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フォロバしますが、投稿しなくなったら外します。 11.4 ~

火竜

窓を滴る雨を見て、テレビ中継で見た何かを思い出した。大勢の人が、こぞって拝んでいる。一つの方角なんかに。 「吸わせてよ」 差し出された煙草を手に、どうしたものかと私は悩んだ。 「吸わせてくれるんだ」 「他人の健康なんて、知ったこっちゃないし」彼は笑った。 熱気の籠った布団を抜け出し、悠々と立ち上がる。背を伸ばして眠気を打ち払い、キッチンへと向かう。一つ一つの動作の中に、夢魔はまだ居座っている。だから、蛇口に口をつけて水を飲んだ。誰だって気にしない。私も彼も、品位なんて目に見えない価値は大抵気にしないし、気にするような奴らは皆死んだ。 よく分からない実態を持つモンスター。いわゆるそんな存在が現れたとしても、人は呑気に日々を過ごしている。 二月二十二日、午後二時二十二分二十二秒。そして、世界が変わってから二回目の第二月曜日。こうやって、世界が重なっていくのを観測するのは楽しい。 「今日は月曜」 しかし、どれだけ時が進もうと、月曜日が持つ陰鬱さは変わらない。なんやかんや秩序を保っていた過去も、それからこうも変わってしまった現在も、耐え難い力を持っている。憎たらしさを通り越して、愛着すらも感じさせるのだった。 目玉焼きを焼いて、隣にウインナーと、黄身の上に、祖母からもらったパセリを散らす。ベーコンはもうない。だからといって、豚の動向を探るつもりはないが。 「コンビニの方で出たってよ。今日は、外に出るのよそう」 「最近多いね」ここ最近、朝の話題は変わらない。 政府が言うには、地球外生命体、らしい。少し前に飛来した隕石が、卵の殻みたいに割れて、中からごそごそとそいつが這い出てきたというのが、今できる一応の説明になるらしい。そんなことを言われたって、どうしろというのだ。政府からの説明はない。彼らもお手上げなのだ。 どうしていいかわからない私たちは、以前と変わらない生活を送るしかない。ということで、外では未だに漫才の公演は行われているし、注意報が出なかった地域では、幼稚園も機能している。私の娘は、毅然として通園し続けている。この状況下においては、子供の芯の強さに脱帽してしまう。 良い比喩が思いつかない。恐ろしいモンスターの物理的な影響力よりも、それに感化された、私たちの勝手な精神力の方が大きい。 よくわからない新興宗教が蟻の巣みたいにできあがって、消滅したり、他と合併したりを繰り広げている。某宗教の、カトリックとプロテスタントみたいな、そのような感じに似ている。似ていないとも言える。生贄が全てですとか、みんなで謝れば帰っていきますよとか、これまた勝手なことばっかり言って、勝手に楽しく生きている。やっぱり、どこまでも自分至上主義だ。 その面で言えば、何も変わっていないのかもしれない。 「まあ、好きにやれば良いと思うよ。何したって、どうせ百年後にはきっちり全員死ぬんだ」 信仰事情に対して彼は淡白だ。一週間前に居候を始めてからこの調子を崩さない。素性不明の男にしては、どこか割り切れていて好感が持てる。仏壇の写真を眺めながら十字架を切るその姿は、一般常識を携えているとは思えないが、今年で五歳になる娘は気に入っているので良いのだろう。 かなり髪が伸びている。髪を切りに行こうにも、どこも店はやっていない。顔馴染みの叔父さんが店を閉めてから、この街から床屋は消えた。その内、ホラー映画の幽霊みたいになるだろう。 雨は止む気配がない。強まる気配もない。それが通常ですと言わんばかりに継続している。薄暗い通りは水玉模様みたいに傘が並んでいた。窓から景色を拝んでいると、果たして、私たちは本当に危機的状況にあるのかと疑問に思うことがある。それに、たかだか一匹程度の魔物がいたところでどう変わるというのだろう。巣穴なんかで眠らせておけば無害だ。餌だって用意できるかもしれない。それこそ、豚とか。 「飛んでったってよ、日本海の方に」 彼の方に向き直り、何の意味も持たないため息を吐いて言う。 「私だって、日本海行きたいよ」 それから三十分後くらいに、娘は帰ってきた。叔父さんと手を繋ぎながら玄関に入り、開口一番に言い放ったのは、代わり映えのない、ただいまだった。 おかえりと返し、年季の入った叔父さんと世間話をする。ここまでが、機械化されたように無機質な、一つのルーチンだ。それが終わると、叔父は居間に腰を落ち着けて、いつもだったら頃合を見計らって帰っていく。 「今度、飯にでも。奢るからさ」 「是非とも」 叔父さんも、彼を気に入っている。 丁寧に衣をつけて、油に放り込む。衣を乱雑につけて、油にそっと落とす。単純な動作を繰り返しながら、ニュースに耳をやる。 どこの番組でも、この不思議な現状を、ポストモダン的な特異点だと呼んでいた。頭の良さそうなコメンテーターが顎を握り、脂が目立つ額を浮かばせて話している。ポストモダンというよりは混沌だ。ロボットの大群から逃げた先に謎のモンスターがいるなど、それは古典的ではない。ただのファンタジーである。刀を振り回す侍より、光を放つ魔法使いが似合う。 「これじゃペテンだ」酔った叔父は言う。酒癖がとても悪い男だ。 「不細工な身なりしやがって」彼も酔いながら同調する。 「しやがって」娘も援護射撃を放つ。 いつの間にか、雨は止んでいた。その分、とても暗かった。白熱灯は随分前に切れたのに、誰も買いに行こうとしない。暗闇がやけに心地良いからなのかもしれないし、こっそり隠し事をしているのかもしれない。誰も買いに行かないから、各々がスマホの照明をつけて当座を凌いでいる。無論、娘はきゃっきゃと笑うだけだ。五歳に携帯は猫に小判だと、叔父が言っていたから。 「里香、今日は満月だって」 「今行くから」エプロンを解いて、大きく背伸びをする。 各々が好きな物を持ってきて、ベランダで宴を開く。彼はいつもの煙草で、私はバーボンだった。二人揃って不健康だと馬鹿にされるが、私だって、健康ばかり気にして、好きな事をしないのはどうかと思う。 「なんとか乗り切ったね、今日を」彼は笑う。 バーボンを含んで、飲み込む。冬の澄みきった空気の下で、浄化されるような感じだった。善悪を様々に経験した今が、人生で一番綺麗に違いない。 屋内で騒ぐ叔父さんと娘の声を聞きながら、白い息を漏らし、寒気に傾倒するように瞳を閉じる。 街に明かりはあった。隣家はもう眠りについたのだろう。遠くに見えるアパートは、まだ綺麗な光を放っている。この家も負けじと輝いて、それでも薄汚いと私は笑う。 薄汚いのには確かに理由があって、それを口にするのは躊躇われるので吐露しない。それが、唯一持っている美徳だから。だが、その我慢は続かない。 「浮かない顔してるね」彼は言う。 「少し、思ったの」私も言う。 「私たちって、勝手に驚いて、勝手に死んでしまうんだなって。どうしようもない事柄にまで怯えていても意味なんてないのに、どうしても止められない。どうしようもできないのに、そんなことばかりに考えがいって、最近楽しくないというか」 「弱気だね」彼は笑う。何度目かもわからないほどに。 楽しいことはあっても、それで心は埋まらない。穴が空いて底を突き破ってしまったみたいに、幸せは溜まっていかない。無数の点があって、それを繋ぐ線はない。中庸という言葉が浮かんだが、そんなに綺麗なものでもない。 「忘れたらいいさ」素っ気なしに彼は囁いた。 「どうせ、百年後にはきっちり全員死ぬんだ。俺は他人の考えに口出ししたくないし、そもそも興味ない。煙草を浮かべていれば幸せさ」こちらを向いて、彼は続ける。 「俺の信条その一。他人は他人任せ。その二、自分は自分任せ。その三、気に入らないことは全部ぶっ飛ばせ」 大きな声で笑う彼を見る。その声に感化されたように、周囲から軽いざわめきが聞こえた。だがそれを気にする様子もなく、こちらを向き、にんまりと笑い先を続ける。 「それくらいでいいんだよ。くそったれな人生なんて。それに、豚よりはましさ、人の方が」彼は笑う。なぜだか名前を忘れていた。 夜空を見上げても、満天の星は見えなかった。あいにくの曇り空で、月も薄ぼんやりと見えるだけ。そんな日もあるかと思いつつ、グラスを傾ける。 「あ」彼の声がして、その方を向く。 「どうしたの」 「あれ」 煙を立ち上らせる煙草を持った手が、遥か彼方の天空を指さしている。その先に、その暗闇の中に、微かに見えた。 なるほど、コメンテーターは本当に全てを間違えていたのだ。 揺れ動く翼膜。闇の中から時折見えるその翼は薄い茶色で、赤い鱗がそれを覆っている。相当大きいのだろう。家の一体が影になって、その影も家の中に侵入し、翼を動かしている。各国に記録を残した賢者も、この景色を経験したのだろう。形容し難い羽ばたきのリズムを持っていて、目を離せない。 それは鳥ではなかった。鋭利な刃物を足の先に携えていて、闇夜に煌めいて美しい。現代的な風景からは逸脱していた。 「これは、壮観だな」 「かっこいい」いつの間にか、屋内にいた二人が横にいた。 縦横無尽に空を駆け回り、高く昇ったと思えば急降下し、我が家の屋根を掠めていく。その時、私は確かに見た。鋭い眼光が、優しげにこちらへ向けられていたのを。 そしてその魔物は、勢いよく空を駆け上がり、停止したかと思えば、月に向かって轟くように叫んだ。 鮮やかな赤とオレンジが噴き出して、空中を彩る。星でも花火でもない。誰だって黒焦げにしてしまう危険な美しさ。 轟音で耳を痛めても、ここまで伝わってくる熱気も、全てが演目の一環に過ぎない。私は恐怖していた。だがそれ以上に、息をしていた。退屈な世界で輝くルビーに、魅了されていたのだ。 世界は一つだった。仮にそうじゃなかったとしても、この街は繋がっていた。誰もが空を見上げて、爽快に暴れるモンスターを観戦していた。姿を誇示しているだけかもしれない。それで良いのだ。だって、こんなにも気が晴れるのだから。 巨大な火球が放たれて、空き地に捨てられていたオフロード車に直撃する。民衆は恐怖せず、歓声を上げた。どろどろと鉄板が溶解して、泡を立てて黒に染まっていく。停滞して面白みの欠片もない世界への、人類の総意であるというように。ぬかるんだ大地を乾かして、整えてくれているように。 轟音の中に混じる、微かな幸せの灯火。 こんな世界で、誰が退屈できるというのだ。 大きく背伸びをし、左右に上半身を曲げ、骨を鳴らす。 暗澹たる夢魔は、やっとのことで、私の体から退散していくのだった。

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火竜

Sigmund

何気なしに、豆を皿に並べた。運命の悪戯だと仮定しても、そこにどのような意図があるのか、私には分からない。 五十七粒。グロタンディーク素数だな、とか思いつつ、気兼ねなしに、十九粒程タッパーへと戻した。無意識に、かといって、無意識だという意識はある。無意識的意識みたいな。中枢だと言い張る脳髄は、案外ポンコツである。 「検知しました」 「スタンド・バイ」 可愛げのある声で無意識を数える意識には、“サマンサ”という名前がある。彼女に与えられている役割は監査官に違いない。脳は芋づる式の構造をしている。私を制御する左脳。『私を制御する左脳』を制御する左脳。地平線の彼方を走る電車のように、一直線に奥行きを持っている。 彼女の役割はただ二つ。第一に我が脳髄の監視。第二に、無意識の撃退という名目で行われる、我が脳髄への一撃。微細な打撲のように感じられる。それは痛みであり、愛の鞭ではない。 発声器官をつけたのは、仕事ぶりに対する恩情でも、私の可愛くない寂しがり屋な性格に由来する意志でもない。中枢という階級を持ちながら、他人の頭に鞭打つぐらいしか仕事がないのはどうなのかと、私なりに疑問に思う所があったからだ。反乱を起こされても困る。止まる事を知らない暴力である。無論、平生の場合は対処できるが、相手が目に見えない程微細な脳髄となればたまった物ではない。それに、彼女は愛人ではない。親交のない女を引っかけて遊ぶ趣味など、私が持ち合わせているはずがないのだ。 だからこそ、最近の私と緊張は、隣り合わせの仲にある。 ナイフの背を使い、フォークで豆を刺す。この至極単純な動作の中で、どう切り出そうかと私は焦っていた。ある数学者のニューロンから作り出されたサマンサだからこそ、数学はお気に召さないようだ。彼女のグロタンディークに対する評価は、目に見えずとも低い事がわかる。私としても、グロタンディークについては、五十七を素数だと言い張る気概しか知らない。 茶色の机に浮かぶ大皿とナイフ。年老いたフォークと、傾きかけた椅子。口元にフォークを運び、豆を二粒、咀嚼する。 「ひよこ豆は、お嫌いですかな」苦し紛れの一言である。 案の定、反応はない。時折、この女がどんな姿をしているのだと考える事がある。意図的に無視をする様からブロンドの若い姿を思い起こす。私の趣味趣向の露呈とはまた違う。単なる妄想に過ぎない。サマンサの存在も、傍から見れば妄想の一部に見え、私が何か優れない病気の患者に見られる事が多い。だが、それは否定する事ができる。私には確かな記憶がある。巨額の富を手放し、毛根に端末を植え付け、頭皮に埋めて脳に接続した記憶が。 「あなたにも、空腹という感覚はあるのですか」 返答は来ない。返答こそが欠けている唯一のピースに過ぎないというのに。私の理性を証明する手段はそれしかない。 サマンサを雇ったのは、単なる好奇心に過ぎなかった。私はフロイト派でも、ユング派でもないが、無意識には人並みに興味があった。それが及ぼす身体的な拘束には、目を見張る程の脅威が含有されている。 知的活動から離れてしまう。無意識には、人が無視しきれない影響力と、抗うには無謀が過ぎる程の圧倒的な力があるのだ。 「検知しました」 「ヒット」 こうして、私は間違いを犯していく。 震える視界の中で、時針が揺れていた。 私のサマンサは博学才穎で、人類史に名を残す偉大な数学者であった。 彼女は数学に愛されていた。流れる素数は曲線を描き、彼女の身体を模写した。私は恋をして、その得体の知れない愛を、科学で表現した。 一方で、彼女は私に応えてくれなかった。サマンサは異様な女であった。完全数と同衾するような女であった。その艶かしく危なげな頭脳で、関数と接吻をするような女であった。私のサマンサがひよこ豆を嫌うのは、そのためだろうかと思う。彼女は数学を愛していた。 そして、彼女は死んだ。そのブロンドの髪は朽ちて綻び、私だけが残った。私は努力した。繊細で儚い、一抹のニューロンの採取に成功したからだ。彼女は努力をしなかった。結果を伴わない努力など、ありはしない。そんな物は、ただの悪足掻きだからだ。 私のサマンサは、不意の失態によって没落した。彼女は健康だった。それなのに死んだのは、彼女の無意識が、彼女の長寿を潔しとしなかったからだ。 私は、彼女が憎くて仕方なかった。 「検知しました」 そんな彼女に、私は死ねないように管理されている。 豆を喉に詰まらせる事も、理性の管轄外の最中で、ナイフで喉を掻っ切ろうとする事もなくなった。衝動は機能しなくなった。そして、私に最大限の命を授けた。果たして、これが彼女の望んだ事なのか、私には分からない。私は、小綺麗な数字群ではないのに。 グロタンディーク素数。偉大な数学者であるアレクサンドル・グロタンディークが、講演中に、五十七という数字を素数として挙げた。学生は彼の偉大な経歴に目が眩み、その間違いを指摘する事ができず、結果として彼は、他者に向けて、嘲笑の隙を与えてしまった。 私のサマンサは、間違いなくそれを好いていた。 「検知しました」 揶揄の隙を見せる可愛げだろうか。それとも単に、数学者としての権威なのだろうか。私に知る余地はなかった。常に流れる川の前線が分からないように、理解を挟む所はないのだった。 私の手元には、弾丸が込められたそれがあった。 私は、無意識にそれを持ち上げて、こめかみに銃口を構えた。 無意識は、検知されなかった。この癲狂院のように劣悪な環境によって、私は変わってしまった。些細な打撲は形を変え、より巧妙な性質を持って我が脳髄を刺激していた。この際、これはただの妄想ですと宣告された所で、何が変わると言うのか。 豆は、片付けた物を含めれば五十七粒ある。三粒ずつ食べたとして、十九回も繰り返せば全て消える。なぜなら、その数字はただの奇数で、神にも悪魔にもなりえないからだ。 悪魔は、私のサマンサだ。 「検知しました」 彼女の声が響いた。私の精神を阻害し、淘汰し、それでも殺してはくれない囁きだ。 豆はとうの昔に腐っていた。私はそれを知っていながらも、噛み潰し、飲み込んだ。最初から狂っていたのだ。努力をしていたというのも勘違いだ。これも妄想に違いないのだ。 「検知しました」 私は死ねないだろう。この先だって、仮に時間遡行が可能だとしても、そうしようとする衝動をサマンサが感じ取って、無意識だと決めつけて私に一撃を入れるだろう。 部屋一体が闇に溶けていくのを感じた。それは腐食に近い。例え私が正気だろうと変わらないだろう。これは実際に起こっているのだから。私を連れ戻す気なのだ。 「検知しました」 混濁の中に光が見える。グロタンディーク、君の間違いは、私をここまで虚仮にするのか。 机が揺れ、そのまま大地に消えていった。 私のニューロン、私の意識、私の無意識、私の命。 全て夢だったというのか。 「あなたはもう、死んだのよ」 「ヒット」

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 Sigmund

モルテ

ロレンスは、冬の爽快な空気と、喪中のように辛気臭い感傷に浸っていた。夜も深まり、神の御加護から最も遠ざかる、ある夜更けの事である。 モンタギュー家とキャピュレット家の惨事から時は流れたが、心を蝕む溝は、日に日に増していくのだった。それは例えば、主なき子犬や、飢えた子供の姿を、脳裏に思い出す事と同義であった。それだけではない。その事件は、己の無責任な善意によって成り立っているのだと、一種の不快で御し難い感情も孕んでいるのだった。 私は本当に善行をしたのかと、焦燥が、ロレンスの身を痛々しい程に蝕んでいた。私はただの、感化しがたい厄介な世話焼きでしかないのではと、それは嘲笑に近しい性質を帯びており、愚直な彼の心に、明確な一撃を与えるには十分だった。 蝋燭が灯り、仲間はパンを噛み締め、ワインでそれを流し込む。 ロレンスも、できることなら、この罪の意識さえ一緒に流してしまえればどれほど良かっただろうかと、己の境遇を恨んだ。だが、その彼の意志に反して、喉は食事を受け入れられず、ただ諦めたい衝動に駆られていた。 そうして、彼の脚は、ある場所に向かっていた。 重い足取りで向かった先は、紛れもない、単なる告解室に過ぎなかった。が、普段の時分と違い、彼は、赦しを与える司祭としてではなく、許しを求めて縋る信者として訪れたのだった。 確かに、彼は熱心なクリスチャンだったが、同じくして、臆病で虚弱な信仰心の持ち主だったのだ。彼の心は、弁護できない何物かによって、揺れ動いていた。 「誰か、いないか」ロレンスは言った。 「誰も、いないか」ロレンスは息を漏らした。 彼が、その静けさの中パンを口にしようとすると、後ろから、静寂を破るように靴音が聞こえた。硬い床を踏みしめ道をやってくるのは、紛れもない、キャピュレット。恋情の果ての悲劇によって死んだ、あの麗しい女性の父親である。 やがて先に、キャピュレットが口を開いた。 「全て終わった。健康な先人たちに倣い、懺悔でもしてやろうかと思ってね」 その瞳、その顔付きには、確かな疲労が現れていた。苦虫を噛み潰したのが道化師であったかのように、実に耽美的な苦笑も、ロレンスは見逃さなかった。苦し紛れの反抗なのか、胸の内に秘める計画なのか、それさえ知る由はなかったが。 「お聞きしましょう」快活を装って、ロレンスは言った。 外では、既に草木もが静まり返っていた。 外界から遮断された、小さな告解室にて、限りなく静かな懺悔は行われた。しかしながら、仕切りを挟んだ関係は、赦す者と、赦される者ではなかった。赦して欲しいのは私の方だと、ロレンスは確かに思っていたのだろう。蓄えた髭を無意識に舐めながら、ロレンスの苦悩の瞳は、格子の網目を見つめていた。 「私は娘を殺そうとしました。不潔で、精神的な死を与えようとしました。私自身の身体は、それを無意識だとか、繁栄の為の礎に過ぎないだとか言って、確かに逃れようとしていました。欲望に支配された我が心、そして身体を、お赦しください」 「私の犯した罪と、これからの不幸から、お守りください。アーメン」 子を亡くした親の懺悔を耳にしながら、ロレンスの本能は、自分自身に対しての懺悔で一杯だった。畢竟彼は、誠実な司祭ではなかった。眼前の信者を前に、心中で思うのは、己における焦りに違いがなかった。 告白が終わったと見えて、ロレンスは、何も宿らない、淡白な赦罪詞を放った。 「私は、父と子と精霊の御名において、貴方の罪を赦します」 仕事を終え、そして宿命を終えた二人の信者は、告解室を去り、長い廊下を歩き、窓の外を行く雨滴の数々を見た。やがて教会堂の入口が見え、二人は話す。 「君には迷惑をかけた。私の娘と、モンタギューの子息。私が謝罪しよう」 「誰であろうと、負い目を感じる時はあります。違いが生まれるのはその後の行動です。貴方やモンタギュー家の皆様に、幸のある未来を、お祈りいたしましょう」 「ありがとう」 外套を羽織り、キャピュレットは立ち去ろうとする。 だが、外気に沈み込む直前に振り返り、ロレンスを見て、その男は言った。 「君も、何かあったなら、私や、モンタギューに言うといい。対応させよう」 「ありがとうございます」 ポケットを整えるふりをしながら、確かにそこにある膨らみを見る。それは聖餅ではない、ただのパンに過ぎなかった。食される事もなく、ポケットの中で眠っている。 「随分追い込まれていると見える。食事は十分に、な」 「いえ、いいのですよ」 雨はしとしと降り続け、それは、天に昇った何者かの涙だと、ロレンスにはそう見えて仕方がなかった。 翌日、ロレンスは再び告解室に赴き、今度こそはと声を出した、 「誰か、いないか」か細い声が、やけに響いた。 「誰も、いないか」外では、もう既に雨は止んでいた。 ロレンスは告解室の扉を開け、そこにある椅子に腰かけた。前傾姿勢になり、軽く息をつく。格子の向こうに人はいなかった。今度こそは、彼はただの信者に過ぎず、今度こそは、自分の為の行動に出るのだった。 「嗚呼、神よ。私の薄汚い信仰心を、赦したまえ」 ロレンスは、最後にもう一度、周囲に誰もいない事を確認し、その小さなパンの欠片を手に取った。 そして、それを食み、含まれている赦しの毒によって、永劫の眠りについたのである。 悲劇の主人公である二人の男女が、作為的かつ運命的な破滅のせいで死んだのに対し、この一人の修道士は、錯綜した己の一撃によって、人生の路頭に坐したのだった。

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モルテ

玉輪

本が読めなくなった。その代わりと言ってはなんだが、月を見上げるようになっていた。 煙草を吹かして煙を空に昇らせれば、死んだ叔父や叔母が俺を認めてくれるだろうという浅はかな思惑は確かにあった。だが、実際にそれ以上の割合を占めていたのは、何物にも染まることのない曇り夜のような空虚の黒色だった。 いつ振り返っても、天邪鬼で生意気な人生を歩んでいると結論付けるだろう。 学生の頃は、学校でアメリカ英語を習いながら、家や図書館ではイギリス英語を好んでいた。その些細な抵抗に意味はないと分かっていた。それでも体は“ヒー・カント”と言っていた。俺は、普通であることを潔しとしなかった。できなかったのだ。 こうして大人になった後も、過去を掘り起こして懺悔することがこの上ない幸福であるかのように人生は続く。この先も、何度だって時間遡行の果てにあるアンニュイを探すのだ。 肌寒い風が止み、むせ返るような香りが垂直に昇っていく。 「この夜空は、君ら人間の悲しみが原因なのかもね。太陽を追い出すくせに、他人行儀みたく落ち込むんだ」 艶の良い耳をぴんと立てながら、“ワイルド”は目を光らせ、審査員のようにこちらを見る。老いぼれたベランダ窓から身を乗り出し、過酷な外界と相対して身をぶるりと震わせる。そんな姿だけが猫に違いなかった。文学みたいな口ぶりが面白くて、アイルランドの詩人である“オスカー・ワイルド”からとって、ワイルドと名付けた。梨のダンボール出身の三歳である。 「飯はもう食ったろ」 「覚えてないね」小さな体に見合わない、大きな欠伸をしている。 俺と彼の生い立ちについて語っても良いが、数億と惚気話を続ける羽目に陥ってしまうので遠慮させていただく。酔っ払って葦の群生地にダイブした拍子に見つけたダンボール。偶然にも生きていた子猫。天文学的な確率の末に声帯を取得していた。奇跡がミルフィーユみたいに層を作って、似合わない食べ応えを持っている。頭の悪い邂逅は、いつまで経っても覚えている。 「小僧、謀ったな」酔っ払った俺は言った。 「二年の拘束で、勘弁してやる」猫の声は、思いのほかダンディであった。それさえ了承してもらえれば良い。 テーブル上の皿から、器用に鮪の切れ端を奪い取る。生意気な雄猫はゆっくりと音を立ててそれを咀嚼し、何食わぬ顔で淡白な赤身を食い尽くす。義務であるかのように続ける。満足したあたりでこちらを向き、勝ち誇ったように口元を舐めて、鳴く。 「人間は欲張りだ。死ぬその瞬間まで、さらなる良物を求める。どうせ、群れの長にはなれないのに」 長になりたいとは思っていない。ただ、自分自身にそれぐらいの自信を持ちたいだけなんだと言いたい。けれど、俺はその言葉を知らなかった。 よほど美味かったのだろう。彼の鳴き声には若干の甘美な響きがある。 酒を煽るように水をぴちゃぴちゃやりだし、かと思えばこっちを見て気味悪い顔をする。一般的に猫は無表情寄りの生物であるとされる。だからこそ、口元に角度をつけられると困惑する。 ふと思いついた疑問があった。人間には答えられないであろう疑問を猫にぶつける。それが可能な猫の存在に喜びつつ、順当に投げかける。 「君は、生きてて楽しいの」 ワイルド。またの名をオスカー。猫は毅然と言った。 「楽しいも何も、生きることに意味はないだろう。崇高な意味を持つのは、あくまでもイベントの方だ。筏に綺麗もくそもない。筏を動かす時に見える水面。そこに鯨がいるから綺麗なのであって、鮫がいるから怖いのであって、乗っている筏そのものに意味を求めるのは愚問さ」 「怖いな、君は」 一段と寒風が吹いて、煙草の煙が角度をつけていく。俺はあとになってから、この時にまた昔の記憶を食い漁っていたのだと気づいたのだった。 月はやけに綺麗で、まさに“玉輪”と呼ぶに相応しいものだったのだ。言い訳がましくなってしまうが、月光の持つ狂気的な力に抑え込まれて、俺は軽めのヒステリックを起こしていたのかもしれない。 ワイルドの言葉には救われた。的を得ているようで、その内容を他人に伝えようとしない。無駄な表現を乱用して詩人みたいにべらべらと喋る。そんなさまが、俺に同情していないように見えて好ましかった。 彼の威厳は夜が深まると共に落ちてきていて、人間に懐柔してしまったかのように布団から動かない。彼専用にこしらえた二つの枕に身体を挟み込み、いびきをかきながら寝ている。喋ることも減ってきた。時たまうなされたように返事を寄越すだけになった。 少なからず、それが今だけは心地良かった。 俺はベランダ窓を閉めて、ワイルドの隣に腰かけ、何度目かになる積読本の繊細で柔らかい頁をめくった。 相も変わらず活字は目に入らない。ただ、風のように散っていくのだった。

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玉輪

ふうせん

ふうせん 海岸を行く足跡の果てで ちいさなちいさなふうせんをうちあげた それはそれは大きな夢を抱えて はるかうちゅうのはてまでのぼっていった 麦わら帽子を解いて 溜まった美醜の記憶を絞り出した 古臭い砂塵をふるいにかけて 宝石のように輝く雫を探した なみだをすくうきんのさじをさがして うつろをうめるぎんのゆめをもとめて とおいとほいぎんがのはてへ かのじょはとんでいってしまつたから ぷかぷかと ぷかぷかと ふうせんは かのじょをおいかけていつたから

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Okonomiyaki

地球外生命体について考える夜は、思いのほか有意義であると知られている。 夜空を海に見立てて、そこに宇宙船を浮かべてみる。乗組員は無難に宇宙人だとして、人間的な感性で造形について思考を繰り広げるのだ。 触手なんか生やしても良い。仮になかったとしても、はいそうですかと一蹴してしまえば良い話で、別に問題はない。だが、未確認の存在について人の理性を働かせるのはなかなか英断だとは言い難く、だからといってどうすれば良いのだと、大して役に立たない苦言を呈してみたりするのが世の常であり、宇宙センター何某の方でも苦戦を強いられている。現在の人間に似ているとするのは己への過信を露呈する結果となり、明治時代の方にヒントがあるのだと言うのもやはり人間で、お忍びで旅行を楽しむ宇宙人を探し当てる術も知らず、事態は右に左に、縦に斜めにと彷徨し、一層の困難を極めている。 つまるところ、無駄な事はやめて憶測を広げろというのが宇宙人からのメッセージだと言って差し支えない。 世界に宇宙人が存在しているのは紛れもない事実で、各地を放浪している。強盗紛いの所業を繰り返して生計を稼ぎ、それにしては穏やかな性分をしていると話題にはならない。例えば、ある種族は適応に重きを置いている。土星の周囲を漂うエピメテウス環は粒子で構成されている。そこにしれっと参戦してみたり、あるいは地球に赴き、お好み焼きに矢鱈と拘ってみたりと、その土地に根付いた文化にひっそりと寄生し、そして模倣する。全うした時においてのみ、塵とか人間だと認められる。 赤の他人を全て人間だと決めつけるのはどうなのか。僕はそう言いたい。それならば、お前は焦げたベーコンよろしく周囲に噛み付くのかと言われる。そういう訳ではない。ただ、宇宙人には地球外生命体らしい応対をすべきなのではないかという事である。 例えば今、僕の目の前には前述の通り宇宙人がいる。 赤椎茸族の一種に違いなく、なぜそんな事を知っているのだという疑問に対応して、幼少期に描いた宇宙人の絵が浮かんでくる。ベニテングタケみたいな。 「一枚ください」 赤椎茸族は、己が宇宙人として扱われるのを阻止するために奔走する。異邦人扱いされるのを極端に嫌う性質は、彼らに圧倒的な模倣能力を授けた。あなたは宇宙人ですか、という質問はあまりにも愚直で、奴らはただ、その瞳に困惑を滲ませるだけで発覚の危険を大方回避できる。幸いな事に、現状、その能力が世界情勢を揺らすような大事に使われた実績はなく、せいぜい鉄板の上で粉物を踊らせる程度に収まっている。 「一枚ね」 人とも機械ともつかない絶妙な訛りが、場の空気に溶け込む。 往来を行き交う人、或いは未確認生命体。皆一様に腕を揺らしながら歩き、先を急いでいる。山査子飴を思わせる甘い香りを漂わせたり、何かを話していたり、隣を歩く同族を小突いてみたりと多種多様に映り、地球なのだなと思う。 だからこそ、思考を広げ、客観的に捉えるなら、やはりこいつの擬態は下手くそに違いない。 風の吹き止みに合わせるように踵で地面を打ち、後ろで手を組み直しながら、質素な屋台と向き合う。 「捜査官である」不意に思いついて、言ってみる。 それは何か、初めて読む作者の、聞いた事もないようなジャンルの作品を前に立つような心持ちだった。プーシキンやボッカッチョ等の、僕が名前を挙げられる人物から除かれた者たちの作品に違いなく、つまり何が言いたいのかというと、例の身勝手な断定が、確定に変わった瞬間なのである。 頬を染めながらこちらを見ている。ダビデ像を拝む乙女を連想させる。 「私はイスラエル王ではありませんよ」と言う代わりに、軽く手を前に出し、和やかに振ってみせた。良いタイミングで、雲をかき分けた太陽が顔を出し始め、背中に向かって後光が差す。 すると、彼の方はげんなりした様子て俯いてしまった。僕はそれを、僕という存在の現実性から目を背けるためだと解釈した。その方が都合良く、穏やかな気持ちになれるのだ。 慣れた手つきで生地を弄びながら、彼は言った。 「地球はですね、何かこう、おかしいと思うのですよ。環境が細かい領域で分解されて、摩訶不思議な所でくっついている。植物の根は雨水と結託し、花弁の運命を握っている。海水は風と同盟関係にあって、残酷な趣味を持っている。だからこそ、それらを統治する巨大な王がいるのですな。例えば、超次元生命体だとか」 赤いゼリー状の突起が、彼の頭髪に紛れて見え隠れしている。 「それが目的なのですか」核心を突くように続ける。 「お客さん、マヨネーズは」備わった権利を主張するように、語気を強めて話を逸らされた。単純に違いない動作のはずなのに、彼の手元は暴れ牛を制御する手綱のように震えていて、口髭に舌を沿わせながら、生地をひっくり返していた。 お色直しに失敗しただけで、技術的な側面から見れば、彼は熟練した粉物使いに違いないようである。宙を舞う円盤は、コイントスのような華麗さを感じさせる。心地よく焦げた小麦粉の香り、熱気が軽やかにこちらへ押し寄せ、魅惑的な雰囲気を醸し出していた。 調和とは言い難い、混沌としたソースとマヨネーズの香り。晴天の青空にノーを突きつけるような色彩の数々。マンホールでは御座いません。青海苔の大地に向けて鰹節が着陸をこなし、上品かつ豪快にその旗を掲げてみせている。 これでは赤椎茸族と言うよりは、ただのお好み焼きだろうと、またもや僕の思考は、こいつを人間だと決め付けて仕方がない。これが彼らの得意とする欺瞞術に等しく、僕は俎板の上の鯉だと言うのに、頭はそれを否定せず、意味のない談判合戦を繰り広げている。 「熱いからね」 熱いのはお前の心だと、心の中で密かに思う。

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Okonomiyaki

うつつ

そのひとみはちへいせんをながめ みちばたのはなへとむけられ だいちへとおちていく ろとうにまよえば あおぞらをあおげば ほしがみえるそのめだま さがるしせんのさきをしらぬタフマサ めをさまそうとしないそのがんこさ それをいってやれぬおのれのよわさ さゞなみをむさぼるわがこゝろ おじけづくな おじけづくな ひとよりものをいわぬ ひとよりよなかをしらぬ いのちをたっときものとはおもわぬ かゞやくちからはあらず かゞやくちからをほっさず あすをむかえてやろうとうそぶかず がむしゃらにうつむくかなたのリツフ おじけづくな おじけづくな こんだくのこんせきはさじんにきえて さばくにたれるしずくのように おじけづくみどりいろ タフマサ リツフ かなでるせんりつ さかさま ほどく さかまくおおまく ちへいせんのくろさをしり おおぞらのにごりをしる あのほしのなまえをののしり わたくしだけをねがう いったい だれのじんせいであったろうか ふきすさむこのおもいをのせるあらなみ あわゆきのようにとけるどうらくのきおく たしかにはなはさいていた このあれはてたこころのだいちに ああ しせんをおとして みにくいおのれをねむらせたい さまよいうつろう せかいのはてに おじけづいてきえん おのがおもい

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Writing【essay】

例えば、言語化されえない感情があるとしよう あえてそれを、■■と名付ける事にする。代名詞みたいに そしてまた、言語化されえない動詞、副詞、その他諸々、多種多様にあるとしよう そしてそれらが、奇跡的に二文で書き表せるとする すると、次のようになる ■■■■■、■■■■。 どこまでが名詞で、どこからが動詞なのか 述部は存在するのか、もしくはそんなもの最初からないのか それは誰にもわからない 確定しているのは、句読点が計二つある事だけだ だからこれは、逆手に取ると、活字の多様性だ 好きな語を入れて遊んでいただけると良い 例えば、こんな風に多様性に富んでいるとも言える 一つの例に過ぎない この雑文は、全て虚偽。 この雑文は、全て真実。 全て虚偽な、この雑文。 全て真実な、この雑文。 全て虚偽で、全て真実。 使用法を挙げれば、キリがない 組み合わせは無限に等しい だから、どうしようもない 最適な解は、知らない。 だが同時に、理解する。 つまらない その一言では表せないと 言い表そうとするほど、愚かな行為はないと 一方的な拒絶ほど、もったいない行為はないと 馬鹿らしく感じる文は、その馬鹿らしく可愛らしい雰囲気でお前を魅了しているのだと 高潔に感じる文は、ただお前の認識内の好物であるに過ぎないのだと それが簡単であろうと、難解であろうと ジャンルに違いはあれど、人物に違いはあれど 本質は全て違っていて、それでも似通っている 頁をめくり、読み耽る。 その動作を体験した時、読み手は書き手の前に平等であると また、書き手も、読み手の前に平等であると 読書合一に違いないと 僕は書こう 簡単ではない文章を貫こう それが己のアイデンティティで、己が書く文章として好かれていく事を期待して、書こう それが言葉である限り、誰かの目に触れるのは絶対だから それが読み物である限り、誰かの脳が理解するのは絶対だから 僕は書こう 言葉に徹しない人生は、ただひたすらにつまらないから 蔵書は全て、頭の中にある

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和梨論

梨のように潤っていて、ひとしきりに噛めば、それなりの甘さと雑味を持ち合わせている。 あえて断言するとしたら、記憶という物は梨に近しい。 “メモライズ”の遍歴は、いつだって己に付きまとう。ただ背中を回して、暗い後ろを見れば良い。記憶は温かく柔らかい、いわば行灯のように点々と存在している。 明かりを見つければ自然と目を向けるのが人間の性分であって、抗う術を僕は知らない。「あの時を思い出してはいけない」と思考を繰り広げれば、薄ぼんやりとしたカンバス上に、くっきりとしたシーンが浮かび上がってくる。厄介極まりない性質を、一種の麻薬的なアドバンテイジに相反するように抱えている。 それでも僕らが回想を辞めないのは、享受できる恩恵の大きさにある。激動の世界を生きるにあたり、回想というのは捌け口だ。 僕が生きているのは、常時供給される、禁断症状を伴わないこの阿片のおかげなのだ。脳裏にべっとりとこびり付き、頭頂に座している。 例えば、僕にはこの上なく甘美な過去の栄光が存在する。僕はそれから離れられない。僕には辛酸な過去の没落が存在する。僕はそれから逃れられない。 つまるところ、人は増え続ける過去を背負い続けている。 人生の構築上、記憶を紡ぐ事を止められない。そして、前述の通り、人体の欠陥が原因で捨てる事もならない。 故に、人間という知的生命の事を、強制的な駆動によって生き埋めにさせられる、ある種の“負債型生命”であると定義付ける事にしよう。 座る事も、眠る事も許されず、僕らは梢を見上げながら、実り続ける梨を収穫する。腹が減ればそれを食み、繊細な甘味を味わってまた上を向く。籠の中が空になったなら、まだ青い果実に手をつける。十分に熟れていないそれは渋く、時には強い酸味か、釈然としない無味を舌の上で踊る。 この確定された果樹園的人生において最大限の幸福を得るには、それは単純により甘い果実を得るのが妥当な手段であり、だから僕らは努力をしなくてはならない。 僕らは善人を演じなくてはならない。 僕らは他人に感謝されなければならない。 僕らは顔を捏ね、美貌を手にしなくてはならない。 僕らは世間体を身に付けなくてはならない。 僕らは他人の痛い所を付き、非難の快楽を貪っていなくてはならない。 果樹園を抜け出すのではなく、僕ら一般的な存在は、果樹園に一生仕える事を契約によって示さなくてはならない。 隣の木に巣食う資本家を見よ。あれがお前自身の姿だ。 左隣の婦人を見よ。お前の枝から甘い果実を奪い取ろうとする、この盗人を罵るが良い。 そうやって生きるのが、人間である。 悲観してはいけない。 意地汚い己を卑下する事は無駄以上の何物でもない。卑しさは力だからだ。 お前がもし失敗を恐れて貪欲になれぬのなら、ドント・ビー・アフレイドと贈ろう。 失敗とは、果糖壺をひっくり返したり、不注意で果実を虫に食われるのを意味する動詞ではない。それを失敗と思い込む生命。それを意味する名詞である。 お前の世界は、お前自身の認識という肥料に助けられているし、殺されているのだ。 渋い果実の汁を吸うのか、光沢のある果実にかぶりつくのか。それは認識次第で、僕ら負債型生命の根本的選択である。

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くじら

若草を踏みしめて 白き一朝に一眠り 雲広がる鯨の群れに 赤く滾る陽光が ぽつりと浮かんでゐた 春風は甘い夢の如し 浮かぶ鯨は笑っている 優しさと淡い哀しみはロンドに聴き入り わたくしの隣でくすくすと笑っている 蒲公英を口にくわえて 味がなく繊細な こゝろがわかる 春の雲 夏草ははしゃぐ火の粉の如し 鯨 凄みを帯びて飛び回る 悠々とそらの海を泳ぎ 去り際の波頭にぴゅうと鳴く 帽子をおさえる少女の視線に 活気ある火の子どもは 頬にほのおを宿した 紫陽花は白々しく芳醇で 人々は汗より苦い雨を知る 夏の鯨は弧を描くのであった 秋風は地母神の如し すゞむしの鳴く声 果実を色付かせる 香る万物の斉同を以て すゞしい風は心地よくなるのだった 歩んだ足跡は 春夏と大地に萌えるが 秋は唯一それを与えず 落ち葉を拾って むすんで ひらいて 冠を 老いた鯨に被せやう 途切れた足跡は冬に向かい よく冷えたこの夜空に昇り歩く 嗄れた鯨の背中を撫でて 労いの言葉もそこには要らない くじら くじら おまえというやつは健気なのだと ひれを羽ばたかせる夏は終わった 落ち葉の冠を被った鯨は入道雲になつて 遠いみらいの夏へ向かう ひらひらと舞う落ち葉になつて 同胞を想う言葉にならう にんげんはおろかでやさしいと宣いながら 純粋な愛を自然はくれず ただ ぴゅうと鳴く 雪も暮れるような日になれば 明けし時の京楽を考えて眠ろう かさかさと落ち葉が揺れるロンドを聞いて 眠らん くじら くじら おまえは少女を残して行った その頬の真っ赤なこと くちびるが笑みを浮かべていたこと すべて おまえの予想通りなのか おまえというやつは ただ人が好きなのだろう おまえの瞳を見て こどもたちは安寧の永につくだろう おまえの背を 安心できる床であると知ろう お前のその逞しいひれは 輝かしい未来への渡航だろう くじら くじら おまえというやつは 生命を見守るうちゅうの子供であろう 冬風が寒々と人を苦しめても やがてくる未来が 不安な物であっても どんなに絶望が渦巻いていても その木々 その水 その星々が わたしらのなにかになるのだろう 嗚呼 くじら それなら やはりぼくらは眠りにつこう 苦しまないための生活がないとしても ぼくらは生きていけるから 辛いことがあるなら おまえを見上げればよいのだと気づいたから 嗚呼 くじら ふうせんを空にぷかりと上げるのは おまえやその父母が これからも共にあってくれるのを 心から願っているからなのだ

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