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第一回ノベリ川賞 太陽を待っている

言葉は心の足音である 松原泰道 1 太陽は明日を待っている。明日にならないと、僕らの街を拝む事ができないからだ。宇宙に溢れているおかしな燃料によって突き動かされ、各地を転々としている。一度離れてしまえば、次に姿を見せるのは一日後。(僕の個人的な)研究によると、地球は、約六百兆(人間)世紀分の時間を、他の低俗で退屈な街探検に費やしているらしい。何ならもっと詳しい時間を示してやってもいい。太陽が停止し、定住する術を身につけるその時まで、この浪費は終わらないだろう。そして、僕らの街の危機も終わらない。 僕らの街は、常に太陽から遠い所に位置していた。『常に』というからにはそれなりの理由があり、僕らを悩ましている。 つまるところ、動いているという訳だ。筏よろしく。 太陽に照らされる大陸というよりは、照らされなければいけないのに逃げ続ける、乙女的な体裁を成している。けれども正直、大陸が感情を持っているとは思えない。この惑星はソラリスではないのだし、例えそうだとしても、意志を持つのは海の方であるのだ。太陽と、太陽を求める大陸、それを拒む海。大自然の三角関係が観測された瞬間だとする学説には未だに出会えない。そこに諦めのような怠慢が含まれている可能性を僕は否めない。 多種多様な海産物が有名な大陸である。それにしては知られる事がない。アフリカだとかアメリカだとか、島国の日本ですら私の存在に気づけない。他所様の排他的経済水域へ侵入を繰り返しながら漂っている訳だが、何かと相手にされない。そこには奇跡的なタイミングの良さが横行しており、僕らが日本海旅行を楽しんでいる間に災害規模の豪雨が流れたりと、偶然の要因だけが僕らを歓迎していた。言い換えるなら、大陸に理解されない大陸。一人の人間が観測する事はあるにせよ、それが国家規模の動乱に発展する事はまずないと言っていい。 この前も、一人の学者が上陸してきた事がある。この前の前も、この前の前の前もである。彼らは地学者であり、科学者であり、生物学者であったり、文学者であったりする。多様性に富んだ人材が派遣されるらしい。成熟具合も乱れており、もたらされる見解をまとめて出版する事だって出来るかもしれない。 皆目一致している見解の一つとして、『この大陸は、神秘が生んだ一種の方舟である』という物がある。大規模な岩石の衝突から惑星が生まれるように、この大陸も、惑星自身が捏ねて叩いて作った玩具で、海にぷかぷか浮かべて遊んでいる。そいつはちょっとロマンティックにすぎませんかな。 そんな物は絵本というやつである。物語特有の脚色を論文に用いるのはかなりいただけない。そもそも、勝手に上陸しておいて、身勝手な文書を残していくのはどうなのか。太陽から逃げるという現象は、ポジティブな特色になりはしない。方舟だと言われたところで、街に一つしかない雑貨屋にて『方舟キャンディ』だとか『方舟ペンシル』だとかが売られる事はない。 寓話的な耽美加減は、素直にどうぞと認められる事なく消えるだろう。 太陽とはそんな話をして過ごした。 「まあ、摩訶不思議な宇宙の謎が、子供の証拠隠滅に似てる可能性もあるだろう」 かなり詩人めいた事を言う。声は思いのほか雛鳥のようだ。彼いわく、生命の様相と内に秘める熱は比例関係にあるという。 「雛鳥の内部温度は千六百万度もないよ」 「雛鳥は太陽じゃない」 当然の事を冷静に指摘してくる。 「笑止千万な嘘八百は、天文学的な値を成す人間の営みだろう。赤色巨星となるその時まで終わらないだろうね。明日をひたすら待っている。ビー玉は排水溝に落ちるけど、惑星は惑星だ」 彼の手の上では、青色に輝く壮麗なビー玉が転がっていた。 2 さてこそ以上、不世出の天文学者による作品、『宇宙一般はかく語りき』のほぼ全訳である。翻訳には、自費出版のハードカバータイプを用いさせていただいた。 明確な一人称を持たないこの作品は、天の川銀河随一の奇書として名を馳せている。太陽が突然意志を持つ生命のように書かれていたりと、突拍子のない展開が一定数の理解者を獲得し、安定的な人気を博しているのだ。この掌編は、彼が順風満帆な研究生活を送る事を可能とした。 作者兼天文学者の彼は、ジャンルを軽々と超越する知者として有名であった。 母は新興宗教の教祖で、父はウェットに富んだ哲学者であったという。何でも、母は信徒と駆け落ちして家を飛び出し、父は真理を求めて家を飛び出していった訳だから、幼い頃から彼を育てたのは父方の叔母であったらしい。 叔母も中々の曲者で、まだ若かった彼に教育を施す事もせず、ひたすらに書物を読ませていた。「基本的な言語能力さえあれば神にもなれる」とするのが叔母の信念であり、それに基づいた躾によって彼はあの地位を確立したのだから面白い。 彼は現地の言葉で読書を進めていった。フランツ・カフカ、アーネスト・ヘミングウェイ、太宰治、夏目漱石、魯迅。無差別読書によって、彼は世界中を旅し、独自の言語形態を理解していくのだった。その点において彼は努力家で、博識となる才能をも持ち合わせていた。日本語、英語、中国語を学び、挙句の果てには人工言語にも手を出す。無活用ラテン語。ジュゼッペ・ベアノの超越的な遊戯を易々と理解した。 彼の学習法は独特で有名だ。分からない単語、もしくはセンテンスが出てくる度に、彼はそれを用いる為に一つの物語を作成する。“虎”という語を用いる為だけに、虎の話を書くのである。 彼は、人名等の固有名詞についても同様の事を行った。李徴子と名前がない猫の出会いを描いた中編小説は、彼の没後に累計売上百万部を記録した人気作品の一つだ。普通に読む分には面白くない。しかし、ある中学校の男子生徒による、下校中に二宮尊徳よろしく読むのがすこぶる面白いという噂が広まり、その方法が芋づる式に伝染する事によって売れていったのだという。 こうして得た圧倒的な語彙を元に、彼は一つの賞編集を手がける事になる。その冒頭を飾ったのが前述の『宇宙一般はかく語りき』のプロト的立ち位置の作品である。荒削りな様はあるにせよ、将来がある作家として名声を獲得したのだった。 順風満帆な生活であったのだろう。彼は莫大な印税を天体望遠鏡の開発費や、宇宙開拓への投資金に充てた。レイ・ブラッドベリの『火星年代記』を読み、宇宙に憧れを抱いた彼は、それからの人生を宇宙と共にするようになる。前例を持たない圧倒的に広範囲の未来を欲した。 たが、そんな最中であった。彼の叔母が亡くなったのは。 倉庫の中にて、仕込杖を抜いて倒れているのが発見された。急性の心不全だったらしい。もしくは敗北。海産物の逆襲を受けたともされる。記録としては残されていないので、真相は闇の中だ。 何にせよ、突然の今生の別れに、彼は酷く悲しんだ。しかし、彼はそれよりも高揚感に苛まれた。その倉庫というのが、叔母によって接近禁止令が出されていて未開拓そのものであったからだ。そこには、姿を知らない哲学者である父の書籍が積まれていた。 彼は、食い入るようにそれを読み耽った。頁をめくる度に訪れる普遍に半ば呆れつつも、活字を目で追い続けていった。それが父を知る唯一の手段であったからだ。過去を見つめても記憶は無いのだから、知る事で明日を迎えるのは適切であると言えよう。 日が暮れていき、さらには明けて、また暮れた。 終盤に差し掛かった頃、彼は遭遇した。知らない単語であった。それは人名であり、文脈から察するに、まず間違いなく父の名であった。そこで、彼は初めて、自分の姓が“ビーグルホール”であると知った。 そんな訳で、彼は“ビーグルホール”という名詞を用いて掌編を作成した。残念ながら、この作品は現存していない。彼の晩年におけるエッセイで明言されているだけであった。日本語とロシア語のミックスで書かれた、何とも不思議な随筆である。 彼は直ぐに作品を書き終えたという。そして、次に父の名前に焦点を当てた。読み始めてから、既に三日が経過していた。 父の名は特殊であった。特殊というのは、名前としての特殊性であって、ただひたすらに安直なのだ。唐突な出現方法も相まって、世間一般の人間では、それが名前であると理解するのも難しい。 だが彼は違う。億や兆を超える活字を見てきた人間にはわかるのだ。僅かな違和感から、それが明るい恒星の意ではなく、個人を表す名であると見破った。 だからこそ彼、即ちロマネ・ビーグルホールは書いた。その愛すべき名前を使った掌編を。 彼の父の名は、太陽。 翻訳元ではサンとされていた、明日を待つ恒星である。 (了)

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第一回ノベリ川賞 太陽を待っている

alternative

「ありがとう」の代わりになる花束はない。 「ごめんなさい」の代わりになる涙はない。 花や涙の美しさを語るのは言葉や人間の情なのだから、源泉が穢れていては仕方がない。 「さようなら」の代わりになる空白はない。 「嫌い」の代わりになる刃はない。 僕らは言葉に生かされている。だからこそ字が憎いし、それでも愛おしく思ってしまう。 「愛してる」の代わりになる愛はない。 「傍にいて」の代わりになる温度はない。 あの星々だろうと、言葉の前では無力の民に過ぎない。言葉は不変の呪いであり、随一の武器だ。 「大丈夫」の代わりになる力はない。 「また明日」の代わりになる安心はない。 しゆるしゆると消えていく儚さは、いつだって僕らの血となり肉となる。眩しい感情になり、愚直で醜い原罪にだってなる。 そして知性の獣は乱れて、いつかは凪ぐ。 こうして、世界はそよ風となった。 僕らは言葉を紡ぎ、解き、飲み込み、消える。 言葉を殺し、生かし、奴隷のように使役する。 「言葉」の代わりになる言葉はない。 万象は循環しない。輪廻転生なんて、起こらない。 個人が断固とした独自であり、アイデンティティに溢れている。 他者が語る内容は、非他者には作れない。 私は、それを誇りとしよう。

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邂逅

ー或いは集会。 以下に書記すのは、ある邂逅のお話です。これをお読みになられるであろう何某殿に、お祈り申し上げます。 化け物にでも食われてしまったのかと錯覚してしまうほど、閑静な夜のことでした。その時分は、普段と打って変わり淋しさを感じました。梢の方を見上げても、月がないのです。生命の道楽がどこか遠くの物のように感ぜられ、私は悲しくなりました。そこは荘厳な林の深奥でしたから、理性的な安全による保護からは抜けてしまっていたのでしょう。しかしながら、それを濃密なまでに自覚したのは、この日が初めてでありました。 深奥側から何か、カサ…ザザ…と、音がしてくるのです。初めは羚の類だと思いました。人間の性を嫌う輩はそれを避けますから、必然的に奥へと身を潜めるのです。 相手が近づくにつれ、その音は、より知識を孕んでいきます。発せられる音の感覚から、それが巨大な生命であると考えました。大地が軋むような様から、それが野生生命でないのではと恐怖しました。ザ…ザ…ザ…と、確かに近づいていきます。 その時になって、やっと私は疑惑を覚えました。そいつはこの私を喰らおうというのかと、本能的で、呪縛のような焦燥思考が私の首を絞めました。 この暗闇の中から出てくるのは、鬼であるのか、はたまた龍であるのか。人の世には姿を見せず、こうやって自ずから近づいてくる愚か者を糧にしようとしているのではないかと…。 そして、ついに姿を現したのです。 強い突風を感じて瞬きをする隙に、木々の隙間をぬって何かが出てきたではありませんか。 案の定、怯える私の眼前に出てきたのは、六つの脚を持つ化け物でした。猿の顔に大鹿の立派な角を持ち、背丈は十尺ほどあったように感じました。丸太のような重みを見て取れる腕が二本、鞭のように長い、数多の節を持つ脚が六本。紛れもない、あれは怪異の類であると即座に理解しました。それと同時に、私を襲ったのは、言う事を聞かない脱力感でした。 ウワアと情けない声を上げる私を見て、その怪異は笑いまして、その豪快な口には、サーベルのような牙が無数に生えていたのを記憶しています。私の魂は、あの牙によって引き裂かれてしまうのだと、本能が降伏した瞬間でした。 すると、突然の如く怪異が声を発しました。 「安易に業を重ねる罪人よ、汝、自身を知っては如何。傲慢不遜たる裁量は、枯梢に同じ」 その声は私の芯を赤子のように揺らすのです。眼前に広がる暗黒に、奴は佇んでいました。私とそれを取り囲む環境は、他流試合も同然でした。奴は知性で戦い、私は、溢れる怯えと、それに由来する他責地獄を経て理性をこの手に取り戻そうとしました。 私は言いました。君は一体ダレであるのかと。 奴は、六本の脚を巧みに使役し、器用に私の背中を撫でました。冷たくて、無機物的な痛みを感じました。 「そう怯えなくて結構である。取って食ったりはしない。おびただしい数の愚弄を経験した、お前の同族である。フランツ・カフカの『変身』、中島敦の『山月記』を模した、阿呆陀羅経のような存在なのだよ。ハハハ…」 「人の味には、もう飽き飽きしてしまいましたよ。これでは、舌が肥えたブルジョワと同じですな。アハハ…失敬失敬…それでも、分かりましたでしょう。私は悪鬼ではありません。この脚も、発達した胴体も、大罪の為には使いません」 自身の事を“蛛土山親王”と名乗るその化け物は、一貫した自己という物を所持していないように見えて仕方がありません。 私は彼を観察しました。奴がいつ様子を変えて、居直り強盗のように襲いかかってくるのかわかりません。私という人間の性分は臆病ですから、信じようにも信じる事ができない構造なのです。 大岩のような姿をする腹には模様があります。しのぶもちずりとでも言うのでしょうか、私には知恵がありませんから、判別はできません。 よく見てみると、脚には、薔薇の様な棘々がありました。あすこから人を殺める毒が出てくるのだと言われて、私には疑ってかかる自信はありません。 そして最後に、やつの顔を見ました。瞳は炯々として、頬は妙に骨が張っています。食っていないというのは事実と見て取れましたので、微かな安心が私の頬を撫でました。しかし、それよりも気になる奇怪さがあったので、私は再度、蛇に睨まれた蛙のように身を固めました。 奴の顔が、どろどろと変容していくのをこの目で見たのです。粘土のような性質を持ちながら、やけに柔らかいのです。肉を詰め込みすぎた包子のような印象を受けました。外に接する薄皮の中で、様々な自我が蠢いているのです…。有り得ないとは思いつつも、心のどこかではそれを肯定していました。 すると、私の様子に気づいてか、奴は嬉々とした風に語り出しました。 「言ったように、私は、過去に人を食っていた。醜い憎悪を引っ提げて、大名だとか、将軍だとか、天皇だとか、法皇だとかが座している大地へ赴き、喰らいましてね…。当道座出身の人斬り、怨霊に取り憑かれた将軍…人の味を知っている百姓。私は悪行の限りを尽くしたので、ある陰陽道の女に七本目の大脚を奪われた」 蛛土山親王は、息を絶えさせながら語りました。呼吸をする、カヒ、という音が沈黙を貫く林中へ響きます。 「真の強者はね…語られないのよ。表へ出るのは、これ見よがしに己という存在を露呈したがる、いわゆるオッペケペーなのよ。つまるところ…あの女はそんな奴でしてな、舞台に上がることはせず、安倍の人間を細糸で引っ張って、緩めて、遊ぶかのように操っていた張本人でしたナア…アッハハ、信じられませんか…これは失敬。まあ、無理もありませぬ」 「とにかく、この俺が抱いている怨念の多くは、その女、いわゆる“落慶次”の奴にあるのだよ、お前」 奴は、落慶次とやらを嫌っていました。語る表情には、明らかな軽蔑の色が出ており、修羅の如く腕を振り回しておりました。 激昂した奴は、おかしな事を言い始めます。行儀良く風景を描いていたカンバスを、突如として赤に染めあげるように怒るのです。体が爆発しているようで、羽化の準備をしているようでした。これまでは蛹であって、今こそが成虫になる頃合いだと言うのです。 「憎しみは万物の構成要素なのです。己を己たらしめる形質は、紛れもない負の感情であるのだ。あの女が憎い。奴は何処へ消えたのだ。俺はここにて座している。人間道を牛耳るマーラは私だ!」 「そうは思いませんか、君も」 「記憶を失った麗人よ」 「分かるのですか」 化け物は、私が記憶を失っていることに気づいていました。 「エエわかりますとも…。瞳の焦点が、ちっとも定まっていないですからなあ。そういった人間は分かりやすいのですよ。この俺の、体の中にいる魂が証明していたからネエ。確か…そいつも美しい人でしてナア。いや、美しくはないよ。普通の女性ですよ。ハイ…ともかく、食ったのですよ。あなたのように、記憶をどこかに落とした愚か者をね」 「イヤア、美味かったナア」 規則正しく変化する表情は、奴が人外であるという事実を、ただひたすらに助長しておられました、ここに存命の落慶次がいたら、私はどれほど冷静でいられたことでしょう。かの魔には、低俗な強情や頑固、人間が持つ悪しき風習が練り固めてありました。それでいて、また別の角度では、冷静沈着で、優れた知性を持っていて、それでいて常識的な弁論術を会得しているのです。歴史とは惨いと思いました。こんな妖魔を生み出しては、黙りを決め込んで封印紛いの冒涜を行うのです。 「君、勝手に語り出すのはやめたまえよ。醜女の分際で、いい加減にしたらどうだい」 「そもそも、お前は何者であるのかね。君がまだ私に食われていないとする根拠はどこにあるんだい」 それは、どこにもないなと感じました。 私は既に、蛛土山親王に食われてしまっているのでしょうか。その薄気味悪い六本脚を見た時には、隼の如く私の頭に食らいついていたのかもしらん。私が私として語っていると錯覚しているこの現在は、もしかしたら、奴の意識下における家畜同士の交流なのでしょうか。生憎、万象に対して根拠が不足しています。 「根拠が欠けている疑惑は、一体全体誰の物であるのか。仰々しく語るのはいただけないね」 それに私は、本来の目的を忘れて怪物の談判に耳を傾けているではありませんか。私はなぜ、こんな夜更けに林の最奥へと向かったのでしょう。不条理的な様は混乱を引き起こすでしょう。 「汝自身を知れ。ないしは、思い出せ」 「嗚呼、もしかして…いやはや、あながちそうでしょうな」 私が、落慶次だったのですか? 「さあ、どうでしょうナア…あなたがその記憶を取り戻すまではどうにも分かりません。傍から見ればキチガイ患者に他ならないでしょうし、私はリアルなる落慶次殿については知りませんからナア…アッハハ……落慶次殿など、ペテンと陰謀論が好きな字書きの本でしか、見たことがありません。イヤア、それでももしかしたら知っているかもしらん…。蛛土山の奴から聞かされたやもしらん。 当道座の人斬り伝説と、何かしらの関係を秘めているのかね…アハハ…。 天皇も、法皇もこのことについては知らない。落慶次は知らぬ人間であることを好まれたから。己に対して無知であること。その御姿を知ろうとした欲深い人間は、みな殺サレル…。蛛土山の奴は、そうして死にました…惜しい男をなくしたものです」 体がねじまげられるような感触を覚えました。覚悟のない人間が事実を露呈しようとしてはいけない。他ならぬ私の信条であったのに、私はそれに応えることができませんでした。 私が、この俺にトドメを刺したわけになります。 閑静なこの林は、集約された人間的地獄でございます。迷いし輩は皆醜悪な獣です。私もその例に漏れなかった、ただそれだけでありました。 天誅を下す人間は、皆呪われるのです。正義が悪に屈するのは、肉体的に負けた時ではなく、無意識下で体を許す、その時だったのです。私はそれに気づかず何年、何十年、何百年と生きてきたのです。疲れきった体に、悲哀が染み渡りました。 これを読んでいる何某殿へ。この奇怪な自伝を読み終えたら、南南東の方角。悪しき人間が集まるこの地獄に、火を付けに来てください。ナアニ、火を放つだけで良いのです…逃げ場のない我々は、ジワジワと死んでいくことでしょう。そうしたら、すぐにそこを離れて、スベテを忘れてクダサイ…。 嗚呼…貴方が私のような人間で御座いますならば、林に足を踏み入れ、直々に手を下しても良いのでしょう…脚を一本ずつ剥いでしまって、醜悪な私どもを亡き者にしてやってください…。 早々 * 化け物が息を潜めているように、生暖かい静寂の夜だった。芽吹いた花や草木を踏み、道を進んだ。 多少の疑惑が含有されていたのは確かである。自分を見失った人間というのはありふれているが、その容貌には、不気味なまでの怨恨が込められている。僕はそれについて、知的生命が持つ欲望から確認してみたかったのだ。 すると、林の奥から、音が聞こえたのだ。 ザ…ザ…。ガサ…ザザザ…。 * アア…ナゼ、イタイ…。 了

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邂逅

くたばった敵

ブラストがしわくちゃになった新聞紙を広げていると、ドアの方から威勢のいい声が聞こえてきた。 「マグナスの野郎が死んだ! ハレルヤ! ブラヴォ!」 レヴィは両手に酒瓶を抱えながら、どかどかと部屋に入り込んできた。黄ばみかけたシャツに負けないくらいの汚らしい笑みを浮かべ、高揚からか汗をかいている。 誰のことだと聞くと、彼はまたもや声を張り上げる。 「誰かって? あのマグナス・サンハネスだよ! 新聞にも載ってるさ。『あの有名なマグナス・サンハネス氏が、今朝癌に大敗を喫して死亡』だとな。いいかい友よ、あいつは俺の敵だ! そして、これによって俺の敵は、皆くたばって死んだ事になるんだ!」 レヴィの躍動っぷりは凄まじかった。勢いのまま汚い言葉を喚き散らかし、辺りには、祭事にて加減を失った暴徒のような熱気が加わっていた。 「神はいた! 俺がそれなのだ!」 唖然とするブラストをよそに、レヴィは新たなワインを注いだ。高貴な芳醇をぶち壊すように、口へと注いだのだ。もう彼を止められる人間はいない。そんな奴がいるとするなら、そいつは共同墓地とやらである。 「あいつは正真正銘のくそ野郎だった。俺を蹴飛ばして、殺して、財布を締め上げたんだ。数多あった時間はほとんどあいつとの無駄に消えた。そして、賢明なフランカも俺の元を離れ、富豪となったあの男の元に行ったさ。本当に頭の良い奴だったよ! 金があれば愛を磔にしても幸せなんだと気づいていたからな!」 四本目のワインが、たった今開けられた。 酔ったレヴィを落ち着かせるため、ブラストは彼を外に連れ出した。夜中の閑静な街を歩いて、何らかの啓示が見つかる事を密かに望んでいた。そうでないと、あの男の宴は四十九日ぶっ通しで続く事になるだろう。 閉まった店と、それに伴う炭の香りがした。そして、街の至る所ではまだ人がいた。 全員揃って黒い服を着ている。どこか鬱蒼とした様相が、あの男と対比化されるようだった。 至る所で、看板が『救世主の逝去』と掲げられている。 レヴィはばつが悪そうにしている。自分が嫌いである人間が、世間一般的に救世主とされていた事実に受け入れられないのだろう。 彼らは道を歩いて、そして、一人の人間を見つけた。 そこにいたのは、ぼろぼろの服を着た一人の女であった。 瞳が炯々としていて、今にも人殺しをしてしまいそうな風貌だ。そして、そこには落書きもあった。 『負け犬、フランカ・ジャクソン』 「フランカ…」 彼の様子は変わった。そこには、確かな驚きがあったのだ。 マグナスと共に消えたはずのフランカが、見るも無残な様相をしていたのだから。 「レヴィ…」 彼女も、どうやらこちらに気づいた様子だった。怨嗟が籠った、凄まじい瞳である。 話を要約すると、フランカは完全な漆黒であった。レヴィとの電話の裏で、彼はアジアの男と共に居た。レヴィとの夕飯を断り、金をばらまいてはキールを飲み耽っていた。 そして、そんな自身の様子にあのマグナスが気づいていたと彼女は言う。 「マグナスといれば、ずっと遊んで暮らせると思ったの。金だけはあったからね、あの太っちょ君は。だけど違かった。あの男、私に言うの。『お前はあいつに似合わない』ってね。私は事の全てを暴露され、今こうして生きている」 レヴィの様子に、冷水をかけられたかのような冷静が灯る。 そして数年後、ついにレヴィの元にも死神がやってきた。 暖かな春風が吹く、故人マグナスの誕生日だった。 病室の柔らかなベッドの上で、彼は最後の言葉を発し始めた。 「この数年間、俺には再び憎しみが生まれた。それは何より、俺に対する恨みだ。冷静さを失った行動で、死を早めたのだからな。それに、マグナスの事もそうだ。あいつは、あの女から俺を遠ざけようとしてくれた。それなのに、俺は奴を恨んだ。マグナスは突然の心不全によって死んだらしい。その時奴が飲んでいたのは、俺が好きなワインだったとも聞いた。どれだけ後悔した事か」 「俺達の一生は後悔によって管理されているんだ。本気を出せば、完全犯罪を成し遂げられる奴らによってだ」 彼は、痩せ細った体で苦しんでいた。そして、再び語り出す。 「ブラスト。俺はどこに逝くのだろうか」 僕は言った。 「天国だろうよ。後悔は、憎しみに耐えるために生まれた、ただの脱法行為なんだからさ」 レヴィは笑った。 そして、掠れる声で言う。 「奴が、地獄にいない事を願うばかりだ」 「…マグナス」 そして、レヴィは息を引き取った。 神様が、奴に謝罪の場を提供してくれる事を祈るばかりである。

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くたばった敵

第一回ノベリ川賞 げっこう

ある男が言いました。 「己による精神的な脅迫が、何よりの悪夢だ」 そいつは私の友人で、数年前に胸を痛めて亡くなった可哀想な奴です。年がら年中日傘を差して、太陽の光を嫌うヴァンパイアのような好青年だったのです。 世間一般で言えば、特殊な人間でした。 資産家の生まれで、たいそう裕福でしたから、なかなか贔屓されて育ったようなのです。髪の毛は女中によって手入れされ、坊ちゃんらしく襟締を施して、瞳には、貪欲な富豪の血が見て取れる、絵に描いたようなブルジョワ人間だったと聞きます。 それでも、身体的特徴と内面に関係はありませんでした。彼は果断に富んだ性格をしていて、嫌味たらしい愚人ではなく、むしろ楽観的で、理知的で、封建的な観点から見るなら常軌を逸した性分をしていました。だからこそ、友人になれたのでしょう。初の邂逅を果たしたのは、彼が隣に越してきた時分のことです。 ファースト・インプレッションは、常人のそれと異なりました。繰り返すようですが、彼は人というより吸血鬼に近い風貌をしておりましたから、私には、彼が西洋のジェントル・マンに見えて仕方がなかったのです。白い肌をしていて、頭には潔癖そうな帽子を深く被り、手には烏羽のように黒い傘を持っているのです。傘どころか、彼の全身が黒色なのでした。呂色の革靴、墨色のスラックス。漆黒のシャツは、肌を隠すように袖を下ろしておられました。煌々と照りつける太陽に反抗するように、月光下において真価を表す洒落た様をしていたのです。 街には、進学に合わせて単身でやって来たようでした。 彼は、私のことを“藤村君”と呼びました。無論、私の苗字は藤村ではありません。彼がこう呼ぶのには理由があり、それはとても単純な話になります。つまるところ、私の外見が“島崎藤村”に酷似していたからに他なりません。彼は文学や哲学を専攻する人間でありましたから、生命における根源的な弁術や、機知にも富んでいるわけです。 そんな彼に倣って、私も呼び名をつけてみたいと思いました。彼と違って浅知恵しかありませんが、便宜上必要だと感じたのです。 私は彼に、ブラムというあだ名を付けました。 私とブラムは、よく他愛のない話をして過ごします。彼の口調ぶりはやはり独特で、異常なまでの嗜好をお持ちなのでした。私はよく笑い、その度に彼は熱論を始めるのです。 「いやいや、笑い事ではないよ、藤村君。君が言いたいのは分かるがね、何も笑うことはないじゃないか。日陰に存在するものがそれにおける真、なのだよ。西洋の哲学者であるプラトンは、イデア論を誇らしげに語ったが、何もそんなに崇高な存在を挙げなくともいいのだ。太陽は醜悪な独裁者で、この太陽系は、僭主制を採用した独裁国家なのさ」 彼の話術には、宗教的な滑稽さがあります。 なんでも、彼の言う世界とは、暗黒のフィルターがかかっている日陰を意味するらしいのです。例えば、太陽に照らされた日中は全て海であり、明度の違いによって断絶されている区分が大陸であるらしいのです。ユニークで素晴らしいと、私はよく笑って聞き入れていたのです。 「それなら、太陽の下で人がばたばたと倒れるのは、ある種で溺れているのと同義なのかもしれないね」 「その通りだよ藤村君。君が理解してくれて嬉しい限りだ」 確かにこの時、彼という人間にとっての真実は、私にとっての猿楽も同然なのでした。 ですが時折、彼の不気味さが闇夜によって増長されるように感じます。あの晩は中秋の名月であって、彼にとっての唯一神である月光が、ブラムという一人のクリスチャンを洗脳する機会なのではないかと思います。 「陽光が怖い…憎い…。私達の爛漫な友愛を焼き焦がすのだ! あの光を浴びたら影が出る…太陽の加護を受けた悪の自我だ。気付かぬうちに俺達の心を鷲掴みにして、掻き回し、やがては取り込んでしまう! 人々が死ぬのは他ならぬ陽のせいだ! 奴らが俺達を取り込むために要する時間が寿命なのである!」 確かにこの時が多いのです、彼が狂うのは。 翌日の朝は、決まって陰惨な様相を醸し出しています。早朝になると、決まって彼の部屋からは泣き声が聞こえます。しくしくと、酒に焼けたような声を上げるのです。 「アア…コワイ…コワイ…」 飯を食って外へ出ると、彼も外へ出てきます。そして宣教師のように私へ法を説くのですから、私は決まって萎縮してしまいます。話しぶりには、平生の彼には似ない強情さがあるのです。 「藤村君…よく聞くのだ。あの光は、ナントカ戦争とも、侵略やセイフクとも違う。いいかい藤村君。君だけは、狂ってはいけない。私はどうも駄目そうでね。すっかり侵食しているわけさ。 己による精神的な脅迫が、何よりの悪夢だ」 それぎり、私と彼は疎遠気味になってしまいました。何も、不仲や意見の相違が原因ではありません。むしろ私の信条は彼によってねじ曲がり始めていました。外に出ることが、律法を犯しているような気さえしたのです。昼間は書見をして過ごし、夜に本格的な営みを開始するようになりました。 その間でも、彼の声だけは聞こえ続けていました。彼は何やら、ぶつぶつと唱えています。それは祈りの言葉であり、謀反者の懺悔であり、月光に魅せられた狂い言葉でありました。 そして半月後、私が深夜の散歩を終えて帰路を歩いていると、久方ぶりにブラムと邂逅を果たしたのです。明らかな目的があった私と違い、彼の動きには何らかに対して彷徨しているような感じがしました。容貌にも重篤な変化があり、骨が浮き出て、白い肌には青みがかかり、より吸血鬼に近づいているような気がします。 彼は一言、散歩かとだけ私に聞きました。私がそうだと返すと、彼はそうかと言って道を行きます。 私は、さらにもう一言気をつけてと放ち、寝不足によって少々ふらつく足でその場を後にしました。 これが彼との最後の会話でした。私がこの時、私自身が持つ善意によって我に返り、彼にとって都合の悪い助言を言えたなら、何かが変わっていたのかもしれません。如何せんその時の私も、何か夢魔のようなものの虜になっていたのですから、無理に等しかったのですけれども、あの場に誰か、近隣住民が居合わせていたならと、時折思ってしまいます。 もしくは、普段から私が彼の講義と真摯に向き合い、彼の意見に対して都合の良い発言をしながら、優しくて清らかな談判を与えてやれば、彼は狂わなかったのかもしれません。 本当に、後悔をしました。 翌日、私は朝の騒ぎで目覚めました。甲高い女の声と、慌ただしくどこかへ電話をする男の声がしました。私は寝巻きを正して立ち上がりました。 そしてどうしたものかと外に出てみると、団地の裏からブラムの硬直した体が見つかったと聞いたのです。 私は言葉を失いました。消失したのです。喉元まで昇ってきていた言葉は塵となり、出てきたのは意味を持たない叫びでした。 群衆をかき分けて、階段を駆け下りました。通路を侵害するご婦人をどかして、私立探偵を装う男の静止を振り切り前進しました。 飢えたブラムが、転がっていました。 彼はうつ伏せで倒れていました。そこは開けていて、太陽の光がこれでもかと降り注ぐ団地公園の一角でした。近くには赤いブランコがあり、滑り台があります。 ブラムはそこで、胸の部分をくり抜かれて倒れていました。 大きな穴ぼこがあって、そこには何もありません。くり抜かれたはずの物はどこにいったのか、その行方は未だに知れません。突然の犯罪によるものなのか、はたまた、この世界というものを否定する非人道的な何かによるものなのか。 どうしようもない力場が働き、空気に重みを感じました。 私は彼の瞳を閉じさせてあげようと、顔の方へ回り込みました。私はそこでようやく、彼の顔に狂気的なまでの微笑みが浮かんでいるのに気づいたのです。 「何が、精神的な脅迫だ。君という人間は、悪夢の中で生きているではないか」 私は、心地の悪い何かを覚えました。 後に知ったのは、彼の部屋を漁った警官が、箪笥の中から大量の薬瓶を発見したという僅かな事実です。形を保って存在していたのはそれだけで、他にあったのは、引き裂かれた数多の書物でした。どれもこれも赤が滲んでいて、苦しみを感じたそうです。 私はそれから、その団地から遠く離れた所に拠点を移し、そこで一人のお嬢さんを妻に迎え、幸せに暮らしています。無論、妻にはこのことを一度たりとも話しておりません。私も妻も、臆病なままで人生を終えるべきだと感じたからなのでした。 なので私は、ある夏の日にブラムを、名も知らぬ森林の奥深くに埋めてしまいました。 −了

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第一回ノベリ川賞 げっこう

蝶々

ある日を境に、私の周りで蝶が飛ぶようになった。 とても美しい一頭の蝶で、青を基調としたその外見には、品性を感じる光沢がある。一般的な虫に共通するあの薄気味悪さを、そいつには感じなかった。 歩く私の周りをひゅうひゅうと飛ぶ姿には、どこか毅然とした態度さえ感じられる。 だから私は蝶と共に歩いた。丘上の花畑を目指して、痛む足を押さえながら歩を進めた。蝶は私に合わせるように飛んでいる。歩幅を合わせて、まるで赤子を見守るかのようについてくる。何が目的なのか、検討もつかない。 トレーナーがまだ付きまとっているようで、少しだけ気味が悪かった。 私はもう、歩けるのだ。多少の不都合があっても、現在、脚は機能してくれるし、血が滲んでは乾くほどの努力もした。おかげで、他人の支えなしに歩くことができるのだ。 脚を殺してしまったことは、確かに反省している。だけど、どう足掻いたって、それはもう過去の話だ。 歩いていると、じきに様々な色彩が姿を現した。 そこは思い出の地。歩けない私と、古びた車椅子と、それを押す優しい掌。甘いシロップの香りに、焼き立てのパンケーキ。色とりどりの花々に、色とりどりの果物。くどいくらいの甘味が、一番の濃い思い出だった。涙ですら甘かったのだ。 “前を向きなさい。転んでしまう。君は、弱いんだから” “そうじゃないよ。ゆっくり、落ち着くんだ” 「父さん…」 バッグから出てくるのは、冷めたパンケーキだった。確かな甘さは、冷蔵庫に置き忘れたのだろうか。一口食べて、ため息をつく。 蝶もまた、ただ飛んでいるだけだった。花の蜜を貪るわけでもなく、私の肩に止まり、頬に翅を当てるように、付近を飛んでくる。くすぐったくて、悲しかった。 “及第点だな。まったく” 「父さん…。 私はもう、一人で歩けるから」 “子鹿だって、ましな足の使い方を知ってるだろうな” 「もう、大丈夫だから」 蝶は、私のバッグを漁るように翅を動かしていた。 バッグの中には、ラップで包んだ冷めたパンケーキと、少し前まで常用していた包帯。 そして、 血のついた、バタフライナイフ…。

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蝶々

ささえ

ちいさな断面に見える煌めきを頼りに 山を越え清げなる麓へやってきた 鉱夫のため息、よすがは普遍 びゅうびゅうと途絶えることのない風を頼りに 歩みをとめずやってきた 空を裂くてつぽうだまのように野を駆けて 唐傘が香り、日は西へ傾げる 暮れ行けば先客見えず 旅人たちは雲を見る 濁り酒をこくこくと減らし 遊子は雲が消えるのを待つ いずれ陽は昇り 轟々とそらは叫ぶ ありがとう我が天明よ おかげで私は前を向けるであろう 先人達が歩いた獣道を頼りに 萌える鬱金香に甘味を感じて歩こう 二相系を保つこの草原で断面を探し ささえをぷかぷかと揺らす

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ささえ

来訪者

カフェオレ戦争が始まる二週間前のこと。僕と、その飼い犬であるハニーパルは、ある雪国の田舎町に住んでいた。冬になると毎度の如く不便を被ったが、それ以外は割と良かった。日差しが窓から入ってくるし、無駄な物を削ぎ落としただけあって家賃もすこぶる安い。 僕とハニーは、喜んでそこを根城とした。 それでも、不便には分類されない不思議な要素があった。 この家にはなんと、屋根裏部屋に幽霊がいるのだ。 こんな時こそ警備員の役割なのだが、奴は不敵な笑みを浮かべて尻尾を振り続けている。介入は避けるように、僕の浮遊式ベッドを占領しては眠りこけている。人に関連した物は人間の管轄であり、それ以外こそ己の管轄だとするのが彼の信条であって、今回もその例に漏れず手出しを避けている。 毎夜の如くかたかたと音が聞こえてくる。薄気味悪いとは思わないが、だといっても原因を知れないのはいただけない。 そうしなければ、僕のベッドは返ってこないだろう。 進展があったのは数日経った夜のことだった。 ハニーがアップル・ミルクをぴちゃぴちゃとやり出した時のことだ。刻んだ林檎の果肉を低脂肪分のミルクに混ぜた、彼が好む御馳走である。 茶色の尻尾をフランス軍のサーベルみたく振っている彼の後ろ姿に、純白の何かが重なったのだ。 それがなんだったのかは、検討がつかない。 猫にしては品がない。怖気付くハニーパルを横目に、アップル・ミルクに食らいついていた。 狼にしては迫力がない。ハニーの尻尾を踏んずけて転んでいた。両手を大の字に広げた様を見て、僕は夏空の虫の死骸を連想した。 そうしてその幽霊君(もしくは“ちゃん”)は、戦利品を平らげると、満足したようにまた屋根裏に行き、作業部屋の窓に姿を見せて、雪の中に消えていった。 残されたのは、唖然とする僕と、毛の濃いその手で耳を抑える哀れなハニーパルだけだった。 今となっては、彼(もしくは“彼女”)の動向を知ることはできない。カフェオレ戦争の開幕と共に、僕らは撤退を余儀なくされたわけだから、奴も、中尉だとかでない限りは撤退したはずだ。 あの地域も戦乱の大舞台になったから、今となっては価よくどうぞとするわけにもいかない。したところで、普通の人間はあんな田舎には行きたがらないから結局は人つかずだ。 ハニーはあれ以来、林檎もミルクも嫌いになったらしい、極端に嫌悪する。克服させようと何度も試みたが、その度に彼は、バタつく足で後ずさりする。堂々と信念を掲げたくせして、なかなか落ちぶれたものだと思う。 幸いなことに、僕のベッドは帰ってきた。ビル・スティサム社製の反重力型浮遊ベッドは、地球に反抗心を抱く立派な寝具である。ハニーはもとのベッドに帰っていった。 そして現在、ハニーパルは死んだ。 事故によって足を痛め、そのまま立ち上がることなく死んでしまったのだ。 僕は、ハニーパルを、彼が大好きな雪の中に連れて行って、そこで看取った。 純白の獣として、彼は天へと旅立って行ったのだった。 参考:『夏への扉 ロバート・A・ハインライン』

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来訪者

飼い猫

あの男は、今朝からずっと寝ている。 にゃあと鳴いても反応しない。ぐうと唸るわけもなく、ひたすらぷうぷう寝ている。 人の眠りは長いと聞く。身につけた知能は偶然の賜物だというのに、奴らはそれを理由に威張ってみせる。鳥の爪に掴まれたり、大猫に食い殺されてしまうとは思っていないのだ。 嗄れた声がないと、この巣穴はやけに静かだ。奴がぷかぷかとさせていた煙はないのだから、部屋だけはやたらと澄んでいる。面長の台の上、小箱の中にある細長いこいつを使う奴は、今や床の中である。 そうなってしまえば、この俺を止める愚か者はいない。 巣穴を練り歩いて飯を探す。奴は俺の飯を神の如く管理する。監査官のように俺を見守り、何か不便があれば俺の尻を引っぱたく。人間は暴力的で、自尊心の獣で、過保護な猿だ。それでいてやけに弱い。少しばかり妖艶に振る舞えば、打って変わって従順になる。高らかに鳴いてやれば飯を寄越す。 数刻後、部屋には猿共が集まっていた。揃いも揃って烏のように黒い。俺の毛を真似ているとも見て取れる。お淑やかに黙りを決め込んで、時折しくしくと声を上げて鳴く。道化師のペテン同然である。猫に対する冒涜であり、最大限の愚弄だ。あの愚かな男の、交友関係における管理能力の責任が求められる。 俺は耳を滾らせ、あの男の寝床に向かって走っていった。 それでもあの男は、寝息も立てずにのうのうと寝ていた。白い布切れを顔に被り、偉そうにぽくぽくとやっていたのである。

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飼い猫

人ニナル

アノトキハゴメント、ヒトリ呟ク声ガシタ。 ソノ意味ヲ汲ミ取ロウトシテ、ボクハ明日モ生キルト決メタ。 泣イテモイイノダト、ボクハ笑ッタ。雨ノ日モ、大嵐ノ日モソウヤッテイタ。 モウモウト滾ルコノ思ヒヲ、蔑ロニシテシマワナイヨウニ。 雨ノ日ハ、負ケルコトヲ厭ワナカッタ。 風ノ日ハ、負ケテハダメダトオノレヲ鼓舞シタ。 雪ヤ夏ノ暑サナンテ、コノ思ヒガ胸ニアレバ乗リ越エラレル。 世界ガ終ワロウト、テンペンチィガ起コロウト、ワタシハワタシデアリタイ。 ボクニ恋スルコノオノレガ、ワタシハ好キナノダッタ。 アア、天ノ国ヲ統治スル神ヨ、人デアルコトヲオ許シクダサイ。 アア、御仏ヨ、空ノ中ニ、愛情ヲ込メルコトヲオ許シクダサイ。 儚イボクタチハ、弱イノデアッタ。不遜デ、愚カデ、ドウシヨウモナクネガティヴデ、輪廻ヲグルグルト、哀レニ孕ンデイル。 ダケド、悲観シテハイケナイノダ。 隣ヲ歩クぼくガイル。手ヲ繋グわたしガイル。ソレラガケッシテナクトモ、自然ハ朽チナイノデ、ワレハ玄米デ喉ヲ潤スノダ。 雨ノアトノ虹、大嵐ノアトノ太陽。 吹雪ノアトノ夜明ケハ美シイ。 夏ノ暑サヨ、生命ノ冬ハマダ来ナイ。 大丈夫ダト笑イ、苦難ノ道ヲ行キ、ソレデモ折レナイココロヲ握ル。イツダッテ独リ腰ヲ下ロシ、ソノ先デヒソカニ笑ッテイル。ソシテ、ソノ中ニハ確カナ愛ヲ持ッテイル。 サウイフモノニ ワタシハナリタイ 参考:『雨ニモマケズ 宮沢賢治』

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人ニナル