ot
86 件の小説桜吹雪を君と 下
六[現在] 初めて奪われたのは小学生の頃だった。次に奪われたのは中学生の頃。奪還する事なく畳み掛けるように盗まれたのは高校生。 宝石を盗まれて、更にはショーケースも盗まれて、挙句の果てには警備員も盗まれたような感じ。少しおかしい気もするが。 どんなに逃げても彼女は追いついてくる。病室ではいつも普通普通と喚いていたが、彼女の能力は普通の域を超えている。何度だって盗んで、もうないはずなのに盗んで、幾度も盗んで。 盗賊なんだ。彼女は。 桜の季節になるといつも活動して、横顔で僕を脅して、両手を上げて降参する所を嘲笑って心を奪っていく。 整った目鼻立ちを持ちながらいつだって群れず、物憂げな瞳でどこか見つめている。 “大山桜介”という男の心は、彼女の手中にあった。 そんな盗賊も病には勝てなかった。 『たけき者も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ』とは良く言った物だ。良く言いすぎて腹が立つ。 彼女は病に勝てず、強いくせに自分に勝てなかった。いや別に、それを責めようって話ではない。負けてしまったというだけだ。 医者に、全てを聞いたのだ。 七[記憶] 「私を、殺して」 胸が痛かった。頭が痛くて、心が痛かった。身体から命を引き抜かれるように、全身が悶えて苦しんだ。ノイズが止まらない。体を構成する全てが叫んでいるのだ。痛いと、苦しいと。助けてと、もう終わらせてと。 外では桜が散っている。もちろんまだ枝から離れられない赤子だっている。全て散るのを待つ余裕はない。 もう終わらせたいから死ぬのではなかった。 終わらせなければいけないから終わらせるのだ。そこに意志はない。義務だけがあり、そうしないとおかしくなってしまうという恐怖があった。 「なりません! 最後まで生きる希望を持ってください。今、薬を飲ませますから」 「法律に背くの? どこまでも役立たずの藪医者ね」 「好きに言いなさい。いいですか? あなたが死んだら、たくさんの人が悲しむ。親だって、昼間の御友人だって」 「これは私の命。母は独占権を持たないし友達だってそうよ。早くして。やらないなら窓から飛び降りる」 「生き延びられるのに死のうとするなど命への冒涜だ!」 「死ぬ程の苦痛も感じた事ないくせに、よくそんなに減らず口を叩けるわね」 「私は、自分が嫌い。あなただって、あいつらだって嫌いよ。好きなのは桜だけで、桜吹雪と共に命を終わりにしたい。来世は桜になって、お見舞いに来たあいつらに会うの。人としてではなく桜としてね」 「綺麗事なんて大嫌い! 命があるから生に束縛される? 冗談じゃない」 喋る度に心臓を握り潰されるのに、言葉が止まらなかった。言うと死にそうで、言わないと心が死にそうなのだ。逃げ場は最早どこにもない。それに、求めてもいない。 「生きる事が愚かなんて言わない。命は素晴らしい。毎日気怠げに起きて、それでいてどこか酔うの。毎日憂鬱を感じて、それでも友達がいて、笑える出来事があって」 「ずっと一緒にいたい人と出会える」 私にはその資格がない。ずっとそれから逃げていたのに、死ぬ間際になって求め始めるなどあまりにも虫が良すぎる。 体が溶けているようだった。溶岩のように、このままベッドの上で溶けて、人を維持できずに何者かになるようだ。 その時、冷たい針が首に触れた。 中に入っているのは緑色の液体。反応する暇もなく中身が押し出され、体内に入っていくのと同時に体が麻痺する。 「…もうわかりました。ですが、こちらにも決まりはあるのです。親の了承がなければ安楽死は実行できない。」 「とりあえず、今夜はお眠りになってください」 「嫌な法律だ。まったく」 七[現在] 僕としても君を止める気はない。僕がもし君の親だったら、君を入院させる時に医師に向かって言うだろう。何があっても、こいつの意見を尊重しろと。体に居座る命に束縛される生活なんて、苦でしかないと知っているからね。 命が美しいのは終わりがあるから。終わりのタイミングはさほど関係ないのさ。 君は美しかった。 三年三組、二十八番。 名前は、“川城優花” 綺麗な名前だと思ったよ。 部活の時は、君の姿に釘付けだった。下心だとかそういう話ではない。ラケットを振ってシャトルを打つ姿。軽快な音が響いたと思ったら、クロススマッシュで相手を唖然とさせてるんだ。 県大会を初戦敗退だなんて、恥じる事じゃない。相手は全国大会の常連校なんだから。君は充分強い。地方大会だったら優勝だって出来たはずだ。 卒業まで毎日盗み見ていたいと思ったが、人生は厳しすぎた。 君は病室の住人になり、囚われの天使となったから。 初めてお見舞いに行ったのは、たしか君が宣告を受けて一ヶ月が経った頃だろう。確かに無謀だと思った。友達でもない奴がお見舞いに来るなんて、自身の記憶喪失を疑ってしまう。 それでも、行かなきゃって思った。何もしないで終わるよりは、不審者として君との邂逅を果たす方が良いに決まってる。 それで、あわよくば君を助けたいと思った。 あの病気の治療に必要なのは、恋なのだ。 誰かに恋をして、“ドーパなんとか”を分泌する事が大切なのだという。二○六一年に研究でわかったのは、恋愛によって分泌されるそれが一番純度が高いという事。 “僕がその病気から助かったのもそのおかげだ” “君がいたから” いずれ病室で一生を終えるなんて脅され方をした時は驚いた。それでも、君を見て全てなくなった。 君を一目見た瞬間、僕の体に鎖のように巻きついていた病気が打ち砕かれたようなのだ。恋の熱に溶かされて、体の組織の一部になるように。 視界が桃色に染まって、桜吹雪の中にぽつんと取り残されたような感じになった。 そんな経験を君にもさせてあげたかった。 だけど、遅すぎた。 桜吹雪を君と迎えたかったよ。 愛してる。 八[江戸彼岸] 「承諾は頂きました」 ゲシュタルト崩壊を起こしてしまいそうな文字列の中に、赤字でサインが書かれていた。安楽死を認めるためのサイン。尊厳のもとに命を手放して良いとする、ある種の免罪符。 「今すぐ始めましょう」 早く手放したかった。呪いの元凶であるそれは、存在を観測するだけで心臓を殴るのだ。 運ばれたのは純白の部屋。雪のように白い壁に、温かみのある暖色寄りな白の床。生死与奪を神格化しているようで気持ち悪い。体が冷えた。 「これからあなたに永眠剤を投与します。痛みはありません。我々の研究により発見された、確実性を持つ事実です。」 「何か、言い残したい事はありますか?」 言霊を残す最後の機会だ。 ここから先、私を待ち受けるのは命なき世界。縛る物が何もない未知の世界なのだ。バニラのアイスクリームに辛味を求める連中だっているはず。慈愛に満ちた化身のような人だっているはず。 それなのに体は震える。命を取り除くという行為に怯えるのは遺伝子レベルで生命に刻まれているのだろう。死への恐怖など煩わしくていつ消えてもおかしくないのに、眠りの必要性と同様に残り続ける。不思議でたまらない。 「少しだけ、長く話させて欲しい」 「いくらでもどうぞ。少なからず、話疲れるのに必要な時間ぐらいは確保しています」 残り数回しかない呼吸の一回を行った。大地から宇宙の果てまでの全ての空気を感じるように深く吸い、生きた証を残そうとするように深く吐いた。 それと同時に、枷によってせき止められていた言葉がどっと押し寄せてきた。 「私は普通の人生を送ってきた。どこまでも意味なんてないし、覗かれても良い。覗いたところで何にも感じられないはずよ。一般的に見たら最悪の人生ね。普通という物は、綺麗事を抜き去れば嫌われる存在だから。 それでも、色はあった。脳がくらくらするぐらい濃い桃色がね。 桜の桃色や、替えの病院着の青色。大地の茶色に草木の緑色。色が溢れて退屈はしない。 だけどそれはあくまで退屈にならないっていうだけ。大事なのは他の色彩よ。 一番大事なのは、愛する人が着る赤色のジャンパー。 魅了された。生きとし生けるものだからじゃない。私を愛してくれる存在だから」 体が沸騰しているのを感じるが痛みはない。麻酔薬が働いているからだろう。好きなだけ語れる気がした。 「世界は嫌いよ。命も嫌い。 桜だけ好きだった。桜のような彼が好きだった」 「だから、彼に伝えて欲しい。最後の願いとして」 地に落ちる事によって叶う願いがあるとするなら、それは一つだけ。叶って喜ぶ人間はいないのだし、御免蒙りたいのが本音だ。 だけど叶ってしまった。花弁は落ちて、私は死を迎える。 しかし大事なのは、花弁が落ちてしまった後だ。 どうやって何をしようかを考える必要が出てくる。今回の私は、どうやって想いを伝えようを考えている。 自然と微笑みが漏れていた。病院の連中は驚いて卒倒しているだろうか。それは、私が彼らに初めて見せる笑みだったから。 いつの間にか涙が溢れていた。芽吹かせるための雫のように服へ落ちた。心做しか桃色に見える。 正真正銘、最後の言葉を言う時が来た。ずっと前から決めていた遺言だ。口を開けて、掠れ気味の声を漏らした。 「エドヒガンの下で、また会おうね」 二○六二年、彼女は微笑みのまま死んだ。 名前は優花。とても頑固な少女として生きた少女である。 苗字は大山。愛した男の苗字でもある。 これらは墓に刻まれ、その星が終わり春が死ぬまで残り続ける。 あの桃色の花が咲き乱れる季節の事だった。 −了
桜吹雪を君と 中
三[記憶] 「抱え込まないで、医療を頼ってください。わかりましたね?」 「分かってるって。必要以上に私を拘束しないで」 目覚めは最悪だった。 あの後眠れたのは二時間ほどでまだ外は暗かった。朝になるまでは本を読んで過ごし、気がつけば白衣を着た医者が来ていた。 案の定説教で始まり、説教で終わった。 どいつもこいつも言う事は同じだ。周りを頼れとしか言わない。もう普通の人として生きようとするのは辞めろと言うのだ。お前はもう亡者なのだと。死を魅了した代償なのだと。 「早く出て行って!」 読んでいた本は中盤に差し掛かっている。勇者が悪魔を説得するのだ。お姫様の心がなくても、君は自分の心でみんなと仲良くなれると。 悪魔は嫌われていた。なぜかというと、悪魔だからだ。人の心を持たないから悪魔であり、人とは違うから悪魔なのだ。だから人は悪魔を嫌うのだ。天性の臆病を持つ人間は、違う特徴を持つ生命を嫌う。種族間を繋ぐのは勇者の仕事だ。偏見を持たない勇者が人間の偏見を取り除き、悪魔の心を開く。 そんなお話なのだと桜介は言っていた。 私には分からなかったが。 「理解する必要もないんだけどね」 「ならなんで説明したの?」 「そうしないとまた死がどうのこうのって言うだろ?」 桜介はここ最近になって毎日来るようになった。毎日来ては私の体調を聞いて、変わりがない事を知って嫌な笑みを浮かべる。コーラは持ってこない。なぜだか病室でハーブティーを作るようになった。ドイツ人みたくお茶に信頼を置き始めたのだ。 「ありがとう。いや、ダンケ?」 「ドイツ人じゃないよ。ハーフでもない」 「ジョークよ」 「そっか」 心做しか彼に落ち着きが見られるようになった。あの破天荒さは頭にくるものがあったから良い傾向だ。ここまで来ると私は彼の専属医みたいだなと思う。彼の精神状態を改善するために、病人ぶって彼と会話するみたいな。流石に馬鹿らしいだろうか。 「あの本、面白かったよ。あなたのおすすめなんでしょ? 母さんが言ってた」 「理解してなかったのに?」 「内容はそこまで大事だとは思わないの。言葉遊びみたいに、文字の扱いに長けているような文章が好きなの」 「円城塔?」 「そう」 「あの本、あなたが書いたんでしょ?」 「急だね」 「どうなの?」 言葉の節々に胡散臭さを感じた。どこか読み手を馬鹿にしているような感じで、主人公がたまにこちらに話しかけてくる所から既にぶっ飛んでいる。文法のおかしさからもプロではない。私を取り巻く状況から察して確実だと結論付けた。 「本を買うお金がなかったんだよ。僕も、君のママも」 「本当?」 「他に何があるのさ」 「わからないし興味はない」 「なら、今は教えなくていいね。いつか教えるよ。少なからず死ぬまでには」 別に知りたいとは思わないけど。 「いつかね」 桜はもう桃色を失いつつあった。 大地に花弁が積もっている。散っていく様を見るのはとても気分が良かった。自分の命と共に消えていくようで、まるで私の為だけに育てられたかのように見えた。絶対にそうではないとわかっている。それでも、そう考える事が楽しかった。 私だけの、死を受け入れつつある私だけの桜吹雪だ。 なぜだか、心が安らかだった。 「私だけの桜吹雪」 「その通りだね」 「そう」 「…私、口に出して呟いてた?」 「うん。はっきりと言ってた」 「気が緩んでるのかも」 「それで良いんじゃない? 死ぬから悲観的になるとか、そんな訳ないからさ」 「確かに、そうかもね」 安らぎを得たのはいつぶりだろうか。確か、正式に余命宣告を受けた時以来だろうか。はっきりと死ぬと言われて、清々したのを覚えてる。だけど、今はその時と違う感情だ。安らぎを得たという点だけ同じで、その由来が違う。 今回のは、桜を乗せた春風のように心を内側から暖めてくれた。 安寧を求めてはだめなのだ。求めてしまったら、心を鬼にして死を受け入れたあの日を無駄にしてしまうから。それでも、今日だけはこの気持ちに身を任せていたかった。 「あの本、続きは作らないの?」 「君が長生きするなら作るさ」 「そう」 「思っていたより常識人なのね。あなたは」 彼が帰ったのは昼を過ぎてからだった。 久々の安らぎを与えてくれた彼には感謝している。人に感謝するなんてもうないと思っていたが、人生という物はかなり面倒くさいようだ。もちろん良い意味で。 そして、それを愛おしいと思う私もそれなりに面倒くさいのだ。 当たり前の如く、良い意味で。 三[現在] あなたは今何をしているのでしょうか。 葬式には来てくれていましたね。 “私の名前を見て驚いてくれたかな”喜んで欲しいとは思わない。 私の自己満足でしかないから、あなたに受け入れろなんて言いたくない。 それでも何かを思っていてくれるなら、 今、教えて欲しい。 四[記憶] 本を読み終わった。 感想は特にない。 面白いとか面白くないとかの話ではないと思ったからだ。このお話は、紛れもない私のために書かれた物語である。 そのお話には何もない。それが良かった。 平穏が描かれているのだ。起承転結はない。だらだらと日記のように描き連ねているだけだと気づいた。 それなのに、読んでいると心が痛みを叫んだ。病気の痛みじゃない。 本を閉じて、薬を飲もうとすると痛みは止んだ。再び本を手にするとまた痛んだ。なぜだか心がその痛みを許容しているという節もある。 それか、病気で感覚が麻痺していたという事なのだろうか。己を殺そうとする痛みに慣れて、普段の苦痛を感じなくなったのかもしれない。 ここ最近、嫌に感情が動く。脳裏でネズミが動き回っているみたいで気持ちが悪い。窓から入る風、昼食の香り、廊下の喧騒。 今まで気にもしなかった事が気になった。 病院を抜け出して、近くの公園を散歩したくなった。 変わらぬ毎日に飽きてしまった。死が嫌だとは言わないが、現実逃避をしたかった。そうでもしないと身体の前に心が死んでしまいそうだからだ。 病院に確認を取ると、付き添いありで外出する事は許可された。なぜだか笑われたが。 「良い兆候です。後悔しない為にも桜を楽しんできてください」 丁度来ていた桜介に付き添いを頼んで、私達は外に出た。母は仕事で来れなかったのだ。友人もお見舞いを拒んでいたので来ていない。異分子に助けられるなんて誰が予想できただろうか。 外は、太陽の光が眩しかった。長いこと室内にいたせいか、久々の日光が肌に沁みるようだった。生きている事を実感出来て、嬉しいようにも悲しいようにも感じた。 何も言わずに、車椅子を押すという無賃労働を引き受けてくれた桜介に感謝していた。その日は春と言っても気温が高く、初夏のそれをゆうに超えていたからだ。青白くなった体から汗が噴き出している。 「なんで急に外出したくなったんだい?」 「死ぬからでしょ」 「他には?」 「お花見をしたかった」 いつの間にか、桜に恋をしていた。気持ちは膨らみ、窓から眺めるだけでは満足いかなくなっていた。花弁に直接触れて、匂いを感じてみたかった。それだけの事だった。 「悪いけど、やっぱり山の方まで行ってみたい」 「どうせ暇だった。お供するよ」 病気が発覚するまでの人生で、私は晴天が嫌いだった。必要ないくせに眩しくて、暑くてじめじめする。日焼け止めを忘れたら地獄を約束されているし、とにかく悪い事で埋め尽くされている。 今は、昔程の嫌悪感もない。見た目を気にする必要がなくなったというのが一番の理由だろう。肌は勝手に白くなる。 「でもやっぱり、暑いのは嫌ね」 「あと少しだよ。もうすぐ桜の名所だ」 山道は桃色に染っている。散り始めているのだろう。満開のシーズンは終わりに差し掛かっているから。 それでも綺麗だ。 「…そろそろ、教えてくれる?」 「何が?」 「見ず知らずのあなたが、お見舞いに来てくれた理由」 「そんなに知りたい?」 「いいじゃない。どうせ私は死ぬんだし」 「冥土の土産にはならないよ」 「それでもいいから」 車椅子に揺られて、いつの間にか桜の目の前に着いていた。鮮やかな桃色で、少しだけ元気がないエドヒガンだ。 優花という女の生き写しのように見えた。 「不審者みたくお見舞いに行った理由なんて、決まってるさ」 「僕が最低な臆病者で、もうすぐ死ぬってくらい弱るまでお前に話しかけられなかったからだよ」 「小学の時から一緒だったのに、関わりは学校行事しかなかった。笑えるよな」 「それでも、好きだったさ」 四[現在] 桜の季節が来る度に、あなたを思い出す。 夏にも、秋にも冬にも忘れないけど、桜が来れば思い出す。あなたから見た私が故人なように、私から見えるあなたも故人なの。 あなたの告白は嬉しかった。 それでも悲しい。理由は明白よね。 その数時間後に、別れを果たすから。 五[記憶] 病院に戻る頃には辺りの暗さが目立っていた。夜闇にはさすがの桜も勝てないようで、一面黒に染められていた。黒の塗料が塗られているというよりは、黒の塗料そのものに沈んでいるような感じに見えて仕方なかった。 「もうすぐ死ぬ奴に告白とは、やっぱり馬鹿ね」 「言うタイミングがなかった」 「あなたが臆病なだけよ。私のせいにしないで」 好きという言葉を受け取って、私が思ったのは日常だ。風になびく自身のワンピースと、彼の髪。そして言葉。 「様になってた」 「それはどうも」 「返事は求めないでね」 「教えてよ」 「私は死ぬのよ?」 「もし受け入れてくれるなら、して欲しい事があるんだ」 黒一色の夜景の中、彼は言った。 「死ぬ時、僕の名字を冥土までのお供として連れてってくれ」 「生きる人間が冥婚を求めるなんてね」 「おかしいかい? 僕は君が好きで、君も僕が好きだったら婚約ぐらいできるだろう」 「なんだとしても、冥婚なんて興味はない」 「私は死んで、古い人間になるのよ? それに比べてあなたは、これからもたくさんの人間と出会う。何の関係もなくて、ほぼ初対面な私と比べて、あなたの人生を左右する存在が現れるはず。冥婚なんてしたら、その時後悔するに決まってるじゃない」 「僕は悪魔だよ。お姫様の心を奪って、綺麗なそれを手離したくない。勇者に説得されてもだ。僕は心を奪われて、お姫様も心を奪われた。お姫様は知らず知らずのうちに奪っていたという認識かもしれないけど、僕は違う」 「僕が心を奪ったのは、それを独占したいから。好きで好きで、他の人の目に晒されるなんて想像したくなかったからだよ」 「とんだ臆病者ね」 「それでもいい」 「まあ、気分次第って事にしておく」 嬉しそうな顔が私の顔を照らす。確証がない物事に喜びを見出すのは愚の骨頂だと元来決まっているが、今回はしょうがない。さすがに冥婚という議題までは想定されていないだろうから。 病室は荒れていた。 窓を開けっぱなしにしていたのだ。至る所に桃色の花弁が散乱している。ベッドの上にも、床にもたくさん。絨毯のように、私の死に場所を彩るように散らかっていた。 散歩をしに行った理由。そんなの決まっている。 もう死ぬのだと悟ったからだ。 いっその事、あの桜の下で発作が起きてしまえばいいとすら思った。桜の下で、桜吹雪と共に逝けるならそれでも良かった。 でも現実はベッドに戻りつつある。ベッドの上で死ぬのは御免だ。絵に描いたような死人なんてなりたくない。 そんな事を考えてるうちに、死がやってきた。 忘れかけていた、臓器にハンマーが振り下ろされる感覚。痛みで瞳がこじ開けられる感覚。 私が押していたのはナースコール。 やって来た医者は言った。 「今すぐに特効薬を経口摂取させます! 安心してください。すぐに良くなりますから…」 痛みを堪えて、私も言った。 沸騰する体液と、今すぐにも漏れてしまいそうな弱音を隠すがごとく、笑みを作って言葉を紡いだ。 「違うの。生きたいから呼んだんじゃない。生きたかったらあなた達なんて呼ぶ訳がない」 「二○六○年、最高に都合が良い法律が出来たじゃない。私はそれを行使するの」 「まさか…」 「ええ、そうよ」 苦しみの津波を押し返すがごとく、顔を上げて声を上げた。 「私を、殺して」 −続
桜吹雪を君と 上
『願いは叶う』と言っておきながら、桜の花弁が地に落ちるのはなぜだろう。 地に落ちる事によって叶う願いがあるとするなら、それは一つだけ。叶って喜ぶ人間はいないのだし、御免蒙りたいのが本音だ。 けど、それは叶ってしまった。花弁は全て落ちてしまった。 幸いな事に痛みはない。安楽死なんて信じていなかった。死人が起き上がって「痛くなかった」と言うならそうですかと信じられたものを、現実では生者による謎理論が礎となっている。最後まで心のどこかで疑っていた。 痛みがなくて本当に良かった。死にに行く女の顔が醜女だったら遺族も堪ったものじゃないだろうから。安らかに逝く様子を見て、少しでも解放される事を祈る。 反対を押し切って、死装束は桜のような桃色にしてもらった。別れ花も。最後くらいは華々しくしたいのだ。 フォトスポットと言えば縁起でもないが、一番類似している。 それにしても、呆気ない人生だった。 学校には行った。それなりに友達もできた。部活はバドミントン部で、毎度の如く県大会を一回戦で終えた。身長は普通、体重も普通。普通すぎる事が一周回ってアブノーマルとなるような毎日だ。 少女漫画みたいな恋愛はしていないし、そもそもそういう恋愛には興味がない。家に帰ってシャワーを浴び、いつまでもなくならない鼻の黒ずみなんかに嘆いている。意味があるのか分からないスキンケアをして、明日こそはと意気込んで眠りについた。 そして、それも出来なくなる。明日がない眠りにつくからだ。 良い人生だったとは言えない。普通に素晴らしさを見出すのはお偉い面々の仕事だ。 言い残す事もない。友達はいるが浅い関係に過ぎなかったし、最愛のペットもいない。裏庭に親友のネズミの墓なんてないし、花束を供えて欲しいなんて事もない。なんの事か分からないかもしれないが、そうならそのままで良い。怖がり亡者の戯言だ。 戯言なんて初めて吐いた。 それ程までに、諦めがついたという事なのだ。 実に、何もない人生だった。 いやしかし、一つだけあるとするなら。 非力に過ぎない腕力で絞り出すとするなら、残したい気持ちが一つだけある。 “彼に、感謝を伝えたい” “何か辛い事はある? 僕に任せて” 最後まで私の耳に付きまとう、うざったらしくて最高な貴方へ。 ありがとうだけは、言いたかった。 二○六二年、彼女は死んだ。 名前は優花。 苗字は大山。 あの桃色の花が咲き乱れる季節の事だった。 一[記憶] 「何かして欲しい事はある?」 「ないから。貴方は誰なの?」 「だから、桜介だって。クラスメイトだよ」 死ぬ間際になって初めて経験した出来事だ。見ず知らぬの人間が看病にやって来るのは。 何も知らされていなかった。病名なんて気にしたくもない。それを知る事はとても残酷だと医者から言われたのもあるが、私としても知りたいと思わなかったのだ。どんな結果が待っているのかを知れたらそれで十分。 だからこそ、これは病院側によるサプライズなのかと思った。この男は生き別れの兄で、最後のお別れを告げるために会いに来たのだとか。ただのクラスメイトに過ぎなかった訳だが。 「一体何をしに来たの?」 「もちろんお見舞いだよ。学校で優花が死ぬって話題になってた」 「一クラスメイトとして、クラスメイトの事を心配するのは普通だろ? だから来た。はいこれ、自販機で買ってきた」 差し出された紙コップの中に入っていたのはコーラだった。いかにもな炭酸だ。嫌になるほど甘くて、私は好きじゃない。 「いらない」 「じゃあ僕が」 彼の本性が掴めず酷く混乱した。入院中の病人にコーラなんてどういう心情なのだ。さらにはそれを自分で飲んでいる。ベッドサイドに腰掛けて、そのまま一気飲み。 そもそも、数少ない身内には見舞いは来なくて良いと言った。目障りだし、まだ続く命を自慢されるような気がして嫌だからだ。 体のケアもまともに出来ず、干からびかけの大木のように痩せ細った姿を見られたくない。 「いつになったら出て行ってくれる?」 「しばらくゆっくりしたらかな」 「ここは休憩所ではないのだけれど」 「私に命を自慢出来て、楽しい?」 「そう見える?」 哀れみの笑顔だった。 「早く出てって」 「何を笑ってるの?」 「いや、思っただけ」 赤色のジャンパーを着てそいつは言った。どこか懐かしく感じる香りを伴いながら。 「君、臆病になりすぎだよ。やりたい事、何にもないの?」 不愉快な男、桜介は病室の扉を開けて颯爽と帰って行った。 残された病室の窓から、桜が散り始めている。 やりたい事は、確かになかった。 でも、それは最早どうでも良い事なのだ。今更になって初めて気づくという点が物語っている。体は別にやりたい事を必要としていない。ただそれだけの話だ。 病室があの男の匂いで満たされている。それがどうしても嫌で、重い体を持ち上げて窓を開けに歩いた。 その時気づいて驚いた。気付かぬうちに私の身体は朽ちていたのだ。軽かった体はつい昨日の事のように思い出せるのに、その記憶を飛び越えることなく過去に取り残されている。 “やりたい事、何にもないの?” そんなの、ないに決まっている。少なからず今は。 バドミントンも友達に半ば無理やりに始めさせられただけだ。ラケットを振ってシャトルを打ち上げる事のどこが面白いのかと当時は思った。今は思う事すらない。 死ぬまでには、探そうと思えば見つかるのだろうか。 外を無気力に眺めて終わりに向かうのは確かにいただけない。したい事、探してみるのも良いかもしれない。 一[現在] もうすぐ彼岸になる。 会いに言ったら、彼は快く迎えてくれるのだろうか。 “気持ち悪がられるだろうか” それか、変な奴だと笑ってくれるだろうか。 “何も言わず受け入れて、桃色の死装束を笑ってくれるだろうか” あれだけ迷惑をかけて、その上勝手に調子に乗って。 私は、悪い奴だろうか。 二[記憶] 一冊の本を母に頼んで持ってきてもらったのは、あれから二週間後の事だった。 その間もあの男は定期的に病室にやってきた。 そして言い続けたのだ。耳が腐る程。 「本でも読んだらどう? 良い気晴らしになるだろうし」 「普通の世界に生きる奴の話より、空想で素晴らしい世界で生きる奴の話が良いな」 持ってきてもらった本のタイトルは、分からない。 表紙に描かれているのは、鮮やかな色彩が美しい花だけ。ゴッホの『ひまわり』みたいな感じだ。タイトルも著者名も書いてない。 「どんなお話なの、これは」 私の質問に対して、母は曖昧な回答をするだけだった。 「冒険のお話よ。気に入るかと思って」 頁を軽くぱらぱらとめくり、内容を吟味した。なるほど、確かに冒険記のようだ。人々の悪意を好む化け物と、正義の心を持った勇者のお話と言ったところか。 現実を忘れるにはもってこいの作品だ。 「ありがとう。残り時間は、これを読んでじっくり過ごすね」 母の瞳からは、夕陽に煌めく雫が落ちていた。 泣いても意味なんてないのに。 どうせ泣いても私は死ぬのだから、そろそろ割り切ったらどうかと思う。 「どうして母さんは、すぐ泣くの?」 「あなたが私よりも先に死んでしまうからだよ」 「いつかは、みんな死ぬのに?」 先だとか後だとかに違いがあるのだろうか。 私には分からない。分からないふりなのかもわからない。 その日は数ページだけ読んで本を置いた。 分かりやすい言い回しが面白いはずなのに、肝心の内容が頭に入って来ないのだ。風が頬を撫でるみたいに、感覚はあるのに何も感情が湧いてこない。 お姫様が心を悪魔に奪われて、どうしたものかと慌てる王子様の元に勇者達がやって来る。よくある展開が詰め込まれていて、一回目なのに再読をしている気分だ。 「私は、楽に死なせてもらえるのかしら」 死はいつだって私を笑っている。読書中も変わらなかった。 桜が散るのは、もうすぐなのだろうか。 その日の夜は酷かった。 夜中に目覚めたのは風が窓を叩いたからではない。 身体中が沸騰しているかのような感覚が私を起こし、苦痛に呻かせた。苦しみを感じる暇を与えないまま苦痛が押し寄せ、捌ききれない中枢系が悲鳴を上げている。涙が出てきて、汗が出てきて、身体中の水分が焦土と化した体内から脱出しようと蠢いている。 辛かった。死が耳に息を吹きかけているようで、その距離の近さに今更怖くなった。割り切れていたのはまやかしだと告げられるように、痛みが体を握り潰した。 終わらない苦痛に苛立ち毛布を強く抱き締めた。 身内の前で被っていた仮面が蝋のように溶けている。溶けた隙間から何者かに見られているような気さえした。 叫んだって獣に身を堕としているだけだと知っているのに、声はひたすらに出続けた。 「なんで、私だけ!」 ナースコールを呼ぶのは躊躇われた。臆病な自尊心が邪魔して、こんな姿を見られてたまるかと体に鞭を打った。 苦痛に身体を喘がせる度に魂が抜けていくようだった。 抵抗の対価として少しずつ命を削がれているように、こうして人は死ぬのだと悟った。たくさん抵抗して、最終的に死に言いくるめられて終わるのだ。 痛みが弱まった隙を狙って、ベッドをボタンで起こし箱の中を探った。症状が出始めたら飲めと言われた薬があったはずだと今更思い出したのだ。 痛みに翻弄されて冷静な自分を失っていた事に余計恐怖した。抗うくせに死に急ぐのだ。頭が狂ったと言われても仕方がない。 瓶の蓋を捻り、中身を一気に煽る。口の中に感じるのは鉄臭い味だった。これが薬に由来するものか、遂にやってきた吐血によるものなのかは分からない。ただ症状が収まってきたという事実に全て落ち着いた。 汗が染みた病院着が気持ち悪い。戦いの証だとも言えるこれは、あまりにも惨たらしく苦しい。見る度に過去の痛みを思い出してしまう。 着替えがクローゼットの中にあった。 良い香りに心地よい感触がした。 新たな病院着は青色。着替えた事を知らせるための配慮らしい。明日の朝この部屋に来た医師に聞かれるのだ。なぜ着替えたのですかと。素直に答えたらまた叱られるのだろうか。 死に接近した事もないくせに偉そうにするあいつらが私は嫌い。 だから、私は私が嫌いなのだ。 二[現在] 死は怖かった。死んだ今だからこそ言える。 本音は怖い。弱い自分を認めるような物だから。 嘘をつくのも同じくらい怖い。強い自分を見せて、助けなんていらないと意地を張るようなものだから。助けが必要だって頭で理解しているのに意地を張るのだ。 防音室の中から助けを求めるみたいだった。たくさん助けてと叫んでも、聞こえる事はない。 なぜなら、私は強がりだから。 だから今こそ言わせてください。 命の呪縛から解き放たれた、私にしか言えない感謝を。 大山優花として、あなたに会いに行きます。 −続
愛文
星を目指して走った。いつか辿り着くと自分に言い聞かせて、拳を空に振り上げた。 でも今は違う。 貴女を目指して走っている。 「諦めろ」 幾度も言われました。貴女を牛蛙から取り戻す事は、鬼から金棒を取り上げるよりも難しいと。 その度に思い出しました。山査子のような香りを。あなたから漂うそれは甘くて、それでもどこか辛くて。優しいくせに僕の頬に付いた泥を拭いてくれるだけなのです。 さすがにもう、光都に着いたでしょうか。その名の通り、万物が輝きを取り戻す理想の都市。 七福神が笑い、それでも欲望を満たせない牛蛙共が涎を零す化け物の都。 貴女が、奴の“五人妃”の内の最後の一人に選ばれたという知らせを聞いた時、村中が一気に淀んだ気がしました。生きながら死に向かうような物だと知っているからです。 胸が張り裂けるだけならどれほど良かったか。 苦しみながら生きろと言われたかのように、喉を締められるような苦しみが僕に付きまといました。心臓を握られているように、冷や汗が嗚咽のように漏れました。 私は、空を見上げて貴女を想う事しかできないのでしょうか。 『 「諦めろ」 幾度も言われました。今から婚約破棄をする事は、完成間近のパイに塩を落とすような物であると。 その度に思い出しました。私を愛した王子を。私の膝で心地よさそうに眠るあなたは、可愛らしくて、どこか寂しげで。好意は示してくれるのに、私の手を握るだけでした、 まだ、あの木の下で眠っているのでしょうか。あの村の、夢が埋まっている大地の上で、眠っているのでしょうか。 私がやらなければならないと分かっています。 日没する処の天子は、日出ずる処の天子に逆らえないのでした。 好きだとか、恋の感情だけで世界は生きていけないと感じます。星を目指そうと志しても、人はちっぽけなのです。 それでも、七色に光るこの指輪は、淀んで見えました。 もし貴方が起きているなら、私を追ってここまで来て欲しい。暗闇の草原で唯一光るあの名月を、あなたと一緒に見ていたい。 馬車に揺られて数刻が経ち、ここはあまりに退屈です。 会いたいと願う事は、傲慢なのでしょうか』 「諦められない」 そう思う事は無謀なのでしょうか。無謀を感じるのは人間だけではありませんか。馬は嘶いています。 牛蛙の手に落ちる貴女を黙って見ていられない。 想いが、私の背中を離してくれないのです。 好きだから貴女を想うのではありません。 好きが理由になるなら、私は山査子に恋をしているとも言えるでしょう。でも、現実は違う。 貴女を追う理由は、単純かつ濃密だ。 この機を逃したら、二度と逢えないと思うから想うのです。そう思うから、恋なのです。 私の世界には命と愛しか存在していない。億を超える命と、たった一つの愛です。 億もあれば何度だって再会出来るでしょう。それに比べて一つしかない愛は、易々と再会が叶う物ではない。 会いたいのです。そして離したくないのです。私の手で、貴女の瞳を塞いでしまいたいのです。汚れた光から貴女を隠すために、この身を捧げたくて仕方がないのです。 貴女を想って走ります。貴女を想って願います。 だから貴女も、私を想っていてください。
第6回N1 Orologio
『逆戻りする時間』 走る方向という意味らしい。 正常な状態を前進とする。腕を振って、スピードは変えずに地面を蹴る。正常だと言うからにはやはりこれが一番良い。 いきなり後ろに進む奴はどこか抜けている。徒競走がぶち壊しになるという点においてかなりタチが悪い。どうしても直らない寝癖よろしく暴れ回るのだ。 つまるところ、間抜けという事である。 そんな間抜けを始末するのが仕事になったりする。僕が実演しているように。 例を挙げるとするなら時計の針が無難だと思われる。針が逆向きに回転していて、その周囲だけ時間が巻き戻るみたいな。 何事も程々にしておけば許される。“逆戻り”も程々にしておけば許された。疲れてる人の前で発生して睡眠時間を荒稼ぎさせてやれば、苦労人の味方として偶像崇拝の対象になるだろう。 現実はそうもいかないので俺たちが存在している。 『時計屋』という名目で、世界各地で発生する“逆戻り現象”を解決して回るエキスパート。強面だ。 一 「時計の針が四件、紳士の少年化が三件、奥方の若返りが二件」 「解決したのは合計で八件だ」 「残りの一件は?」 「奥方の要望で放っておいたさ」 助けるかは人次第になる。もちろん俺らが嫌だから助けないという意味ではなく、向こうが助けて欲しそうにしているかという点で助けるかは決まる。時計屋は、折角訪れた至福のひとときを邪魔するような野暮な集まりじゃない。 仕事というよりはボランティアに近い。本業として時計修理をする中で発生する空き時間を上手く活用しているのだ。 残念ながら時計修理の依頼は芋臭い男の恋愛成就率並に少ないので、こっちが本業になりつつある。一人につき一つ解決すれば美味い酒が、二つ解決すれば長風呂に浸れる。 三つも解決したら英雄さ。足を伸ばせるジャグジーにご招待。 今日の俺は二つ。スコッチを持って汚い釜に肩身狭く沈むのだ。 二 解決方法は単純だ。 そのいち、解決したいという意志があるか確認する。 そのに、“逆戻り”の逆の事をする。 そのさん、おしまい。 定員オーバーしないのが不思議なくらい簡単なのだ。これは予想だが、『合格者は強制的に俺らと一つ屋根の下で過ごさなくてはならない』という点が良い仕事をしているのだと思う。 あの風呂桶を見たら誰だって逃げたくなる。 合格者はこれまで数百人以上いたが、この話をしたらもれなく二つ返事で辞退が返ってくる。 教育係のムーはいつだって暇だ。給料泥棒どころか、その華麗なる怠慢は怪盗を彷彿とさせる。 三 先程の“そのに”について詳しく言及させてもらう。どこかで眠っている宝石新人採用のため御精読願いたい。 例えば、“逆戻り”の影響を受けている時計があったとしよう。生粋の天邪鬼君で、皆の生死を振り切って一人だけ十二から一までの遠回り旅を始めている。 所有者の意志も確認した所で作業開始だ。 瞬きする間に全ては終わる。 力ずくで本来の向きへ走らせ直すだけだからだ。天邪鬼君の前へ出て、闘牛のごとく針を押し返すだけで良い。 体罰が問題になっているのは人間社会である。少なからず今はそうだ。時計の針に対してのパワハラで訴えられた奴なんて聞いた事がないのでまだ大丈夫。俺らは脱法業者じゃない。 一応この作業をするのには専門の手袋が必要だ。時間遡行の影響を受けない本物が。『誰にもできる』という意見へのアンチテーゼとして取っておいて欲しい。 四 もちろん、毎回簡単な訳ではない。 たまに外れるスーパー・マーケットのキャベツのように、仕事にも当たり外れがある。 前述した“奥方の若返り”は、かなりの難易度として“逆戻り現象”界のトップに君臨している。どんぐりの背比べに参加する松ぼっくりみたいな物だとも言えるだろう。 しかし、作業自体の難易度上昇を求めている手練にとっては興醒めかもしれない。 難易度が高いと言っても、その原因は奥方自身にある。 かなりの確率で若返ったままでいたい奥方が多い。 本人の希望は通したいが、例えば夫などから戻して欲しいと頼まれると断れない。大抵の場合万札が二、三枚上乗せされるからだ。我々も所詮は人間だという事である。 心を鬼にして、美人奥方の頬に皺を刻むのだ。 五 発生するからには原因があり、原因があると言うからには首謀者がいる。新芽を摘み損なった司法に俺達は酒瓶で立ち向かった。 首謀者として有力なのは、政界のトップに君臨する重鎮の奥方だとされている。夫に再び振り向いてもらうための切り札が暴走した結果だとか、夫の敵である老犬を少年に戻し、虫取りの夏へ幽閉するためだとか言われている。言われているだけで根拠はない。『有り得そう』というだけでここ数年語り継がれている。 それに対する時計屋の面々の意見は多種多様だ。 「それだったら“逆戻り”より時間を加速させた方が良いだろう」 「夫蠱惑大作戦はどう説明付ける?」 「自分を若返らせるより周りを老けさせるんだよ。消費期限切れの牛乳でも、腐った牛乳の周りにあったなら否が応でも目が向けられる。周りが妻以下の老婆だったら、どんな男でも目を瞑るさ」 保身的な様子がそれっぽさを助長している。給料怪盗ムーは発言こそ的を得ていて素晴らしい。だからこそもっと新人教育で成果を上げてもらえると尚良い。 六 前を向いて前進した。前を向いてるくせに後進する万象に歯向かうように、原因に向けて走り出した。 俺らが汚い宿屋にて決起集会を楽しんでる最中それは暴走した。潰れたムー含む三人を取り残して俺は現場に走る。冷たい風が切り裂くように頬を叩いた。数分前まで酒を流し込んでいた体が悲鳴を上げている。それでも走った。元凶を潰せば全て解決。仕事を終わらせるまたとない機会なのだ。 年中無休、休憩時間という名の待機時間中はどこにも行けない。布団にして再利用できる程の本が溜まっている。そんな生活もう御免だ。正直に言う。本なんて物どこが面白いのか全く分からない。『華氏四五一度』の世界こそユートピアなのだと思ったさ。 ひたすら走った。宿を飛び出して、飛び出してくる車を蹴飛ばして、前へひたすら進んだ。右折左折等知った事か。前進が一番早いのだ。壁なんて粉々にしてしまえば良い。民家なんてお邪魔すれば良い。邪魔する奴は皆執行妨害だ。 呼吸なんてしない。そんな暇があるなら足を前へ! 「目標まであと数十メートル。走れダン」 「オーライ!」 「エンカウントしたら叩け。叩けば壊れる」 「ダコール!」 酒瓶を手に持って走る。中身はスコッチ。バランタインでもったいないからこそ、一発で終わらせて元を取るのだ。 目標が見えてきた。怯えた奥方赤ん坊容疑者が尻もちをついている。ワインレッドのワンピースがおくるみのように機能している。 その横で怪しく光る球状の生物兵器。マイナスの力場を発生させる“逆戻り”の原因。 “Orologio!” 進む未来へ向け、俺は酒瓶を振りかざした。 七 「鳩時計が一件、のっぽの古時計が一件」 「二件とも修理完了だ」 「報酬は?」 「柑橘香る浴用剤」 時計修理ほど簡単な物はない。ミクロレベルのパーツに耐えうる気狂いじみた忍耐さえあれば誰だって出来る。 その点で言えば、俺は少し適任ではなくなった。 報酬はシークヮーサーが鼻を殺しにかかる入浴剤と、若干の若返り。俺は例の元凶の影響を受け十歳ほど若返った。人生真っ只中のティーンネイジャーという事になる。 一応物語の終盤に差し掛かりつつある。この記録も書く事がなくなってきた。その後の予定について記して完結としよう。 簡潔に言わせてもらうと、俺らは解散する事になった。冷静に考えてみて、時計屋なんていらないのじゃないかという結論になったのだ。“逆戻り”が解決した今となっては尚更の話である。 メンバーの大半は実家の農作業を手伝いに田舎へ帰って行った。例外は俺とムーのみ。 ムーはというと、どうやら給料泥棒が天職だったらしく、現在は怪盗アルセームー・ルパンとして闇夜に紛れている。なので今は音信不通。それでも、確固たる証拠なしに事実だとわかる事が一つだけある。 奴が毎日ジャグジーに浸かっている。これだけは間違いない。 そして俺は今、誰も予想していなかった所にいる。 まさかの、世界の舞台だ。 どうやら俺は、直線を進むという点において抜きん出た物があるらしい。家々を破壊して前進していた様子をどこかの馬鹿が見ていたらしく、それによれば“なんとかボルト”より速かったらしい。 このくそったれな国の代表として、俺は世界を走っている。 歳もまだ全盛期ではない。『もう』ではなく、『まだ』全盛期ではないのだ。若返りに狂喜乱舞していた奥方の気持ちが少しだけわかった気がする。 観客の歓声が聞こえる。大半は俺以外に向けてのだろう。 今はただこいつらに見せてやるのだ。元三十路である驚異の新人が、世界の驚きを喰らい前進するのを。 オン・ユア・マークス 南方の熱風に晒された俺の体は、誰よりも強い “Orologio!” セット 走る方向は前のみ。 号砲と共に、ただ駆け抜けろ。 ダコール! −了
方舟は間に合わない
「価値の有無に問わず私は全てを覚えている。隠し事は意味を成さない。あなたが売店から盗んだチョコチップ・クッキーの袋、こっそり家を抜け出し、ドロシーと会った夜。全てを知ってる」 亜麻色の髪が美しい、異国情緒を感じさせる少女だ。 水車が至る所で回る村だった。名を知られる事はない。それなりの都会に住む少年少女は、そこを異世界と形容するだろう。 年中漂う果実の香りは判別をつけられない。ある時はオレンジとグレープ。日によってはオレンジに代わってベリーが強まり、訪問客の鼻腔を未知の酸味でくすぐる。 村民は、日に焼けた肌、太陽の光を吸った純白のシャツで統一されている。異邦人を慈愛の腕で抱きしめ、その頬に口付けをする。来客を拒まない事が教えなのだ。 「あなたを歓迎します。ようこそ、アシルへ」 村民に案内され向かった先は村長の住居だった。 皆が“デウス・アシル”と呼ぶ少女。 「アシルへようこそ、薄汚れた青年さん」 亜麻色の髪が美しい、異国情緒を感じさせる少女だった。 不思議な声をしていた。まるで合唱のようにいくつもの声色で構成された一つの美声。放つ言葉は賛美歌のように透き通っていて、それでもどこか厳かだ。 「噂は本当だったようですね、デウス・アシル。ムネモシュネの生まれ変わりとされる、地球の記憶を蓄えた妖女」 「知っているなら話が早い。あなたはどんな記憶を望むの?」 名無しの村にその赤子が降臨したのは雲一つない晴天の日とされる。林檎の木の切り株で、翡翠色の涙を流して泣いている所をセント・バーナードと遊んでいた男の子に発見された。 不思議な事に、その幼子は言葉を発した。 「悪魔に殺される…」 「私に信仰を…あなた達に記憶を…」 正しい民に全知を授け、アシルとして崇拝される事になる。 その時の民のように、私もこの聖人に願った。 「私に、教えてください。全てを忘れてしまった哀れな私に、救いを与えてください」 生きる希望をこの手に取り戻すため、ラグドゥネームのように甘く、プラムのように強い酸味を持つはずの記憶を返してください。 「…あなたは何を差し出してくれるの?」 答えが知れるなら、 「あなたの望む物、全てを捧げます」 「幸せな記憶を知って、あなたは何がしたい?」 「私は弱い男です。毎日のように過去を振り返って陶酔し、愛されたあの日を夢に見て翌日は蜜に溺れました。私にとって記憶は麻薬であり、他の全てを失ってでも手に入れる必要がある命の本体であるはずなのです」 過去の記憶。それこそ少年だったあの頃は未踏の地だ。つい昨日や数年前の記憶は既に開拓され蜜が枯れてしまった。働き蜂ももういない。私という王を除いて全てが去ってしまった。 「歩みを止めない現実は辛い物だ。頼みの綱である夢ですら、どう足掻いても水性の絵具でしかない。油絵具のように落ちる事がない現実の苦痛は、どうやっても上書きできないのです」 私に薬を。薬に力を。 「それなら、あなたの未来を貰いましょう。過去という麻薬を手に入れたいのなら未来を支払う。当たり前の道理ね」 「あなたの未来を苦痛だと約束するの。新たな救いは訪れない。生身の体で、嵐に立ち向かう事になる。晴天は訪れない」 「元より嵐に晒されている身だ。耐えてみせましょう」 昨日私は見た。ドロシーがヘヴンソンの野郎と歩いていたのを。行き先はウィリアムの酒屋。それだけではない。 オスカルが話してくれた。あいつらと来たら東京で秘密の密会だそうだ。中国、ロシア、メキシコにアメリカも! まだまだある。フランスのワインに、イギリスのフィッシュ・アンド・チップスも奴らは楽しんだ。私の財でだ。 おかげで麻薬の消費量は増していった。ダムが決壊するように、積もった災難が私の安寧を目も当てられない程に粉砕した。 私は既に嵐を耐えて、更なる高みに昇りつつある。 「どうか、お願いです」 「わかったわ」 アシルの微笑は美しかった。そこに含まれているのは、神としての慈愛と、人に育てられたために生まれた僅かの悪である。 亜麻色の髪、琥珀色の瞳、人ではない事を主張するように、肌の色が純白だ。現存する神秘を一人の生命として固めたような、感覚的な美がそこにある。 そしてそんな聖人妖女は、供物である蜜蝋を手に取り弄びながら語り出した。 「あなたはきっかり三十年前に北方の国で産まれた。親に愛され、可愛い一人息子として愛を注がれた」 心が少しずつ熱を帯びていく。 「初めてできた友人の名はドルフィル。あなたと瓜二つの子供で、周囲からは双子だと騒がれた。だけど、あなた達二人はそれがとても心地よかった」 確かにいた。ドルフィル・ジャックという名の、私の親友だった少年。シトラスの爽やかな香りがしていつだって私の味方であり続けた、笑顔が素敵な私の親友。 「たしか彼は今、西の方で花屋を…」 「数ヶ月後、ドルフィルは引っ越しをする。あなたの悪事をその時の先生に暴露して。ドルフィルの語りはすごかった。あなたがクラスメイトのヘヴンソンを叩いたり、筆箱を奪ったりした事、全てを鮮明に語った。当然あなたは叱られ、しばらくの間自由を失う。何をするにしても隣には大人、かつての友は寄ってこない」 「止めてくれ!」 「私は全てを教えて欲しいと頼まれた。だから、全てを語る」 温まり始めた心が、嫌な湿り気を含み始めた。 「誰にも相手にされず、転校を余儀なくされたあなたは新天地にてやり直そうと決める。当時のクラスメイトには嘘をつき、過去を忘れようと必死になった」 この女は聖人ではない。ただの悪魔である。このままでは殺されるような物だ。 「前の学校では友達に囲まれ幸せな生活を送っていた。しかし、それを良く思わない連中からのいじめに耐えきれず転校を余儀なくされたという事にした。前の学校からは文化も違うほど距離が離れていたおかげで、クラスメイトには信じてもらえた」 「幸せな生活を送る中で、あなたはドロシーと恋仲になった。あなたにとっての、一番の幸せ。ドロシーは素晴らしい女性だった。そうよね。あなたを心から認めてくれて、口付けは蜜のように甘く、抱擁は雪空が広がる中の暖炉のように暖かい」 「だけど、幸せは終わった」 「頼む、止めてくれ! 私が悪いんだ!」 心は湿り気を伴い、怒りが爆発するのを嫌に妨げている。鼓動は早まるのに、熱を沸騰するまで浴びているのに、焦りから生まれるそれは私が激昂するのを許さない。 「可哀想なドロシー。自分が愛していたのはこれほどまでに許しがたく、最低な奴だったのかと気づいてしまう。あなたの古くからの怨敵で、同時に嫌悪の吐き溜めだった男、ヘヴンソンとドロシーは出会うの。そして、ドロシーは逃げた」 「王子様に連れられて! あはは!」 悪鬼の笑い声だけが響いた。村民はこの間にも外で働き、星を眺めているのだろう。私にはその星空が見えない。見えたとしても、滲んでいるはずだ。私の涙に、そして、私の血に。 「ドロシーはヘヴンソンを連れて旅に出る。彼の傷んだ心を癒すため。行き先は東京、中国、ロシア、メキシコにアメリカ! 次第に彼の心は晴れていく。だけど旅は終わらない。あなたに復讐を果たすため。おっと、今度はデンマーク! つい一時間前に到着した」 「悪魔め!」 「あなたはロバかしら?」 「愚か者で、薄汚れた青年さん。あなたは間違ってる」 「私はムネモシュネじゃない」 「私は、テーミスの子よ」 「正義の名のもとにあなたの未来は苦痛であると約束しましょう。嵐ではないかもね」 「方舟は、もう間に合わないの」
エゾギクの美酒
序 「ここに霊液があります。あなたの助けになるかもしれません」 差し出された小瓶の中には、粘度を持つ液体が入っていた。至極色のそれは、どこか禍々しくも感じられる。 この中に、俺の欲している物全てが含まれている。 小瓶の中身を振り混ぜながら、その男は内容物を読み上げた。 「聖書の紙片、シェイクスピアが使用したペンのインクを数滴。エゾギクの花束に、亡くなった無名作家の残留思念を浴びるほど。健康上問題はありません。あなたが望むかどうかに全てがかかっています」 「それで、俺は変われるのか」 「もちろん。これを飲めば、一夜にして有名作家として大成するでしょう。デメリットはありません。在庫は残り一つです」 怪しく光る霊液の中に財宝を見た。 それは確かに埋蔵金ではないが、むしろそれ以上なのだ。人に幻想を見せる作家として認められなければ、俺の人生は貧民にふさわしい低俗な物として終わってしまう。 何万、いや何億。俺の書く文字列に酔いしれる人間達に囲まれ幸せな死を遂げるだろう。俺の頭を蹴り上げ、髪の毛をむしり、尊厳を蔑ろにした馬鹿共よりも高尚な死を。 短くも夢を現実にて見れる。それだけでも覚悟を決めるには十分だった。 「買おう。包んでくれ」 住み続けて十数年経ったアパートメントに帰宅したのは、欲望犇めく夜が明け始める頃だった。 至るところに紙が積み上げられ、それがベッドに倒れている。窓を開けたまま出かけていたのだ。部屋は冷え、愚か者の帰宅を嘲笑うかのように散らかっていた。 虚栄心に駆られた惨めな作家の住居。その事実を示している。 机の上には書きかけの原稿。昨日の夜までは家宝のように溺愛していたはずだった。今となっては、紙以上の価値はない。 構想五年の推理作品。大作の予定で、延期し続けている。 ふと、その隣にあった数少ない読者からのファンレターに目が留まった。 昔から読んでくれている約数百人の内の数人で、作品を世に出せばすぐに手紙を寄越してくれる。シャム双生児の少女の片割れ、自称大文豪の同業者、幼稚園児の男の子。 数少ない読者は確かにいた。だが、それは俺の幸せではない。俺の幸せは、たくさんの人に読まれるという点にあった。多勢に無勢と言われるように、基本的には多量の方が何事にも良いとされる。 彼らには、俺を忘れて頂こう。 一 ダリア 『拝啓 春の陽気を感じる季節になってきました。あなたが、執筆を続けながら元気に過ごしている事を祈っています。 あなたの新作を拝読しました。とても面白かったです。全員が探偵のミステリー。発想の素晴らしさに感嘆しました。カミラは相も変わらず嫌そうだったけど、首を背けながら私が読んでいる所を目で追っていたのを私は知っています。 なので、私はカミラにあなたの作品を薦めておきました。私のお気に入りの、一羽の烏に恋をした少女のお話。多分カミラも気に入ってくれるはずです。次回レターを書く時は、彼女にも一言添えてもらおうと考えています。あなたの活力になりますように。 春は近づいてきましたがまだ寒いので、どうか体調にはお気をつけて。 敬具 ダリア ルーン・クリストフ様』 『拝啓 冬は去り、確かな春がやって来ましたね。こちらこそ、数少ない愛する読者であるあなたが元気で過ごしている事を祈っています。 新作、早速読んでくれてありがとう。あなたのような熱心な読者のおかげで、私は頑張れていました。心からの感謝を。 急ではありますが、作家を辞めようと考えているのです。 私の非力さ故に、発想が浮かばず、新たな物語を書く力がもはや残っていません。己の弱さが憎い。 今まで応援してくれてありがとう。読んでくれてありがとう。あなたのおかげで、今日まで続けてこれたのです。これからは、私以外の才能溢れる他の作家の作品をお楽しみください。 あなたの人生を彩る素晴らしい作品との出会いを祈っています。お元気で。 敬具 ルーン・クリストフ ダリア・ヴェラキス様』 彼女からの手紙を最初に受け取ったのは、いつの日だっただろうか。雪の降る極寒の冬だった事のみ記憶している。 いきなり届いたシャム双生児を名乗る少女からの手紙がもたらしさ幸せは計り知れない。買われたという事実でしか感じられなかった薄味の幸福とは違い、言葉に記された賛美はエスプレッソだ。 そんな彼女も、もうすぐ訪れる強制的かつ自主的な進化によって俺の心中で死ぬ。 だが案ずる事はない。約束された将来の名作で思わぬ再会を果たす可能性だってあるのだ。 それで良いではないか。 化け物になるのではない。死ぬ訳でもない。俺として生き続ける中で仮面を被るだけだ。 仮面を被っても瞳の部分に穴は空いている。愛する読者ぐらい判別はつけられる。 それで良いのだ。 だからルーンよ、書いた手紙をポストへ。 書いた手紙は、薄汚れたポストの中へと吸い込まれていった。 二 ナブロン 『拝啓なんて知るか 暖かい春が来る。だがそんな事はどうでも良い。一々季節なんか気にしてるから早死にするのだ。 君の作品を読んだ。一言で言わせてもらうと、まだまだ未熟だ。発想に頼りきっている哀れな阿呆に過ぎない。 全員探偵という奇天烈な発想は認めよう。だが、それにしては普通の推理小説との相違点を見つけられない。 怯える婦人探偵に、宥める中年探偵。 探偵と人間はその意味としてイコールで繋がれない。探偵は役職名であり、人間は種族名なのだ。 発想の良さに慢心した愚かなホモ・サピエンスという印象を受けた。精進を続け発想力のレベルまで執筆力を磨くと良い。 そしてその際には、来週発売する私の最高傑作を読むべきだ。君にはない物全てを含有している。 馬鹿に敬具は不要 ナブロン ルーン君』 『拝啓 ご存知の通り春がやって来ました。肌で感じる新たな季節の到来に、私は幸せを見出しています。 お読みいただきありがとうございます。作品が千冊も売れる歴史的な大先生に読んでもらえて、とても光栄です。 指導をもらったばかりの中大変恐縮ですが、私は作家を辞めようと考えているのです。ジェファーソン先生のように才能溢れる方々がいる中で、私が執筆をする必要はないと結論を出しました。折角の助言を無駄にしてしまい申し訳ありません。 レオパルディのような詩的な表現ができるあなたが羨ましい。 ばかの私には無理だったのです。 たぶん、もう会う事はありません。 クズな僕は忘れて、自分の世界に集中してください。 益々のご活躍を、心よりお祈り申し上げます。さようなら。 敬具 ルーン・クリストフ ナブロン・ジェファーソン大先生様』 ジェファーソンに勝てるのは嬉しかった。 俺は彼を超えた頂上まで登るのだ。自尊心の獣を踏みつけ、嘲笑ってやるのだ。かつて俺がされていたように。 机の上で輝いているあれを今すぐにでも飲み干せば、俺はレオパルディになれるし、アガサ・クリスティになれる。あいつが敬愛してやまないような存在になり言うのだ。 『君の作品に面白さを見い出せない』 自信は要らない。自信があってしまうから成長しないのだ。それこそジェファーソンのように。 俺は自分を捨てる。自尊心はとうの昔に尽き果てた。 だが、同時にそれを拒絶する自我がある事に気づいてしまった。 自分を捨てた先で行き着くのは、それこそジェファーソンなのではないかと考えてしまったのだ。 自分に対する絶対的な信頼を獲得し、それを元手として他人に牙を剥く。あの男は俺の生き写しなのだ。鏡を境にした向こう側の存在。俺は今、そいつに片腕を引っ張られている。 俺はどこまでも臆病なのだ。変化を恐れて行動に移せない。問題は、それが本当に悪い事なのかという点にある。自己の防衛に尽力する己の精神は、本当に俺の敵なのか。 陰鬱なアパートメントへの帰路の途中にある書店。そこで奴の本は売られている。店の最奥で埃を被っているのだ。俺の本もその隣にある。毎日のようにそこを訪れては、奴よりも売れていないかと確認していた。 俺は一度も、奴に勝てない。 いつの日か、このまま霊液を飲まずに進んだいつの日かで、俺はジェファーソンに勝てるのか。勝って嬉しいのか。少数の読者に祝福され、悔しがるジェファーソンに俺は何をするのか。 俺の頭は、いつの間にかその問答に全てを支配されていた。 春の到来を悲しむウールコートが、冬風に揺れていた。 三 ドーレン 『拝啓 ルーンの本はとてもおもしろいなぜかというとキャラクターがかっこいいから ぼくのお母さんもルーンの本をおもしろいといっていたなんでにんきがないのかわからないといっていた いつかぼくもルーンのような本をかきたいとおもったなぜかというととてもすごいからだ ぼくがかよっているようちえんにはルーンの本をよんでいるこどもはいないぼくひとりだけがしってるおもしろいひとそんなひとにぼくはなりたい さいごにおねがいがありますつぎの本をかくときにはぼくをとうじょうさせてください なまえは ドーレン・ライトフィリーといいますどうかおねがいします 敬貝 ドーレン・ライトフィリーです ルーン・クリストフさんへ』 『拝啓 おてがみありがとう。とてもうれしいです。 ぼくがうれないのは、ほかにもすごい作家(さっか)さんがいるからなんだ。きみのいえにもあるはずだよ。むかしおてがみにかいてくれた、『星の王子さま』もそのひとつです。 きみをぼくのおはなしにとうじょうさせてほしいんだね。 でもごめん。ぼくは、作家をやめるのです。 ぼくは、つかれてしまったのです。きみがそとであそんでいるとつかれてくるように、かきつづけているとつかれるのです。 だから、きみをしゅじんこうにしたおはなしは、きみ自身(じしん)がかいてください。 おてがみからもわかるように、きみはぶんしょうをかくのがじょうずです。きみなら、すぐにテグジュペリのようになれます。 やさしくて、ひとのこころをあったかくするおはなしをかいてくださいね おうえんしています 敬具 ルーン ドーレン・ライトフィリーさま』 ドーレンへの返事は、書いていてとても心が傷んだ。 俺の心に傷跡を残し、そのままそこに居座った。 未来のために純粋な読者を捨てるのだ。その辛さを覚悟して俺はあれを買った。それなのに、俺はその辛さに悶え苦しんでいる。 答えへと昇華して消えた俺の問いは、また疑問へと凝固し俺の脳を掌握する。たまらなく苦しいはずなのに、俺は解決策探しを放棄している。 本当にこれで良いのか。過去でも現在でもそう思う。二つに分岐する未来の両方でもこの問いは過去形になり残り続ける。 今も、あの小瓶は机の上で踊っている。 俺は飲み干すべきなのかどうかを悩んでいる。それが現状だ。名声を取るか、愛すべき親友達を優先するか。 簡単なようで難解な、俺を一生悩ませる問いだ。 欲望犇めく夜に、俺は眠りについた。苦しみは約束されている。財宝に目が眩んで、大切な物を捨てそうになった俺への天罰だ。 何度も言うが、あの小瓶はまだ机上で生きている。 四 ジェファーソン 夢魔と共に目覚める朝にはもう慣れていた。 ベッドから身を起こし、周辺に視線を向かわせながら背中を伸ばす。どこか収まらない違和感が抜けていくのを感じる。 朝はコーヒーを飲んだ。 どうしても、霊液を飲む気にはなれない。小瓶の中で暴れる悪魔の素は、至極色の域を離れ完全な漆黒に染まっていた。 目を逸らすように、引き出しの中にしまった。 外は曇り。日光から逃れる陰鬱な国の始まりだ。 日課のように書店へ向かった。期待ではない。俺の本がどれだけ残っているかを見て現実を向くための啓示だ。 やけに多い人混みをかき分けて、店の最奥へ向かった。 客の大半は、店の入口付近にある人気書籍に群がっている。餌を求める犬のように押し寄せて、正義を求めるデモ行進のように熱気が満ちている。 羨ましさに取り憑かれながら歩く。いつかは俺も大成出来るのだろうか。俺として、俺自身として、大成出来るのだろうか。 答えは、店の最奥で眠っていた。 俺の本が、売れていたのだ。 山のように積み重なっていたはずが、残り数冊まで数を減らしていた。 『犯人は素人探偵』 孤島に集められた六人の名探偵の間で起こる殺人事件を書いた、俺の新作。少ない読者が絶賛してくれた、俺自身の作品。 目を疑ったが、どうやら事実らしい。 通りかかった店員が教えてくれた。 「昨日の昼間、小さな子供がこの本を抱えて客に渡していたの。小さい子供の頼みだからみんな断れなくて。 でもその後がすごかった。その日の夜、昼間に来店してくれた客が次々にやって来て言うの。『ルーン・クリストフの作品はまだあるか』って。何事も、きっかけが大事ね」 どうやら、俺には未来があるらしい。自分としての未来だ。悪魔に魂と汗で汚れたペンを譲る未来ではない。 心に火が灯るのを感じた。 俺は気づいた。大事なのは現状の解決作を見出す事ではないと。 未来をどうやって夢見るかが重要なのだ。 アパートメントに帰ったらあの霊液は捨ててしまおう。シェイクスピアだとか、紙片を提供してくれた何某かには申し訳ないが、俺は遠い未来を見ている。近未来に悩まされたのはもう過去の話だ。 来た道を戻って、書店を出ようとした。 入口にいた群衆はまだそこにある書籍で盛り上がっている。 そんなに面白い作家がいるのかと気になり、俺もその群れに加わってみた。 そこで目にしたのは、驚愕する物だった。 そこにあったのは、著者の新作で、発売して早々に累計売上百万冊を記録したという未来の名著だ。 タイトルは、『エゾギクの美酒』 著者は 忘れもしない、ナブロン・ジェファーソンだった。 −了
奪い去ってくれ
始まりは、ハインラインの『夏への扉』だった。 孤高な猫、護民官ペトロニウスに可愛らしさを覚え、主人公ダンを襲った不幸に憤りを覚えた。 その時の感情が、今の僕になりこれからの僕になるだと気づいたのは、素晴らしく爽快な結末を迎えてしばらく経った現在の事だ。 その次に興味を持ったのはディック作品だった。 『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』や『ユービック』が中学の頃愛読書だった。特に『ユービック』が僕に与えた衝撃は計り知れない。人に有無を言わせぬ面白さが、僕の心を大波で攫った。読書というある種の地獄に僕が足を踏み入れたのは、確かにこの時なのだ。 物語は、罠だ。僕らの心を掴んで、思考を独占する。 物語は確かに言うのだ。僕らの心を甘い蜜で誘い、肉を喰らい、それでも依存する僕らの骨をしゃぶるのだ。 ディック作品の面白さを享受しながら、僕はブラッドベリという抒情詩人にも酔いしれていた。 『板チョコ一枚おみやげです』に代表される、抱擁のように温かくて優しい物語も、『十月のゲーム』に代表される、金縛りのように僕を恐怖させる不気味な物語も、全て彼の詩的な表現あっての物なのだ。僕が今こうして、拙いながらも物語を書く事ができているのは、そんな彼の作品を読んできたからなのかもしれない。 頁をめくるごとに世界があって、短編ごとにも独立した世界があった。全て同じ地球を舞台にした作品のはずなのに、生い茂る植物の名も知らないような異世界に飛ばされた気分になる。 物語は、罠であり僕を救う怪盗なのだ。 思考を独占して、心を盗む。それがひたすらに心地良くて、盗まれているのに、僕は与えられているのだ。 だから物語よ、悪と憂鬱が巣食っているこの世界から、 僕を奪い去ってくれ。
虚構旅行記
『 レインボー・オークの葉が揺れています。 風はその木に実っているナップノップルの香りを運ぶという役目をしています。とても芳醇で美しいその果実は、流水で洗って齧るのが一番美味しいと、スイートパイシー・ヴィレッジの皆さんが語っていたのが印象的です。 今、私の足元ではドラゴンがゴロゴロと喉を鳴らしています。皆様の中にこの土地を訪れる予定をお持ちの方がいらっしゃいましたら、スイートパイシー・ドラゴンを手懐けるべきだという事をご留意しておいて下さい。 鉄の兵器も悪意に酔った人間もいませんが、この土地はどこよりも広大であり続けています。原始的な生活を余儀なくされる中で移動手段はとても限られている。彼の翼は、この世界を代表する移動手段の一つです。尚且つ、とても友好的だ。 必要なのは焦げ目をつけた赤角牛の骨だけです。 これはアングセルフィ・ヴィレッジの村長から聞いたのですが、この世界にやって来る時、不要な物の持ち込みはお避けするべきだそうです。 まず電子機器。当たり前ですが、ここでは電気なんて物はありません。遊びの約束は手紙でしますし、翻訳機の心配もありません。私たちの言語の扱いに長けたプロフェッショナルが皆様を出迎えてくれます。料金は時間です。ナップノップルの収穫や、幼児の遊び相手などに充てられます。 通貨は存在していないのです。残念な事に皆様が札束を持ってきたとしても、それはお湯を沸かすための炎にしかなりません。 そして食料。気持ちは分かります。見た事もないような動植物に囲まれ、それを口にするのは多少の勇気を必要とするでしょう。ですが安心してください。美味な料理が皆様を待っていますよ。 ナップノップルに代表される種類豊富な果実。好みに合う物が必ずあります。お求めの場合は、スイートパイシー・ヴィレッジのビルリルの元へ。たくさんのサービスを約束しましょう。 動物性の食料についても御安心ください。赤角牛のロースト、マッハ・ポークの舌泥棒漬け等がオススメです。スイートニップソースと共に召し上がれ。 持ち込み不要の物について簡潔にまとめましょう。 はっきり申し上げます。あなたは、ポケットサイズのノートとペン以外持ってくる必要はありません。 ノートとペンで、世界について知りましょう。なんでも良いのです。聞こえてくる鳥の鳴き声、美味しい食べ物の名前。村民達の似顔絵。全てを学べます。 身軽でいてください。こちらに来るために、あなたがしなくてはいけない事。光学的越境船のチケットを買い、船内の暇に耐える。ただそれだけです。 さあ、エデンと呼ばれる夢の世界、“ヘブンゲヴン”への道は開かれました。皆様の訪問、心よりお待ちしております。 』 1 『 ヘブンゲヴンで、夢を超えた体験を! 疲労は苦味のアクセントに、憂鬱は灰汁として捨ててしまいましょう。あなたを癒す最高の体験を用意しています。 ヘブンゲヴンのシュガー海でバカンスを! 太陽の光を吸った砂浜に寝転んでみませんか。あなたの五感全てを駄目にしてしまうかも知れません。ですが気にしないで。これはバカンスであり、休暇なのですから。 喧騒を忘れてホエールウォッチング! 原住民のみんなが操縦する安心安全の船に乗り、全世界最大の鯨を見に行きましょう。運が良ければ、日光浴中の大陸鯨の背中に乗り、うたた寝ができるかもしれません。 グラスに冷えたナナープのスムージを入れて、乾杯を。 必要な物はありません。手ぶらのバカンスをお楽しみください。 日焼け止めは完備、全て無料です! 海に飽きたら、テサラップの山に登り、満天の星空を! ここでしか楽しめない自然を堪能しましょう。人類の介入がない雄大な大自然がそこには広がっています。 写真は、このテサラップ生態系の王、ラディオンです。 大人しい性格で、知的生命には危害を加えません。私が飼っているラディオンのモンローも、つい最近赤ちゃんを産みました。 可愛らしくて、天使のようです。 ですが気をつけて。どんなに可愛くても、生態系の頂点であるのには変わりません。誠意を持って接さなければ、帰る頃には笑顔が消えています。笑顔どころか、頭諸共消えていると言った方がわかりやすいでしょうか。 怖がらせるような事を言ってしまいましたが、御安心を。ここ数百年で、観光客が食い殺される事件は発生していません。誠意の欠片でも残っていれば大事なのですから。 賄賂も菓子折りも入りません。 何も持つ必要はありません。是非手ぶらでお越し下さい。 他にもたくさんの観光スポット! 下から上に流れるおかしな滝、金色の烏が案内役を務める、ティタンコンドルの巣穴探検。数多くの神秘体験が、皆様をお待ちしています! 必要な物は何一つとしてありません! 専門的な道具は全てこちらが用意します。日頃のストレス解消には、ヘブンゲヴン奇想天外旅行を!』 二 『 何も要らない! 最高レベルの気軽さを持つヘブンゲヴン旅行へ! 基本的な生活用品は、ロスディ観光案内所にて支給致します。全て無料、全て高品質です。 リントピーの歯磨き粉は、あなたに純白の輝きを与えます。刺激的な料理を、安心して楽しめます。 ブラシも支給されますので、持ち込みの必要はありません。 マダム・レイチェビッド・アンデルカンの万象ローブは、あなたの自然体験に多大なる貢献をしてくれます。寒風が吹くなら、それに合わせて体温を上げ、シュガー・ビーチの熱気があなたを包むなら、心地の良い冷気があなたの汗を拭き取ります。 重いバッグはいりません。想像してみてください。カイロも、着込むためのコートも入りません。手持ち扇風機も、小型クーラーも必要ありません。旅行用のキャリーケースは、心配と一緒に家へ置いていきましょう! 必要なのは憧れと肉体だけ。 ヘブンゲヴンで最高の一文無し旅行を!』 三 『 帰るのが辛い? それなら、帰った後も残り続ける最高のお土産を受け取って! ミスター・ドレーラク・ヘイヴィルの激甘俘虜飴を。永遠に無くならないこの飴は、舐めてる間あなたの脳の片隅にヘブンゲヴンを投射します。これで辛い労働中も、ヘブンゲヴンを想っていられます。頑張って働き、光学的越境船のチケット代を稼いで下さい。私達は、いつでも歓迎します。 天才少年クロッサ・ロセタルムの亜光速時計もおすすめです。 つまらなく価値のない地球生活の時間を、あなたの思いのままに操れます。面倒な労働も、これを使えば瞬きよりも早く終わる!お金を稼いでください。船のチケット代を稼いだら、楽園はすぐそこです。頑張って。 絶対に忘れられない体験を約束! ありきたりでつまらない低レベル国家を抜け出し、ハイレベルのエデン、ヘブンゲヴンへ! 私たちは、あなたの再訪ヲお待ちしております』
四度目の仏陀
曼荼羅にキリストの落書きが見つかったのはつい最近の事だ。 誰が描いたかは解明されていない。 胎蔵界曼荼羅らしき物に元から描かれていた見事な大日如来。その尊顔の真隣に、最後の晩餐のキリストが模写されていた。 これだけでも謎なのに、発見場所がメッカだという点がさらに謎を呼んでいる。 巷では、年の功を語る仏教に嫌気がさして手を組んだキリスト教とイスラム教の反乱だとか、三大宗教壊滅を狙ったヒンドゥー教の悪知恵だと言われている。噂が噂なだけに、それぞれの信徒達は憤りを隠せていない。 特に仏教徒は悲惨なまでに激昂していて、仏陀達を煩悩まみれな存在だと認識する事を、仏教に対する冒涜だと捉えている。その通りなのだが、奈良法師や山法師と呼ばれた日本の僧兵みたく暴れた所が良くなかった。自分らを棚に上げて煩悩について語るなど如何なものかと、世界中からのバッシングが止まらず、これにより仏教徒の大半は解脱失敗を余儀なくされた。 次に酷かったのはキリスト教の連中だ。 主張としては仏教徒とあまり変わらない。キリストは凡人に非ずという訳で、暴れなかったから仏教よりは罪が軽いというだけに他ならず、だからと言って曼荼羅に落書きは許されないだろうと罪を丁寧に着せた次第だ。 僕たち司法は当たり前のように宗教を裁いているが、残念ながら犯人発見には至っていない。キリスト教がやったというのも決めつけなのだが、聖書の教えが良かったのか、連中はすんなり受け入れてくれた。神を愛し、隣人である僕らを愛したという点では、彼らは宗教界の模範となるべき本物だと認めて良いだろう。 それならイスラム教はどうなのかというと、ベクトルが違うのだが、残念ながら彼らも例に漏れず醜い。 三大宗教の中では一番の演技派だという事になる。つまりは悲劇のヒロインを演じていたという事だ。 ただ存在していただけなのに、犯人探しに巻き込まれるこっちの身にもなって欲しいという切実な主張が、仏教風に言うと末法の世である現代社会に広がった。目に涙を浮かべて語る彼らの風貌は、キリスト教に対する敵対の色に染まっている。 しかしながら、彼らの主張はこの大事件をさらに混乱させる役割しか担えなかった。 人々が真っ先に疑うのは、やはり事件解決に積極的な協力をしない奴らなのだ。進展があるまで、イスラム教はその喉元に拳銃を突きつけられた。 幸いな事に新たな発見が早い段階で見つかったので、ムスリムはまだ生きている。アッラーの信用と引き換えに。 バンクシーを犯人として事件解決にしてしまおうとする意見が出始めた頃、その進展は見つかった。 大層な物言いの割には、曼荼羅のあちこちに焦げ跡が見つかったというあまりにも人を馬鹿にしたような内容だったが、これが意外にも役に立った。その有用性の割に対価もかなり安価で、基礎的な確認作業を怠り、事件を混乱させた老犬歴史家が数人免職に追い込まれた程度で済んだ。 発見された事象から、僕たち司法は、犯人としてゾロアスター教の連中の名を挙げた。世界最古の宗教であり、火を神聖視するアフラ・マズダーの信徒。 動機としての面は、皮肉な事にあまり変わっていない。年の功を語っても誰にも相手にされなかった事による嫉妬に違いない。 世界最古という、宗教界においては有利な立ち回りを可能とする最高の謳い文句を持っていたのにも関わらず、世界三大宗教に名を連ねる事が出来なかった。嫉妬や恨みは現三大宗教に向けられたという訳だ。 なぜ曼荼羅なのかについてもそれなりに予想が出来る。ゾロアスター教は火を神聖視し、穢れた人間を火葬する事がタブーになっている。末法の世である現在、世界には綺麗な人間などおらず、例外なく泥汚い。 それでも容赦なく火葬をする仏教が一番嫌いだったのだろう。火に対する冒涜を辞めない気狂い法師共に宣戦布告をするべく、曼荼羅を火であぶりキリストを描いた。多少の違いがあるにせよ、これを結論として事件解決は告げられた。 イスラム教は悲劇のヒロインの枠を出なかった。 本当は僕が犯人で、ヒンドゥー教が犯人なのだが、円満な解決が約束されているので、これ以上の深堀は野暮という物だ。 三大宗教として崇められていた全ては思いのほか陳腐だった。キリストも仏陀もアッラーも。アフラ・マズダーも例外じゃない。 サン・ヒャン・ウィディ・ワサこそ唯一神であり、その他は紛い物に過ぎない。 深紅の炎は其の為だけに存在し、其の為だけに描かれる。 数多の宗教が偽物だと知られた今、僕らバリ・ヒンドゥーのみ本物であり、『世界三大』なんかではなく、唯一宗教として、その名を連ねるのだ。