有陽 へいか
6 件の小説クソみたいなボクのクソみたいな落書き
ボクの目の前には、いつも大きな壁が立ちはだかっている。 ヒトが、一生をかけて越えようとする大きな壁。 でもボクみたいなヤツの人生一回ぽっちじゃ、こんな大きな壁は越えられやしないのだと、まだ成人すらしていないうちに思い知らされた。 「自業自得だ。身の程をわきまえないから。みっともない。」 大人はそう言う。 なぜそう責めるのか。 身の程に合わない、みっともない、そう言われるほどのこんなに大きな壁をたった一人で創り上げたのだからむしろ褒めてほしい。 越えられないくらいがちょうどいいじゃないか。 世の中に対する不満はボクの心臓を濁った色に染めた。 こんな不満を堂々と言いたかった。 もっと言うなら、堂々とモノを言えるだけの立場が欲しかった。 他とは違う何かが欲しかった。 いっそ醜いアヒルの子でありたかった。 それは、身の程をわきまえないワガママなのだろうか。 ボクは、いつになったらマトモになれるのだろう。 そんな思いを全部、絵という名の拳の中に封じ込めて、壁にぶつけた。 「夢」と名付けたその壁に。 ものすごく長い昼寝をしたような感覚だった。 それは、絵を描くことを、はじめて、心から、楽しいと思えたからかもしれない。 空は暗かった。 青い月が浮かんでいて、その周りを、夜行列車が飛び回っていた。 赤い服を着た子供たちが、屋根の上を走り回り、青白いピエロが古いステージの上で綱渡りをしている。 ボク以外の観客はいない。 独り占めしたような気分で、ボクはすっかり舞い上がっていた。 ボクはピエロのひとつひとつの動きを素早くスケッチブックに収める。 フィナーレが終わると、それを手渡すのが日課だ。 もう飽きるほどの回数を繰り返していても、ピエロは毎回毎回、心底嬉しそうな様子で、ボクの絵を大事に大事に抱えてくれる。 ボクにとっての唯一のファンだった。 その人の幸せそうな顔が、ボクの生きがいだ。 その人がいてくれるだけで、満ち足りた気持ちになる。 売れっ子画家になれなくたって、ボクは幸せだ。 _そんな夢を描いた。 ある日、壁に小さなシミができているのを見つけた。 その日は、何故だか、これ以上なく焦っていた。 焦りに任せ、急いでその汚れを拭きとろうとした。 早く、早く、拭き取らないと。 得体の知れない焦燥感に駆られていた。 そんな気持ちと裏腹に、指で擦るたび、汚れは大きくなっていく。 取り返しのつかないところまで来てしまったと分かったけれど、後戻りはできなかった。 すっかり大きくなった汚れは、徐々に姿を変え、やがて壁を蝕むモンスターになった。 数分もしないうちに穴があいて、その穴から、どす黒い何かが流れ込んでくる。 ゆっくりと流れてくるソレを、ボクはただ、見ていた。 足元からボクを覆うようにせりあがってくる。 ボクもやがて蝕まれてしまう。 分かっているけれど、振り払うような気力はなかった。 「やっぱり無理だったね。」 脚を覆うソレから、声が聞こえた。 「私はお前のために言っているのに、この親不孝。」 誰だろう。 知らない。 そう思ううちに、ソレは胸に届こうとしている。 「お前って馬鹿だよな。みんなお前のためを思って言ってくれているのに。」 うるさい。 黙れ。 「何の為に生まれてきたの」 「どうして生まれてきたの」 「消えろ」 「さっさと出て行け」 「顔も見たくない」 「みっともない」 「恥晒し」 「これ以上迷惑をかけないで」 「大人しくしていればいいのに」 「余計なことをしないで」 「何がしたいの」 「どうせ失敗する」 「泣きついてきても知らないから」 「誰も助けてくれないよ」 「勝手にしろ」 聞き覚えのある何者かの声。 ボクは、ただ、声にならない声を上げることしかできなかった。 目の前が、黒く染まる。 全身に、あの声がこびりついているのが分かった。 上京してきて約三ヶ月が経った。 大学には私以上の変わり者がうじゃうじゃいたけど、意外とすぐに馴染むことができて、それなりに楽しい日々を送っている。 それでも一人暮らしには悩みがつきものだった。 まさかこのご時世にご近所付き合いで悩むとは思っていなかったけれど。 同じく大学に進学するとともに上京してきた隣の美大生のことだ。 大家さんから、上京してから精神がやられてしまったらしいと聞いた。 似たような境遇の人は何人か知っている。 勝手にその人に共感しては、 「私は人の心を考えられる素敵な人である」などと勘違いしたりするが、実際に接してみるとダメだ。 付き合っていられない。 毎日毎日あんな叫び声を聞いていては、こっちまで気が狂ってしまう。 好条件だからとためらっていたが、そろそろ引っ越しも視野に入れるべきかもしれない。
第5回N1 memorys of empire
彼女はあから始まる苗字を嫌がっていた。 何でもかんでも最初にやらされるのが我慢ならない、と。 ペンネームが「ワタリドリ」だと聞いて、 冗談半分だと思っていたそれが割と本気だったことが判明。 五十音順に並んだ棚を、しゃがんで下から一つずつ指を滑らせる。 姉から、彼女の小説が出版されたと聞いたのは随分と前だったが、 久々の再会が小説の中なのはちょっと嫌だと思って、読むのを後回しにしていた。 しかし今朝、まだ読んでいないのか、姪っ子の小説を読みたくないのかと怒りの電話があったので、今買って、実家へ向かう新幹線の中で読むことにする。 二十歳を超えて初めての帰省。 絞ったら滴りそうなほど呑まされると 相場で決まっている。 うっすらと陰鬱なもやがかかる。 再び指を滑らせると、見つけた。 二、三冊重なった中の一つを、 四、五十代の、やけにラフな格好をした女性が手に取って、レジに向かっていく。 なんとも、誇らしい。 次には、寂しかった。 好きなアイドルが結婚した時のような、そんなふうな。 ところでその本はといえば、 アイドルなら絶対に書かないような 不穏なオーラを放っていた。 どうしちまったというんだ、一体。 一抹の不安を覚えながら、書店を後にした。 新幹線の中だけではギリギリ読み終わらなくて、片手に本を持ったまま実家へ帰った。 別に着いてから読んでもよかったけれど、 想像以上に面白くて、ついつい歩きスマホならぬ歩き読書してしまった。 二宮金次郎もびっくり。 恋愛小説と聞いていたけど、ちょっと斜め上のテイストで呆然としてしまった。 女子高生とは、ちょっと思えない。 さらに実話をもとにしているというのだから尚更だ。 玄関に入るのをちょっと躊躇ってしまう。 気まずい。 やっぱり、久しぶりの再会を小説で済ませるべきではなかった。 そう、久しぶりの実家。 それなりに広い一軒家で、親戚がしょっちゅう集まって、私は二階にある自分の部屋に引きこもって。 そういう場所。 流石に古ぼけているが、大した違いではない。 大きく変わったこと、といえば、 ベランダに見覚えのない少女がいること、くらい。 目鼻立ちが整っていて、美しい。 メイクやヘアセットで努力する人もいるが、 彼女はそういうのじゃなくて、 メガネを外したら化けるとか、 クラスでは目立たない子が本気出したら、 とか、そういう天性のものだと思う。 思い当たる人といえば一人。 あのトンデモ小説を書いた姪っ子。 ようやく腹を括って、目が悪いと錯覚するようなすりガラスの玄関を開けた。 申し訳程度に、 _ただいま。 結論から言うと、あの少女は思った通り、姪っ子だった。 親戚が集まりすぎて部屋が足りないから、 私の部屋に泊めることにした、と急に言われて頭を抱えた。 相部屋。ぶっちゃけ嫌だ。気まずい。 この美少女は、時間が止まったみたいに動かないし、しゃべらない。 流石に耐えかねる。 「…小説、読んだよ。凄いね。」 我ながらクソみたいな感想。 当たり障りのないことが全て詰まっている。 沈黙よりは、幾分かマシだろうか。 「…ありがとう。突然ですね。…当たり障りのないことしか言わないってことは、そういうことだ。」 敬語とタメ口が混ざっていて、気まずさが伝わってくる。 それでもはっきりと言うところが彼女の図太さを表している。 「そういうこと、ってのが下手ってことだとすれば違うけど。刺激が強かった、かも…?」 「恋人が死ぬところ?」 図星。 「…そうだね。」 主人公の恋人は、車に頭を潰されて死ぬ。 実話をもとにしているということは、つまり、彼女の恋人ということ。 気まずさの原因。 「実話をもとにしているとはいっても、結構盛ってるけど。まぁ、死んだのは事実だから、関係ないか。見ます?恋人の歯。あの公園わりと近くっすよ。」 微笑。 主人公は、潰された恋人の歯を拾って、馴染みの公園の砂場に埋める。 「…見たいの?」 動揺。 「どうだろ。…あ、もうこんな時間。流石に寝ます。」 ベッドの下に敷かれた布団に勢いよくダイブする。 私も、さっさと寝ることにした。 あまりよく寝られなかった。 彼女もそうだったみたいで、こちらの様子を伺っているように見えた。 「起きてます?」 20デシベルくらいの声。 それでも静寂が濃いせいで、少しうるさい。 「…まあ、起きてるけど。」 「公園、行こうよ。」 「え」 予想外だった。 でも、そう言うように誘導したのは自分だという気がした。 「いいよ。」 寝巻きの上に、昨日のコートを着て、 なんとなく髪も結んで、朝の散歩、というにはあまりにも異様な雰囲気の中、 知らない人の歯を見に出かけた。 酔いの抜けない早朝は、夜を泥水で薄めたような不快さだった。 当たり前だけど、公園には誰もいなくて、 記憶より古ぼけて、色褪せていた。 「盛ってない、本当の話をしてもいいですか。」 「唐突だね。いいけど。」 彼女の表情筋が少し緩んだ。 わたしには、親友ってやつがいた。 出席番号が近くて、気さくで、 小学一年生とは思えないくらいしっかりしてた。 それからずっとクラスも一緒だったし、 親友と言っていいのは間違いなかった。 放課後には、公園に行って、砂場で遊んだ。 推しに貢ぐのが義務だというのなら、 親友と遊ぶのだって義務だ。 それくらい当たり前になってた。 二人でお城を作るのが好きだった。 あるときは一週間くらいかかった。 今思えば、誰もあの作りかけのお城に手を出さずに保存しておいてくれたことはすごい。 超大作を作って、帝国の王様になった気分で ごっこ遊びをした。 高学年になると、だんだん、親友という定義がわからなくなった。 恋愛感情と、友情の区別がつかなくなった。 困惑した。だって、わたしの親友は女の子だから。 でも、焦りはなかった。 いつか、自分の中で区別がつけられると思っていたから。 これからも一緒にいられると思っていたから。 いつでも、伝えられると信じていたから。 区別がついたのは、彼女が死んでからだった。 もっと早く気づかなかった理由がわからなかった。 「実は、今でも持ってる。あの歯。 埋めるとか無理だったし。だから、今日こそと思って。」 そう言いながら、せっせと砂を掘っている。 何センチか掘って、ポケットからキャラクターもののピルケースを取り出した。 ようやく冴えてきた頭で認識できた白い塊、あれがきっと歯。 そっと底に置いて、ラグがあって、上に砂をかけた。 「もう誰も好きになれない。」 「未亡人みたいなこと言うね。」 「気分は未亡人だよ。…あの頃は、友情との区別もつかなかったのにな、なんでだろ、」 だからこそ、だと思った。 思い出は美化される。 迷っていたことは、都合のいいほうに書き換えられる。 そういうことなんじゃないかと。 「お城、作ってから帰る?」 そう言ってみた。 「帝国がいい。王様になりたい気分。」 夜が明けようとしている。 空はもう濁っていない。
「第4回N 1決勝」変人。
「これ、よかったらどうぞ」 少し赤みがかった彼の手にはバドミントンの羽が、非常に幸運だというように佇んでいる。 このような変人に主導権を握られて、どこが幸運なのか私には到底理解のしようが無い。 わたしの?を、彼は非常に敏感に感じ取った。 「だって、なんかカワイイじゃないですか。」 WもHもYも待たずに、少し跳ね上がった口調でそう言う。 彼がこうして家に来るたび、 若気の至りというものを呪い、愛しく思う。 かつてのクソ女は、わたしとの間に、文字通り壁を築いた。 壁の隣からは女と男の幸せな音色が染み出して、わたしを柔らかく汚し続ける。 かつてのあの華奢な薬指にはいつしかダイヤのリングが反射していた。 あの頃の左耳のリングの方が百倍綺麗だったと恨めしい。 歪みあったあの日々を裏切るように生まれた彼は「妹子」と名付けられた。 毎度彼女のセンスには驚かされる。 そんな妹子が握るバドミントンの羽は、 母親と同じ変人の象徴。 私は変人を求めた。 甘い、粉薬みたいな変人の匂いに誘われ、たどり着いた巣窟にはアイツしかいなかった。 十分だった。 彼が綴る文字をただ月刊誌に転生させる。 そうして変人と共存する。 Gペンと指との間に、切り揃えたベリーショートが触れる。 七・五センチ長いロン毛よりワンテンポ早く手を動かす彼の横顔はピカソを彷彿とさせる。 「貴女はね、グロさに対する殻を破れてないんです。血や、臓物への美しさとリスペクトがないんですよ。分かる?」 原稿用紙の中では死刑囚である彼はそう言ってそこそこに深い接吻をする。 悍ましくて、汚くて、中毒性のあるソレに軽々しく触れないために、腕を改造しまくって、挙句原型も留めない。 そんな腕を、あのクソ女の名前のタトゥーで動かしている。 薄い青髪の少女が、五臓六腑を撒き散らしながら崩れ落ちる。 そんな夢を見た。 ロン毛のアイツが産み落としたはずの少女は、どうしてだか私の絵柄で、 私の遺伝子のみを受け継いでいる。 倦怠感が抜けない午後に、 サイン書いてと頼んだ玄関口の妹子に、 せっかくだからあの衝撃映像を再現しておまけとしてあげた。 彼は有頂天の表情をして、足元をおぼつかせつつ隣の部屋へ帰った。 やっぱり変人だよなぁと、脳みそが全自動でタイピングする。 アイツも、アイツも、アイツも、 全員が、変人。 だが、私はどうだ。 茶葉が染み出すのを待てず飲んだ麦茶の薄さ。 引越しのマークのついた不思議な感触がするパーテーションに爪を立てて書いたハート。 隣に描かれたSEXの文字でさえ、私より上品に思える。 平凡。 変人は超人。 周りの奴らを見渡せば、 そんな格言が行書体で佇む。 変人。変人。 午前六時のアラームより煩い。 変人。変人。 そのコールのテンポが速くなるのに比例して、呼吸が荒くなる。 頭痛が痛い。 そんな一言で、約五分ほど爆笑していた。 落下した薬箱の下敷きになったパッションピンクの粉薬が、何よりも鮮やかに映った。 取り敢えず三つ取り出し、気管支に直接塗りたくる。 むせ返った顔は、ピンクで、それはそれはひどい顔だった。 いたわるように、もらったあのバドミントンの羽でヘッドマッサージをした。 アイツにもやってあげようか。 さぞかし、くすぐったがるだろうよ。
「第4回N-1」 破裂音
小さな破裂音がした。 気がつくと、頬がかすかに熱くて、 汚らしい父の手形がそれを冷やしていた。 床に引かれた螺旋状の紅は、 呼吸よりも、体温よりも鮮やかに、 ぼくという人物を映し出していく。 小さな破裂音がした。 部屋の隅。 擦れた縄の上を、細い、細い足首が リズミカルに半円を描いた。 あの華奢な横顔はぼくと雌雄同体で、 微かな妖艶さがぼくと彼女とを見分ける唯一の方法であった。 視線の先の窓ではキツネが祝言をあげていた。 彼女は着ないあのウェディングドレスと不釣り合いの、キツイ顔つきをしている。 小さな破裂音がした。 昼下がりの公園。 面白みのない統一された幼い色が溢れかえっている。 ぼくらも長いものに巻かれ、同じパステルのスモックをそれっぽく身につけた。 ぼくらは当時からひねくれていた。 やけにおませさんだった彼女は 母の赤い口紅を毎日欠かさず塗り、あちこちの遊具を赤く汚したものだった。 幼児には到底似合わないはずのそれは彼女にピッタリとくっついて離れず、そこらのグラビアアイドルを見下す目つきをしていた。 顎までの黒髪は、対照的に無邪気に暴れ回った。 彼女に好意を寄せる男は少なからずいて、 愚かだよなぁ、と思いつつ縄跳びを飛ぶのは週一くらいのルーティーンになりつつあった。 彼らを愚かだと言えるのはぼくが彼らよりも愚かだからだ。 そう気づいたぼくは、自分が同性愛者だと言い聞かせ、彼女のお目付け役気取りで、あえて女っぽく振る舞った。 小さな破裂音がした。 可愛らしいお猪口が首を落とされた音。 グロテスクなこの音に慣れつつある自分が 怖いなーと思いつつ、さっと片付ける。 中学生になるこの頃には、父の酒癖が悪いことに気がついていた。 散財の結晶であるあのたくさんの瓶は、 いっそ美しいとさえ思えた。 彼女はそれらの瓶から一口分ずつ取り出して、軽く混ぜたそれを差し出した。 脳天を突き刺す刺激的な苦味と、 明らかにアルコールが原因ではない独創的な味は彼女の全てを象徴していた。 小さな破裂音がした。 クラッカーの先端から歓喜を固めた煙が昇る。 高校生になった彼女は、女優を目指し、日常的にオーディションを受けた。 合否を知らせるのは彼女が持つクラッカー。 なぜ祝われる本人に持たれているのか、 あのクラッカーも疑問だったろう。 映画やドラマが嫌いだった彼女は、 「演じること自体は嫌い。 演じることで理想の自分を見つけられるならいいかなって我慢してるだけ。 あ、でも、お金貰えないならやらない。」 とさっぱりしている割に、素人目に見てもはっきりとわかるくらい輝いていた。 そして、父の機嫌が良くなるくらいには、 才能があった。 小さな破裂音がした。 テレビ画面から溢れでるそれは人工的な形のまま堂々としていた。 かつて無邪気な少女だった彼女は、 テレビ画面の中でいやらしく舞っている。 三枚目の男優が縄跳びを振り下ろした。 残った赤い痣はどんな口紅よりも上品だった。 キツいピンクの幕を潜ったもののみ手に入れられる限定品の彼女は、少し前の輝きがなくなって、酷く醜かった。 その徒労を象徴する準新作DVDのパッケージを見た父は腹を立てた。 物好きだとでも思われているんだろうな、 と、あのバイトのやる気のない 「お客さん結構マニアの方っすか。」 を思い出す。 堕ちるとこまで、堕ちたんだと悟った。 小さな破裂音がした。 グラスの中で、氷が欠けた。 手当たり次第に酒の瓶を取り出し、 とにかく全てを混ぜた。 かつての彼女の味とは程遠かった。 分かりきっていたことだったので、 わざわざ作り直したりしなかった。 グラスを持ったまま、棚の奥底から古の履歴書を取り出し、一心不乱に書いた。 小さな破裂音がした。 長机に座る疲れた中年どもの拍手。 手応えアリ。 したり顔を抑え、次の言葉を待つ。 「えーお帰りくださって結構です。」 労いの言葉もかけられないほど疲れている中年に、 「ご苦労なことよ、」 という代わりに、 「ありがとうございました。」 と一礼。 数日後、A4サイズの紙に合格の文字が浮かんでいるのを見た。 小さな破裂音がした。 始まりのカチンコの音。 動揺を隠せない彼女をベッドに寝かせ、 手順通りに動かす。 ピンクのライトに照らされ、共鳴する。 プロ根性で手順に喰らいつく彼女は 相変わらずつまらない。 共演した男優に露骨にヨイショされて、 カシオレなんかで可愛子ぶったりしてたのがバレバレなんだよ。 手順通りに、なんかやるわけないだろ。 これは君を再び輝かせるための戦いだ。 もっと乱されろ。もっと。 そして昔のように誘惑してみろ。 かつて愚かな男を見下していたあの縄跳びで君を叩く。 あのアザだけは美しかったから。 大きな破裂音が鳴った。 スタッフの驚愕の目線を強く感じる。 ああ、あの時の赤より数倍は美しい。 君はぼくから縄跳びを奪い取り、思い切り叩く。 くらっとするほど妖艶だった。
澄んだ林檎
I‘ll never be able to give up on you なんて、そんな澄んだ声で唄わないでほしい。 ここでキスするつもりなんてないから。 月が綺麗って言葉に、 届かないから綺麗だって返したことを 後悔してしまうから。 隣の部屋の彼女は椎名林檎が好きだった。 毎日のようにアコースティックギターと 澄んだ歌声が ベランダから、マーブル状に染み出していたものだった。 短い黒髪をはためかせて自慢げな顔を向ける度、 「椎名林檎はそんな澄んだ声で歌うもんじゃない」って、 ベランダ越しの輝きから目を背けた。 もし、才能を認めれば、 僕の働く音楽会社に推薦するようせがまれるって、分かっていたから。 ぶっちゃけてしまうと、それは厭だった。 ずっと僕のためだけに歌って欲しかった。 だけど、 月が綺麗ですねって彼女が言ったとき、 恐れてしまった。 女子高生とアラサーのアンマッチさ、 インモラルさ、 彼女のパワフルさ。 彼女の持つ輝き全て。 あまりにも若すぎた。 「届かないから綺麗なんだよ」 君は知らないだろう。 ベランダを隔てた距離は思うより遠いってこと。 君は間違ってる。 この場合の月が僕ではないことは、 誰がみても明らかだから。 春風がひんやりと背中をくすぐった。 それからというもの、嫌がらせみたいに I‘ll never be able to give up on you と歌声が聴こえる。 諦められないと歌っているけれど、 今更好きって言ったって、 君は遅いと笑って僕をフるのでしょう? 「意地悪。」 アラサーとてフラれるのは厭なので、 その言葉の代わりに、 良く熟れた林檎を投げ込んでやった。
「第3回N1」デイブレイク
愛おしい程の曇天が この度晴れてニートとなった俺を祝福している様だった。 体内の温度計は36℃を記録している。 そんな夜であるのに、 最寄りの自販機には ″あったか〜い″の文字が並んでいる。 その内の珈琲を頼む変わり者が俺。 都内某所のゴミ捨て場で 空き缶を持て余していると、 見覚えのある飛行機の玩具が破けたゴミ袋から溢れているのを見つけた。 あちこちが壊れている割に、綺麗に手入れされているソレ。 つるりとした感触のするソレ。 「さわんなクソにぃ」 聞き覚えのある声。 「飛来(ヒラ)?飛来なの?何でここに?」 黒髪の俺に対して くせ毛茶髪ロングの彼女。 青黒くて濁った眼の俺に対して、 赤茶色で澄んだ眼の彼女。 腹違いの妹は俺と真反対の 天使みたいな可愛らしい美貌を持っている。 「おにぃがシュウカツ失敗したせいで 家がピリッピリしてるの。 おにぃの悪口ばっか言って。 ぼくのお気に入りのコレもわざわざこーんな遠くに捨てにきてさ。 おにぃへの当てつけだよ、きっと。 ここまで来るの大変だったんだから。 責任取ってしばらく泊めて。」 奪い取ったアレをモルモットみたいに抱えながら捲し立てる。 「わかったよ。」 渋々、という顔を作って、 家という名の飛来専用ホテルまで エスコートする。 七年ぶりに会う飛来は お邪魔します、も久しぶり、も言わずに まだ四歳だったあの頃みたいに ブーンといって飛行機を飛ばしている。 リクエストのマルゲリータが届いたので、 押入れから丸テーブルを出して広げる。 上品さのカケラも無い宅配ピザですけど、 何か? ニートを嘲笑う天の声に言い返す。 言い出しっぺの彼女は、 待ちきれないと言って 座るよりも前に勢いよくピザに齧り付き、 唇を油でキラキラとさせている。 リップを塗ったみたいなソレは 年不相応に色っぽくて、引き込まれる。 口をトマトソースで汚しながら 掃除機みたいに食べていく。 「お口が汚れておりますよお嬢さん」 唇を指で拭ってやる。 フニっとした柔らかい感触。 サーモンピンクの可愛らしい見た目にふさわしい。 彼女は色々なところが斜め上で面白かった。 例えば、食の好み。 カレーよりもハヤシライスが好き。 ハンバーグよりもチキンソテーが好き。 プリンよりもミルクプリンが好き。 飛行機が好きだという彼女に、 どういうところが好きなのかと問うと、 「カオのぉ 丸い部分。」 だそうな。 そんな彼女の子供らしいところといえば、 飛行機を見ている時の顔だろうか。 うちの目の前にある歩道橋で 小一時間くらい飛行機を眺めるのがブームだった。 近くに空港があるので、飛行機なんか 星の様にじゃんじゃか降ってくる。 そう言えばこの歩道橋は、 日本一飛行機と近い場所ーとかって ローカル局で紹介されていた。 そんな歩道橋を彼女は目ざとく見つけて、 俺が暇なのをいいことに、 毎日の様に付き合わされる。 ものすごいスピードで頂上まで昇り、 大きな眼をきゅるきゅるきらきらとさせて、 微笑を浮かべながらひたすらに空を見据える。 その横顔は カップルを探すキューピッド。 あるいは 初めての地上にワクワクする天使。 そんな風に可愛らしい。 愛おしくて愛おしくて。 頬にそっとキスをする。 彼女はほんのりと桜色になった。 夕焼けの淡い蜜柑色の光と 真っ白な飛行機が鋭く照らす。 それに呼応する様に彼女を抱く力が強まる。 頭上を風が掠め、飛行機雲が纏わりつく。 ぼくらは胃もたれしそうな甘ったるいディープキスをした。 日曜日、今日は堕落する日。 いつも堕落していると言えばしているのだが、このスペシャルデイには一層堕落するものだ。 朝からウーバーイーツを呼びつけ、 パンケーキとシーザーサラダを食べる。 と言ってもほぼお昼。 日が沈んだ頃に再びウーバーイーツを呼びつけ、マックと、カツ丼と、パスタ、その他諸々を食らう。 ジャンルを無視した組み合わせだけれど、 意外とイケるものもあって、 二人で食の研究者になりきって実験をする。 今回はあまり成果が得られなかったが、 そう簡単に成功する様な実験では無い。 飛来教授、来週も宜しくお願いします。 お互い敬礼し合う。 その時、スマホがバイブ音をたてた。 画面には″叔母″の文字。 ベランダで応答する。 「もしもし」 「もしもし?あのね、あのね、 落ち着いて聞いてね。 お父さんとお母さんがね、 ………亡くなったの……!」 「…え、どういうことですか」 気温が急に二℃ほど下がった。 「そのままよ。包丁でズタズタにされて…っ 死後一ヶ月くらい経ってるって。 それで、警察が飛来″くん″を疑ってるの。 ほら、飛来″くん″ってほら、アレじゃない… だから、揉めてたみたいで…ぅぅ… 何で…なんで……!」 「馬鹿な……。」 スマホを握り潰すみたいにしてうずくまった。 一ヶ月。ちょうど飛来が来た時期。 辻褄は合う。 本当に、ほんとうに……? 顔を引っ叩いて、頬をつねって、口角を無理やりあげて、家の中に戻る。 「飛来……?」 飛来がいない。 まさか、さっきのを訊かれていたのか。 飛来。飛来。飛来飛来飛来飛来…! やばい。やばい。 サンダルの踵を踏んだまま アテもなくダッシュする。 「飛来!!」 近所迷惑とかどうでも良かった。 兎に角、愛するあの子を連れ戻さなきゃ。 飛来……飛来飛来飛来飛来飛来飛来………! 気が付けば、月は消えかかっていた。 酷い喪失感と、疲れと、眠気と、愛おしさと、それからそれから。 全てを魔女の大鍋でコトコト煮込みながら 帰路に着く。 どうしようもなかった。 ただいまを言う相手はいないのだから。 リビングの中心。 羽をもがれて、ほっそーい命綱をズタズタに千切られて、全てを失った飛来がいた。 あゝごめん。ごめん…! 俺は知っていたのに。 飛来の心と体に別々の空が広がっていることを。 「あゝあゝあゝあゝあゝあゝあゝあゝ嗚呼ああアア嗚呼嗚呼ああ!!!!」 心臓が渇くまでひたすら泣いた。 空が白む頃、顔は涙でベタベタになって、 石膏で固められたみたいに動かなかった。 でも心臓は渇ききらなくて、ホースみたいにただ塩水を垂れ流していた。 その時、黒い影が通った。 アレが、死神なのだと直感した。 「返してよぉ…お前んじゃねえんだよ、俺の…私のおおぉ…!」 飛来を救ってやれるのは私しかいなかった。 だって私も同じだから。 なのに、なのに…! 突然無気力になって 大の字で空を仰ぐ。 白くて、生活感のない天井。 もう何もかも失った。 空には飛行機が あの頃みたく規則性のない飛行機雲を描いている。 愛おしいほど清らかな白。 それは僕等の別れを祝福している様だった。