雨青

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雨青

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愛

 彼は、いつも私の帰りを待っていた。  仕事で遅くなった日も、友人と遊んで帰った日も、玄関の扉を開ければ、必ず彼がいた。 「おかえり」 「ただいま。今日も起きてたの?」 「うん。待ってた」  そう言って笑う彼が、私は好きだった。  付き合って二年。  彼は優しくて、穏やかで、私のことを何よりも大切にしてくれる。  少し心配性なところはあるけれど、それも愛情の裏返しだと思っていた。 「ねえ、今度の休み、友達と旅行に行ってもいい?」 「いいよ」 「二泊三日なんだけど」 「うん。楽しんできて」  あまりにもあっさりと了承されて、私は拍子抜けした。 「寂しくないの?」  冗談めかして尋ねると、彼は私の頭を撫でた。 「寂しいよ」 「じゃあ、行かない方がいい?」 「どうして?」 「だって……」 「君が楽しいなら、それでいいんだよ」  優しい人だ。  私は彼の胸に頬を寄せた。 「大好き」 「……うん」  彼は私を抱きしめた。  ひどく、強く。  まるで、逃がさないように。  *  旅行は楽しかった。  久しぶりに会った友人たちと観光をして、美味しいものを食べて、夜遅くまで話し込んだ。  彼からの連絡は、朝と夜に一通ずつ。 『おはよう。今日も楽しんでね』 『おやすみ。帰ってくるの、待ってる』  それだけだった。  束縛もされない。行動を制限されることもない。  私にはもったいないくらいの恋人だと思う。  帰りの電車で、私は彼にメッセージを送った。 『もうすぐ着くよ!』  すぐに返信が来た。 『うん。おかえり』  思わず笑ってしまう。  まだ帰っていないのに。  * 「ただいま!」  玄関を開けると、彼が立っていた。 「おかえり」  いつもと同じ笑顔。  いつもと同じ声。  私は荷物を置いて、彼に抱きついた。 「会いたかった!」 「……俺も」 「寂しかった?」 「うん」 「三日間、何してたの?」 「君のこと、考えてた」 「もう。大げさだなあ」  笑いながら顔を上げる。  彼は笑っていなかった。 「ねえ」 「ん?」 「もし、俺がいなくなったらどうする?」  唐突な質問だった。 「え? どうしたの、急に」 「もしもの話」 「悲しいに決まってるじゃん」 「どれくらい?」 「どれくらいって……」  私は困って笑った。 「そんなの、分からないよ」 「そっか」  彼は納得したように頷いた。 「ごめん。変なこと聞いて」  その夜、彼はいつもより長く私を抱きしめていた。  私は気づかなかった。  彼が何度も、何度も、私の名前を呼んでいたことに。  *  翌朝。  彼は仕事に出かけ、私は一人で部屋の掃除をしていた。  ふと、寝室の棚に見慣れない箱があることに気づいた。  彼のものだろうか。  開けるつもりはなかった。  ただ、棚の上から落ちそうになった箱を手に取っただけだった。  蓋が少し開いていた。  中には、写真が入っていた。  私の写真だった。  初めてデートした日の写真。  彼の誕生日にケーキを作った日の写真。  ソファで眠っている写真。  どれも、私が撮った覚えのないものばかりだった。  不思議に思って、一番下の紙を取り出した。  そこには、日付と短い文章が並んでいた。 『五月十二日。彼女が初めて好きだと言ってくれた』 『六月三日。今日は帰りが遅かった。無事に帰ってきてくれてよかった』 『八月二十日。彼女が友人と出かけた。笑っていた。よかった』  そして、一番新しい日付。  昨日の日付。 『三日間、彼女がいなかった』  その下に、何度も書き直したような跡があった。  最後に残された一文を読んで、私は息を止めた。 『彼女がいなくても生きていける人間になろうと思った』  その下には、続きがあった。 『無理だった』  玄関の扉が開いた。 「ただいま」  彼の声がする。  私は慌てて箱を閉じた。 「おかえり」  いつもどおりに笑おうとした。  彼は私の顔を見て、少し首を傾げた。 「どうしたの?」 「ううん。なんでもない」 「……そっか」  彼は靴を脱いで、こちらへ歩いてきた。  そして、私の手から箱をそっと取り上げた。 「ああ、見ちゃったんだ」  責める声ではなかった。  むしろ、どこか安心したような声だった。 「ごめん。勝手に見るつもりじゃ……」 「いいよ」  彼は箱を棚に戻した。 「いつか、知ってほしかったから」  私は彼を見つめた。 「ねえ、これって……」 「うん」  彼は私の頬に触れた。 「君が好きなんだ」 「……うん」 「君が思ってるより、ずっと」  穏やかな声だった。  優しい手つきだった。  だからこそ、私は何も言えなかった。  彼は少しだけ笑って、私を抱きしめた。 「大丈夫。君は何も心配しなくていいよ」  耳元で、彼が囁く。 「俺、君のことなら何でも我慢できるから」  少し間を置いて。 「君が俺を好きじゃなくなっても」  背中に回された腕に、わずかに力がこもった。 「君が誰かを好きになっても」  そして。 「君が俺のことを忘れてしまっても」  彼は、いつもの優しい声で言った。 「俺は君を好きでいるよ」  私は彼の胸に顔を埋めた。  嬉しいはずだった。  こんなにも愛されているのだから。  なのに、なぜだろう。  彼が次に口にした言葉が、どうしても頭から離れなかった。 「だからさ」  彼は笑った。 「俺のこと、嫌いにならないでね」  ――その声が、今まで聞いたどんな声よりも切実だったから。  *  その日の夜。  彼が眠ったあと、私はふと、棚の箱が気になった。  もう一度開けるつもりはなかった。  ただ、あの紙の裏側に、何か書いてあった気がしたのだ。  そっと箱を取り出す。  最後の紙を裏返す。  そこには、小さな文字でこう書かれていた。 『彼女が俺を必要としなくなったとき、俺はきっと、彼女を自由にしてあげられない』  その下には、さらに小さな文字。 『だから、そうなる前に、もっと優しくなろう』  私は紙を戻した。  隣で眠る彼の顔を見る。  彼は穏やかな表情をしていた。  いつも私を安心させてくれる、優しい顔。  そのとき、彼が目を閉じたまま、私の手を握った。 「……どこにも行かないで」  寝言だった。  そう思いたかった。  彼の指が、私の指に絡む。 「お願いだから」  そして彼は、泣きそうな声で囁いた。 「俺には、君しかいないんだ」  私は答えられなかった。  彼は、私が思っていたよりずっと弱い人だった。  そして、私が思っていたよりずっと――。  私を手放すつもりのない人だった。

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何よりも、大切な君を

僕は、幼稚園の頃から好きな人がいる。 気づかれないように、ずっと思い続けてきた。 何よりも、誰よりも愛している。 狂おしいほどに、可愛い。 そんな人だから、当然のようにたくさんの悪い虫が集ろうとしていた。 ーー大丈夫、全部から君を、守ってあげるから。 何があろうとも、何を犠牲にしても、君に害をなすものには容赦しないって決めたんだ。 僕は心から君の幸せを願ってる。 でも、その隣にいられるのは僕だけでいい。 ねぇ、僕を選んでくれるよね? そうしないなら、全部、全部壊してしまおう。 君が選んでくれない僕なんて、何の意味も持たない。 そうして、物言わなくなった君を。 いつまでも、いつまでも残せるように。 真空なら、腐らないのかな? 分からないけど、僕ならどんな君でも愛してあげられる。 だから、心配しなくていいよ。 君が、どんな答えを選んでも、ずっとそばに居るから。 病めるときも、健やかなるときも。 例え、世界が滅ぼうとも、君だけは幸せにする。 誓おう。 これだけは、永遠だって信じられる。

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第5回NSS 君のいたベランダ 

「バサッ、バサッ」 隣のベランダから聞こえてきた洗濯物の音に、ふと手が止まる。 風に煽られたシャツが物干し竿を叩いている。 それだけなのに、どうしてか君のことを思います。 昔、二人で暮らしていたとき。 君はいつも、洗濯物を干してくれていた。 洗濯物をふわふわにして、アイロンまでかけてくれた。 代わりに俺は掃除と皿洗いをする。 そんな暗黙の了解があった。 「ちょっと!手伝ってよ」 そう言いながら、俺に洗濯ばさみを渡してくる君。 少し嫌そうに受け取ると、君はいつも笑っていた。 そんな何気ない時間が、ずっと続くものだと思っていた。 別れた理由なんて、今となっては些細なことだ。 素直に慣れずに、君なら分かってくれると思って、ちゃんと君の気持ちを聞かなかった。 君がいた最後の日も、洗濯物がいつも通りベランダで揺れていた。 「バサッ、バサッ」 手元で、聞き慣れた日常の同じ音がする。 けれど、もう隣に君はいない。 取り込んだシャツを畳みながら、ふと気づく。 俺が恋しいのは、君だけじゃない。 君と過ごした、あのささやかで幸せだった毎日なんだ。 FLAP

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第5回NSS 君のいたベランダ 

大好きな君へ

彼女が好きだ。  芯があるところと、屈託なく笑うところも。 目が合うだけで、どうしようもなく胸が高まってしまう。 ー心臓の音が聞こえませんように、そう祈る。 いつからだろう、君のことが気になり出したのは。 最初はただの友達だったのに、いつの間にか恋に落ちていた。 それは、突然で。 でも、少しも嫌じゃなかった。 ささやかで淡い気持ちは、僕のありきたりな日常を特別にしてくれた。 彼女のことを想うだけで、思わず頬が緩んでしまう。 彼女が同じ気持ちだったらいいな、なんで妄想して。 授業中も、テスト中も、帰り道だって。 いつでも、彼女のことを思い続けている。 強がりなところも、泣き虫なところも。 全部全部、好きが溢れていく。 君がいるだけで、世界はこんなにも優しくなる。 ずっと、君の隣を歩んでいきたい。 病めるときも健やかなるときも いつまでも隣にいることを、心から誓おう。

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お月見

忘れられない記憶がある。 今日からちょうど三年前。 「月が綺麗だね」 本気でそう言ったことがある。 僕は、その子がずっと気になっていた。 僕は思った以上に鈍感で、気付いたのは言った瞬間だったけど。 塾の帰り道、偶然その子にあった。 自転車を並べて、一緒に帰った。 答えは聞けなかった。 いや、気づかれていたかどうかも分からない。 そんな、淡い記憶。 忘れられないわけじゃない。 でも。 不思議と、月を見ると思い出すことがある。 それが今日。

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月影の国 ー最終話ー

ー 3 ー 「私は……残る」 そう言った私を、父はしばらく見つめていた。 怒ることもなかった。 引き止めることもなかった。 ただ、ほんの少しだけ。 寂しそうに笑った。 「そうか」 それだけだった。 私は、父ならきっと一緒に残ってくれるのだと思っていた。 だから。 それ以上、何も聞かなかった。 その夜。 父は、いつもより長く私のそばにいた。 何をするでもない。 ただ、同じ部屋にいた。 窓の外では、遠くで何かが崩れる音がしていた。 時折、大地が小さく揺れる。 それでも父は、何も言わなかった。 そして。 昔の話をした。 私がまだ小さかった頃のこと。 初めて一人で歩いた日のこと。 庭で転んで、泣きながら父のところへ走ってきたこと。 お気に入りの本をなくして、一日中探し回ったこと。 今思えば。 どれも、本当にくだらない話だった。 けれど。 私は笑った。 父も笑った。 まるで。 明日も、いつも通りの日が来るように。 この国がなくなることなど。 最初から決まっていなかったかのように。 「……父上」 「なんだ」 「明日も、一緒にいられる?」 少しだけ。 父の表情が止まった。 ほんの一瞬だった。 けれど、私は気づかなかった。 「ああ」 父は、いつものように答えた。 その声は、とても優しかった。 「約束?」 「ああ」 私は安心した。 そして。 父の隣で、目を閉じた。 ――それが。 父と交わした、最後の言葉になった。 目を覚ますと。 何もなかった。 部屋も。 王宮も。 街も。 白銀の塔も。 淡く輝いていた湖も。 私が生まれてからずっと見てきた景色も。 何もかも。 消えていた。 私は、荒れ果てた大地の上に立っていた。 空には、崩れかけた雲のようなものが漂っている。 足元には、見たこともないほど大きな亀裂が走っていた。 「……父上?」 返事はない。 「父上……?」 もう一度呼ぶ。 返事はなかった。 何度呼んでも。 何度探しても。 父の姿は、どこにもなかった。 「……どうして」 そのとき。 少し離れた場所に、小さな光が見えた。 私は、ふらつきながら近づいていった。 そこには。 一つの装置があった。 見たことのないものだった。 壊れかけているのに、まだ淡い光を放っている。 その中央には。 私の名前が刻まれていた。 ――玉依。 私は、息を止めた。 そして。 その隣に。 小さな紙が置かれていた。 震える手で拾い上げる。 何度も折り畳まれた紙だった。 開いてみる。 そこに書かれていたのは。 たった一言だった。 『生きろ』 私は、動けなくなった。 それだけだった。 それだけなのに。 胸の奥が、ひどく痛んだ。 その瞬間。 すべてを理解した。 父は。 私と一緒に逃げたんじゃない。 私だけを逃がしたのだ。 私が眠っている間に。 何も言わず。 何も残さず。 私が目を覚ますよりも前に。 私だけを、この星から遠ざけた。 「……嘘」 声が震えた。 「……父上」 返事はない。 もう。 どこにもいない。 「一緒に逃げるって……言ったじゃない……」 涙が落ちた。 一粒。 また一粒。 止めようとしても、止まらなかった。 「約束したじゃない……」 答えはない。 ただ。 遠くで、大地が崩れていく。 空の向こうに、赤い光が広がっていく。 月影の国が。 私の故郷が。 終わっていく。 私は、その場に膝をついた。 「どうして……」 何度も。 何度も。 父の名前を呼んだ。 子供のように。 父に抱きしめられていた頃のように。 何もできないまま。 ただ、泣いた。 しばらくして。 背後から、小さな足音がした。 私はゆっくり振り返った。 そこにいたのは。 一匹の白い兎だった。 「……玉兎?」 ずっと探していた。 ずっと会いたかった。 でも。 どうしてここにいるのか。 なぜ生きているのか。 分からなかった。 玉兎は何も言わない。 ただ。 静かに私を見ていた。 私は、震える手を伸ばした。 白い毛に触れる。 その温かさに。 また涙が溢れた。 私は、玉兎の身体に顔を埋めた。 そして。 ようやく気づいた。 父は。 最後まで私を守っていた。 私が残ると言ったから、残ったのではない。 私を残さないために。 私を生かすために。 最後の最後まで。 父だった。 「……ありがとう」 もう届かない言葉を。 私は呟いた。 玉兎は、何も言わなかった。 ただ。 私のそばにいた。 それから。 長い時間が過ぎた。 月影の国は、完全に消えた。 そこにあった建物も。 街も。 湖も。 人々の暮らしも。 すべて。 星とともに、失われた。 そして。 千年後。 かつての月は、もうない。 では。 今、夜空に浮かんでいる月は何なのか。 かつて。 地球には二つの衛星があった。 一つは。 人が暮らしていた月。 月影の国が存在した星。 そして、もう一つ。 それが。 今では「月」と呼ばれている。 かつての人々は、失われた月のことを知らない。 知る術もない。 だから。 夜空に浮かぶ一つの星を。 ただ、月と呼んだ。 私は。 その名前を聞くたびに思う。 あの場所を。 月影の国を。 父を。 母を。 そして。 あの夜を。 忘れたくない。 だから。 私は、この星を「月」と呼ぶことにした。 後世の人々がそう呼ぶようになったからではない。 私が。 忘れないために。 そう呼んだ。 そして。 もう一つ。 後世に残ったものがある。 「月のうさぎ」という伝説。 月には兎がいる。 そんな話を。 人々はいつしか語るようになった。 けれど。 それは、ただの伝説ではない。 玉兎。 あの白い兎が。 この星に残っていたからだ。 月影の国が消えたあとも。 私のそばにいた。 何百年経っても。 何度季節が巡っても。 玉兎は、変わらなかった。 そして。 もう一つ。 私には、秘密がある。 なぜ。 私が千年もの間、生きているのか。 それは。 父が残した、もう一つの品に理由がある。 不老不死の薬。 私は、それを飲んだ。 死にたくなかったからではない。 永遠に生きたかったからでもない。 ただ。 忘れたくなかった。 月影の国が存在したことを。 父がいたことを。 母がいたことを。 玉兎と過ごした日々を。 そして。 私が、この場所にいたことを。 誰かに伝えるために。 だから。 私は、生き続けた。 千年もの間。 ずっと。 記憶を抱えたまま。 けれど。 もうすぐ。 私の寿命も尽きる。 不老不死の薬も。 永遠ではなかった。 正確には。 薬のほとんどを、私自身が使ったわけではない。 ――玉兎に与えた。 少しでも長く。 この世界にいてほしかったから。 だから。 玉兎は、これからも生きていくだろう。 私がいなくなったあとも。 月を見上げながら。 この星を歩きながら。 そして。 いつかまた。 誰かが、月のうさぎの話をするのだろう。 そのとき。 ほんの少しでも。 この物語を思い出してくれたなら。 それでいい。 私は。 月影の国を忘れない。 父を忘れない。 母を忘れない。 玉兎を忘れない。 そして。 この物語を。 忘れないために。 今、ここに残す。 これが。 月影の国で生きた、私の物語。 玉依の物語。 そして。 あなたの知らない月の物語だ。   ーー忘れないで。 ーあとがきー 初めまして。 もしくは、こんにちは。 久遠零、と申します。 この物語を、ここまで読んでくださり、 本当にありがとうございます。 この作品を書こうと思ったきっかけは、 「もうすぐ、中秋の名月だな」と思ったことでした。 ふと、本棚の奥に目をやると。 そこには、昔読んだ『竹取物語』がありました。 久しぶりに手に取って。 ページをめくって。 「これだ!」と思いました。 最初に考えていた物語は、もっとずっと単純なものでした。 主人公は、かぐや姫。 テーマは、失恋。 月から来た少女が地球で恋をして。 誰かを好きになって。 そして、その恋が終わる。 そんな、少し切ない物語になるはずでした。 ……本当に、そのはずだったんです。 ところが。 書き始めてみると、 「どうして?」 という疑問が、一つ、また一つと増えていきました。 どうして、かぐや姫は地球に落とされたのか。 どうして、帰らなければならなかったのか。 どうして、「月」だったのか。 そうして、物語は少しずつ姿を変えていきました。 ミステリーになり、ファンタジーになり。 ふと気づくと、一つの世界そのものを描く物語になっていました。 構想を練り直すたびに、設定が増えて。 登場人物が増えて。 過去が生まれて。 未来が生まれて。 見返すと、四巻にも渡る大作になっていました。 ……どうしてこうなったのでしょう(笑) 自分でも、最初の構想からは想像していませんでした。 急いで書いたので、まだまだ荒削りなところもあります。 もう少し丁寧に描きたかった場面も、言葉を選びたかったところもたくさんあります。 この物語は、いつかもう一度。 ゆっくりと推敲したいと思っています。 言葉を一つずつ拾い直して。 景色をもう一度描き直して。 登場人物たちの声に耳を傾けながら。 今より少しだけ、美しい物語にできたらと思っています。 今は、この物語をここまで書き終えられたこと。 そして、あなたが最後まで読んでくださったこと。 その二つを、素直に喜びたいと思います。 長い物語に、最後まで付き合ってくださって。 本当にありがとうございました。 月影の国は、もうありません。 物語の中では、遠い昔の存在になりました。 それでも、玉依が記憶を残したように。 物語もまた、誰かが覚えていてくれる限り、消えないのだと思います。 もし、この物語を読み終えたあとに。 夜空を見上げることがあったなら、月を眺めてみてください。 いつも見ていた月が、ほんの少しだけ、違って見えるかもしれません。 もしそこに、白い兎がいるように見えたなら。 玉兎が、どこかで元気にしているということにしておきましょう。 ……物語は、終わっても。 その先を想像することは、きっと終わりません。 あなたが想像してくれたその瞬間から、この物語には、また新しい続きを作ることができるのだと思います。 この物語を読んでくださったあなたへ。 この世界を見つけてくださって、 玉依たちに出会ってくださって、 最後まで一緒に旅をしてくださって。 本当に、ありがとうございます。 たくさんある物語の中から。 この物語に出会ってくださったこと。 それは、きっと小さな奇跡です。 いつか、また別の物語で、別の世界で。 あなたと出会えますように。 また、ページを開いていただけたら嬉しいです。 これで、月影の国の物語は、おしまいです。 最後まで読んでくださったあなたに。 心からの感謝を。 そして、 あなたと、出会えた奇跡に。 ――ありがとう。     ーーー久遠零ーーー

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月影の国 ー最終話ー

月影の国の禁忌ー 3 ー

ー 2 ー それから、三ヶ月が経った。 白妙の身体は、少しずつ弱っていった。 以前のように長く歩くことができなくなり、少し動くだけでも息を切らすようになった。 それでも彼女は、毎晩のように月を眺めていた。 縁側に座り、静かに月を見上げる。 そして。 玉依を抱く時間が、少しずつ長くなっていった。 眠っている玉依を、いつまでも腕の中に抱いている。 まるで。 一日でも長く、この子との時間を残そうとするように。 まるで。 「忘れないで」と、言葉にできない願いを託すように。 その様子を、清仁は何も言わずに見つめていた。 けれど。 焦っていた。 国中から医師を集めた。 それでも足りず、遠くの国からも名のある医師を呼び寄せた。 できることは、すべてした。 薬も。 治療も。 祈りさえも。 けれど。 白妙の身体が良くなることはなかった。 そして。 迎えが来る、一週間前。 白妙は、静かに息を引き取った。 あまりにも静かな最期だった。 まるで、眠っているだけのようだった。 ――母が、亡くなった。 その事実を、私は受け入れられなかった。 私がここへ来た理由は何だったのだろう。 母を救うため? もし、そうだったのなら。 私は、何もできなかった。 未来を変えることを恐れて、何もしなかった。 けれど。 何もしなかったからといって、未来は変わらなかった。 母は亡くなった。 それなら。 私は、何のためにここへ来たのだろう。 何度考えても分からなかった。 来る日も。 来る日も。 同じことを考え続けた。 私は、どうすればよかったの。 何をすれば、母を救えたの。 それとも。 最初から、救うことなんてできなかったのだろうか。 答えは出なかった。 そして。 白妙が亡くなった後を追うように、竹取の翁もこの世を去った。 私の知る人が、また一人いなくなった。 そして。 迎えの日が来た。 夜空から、月の使いが降りてきた。 彼らは、まず白妙の姿を探した。 けれど。 そこに彼女はいない。 「……白妙は?」 清仁は、しばらく何も言わなかった。 そして。 「亡くなった」 短い言葉だった。 使いは、静かに目を伏せた。 そのとき。 清仁が腕に抱いていたものに、彼らの視線が向いた。 小さな赤ん坊。 玉依だった。 「……その子は?」 清仁は、赤ん坊を見つめる。 そして。 「この子は、白妙の娘だ」 使いたちは顔を見合わせた。 しばらくして、そのうちの一人が尋ねる。 「……月へ、お返しになるおつもりですか」 清仁は答えなかった。 ただ、玉依を強く抱きしめていた。 やがて。 「頼む」 低い声だった。 「この子を、月に返してほしい」 使いは、玉依を見る。 正確には―― 赤ん坊を見ているのではない。 私を見ていた。 「……どうなさいますか」 私は、息を呑んだ。 この人たちは。 私を知っている。 そう思った。 けれど。 怖くはなかった。 むしろ。 知らなければいけない気がした。 母のこと。 私のこと。 そして。 私が、なぜ月で育ったのか。 私は、静かに頷いた。 そして。 その瞬間だった。 ふと、頭の中に浮かんだ。 ――玉兎。 いない。 月影の国にいたはずの、大切な兎。 私がずっとそばにいたはずの存在。 なぜ。 私は、忘れていたのだろう。 「玉兎は……?」 月の使いに尋ねた。 けれど。 彼らも知らなかった。 答えは、どこにもなかった。 私は、何も分からないまま。 地球を離れた。 遠ざかっていく地球を、ずっと見つめていた。 青と緑に彩られた、とても美しい星。 そこには。 母がいた。 父がいた。 そして。 私が生まれた場所があった。 やがて。 私たちは月へ戻った。 月に着く頃には、私は二歳になっていた。 不思議だった。 時間が、戻っている。 地球では、もっと長い時間を過ごしたはずなのに。 月では、まだ二歳。 その事実だけが、私がいた時間が普通ではなかったことを物語っていた。 月影の国へ戻ると。 私は、父の自室へ向かった。 本当のことを知りたかった。 私の母は、誰だったのか。 なぜ地球へ行ったのか。 なぜ、私は月で育てられたのか。 父は、黙って一通の手紙を差し出した。 「……清仁からだ」 その名前を聞いた瞬間。 胸が締めつけられた。 震える手で、封を開く。 そこには。 母が最後に残した言葉が書かれていた。 ――この子を、月に返してあげて。 私は、しばらくその一文から目を離せなかった。 「……お母様が?」 父は、静かに頷いた。 そして。 「白妙は、もともと私の婚約者だった」 私は顔を上げた。 父は続ける。 「彼女はある理由から、月を離れた」 月の人間にとって、月はただの故郷ではない。 生きるために必要な場所だった。 月には、地球にはない不思議な力が存在する。 月の人間は、その力を生命の源――エネルギーとして受け取っている。 けれど。 白妙は長い間、月から離れていた。 迎えが来るまでの時間が、長すぎた。 少しずつ。 少しずつ。 彼女の身体から、その力が失われていった。 そして。 出産が、その身体に最後の負担をかけた。 「だから……」 父は目を伏せた。 「白妙は、戻れなかった」 私は、手紙を握りしめた。 母は。 私を産んだから死んだのではない。 それだけではなかった。 月から離れていた時間。 失われていった力。 そして、出産。 いくつものものが重なった結果だった。 「……私が」 言葉が、喉につかえる。 「私が、生まれなければ……」 「違う」 父が遮った。 強い声だった。 「それは、お前が背負うことではない」 私は何も言えなかった。 父はしばらく黙っていた。 そして。 ゆっくりと立ち上がる。 窓へ向かい。 カーテンに手をかけた。 「……玉依」 名前を呼ばれる。 私は顔を上げた。 「お前には、知る権利がある」 カーテンが開く。 ――息を呑んだ。 そこに広がっていたのは。 私が知っている月影の国ではなかった。 荒れていた。 白銀だった街並みは崩れ。 美しかった湖は濁り。 遠くには、崩れ落ちた建物がいくつも見える。 空には、以前のような星の輝きさえなかった。 「……これが」 父は、窓の外を見つめたまま言った。 「今の月影の国だ」 私は言葉を失った。 「このままでは、月そのものがもたない」 月が。 崩壊する。 その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。 父は、私を見る。 そして。 静かに尋ねた。 「……逃げるか」 その声には。 皇帝としての威厳も。 父としての強さもなかった。 ただ。 一人の人間としての、不安があった。 私は窓の外を見る。 かつて私が幸せに暮らしていた国。 父と笑った場所。 玉兎と過ごした場所。 そして。 母が生まれた場所。 私は、答えを出せなかった。 ただ。 この国が終わろうとしていることだけは、分かった。 そして私はまだ知らなかった。 この先。 母の死の本当の意味も。 玉兎がどこへ消えたのかも。 そして―― この月が、私たちの知る「月」ではなくなることも。

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月影の国の禁忌ー 3 ー

月影の国の禁忌ー2ー

ー 1 ー 私が向かったのは、地球。 それも、どうやら過去らしい。 気づくと、私は竹林の中にいた。 月は、美しい白色のままだった。 柔らかな月光が、青々とした竹を照らしている。 視線を上げる。 そこには、一人の老人がいた。 老人は、何かを見つめているようだった。 ――その瞬間。 空から、突然、人が降ってきた。 本当に、降ってきたのだ。 不思議と、怪我はなかった。 十に届くか届かないかくらいの年頃の女の子。 黒髪。 黒く、美しい瞳。 その姿を見た瞬間、なぜか思った。 (守らないといけない) 何の根拠もない。 それなのに、そう思った。 老人は腰を抜かし、ただ少女を見つめていた。 彼の名は、讃岐造。 後に、竹取の翁と呼ばれる人物だ。 私は翁に願った。 「この子を、大切に育ててほしい」 翁は、一も二もなく頷いた。 どうやら、子供に恵まれず、長い間寂しい思いをしていたらしい。 これで、ようやく長年の願いが叶う。 翁は、心から喜んでいた。 そして―― その子は、わずか三ヶ月ほどで、十五歳ほどの少女へと成長した。 まるで、竹が伸びるような速さだった。 翁はその後も、竹の中から金や美しい着物を見つけることがあった。 そのため、暮らしに困らない程度には裕福になっていった。 初めて授かった娘だからと、翁は盛大な裳着の儀式を開こうと張り切った。 月と違い、地球では女性の本名を人前で呼ぶことは好まれないらしい。 だから、名前を付けるのだと教えられた。 その少女は―― 「なよ竹のかぐや姫」 そう呼ばれるようになった。 「この世のものとは思えない」 そんな噂が都に広がるほど、かぐや姫は美しかった。 そして、祝宴の三日目。 最終日。 空には、澄み切った満月が浮かんでいた。 灯など必要ないほどに、明るい夜だった。 日付が変わっても、祝いは続いていた。 翌日。 数人の男たちが屋敷の前で、たむろしていた。 身分が高そうで、この時代にしては珍しい。 (何をしているんだろう?) そう思ったけれど、私はあまり気にしなかった。 どうやら都へ帰った者が、噂を広めたらしい。 「とても類い稀なる美しさの姫がいる」 そんな噂を信じて、徐々に屋敷を訪れる人が増えていった。 迂闊に外へ出れば、 「言葉を」 「贈り物を」 と、人々が群がってくる。 連日、祭りのような賑わいだった。 さらに、お忍びで皇子まで来る始末。 翁は、 「姫に相応しい婿が見つかる」 と大喜びしていた。 一方、かぐや姫は困惑していた。 しかし、その憂いを帯びた表情さえも美しい。 いつまで経っても終わらない騒動に、ついにある決断が下された。 「姫の望む物を持ってきた者が、結婚できる」 一、仏の御石の鉢。 二、蓬莱の玉の枝。 三、火鼠の皮衣。 四、龍の首の五色の玉。 五、つばめの子安貝。 この世にあるはずのないもの。 それを欲しいと願うことで、求婚者たちを諦めさせようとしたのだ。 しかし、その目論見は外れた。 たくさんの求婚者が、本気でそれらを手に入れようと挑戦した。 その中でも、特に有名なのが五人だった。 ――石作皇子。 光を宿しもしない偽物を持ってくる。 そして、かぐや姫に皮肉を返される。 ――庫持皇子。 本物と見紛うほど精巧な品を、職人たちに作らせる。 しかし、職人たちの訴えによって、すべてが露見する。 ――右大臣、阿倍御主人。 本物を手に入れるため、莫大な財産を注ぎ込む。 だが、騙されていたことに気づき、悲しみに暮れる。 ――大納言、大伴御行。 龍を捕まえるため、旅に出る。 しかし、大嵐に遭い、深く傷つく。 やがて、かぐや姫を逆恨みするようになる。 ――中納言、石上麻呂足。 自ら、つばめの巣へ登る。 だが、その最中に腰を痛め、後に容態が急変する。 それを聞いたかぐや姫は、心を痛めた。 私は、そんな彼女を少し離れた場所から見つめていた。 それから、しばらく経った頃。 かぐや姫のもとには、相変わらず多くの人が訪れていた。 その中には、身分を隠して訪れる者も少なくなかった。 ある夜。 屋敷の外から、いつもとは違う気配がした。 「また、誰か来たの?」 かぐや姫が尋ねる。 翁は困ったように笑った。 「どうやら、今夜もお客様のようですな」 かぐや姫は、小さくため息をついた。 (また、贈り物だろうか。 また、甘い言葉だろうか。) そう思いながら、応接間へ向かう そこにいたのは、一人の青年だった。 煌びやかな衣をまとっているわけでもない。 大勢の従者を連れているわけでもない。 ただ、月明かりの下で静かに立っていた。 「こんばんは」 青年が言った。 かぐや姫は少し驚いていた。 「……こんばんは」 「突然、すまない」 「どうして、ここへ?」 青年は少し考えてから答えた。 「君に会ってみたかった」 また、その言葉。 かぐや姫が身構えたのが分かる。 「私の顔をご覧になりたいだけですか?」 「そうかもしれない」 青年は続ける。 「でも、それだけではない」 「……?」 「君が、どんな人なのか知りたい」 その言葉に、かぐや姫は黙った。 今まで、かぐや姫に向けられた言葉は決まっていた。 美しい。 可憐だ。 この世のものとは思えない。 そんな言葉ばかりだった。 けれど、この人は違った。 美しさの奥にいるかぐや姫を見ようとしているようだった。 「……変わった方ですね」 「よく言われる」 青年は、穏やかに笑った。 その笑顔を見た瞬間。 不思議だった。 この人と話していると、なぜか落ち着く。 月を見ているときと、少し似ている。 静かで。 穏やかで。 どこか懐かしい。 「あなたは…… ?」 「ごめん、名乗っていなかったね」 青年は静かに名を告げた。 「澄仁」 ――帝。 その名を聞いた瞬間、かぐや姫は目を見開いた。 けれど、帝はそんな彼女を見て、少し困ったように眉を下げる。 「今は、その肩書きは忘れてくれていい」 「……どうして?」 「君と話すときくらい、一人の人間でいたいから」 その言葉に、かぐや姫は初めて笑った。 ほとんど分からないくらいの、微かな笑みだった。 けれど―― それが、二人の始まりだった。 私は少し離れた場所から、その光景を見ていた。 二人が言葉を交わすたび。 かぐや姫の表情が、少しずつ変わっていく。 その姿を見ていると、不思議な気持ちになった。 しばらく経つと、二人は文を交わすようになった。 二人にとって、それは初めての文通だった。 誰かに書かされたものでもない。 誰かに見せるためでもない。 ただ、相手のためだけに綴る。 心のこもった、直筆の文だった。 帝――清仁は、白妙を後宮に入れなかった。 彼女が、それを望まないと分かっていたから。 身分も、立場も。 何もかも違う二人だった。 それでも、二人は少しずつ距離を縮めていった。 そして、一年後。 二人の間に、子供が生まれた。 清仁と白妙。 二人が、何度も話し合い、考え抜いて付けた名前。 赤子には―― 「玉依」 そう名付けられた。 その名前を聞いた瞬間。 しばらく経つと、二人は文を交わすようになった。 二人にとって、それは初めての文通だった。 誰かに書かされたものでもない。 誰かに見せるためでもない。 ただ、相手のためだけに綴る。 心のこもった、直筆の文だった。 帝――清仁は、白妙を後宮に入れなかった。 彼女が、それを望まないと分かっていたから。 身分も、立場も。 何もかも違う二人だった。 それでも、二人は少しずつ距離を縮めていった。 そして、一年後。 二人の間に、子供が生まれた。 清仁と白妙。 二人は静かに喜んでいる。 清仁は、赤ちゃんを抱きしめて泣いていた。 二人が、何度も話し合い、考え抜いて付けた名前。 赤子には―― 「玉依」 そう名付けられた。 玉依」 その名前を聞いた瞬間。 胸の奥が、ひどくざわついた。 どこかで聞いたことがある。 そう思った。 けれど、思い出せない。 当然だった。 私が今いるのは、過去なのだから。 「玉依……」 もう一度、その名前を呟く。 目の前には、小さな赤ん坊がいた。 まだ、生まれて間もない。 白く柔らかな肌。 小さな手。 眠っているだけなのに、時折、指先がかすかに動く。 その隣には、かぐや姫がいた。 彼女は赤ん坊を見つめながら、優しく微笑んでいる。 そして、その隣には――清仁がいた。 「いい名前だな」 そう言って、彼は赤ん坊の小さな手に触れる。 「ええ」 かぐや姫が答える。 「二人で考えた名前ですもの」 私は、その光景から目を離せなかった。 玉依。 二人が考えた名前。 ――私と同じ名前。 偶然だと思った。 最初は。 でも。 月影の国で、私を育ててくれた父が言っていた。 私の名前は、月影の国へ来たばかりの頃から決まっていたと。 誰がつけたのか。 私は知らなかった。 ただ、父はいつも。 「お前の名前は、大切な人が残したものだ」 そう言っていた。 その意味を、私は深く考えたことがなかった。 けれど。 今なら分かる。 いや。 分かってしまった。 私は、ゆっくりと赤ん坊へ近づいた。 小さな顔を見る。 そして。 かぐや姫を見る。 黒い髪。 黒い瞳。 あの肖像画。 王宮の最深部で見た、あの女性。 私は、息を呑んだ。 まさか。 そんなはずはない。 でも。 一つずつ、繋がっていく。 月で生まれた母。 地球へ来た女性。 清仁と出会ったかぐや姫。 二人の間に生まれた娘。 その名前は――玉依。 私と同じ。 偶然ではない。 そう思った瞬間。 世界が、ひどく静かになった。 「……私?」 声が震えた。 目の前の赤ん坊を見つめる。 この子が。 私。 私が生まれた日。 私の知らない、私自身の過去。 そして。 目の前にいる、この人が―― 「……お母様」 初めて。 その言葉が、口から零れた。 かぐや姫が振り返る。 けれど、彼女には聞こえていない。 私は、ただ立ち尽くしていた。 会ったことのない母。 顔すら覚えていなかった母。 ずっと知りたかった人。 その人が。 今、目の前にいる。 私は母を見つめた。 何も言えなかった。 抱きつくこともできない。 名前を呼ぶことさえできない。 ただ。 そこにいることしかできなかった。 ――これが、私の母。 そう気づいた瞬間。 嬉しいより先に。 怖くなった。 なぜなら。 私は知っていたから。 母は、もう亡くなっている。 そして。 私がここにいるということは。 この先に、その理由がある。 私は、それからの時間を。 母のそばで過ごすことにした。 できるだけ近くで。 できるだけ長く。 けれど。 私は何も変えなかった。 変えてはいけない気がした。 赤ん坊の私は、何も知らない。 母も。 父も。 私が未来から来たことを知らない。 だから私は、ただ見守った。 母が笑うところを。 父が娘を抱くところを。 三人で過ごす時間を。 そして。 少しずつ。 この時間が終わりへ近づいていることを、感じていた。

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月影の国の禁忌ー2ー

月影の国の禁忌ー1ー

― epilogue ― 月影の国。 それは、地球からは決して見ることのできない、月にある王国。 静謐で美しい景色が、どこまでも続いている。 白銀の街並み。 淡く輝く湖。 夜になれば、空には無数の星が浮かぶ。 そんな国を治めているのが、私の父だった。 厳格な皇帝。 ――でも、決して理不尽な人ではない。 暴君でもない。 むしろ、民のことをよく考えている、いい王だと思う。 ただ、私には三つだけ。 絶対にしてはいけないことがあった。 一つ。 母のことを口にすること。 母の記憶は、私にはない。 物心がついた頃には、もう亡くなっていた。 だから、母の顔すら知らない。 それでも、王宮には一つの噂が絶えることなく残っていた。 ――皇帝は、皇后を殺した。 私は幼い頃から、その噂を何度も耳にしてきた。 もう慣れてしまった。 けれど、父に母のことを尋ねると、いつも同じだった。 何も言わない。 ただ、感情が抜け落ちたような顔をして、黙り込む。 二つ。 地球を見ること。 十年ほど前から、法律で禁じられている。 月影の国から地球を見るには、王宮の反対側まで行かなければならない。 だから、わざわざ禁を破ろうとする人間もほとんどいなかった。 そして三つ。 王宮の最深部へ立ち入ること。 そこには父でさえ、ほとんど入らない。 なぜなのかは、誰も知らない。 それさえ守っていれば。 私たちは、普通の親子だった。 一緒に眠った。 一緒に遊んだ。 くだらないことで笑った。 「これが欲しい」 「これがしたい」 そう言えば、父はいつも、 (仕方ないな) とでも言いたげな顔をして、私の願いを叶えてくれた。 婚約者もいた。 父に決められたわけではない。 あくまで、お試し。 少しだけ歳上で、私は密かに憧れていた。 それから、大切に育てていた兎もいた。 名前は、玉兎。 真っ白な毛並みの、美しい子だった。 月影の国では、兎を飼うことは珍しくない。 けれど、玉兎は少しだけ特別だった。 私が幼い頃から、ずっと一緒にいる。 眠るときも。 本を読むときも。 庭で遊ぶときも。 いつも私のそばにいた。 毎日のようにブラシをかけて、その毛並みを整えるのが好きだった。 玉兎は私が呼ぶと、どこにいても駆け寄ってくる。 「おいで、玉兎」 そう呼べば、長い耳を揺らしながらこちらへ走ってくる。 その姿を見るたび、私は笑った。 父も、玉兎のことを嫌ってはいなかった。 むしろ、私が玉兎と過ごしているときだけは、少しだけ表情が柔らかくなる。 「また一緒にいるのか」 「うん。この子、私のことが大好きなの」 「……そうか」 そう言って、父は小さく笑った。 私は、それが嬉しかった。 だから、玉兎は私にとって、ただのペットではなかった。 家族だった。 私の世界の中で、なくてはならない存在だった。 私は、それで幸せだった。 少なくとも、そう思っていた。 けれど。 成長するにつれて、違和感は少しずつ大きくなっていった。 見ないふりができないほどに。 どうして母のことを話してはいけないのか。 どうして地球を見てはいけないのか。 どうして、王宮の最深部へ入ってはいけないのか。 三つの禁忌には、何か理由がある。 そう思うようになった。 けれど、それ以上を考えることはなかった。 考えたところで、答えなんて出ない。 ――その日までは。 父が視察のため、一日王宮を離れることになった。 私は、その日に三つの禁忌をすべて犯した。 最初に思い出したのは、父の部屋だった。 幼い頃、一度だけ入ったことがある。 三歳くらいだっただろうか。 部屋の中で、私は一枚の地図を見つけた。 王宮の見取り図。 そこには、普通の人間には知らされていない隠し通路まで描かれていた。 その先にあったのは――王宮の最深部。 そして、その通路は。 私の部屋の本棚の裏へと繋がっていた。 そんなこと、今まで完全に忘れていた。 次に思い出したのは、五歳の頃。 暇を持て余して、図書館を探検した日。 何気なく手に取った一冊の本を、私は部屋へ持ち帰った。 地球について書かれた本だった。 けれど、私は一度も中身を開かなかった。 なぜか、その本だけは。 開いてはいけない気がしたから。 それを、今になって鮮明に思い出した。 理由は分からない。 ただ、指先が勝手に動いた。 私は本棚の右側にある、ほんのわずかな隙間へ本を差し込んだ。 ――カチッ。 小さな音がした。 次の瞬間。 本棚がゆっくりと動き始めた。 その向こうに現れたのは、地下へ続く階段だった。 薄暗く、不気味だった。 それでも私は、ランタンを片手に階段を降りていった。 通路には、見たことのないものが並んでいた。 硯。 筆。 紙。 掛け軸。 巻物。 壺。 そして、見慣れない形の着物。 どれも古びている。 けれど、不思議と懐かしい気がした。 なぜなのかは分からなかった。 その中で、一枚の絵に目を奪われた。 青と緑が混ざり合った、不思議な球体。 見たことのないものだった。 なのに。 胸の奥が、ほんの少しだけざわめいた。 ――知っている。 そんな気がした。 けれど、何を知っているのかまでは分からない。 私は絵の前に立ったまま、しばらく動けなかった。 そのときだった。 ふっと、視界が揺れた。 次に私が立っていたのは、ガラス張りの床の上だった。 足元を覗き込む。 そこには、先ほどの球体があった。 絵ではない。 暗闇の中で、青と緑の光を静かに放っている。 「あれは……」 声が漏れた。 見たことがない。 なのに。 なぜか、目を逸らせなかった。 視線を上げる。 一番奥に、一枚の肖像画があった。 そこに描かれていたのは、一人の女性。 長く、美しい黒髪。 そして、綺麗な黒い瞳。 月の人間には珍しい色彩だった。 私は、その女性から目を離せなかった。 どこか。 自分に似ている気がした。 けれど、それ以上のことは分からなかった。 名前も。 身分も。 この女性が誰なのかさえ。 そして、そこで初めて気づいた。 この部屋には、出入り口がない。 では、私はどうやってここへ入ったのだろう。 そう思った瞬間。 景色が消えた。 次に立っていたのは、玉座の間だった。 そこには父がいた。 険しい顔をしている。 私は、呼び出されたのだと悟った。 怖かった。 それでも、聞かなければならない。 私は息を吸って、ゆっくり吐いた。 「……お母様のことを、教えてください」 父は答えなかった。 私はもう一度、問いかける。 「どうして……何も教えてくれないんですか」 「……」 沈黙。 父はしばらく俯いていた。 私は、さらに続けた。 「昔のことを知りたいだけです」 「……そうか」 父は、ゆっくりと顔を上げた。 その表情は、今まで見たことがないほど苦しそうだった。 「母は――」 そこで、父の言葉が止まる。 そして。 「……月で生まれた」 それだけだった。 また、沈黙が落ちた。 父が何かを言おうと口を開く。 ――その瞬間。 窓の外が、赤く染まった。 灯りが消える。 王宮が、一瞬で闇に包まれた。 父は頭を抱えた。 何かに苦しむように。 長い。 あまりにも長い沈黙だった。 永遠にも感じられる時間のあと。 父は、顔を上げた。 そして。 「地球へ向かえ」 そう言った。 信じられなかった。 あれほど地球を嫌っていた父が。 地球を見ることさえ禁じていた父が。 私は思わず聞き返した。 「……地球へ?」 父は答えなかった。 私は迷わず頷いた。 「はい」 父が、ほんの少しだけ苦笑する。 「期限は三年半」 そして、いくつかの条件を告げた。 私は一つずつ、それを聞いた。 最後まで聞き終えたとき。 父は、私を抱きしめた。 まるで。 幼い頃の私を抱きしめるように。 何も言わない。 ただ、強く。 私は父の背中に腕を回した。 そして、部屋を出る。 振り返る。 父はまだそこにいた。 いつも感情を見せない人だった。 だから、最初は気のせいだと思った。 けれど。 去り際に見えた父の頬には―― 一筋の涙が流れていた。 私はその意味を知らない。 このときは、まだ。 地球で何を知ることになるのかも。 あの女性が誰だったのかも。 なぜ父が、私を地球へ送り出したのかも。 何も知らなかった。

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月影の国の禁忌ー1ー

三日月は、満ちていく。

10月。 残業を終わらせて家に帰る途中だった。 ふと、空を見上げると綺麗な三日月が浮かんでいる。 これまでは、こんな月を見ると、ときどき三年前を思い出していた。 その記憶は、大学二年生から始まる。 高生時代からの親友、悠馬に声をかけられていった飲み会。 ちょうど一か月前くらいに、彼女と別れていた。 (まあ、行ってみるか)と思って、顔を出してみた。 僕を誇った友達は、好みの人を見つけたみたいだ。 別に仲の良い人もいなくて、聞き役に徹した。 その中に、よく喋って、笑う女の子がいた。 名前は美月だよ、って自己紹介してくれた。 帰る人も出てきて(ぼちぼち帰ろうかな)と思い始めていた。 そしたら、すごく酔った人が僕と同じ方面だったらしい。 「一緒に帰ってくれ」って友達に頼まれた。 ちょっと(いや大分)面倒だったけど、お世話になってるから渋々引き受けた。   ー悠馬がすごくお持ち帰りしたそうな子がいたし。 彼女、美月は確かに家が返くて、一駅くらいしか変わらなかった。 駅までの途中に、蛍で有名な河川敷があった。 夜空を仰ぎ見ると、澄んだ星が輝やいていた。 何となく足を止めて眺める。 (今日は、新月らしい)とぼんやり思う。 何から後ろでごそごそしていた彼女は、「…あ」って言って喋らなくなった。 「どうしたの?」って尋ねると「何でもない」って言われた。 それ以上は言わなさそうだったから、察しをつける。 たぶん、忘れ物。 「お財布失くしたかも」って彼女がポツリと言う。 (財布は困るだろ)って思って、悠馬達に連絡すると向こうにはないらしい。 それならここまでの道だろうって思って、一緒に探した。 見っかったのは割と、店の近くだった。 はい、って手渡すと「ありがとう」って笑う。 続けて「蓮くんは優しいね」なんて言うから、少し恥ずかしくなって。 「当たり前だろ」って答えると、美月は、はじけるように笑った。 思わず、彼女の笑顔に目を奪われる。 それが、彼女のことを気になり始めた、きっかけだ。 付き合い始めたのは、その半年後くらい。 彼女とは正反対な性格なのに、なぜか気が合って。 僕から「付き合ってください」って言うと、彼女はまた、太陽のような笑みを浮かべた。 学部は違ったけど、毎日一緒に帰った。 大学から駅までの途中、大きな公園があった。 そこに浮かぶ月が気に入った彼女と、そこを通る。 「私、三日月好き」って唐突に美月がつぶやく。  理由を聞くと、「完成してないからいいの」って言う。 「なにそれ」ぼくが笑うと、「蓮くんが寂しそうな顔してるから」っていじけた顔をする。 「満月の方が綺麗じゃない?」「三日月がいいの」 子どもみたいな、やりとりに顔を見合せて笑う。 彼女と行ったり、見たりした景色は夜空が多かった気がする。 プラネタリウム。 キャンプ場。 天文台。 僕らの町は海沿いにあったから、灯台にもよくいった。 いろ人な場所で、同じやりとりをした。 そして迎えた、大学卒業。 僕は地元の企業で、美月は上京した先の会社で働いていた。 遠距離だったけど、ちゃんと毎日連絡してた。 でも、僕も彼女も「連絡を忘れてたとか」「寝ちゃってた」が増えてきて。 少しずつ、お互いにずれを感じるようになった。  リモート通話でも、直接会っても。 「なんか、違うな」と思っているのが分かった。  当たり前の結末だと思う。 出会ってから三年半くらいになる十二月。 三ヶ月ぶりくらいに直接会った。 少し前から、クリスマスムードになって、町が光で彩られていた。 何色にも輝く、とても美しいクリスマスツリー。 美月は「口はこれからどうしたい?」なんて聞く。 答えられなかった。 きっと、どちらかが譲ったら解決する。 例えば、僕が上京すれば、関係は続く。 逆も同じ。 でも、そんなことをしたら、今までを壊してしまうような気がした。 そんな僕を見て、美月は再び口を開く。 「楽しもうね」って少し寂しげな笑顔で。 一緒に店を回ったり、夕食を食べたりした。 プレゼントを贈り合わなかったこと。 それ以外は、いつもと同じだった。 いつか、君と歩いた河川敷。  ふと君が立ち止まって、振り返る。 冷たい風か吹いて、君の髪が宙に舞う。 「ねぇ、蓮」 心がきっと締めつけられるような、そんな気持ちになる。 が細い声で「なに?」と聞き返す。 「私たち、終わりにしよう」 沈黙が二人を包む。 本当は嫌だった。 でも、いつかはそうなるって分かってた。 だから「…うん」って答えてしまう。 美月も僕も泣なかった、いや泣けなかった。 「今までありがとう」「こちらこそ」 そんな言葉で僕らの関係は終わる。 僕らは別々の道を歩いていく。 何気なく、振り返った。 でも、彼女はもういなかった。 冬らしい冴え渡った空には、ただ三日月が浮かんでいた。 それからの日々は、何も変わらなかった。 起きて、うがいをして、朝食をたべる。 それから出社して、仕事をして帰る。 夕飯を食べて…彼女のSNSを見る それだけが新しく増えた習慣だ。 お風呂に入って、寝る。 最初は毎日SNSをチェックしていた。 仕事はどうかな。 何してるんだろう。 …結婚するのかな。 でもだんだんと、見る回数が減る。 仕事が任せられるようになった。 少しだけいい雰囲気の人もいる。 完全に見なくなって、しばらく経った。 忘れたわけじゃない。 でも、美月がいない暮らしが、普通になっていった。 ただ、それだけ。 そして、三年後の今日。 久しぶりに、彼女と会った。 僕の会社の取引先が、彼女の働いていた会社だった。 もしかしたら、って思って確認すると、美月の名前も記載されていた。 仕事が終わると、やっぱり方面は一緒で。 二人で並んで帰った。 「あの頃、楽しかったね」「うん」 そんな会話を交わす。 「…私、結婚するんだ」 言葉につまる。 それも一瞬で、「そっか、おめでとう」って僕は笑う。 この瞬間、僕はきっと彼女との思い出に浸るのをやめて、前を向けるようになったんだと思う。 彼女と別れて、一人で歩き出す。 今度は、振り返らない。 「完成してないからいいの」彼女が言った言葉を想い出す。 失ったもの。 欠けたもの。 終わってしまった恋。 何かが足りないものが、三日月だと思っていた。 今なら、分かる。 三日月は満ちていく途中だったって。 ふいに、着信音が鳴る。 視線を落とすと、一通のメッセージが届いている。 最近、やりとりを始めた人からだ。 「今、帰り?」少し考えて、「うん」って返す。 それから、思いついたように「月、綺麗だよ」って送る。 きっと、三日月はまだ細い。 でも、僕は知っている。 これから満ちていくことを。 これからの、僕の人生も、きっと同じた。 ーあとがきー まずは、ここまで読んでくださり、ありがとうございます。 初めまして、久遠零と申します。 僕は、Xジェンダーで、パンシェクシュアル だということに最近気づきまして。 だから、この小説は「男女」と言う括りではなく、「恋愛」と言う枠組みで楽しめるように工夫しました。 主人公とその恋人は、性別を確定せざるを得ませんでしたが。 主人公の次の恋の相手は、性別が曖昧になっています。 最後に、僕の言いたいことは一つだけ。 自分に正直に生きましょう。 限りある自分の人生なのだから。 これは、本当に思っています。 性別に悩んでいる全ての人へ届きますように。 May this reach everyone who is struggling with their gender.

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三日月は、満ちていく。