東真直@短編を書く人

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東真直@短編を書く人

短編集『紙の牢獄』発売中。小説は公式オンラインショップやAmazon、TSUTAYA調布駅南口店にて発売中です。Kindleでは無料サンプルが読めます。

たぶん画家の彼氏

マッチングアプリで出会った カッコよくて羽振りの良い彼は 自身の職業を画家と語っていた だが付き合って数ヶ月が経っても 彼はまだ絵を見せてくれない 正直絵には興味がなかったから 自慢されてもダルいだけではあった とはいえ一枚も見せないどころか ペンネームさえ教えてくれない彼を 不審に思うのは自然なことだった 彼は本当に画家なのだろうか? お金を持っているのは確かだと思う 連れて行ってくれるレストランも 誕生日プレゼントでくれたバッグも びっくりするほど高かったから 奢られ慣れている私といえど 無理していないか心配になった 「僕の絵は高く売れるから」 彼が冗談混じりにそう言うと 「すごいね!」と言う他なかった それに彼の絵こそ見たことはないが たまにデートで訪れる美術館では 彼は楽しそうに絵について語った ルノワールの色彩がどうだとか セザンヌにとってのリンゴの意味とか 正直ほとんど聞き流していたけれど 絵が大好きなことだけは伝わった 「いつか、君の絵を描くよ」 ふいに彼がそんなことを言ってから 一体どれくらい時間が経っただろう 別に期待なんてしていなかったけれど 私にとっては彼が画家かどうかなんて 正直それほど重要ではなかった カッコよくてお金持ちの好青年 そういう綺麗な額縁にしか興味はない だから内心では疑いながらも 絵とかアトリエを見せてほしいなんて 彼の正体に関する深追いはしなかった 彼がどんな絵かなんてどうでもいい 彼がどんな額縁に飾られているか 彼がどんな美術館に納められているか ただそれだけが重要なはずだった 『自称画家の男を逮捕、名画の贋作販売か』 ふと目にしたニュースでは 沢山の贋作がアトリエから押収されていた 犯人の男はそれらを売り捌いて 優雅な暮らしをしていたようだ アトリエから発見された絵画は 一点を除いて全て贋作だったらしい 思わず「あ〜あ」と口からこぼすと 家の床に寝転んでスマホを投げた 悪い男に引っかかるのには慣れていた でも贋作作家っていうのは初めてで 思わず「なんだよそれ」と呟いていた そりゃ絵なんて見せられるわけがない だって自分の絵なんて無いんだから そうして深いため息を吐いたとき 玄関のチャイムが鳴った こんな時間に誰かとドアを開けると そこには逮捕されたはずの彼がいた そうして私が驚くよりも先に 彼は「じゃ〜ん!」と何かを差し出した 「お誕生日おめでとう!!!」 彼が差し出したのは小さな色紙だった 安っぽい金色の縁がついた色紙には アニメキャラのような女性が描かれていた 混乱したまま受け取り彼の顔を見上げる すると彼は照れくさそうに鼻をかいた 「本当は誕生日のときに渡したかったんだ。  でも間に合わなくて、今になっちゃって」 よく見ると描かれた女性のキャラは 顔や服装が私に似ている気がした 「もっと大きく描こうとも思ったよ!!  でもそれだと家に飾るのは邪魔かなとか。  ほらその、絵柄的に恥ずかしいかなとか。  色々考えちゃって。えっと、どうかな?」 「そうじゃなくてっ」と私は声を張り上げて 彼を家の中に連れ込んでニュースを見せた 「贋作作家ってあなたのことかと思って!」 そう問いただすと彼は困った顔で言った 「ごめんね、実は、、、」 彼の長ったらしい言い訳を要約すると 描くのは贋作ではなく油絵とかでもなく ゲームや小説などのイラストらしかった それも胸や足が強調されたような女の子 いわゆる萌え絵を描く人だった 画家と言っても間違いではない 間違いではないというだけだが 「騙すつもりじゃなかったんだけど、  なかなか言い出せなくなっちゃって。  でもどこかで言わなきゃとは思って。  それで誕生日イラスト描こうって...」 画家というミステリアスな絵の具が 彼からどんどん剥がれていった 絵画に詳しい彼の知的な側面も やけに早口で言い訳するところも なにもかもただのオタクにしか見えない 「絵が高く売れるのは、本当なの?」 「え?あ、まぁ。売れてる方だと思う」 だが私にそんなこと関係ない 元々絵なんて興味はない 「お金持ちなのは本当なのね?  無理して借金とかしてないね?」 「借金なんてしてないよ!!  お金使う趣味とかないからさ」 カッコよくてお金持ちの好青年 しかも仕事が趣味のオタク 誰かと頻繁に会う仕事ではなく ファンもきっと男ばかりだろう つまり浮気するリスクは低い 「私のこと、好きなんだよね?」 「もちろん!愛してます!!」 安っぽい色紙に描かれた私の絵は ちょっとキモい絵柄ではあるし こういう絵のなにがいいのか 私にはサッパリわからないけれど 彼が私を大好きなことだけは伝わった 「可愛いじゃん、この絵」

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気持ちの悪い主人公

「ーーさんの描く主人公は、  なんというか変なんですよ」 大手出版社に漫画を持ち込むと 若い編集者はそう言って苦笑した 数ヶ月が徒労に終わった瞬間だった 「行動に一貫性がないし、  主義主張がコロコロ変わるし。  なに考えてるかわからない主人公、  読者は応援したくなりますかね?」 実際の人間に一貫性なんてない だから人間の弱さや醜さを否定せず 等身大の主人公を描きたかった そう言うと若い編集者は スマホを触りながら言った 「あなたが変なだけですよ」 他の出版社にも持ち込んだが 反応はどこも似たようなものだった 主人公の言動に一貫性がない 主人公に魅力が感じられない 主人公が見ててイライラする 気持ちの悪い主人公であると 自分が描いた主人公を否定されると 自分自身が否定された気持ちになる だが彼らの言葉を否定はできなかった 大手出版社に勤める人からすれば 自分のような人間は気持ち悪いだろう いい歳して大した努力をしたこともなく 金もなければ友達もいない 漫画を描くしかやることがない 考えれば考えるほど 自分というキャラは醜かった 否定ばかりされるのが辛くなって とうとう持ち込みには行かなくなった それでも仕事が休みの日には 誰も読むアテのない漫画を描いた 数ページしかない短い漫画だったが 相変わらず主人公は気持ち悪くて 自分の才能の無さに苦笑した どうせならSNSに投稿してみよう そんな軽い気持ちだったが 投稿した漫画は瞬く間に拡散された 自分の漫画が多くの人に読まれている それは本来喜ぶべきことだっただろう だが絶え間なく届く通知からは 恐怖しか感じられなかった ここでもきっと否定される 気持ちの悪い主人公だと思われる 恐ろしくてコメントは読めなかった スマホを見ることすら怖くなり 必要なとき以外は触らなくなった そうして投稿がバズってから数日後 通知の増加が落ち着いてきた頃だ 恐る恐るアプリを開いてみると 『こいつ何がしたいのかわからん』 『キモ過ぎる。ただただ不快』 『全く感情移入できない主人公』 そんな予想通りのコメントもあった だがそれらは一割ほどしかなくて ほとんどのコメントは意外なものだった 『自分を見ているようで涙が出ました』 似たような状況を経験した人や 似たような気持ちになったことがある人 コメントはそういった人達の経験や 行き場のない感情で満ちていた 初めて創作物に共感された瞬間であり 初めて他人に肯定された瞬間だった 大袈裟かもしれないが 生きていて良いと言われた気がした それからは毎日のように漫画を描き 出来上がれば深夜でも投稿した 相変わらず否定的なコメントもあったが そんなもの気にならないぐらい 感謝のコメントが耐えなかった 『いつも更新ありがとうございます』 いつも読んでくれてありがとう 『独りじゃないって思えました』 独りじゃないって思えたよ 『電車の中なのに涙が止まりません』 だからコメントは家で読むことにしてる そうして漫画を投稿し続けていると 大手の出版社から連絡があった 『ぜひウチで出版しませんか』 それはかつて持ち込みをした出版社だった 「ーーさんの描く主人公は、  等身大でとっても魅力的ですよね」 そう言ってくれた若い編集者は 自分のことを覚えていないようだった 彼は当時と同じ口で異なる台詞を吐いた 「些細なことも敏感に感じとって、  悩んだり間違ったりもする。  そんな等身大の主人公が、  読者の共感を呼ぶんですよね!」 この人が特別に悪い人だとは思わない 有象無象の中から才能を探す持ち込みと すでにバズった作者に対する言葉とが 同じである方が不自然だとも思う それでも出版を断ったのは 商業出版に興味が無かったわけでもなく これからは個人出版の時代だとか そういうポリシーがあったわけでもなく ただちょっぴりイラっとした それだけだったと思う 出版社のビルから出るとなんとなく 向いのビルの喫茶店に入った 店内には胸から社員証を下げた客が 偉そうに最近の漫画について語っていた お洒落なジャズと彼らの会話が混ざり合う もしもこの店内に客が自分だけなら どれだけ素敵な空間だろうと思った そんな意地悪を思い浮かべてしまうのは 気持ちの悪い主人公だからなのだろう

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選ばれた屍人

安楽死できるかどうかは 国が運営する抽選で決まる 年に一度の抽選に参加した私は 宝くじより低い確率を引き当て 安楽死した、はずだった でも深い眠りから目覚めると そこは病室のような場所だった 窓もなく無機質な白い部屋で 私はベッドに横たわっていた 天国ってこんな場所なのかと 肩透かしを食らった気分になる すると見知らぬ男が入ってきた 「気分はいかがですか?」 白衣姿のその男性は 医者のようにも見えたし 研究者のようでもあった 彼は何やら端末を操作しながら 不気味な笑顔で私を見下ろした 「私、死んだんです、よね?」 「ええ、そうです。間違いなく」 「ならここが天国ですか?」 「まぁ、大体そんなものです」 歯切れの悪い返事ではあったが 死ねたのなら問題ないと思った 死にきれずに元の生活に戻される それだけが恐れていたことだった ところでこの人は誰なのだろう 「ではいくつか質問しますので、  深く考えずに答えてください」 「あの。あなたはだーー」 「海が好き?山が好き?」 それは突拍子もない質問だったが なんとなく「海、です」と答えた 名乗りもしない知らない男性に 質問されているこの状況に 疑問を抱くべきだろうけれど まだ頭がぼんやりとしていた 「では次の質問です。  多人数は得意?苦手?」 雑な性格診断みたいだと思いながら 私は素直に質問に答えていった 「インドア派?アウトドア派?」 「カレーは甘口?中辛?辛口?」 「トランプで好きなカードは?」 最初は一問ずつ考え込んだけれど 段々とどうでもいいような気がして 後半は深く考えず適当に答えていた 「風呂は週に何回入りたい?」とか 訊かれて「毎日」と反射で答えたけど 本当は週一でいい 「質問は以上です。お疲れ様でした」 白衣の男性はそう言って 操作していた端末を小脇に抱えた 私は質問されている間に ぼんやりと考えていたことを話した 「私、やっぱり死んでませんよね」 「まぁ、死んでいないとも言えますね」 「死んでいないと困るんですが」 「死んではいるので安心してください」 全く会話になっていない だが男性の笑顔が相変わらず不気味で それ以上追求する気にはなれなかった その代わり男性は「こちらへ」と 私を隣の部屋へ案内してくれるようだ 素足を床につけベッドから立ち上がる 生死すらあやふやな白い空間で 冷たい床だけが肉体を感じさせた 隣の部屋も似たようなもので 窓のない真っ白な空間だったが 中央にはベッドではなく 姿見だけがポツリと置かれていた 私は白衣の男性に促されるまま 姿見の前へ近づいていった 鏡に映っていたのは 見知らぬ痩せた女性だった 私が驚いて目を見開くと 鏡の中の彼女も目を見開いた 私が手のひらで頬をなぞると 彼女も手のひらで頬をなぞった 薄い皮だけのような頬をつねる 醜くこびりついていた駄肉は 一足先にこの世を去ったようだ 「お気に召しませんでしたか?」 男性がそんな訊き方をしたのは 鏡の中の彼女が泣いたからだろう 彼女は何度も首を横に振ると 「違うんです」と弱々しく呟いた 声だけは私にそっくりのようだった すると鏡に映った男性は話し始めた 「あなたは確かに死にました。  法的には、という意味ですが」 それから彼は説明を始めた ここは天国ではないし 私は殺されてもいない 公表されていないがこの国では 五十歳未満の安楽死は行われず 死亡扱いとなるだけらしい 整形で顔は変えられて 戸籍は新しく作られるようだ つまり第二の人生が始まる 私がまばたきをすると 鏡の中の彼女もまばたきをする 口を開いては閉じてみて 横を向いたり上下させたりする そうやって少しずつ鏡の中の彼女が 自分なのだということを確かめた 「当面の住む場所は手配いたします。  海がよく見える場所にしましょう。  それと充分な資金の用意もあります。  十年は働かずに生きられるはずです。  それでも安楽死が希望でしたら、  一年後からはいつでもご連絡を」 「ここまでで質問はありますか?」と 男性は尋ねてくれたけれど すぐには思い浮かばなかった そうして暫く考え込んでいると ふとどうでもいいことを思い出した 「海、ホントはそんなに好きじゃなくて」 すると男性は「わかりました」と頷いた もうその笑顔を不気味とは思わなくて それどころか今は安心感すら覚えていた 生きている実感が湧いてきたのもある だからか少しずつ言葉が浮かんできた 「多人数は苦手だけど、独りも嫌で。  あとインドア派なわけじゃないんです。  外で一緒に遊ぶ友達がいないだけで。  カレーがそもそも好きじゃないし、  トランプよりUNOの方が好きだし」 私は何を言っているのだろうか 「死んでないって知ったときは、  正直めちゃくちゃガッカリしたし。  でも仕方ないって、そんなもんだって。  我儘言っても仕方ないって思って」 我儘を言っても嫌われるだけだから 自分ではどうしようもなかったから 「過去のあなたは、もう存在しません」 男性は私の傍へ来てその場にしゃがんだ 「家族も、知人も、あなた自身でさえ。  もうあなたを探すことはできません。  探そうとする権利すらありません。  今目の前に映るあなただけが、  これからのあなたであると保証します」 死だけがずっと希望だった 死にたかったわけじゃない それしかこの世界から逃げる術が 自分自身から逃げる術がなかった でも今の私はもう一度未来を選べる 「最後に一つだけ、質問いいですか」 彼はゆっくりと頷いた 「連絡してきた人は、いましたか?」 彼は徐に立ち上がり微笑んだ 「今のところは、一人も」 そうして私は促されるまま 彼と共に次の部屋へと歩き始めた ひんやりと心地良い床を踏みながら 私は小声で我儘を言っていた 「やっぱり海、見たいです」

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関係のない幸福

結婚式での写真をアップすると 瞬く間に沢山の『いいね』がついた 祝いのコメントが寄せられる中で 一部の人達は気づき始めていた 『これあなたじゃないですよね?』 そうこれは私の幸せではない ドレス姿の綺麗な女性も 隣に並んだ優しそうな男性も どこの誰だかなんて知らない 拾った画像にモザイクをかけて それらしい文章と載せただけだ このアカウントでの結婚報告は もう三回目だった 前には新婚旅行の画像を載せた エッフェル塔を見上げる後ろ姿で 「夢がひとつ叶いました」と書いた 赤ん坊の写真を上げたこともある 若い女性が優しい眼差しで 小さな命を見つめている そんな幸せを借りた投稿を繰り返し 意外に思ったことがある 人は誰かを祝いたがっていて そして誰を祝うかに興味がない 誰かを祝った良いことを言った それ自体に酔っているのであって 誰を祝うかなんてどうでもいい むしろSNS上でふと見かける 誰だか知らない他人の幸せの方が 手放しで祝えるのかもしれない 知っている誰かの幸せが 自分の幸せとは限らないからだ そういうわけで私の投稿には 常に一定の需要が存在した 偽りの投稿だとわかっても 変わらず祝い続ける人も多くいた しかしアカウントが伸びるにつれ 画像の削除を求めるDMも増えた 相変わらず『いいね』は多かったが コメントは批判的なものが増えた アカウントが凍結されるのは 時間の問題だろうと思った だからこそ私は投稿を増やした 凍結されるそのときまで 諦めることはできなかった そうして借り物の幸せを投稿しては 依頼に応じて削除を繰り返していると ある日一件のDMに気がついた 今度はどの画像の削除依頼だろうと メッセージを開いてみると ある投稿のスクショが貼られていた 若い女性が赤ん坊を抱えている写真 そしてメッセージが添えられていた 『母を知っているんですか?』 娘が生きているとわかり 私はそっとアカウントを消した

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匂う乗客

待ちわびたバスに乗り込むと 冷気が体の熱を冷ました しかしすぐさま俺の関心は 心地良い冷房の温度ではなく 鼻を刺すような刺激臭へと移った バスの奥へと視線を送ると 一番後ろの席に男が座っていた 男はひどく太っていた 服は洗っていないのか黄ばんでいて 薄汚いTシャツは腹で膨れ上がり 数本の毛と共にヘソが覗いていた バス内で他に人は運転手と 入り口付近に座る女性しかおらず 誰が臭いの元かは明らかだった 俺が入り口付近の席に座ると バスは異臭を閉じ込めて発車した 目的地までそう遠くはない 到着までの辛抱だと言い聞かせた 走行中は無心で窓の外を眺めたが 鼻を刺す臭いが視界すら歪めた バスが交差点で停車する時間は 途方もなく長いものに感じられた 鼻の奥がじんと熱くなり 目の裏には鈍い痛みが走った 車体がバス停に止まるたび 降りて吐きたいと何度も思ったし 早くそうするべきだったのだろう もう我慢できないと バスを降りようとしたとき 俺の視界はぐにゃりと歪んで バスの床に両膝をついた 朦朧とする意識の中で見たのは 近くに座っていた女性だった 彼女はハンカチを取り出して しゃがんで声をかけてくれた しかし届いたのは声よりも 彼女がまとう匂いだった シャンプーか香水なのか 甘ったるい匂いが混ざって 鼻先へ押し込められるような そんな思考が浮かぶと共に 次の瞬間にはもう吐いていた 「化学物質過敏症ですね」 病院でいくつかの検査を受けると 医者は聞き慣れない言葉を口にした どうやらそれが俺の身に 起きたことの正体らしかった ある日突然現れるこの症状に 未だ治療法は見つかっていない 症状は人によって違うようだが 俺の場合は『香り』に強く反応した 柔軟剤、香水、消臭スプレー 芳香剤、洗剤、ボディソープ 他にも薬品的な香りは全て 体が拒絶してしまうようだ 洗濯もロクにできやしない 「香料はどこにでも使われてますから。  極力避けるしかないですね、、、」 医者が言う通り意識してみると あらゆる物に香料が含まれていた 特に洗濯や食器洗い、風呂場など 水回りの生活用品のほとんどに なんらかの形で香りがついていた さらに外では香水や整髪料の香り等 様々な匂いが混じり漂っている これらを避けて生活するなんて 現実的とは思えなかった 常にマスクを手放せなくなり 会社内の匂いに耐えられず退社 家から出る必要が無くなり 風呂も洗濯も避けるようになった 不衛生に思える生活にするほど 周囲から不快な匂いが消えていく そのチグハグさに不安を覚えたが 次第に慣れて何も思わなくなった 病院へ向かうためバスに乗ると ほとんどの席が埋まっていたが 一番奥の席だけまだ余裕があった 乗客達がチラリと俺を見ては 鼻を遠ざけるのを横目に見ながら マスクを手で抑え歩いていく 一番奥の席にはたった一人だけ 見覚えのある太った男が座っていた 服は洗っていないのか黄ばんでいて 薄汚いTシャツは腹で膨れ上がり 数本の毛と共にヘソが覗いていた 俺はその男の隣に腰を下ろした 太った男はこちらを一瞥すると すぐに視線を窓の外へと戻した バスがゆっくりと動き出す 俺も窓の外をぼんやりと眺めながら マスクを指でそっと下ろした

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ありふれた毒薬

物心ついた頃にはもう 私は毒を食べていた 『子を愛さない親』という ありふれた毒だったが その解毒に私は人生の ほとんどの時間を費やした 最初の薬は恋愛だった 愛されなかったのだから 愛されればいいと思った 実際付き合い始めは特に その薬は効果を発揮した だが服用すればするほど 効果が薄れていくのを感じた 愛されていたのではなく 性の吐け口でしかないと 気がついてしまったからだ 感じていた薬の効果は 単なるプラシーボだったらしい 夜の営みを断った日から 彼氏は薬から毒に変わった 態度は冷たく連絡は遅くなり 彼が遠ざかっていくほどに 毒が暴れて内臓が痛んだ 彼氏の浮気をきっかけに 恋愛の服薬は終わりを告げたが 代わりに次は肉体関係という 薬への依存が始まった 行為自体は好きではなかったが 薬が苦いのは当然のことだった それにこの薬は手っ取り早く 効果もわかりやすかった 男に抱かれているその時間は 毒による苦しみを忘れたのだ だがこれは薬というよりは 鎮痛剤に近いものだった 男と体を重ねる時間以外が 全て苦痛となったから 肉体関係に依存することが よくないこととは思っていた だが苦しくなるとすぐに 誰かと連絡を取ってしまう 誰とも予定のない夜が 怖くてたまらなくなっていた この頃にはもうすでに 毒と薬が混じり合い 自分が何に苦しんでいるのか よくわからなくなっていた わからなくても苦しみは続き その苦しみを紛らわせる為に また次の毒を食う日々を過ごす こんな生活をダラダラと続け 三十歳くらいには死ぬのだろうと 漠然とそんな期待をしていた 彼と出会う前までは 二十代後半で出会った彼は つまらなく平凡な人だった 家族に愛されて育てられ 学生時代からの友人もいる どこにでもいる会社員だ そんな彼がどうして私を 好きになってくれたのか わかる日はとうとう来なかった 彼はこれまでにないほどの 万能な薬だった 体の関係ばかりを求めず 好意をこまめに口にして 薬臭い私を抱きしめた 『愛される』というのは こういうことかと思った もしもそうだとするならば 愛されることに向いていなかった 彼が変わったわけではない 私が慣れてしまったのだ 愛は少しずつ肌を滑り落ち とうとう受け取れなくなった あるいは摂り過ぎたのかもしれない 慣れない愛を摂取し続けた私の体は とうとう吸収できず吐き出し始めた どうせ愛されるはずがない どうせまた裏切られる どうせまた毒になるのだと 毒に慣れた私の体は 優しい薬を受け付けなかった 自ら手放したあれは恐らく 幸せという薬だったのだろう しかしそれは私の手で掴むには あまりに重く滑りやすかった だがもう劇薬には戻りたくない そんな私の最後の薬は ショッピングモールの片隅にいた 暇潰しに寄ったペットショップで 値下げされている猫を見かけた 子猫と言うには大きいその子と 目が合った瞬間に動けなくなって 気がついたときには買っていた ペットなんて飼ったことはなかった だからネットで必死に情報を集めた 病院に連れて行ったり玩具を選んだり そうして猫の環境を整える時間は 経験のない充実感に溢れていた 私がいないと死に絶える命は しかし私に媚びるでもなく 私を否定するわけでもなく ただいつもそこに居てくれた そんな猫が日に日に愛おしく 時に邪魔がられながら声をかけた 「可愛いね、大好きだよ、愛してるよ」 私が母に言って欲しかった言葉 それを聞いても猫は退屈そうに あくびをするばかりだった それでも私は毎日言い続ける こんな当たり前の言葉を 欲しない子でいてほしくて

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飾られた赤ちゃん

壁に飾られた赤ちゃんは 今にも泣き出しそうだった その口を咄嗟に手で押さえ 慎重に赤ちゃんを抱きかかえる 早く逃げなければならない 『母様』が帰ってくる前に そう思ったときだった 廊下から足音が聞こえたのは 一歩ずつゆっくりと 足音がこちらへ近づいてくる 侵入者を探しているのだろう 俺は足音を立てないように 赤ちゃんを抱えたまま移動した かつて怪盗として名を馳せた俺が 一体なにをやっているのやら そんな一瞬の迷いはしかし 隣の部屋へ入ると消し飛んだ 部屋の壁一面に吊るされた 十人以上の赤ちゃん達 彼らはみんな一人ずつ 花を敷き詰めた額縁に飾られ まるで動く絵画のようだった 額の下には名前が記されていたが 赤ちゃんの名前というよりは 作品名のような文字の並びだった すると飾られた赤ちゃんの一人が こちらを見て微かに手を伸ばした 俺は咄嗟にその子から目を背け 抱えている子と次の部屋へ向かった この屋敷は極端に窓が少ないため 脱出するには来た道を戻るしかない そうしてドアに手をかけたとき 向こうから「ギシリ」と音がした ゆっくりとドアから手を離す するとドアノブが勝手に回り 木製のドアが向こうへ開いていく 俺は赤ちゃんを抱えたまま ただそれを見守ることしかできない 「やっと見つけましたよ......」 ドアの向こうにいた人物は ぎこちない笑顔でそう言った 人形のように華奢な体に シワだらけの小汚い服装が 豪華な屋敷に合っていなかった 彼が今回の依頼人兼協力者であり この屋敷で唯一の『売れ残り』だ まだ十代前半の少年は 俺が抱える妹の顔を確認すると 「母様がそろそろ帰ってきます。  急ぎましょう、こちらです」 そう言って前を歩き始めた しかし廊下へ出たところで 俺達はすぐ立ち止まることになる 玄関の方からガチャリと 鍵が外れる音が聞こえたからだ 俺と少年が顔を見合わせると 今度は抱えていた赤ちゃんが 急に泣き始めてしまった 他の子達も泣いているようだが 俺達の位置からはもう遠かった すると少年は俺の腕を引っ張り 力強い瞳で俺を見つめた 充分に意図が伝わった俺は 次の瞬間には少年と駆け出した 少年が向かう先はもしもの為の 地下から敷地外へ出る道だった そうして階段へ差し掛かったとき 俺は少年とは反対方向へ つまり階段を上がって行った 驚いた少年が慌ててついてくる 「来た道を戻るんですよ!  上には何もありません!」 だが妹を抱えているのは俺だ 少年はついてくるしかない さらに極め付けはこれだ 「娘はこっちだぞババァー!!」 赤ちゃんの泣き声に負けないよう 俺は思いっきり声を張り上げた 少年はその綺麗な顔が青ざめ歪み 階下からは悲鳴のような声が聞こえた 「だぁ〜れだ貴様はぁー!!」 「この先に窓はあるか?」と尋ねると 少年は「屋根裏部屋なら!」と答えた 案内された部屋のドアを開けると 屋根裏部屋へと続く梯子が見えた 少年の後に続いて梯子を上がる すると背後から「ドォン!」と 爆発したような破壊音が聞こえた 思わず振り返るとそこには 蹴破られたドアの残骸と それを踏みつける鼻息の荒い 巨体がゆっくりと姿を現した 「アタシの子を返せぇ......!!」 豪華なドレスをまとったその姿は 麗しき貴婦人を想起させたが しかしその大きな身体に喉仏は 格好とあまりにも合っていない 奴が赤子を作品に仕立てて売る 『母様』と呼ばれる男だった 震える少年の背中を押して 俺達は屋根裏部屋へと駆け上がる 少年が梯子の蓋を降ろしたが 時間稼ぎにしかならないだろう 「隠れる場所なんてぇ〜。  どこにも無いのよぉ〜」 足音と共に母様の声が近づいてくる 俺は小刻みに震える少年の肩を叩き 抱えていた赤ちゃんを少年に託すと 屋根裏部屋の錆びついた窓を開けた 地面は遥か遠くに感じる 「離すなよ」 そう言うと俺は少年を抱きかかえた そうして窓枠に足をかけたとき 「バタン!」と力強い音が聞こえた 母様が地獄から迎えに来たようだった 「飛び降りるなんて無理ですよ!?」 「そいつの言う通りだよ。  諦めてアタシの子を返しな」 さっきから気になっていた 母様はアタシの『子』と言うのだ 少年もいるのに『子達』ではなく 誘拐や人身売買で集めたくせに 作品になれなかった子供なんて どうでもいい、ということか 「子供はお前の作品じゃない」 俺はボソリとそう呟くと 少年を抱えて窓から飛び降りた 風が俺達の服をはためかせる 少年は目を瞑っていたようだが やがて振り返り目を丸くしていた 「額縁の外は気持ちいいだろう」 元怪盗らしく背負ったグライダーで 俺達はすでに空高く飛翔していた 下から誰かが叫んでいるようだが その誰かはもう米粒ほどの大きさだ 「......戻りたいか?」 俺は尋ねたが少年は答えなかった 代わりに少し間を置いてから 「外って、広いんですね」 と少年は独り言のように言った きっと少年は妹だけを 外に出すつもりだったと思う だがもしもそうしていたら こうして満面の笑みで飾られた 赤ちゃんの声は聞けなかっただろう

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飾られた赤ちゃん

撫でられなかった猫

「飼っていた猫が死んだので、  皮を剥いで丸焼きにしました。  泣きながら口いっぱいに頬張って。  食べ終わる頃には眠くなっていて。  舌の上では毛玉がもう眠ってました。  これがわたしの志望動機です」 私はそう言って履歴書を出しました 面接官は険しそうな顔で尋ねます 「それは美味しかったのかい?」 私は目一杯の笑顔で答えました 面接では笑顔が大事ですから 「クソまずかったです!!」 すると面接官は立ち上がりました 「素晴らしい、採用だよ」 こうして長年の夢だった デスゲーム運営になれたのです ですが働き始めてしばらく経つと その退屈な日々に嫌気が差しました すっかり慣れた悲鳴に嗚咽 鉄臭いゲーム後の後片付け だから新しいゲームを考えました 家族を賭けるデスゲームです 参加者は家族を賭けるのですが わざわざ会場に連れてきたり その場で殺したりもしません ただ賭けさせ後で処理しておく すると参加者達は面白いように 遠慮なく家族を賭け出すんです 実感が沸かないんでしょうね ゲーム中は何も起こらないから 軽い気持ちで家族を賭けてしまう そうして負けた参加者達は 会場を出た後に後悔するんです 「こんなつもりじゃなかった」って テメーが賭けたんだろバーカ! これが出資者達にもウケて大盛況! おまけに会場で誰も殺さないから 後片付けも楽で残業が減りました ついにデスゲーム業界にも 働き方改革が訪れたわけです これで出世街道まっしぐら そう信じて疑いませんでした 親がゲームに参加するまでは 思わず笑ってしまいましたね あのクソ親マジかよって そしたらあの親私に向かって 「みーちゃんの仇よイカれ女」 って言いやがったんです 違うじゃんあれは事故じゃん ちょっと蹴っただけだって あんなんで死ぬ猫が悪いじゃん クソ親が賭けたのはもちろん私 一応上司に確認してみました 「もしも母親が負けた場合  私って死んじゃいますか?」 昔面接してくれたその上司は ニッコニコで言いました 「そうだけど、え。嫌なの?」 その言葉にカチーンときた私 嫌じゃねぇしやってやるし! 火がついた私は母に怒鳴りました 「やったれクソ親、負けんなー!」 「地獄へ堕ちろイカれ女ー!!」 やっぱり私達って親子なんですね 息ぴったりで吐き気がしました ここからドラマチックな展開が! あるわけもなく普通に負けたクソ親 「アンタは一生地獄を這いずってな」 母はそう吐き捨てて会場を去りました 参加者達がいなくなった静かな会場で 床に座って天井を眺めていると 上司がそばに来て肩を叩きました 「楽しかったな、この仕事天職でした」 そう言って上司の方へ振り返ると 上司は私に資料の束を手渡しました 「はいこれ、来月からの日程表ね」 それだけ言って立ち去ろうとする上司 私は慌てて立ち上がり呼び止めました 「どういうことですか!?  殺されるんじゃないんですか!?」 そしたら上司はニッコニコで言ったんです 「お母さんが賭けたのは旦那だよ。  お父さん殺しちゃった、どんまい」 上司の去り行く背中を見届けながら 私は会場の床に寝転がりました そっか あの男はもうこの世にいないんだ 殴られることも蹴られることも この体を汚されることもないんだ 「ざまぁみろ、クズ野郎......」 思わず口元がニヤけた後に 急に寒気がして体を起こしました もしこれで母が私を助けたなんて 思っていたらと考えると 最悪過ぎて吐き気がしました 「頼んでねぇっつうの」 そう呟きながら立ち上がると 資料の束を手に会場を出ました 早く帰って明日の準備をしないと 打ち上げの場所まだ決めてないな 月末だし経費の精算もしないと なんか色々めんどくさいけど サボるわけにもいかないからなぁ イカれた女に日常をくれた 初めての職場なんだから

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撫でられなかった猫

赦しを乞う虫

夫はすぐに謝る人でした 仕事で帰りが遅くなると謝って 家事を忘れていたときも謝って 喧嘩になってもすぐさま謝って だから殺したのです 最初から殺すつもりで 夫を登山に誘いました そんな私の計画なんて 知る由もない夫はその日も 悠長に謝っていました 靴に石が入って「ごめん」 飲み物を飲み過ぎて「ごめん」 道を間違えて「ほんと、ごめん」 夫の謝罪はただの擬態で 感情なんてありません 謝れば赦してもらえる 赦してもらえることだけ謝る そういう学習をしただけの 赦しを乞う虫なのです 虫は殺さなければなりません 予定の場所にやってくると 私は無防備な夫に尋ねました 「浮気って、楽しかった?」 夫は一瞬だけ 昆虫みたいに表情を失いました けれどすぐ笑顔に戻って 私にこう言ったのです 「もう、なに〜?怖いなーー」 夫が言い切る前に 崖から突き落としました もしも夫の第一声が 私に対する謝罪だったら 赦そうと思っていました けれど同時に夫が 謝らないこともわかっていた 赦してもらえそうなことしか 謝らない人でしたから 「お風呂、のぼせないようにねー」 ──そんな想像をしたところで 風呂場の外から夫の声がして ふと湯船の中で現実に戻った 肌はふやけて指先は皺だらけ 鏡に映る自分が少し怖く見えた 明日はいよいよ登山の日 夫を殺すイメージは完璧だった 風呂から出ると夫は テレビを観ながら笑っていた 「ごめん、牛乳飲んじゃった」 誰も責めていないのにまた謝る 「ねえ」私は口を開く。 「なにか、隠してることない?」 夫はきょとんとしたあと 首を振って「ないよ」と言った どうでもよくないことは やっぱり謝らないんだね その夜、私は先に布団に入った 毛布を被りシーツに顔を埋めて 芋虫みたいに丸くなると 喉から震えた声が這い出た 「……ごめんね」

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赦しを乞う虫

カットされた退屈

行列の最後尾に並ぶと 気がつけばもう店内にいる 豚骨ラーメンを注文すると すぐにそれが目の前にある 並んでいないわけでもなく 待っていないわけでもない ただカットされるようなのだ 退屈に感じる全ての記憶が この現象が始まったのは 大学の前期が終わる頃だった 映画監督になることを目指して 入学した芸術系の大学だったが そこは想像した場所ではなかった 何もかもが退屈だったのだ 歴史や方法論ばかりの座学 子供相手のような初歩的な実技 高校時代に映画撮影どころか カメラさえ持ったことのない連中 それら退屈な何もかもが 俺を苛立たせていた 映画のように無駄のない日々を 退屈なシーンなどない日常を そんな願いが届いたのかもしれない 夏休みを間近に控えた頃に 俺の『カットされた人生』が始まった 最初は戸惑いの方が大きかった なんせ夜に布団へ入り目を閉じると 次は電車の中で友人と話しているのだ 講義室に入った瞬間に授業は終わるし 大学を出て友人と別れたらもう家にいる まずは二重人格を疑ったが次第にこれは 一種の記憶喪失なのだと理解した 退屈なシーンがカットされた人生 まさに映画の世界じゃないか それからというもの俺から 『退屈』という感覚が無くなった そう感じる時間はカットされるからだ 映画制作の費用を稼ぐために バイトのシフトを目一杯入れて 夏休みの撮影に向けて仲間を集め 脚本を書いてスケジュールを立てた どれだけ予定を詰め込んでも 苦しかった記憶は俺にはない 映画作りに熱を感じる時間以外は 全てが退屈な時間だったから そうして迎えた夏休みの撮影は 入学してから最高の日々になった 山奥でのロケに仲間達との宿泊 夜な夜な交わした熱い映画論 何もかもが充実していたし 何もかもが順調だった そうして撮影を終えた俺は 夏休み明けに完成した映画を公開した 学内のシアターを借りた公開だったが 公開時間には連日学生達が押し寄せた アンケートの評判も悪くない 次に撮る作品は映画賞への応募も 無謀ではないように思われた そうして俺は共に撮影をした仲間達に 冬休みには何を撮ろうかと尋ねた だが彼らから返ってきた言葉は 予想外なものだった 「僕はいいや、別の撮影の予定あるし」 なんで、良い作品が撮れたじゃないか 「私もいいわ、撮影スケ厳し過ぎだよ」 そのおかげでスムーズに撮れたんだ 「倒れかけた奴もいただろ、死ぬって」 あれ、そんなことあったっけ 「片道5時間だぞ、車運転する身にもなれよ」 みんなで話してたらすぐ着いたじゃないか 「作品のために妥協しないのはいいけどさ。  無理させ過ぎだろ、あれなら俺も無理」 ならそのとき言えばよかったじゃないか 「僕は何回も言ったよ!?無理だって!」 「私は何回も言ったでしょ無理だって!」 「俺は何回も言っただろ!無理だって!」 俺が覚えていない俺がいて その俺が彼らを怒らせている そのくらいのことは想像できる だがそれでも納得がいかなかった 多少辛いのがなんだっていうんだ 良い映画が撮れればそれでいいじゃないか 結局彼らとの溝が埋まることはなく 俺は徐々に大学内で孤立していった 次第に大学へ着いた瞬間に 校門を出るシーンへ飛ぶようになり 俺は大学に行かなくなった 一人暮らしの家にいると 人生はどんどんカットされていった 一日の中で一度でも意識があればマシで 長いと一週間近くカットされることもあった その間にもバイトへ行ったり食事をしたり 生きるために必要な作業はしているらしく 何か困っているというわけではなかったが たまの意識には彼らの言葉を思い出した (「僕は何回も言ったよ!?無理だって!」) こんなことを思い出すシーンが必要か? (「私は何回も言ったでしょ無理だって!」) 映画作りには関係ないじゃないか (「俺は何回も言っただろ!無理だって!」) こんなシーンカットしろよ 退屈はカットしてくれるんじゃないのかよ! カットされない不快な音を掻き消すため 俺は配信サービスで映画を観ることにした 最新の映画から昔観た名作まで 画面の中で映画が絶えることはない それに面白い映画を観ているときだけは 俺の人生はカットされずに済んだ いつの間にかカットを恐れていた俺は 朝起きてから寝るまでずっと映画を流した だがある日観始めた映画は 開始数分でエンドロールが流れた 面白くない映画だっただけだと 今度は一番好きな映画を再生する すると今度はクライマックスから始まり あっという間にエンドロールを迎えた 慌てて他の映画を再生しても 結果は似たようなものだった それどころか再生すればするほど 本編を観る時間は短くなっていった 怖くなった俺はテレビを消して 逃げるように布団へ潜り込んだ 毛布を頭までかぶり目を閉じて 真っ暗な世界の中にいると 今の自分に意識があるのかないのか カットされているのかいないのか あやふやで暗闇の底にいるようだった 体感では一時間ほど経った気がするが きっと実際には何日もいや何週間も 時間が経っているのだろうと思った そうしてゆっくりと布団を押しのけて スマホで時間を確認してみる 布団に潜り込んでから まだ三十分も経っていなかった カットされなかったことに 違和感を覚えながらもテレビを点ける けれど映画を観る気にはならなくて そのままアテもなくチャンネルを変えた するとある局でアニメを放送していた どうやら日常系のギャグアニメらしい 男子高校生達がくだらないことを言って それを誰かがツッコんだりして笑う 思想も哲学もロクにない 退屈な日常を覗き見るような内容だ 「こんなの、なにが面白いんだが」 くだらない内容に思わずため息が出る するとあっという間にアニメは終わった やはりこんなもの見ても時間の無駄だ キャラのギャグはスベっているし ツッコミも普通で全然意外性がない 作中で起こる事件も教科書を忘れたとか 先生にあだ名をつけるとかくだらな過ぎーー このとき俺は二つのことに驚いていた 一つはアニメの内容を覚えていたこと そして、自分が泣いていたこと 配信サービスでさっきのアニメを探し 一話から順番に再生していく どれも退屈な高校生達の日常で それを見て笑いながら泣く自分がいた 彼らが楽しげに高校生活を送る姿が 楽しかった夏の撮影の日々に重なった 寝食を忘れてそのアニメを見続け 全話見終わる頃にはすっかり朝になった 寝巻きのままでフラッと外へ出ると 朝日が照らし俺は思わず顔を覆った なんでもない朝日 なんでもない風の音 なんでもない朝の香り それらが全身に染み渡っていく 今日は長い一日になりそうな気がした

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カットされた退屈