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『踊』という文字を見て、そいつがうやうやしくハカを踊る姿を想像できない。
『猫』という文字を見て、そいつが餅に苦戦して死にかけてる姿を想像することもできない。
平仮名も然り。『こころ』という文字を見て、何故Kの姿が浮かぶのか。それは僕の読書遍歴の流出ということになる。
こうして、字書きの嗜みが生まれる。
僕らの仕事は、文字を使役して様々な情景をコントロールすることにある。『コントロール』という言い方が気に食わないのなら、『創造』としても良い。それが意味するのが、自分に内在している宇宙を表現することであるのに変わりないのだから、結構なことであろう。
だからこそ、僕らの物語には違いがなければならない。ここで言う違いというのは、何もジャンルやストーリー性の類似ではない。そんなことを言ってしまえば、僕らは紫式部をトレースしている訳で、光源氏なんかに提訴されれば勝ち目がないのである。
僕が言いたいのはただ一つ。他者の小説は、教科書なんかではないってこと。彼らのそれは、楽しみでしかないのだ。メロスが走ろうが、ウサイン・ボルトが走ろうが、僕らは僕らだ。李徴子が虎になっても、僕らはただの旅行客に過ぎない。動物園を巡回する一般市民だ。
いいや勿論、そう言う書き手が高尚な存在である訳ではない。字に上手いも下手もない。それはただのアイデンティティだからだ。幼児の落書きに心を動かされる大人がいるのはその為で、その内、世界平和を樹立させる一歳児が誕生しても僕は驚かない。
僕らは、『人間』という十四画の線に収まる存在ではないのだ。
確かに、芋粥を食えない不細工や、K(もちろん前述の奴とは別人)の昇天に考えさせられる日はあるかもしれない。
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カテゴリー: 日記・エッセー
投稿日時: 2025/7/28 12:52
ot
フォロバしますが、投稿しなくなったら凹んで外します。