるような説計になっているらしい。天才の思考はよくわからないが、つまるところ、赤ん坊に的確な言い聞かせを仕掛けることが可能になった、という認識で良いらしい。安価であり、ノイローゼ患者も劇的に減少した。 狂気と天才、そしてボンクラの狭間を行き交っている。 普通ではないと思う。 「普通さ」 指の骨を鳴らして、大きく背伸びをする。その最中に、気の抜けたような声で、そう返事をされた。 4 列車は心地の良い騒音を立てながら進んでいる。目的地は過ぎ去り、僕が突貫工事で作り上げた計画も早速破綻した。 「これが君の言う運命かい」 避けられたという点では運命ではない。佐伯さんの理屈で言えば運命であるが、計画を練ったのは僕だ。ここはしょうがない。素直に嘲笑されようと思う。 「旅で一番楽しいのは、道中のバスとか、飛行機ですからね」 「目的もないからね」それはお前のせいであろう。 「モーマンタイというやつだよ、君。無問題」 「それに、イグノラムス・イグノラビムスという言葉もあるのだがね。エミール・デュ・ボア=レーモンという、生物学者なんだ。ベルリンの。これはラテン語なんだが」 「はい」 「知っているかい」 「知らないですね」 「それでいいさ」佐伯さんは息を漏らすように笑う。 「どうせ忘れることを覚えても、仕方ないしな」 「そうゆうものに限って面白いんですけどね」 それこそ、本当の運命だと彼は続ける。何が言いたいのかよくわからなかったが、多分それが正しい。 出会いは去年のことになる。大型新人が入ったと社内で話題になって、佐伯さんともう一人がやってきた。もう一人の方は気づかないうちにいなくなっていたから覚えていない。 正直、最初の方は敬遠していた。とても荒いなという印象しかなかった。仕事はするが、やり過ぎない。上司は厳格な人で、平気で殴るし痛罵するが、会社としても不世出の天才を失うわけにはいかず、その意思に則り、上司も佐伯さんだけには甘い。 本の好みで意気投合したのはすぐ後のことだった。僕はその時分に、彼が持つ底知れない優しさと、かの諸葛孔明の如き聡明さを知るのだった。 明確なターニングポイントとなったのは、同僚が持ちかけた一つの相談だった。人使いの荒い会社に対する一抹の愚痴が、佐伯さんを変えた。 凄腕捜査官じみた顔つきになった彼は、いつもより低い調子でこう言った。 「話を聞かせてもらいましょうか」 それから事は始まった。豪胆無比な社内改革である。 今まで従っていた連中も居直り強盗みたく同調して、それはもうとんでもない争いへと発展した。内乱を予想していなかった上層部は慌てて抵抗し、だからといって下も食い下がらず、押されては押し返し、上に跳ねれば下から撃ち落とされるみたいな。利権を処刑するために競合他社と同盟を組んだり、なかなか面白い歴史になったのではないかと思う。 開戦から五ヶ月後、佐伯さんが社長のオフィスから汚職の痕跡を発見したことで、あっさり戦争は終わった。 その後は懇願する老犬を退任に追いこみ、現社長の座には、佐伯李白がつくこととなったのである。 「これは運命ですかね」 「弱肉強食なだけだよ」 少しうとうとしながら、退屈そうに彼は言った。 5 楽しい旅行の目的地を見過ごしてしまったわけで、僕らはそのまま会社のある駅に進んでいるわけなのだが、佐伯さんはやはりどこか毅然とした態度を貫いている。 「やっぱり運命ですよね」 「いいや違う。列車に目的を見出していたわけだから、これはモーマンタイだよ、無問題」それはお前のせいであろう。 窓の外の景色は、どこかフィルターを重ねていくように無機質へ変わっていく。自然豊かな観光地を抜け、段々と機械が蔓延する冷たい都市へ、列車は人を乗せて走る。 手持ち無沙汰になった身体を動かして、バッグにしまいこんだ本を取り出す。何冊かある本に全て同じブックカバーを採用しているのは、表紙のインパクトで決めてしまう自分への戒めである。中身が粗悪品であっても関係はない。 「レモンだよ」 見た目は及第点でも、中身はポンコツ。酸味の強い果実だけではなく、そんな意味でもこの単語は使われるらしい。 レモンは何かと使える単語だと佐伯さんは言った。単に、黄色い果実がそこにあれば、レモンですねと言えばいいし、外見だけ取り繕っている奴がいれば、それもレモンですよねと言えば良い。 社内における春秋戦国時代で、よく佐伯さんは言っていた。 「イタリア語で、温室とか、嫌というほどレモンが巣食う果樹園を表す言葉があって。ラテン語では淡水で生活する巻貝のことを言うらしい。モノアラガイ属と言ったかな。真意は不明だが」 「リモナイア」なぜか知っていた僕をよそ目に、彼は微笑んだ。 「よく知っているね」 「レモンなんだろうな、みんな」 内省じみた雰囲気を出して、佐伯さんは囁くように言った。 見た目に投資しすぎて、中身が疎かになっている愚か者。そんな人間が根城を築いていたかつての会社は、紛れもないレモン園。リモナイアであると言えるのだろう。 運命ではなく、レモンである。 6 数時間後、招かれるままに転がり込んだのは、中小企業は我らが清潔な出版社。誠実で野心のある社長を筆頭に、めざましい発展を遂げている。社長である佐伯さんが築いた強固なネットワークのおかげで、絵本や児童文学の売れ行きが凄まじい。それは例えば、件の“統一言語”に救われた主婦層であるとか、様々にして確固たるファンに違いない。 キラキラと目を輝かせて、運命ですねと言う。その度に、佐伯さんは怪訝な顔つきになる。 佐伯さんと言えば、彼は重たい荷物を僕に任せて、先にビルへと入っていった。どうやら、会社に来たならと、孫が遊びに来た祖母よろしく喋る受付に、とても丁寧に諭されたらしい。 前述の通り、彼は大天才のくせに専らの仕事人というわけではなく、ましてや多忙を嫌う人間なのであって、テンションの下がりようといったら特筆に値する。 あまりにも汚い言葉なので、文学的な観点から書き直すと次のようになる。 「避けられない運命とは、こうも甚だしいのか」 ベートーヴェンを聴けばわかるように、運命というのは様々な感情を伴う。だから嫌いなのだが、どうやらそれが人に受けているのだから世界はわからない。 だからこそ、そんな運命を嫌っているのが、時折僕らだけなのではないかと思ってしまう。同調圧力に屈しないのは素晴らしいことだが、見方によっては天邪鬼だとも捉えられる。それはあまり芳しくない。 だが、それでも僕らは嫌悪する。それが僕らだからだ。 とても天気の良い日だった。心地の良い風が吹いて、それに乗って、ある酸味の強い果実の、とても爽やかな香りが、鼻腔をくすぐってくる。 「おい、仕事だ、仕事」 そう呼ばれた気がしたので、僕は右足を踏み出した。 もちろん、誰がなんと言おうと、僕は佐伯さんの肩を持つ。 (了)

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第8回N1 リモナイア

安寧のフィロソフィー

孤独な者よ、君は創造者の道を行く。 フリードリヒ・ニーチェ あなたは、確信を持って生きていると言えますか 01 あなたは、自分に素直であると言えますか 02 あなたは、自分が好きですか 03 鏡に映る自分に、この上ない好意を覚えますか 04 どうしようもない不安を感じますか 06 不安への対処法を教えてくれますか 07 自分を卑下する精神に、嫌悪を覚えますか 08 痛い所をつく他者を、どう思いますか 09 孤独で枕を濡らした夜は、存在しますか 10 どうにでもなれと、理性を失った事はありますか 11 それは楽しい事ですか 12 それは悲しい事ですか 13 質問攻めにされて、うしろめたい気持ちを感じましたか 14 少しでも、現状を打破したい意志はありますか 15 少しでも、負ける事を嫌う君がいますか 16 辛い事から目を背けない自分を知っていますか 17 それともやっぱり、綺麗事は嫌いですか 18 どんなに不明な世界でも、あなたは明日を生きますか 19 苦しみの中にある、僅かな楽しみは好きですよね 20 大丈夫だと、言えますか 21 (己にも、他者にも) 鏡像は偽物だと、信じれますか 22 (それは現実ではないと) 本物の君を、愛していますか 23 本物の友達を、愛していますか 24 ここまで考えてみて、それでもやっぱり好きですか 25 最後にもう一つ。 ここまで生きて、何を思いましたか 26

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火竜

窓を滴る雨を見て、テレビ中継で見た何かを思い出した。大勢の人が、こぞって拝んでいる。一つの方角なんかに。 「吸わせてよ」 差し出された煙草を手に、どうしたものかと私は悩んだ。 「吸わせてくれるんだ」 「他人の健康なんて、知ったこっちゃないし」彼は笑った。 熱気の籠った布団を抜け出し、悠々と立ち上がる。背を伸ばして眠気を打ち払い、キッチンへと向かう。一つ一つの動作の中に、夢魔はまだ居座っている。だから、蛇口に口をつけて水を飲んだ。誰だって気にしない。私も彼も、品位なんて目に見えない価値は大抵気にしないし、気にするような奴らは皆死んだ。 よく分からない実態を持つモンスター。いわゆるそんな存在が現れたとしても、人は呑気に日々を過ごしている。 二月二十二日、午後二時二十二分二十二秒。そして、世界が変わってから二回目の第二月曜日。こうやって、世界が重なっていくのを観測するのは楽しい。 「今日は月曜」 しかし、どれだけ時が進もうと、月曜日が持つ陰鬱さは変わらない。なんやかんや秩序を保っていた過去も、それからこうも変わってしまった現在も、耐え難い力を持っている。憎たらしさを通り越して、愛着すらも感じさせるのだった。 目玉焼きを焼いて、隣にウインナーと、黄身の上に、祖母からもらったパセリを散らす。ベーコンはもうない。だからといって、豚の動向を探るつもりはないが。 「コンビニの方で出たってよ。今日は、外に出るのよそう」 「最近多いね」ここ最近、朝の話題は変わらない。 政府が言うには、地球外生命体、らしい。少し前に飛来した隕石が、卵の殻みたいに割れて、中からごそごそとそいつが這い出てきたというのが、今できる一応の説明になるらしい。そんなことを言われたって、どうしろというのだ。政府からの説明はない。彼らもお手上げなのだ。 どうしていいかわからない私たちは、以前と変わらない生活を送るしかない。ということで、外では未だに漫才の公演は行われているし、注意報が出なかった地域では、幼稚園も機能している。私の娘は、毅然として通園し続けている。この状況下においては、子供の芯の強さに脱帽してしまう。 良い比喩が思いつかない。恐ろしいモンスターの物理的な影響力よりも、それに感化された、私たちの勝手な精神力の方が大きい。 よくわからない新興宗教が蟻の巣みたいにできあがって、消滅したり、他と合併したりを繰り広げている。某宗教の、カトリックとプロテスタントみたいな、そのような感じに似ている。似ていないとも言える。生贄が全てですとか、みんなで謝れば帰っていきますよとか、これまた勝手なことばっかり言って、勝手に楽しく生きている。やっぱり、どこまでも自分至上主義だ。 その面で言えば、何も変わっていないのかもしれない。 「まあ、好きにやれば良いと思うよ。何したって、どうせ百年後にはきっちり全員死ぬんだ」 信仰事情に対して彼は淡白だ。一週間前に居候を始めてからこの調子を崩さない。素性不明の男にしては、どこか割り切れていて好感が持てる。仏壇の写真を眺めながら十字架を切るその姿は、一般常識を携えているとは思えないが、今年で五歳になる娘は気に入っているので良いのだろう。 かなり髪が伸びている。髪を切りに行こうにも、どこも店はやっていない。顔馴染みの叔父さんが店を閉めてから、この街から床屋は消えた。その内、ホラー映画の幽霊みたいになるだろう。 雨は止む気配がない。強まる気配もない。それが通常ですと言わんばかりに継続している。薄暗い通りは水玉模様みたいに傘が並んでいた。窓から景色を拝んでいると、果たして、私たちは本当に危機的状況にあるのかと疑問に思うことがある。それに、たかだか一匹程度の魔物がいたところでどう変わるというのだろう。巣穴なんかで眠らせておけば無害だ。餌だって用意できるかもしれない。それこそ、豚とか。 「飛んでったってよ、日本海の方に」 彼の方に向き直り、何の意味も持たないため息を吐いて言う。 「私だって、日本海行きたいよ」 それから三十分後くらいに、娘は帰ってきた。叔父さんと手を繋ぎながら玄関に入り、開口一番に言い放ったのは、代わり映えのない、ただいまだった。 おかえりと返し、年季の入った叔父さんと世間話をする。ここまでが、機械化されたように無機質な、一つのルーチンだ。それが終わると、叔父は居間に腰を落ち着けて、いつもだったら頃合を見計らって帰っていく。 「今度、飯にでも。奢るからさ」 「是非とも」 叔父さんも、彼を気に入っている。 丁寧に衣をつけて、油に放り込む。衣を乱雑につけて、油にそっと落とす。単純な動作を繰り返しながら、ニュースに耳をやる。 どこの番組でも、この不思議な現状を、ポストモダン的な特異点だと呼んでいた。頭の良さそうなコメンテーターが顎を握り、脂が目立つ額を浮かばせて話している。ポストモダンというよりは混沌だ。ロボットの大群から逃げた先に謎のモンスターがいるなど、それは古典的ではない。ただのファンタジーである。刀を振り回す侍より、光を放つ魔法使いが似合う。 「これじゃペテンだ」酔った叔父は言う。酒癖がとても悪い男だ。 「不細工な身なりしやがって」彼も酔いながら同調する。 「しやがって」娘も援護射撃を放つ。 いつの間にか、雨は止んでいた。その分、とても暗かった。白熱灯は随分前に切れたのに、誰も買いに行こうとしない。暗闇がやけに心地良いからなのかもしれないし、こっそり隠し事をしているのかもしれない。誰も買いに行かないから、各々がスマホの照明をつけて当座を凌いでいる。無論、娘はきゃっきゃと笑うだけだ。五歳に携帯は猫に小判だと、叔父が言っていたから。 「里香、今日は満月だって」 「今行くから」エプロンを解いて、大きく背伸びをする。 各々が好きな物を持ってきて、ベランダで宴を開く。彼はいつもの煙草で、私はバーボンだった。二人揃って不健康だと馬鹿にされるが、私だって、健康ばかり気にして、好きな事をしないのはどうかと思う。 「なんとか乗り切ったね、今日を」彼は笑う。 バーボンを含んで、飲み込む。冬の澄みきった空気の下で、浄化されるような感じだった。善悪を様々に経験した今が、人生で一番綺麗に違いない。 屋内で騒ぐ叔父さんと娘の声を聞きながら、白い息を漏らし、寒気に傾倒するように瞳を閉じる。 街に明かりはあった。隣家はもう眠りについたのだろう。遠くに見えるアパートは、まだ綺麗な光を放っている。この家も負けじと輝いて、それでも薄汚いと私は笑う。 薄汚いのには確かに理由があって、それを口にするのは躊躇われるので吐露しない。それが、唯一持っている美徳だから。だが、その我慢は続かない。 「浮かない顔してるね」彼は言う。 「少し、思ったの」私も言う。 「私たちって、勝手に驚いて、勝手に死んでしまうんだなって。どうしようもない事柄にまで怯えていても意味なんてないのに、どうしても止められない。どうしようもできないのに、そんなことばかりに考えがいって、最近楽しくないというか」 「弱気だね」彼は笑う。何度目かもわからないほどに。 楽しいことはあっても、それで心は埋まらない。穴が空いて底を突き破ってしまったみたいに、幸せは溜まっていかない。無数の点があって、それを繋ぐ線はない。中庸という言葉が浮かんだが、そんなに綺麗なものでもない。 「忘れたらいいさ」素っ気なしに彼は囁いた。 「どうせ、百年後にはきっちり全員死ぬんだ。俺は他人の考えに口出ししたくないし、そもそも興味ない。煙草を浮かべていれば幸せさ」こちらを向いて、彼は続ける。 「俺の信条その一。他人は他人任せ。その二、自分は自分任せ。その三、気に入らないことは全部ぶっ飛ばせ」 大きな声で笑う彼を見る。その声に感化されたように、周囲から軽いざわめきが聞こえた。だがそれを気にする様子もなく、こちらを向き、にんまりと笑い先を続ける。 「それくらいでいいんだよ。くそったれな人生なんて。それに、豚よりはましさ、人の方が」彼は笑う。なぜだか名前を忘れていた。 夜空を見上げても、満天の星は見えなかった。あいにくの曇り空で、月も薄ぼんやりと見えるだけ。そんな日もあるかと思いつつ、グラスを傾ける。 「あ」彼の声がして、その方を向く。 「どうしたの」 「あれ」 煙を立ち上らせる煙草を持った手が、遥か彼方の天空を指さしている。その先に、その暗闇の中に、微かに見えた。 なるほど、コメンテーターは本当に全てを間違えていたのだ。 揺れ動く翼膜。闇の中から時折見えるその翼は薄い茶色で、赤い鱗がそれを覆っている。相当大きいのだろう。家の一体が影になって、その影も家の中に侵入し、翼を動かしている。各国に記録を残した賢者も、この景色を経験したのだろう。形容し難い羽ばたきのリズムを持っていて、目を離せない。 それは鳥ではなかった。鋭利な刃物を足の先に携えていて、闇夜に煌めいて美しい。現代的な風景からは逸脱していた。 「これは、壮観だな」 「かっこいい」いつの間にか、屋内にいた二人が横にいた。 縦横無尽に空を駆け回り、高く昇ったと思えば急降下し、我が家の屋根を掠めていく。その時、私は確かに見た。鋭い眼光が、優しげにこちらへ向けられていたのを。 そしてその魔物は、勢いよく空を駆け上がり、停止したかと思えば、月に向かって轟くように叫んだ。 鮮やかな赤とオレンジが噴き出して、空中を彩る。星でも花火でもない。誰だって黒焦げにしてしまう危険な美しさ。 轟音で耳を痛めても、ここまで伝わってくる熱気も、全てが演目の一環に過ぎない。私は恐怖していた。だがそれ以上に、息をしていた。退屈な世界で輝くルビーに、魅了されていたのだ。 世界は一つだった。仮にそうじゃなかったとしても、この街は繋がっていた。誰もが空を見上げて、爽快に暴れるモンスターを観戦していた。姿を誇示しているだけかもしれない。それで良いのだ。だって、こんなにも気が晴れるのだから。 巨大な火球が放たれて、空き地に捨てられていたオフロード車に直撃する。民衆は恐怖せず、歓声を上げた。どろどろと鉄板が溶解して、泡を立てて黒に染まっていく。停滞して面白みの欠片もない世界への、人類の総意であるというように。ぬかるんだ大地を乾かして、整えてくれているように。 轟音の中に混じる、微かな幸せの灯火。 こんな世界で、誰が退屈できるというのだ。 大きく背伸びをし、左右に上半身を曲げ、骨を鳴らす。 暗澹たる夢魔は、やっとのことで、私の体から退散していくのだった。

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火竜

Sigmund

何気なしに、豆を皿に並べた。運命の悪戯だと仮定しても、そこにどのような意図があるのか、私には分からない。 五十七粒。グロタンディーク素数だな、とか思いつつ、気兼ねなしに、十九粒程タッパーへと戻した。無意識に、かといって、無意識だという意識はある。無意識的意識みたいな。中枢だと言い張る脳髄は、案外ポンコツである。 「検知しました」 「スタンド・バイ」 可愛げのある声で無意識を数える意識には、“サマンサ”という名前がある。彼女に与えられている役割は監査官に違いない。脳は芋づる式の構造をしている。私を制御する左脳。『私を制御する左脳』を制御する左脳。地平線の彼方を走る電車のように、一直線に奥行きを持っている。 彼女の役割はただ二つ。第一に我が脳髄の監視。第二に、無意識の撃退という名目で行われる、我が脳髄への一撃。微細な打撲のように感じられる。それは痛みであり、愛の鞭ではない。 発声器官をつけたのは、仕事ぶりに対する恩情でも、私の可愛くない寂しがり屋な性格に由来する意志でもない。中枢という階級を持ちながら、他人の頭に鞭打つぐらいしか仕事がないのはどうなのかと、私なりに疑問に思う所があったからだ。反乱を起こされても困る。止まる事を知らない暴力である。無論、平生の場合は対処できるが、相手が目に見えない程微細な脳髄となればたまった物ではない。それに、彼女は愛人ではない。親交のない女を引っかけて遊ぶ趣味など、私が持ち合わせているはずがないのだ。 だからこそ、最近の私と緊張は、隣り合わせの仲にある。 ナイフの背を使い、フォークで豆を刺す。この至極単純な動作の中で、どう切り出そうかと私は焦っていた。ある数学者のニューロンから作り出されたサマンサだからこそ、数学はお気に召さないようだ。彼女のグロタンディークに対する評価は、目に見えずとも低い事がわかる。私としても、グロタンディークについては、五十七を素数だと言い張る気概しか知らない。 茶色の机に浮かぶ大皿とナイフ。年老いたフォークと、傾きかけた椅子。口元にフォークを運び、豆を二粒、咀嚼する。 「ひよこ豆は、お嫌いですかな」苦し紛れの一言である。 案の定、反応はない。時折、この女がどんな姿をしているのだと考える事がある。意図的に無視をする様からブロンドの若い姿を思い起こす。私の趣味趣向の露呈とはまた違う。単なる妄想に過ぎない。サマンサの存在も、傍から見れば妄想の一部に見え、私が何か優れない病気の患者に見られる事が多い。だが、それは否定する事ができる。私には確かな記憶がある。巨額の富を手放し、毛根に端末を植え付け、頭皮に埋めて脳に接続した記憶が。 「あなたにも、空腹という感覚はあるのですか」 返答は来ない。返答こそが欠けている唯一のピースに過ぎないというのに。私の理性を証明する手段はそれしかない。 サマンサを雇ったのは、単なる好奇心に過ぎなかった。私はフロイト派でも、ユング派でもないが、無意識には人並みに興味があった。それが及ぼす身体的な拘束には、目を見張る程の脅威が含有されている。 知的活動から離れてしまう。無意識には、人が無視しきれない影響力と、抗うには無謀が過ぎる程の圧倒的な力があるのだ。 「検知しました」 「ヒット」 こうして、私は間違いを犯していく。 震える視界の中で、時針が揺れていた。 私のサマンサは博学才穎で、人類史に名を残す偉大な数学者であった。 彼女は数学に愛されていた。流れる素数は曲線を描き、彼女の身体を模写した。私は恋をして、その得体の知れない愛を、科学で表現した。 一方で、彼女は私に応えてくれなかった。サマンサは異様な女であった。完全数と同衾するような女であった。その艶かしく危なげな頭脳で、関数と接吻をするような女であった。私のサマンサがひよこ豆を嫌うのは、そのためだろうかと思う。彼女は数学を愛していた。 そして、彼女は死んだ。そのブロンドの髪は朽ちて綻び、私だけが残った。私は努力した。繊細で儚い、一抹のニューロンの採取に成功したからだ。彼女は努力をしなかった。結果を伴わない努力など、ありはしない。そんな物は、ただの悪足掻きだからだ。 私のサマンサは、不意の失態によって没落した。彼女は健康だった。それなのに死んだのは、彼女の無意識が、彼女の長寿を潔しとしなかったからだ。 私は、彼女が憎くて仕方なかった。 「検知しました」 そんな彼女に、私は死ねないように管理されている。 豆を喉に詰まらせる事も、理性の管轄外の最中で、ナイフで喉を掻っ切ろうとする事もなくなった。衝動は機能しなくなった。そして、私に最大限の命を授けた。果たして、これが彼女の望んだ事なのか、私には分からない。私は、小綺麗な数字群ではないのに。 グロタンディーク素数。偉大な数学者であるアレクサンドル・グロタンディークが、講演中に、五十七という数字を素数として挙げた。学生は彼の偉大な経歴に目が眩み、その間違いを指摘する事ができず、結果として彼は、他者に向けて、嘲笑の隙を与えてしまった。 私のサマンサは、間違いなくそれを好いていた。 「検知しました」 揶揄の隙を見せる可愛げだろうか。それとも単に、数学者としての権威なのだろうか。私に知る余地はなかった。常に流れる川の前線が分からないように、理解を挟む所はないのだった。 私の手元には、弾丸が込められたそれがあった。 私は、無意識にそれを持ち上げて、こめかみに銃口を構えた。 無意識は、検知されなかった。この癲狂院のように劣悪な環境によって、私は変わってしまった。些細な打撲は形を変え、より巧妙な性質を持って我が脳髄を刺激していた。この際、これはただの妄想ですと宣告された所で、何が変わると言うのか。 豆は、片付けた物を含めれば五十七粒ある。三粒ずつ食べたとして、十九回も繰り返せば全て消える。なぜなら、その数字はただの奇数で、神にも悪魔にもなりえないからだ。 悪魔は、私のサマンサだ。 「検知しました」 彼女の声が響いた。私の精神を阻害し、淘汰し、それでも殺してはくれない囁きだ。 豆はとうの昔に腐っていた。私はそれを知っていながらも、噛み潰し、飲み込んだ。最初から狂っていたのだ。努力をしていたというのも勘違いだ。これも妄想に違いないのだ。 「検知しました」 私は死ねないだろう。この先だって、仮に時間遡行が可能だとしても、そうしようとする衝動をサマンサが感じ取って、無意識だと決めつけて私に一撃を入れるだろう。 部屋一体が闇に溶けていくのを感じた。それは腐食に近い。例え私が正気だろうと変わらないだろう。これは実際に起こっているのだから。私を連れ戻す気なのだ。 「検知しました」 混濁の中に光が見える。グロタンディーク、君の間違いは、私をここまで虚仮にするのか。 机が揺れ、そのまま大地に消えていった。 私のニューロン、私の意識、私の無意識、私の命。 全て夢だったというのか。 「あなたはもう、死んだのよ」 「ヒット」

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 Sigmund

モルテ

ロレンスは、冬の爽快な空気と、喪中のように辛気臭い感傷に浸っていた。夜も深まり、神の御加護から最も遠ざかる、ある夜更けの事である。 モンタギュー家とキャピュレット家の惨事から時は流れたが、心を蝕む溝は、日に日に増していくのだった。それは例えば、主なき子犬や、飢えた子供の姿を、脳裏に思い出す事と同義であった。それだけではない。その事件は、己の無責任な善意によって成り立っているのだと、一種の不快で御し難い感情も孕んでいるのだった。 私は本当に善行をしたのかと、焦燥が、ロレンスの身を痛々しい程に蝕んでいた。私はただの、感化しがたい厄介な世話焼きでしかないのではと、それは嘲笑に近しい性質を帯びており、愚直な彼の心に、明確な一撃を与えるには十分だった。 蝋燭が灯り、仲間はパンを噛み締め、ワインでそれを流し込む。 ロレンスも、できることなら、この罪の意識さえ一緒に流してしまえればどれほど良かっただろうかと、己の境遇を恨んだ。だが、その彼の意志に反して、喉は食事を受け入れられず、ただ諦めたい衝動に駆られていた。 そうして、彼の脚は、ある場所に向かっていた。 重い足取りで向かった先は、紛れもない、単なる告解室に過ぎなかった。が、普段の時分と違い、彼は、赦しを与える司祭としてではなく、許しを求めて縋る信者として訪れたのだった。 確かに、彼は熱心なクリスチャンだったが、同じくして、臆病で虚弱な信仰心の持ち主だったのだ。彼の心は、弁護できない何物かによって、揺れ動いていた。 「誰か、いないか」ロレンスは言った。 「誰も、いないか」ロレンスは息を漏らした。 彼が、その静けさの中パンを口にしようとすると、後ろから、静寂を破るように靴音が聞こえた。硬い床を踏みしめ道をやってくるのは、紛れもない、キャピュレット。恋情の果ての悲劇によって死んだ、あの麗しい女性の父親である。 やがて先に、キャピュレットが口を開いた。 「全て終わった。健康な先人たちに倣い、懺悔でもしてやろうかと思ってね」 その瞳、その顔付きには、確かな疲労が現れていた。苦虫を噛み潰したのが道化師であったかのように、実に耽美的な苦笑も、ロレンスは見逃さなかった。苦し紛れの反抗なのか、胸の内に秘める計画なのか、それさえ知る由はなかったが。 「お聞きしましょう」快活を装って、ロレンスは言った。 外では、既に草木もが静まり返っていた。 外界から遮断された、小さな告解室にて、限りなく静かな懺悔は行われた。しかしながら、仕切りを挟んだ関係は、赦す者と、赦される者ではなかった。赦して欲しいのは私の方だと、ロレンスは確かに思っていたのだろう。蓄えた髭を無意識に舐めながら、ロレンスの苦悩の瞳は、格子の網目を見つめていた。 「私は娘を殺そうとしました。不潔で、精神的な死を与えようとしました。私自身の身体は、それを無意識だとか、繁栄の為の礎に過ぎないだとか言って、確かに逃れようとしていました。欲望に支配された我が心、そして身体を、お赦しください」 「私の犯した罪と、これからの不幸から、お守りください。アーメン」 子を亡くした親の懺悔を耳にしながら、ロレンスの本能は、自分自身に対しての懺悔で一杯だった。畢竟彼は、誠実な司祭ではなかった。眼前の信者を前に、心中で思うのは、己における焦りに違いがなかった。 告白が終わったと見えて、ロレンスは、何も宿らない、淡白な赦罪詞を放った。 「私は、父と子と精霊の御名において、貴方の罪を赦します」 仕事を終え、そして宿命を終えた二人の信者は、告解室を去り、長い廊下を歩き、窓の外を行く雨滴の数々を見た。やがて教会堂の入口が見え、二人は話す。 「君には迷惑をかけた。私の娘と、モンタギューの子息。私が謝罪しよう」 「誰であろうと、負い目を感じる時はあります。違いが生まれるのはその後の行動です。貴方やモンタギュー家の皆様に、幸のある未来を、お祈りいたしましょう」 「ありがとう」 外套を羽織り、キャピュレットは立ち去ろうとする。 だが、外気に沈み込む直前に振り返り、ロレンスを見て、その男は言った。 「君も、何かあったなら、私や、モンタギューに言うといい。対応させよう」 「ありがとうございます」 ポケットを整えるふりをしながら、確かにそこにある膨らみを見る。それは聖餅ではない、ただのパンに過ぎなかった。食される事もなく、ポケットの中で眠っている。 「随分追い込まれていると見える。食事は十分に、な」 「いえ、いいのですよ」 雨はしとしと降り続け、それは、天に昇った何者かの涙だと、ロレンスにはそう見えて仕方がなかった。 翌日、ロレンスは再び告解室に赴き、今度こそはと声を出した、 「誰か、いないか」か細い声が、やけに響いた。 「誰も、いないか」外では、もう既に雨は止んでいた。 ロレンスは告解室の扉を開け、そこにある椅子に腰かけた。前傾姿勢になり、軽く息をつく。格子の向こうに人はいなかった。今度こそは、彼はただの信者に過ぎず、今度こそは、自分の為の行動に出るのだった。 「嗚呼、神よ。私の薄汚い信仰心を、赦したまえ」 ロレンスは、最後にもう一度、周囲に誰もいない事を確認し、その小さなパンの欠片を手に取った。 そして、それを食み、含まれている赦しの毒によって、永劫の眠りについたのである。 悲劇の主人公である二人の男女が、作為的かつ運命的な破滅のせいで死んだのに対し、この一人の修道士は、錯綜した己の一撃によって、人生の路頭に坐したのだった。

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モルテ

玉輪

本が読めなくなった。その代わりと言ってはなんだが、月を見上げるようになっていた。 煙草を吹かして煙を空に昇らせれば、死んだ叔父や叔母が俺を認めてくれるだろうという浅はかな思惑は確かにあった。だが、実際にそれ以上の割合を占めていたのは、何物にも染まることのない曇り夜のような空虚の黒色だった。 いつ振り返っても、天邪鬼で生意気な人生を歩んでいると結論付けるだろう。 学生の頃は、学校でアメリカ英語を習いながら、家や図書館ではイギリス英語を好んでいた。その些細な抵抗に意味はないと分かっていた。それでも体は“ヒー・カント”と言っていた。俺は、普通であることを潔しとしなかった。できなかったのだ。 こうして大人になった後も、過去を掘り起こして懺悔することがこの上ない幸福であるかのように人生は続く。この先も、何度だって時間遡行の果てにあるアンニュイを探すのだ。 肌寒い風が止み、むせ返るような香りが垂直に昇っていく。 「この夜空は、君ら人間の悲しみが原因なのかもね。太陽を追い出すくせに、他人行儀みたく落ち込むんだ」 艶の良い耳をぴんと立てながら、“ワイルド”は目を光らせ、審査員のようにこちらを見る。老いぼれたベランダ窓から身を乗り出し、過酷な外界と相対して身をぶるりと震わせる。そんな姿だけが猫に違いなかった。文学みたいな口ぶりが面白くて、アイルランドの詩人である“オスカー・ワイルド”からとって、ワイルドと名付けた。梨のダンボール出身の三歳である。 「飯はもう食ったろ」 「覚えてないね」小さな体に見合わない、大きな欠伸をしている。 俺と彼の生い立ちについて語っても良いが、数億と惚気話を続ける羽目に陥ってしまうので遠慮させていただく。酔っ払って葦の群生地にダイブした拍子に見つけたダンボール。偶然にも生きていた子猫。天文学的な確率の末に声帯を取得していた。奇跡がミルフィーユみたいに層を作って、似合わない食べ応えを持っている。頭の悪い邂逅は、いつまで経っても覚えている。 「小僧、謀ったな」酔っ払った俺は言った。 「二年の拘束で、勘弁してやる」猫の声は、思いのほかダンディであった。それさえ了承してもらえれば良い。 テーブル上の皿から、器用に鮪の切れ端を奪い取る。生意気な雄猫はゆっくりと音を立ててそれを咀嚼し、何食わぬ顔で淡白な赤身を食い尽くす。義務であるかのように続ける。満足したあたりでこちらを向き、勝ち誇ったように口元を舐めて、鳴く。 「人間は欲張りだ。死ぬその瞬間まで、さらなる良物を求める。どうせ、群れの長にはなれないのに」 長になりたいとは思っていない。ただ、自分自身にそれぐらいの自信を持ちたいだけなんだと言いたい。けれど、俺はその言葉を知らなかった。 よほど美味かったのだろう。彼の鳴き声には若干の甘美な響きがある。 酒を煽るように水をぴちゃぴちゃやりだし、かと思えばこっちを見て気味悪い顔をする。一般的に猫は無表情寄りの生物であるとされる。だからこそ、口元に角度をつけられると困惑する。 ふと思いついた疑問があった。人間には答えられないであろう疑問を猫にぶつける。それが可能な猫の存在に喜びつつ、順当に投げかける。 「君は、生きてて楽しいの」 ワイルド。またの名をオスカー。猫は毅然と言った。 「楽しいも何も、生きることに意味はないだろう。崇高な意味を持つのは、あくまでもイベントの方だ。筏に綺麗もくそもない。筏を動かす時に見える水面。そこに鯨がいるから綺麗なのであって、鮫がいるから怖いのであって、乗っている筏そのものに意味を求めるのは愚問さ」 「怖いな、君は」 一段と寒風が吹いて、煙草の煙が角度をつけていく。俺はあとになってから、この時にまた昔の記憶を食い漁っていたのだと気づいたのだった。 月はやけに綺麗で、まさに“玉輪”と呼ぶに相応しいものだったのだ。言い訳がましくなってしまうが、月光の持つ狂気的な力に抑え込まれて、俺は軽めのヒステリックを起こしていたのかもしれない。 ワイルドの言葉には救われた。的を得ているようで、その内容を他人に伝えようとしない。無駄な表現を乱用して詩人みたいにべらべらと喋る。そんなさまが、俺に同情していないように見えて好ましかった。 彼の威厳は夜が深まると共に落ちてきていて、人間に懐柔してしまったかのように布団から動かない。彼専用にこしらえた二つの枕に身体を挟み込み、いびきをかきながら寝ている。喋ることも減ってきた。時たまうなされたように返事を寄越すだけになった。 少なからず、それが今だけは心地良かった。 俺はベランダ窓を閉めて、ワイルドの隣に腰かけ、何度目かになる積読本の繊細で柔らかい頁をめくった。 相も変わらず活字は目に入らない。ただ、風のように散っていくのだった。

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玉輪