東真直@短編を書く人

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東真直@短編を書く人

短編集『紙の牢獄』発売中。小説は公式オンラインショップやAmazon、TSUTAYA調布駅南口店にて発売中です。Kindleでは無料サンプルが読めます。

遅咲きのヒロイン

真っ暗にした部屋の中で テレビの灯りが浮かんでいた 女刑事が犯人を追い詰めている 彼女のセリフと重なるように 私の口が無意識に動く 彼女は、私だった 女優としては遅咲きの30歳 売れたのは刑事ドラマだった オーディションを勝ち抜いて 無名から主演に心が弾んだが そのドラマが10年も続くなんて 当時は想像もしていなかった 最初はただただ必死だった 慣れない現場、慣れないテレビ 全てが大変で充実感に溢れていた 頑張った甲斐もありドラマは好調 順調に続きが作られていった 何もかもが順調のはずだった だが数年が経ちふと気がついた 刑事役しかやっていない 他の役のオファー自体は来ていた だがメインとなる刑事ドラマが忙しく どんどん続編が作られていくので マネージャーが断っていたのだ せっかくの代表作だから 今はこれに専念するべき そう頭ではわかっていたものの この頃からズレを感じ始めていた 映画に出たくて、役者になったのに 売れている同期の多くは 若い頃に青春映画を経験し 二十代後半で結婚とか 重めのテーマの作品に出て 三十代ではお母さん役だ その順風満帆さはあくまで 作品の中での話であって 私生活を表すものではないけれど 比べずにはいられなかった 私はいつまで男達に混ざり 俳優からの好意をやり過ごしながら 刑事を続けるのだろうかと 刑事ドラマの撮影に慣れた頃には 他のオファーは来なくなっていた 断り続けたのだから当然だ 現場と自宅を往復する日々で 友人関係も希薄になっていた私は 休みは家に引き篭もるようになった 同期のみんなは今頃 芸能人の友達とかとパーティーを 楽しんでいたりするのだろうか そんなことを頭によぎらせながら 大好きな映画を観て読書をする たまにテレビを点けて 自身が出演しているドラマを観ると 自分が演じているはずの女刑事が 全くの他人に見えてくる それどころか彼女こそが本当の 私なのではないかとさえ思えた この顔は本名よりも芸名よりも 役名で覚えられている ほとんどの人が私のことを 刑事だと思っている 彼女の名前で呼ばれるのが嫌になり 外に出たくなくなっていた 私って誰なのだろうか いつまで女刑事でいるのだろうか そう悩む自分がいる一方で この役を失ったとき私には 何が残るのかと不安になる自分もいた 彼女にファンはいるけれど 私自身にファンはいない そうして私は段々と 刑事役を務めている間だけが 安心できる時間になっていった 演じている間は 自分が何者なのか明白だった もう若い頃の夢なんて忘れていた 刑事を演じ家に帰れば 映画や読書の世界に生き出来るだけ 自分自身でいる時間を無くした その生活がなにより安心できた だが終わらないドラマなど存在しない 主演を務める刑事ドラマが終わった 43歳だった 最終話クランクアップの日 みんなが花束を渡してくれた 色々あったけれど十年以上も共にした メンバーとの別れは悲しかった みんなに感謝を伝えて泣いて 打ち上げに行っても泣いて 二次会でも号泣した そうして日付を跨ぐ前に タクシーに乗って自宅へ戻ると もらった花束を床に放り投げた その日以来、あの刑事ドラマを 見返すことはなかった 真っ暗にした部屋の中で テレビの灯りだけが浮かんでいた 画面の中では同期の女優が 後頭部を殴打されて死んでいた 被害者役のようだ 配信でミステリー映画を観ながら 青白く光った端末を手に取ると ふっと思わず口角が上がる 間も無く玄関のチャイムが鳴ると さっき死んだはずの同期が両手に コンビニ袋をぶら下げてやってきた 彼女は最近、離婚したらしかった カーテンを開けてると部屋に光が満ちた 窓から見下ろせば粒のような人々が 忙しなく動き回っていた 彼女が買ってきた酒を喉に流し込み つまみを食べながら俳優の悪口を言う お互いお金もあって 役者として生きていく夢を叶えて なのに今どうしようもなく楽しいのは こんな大学生みたいな飲み会だった 私達の青春映画は、やっと始まった気がした

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視えない少女

学校の屋上には幽霊がいる そう聞きつけた生徒達が たまに屋上へやってくる けれど何にも起こらないので 飽きてすぐに帰ってしまう 私はずっとここに居たのに いつからいるのか どうしているのか 私にだって思い出せない わかっているのは二つだけ 屋上から出られないことと 誰にも視えないってこと 今日は屋上にカップルが来た 元気いっぱいな女の子に 気だるそうな男の子 女の子がいっぱい話してて 男の子は適当に頷いていた いいな〜なんて思っていたら 鐘が鳴って二人は出て行ったが 屋上のドアへと消えていくとき ふと立ち止まった男の子と 私は目が合った気がした それから数日後のお昼 彼は一人で屋上にやってきた 床に座りパンをかじり始める そんな彼の隣になんとなく座る これといって特に反応はない 今度は彼の正面に回り込んで 目の前で手を振ってみる やっぱりなんの反応もない 顔をギリギリまで近づけてみる 私が「やっぱ気のせいか」と呟くと 小さく「近い」とだけ返ってきた 幽霊として初めて聞く悲鳴が 自分の声だなんて思わなかった それからというもの私達は 屋上でよく話すようになった とはいえ彼はあまり話さないから いつも私が一方的に喋ってしまう 話し相手なんて久しぶりだから 『いつから視えるの?』 『いっつもパン食ってんね』 『屋上って入っていいの?』 彼の返事はいつも短くて 「うん」とか「ああ」とか そんなんばっかりだったけれど 私は嬉しくてたまらなかった だって返事があるっていうことは 独り言じゃないってことだから けれど『視える少年』との会話は いつも同じ人物によって遮られた 「相変わらず一人飯かよー?」 彼にそう声をかけるのは 元気いっぱいな女の子だ カップルだと思っていたけれど どうやら二人は幼馴染らしい 彼女が屋上へやってくると 少年はドアの向こうへ消えてしまう 彼しか私を視える人はいないけど 彼を視える人はいくらだっている そんな当然のことを自覚させられた しょせん私は幽霊で 生きてる彼女には敵わない 彼と話せる喜びよりも 彼女に奪われる辛さの方が 上回ってしまった頃には 私は隠れるようになった 男の子が屋上に現れても 物陰に潜んでやり過ごした 彼はしばらくはいつも通り 屋上にやってきていたが やがて姿を現さなくなった ひとりぼっちの屋上は広いと 前より薄くなった手を見て思う あの二人に出会うずっと前から 少しずつ体は透けていて 比例するように記憶も失われた 手のひらを空へとかざせば 青や白のインクが手に滲む このまま彼との記憶だけを抱えて 空へと溶けてしまいたかった そうして段々と意識さえ あやふやな時間が増えた頃だ 屋上の床に座り込んでいると 誰かがドアを開ける音がした 咄嗟に後ろを振り向いたが そこにいたのは彼ではなかった 幽霊を期待する野次馬でもない 浴衣姿の女の子 彼と幼馴染の少女だった 彼女は少し辺りを見渡すと そこらに腰を下ろして空を眺めた 黒い空には月だけが浮かんでいる 私もなんとなく傍に腰を下ろす 彼女には私の姿は見えない 触れられないし声も聞こえない 「いるんでしょ、そこに」 交わらないはずの私達だったが 彼女は空を見上げたまま 一方的に話しかけてきた 「アタシ、幽霊とか信じてないから。  視えもしないし、聞こえもしない。  たとえアイツがいるって言っても、  視えないんだからいないのと同じ」 幽霊である私に話しかけているのか 自分自身に言い聞かせていたのか どちらにせよ彼女は 視えないものに話しかけ続けていた 「アンタは死んでてアタシは生きてる。  アタシならアイツの側に、  ずっといてあげられる。  死んでるアンタなんかに、  負けるわけない」 それは何も言い返せない現実で だから私は彼から距離を取った 生きている彼女に奪われる日々が辛くて けれど彼女の言葉を聞いていると なんだか同じだったような気がしてくる 私もまた彼女の時間を 奪っていたのかもしれない そのとき破裂音が聞こえて 黒い空には色とりどりの花が咲いた 「遅いな、始まっちゃったよ」 彼女の浴衣と打ち上げ花火で 今が夏休みなのだと気がついた 彼は屋上に来なくなったのではなく 学校そのものに来なくなったのだと 「アタシにアンタが視えなくて、良かったね」 あなたに私が視えなくて、本当に良かった 「視えてたら絶対仲良くなれなかった」 視えていたらこんな話 聞かせてくれなかっただろう そうしてしばらく二人っきりで 打ち上げ花火を眺めていると 後ろからドアの音が聞こえた 私達が振り返るとそこには 甚兵衛に身を包んだ男の子がいた 「似合ってねーなー」 『似合ってるじゃん』 二人の視えない少女の声が 花火の合間を縫って重なった

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電話口の息子

妻はよく息子と電話する だが「あなたも話す?」と 受話器を差し出されても 俺は理由をつけて断った 息子はもうこの世にいないから 不妊治療の末の流産だった 妻は事実を受け入れられず 空想上の息子を創り上げた 仮に生きていたとしても 息子は話せる年齢ではないが そんな正論は役に立たない そしていないはずの息子は リビングにも現れるようになる それは夕飯のときだった 俺の前に用意された食事は既に 何者かが食べた後のようだった 「あら、食べちゃったのね」 言いながら妻は食事を用意する きっと自分で食べたのだろうが 息子が食べたような口ぶりだ 妻が創り出した息子は それからも至る所に出没した 食器が落ちて割れてしまったり 壁にペンで落書きされていたり 置き時計の時間が狂っていたり どれも妻の仕業に違いないが 「あの子が」の一点張りだった 食事がなくなるなんてことは もはや日常茶飯事で 妻は最初からもう一食分を 用意するようになった もうすっかりそんな日々が 俺にとっても日常となっていた そんな油断した頃だった 窓ガラスが突然割れたのは ここはマンションの五階だ 誰かの不注意でボールなどが 飛んでくる高さではなかった それが突然粉々に割れたのだ しかし俺が最も驚いたのは そのとき妻がいた場所だった 俺と妻は確かに二人でいて 窓は二人の目の前で割れたのだ これまでの異常は視界の外 俺がいない場所で起こっていた だが今回の異常はどう見ても 妻は関与していなかった 「あらあら、割っちゃっーー」 「ダメだ!!近寄るな!!」 咄嗟に出た俺の大声に 妻の肩がびくりと跳ね上がった すると今度は息つく暇もなく 固定電話が鳴り出した 恐る恐る受話器を耳に近づける 電話口からは何も聞こえてこない 「おい」何も「お前は誰だ」聞こ 「はジめまシデ、ぱバ」 除霊を頼むか引っ越そう そう提案したけれど 妻は「嫌だ」と譲らなかった 「息子に会えなくなるから」と だがどう考えても『アレ』は あんなものは息子じゃない そうして家に起こる異常は 日に日に悪化するばかりだった 食器棚が急に倒れて危うく 妻が潰されそうになったり コンロの火が勝手に点いて 危うく火事になりかけた 食事は一食分では足りず 用意した三食分全てが 食い尽くされるようになった このままじゃ俺達は いつか『アレ』に殺される そんなとき今度はスマホに 知らない番号から着信があった 何度か無視し続けていたが 少し間を置くとまた着信がある 気が狂いそうになっていた俺は 特に考えもなしに電話に出た 「おいなんだ!なんなんだ!  俺達が何したってーー」 『落ち着いて、時間がない』 それは以前に聞いた声とは違い 落ち着いた男の声音だった 電話口の相手が誰なのか 考える間もなく相手は続けた 『怖がらないで、僕を信じて』 「おい、それはどういうーー」 そこでプツりと電話は切れた 何者かはわからなかったが 事情を察していそうな口ぶりに 俺はますます混乱を深めていた 『用意された分しか食べない。  だから一食も用意しないで』 翌日にかかってきた電話では それだけ言い残して切れた 言っている意味がわからないし 相変わらず誰かもわからない そうして頭を悩ませていると 妻が今晩の食事をテーブルに 並べているのが目に入った (『一食も用意しないで』) 「今晩は外食にしないか」 そう言った自分に驚いたが 他に頼りがあるわけでもない せっかく作ってくれた料理は ラップして冷蔵庫にしまった 盛られた料理は食われても 冷蔵庫の中身を直接 食われたことはなかったからだ 『怖がるほどに力を持つ。  怖がらないで、冷静に』 さらにまた翌日の電話では すぐに電話は切れなかった 言う通りにしたからだろうか 「お前は、奴は、誰なんだ」 『信じるものに、僕らはなる』 今日も食事は外食で済ませ 俺と妻はソファで横に並んだ 何があってもここから動かない どういうわけなのだろうか 俺は電話口の男を信じていた すると貼り替えたばかり窓が 目の前でパリンと割れた 妻は耳を塞いで過呼吸気味に 「ごめんなさい」と謝り始めた 産んでやれなくてごめんなさい 殺してしまってごめんなさい 俺はそんな妻の肩を抱き寄せた 「お前のせいなんかじゃない!」 テレビが倒れて液晶の破片が散る 「誰のせいでもあるもんか!」 電球が割れて辺りが闇に沈む 「あの子はお前を恨んでない!」 固定電話が悲鳴のように鳴り響く 「テメーは息子なんかじゃねぇ!」 俺の怒声が暗闇に響き渡ると 固定電話は途端に静かになった 灯りを付けようとスマホを出す するとあの男から着信があった 俯く妻に画面を見るよう促して そっと通話開始のボタンを押す 『パパ、ママ、ぼくはへーきだよ』 「本当に?怖くない?痛くない?」 『だいじょうぶ、おなかもいっぱい』 「私、なんにも。なんにも、、、」 『いっぱいくれたよ、だからへーき。  だからねママ、しんぱいしないで』 『コレ』もまたきっと息子ではない 『アレ』とほとんど同じものだろう だが妻の絶望から生まれた『アレ』と 夫婦の希望から生まれた『コレ』は 別物であるとそう信じたい 少なくとも俺たち夫婦を救ったのは 電話口の息子に違いなかった

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消費者代行

今どき映画なんて観てるのは ニートか金持ちしかいない 特に俺みたいな営業職は 日々いろんな客を相手にする そいつらの好む話題に合わせて コンテンツを消費していたら 時間がいくらあっても足りない だから俺のコンテンツ知識は 全てAIに要約させたものだ これが案外バレないもので AIがどっかから拾ってきた 薄っぺらい感想を話すだけで あっちがベラベラ話してくれる 俺の話なんてどうでもいい あっちは話したい話ができれば 最初からそれで満足なんだ 俺はきっかけを与えればいい おかげで業績は右肩上がりだった 営業なんて楽なもんだ そう思っていた矢先 また一件のアポを取った 今度の社長はゲーム好きらしい ゲームなんて学生以来やってないが いつも通りAIに調べさせれば大丈夫 そう思っていた商談だったが 結論から言えば大失敗に終わった 途中まではよかったんだ いつも通り適当に話題を振って いつも通り向こうも乗ってきた だがしばらく話していると 段々相手の表情が曇ってきた そうしてついに言われたんだ 「ゲーム、好きじゃないですよね」 心臓が杭で打たれたように傷んだ 「社長が詳しいだけですよ」とか 精一杯誤魔化してみたものの 相手の表情は陰るばかりだった そうして呆れた声で言われたんだ 「最近、多いんですよ。SNSとか。  AIに調べさせた内容だけで、  話を合わせようとしてくる人。  そういう人の話って似るんです。  だから、分かっちゃうんですよ。  知識だけで体験を共有してない」 冷や汗が止まらなかった もう自分に話せることはない 「この人、舐めてるなって」 少し考えればわかることだった 自分が考えるようなことは 同業者なら誰だって思いつく AIに同じように情報を集めさせれば 同じようにまとめるに決まってる もうこのやり方は通じないだろう 久々に落ち込んで会社に戻ると 察してか同僚が話しかけてきた 営業先であった話をすると 同僚もあの社長を知ってるようで 「あ〜」と声を漏らして言った 「アイツ、自分でやってねぇよ。  ゲーム実況にハマってるだけ」 その言葉に思わず耳を疑った だって事前にSNSでも調べたし さっきもゲームにハマってると 実況なんて言葉一言も 言ってなかったじゃないか 「映画にハマってるって言って、  撮る方だと思う奴がいるか?  今どき自分でゲームやる奴、  暇人か実況者くらいだろ」 ゲームなんて学生以来やってない 仕事だけで精一杯だったから でもそれまで俺を支えていたのは 間違いなくゲームだった だからあの社長に言われたとき (ゲーム、好きじゃないですよね) 心底辛くなったのは 浅はかさを見抜かれただけじゃない ゲームが好きだったはずなのに 否定したいのにできなかったからだ なのに野郎偉そうに語っておいて ゲーム実況観るのがゲーム好きだと? ゲームが好きっていうことは ゲームをやるのが好きってことなんだ 理不尽な怒りなのはわかっていた 俺もあの人も同じ穴のムジナだ だからこそ腹が立ったんだろう その日はさっさと帰路に着くと 道中の電気屋でゲームを買った 今日の話題に上がったゲームだ 袋を抱えて足早に歩き出す 次第にイライラした気持ちは 懐かしいワクワクに変わっていた 早く帰ってゲームをやらなきゃ

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汚れたランドセル

息子が虐められている そう確信したのは 「ランドセル忘れてきた!」 と息子が言って雨の日に 手ぶらで帰ってきたときだった あんなに大きなものを 忘れることなんてあるだろうか 翌日息子が持ち帰ってくると ランドセルはびしょ濡れで 明らかに外に野晒しにされていた やはり学校に忘れたわけではない ランドセルを風呂場で洗いながら 虐められているのを想像するたび 涙と鼻水が溢れて止まらなかった このところの息子は 不審な言動が続いていた 帰宅が妙に遅い上に 顔に小さな傷をつけて帰ってきて 「友達と遊んでただけ」と言う 普段はあまり欲しがらない 小遣いまでねだっていた 「遊ぶから」としか言わなかったが 誰かにたかられていたに違いない ママ友に電話で相談してみると 『そういえばうちの子も、、、』と 帰りが遅いことを教えてくれたが あまり深くは訊かずに切り上げた 彼女の子も虐められている そんな可能性もあったが 彼女の子『が』息子を虐めている その可能性もあったからだ 担任の先生にも相談してみたが 「特にいじめの様子はありません」 そんなことを言うばかりだった まだ若い先生で信用はできない 息子に直接訊いてみても 「平気だよ」と笑うだけ 「辛かったら転校してもいいんだよ」 そう言ったときの息子の必死な拒絶が 状況の深刻さを物語っているようで 不安は募るばかりだった 親が変に出しゃばっても かえって息子の立場を悪くするだけ 頭ではそう分かってはいても 焦る気持ちは日に日に増すばかり そんなある日ふと付けたテレビで とある特集番組が放送されていた “いじめが原因で命を絶った子供” 遺影を前に泣き崩れる両親の姿に 胸を針で刺されたように傷んだ 『気づいてあげられなかったんです』 そう泣き叫ぶ母親の声が 私自身の声のように聞こえた 手遅れになる前に動かなければ そうして息子を尾行することに決めた 翌日の下校するタイミングで 校門を出た息子の後を尾けた 息子の周囲には他にも 何人かの子供達がいた あの中の誰に虐められているのか それとも全員なのか じきに分かれ道へ差し掛かると 子供たちは下校ルートを外れて 草木の茂る空き地へ入っていった 私も息をひそめながら彼らを追う すると子供たちは立ち止まり 草むらの中でしゃがみ込む そのときママ友から着信があり 慌ててその場にしゃがみ電話に出た 『そういえば前言ってた話だけど』 草木が邪魔で子供達の様子が見えない 『息子が深刻そうな顔で言ったのよ』 すると誰かの泣き声がーーいやこれは ーー鳴き声だ 「子猫って飼っちゃダメ?って」 ゆっくりと立ち上がると 草むらの先に段ボールの箱が見えて 中では小さな子猫が震えていた 段ボールにはタオルが敷き詰められ 息子が紙皿にミルクを注いでいる 猫はそれを一心に飲んでいた びしょ濡れのランドセルはきっと 猫の一晩の雨避けにしたのだろう 「ママが飼っていいってさ!」 ママ友の息子がそう言うと みんな嬉しそうに歓声をあげた 私はお礼を言って電話を切ると 静かに来た道を戻ろうと思った だが急に鼻が痒くなって その場でくしゃみをしてしまった 私は猫アレルギーなのだ そりゃあ息子は私に相談できない 驚いた子供たちと子猫が いっせいにこちらを振り向き固まった 息子は特に目を丸くしている 「あ〜……、こんにちは〜」 私はそう言ってぎこちない挨拶をした 「新しいおうち、連れてこっか」 子供たちの素直な返事と私のくしゃみに 子猫はちょっぴり驚いていた

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たぶん画家の彼氏

マッチングアプリで出会った カッコよくて羽振りの良い彼は 自身の職業を画家と語っていた だが付き合って数ヶ月が経っても 彼はまだ絵を見せてくれない 正直絵には興味がなかったから 自慢されてもダルいだけではあった とはいえ一枚も見せないどころか ペンネームさえ教えてくれない彼を 不審に思うのは自然なことだった 彼は本当に画家なのだろうか? お金を持っているのは確かだと思う 連れて行ってくれるレストランも 誕生日プレゼントでくれたバッグも びっくりするほど高かったから 奢られ慣れている私といえど 無理していないか心配になった 「僕の絵は高く売れるから」 彼が冗談混じりにそう言うと 「すごいね!」と言う他なかった それに彼の絵こそ見たことはないが たまにデートで訪れる美術館では 彼は楽しそうに絵について語った ルノワールの色彩がどうだとか セザンヌにとってのリンゴの意味とか 正直ほとんど聞き流していたけれど 絵が大好きなことだけは伝わった 「いつか、君の絵を描くよ」 ふいに彼がそんなことを言ってから 一体どれくらい時間が経っただろう 別に期待なんてしていなかったけれど 私にとっては彼が画家かどうかなんて 正直それほど重要ではなかった カッコよくてお金持ちの好青年 そういう綺麗な額縁にしか興味はない だから内心では疑いながらも 絵とかアトリエを見せてほしいなんて 彼の正体に関する深追いはしなかった 彼がどんな絵かなんてどうでもいい 彼がどんな額縁に飾られているか 彼がどんな美術館に納められているか ただそれだけが重要なはずだった 『自称画家の男を逮捕、名画の贋作販売か』 ふと目にしたニュースでは 沢山の贋作がアトリエから押収されていた 犯人の男はそれらを売り捌いて 優雅な暮らしをしていたようだ アトリエから発見された絵画は 一点を除いて全て贋作だったらしい 思わず「あ〜あ」と口からこぼすと 家の床に寝転んでスマホを投げた 悪い男に引っかかるのには慣れていた でも贋作作家っていうのは初めてで 思わず「なんだよそれ」と呟いていた そりゃ絵なんて見せられるわけがない だって自分の絵なんて無いんだから そうして深いため息を吐いたとき 玄関のチャイムが鳴った こんな時間に誰かとドアを開けると そこには逮捕されたはずの彼がいた そうして私が驚くよりも先に 彼は「じゃ〜ん!」と何かを差し出した 「お誕生日おめでとう!!!」 彼が差し出したのは小さな色紙だった 安っぽい金色の縁がついた色紙には アニメキャラのような女性が描かれていた 混乱したまま受け取り彼の顔を見上げる すると彼は照れくさそうに鼻をかいた 「本当は誕生日のときに渡したかったんだ。  でも間に合わなくて、今になっちゃって」 よく見ると描かれた女性のキャラは 顔や服装が私に似ている気がした 「もっと大きく描こうとも思ったよ!!  でもそれだと家に飾るのは邪魔かなとか。  ほらその、絵柄的に恥ずかしいかなとか。  色々考えちゃって。えっと、どうかな?」 「そうじゃなくてっ」と私は声を張り上げて 彼を家の中に連れ込んでニュースを見せた 「贋作作家ってあなたのことかと思って!」 そう問いただすと彼は困った顔で言った 「ごめんね、実は、、、」 彼の長ったらしい言い訳を要約すると 描くのは贋作ではなく油絵とかでもなく ゲームや小説などのイラストらしかった それも胸や足が強調されたような女の子 いわゆる萌え絵を描く人だった 画家と言っても間違いではない 間違いではないというだけだが 「騙すつもりじゃなかったんだけど、  なかなか言い出せなくなっちゃって。  でもどこかで言わなきゃとは思って。  それで誕生日イラスト描こうって...」 画家というミステリアスな絵の具が 彼からどんどん剥がれていった 絵画に詳しい彼の知的な側面も やけに早口で言い訳するところも なにもかもただのオタクにしか見えない 「絵が高く売れるのは、本当なの?」 「え?あ、まぁ。売れてる方だと思う」 だが私にそんなこと関係ない 元々絵なんて興味はない 「お金持ちなのは本当なのね?  無理して借金とかしてないね?」 「借金なんてしてないよ!!  お金使う趣味とかないからさ」 カッコよくてお金持ちの好青年 しかも仕事が趣味のオタク 誰かと頻繁に会う仕事ではなく ファンもきっと男ばかりだろう つまり浮気するリスクは低い 「私のこと、好きなんだよね?」 「もちろん!愛してます!!」 安っぽい色紙に描かれた私の絵は ちょっとキモい絵柄ではあるし こういう絵のなにがいいのか 私にはサッパリわからないけれど 彼が私を大好きなことだけは伝わった 「可愛いじゃん、この絵」

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気持ちの悪い主人公

「ーーさんの描く主人公は、  なんというか変なんですよ」 大手出版社に漫画を持ち込むと 若い編集者はそう言って苦笑した 数ヶ月が徒労に終わった瞬間だった 「行動に一貫性がないし、  主義主張がコロコロ変わるし。  なに考えてるかわからない主人公、  読者は応援したくなりますかね?」 実際の人間に一貫性なんてない だから人間の弱さや醜さを否定せず 等身大の主人公を描きたかった そう言うと若い編集者は スマホを触りながら言った 「あなたが変なだけですよ」 他の出版社にも持ち込んだが 反応はどこも似たようなものだった 主人公の言動に一貫性がない 主人公に魅力が感じられない 主人公が見ててイライラする 気持ちの悪い主人公であると 自分が描いた主人公を否定されると 自分自身が否定された気持ちになる だが彼らの言葉を否定はできなかった 大手出版社に勤める人からすれば 自分のような人間は気持ち悪いだろう いい歳して大した努力をしたこともなく 金もなければ友達もいない 漫画を描くしかやることがない 考えれば考えるほど 自分というキャラは醜かった 否定ばかりされるのが辛くなって とうとう持ち込みには行かなくなった それでも仕事が休みの日には 誰も読むアテのない漫画を描いた 数ページしかない短い漫画だったが 相変わらず主人公は気持ち悪くて 自分の才能の無さに苦笑した どうせならSNSに投稿してみよう そんな軽い気持ちだったが 投稿した漫画は瞬く間に拡散された 自分の漫画が多くの人に読まれている それは本来喜ぶべきことだっただろう だが絶え間なく届く通知からは 恐怖しか感じられなかった ここでもきっと否定される 気持ちの悪い主人公だと思われる 恐ろしくてコメントは読めなかった スマホを見ることすら怖くなり 必要なとき以外は触らなくなった そうして投稿がバズってから数日後 通知の増加が落ち着いてきた頃だ 恐る恐るアプリを開いてみると 『こいつ何がしたいのかわからん』 『キモ過ぎる。ただただ不快』 『全く感情移入できない主人公』 そんな予想通りのコメントもあった だがそれらは一割ほどしかなくて ほとんどのコメントは意外なものだった 『自分を見ているようで涙が出ました』 似たような状況を経験した人や 似たような気持ちになったことがある人 コメントはそういった人達の経験や 行き場のない感情で満ちていた 初めて創作物に共感された瞬間であり 初めて他人に肯定された瞬間だった 大袈裟かもしれないが 生きていて良いと言われた気がした それからは毎日のように漫画を描き 出来上がれば深夜でも投稿した 相変わらず否定的なコメントもあったが そんなもの気にならないぐらい 感謝のコメントが耐えなかった 『いつも更新ありがとうございます』 いつも読んでくれてありがとう 『独りじゃないって思えました』 独りじゃないって思えたよ 『電車の中なのに涙が止まりません』 だからコメントは家で読むことにしてる そうして漫画を投稿し続けていると 大手の出版社から連絡があった 『ぜひウチで出版しませんか』 それはかつて持ち込みをした出版社だった 「ーーさんの描く主人公は、  等身大でとっても魅力的ですよね」 そう言ってくれた若い編集者は 自分のことを覚えていないようだった 彼は当時と同じ口で異なる台詞を吐いた 「些細なことも敏感に感じとって、  悩んだり間違ったりもする。  そんな等身大の主人公が、  読者の共感を呼ぶんですよね!」 この人が特別に悪い人だとは思わない 有象無象の中から才能を探す持ち込みと すでにバズった作者に対する言葉とが 同じである方が不自然だとも思う それでも出版を断ったのは 商業出版に興味が無かったわけでもなく これからは個人出版の時代だとか そういうポリシーがあったわけでもなく ただちょっぴりイラっとした それだけだったと思う 出版社のビルから出るとなんとなく 向いのビルの喫茶店に入った 店内には胸から社員証を下げた客が 偉そうに最近の漫画について語っていた お洒落なジャズと彼らの会話が混ざり合う もしもこの店内に客が自分だけなら どれだけ素敵な空間だろうと思った そんな意地悪を思い浮かべてしまうのは 気持ちの悪い主人公だからなのだろう

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選ばれた屍人

安楽死できるかどうかは 国が運営する抽選で決まる 年に一度の抽選に参加した私は 宝くじより低い確率を引き当て 安楽死した、はずだった でも深い眠りから目覚めると そこは病室のような場所だった 窓もなく無機質な白い部屋で 私はベッドに横たわっていた 天国ってこんな場所なのかと 肩透かしを食らった気分になる すると見知らぬ男が入ってきた 「気分はいかがですか?」 白衣姿のその男性は 医者のようにも見えたし 研究者のようでもあった 彼は何やら端末を操作しながら 不気味な笑顔で私を見下ろした 「私、死んだんです、よね?」 「ええ、そうです。間違いなく」 「ならここが天国ですか?」 「まぁ、大体そんなものです」 歯切れの悪い返事ではあったが 死ねたのなら問題ないと思った 死にきれずに元の生活に戻される それだけが恐れていたことだった ところでこの人は誰なのだろう 「ではいくつか質問しますので、  深く考えずに答えてください」 「あの。あなたはだーー」 「海が好き?山が好き?」 それは突拍子もない質問だったが なんとなく「海、です」と答えた 名乗りもしない知らない男性に 質問されているこの状況に 疑問を抱くべきだろうけれど まだ頭がぼんやりとしていた 「では次の質問です。  多人数は得意?苦手?」 雑な性格診断みたいだと思いながら 私は素直に質問に答えていった 「インドア派?アウトドア派?」 「カレーは甘口?中辛?辛口?」 「トランプで好きなカードは?」 最初は一問ずつ考え込んだけれど 段々とどうでもいいような気がして 後半は深く考えず適当に答えていた 「風呂は週に何回入りたい?」とか 訊かれて「毎日」と反射で答えたけど 本当は週一でいい 「質問は以上です。お疲れ様でした」 白衣の男性はそう言って 操作していた端末を小脇に抱えた 私は質問されている間に ぼんやりと考えていたことを話した 「私、やっぱり死んでませんよね」 「まぁ、死んでいないとも言えますね」 「死んでいないと困るんですが」 「死んではいるので安心してください」 全く会話になっていない だが男性の笑顔が相変わらず不気味で それ以上追求する気にはなれなかった その代わり男性は「こちらへ」と 私を隣の部屋へ案内してくれるようだ 素足を床につけベッドから立ち上がる 生死すらあやふやな白い空間で 冷たい床だけが肉体を感じさせた 隣の部屋も似たようなもので 窓のない真っ白な空間だったが 中央にはベッドではなく 姿見だけがポツリと置かれていた 私は白衣の男性に促されるまま 姿見の前へ近づいていった 鏡に映っていたのは 見知らぬ痩せた女性だった 私が驚いて目を見開くと 鏡の中の彼女も目を見開いた 私が手のひらで頬をなぞると 彼女も手のひらで頬をなぞった 薄い皮だけのような頬をつねる 醜くこびりついていた駄肉は 一足先にこの世を去ったようだ 「お気に召しませんでしたか?」 男性がそんな訊き方をしたのは 鏡の中の彼女が泣いたからだろう 彼女は何度も首を横に振ると 「違うんです」と弱々しく呟いた 声だけは私にそっくりのようだった すると鏡に映った男性は話し始めた 「あなたは確かに死にました。  法的には、という意味ですが」 それから彼は説明を始めた ここは天国ではないし 私は殺されてもいない 公表されていないがこの国では 五十歳未満の安楽死は行われず 死亡扱いとなるだけらしい 整形で顔は変えられて 戸籍は新しく作られるようだ つまり第二の人生が始まる 私がまばたきをすると 鏡の中の彼女もまばたきをする 口を開いては閉じてみて 横を向いたり上下させたりする そうやって少しずつ鏡の中の彼女が 自分なのだということを確かめた 「当面の住む場所は手配いたします。  海がよく見える場所にしましょう。  それと充分な資金の用意もあります。  十年は働かずに生きられるはずです。  それでも安楽死が希望でしたら、  一年後からはいつでもご連絡を」 「ここまでで質問はありますか?」と 男性は尋ねてくれたけれど すぐには思い浮かばなかった そうして暫く考え込んでいると ふとどうでもいいことを思い出した 「海、ホントはそんなに好きじゃなくて」 すると男性は「わかりました」と頷いた もうその笑顔を不気味とは思わなくて それどころか今は安心感すら覚えていた 生きている実感が湧いてきたのもある だからか少しずつ言葉が浮かんできた 「多人数は苦手だけど、独りも嫌で。  あとインドア派なわけじゃないんです。  外で一緒に遊ぶ友達がいないだけで。  カレーがそもそも好きじゃないし、  トランプよりUNOの方が好きだし」 私は何を言っているのだろうか 「死んでないって知ったときは、  正直めちゃくちゃガッカリしたし。  でも仕方ないって、そんなもんだって。  我儘言っても仕方ないって思って」 我儘を言っても嫌われるだけだから 自分ではどうしようもなかったから 「過去のあなたは、もう存在しません」 男性は私の傍へ来てその場にしゃがんだ 「家族も、知人も、あなた自身でさえ。  もうあなたを探すことはできません。  探そうとする権利すらありません。  今目の前に映るあなただけが、  これからのあなたであると保証します」 死だけがずっと希望だった 死にたかったわけじゃない それしかこの世界から逃げる術が 自分自身から逃げる術がなかった でも今の私はもう一度未来を選べる 「最後に一つだけ、質問いいですか」 彼はゆっくりと頷いた 「連絡してきた人は、いましたか?」 彼は徐に立ち上がり微笑んだ 「今のところは、一人も」 そうして私は促されるまま 彼と共に次の部屋へと歩き始めた ひんやりと心地良い床を踏みながら 私は小声で我儘を言っていた 「やっぱり海、見たいです」

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関係のない幸福

結婚式での写真をアップすると 瞬く間に沢山の『いいね』がついた 祝いのコメントが寄せられる中で 一部の人達は気づき始めていた 『これあなたじゃないですよね?』 そうこれは私の幸せではない ドレス姿の綺麗な女性も 隣に並んだ優しそうな男性も どこの誰だかなんて知らない 拾った画像にモザイクをかけて それらしい文章と載せただけだ このアカウントでの結婚報告は もう三回目だった 前には新婚旅行の画像を載せた エッフェル塔を見上げる後ろ姿で 「夢がひとつ叶いました」と書いた 赤ん坊の写真を上げたこともある 若い女性が優しい眼差しで 小さな命を見つめている そんな幸せを借りた投稿を繰り返し 意外に思ったことがある 人は誰かを祝いたがっていて そして誰を祝うかに興味がない 誰かを祝った良いことを言った それ自体に酔っているのであって 誰を祝うかなんてどうでもいい むしろSNS上でふと見かける 誰だか知らない他人の幸せの方が 手放しで祝えるのかもしれない 知っている誰かの幸せが 自分の幸せとは限らないからだ そういうわけで私の投稿には 常に一定の需要が存在した 偽りの投稿だとわかっても 変わらず祝い続ける人も多くいた しかしアカウントが伸びるにつれ 画像の削除を求めるDMも増えた 相変わらず『いいね』は多かったが コメントは批判的なものが増えた アカウントが凍結されるのは 時間の問題だろうと思った だからこそ私は投稿を増やした 凍結されるそのときまで 諦めることはできなかった そうして借り物の幸せを投稿しては 依頼に応じて削除を繰り返していると ある日一件のDMに気がついた 今度はどの画像の削除依頼だろうと メッセージを開いてみると ある投稿のスクショが貼られていた 若い女性が赤ん坊を抱えている写真 そしてメッセージが添えられていた 『母を知っているんですか?』 娘が生きているとわかり 私はそっとアカウントを消した

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匂う乗客

待ちわびたバスに乗り込むと 冷気が体の熱を冷ました しかしすぐさま俺の関心は 心地良い冷房の温度ではなく 鼻を刺すような刺激臭へと移った バスの奥へと視線を送ると 一番後ろの席に男が座っていた 男はひどく太っていた 服は洗っていないのか黄ばんでいて 薄汚いTシャツは腹で膨れ上がり 数本の毛と共にヘソが覗いていた バス内で他に人は運転手と 入り口付近に座る女性しかおらず 誰が臭いの元かは明らかだった 俺が入り口付近の席に座ると バスは異臭を閉じ込めて発車した 目的地までそう遠くはない 到着までの辛抱だと言い聞かせた 走行中は無心で窓の外を眺めたが 鼻を刺す臭いが視界すら歪めた バスが交差点で停車する時間は 途方もなく長いものに感じられた 鼻の奥がじんと熱くなり 目の裏には鈍い痛みが走った 車体がバス停に止まるたび 降りて吐きたいと何度も思ったし 早くそうするべきだったのだろう もう我慢できないと バスを降りようとしたとき 俺の視界はぐにゃりと歪んで バスの床に両膝をついた 朦朧とする意識の中で見たのは 近くに座っていた女性だった 彼女はハンカチを取り出して しゃがんで声をかけてくれた しかし届いたのは声よりも 彼女がまとう匂いだった シャンプーか香水なのか 甘ったるい匂いが混ざって 鼻先へ押し込められるような そんな思考が浮かぶと共に 次の瞬間にはもう吐いていた 「化学物質過敏症ですね」 病院でいくつかの検査を受けると 医者は聞き慣れない言葉を口にした どうやらそれが俺の身に 起きたことの正体らしかった ある日突然現れるこの症状に 未だ治療法は見つかっていない 症状は人によって違うようだが 俺の場合は『香り』に強く反応した 柔軟剤、香水、消臭スプレー 芳香剤、洗剤、ボディソープ 他にも薬品的な香りは全て 体が拒絶してしまうようだ 洗濯もロクにできやしない 「香料はどこにでも使われてますから。  極力避けるしかないですね、、、」 医者が言う通り意識してみると あらゆる物に香料が含まれていた 特に洗濯や食器洗い、風呂場など 水回りの生活用品のほとんどに なんらかの形で香りがついていた さらに外では香水や整髪料の香り等 様々な匂いが混じり漂っている これらを避けて生活するなんて 現実的とは思えなかった 常にマスクを手放せなくなり 会社内の匂いに耐えられず退社 家から出る必要が無くなり 風呂も洗濯も避けるようになった 不衛生に思える生活にするほど 周囲から不快な匂いが消えていく そのチグハグさに不安を覚えたが 次第に慣れて何も思わなくなった 病院へ向かうためバスに乗ると ほとんどの席が埋まっていたが 一番奥の席だけまだ余裕があった 乗客達がチラリと俺を見ては 鼻を遠ざけるのを横目に見ながら マスクを手で抑え歩いていく 一番奥の席にはたった一人だけ 見覚えのある太った男が座っていた 服は洗っていないのか黄ばんでいて 薄汚いTシャツは腹で膨れ上がり 数本の毛と共にヘソが覗いていた 俺はその男の隣に腰を下ろした 太った男はこちらを一瞥すると すぐに視線を窓の外へと戻した バスがゆっくりと動き出す 俺も窓の外をぼんやりと眺めながら マスクを指でそっと下ろした

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