べっこう飴

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べっこう飴

甘いものと二度寝と金曜日の夜が大好きです🫧通勤中に読めるような短編ものを書こうかなって取ってます!!

紅茶に砂糖は入れないで

「久しぶり」 懐かしい声だった。 あの頃と変わらないアールグレイの香水に胸が揺れる。 三年前に別れた彼女はニューヨークに渡り、世界的に注目されるような画家になっていた。 いつのまにか遠い存在になっていた彼女のインスタを見つめて静かにフォローを外したのも随分前のことだ。 巻かれた黄色いマフラーが柔らかな光を纏う。 彼女はミモザの花が好きだった。 「なんで」 今日は彼女は来ないはず。 「個展最終日は私は不在って公式ホームページに書いたのは嘘」 悪戯な目を細めて彼女は首を傾げる。 私がいなかったら貴方は来ると思ってたから。 緩やかに弧を描いた唇が僅かに震えるのを見る。 「迎えに来たの」 私と一緒にニューヨークに来て。 「ふふっ懐かしい。圭くんのその機嫌の悪い時の顔」 「当たり前だろ」 俺の眉間によった皺を撫でる手はたしかに彼女のもので。 「…今更だ」 あの日捨てた恋心をもう一度拾う気はなかった。 それに彼女が画家として三年間活躍していた中で俺も何も変わらなかったわけではない。 ずっと入りたかった会社に就職して、こつこつ積み上げてきたキャリア。あと二年も働けば昇進の話も出て来るだろう。 そういうものを全て脱ぎ捨てないと日本は出れない。 「全部捨てて着いてこいって?」 「そうよ」 「あんたは、あの日俺よりも絵をとったのに?」 「そうね、でも」 私が愛する人は生涯貴方だけ。 彼女の柔らかな言葉が心臓をなぞる。 「ねぇ」 初雪が降った次の日の朝だったと思う。 天井が水面のような硝子で覆われた美術館を二人で歩いた。 空調が効いてないのか随分寒くて、館内にいるはずなのに息が白くなっているかのように見えた。 「圭くんには、もう会わない」 絵画の勉強の為に留学すると言う彼女を俺は本気で待つつもりでいた。 帰ってくるまでに会社で地位を築いて、貯金もして、それで、プロポーズして。 「なん…で」 「帰ってくるか分からないから」 海を渡るなら中途半端なことはしたくない。 「本気で自分の絵に人生を掛けたい」 真っ直ぐな眼。 眩しくて、直視するのも憚られるような、鮮烈な魅力。 俺が彼女に惚れたきっかけ。 でも今はそれが苦しくて堪らない。 あんたのその眼に俺が映っていないことが、 嫌でも伝わってくるから。 どれだけ焦がれたって、太陽は独り占め出来ない。 分かってる。 それでも俺はなりたかった、唯一に。 選んで、欲しかった。俺を。 でも違うんだろ。 違うから、捨てたんじゃないの。あの日に俺を。 「なんで、俺なの」 んー、だってね 「砂糖の入っていない紅茶が飲みたくなったの」 ストレートティーは付き合っている時に彼女のためによく入れたお茶だった。 甘党な彼女が甘いものと一緒に何杯も砂糖の入れた紅茶を飲んでいるのを心配したのが初めだった気がする。 「そんなの、自分で作れば」 「自分で作ったらどうしても砂糖入れちゃうの」 相変わらずよく分からないことを言い出す女だ。 よく分からないって思ってる癖に可愛いな、なんて思ってる俺もいることに、自分でも呆れている。 「あの日の選択を間違ってたとは正直思ってない」 でも、後悔してる。 貴方のこと忘れた日なんて一日もないよ。 「でも、やっぱり遅かったのかな」 私のことなんか、もう忘れてたよね。 困らせたよね。ごめん。 眉を下げて後悔で塗り潰されたような顔で笑顔を作ろうとする彼女に腹が立った。 勝手に決めつけんなよ。 久々に抱き締めた彼女の身体はあの頃より更に小さくなっているような気がした。 「そんなわけ、ないだろ」 何ひとつ、忘れられなかった。 忘れたかったのに。 忘れられたら、楽だったろうに。 グレーのコートの後ろ姿も アールグレイの香水も よく履いていた華奢なハイヒールの音も あの美術館での寂しそうな眼も 「俺をいつも困らせるのがあんただろ、でもそういうところが好きなんだよ。訳わかんないだろ。でも、しょうがないんだよ。」 どうしようもなく、好きだから。 だからこそ。だからこそなんだよ。 「俺、もう無理だよ。一回目は諦められたけど二回目は無理だと思う、絶対離れてなんかやらない」 だから俺のこと、もう捨てないで。 震える俺の唇が次の言葉を紡ぐ前に塞がれるのを感じた。 「捨てるわけないよ。あの時は大事だったから逆に、連れて行けなかったの」 頬をつたう濡れた感触にあぁ、俺は泣いてるのかと気が付く。 俺の髪を撫でる懐かしい感触に簡単に絆されそうになっている自分が少し悔しい。 「ごめんね。私は泣かせてばっかだね。圭くんのこと」 「…ほんとにな」 あんたといると俺はいつも格好がつかない。 「これからも泣かせるかもしれないけど、絶対圭くんのこと幸せにするから私に着いてきて欲しい」 負けた。 目を眩ませるほどの彼女の強い視線に自分が映っていると感じた時何故だかふいにそう思わずにはいられなかった。 それは不思議と清々しい敗北感だった。 「わかったよ」 紅茶なんていつでも入れてやる。 だからあんたも、責任取れよ。 一人の男の人生を狂わせた女として。

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紅茶に砂糖は入れないで

余白

肌を刺す冷たい空気。 マフラーをそろそろ探さなきゃいけない。 今年の秋は随分早上がりみたいだから 白色、白色…あ、そっか。 スマホをスライドする手を止める。 もうその色である必要はないことに気づいて。 「白色がいいよ」 優香は白が似合う。 くしゃっと頭を撫ぜてそう笑っていたあの人の顔がよぎって少し顔を顰める。 恋人と長続きしない私はあの人との記憶は冬しかなかった。 それは結構最悪なことで、思い出が分散しないから冬になると絶対に思い出してしまうってことだ。 喧嘩する時絶対に譲ろうとしないのがあの人の悪い癖。まさか去り際まで往生際が悪いとは。 意地っ張りで寂しがり屋の私も悪かったって、 今なら少しだけ、分かるけどね。 「赤がいいなぁ」 残念だったね祐介くん。 私って何色でも似合う女なの。 今年買った秋服を無駄にしたくなくて強がりで着た茶色のブラウスはやっぱり寒かったらしく自然と肩が震える。 見上げた空はもう完全に冬の色。 後悔があったとしても私はその時その時最善の選択をしてきたってことにする主義だ。 だって魔法のポケットを持つ青いロボットには出会えなかったから。 焼き上がるまであと5分を知らせるストップウォッチの音に私は顔を上げた。 甘い匂いが広がる部屋に自然と頬が緩む。 クッキーを焼くのは別に初めてじゃない。 でも、自分の為だけに焼くのは初めて。 私は甘い方が好きだからチョコチップも入れよう。 バターは多めの方がいい。 それは何だか背徳感のようなものを私に抱かせた。 勿論、好きな人や大事な友達のためにお菓子を作る楽しさも知っている。 あの子は甘過ぎるのは駄目だから、砂糖は少し少なめにして、とか。ココアパウダーを使って焼いたら喜ぶかも。そんなことを考えて作る幸せもたしかにきっとあって。 だけど、こういうのもたまにはいいね。 綺麗なに焼きあがった猫型クッキーの写真をインスタに載せようとしてやっぱり辞める。 誰に共有しなくても、今この瞬間の幸せは私のものなのだ。 最近編み物にはまったという友達からもらった手作りふわふわブランケットはあったかい。 出来上がったまだ熱いクッキーを食べながら私は先程送られてきたラインのメッセージについて考えていた。 「前から一度ちゃんと話したいと思っていて、一度ご飯に行きたいと思っていたんだよね」 同期の彼からのご飯のお誘い。 嫌だとまでは思わなかった。 彼は明るくて話しやすいし、頼りになるところもある人だ。別に嫌いじゃない。 だけど、後輩と一緒にした案件の仕事でも自分だけでなし得たかのように話すところがあった。 少しの迷い。 別に1回くらいご飯に行ってから考えても遅くないかも。私の知らない側面は勿論あるだろうし。 でもなぁ。 『ごめんね、今月はちょっと忙しいから厳しいかも。また今度同期の皆でご飯行こ』 察しの悪い人ではない。この言葉の意図はきっと読んでくれるだろう。 次に会った時、何もなかったかのようにように普通に話しかけてくるところは簡単に想像できた。 どうして断ったんだろ。 自分でも不思議だった。 今までの私だったらきっとこのデートの誘いに乗っていた。 だって悪い人では無さそうだったし。 紅茶の湯気が睫毛にかかるのを感じながら私は少し首を傾げる。 口に含んだクッキーがサクッと解けて溶ける。 あぁそっか。 誰でもいいから、私のことを愛して欲しい。 前まではずっとそう思ってた。 永遠を勘違いさせてくれる一瞬の熱を渇望していたし、愛されたくて必死で、何を貰っても寂しくて堪らなかった。 その気持ちが完全に無くなったなんて、そんなわけはないけど。 だけど。それだけでは、きっともうないのだ。 私が誰かを愛したい。 ありのままの自分を見つけて欲しい。 私のことだけをずっと見てて欲しい。 そんな気持ちよりも今は ありのままの誰かを見つけて、その誰かを好きだと思えるようになりたい。 そういう自分を、見つけたい。 そう。上手く言えないけど、なんか、今はそんな感じ。 彼氏はいない。 好きな人もいない。 でもこの清々しさは、なんだろう。 別にもう恋なんてしないなんて、意地を張るつもりもなければ 早く次の恋を見つけなきゃと焦る訳でもない。 何かを手にしたわけでなくても、人は満たされるのだ。 たかだか市販の紅茶一杯と自分で焼いたクッキーだけで。 それが何だかとても面白くて、ブランケットに包まり直した私はくすくす笑いを零した。 「恋は涙と溜息で出来ている」シェイクスピアの言葉。 この言葉に一つ足すものがあるとすればそれは期待だろう。 いつかはまたそれを手にする時が来るかもしれない。 でもそれはきっと、今じゃない。 なんて何の面白みもない、傍から見れば退屈で刺激のないように見える日常を 決して主人公にはなれない毎日を それでも私は愛している。 「今までどうやって生活してたっけって考えるんだよね」 一昨日恋人と別れたという友達の嘆きにはたとえ何があったとしても全てに耳を傾けて全肯定が鉄則というもので。 「ねぇ優香ちゃんと聞いてるー?」 「うん勿論。この限定チョコレートラテめっちゃ美味しそう」 まぁ例外というものは何にでもある。 頬を引っ張られることで強制的に話に引き戻された私はこの可哀想な女の子を慰めなきゃならないらしい。 「生活も何も、朝起きて大学行ってバイトしてスマホ見て寝ればいいだけじゃんか」 世の中の大学生のほとんどはこの生活なんだから是非とも贅沢言わずにSNSで時間を溶かしてもらいたい。 「分かってるんよ、分かってる」 でも、私本当に何にもないの。 自嘲気味な笑顔には見覚えがあった。 あの冬、あの日の私もきっとこんな顔をしていたのではないかと思って。 いつもより濃い化粧で誤魔化された少し腫れた目は気付かないふりをしよう。 プライドが高くて泣き虫な彼女はきっと触れてほしくないと思うから。 「…真奈美もチョコレートラテ飲むでしょ」 生クリーム盛り盛り、チョコチップとマシュマロ追加で。 舌が溶けそうなくらい甘いものが好きだったもんね、最近見てなかったけど。 もう、ブラックコーヒーなんか飲まなくていいんだからさ。 四年の年の差を埋める必要も、ないしね。 「……チョコソースも追加して」 「聞くだけで胃もたれする組み合わせだな」 きっと、干渉と不干渉の間に友情がある。 「手芸屋さんで赤い毛糸買わないと」

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余白

化けもの

あ、また間違えた。 去っていく後ろ姿を見るまで私はいつも気づくことが出来ない。 今度は、何がだめだったんだろ。 何度目か分からない離別で、それでもわかっているのは心当たりがない自分こそに問題があるということだけだった。 アスペルガーであることを知ったのは中学一年生の時だった。 「みーちゃんといるとしんどい」 「人の心ない」 「なんで空気読めないの」 「大っ嫌い」 誰とも目が合わなくなって初めて悪者は自分であることに気付いた。私は、人間として不完全だったのだ。 小さな頃から何をやっても人並み以上に良く出来た。 教科書を読めばテストで分からない問題はなかった。 一度聞けば同じ曲を再現出来たし、絵を描くのも得意。 体育で特定の競技に苦戦するということもない。 それなのに 人の心というものだけはいつまでたってもよく分からない。 分からないないなら完璧に模倣しようとした。 理解は出来ずとも、人間に極めて近い何かになれば弾き出されずに済むと思ったから。 私だけの人間関係の教科書を作ればいい。 相手の容姿について触れてはいけない。 関係性が深まっていないのに相手の家庭について詳しく聞くのもだめ。プライベートな問題だから。 相手が出来ないことに理由を求めようとしてはいけない。 相手の話を聞く時は相槌を打つ。時々質問も挟む。 書く項目は増える一方だった。 幸い、頭は良いので一度書けばその内容は覚えていられた。 でも、どれだけ精巧な人間に化けることが出来た狐もふとした瞬間に尻尾を出してしまうように 私が時々間違えてしまう距離感も、言ってはいけない場面で発してしまった余計な言葉もたしかに周りの人を遠ざけた。 私に答え合わせをさせて。 私にやり直しをさせて。 ごめん、ごめんなさい。 ねぇ、やっぱり、生きづらいね。 「やっぱり、分からない、上手くいかない。私なりに、頑張ってみたつもりだったけど、やっぱり駄目だった。」 どうしていつも、こうなっちゃうんだろ。 彼女の呟く言葉ひとつひとつを今だけは、拾ってあげたいと思った。滅多に弱音を吐かない子だったから。 剥き出しの傷口から血はとめどなく流れているはずなのに、それさえ当然のことであると受け入れるような女の子。 気付かない傷に絆創膏も包帯も巻けない。 穏やかな口調で語る言葉が鋭利な刃物のように また彼女を削っていってしまうような気さえした。 「本質って、そう簡単には変わらないみたい」 爪弾きにされない存在になりたかった。 気配りの出来る子というものになりたかった。 でも駄目だね。 「化け物は、化けもののまま」 ひび割れた笑い声は泣き声とよく似ていた。 「それは違う」 「翔?」 美莉亜が心の機微を読み取るのが苦手だからといって自分の心がないわけじゃないだろ。 誰かが自分の元を去ったら誰だって悲しい。全てが自分に非があると思って背負っていたら、余計に。 「相手を傷付けた時に傷付くような人が人間じゃないなんて僕は思わない」 夜中に彼女がノートにその日の反省と対策を書き込んでいるのを僕は知ってる。 その教科書みたいに整った文字でぎっしり敷き詰めて どうしたらもっと上手なコミュニケーションを築けるのか、 どうしたら大事だと思った人を傷つけないでいられるか、 十五の夏から書き始めたという彼女の心ノートはもう九冊目にものぼっていた。 あの子の周りが一人一人と去っていく度に彫刻刀で削られていくようにして小さな背中がまた縮んでいってしまっているような気がした。 哀れみなのかと聞かれたことがある。 あの子の隣にいるのは可哀想だからかと。 アスペルガーでなくても人は人を傷付けうる生き物なのだ。 全然違うよ、本当に違う。 僕はただ、あの子が好きなだけだ。 それでももうそんなに頑張らなくていいとは俺は言えない。 一生傍にいる覚悟を決めたからこそ、そんなことは言えない。 それは狡さになってしまうのだろうか。 それでも、そうだとしても。 「僕にとっては一生懸命なところが可愛くて大切な女の子だよ」 化けものなんかじゃない。 僕の好きな女の子だ。 今言えることはそれだけ。

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化けもの

青に透ける

あいつに彼氏が出来た。 肌を削るような寒空の下、白い息を吐く。 イヤフォンから流れる曲はどれも上滑りして耳には届かない。 風呂上がりに開いたインスタグラムに更新された彼女のストーリーには海月の水槽の前に立つ男の後ろ姿があった。 貼られたメンションを押して飛んで隣のクラスの陸上部のやつなのかとか、そんなことを知って 何やってるんだろうな、俺。 彼女と別れたのは去年の夏の終わり、 蝉の声がやけに煩い日だった。 無人駅の青い椅子に二人で並んで座った。 真っ直ぐ俺の顔を見つめる彼女の瞳には清々しい程に俺への想いは残ってなかったように思う。 「…友達に戻りたいなって思って」 友達にさえ戻る気のない、別れの言葉だった。 「隣に居てもずっと寂しかった。でもその寂しさですら今はもう無いの」 だからもう、終わりにしないといけないと思う。 「……ごめん」 子供な俺は彼女の悩みに何ひとつ気付くことが出来なかった。 …いや、嘘だな。 目まぐるしい日常の中で、 狡い俺は何ひとつ気付かないふりをした。 「ううん、私も悪い」 優希も悪いし、私も悪い。 そして、恋の終わりに誰が悪いとか、ないの。 日に照らされた彼女の髪が淡く透ける。 ブラウスの白がやけに眩しくて、俺は彼女の折り目正しいプリーツスカートばかりを見つめて顔を上げることが出来なかった。 「楽しい時も、あったよ」 だから、ありがとう。 電車に乗る彼女の後ろ姿を俺はきっと一生覚えている。 彼女が帰った後、本当は十分後に来るはずだった最寄り駅に着く電車は来なかった。 三十分も、一時間も、来なかった。 俺の滲んだ視界では電車を見ることは出来なかったから。 あの日からずっと、俺はあの青い椅子に座ったままな気がする。 照れた時に耳まで赤くなる子だった。 アイスを片手に笑いながら好きだって言ってくれた。 彼女からはいつも石鹸とお日様みたいな香りがした。 その日あった出来事をきゃらきゃらと楽しそうに話すのに、時々どうしようもないほどに自信のなさげな顔をしていた。 なんで、あの時俺は何も言ってあげられなかったんだろ。 同じクラスなのに教室では全然話をしなかった。 何度も一緒に帰ったのに色んな言い訳をして片手で数える程しか手を繋がなかった。 彼女の好きな色も、食べ物も、友達のことも、 まだ、全然俺は知らない。 あの教室で半径二m以内にたしかに彼女は居たはずなのに あの日の帰り道でいつでも手が触れる距離に居たはずなのに もっと話せば良かった。 もっと触れて置けばよかった。 もっと、もっと、知ろうとすればよかった。あいつのこと。 でも俺、恥ずかしくてさ、 なんか照れくさくてさ、 優しく出来なかった。 大事にしたかった。 でもどうやって大事にしたらいいのか分からなかった。 なぁ、ごめんな。 ああ、痛い。 胸から溢れそうなくらい痛くて苦くて、やっぱり凄く痛いや。 寂しい。悲しい。悲しい。 心をヴェールのように覆う寂寥を俺はまだ何処にも遣りたくなかった。 フォルダには彼女の写っている写真はもうない。 ハイライトも消してしまった。 貰ったプレゼントも手元には残っていない。 俺の隣に彼女が居た証拠はもうこの痛みだけだから だからまだこの青く透ける痛みを抱えていようと思う。

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青に透ける

星を落とす

「髪、切ったんだ」 肩上で緩く巻かれた茶色く染められた髪。 可愛いなんて言ってあげないから。 「彼、ボブ派だって言ってたから」そう照れたように呟く彼女を見てそんなことを思う私は親友失格なのだろうか。 生まれながらに周りからの視線を引き付けてやまない人がいる。 少なくとも彼女はそういう類の人間だった。 高校に入学して間もない頃、 第一志望の高校に合格して完全に浮かれていた私は 初めて揃えたメイク用品 キャラメル色のローファー 青いリボンにグレーのブレザー JKという無敵にも思える肩書き そんなものに胸をときめかせて髪を伸ばしてモテモテ女子高生になれるかな、なんてそんなことを呑気に考えていた。 そして、春の日差しの下で小さく欠伸をしている彼女を見た。 背中まで流れ落ちる絹糸みたいに綺麗な黒い髪。 長い睫毛に覆われた瞳と目が合った時 あ、この子に私は敵わない。 漠然と、そして絶対的にそう思った。 星が散るような笑い声を零して「見られてたか」と彼女が呟く。 あの時に覚えた感情を未だに私は上手く言葉にできない。 痛切な憧れか 猛烈な嫉妬か もしくは諦めか ただ、その日私は彼女とLINEを交換し その後美容院で伸ばしかけの横髪をばっさり切ったことだけが確かな事実だった。 「…髪の手入れ凄い拘ってたのに、良かったの」 「いいの」 短くなった髪を摘んで伏し目がちに微笑む彼女が誰のことを考えているかなんて簡単に想像出来た。 だからこそ私は彼女の顔を見ることが出来ない。 「彼とね今度サカナクションのライブ行くことになったんだ」 「楽しそうだね」 洋楽ばかり好んで聞いていたような子だったのに。 煙草の煙を「寂しい匂い」だと嫌っていた彼女がいつの間にか銘柄に詳しくなっていた。 スマホにぶら下げた派手な色をしたぬいぐるみだって以前の彼女なら絶対に付けなかった。 グラスに浮かんだ水滴を引っ掻いて曖昧な笑みを私は浮かべる。 「絶対向こうは私が好きなことに気付いてるはずなのに決定的なことは何も言ってくれないの」 最近LINEの返信も遅いし。 「やっぱり、脈ナシだよね…」 「でもライブ誘ってくれたんでしょ」 これまで付き合ってた人とのLINEでさえ気にしていたことなんて今まで無かったじゃん。 私は何をそんなにも苛立っているのだろうか。 分かってる、 どう考えたっておかしいのは私だ。 でも面白くない。 だってこんなの「らしく」ない。 私の知る峰本星凪は常に追うのではなくて追われる女性だった。 彼女に切ない視線を送る人 デートに誘って玉砕する人 付き合っては気まぐれに別れを告げられ涙を流す人もいた。 告白される前に釘を刺すのも優しさだって笑う彼女のドライさが結構気に入っていた。 何かに執着するということから一番遠いところに彼女はいた。 彼女が好んで付けていたLANVINの香水の匂いを忘れられないと言う人達を私は何人も知っている。 求められているわけでもないのに彼女を見ていると何かしてあげたくなってしまう、そうやって言ってた子もいた。 あんな誰にでも優しそうな男になんか靡かないでいてよ。 なんて傲慢な苛立ちなんだろう。 なんて自分勝手な解釈違いなんだろう。 だけど 追いつける流れ星に願い事なんてしないじゃない。 掴めてしまえる宝石に美しさなんて感じないじゃない。 私はいつまでも貴方の輝きに目を眩ませていたかったの。 この不満に名前なんて今更必要ない。 嫉妬ともつかない 憧れともつかない 貴方の背中を流れ落ちる黒髪の艶やかさが好きだった。 貴方がいつも身にまとってる香水の匂いが憎かった。 ねぇ、変わらないでいてよ。 変わらないでいて。 なんてね。忘れて。

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ヒロイン症候群

幸せになりたかった。 赤い糸を信じていたあの頃のまま 私はただ、女の子でいたかった。 キャラメルフラペチーノが好き。 メイクを始めたのも好きな人に振り向いて欲しかったから。 恋人から花束を貰ってみたい。 真っ白なウエディングドレスを着てみたい。 好きな人と結婚してずっと仲の良い夫婦でいたい。 子供は欲しい。 私は型遅れな女なのかな。 時代が求めてる女性は私のような人ではないんだろうな。 「女の子らしくていいよね」 この言葉に込められた棘がいつも少しだけ痛い。 女の子でいることがだめみたいで、少しだけ苦しい。 異性の目を気にすることってそんなに悪いこと。 ねぇいつからだろう。 男の為に化粧をしないで、自分の為にお洒落をしましょう。 一途な人なんていません、浮気なんて出来るなら皆します。 結婚なんて、ろくなことない。 結婚式なんてお金が掛かるだけ、あんなの自己満。 子供を育てるなんて大変、本当に育てられるの。 「私は結婚する気がないかな、縛られたくないし」 「男と女は分かり合えないものだから、ずっと互いに思い合うなんて絶対無理だよ」 「男らしい人なんて求めちゃダメ、大体モラハラだから」 「子供はいらない、育てられるほどたいした人間じゃないし」 繰り広げられるカラフルな会話に相槌を打って肯定することが正しい反応で、でも別にそれが嫌なわけじゃ全くなくて。 「そういうのも良いよね」 この言葉には本当に嘘なんてなくて。 それだけは確かで、確かなんだけど 言い出せなくなった、色んなことを。 色んなことに寛容になって、 世界はより多彩になったはずなのに それが悪いことなわけがないはずなのに 私の世界はこんなにも肩身が狭い。 私の夢を語ると決まって彼女達は少しだけ気を悪くする。 「気持ちは分かるけどねー」 「まぁ現実はシビアだからさ」 否定しているつもりはないのに否定しているように聞こえてしまうものなのだろうと勘づいてからは黙るようになった。 私は対立したいわけではないから。 小さなパレットの中で埋まりきらないほどの沢山の色が喧嘩しているような世の中で。 極論が跋扈しすぎて話がしずらいこの世の中で。 何者にも染まらないことが絶対的で依存し合わない関係こそが正しさであると語られる世の中で。 やっぱりまだヒーローではなくてヒロインになりたいと思うのは私のわがままなのかな。

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ヒロイン症候群

神殺し

証拠は揃った。 手にした電話はあと一桁番号を入れれば警察に繋がる。 頬を伝った汗は暑さからではなかった。 人生を掛けてぶっ壊してやりたかったあのカルト宗教を終わらせられるかもしれないと思うと震えが止まらない程の喜びが鋭く迫ってくる。 唯一神キクヨ様。 思えばあんなふざけた名前の神に狂わされた人生だった。 病院にも行けず、食べたいものも食べられず、稼いだお金は全て御布施に消えた。行きたい大学さえ通うことは叶わなかった。 当たり前に学校でも腫れ物扱いだった。 そりゃそうだよな。誰だって訳の分からない宗教に入った親の子供の接し方なんて、知らないだろ。 父も母も怖気が止まらないほど憎らしい。あともう数年すればくたばるだろう。はやく死なないかな、あんな奴ら。 勿論友達も……いやいたな、一人。 菊池悟。 俺の人生に最悪な影響をもたらした菊の会のカルト教祖、菊池守の息子だった。 「……まだ練習してんの」 廃ビルの裏、もう使われてない古い駐車場に行くといつもあいつが舞の練習をしていた。 「うん、今日中に踊れるようにならないとまたご飯食べ損ねる」 「…ふーん」 あいつの父親は多分麻薬中毒者かもしくは病気かなんかだろう。 頭おかしいヤツが見た幻想に縋る信者たちを見ると本当に笑いが止まらない。そんなに救いが欲しいのかよ。 この世は馬鹿ばっかりだ。 多分悟はそんなこと全部気づいていたし、分かっていた。 分かっていて、それでもあいつは健気だった。 訳の分からない念仏らしきものを唱えて踊る姿は滑稽で、 だけど俺はそれを何時間でも見てられると思っていた。 神様なんか降りてこなくてもあいつの舞は綺麗だったから。 ひたむきで、真っ直ぐで。 「背中、庇いながら踊ってる。また殴られた?」 「…昨日は機嫌が少し悪かったんだよ」 服をまくった背中に広がる赤黒い痣の治療法なんて俺は知らなかったし、湿布なんか高価で買えるわけもない。 濡れた布切れで冷やすことくらいしかしてやれなかった。 「こんなの効かないかもな」 「ううん、効くよ」 ありがとう。語尾が少し消え入るあいつの少し高い声。 そうだ俺、本当は医者になりたかったんだ。 医者になれば友達の怪我、全部治せると思ったから。 「翔太!」 いつものように向かった駐車場。 雑に舗装されたコンクリートの地面。 隙間から延びた雑草。 変わらない景色。 でも、俺の知ってる悟だけどこかに行ってしまっていた。 来たんだよ!神様!神が僕の元に降りてきてくれた、! これで父さんに殴られることもない。 信者たちに本当の父の子なのかを疑われることもない。 神様は俺の元に降りてきてくれた。俺は特別だった。俺は神に愛されし子供だ!!ちゃんと選ばれた存在だった! 「ふふっ、あっは…ぶっ、あははははは」 見開いた目はもう何も映さない。 頬を好調させ、唾を飛ばして興奮した声で喋る様子は既に常軌を逸していた。 それでも、友達だったのだ。 「父さん、本当に見えてるのかな…神様」 冬特有の抜けるような青空に白い息を吐く。 「あんな馬鹿げた神様いるわけないだろ」 「そんなの、まだ…分からないかもだろ、」 「悟だって気づいてるくせにさ」 季節にまるで合わない薄着で俺達は身を寄せあった。 翔太と喋ってるとお腹がすいていても気が紛れる。いつかあいつはそうやって言っていた。 神様が居ないならさ。 じゃあそれなら僕はどうすればいい。 何に、縋ったらいい。 あいつは笑顔が下手くそだった。 自身がなさそうに眉を下げて口角を歪ませた拙い表情。俺はその笑顔未満の何かが可哀想で愛おしいと思った。 あの時、俺は何て言えば良かったんだろな。 神様なんていないことを知ってる俺たちは何に縋れば、良かったんだろうな。 手にした受話器が滑り落ちてぐらぐらとぶら下がる。 不安定な苛立ちが込み上げてきて煙草が積み重なった灰皿を投げ割った。 新しく火を付けた煙草は初めて吸った時のように苦い。 俺は、売るのか?あいつを。 二世教祖としてあいつがしたきたことはどれも犯罪紛いなことばかりだ。俺が集めた証拠を警察に見せれば簡単に捕まるだろう。 犯罪者として。加害者として。 でも、あいつは確かに被害者だった。 父親の虐待の末に精神に異常をきたした、被害者だった。 でも正しいだろ、これが。 あんなクソみたいな宗教は無くなった方が良いだろ。 正しいのに。 間違ってないのに。 これが正解なはずなのに。 正しさだけが、俺を救ってくれると思っていた。 でも今、目の前にあるのは真っ暗な闇だけだ。 神殺しでもしようか。 閉じたまぶたの裏に浮かぶあいつの健気な舞。 神降ろしの儀式。 あばらの浮いた細い身体。 あの白い胸に包丁を突き立てれば簡単に死ぬだろうか。 その後は建物全体にガソリンを撒いて火を付けて。 唯一神キクヨ様の御霊とかいうあの玉も粉々に割って。 全部原型を留めないほどに破壊する。 そうすれば無かったことにならないだろうか、全て。 あいつも。神も。俺も。 いや、何を考えているんだ俺は。 それじゃ何も解決しないだろ。 どうすればいい。 どうすればいい。 どうすればいい。 いや。分かってるんだ、本当は。 分かってるよ、分かってる。 一度手を離した受話器を、今度こそ俺はしっかりと握り締めた。 俺は人間の菊池悟にまた会いたい。 どれだけの年月がかかったとしても。 だから俺はあいつの中の神を殺す。

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神殺し

銀の羽では飛べない

一昨日、グレーのコートの女性と歩く彼を見た。 東京の夜は目紛るしい。 冷たい煌びやかさに満ちたビルの明かり。 分かってる。 彼は浮気なんかしないだろう。 「就職先決まったお祝い。プレゼント」 「え!」 来週、私は東京を出る。 東京の無関心さは嫌いじゃなかった。 雑踏の中で聞く音楽も 常夜灯の隙間で蠢く闇も 寂しくて、愛おしくて。 結ばれたリボンを丁寧に解いて開けた小箱の中には銀の蝶のピアスが入っていた。 「前にピアス開けて欲しいって言ってたし丁度いいなって」 「…ほんとに嬉しい!ありがとう」 ピアッサー買ってきた。 そう言ってふわっと笑う彼の笑顔に胸が疼いた。 ピアスホールを空けて欲しいって言ったこと。 私が好んで着けるのはシルバーアクセなこと。 そうやって私が話した一つ一つのことを凛は覚えていてくれる。 私はこの人がどれだけ魅力的な人なのかをよく理解していた。 素敵な人。 だからずっと、不安。 幸せになれば幸せになるほど、 嬉しければ嬉しいほど、 見えない天井が私達の近くにあって きっともう少しでそこに辿り着いてしまう そんな予感がして。 グレーのコートの女性を見た時、思った。 ああ、私はきっとこのことを彼に聞けないだろうなって。 私は大事なことをいつも聞きそびれる。 それは遠距離恋愛をする上であまりにも致命的で 「蝶って縁起がいいんでしたっけ」 「そうそう、飛躍とか上昇とかね」 でももういい。 今隣に居られるならそれで。 地方に行ってしまう私が東京にいるこの人を繋ぎ止めることの出来る自信は何処にも無かった。 取り出した銀の羽は風を含んでいるような軽やかさで揺れる。 「飛んで行ってしまわないかな」 何となく口をついて出た言葉。 特に深い意味はなかった。 「小さい頃に幼虫から成虫になるまで蝶を育てたことがあってさ」 もたれかかってきた彼のさらさらした髪が私の首を擽る。 俺、羽が生えた蝶を空に飛ばすことが出来なかったんだよね。 幼いなりに頑張って世話してたから余計に寂しくなってしまったんだと思う。勇気が出なくて何日も籠の中から出してやれなかった。でもあんな狭い虫籠ではやっぱり長くは生きられなくて。 「後悔、してるの」 「…したよ」 床についていた右手を挙げて彼の頬に指を滑らせた。 重ねられた彼の唇は少しだけ乾燥していたのに私の目頭は熱い。 凛、私のことは解き放つつもりなの。 それとも、貴方が飛び立ってしまうの。 そしたら貴方はきっと私の処へは帰ってこないんでしょ。 季節風に乗って何千キロメートルも旅をする渡り蝶が元居た場所に帰ってくるとは思えなかった。 「後悔したから」 閉じられたカーテンから零れていた光が消えていて、いつのまにか日が暮れていたことに気がつく。 次は殺さないようにしないとなって思った。 「え、」 重ねられた唇はゆっくりと離れていき首筋へと移動する。 広めに心地好い環境を作れば籠の中でも蝶は生きられるからね。 あまりに予想できなかった言葉に私が言葉を失っていると彼は不思議そうに首を傾げる。 彼、今何て言った、。 「ピアス開ける準備はもう出来てるけど、空ける?」 「…うん」 あ、れ。 消毒液の匂いが充満するこの部屋の中で私は自分は何かを見誤ったのではないかという感情に襲われた。 少し冷たいコットンが耳に当てられて僅かにビクついた私の手を大きな彼の手が握り込む。 「…飛ばさないの、蝶々」 「そうだね」 だってなんで俺の目の前以外を飛ぶ必要があるの。 引きずり、込まれる。 ゆっくり弧を描く唇も、 ある種の傲慢さを含んだ目の中に渦巻く独占欲も 知らない。知らなかった。 耳に穴が空く衝撃が頭の中で響く。 「似合うよ」 耳から下がった銀の蝶。 見せられた鏡の中で鈍く輝くそれを捉えて私はようやく自分の間違いに気付いた。 最初から、手放すつもりなんか全くなかったのだ。 「ねぇ、凛」 ドライアイスで冷やされた耳を彼の指がなぞる。 「銀の羽じゃ、何処にも飛べない」 「あぁ、」 その方が、都合がいい。 懐かしい夢を見た。 習慣になってしまった耳で揺れる蝶。 あの人が私の元を去った今もこれをつけているのは何故なのか。 熱い感情と言葉を向けてくる奴ほど直ぐに去ってしまう呪いはきっと現実世界にしか適用されてはいないだろう。 もう慣れてしまった珈琲が今日はやけに苦い。 だって私が好きなのは蜂蜜を三杯入れたカフェオレだったはずだから。珈琲が好きだったのはあの人だ。 立ちのぼる湯気が私の睫毛を僅かに蒸らして何処かに消えてゆく。 「おはよう」 チェストの上の写真立ての中、今日も彼はあの頃と変わらない笑顔を浮かべている。 交通事故だった。即死だった。 『作ってもらってる指輪あともう少しで出来るらしいよ三日後とかかな』 出来上がった二つの指輪を一人で取りに行った。 大好き。そして、大嫌い。 貴方がくれた重すぎる羽を抱えて今日も私は生きている。 銀の羽じゃ、飛び立てないでしょ。

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銀の羽では飛べない

通り雨

「ごめん」 顔の横に突かれた彼の腕が震える。 はらはらと私の頬に零れ落ちた涙は彼のものだった。 背中に感じる生えたばかりの芝生がちくちく痛い。 後ろに広がる青い空は何処までも続いていて、私の気持ちを受け止めるにはあまりにも底がなかった。 彼の瞳から流れる涙は綺麗だった。 人の涙を綺麗だなんて思ったのは、初めてだったから。 だから、ね。 ねぇ凛くん。 終わりなんだね、私たち。 「綺麗になったね、麻衣さん」 震える凛くんの手が私の頬をなぞる。 そこに愛情がないなんて、私は思わない。 ただ、 「麻衣さん、俺と、別れて欲しい」 そこに恋がなかっただけ。 「…うん、凛くん」 別れよう。 一度ボロボロになった私の心をひとつひとつ拾いあげてくれたのは彼だった。 特別な言葉をかけられたわけじゃない。 特別なことをしてもらったわけでもない。 それでも彼の小さな気遣いが、彼の思いやりが、私の壊れた心をもう一度人らしい形に戻してくれたことは確かで。 だからもう、充分。 「結局、俺はどう足掻いたってあの人のことを忘れられないんだ。きっと俺はこれからも麻衣さんの笑顔にあの人の顔を重ねてしまうんだと思う」 三年も前に死んでるのにな。馬鹿だと、思うだろ。でもだめなんだ。どうしても、彼女を忘れられない。 麻衣さんの人生をこんな馬鹿な男の隣で終わらせたくない。 …そんなの、最悪だ。 幸せになって欲しいんだ、本当に。 大事だから、大切だと思うから。 今度こそ、麻衣さんを心の底から大切にしてくれる、貴方を一番に思ってくれる、そんな人と一緒に過ごして欲しい。 それは、俺じゃないんだ。俺じゃないんだよ、 ごめんな。ごめん。 雨のように降りかかる懺悔の言葉。 二番目でもいいから、忘れられなくてもいいからって強引に彼女にしてもらったのは私の方なのに。 利用していれば、良かったのに。 それで私は、いっこうに構わなかったのに。 馬鹿な男。優しくて、優しすぎて。 でもね、そこが好き、大好き。 貴方のその底抜けにお人好しなところが。 眠ってる時に見せるあどけない顔が好き。 ご飯を食べる時の所作の綺麗な手が好き。 抱きしめると意外と大きな背中が好き。 彼を形成する、全てのものを愛している。 「ねぇ凛くん、悪いなんて思わないで」 彼の額に自らの額を合わせた。 彼の柔軟剤の匂い。柔らかな前髪の感触。 「私、嬉しいの」 それが苦しくて、胸が痛くて、どうしようもなく、切なくて。 それでも、貴方に言わなくてはならない。 私は、伝えなくてはならない。 「ありがとう、最後まで私から目を逸らさないでくれて。私をずっと大事にしてくれて」 だってそれって愛だと思うから。 紛れもない、愛情がそこにはあったと思うから。 恋でなくても、それでも。 貴方の好きな人にはなれなかったけど、 大切な人のひとりにはなれたってことでしょ。 「私幸せだったよ、凄く凄く幸せだった」 休日に作ってくれた端の焦げたパンケーキも ソファーで寝ていると掛けてくれたブランケットも 深夜に一緒に食べたカップヌードルも どうしようもなく、どうしようもなく。 枯れた私に水をあげてくれた通り雨を誰が引き止められると言うのだろう。 最後に貴方の体温を忘れない為にぎゅっと抱き締める。 貴方は私には勿体ない。 「幸せでいてね…ずっと幸せでいて」 帰りのバス、横に貴方はいない。 今までの写真とか、消さないと。 スマホの充電が残り少ないことに気付いて鞄からモバイル充電器を探す。そういえば昨日結構使ったから残ってないかも、残り三パーセントとかだった気がする。 「……あれ」 百パーセントの画面をさすモバイル充電器を見つめながら思う。 思えば私は彼といる時にモバイル充電器をコンセントに差したことがなかった。家ではよく充電し忘れるスマホも不思議と彼の家ではし忘れたことがない。 あぁそうか。そういうことか。 どうして私達は失わないと、大事なものに気づけないんだろ。 無意識の涙が頬を伝う。 優しい彼を傷つけない為に流さなかった涙が、今。 そう、彼は優しいのだ。どこまでも。 嘘だよ。全部、嘘なの。 もう充分だなんて全く思ってない。 私、そんなに物分りのいい女じゃない。 世界に私と貴方の二人だけだったらいいのにって思ってた。 私の為だけの愛が欲しかった。 私だけに降る雨でいて。足りない。全然、足りない。 引き止めればよかった。 馬鹿でみっともない女になってもいい。 通り過ぎないでよ、私を。 私、本当に貴方が好きだったの。 まだ、間に合うだろうか。 忘れられそうもない彼の電話番号を私は震える手で押した。

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通り雨

花冷え

好きだと言えない。 口から発した先から温度を失っていきそうで 自信が、なくて。 助手席で鼻歌を口ずさむ彼を横目に見る。 知らないバンドの曲が耳元を通り過ぎた。 センターコンソールに置かれているのは灰皿ではなくてカラフルな果物の飴。 それが甘党な私の為であることはちゃんと分かっていた。 分かって、いるけど いつの間にか頑固になった私の心はなかなか簡単には動いてくれそうになくて。 私は、好きなんだろうか。 この人を。 感情の渦に巻き込まれるには勇気が必要で。 飛び込むには、私は弱くて。 いつの間にか張り巡らせすぎた予防線は私の本音から心を遠ざけてしまっていた。 この想いが本物でなかったらどうしよう。 口にしてしまえばどちらなのか分かってしまう気がした。それを考えたくなかった。 怖かった。 言った言葉を受け止めてくれなかったら、 また、拒絶されたら。 「そういうの、全部しんどい」 かつて好きだった人に付けられた傷はたしかに癒えないまま今日まで私の人生の障壁となっていた。 でもきっと悪いのはあの人じゃない。 永遠を勘違いさせる恋が悪い。 楽しかった旅行の帰り、 駐車場に車を止めて、エンジン音が止むと聞こえる虫の声。 音を立てるお土産の紙袋。 満たされているのに、何かが足りない。 心の奥、何処かの隙間が軋むような違和感。 充実した寂しさ。 帰ってこれたことへの安心と、 帰ってきてしまったことの切なさ。 助手席で眠っている君の涙袋のきらきらと 少し乱れて絡まった髪の毛。 安らかな寝息が聞こえてくる。 静かな夜だった。 僕は暫し、君を起こすのを躊躇う。 そこに、永遠があるような気がした。 どんなものでも何かが終わるのは寂しい。 それがたとえ旅行だったとしても。 上手く言えない。でも伝えたい。 君と、そういう話がしたい。 些細なことを どうでもいいことを 取り留めのない内容を 暖かいものをゆっくりと積み上げていきたいと思った。 きっとそういうものの方が壊れにくいはずだから。 旅行前なのに切りすぎたと怒っていた、いつもより少し短い前髪を撫でる。 「好きだよ」 ゆっくりと口付けた唇は柔らかかった。 「また旅行…行きたいね」 思っていたよりも出てきた言葉は掠れていて、綺麗な音にはならなかった。 下手くそでもダサくても、想いを伝えることを諦めたくない。 だって、せっかく付き合っているんだから。 こんな綺麗な子の隣にいることが出来るんだから。 不確定でも未来は約束したいし 暑くても手はずっと繋いでいたい。 抱き締めていたいし 会った時はキスしたい。 たとえ君が僕をそんなに好きでないとしてもそれは関係ないことなんだ。 僕は君が好きだよ。それが全て。 こんなふうに愛を紡ぐような優しいキスを貰ったのは初めてだった。こんなに暖かいものをくれる人も初めてだった。 愛情を受け取るばかりでは嫌だと思った。 「すきだよ。大好き、こうきくん」 だから傍にいて。 驚いたように見開かれた目元に手を添えてそっとキスをする。 これ以上なく近くにいるはずなのに寂しかった。 心の奥、もっと深く、隅っこでいいから私をずっと置いておいて。私を置いていかないで。 変わりたい。私は変われる。 腹を括ろう。私にまた人を好きになる覚悟を。 全ての言葉は発した先から色を失っていくとしても、 価値が薄れていったとしても、 それでも私は愛を口にする側で居たい。 「…寝てたと思ったから、驚いたよ」 「寝てたよ、さっきまで」 珍しいね。君から好きって言うなんて。 そうだった?きっと、気の所為よ。

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