べっこう飴
43 件の小説神殺し
証拠は揃った。 手にした電話はあと一桁番号を入れれば警察に繋がる。 頬を伝った汗は暑さからではなかった。 人生を掛けてぶっ壊してやりたかったあのカルト宗教を終わらせられるかもしれないと思うと震えが止まらない程の喜びが鋭く迫ってくる。 唯一神キクヨ様。 思えばあんなふざけた名前の神に狂わされた人生だった。 病院にも行けず、食べたいものも食べられず、稼いだお金は全て御布施に消えた。行きたい大学さえ通うことは叶わなかった。 当たり前に学校でも腫れ物扱いだった。 そりゃそうだよな。誰だって訳の分からない宗教に入った親の子供の接し方なんて、知らないだろ。 父も母も怖気が止まらないほど憎らしい。あともう数年すればくたばるだろう。はやく死なないかな、あんな奴ら。 勿論友達も……いやいたな、一人。 菊池悟。 俺の人生に最悪な影響をもたらした菊の会のカルト教祖、菊池守の息子だった。 「……まだ練習してんの」 廃ビルの裏、もう使われてない古い駐車場に行くといつもあいつが舞の練習をしていた。 「うん、今日中に踊れるようにならないとまたご飯食べ損ねる」 「…ふーん」 あいつの父親は多分麻薬中毒者かもしくは病気かなんかだろう。 頭おかしいヤツが見た幻想に縋る信者たちを見ると本当に笑いが止まらない。そんなに救いが欲しいのかよ。 この世は馬鹿ばっかりだ。 多分悟はそんなこと全部気づいていたし、分かっていた。 分かっていて、それでもあいつは健気だった。 訳の分からない念仏らしきものを唱えて踊る姿は滑稽で、 だけど俺はそれを何時間でも見てられると思っていた。 神様なんか降りてこなくてもあいつの舞は綺麗だったから。 ひたむきで、真っ直ぐで。 「背中、庇いながら踊ってる。また殴られた?」 「…昨日は機嫌が少し悪かったんだよ」 服をまくった背中に広がる赤黒い痣の治療法なんて俺は知らなかったし、湿布なんか高価で買えるわけもない。 濡れた布切れで冷やすことくらいしかしてやれなかった。 「こんなの効かないかもな」 「ううん、効くよ」 ありがとう。語尾が少し消え入るあいつの少し高い声。 そうだ俺、本当は医者になりたかったんだ。 医者になれば友達の怪我、全部治せると思ったから。 「翔太!」 いつものように向かった駐車場。 雑に舗装されたコンクリートの地面。 隙間から延びた雑草。 変わらない景色。 でも、俺の知ってる悟だけどこかに行ってしまっていた。 来たんだよ!神様!神が僕の元に降りてきてくれた、! これで父さんに殴られることもない。 信者たちに本当の父の子なのかを疑われることもない。 神様は俺の元に降りてきてくれた。俺は特別だった。俺は神に愛されし子供だ!!ちゃんと選ばれた存在だった! 「ふふっ、あっは…ぶっ、あははははは」 見開いた目はもう何も映さない。 頬を好調させ、唾を飛ばして興奮した声で喋る様子は既に常軌を逸していた。 それでも、友達だったのだ。 「父さん、本当に見えてるのかな…神様」 冬特有の抜けるような青空に白い息を吐く。 「あんな馬鹿げた神様いるわけないだろ」 「そんなの、まだ…分からないかもだろ、」 「悟だって気づいてるくせにさ」 季節にまるで合わない薄着で俺達は身を寄せあった。 翔太と喋ってるとお腹がすいていても気が紛れる。いつかあいつはそうやって言っていた。 神様が居ないならさ。 じゃあそれなら僕はどうすればいい。 何に、縋ったらいい。 あいつは笑顔が下手くそだった。 自身がなさそうに眉を下げて口角を歪ませた拙い表情。俺はその笑顔未満の何かが可哀想で愛おしいと思った。 あの時、俺は何て言えば良かったんだろな。 神様なんていないことを知ってる俺たちは何に縋れば、良かったんだろうな。 手にした受話器が滑り落ちてぐらぐらとぶら下がる。 不安定な苛立ちが込み上げてきて煙草が積み重なった灰皿を投げ割った。 新しく火を付けた煙草は初めて吸った時のように苦い。 俺は、売るのか?あいつを。 二世教祖としてあいつがしたきたことはどれも犯罪紛いなことばかりだ。俺が集めた証拠を警察に見せれば簡単に捕まるだろう。 犯罪者として。加害者として。 でも、あいつは確かに被害者だった。 父親の虐待の末に精神に異常をきたした、被害者だった。 でも正しいだろ、これが。 あんなクソみたいな宗教は無くなった方が良いだろ。 正しいのに。 間違ってないのに。 これが正解なはずなのに。 正しさだけが、俺を救ってくれると思っていた。 でも今、目の前にあるのは真っ暗な闇だけだ。 神殺しでもしようか。 閉じたまぶたの裏に浮かぶあいつの健気な舞。 神降ろしの儀式。 あばらの浮いた細い身体。 あの白い胸に包丁を突き立てれば簡単に死ぬだろうか。 その後は建物全体にガソリンを撒いて火を付けて。 唯一神キクヨ様の御霊とかいうあの玉も粉々に割って。 全部原型を留めないほどに破壊する。 そうすれば無かったことにならないだろうか、全て。 あいつも。神も。俺も。 いや、何を考えているんだ俺は。 それじゃ何も解決しないだろ。 どうすればいい。 どうすればいい。 どうすればいい。 いや。分かってるんだ、本当は。 分かってるよ、分かってる。 一度手を離した受話器を、今度こそ俺はしっかりと握り締めた。 俺は人間の菊池悟にまた会いたい。 どれだけの年月がかかったとしても。 だから俺はあいつの中の神を殺す。
銀の羽では飛べない
一昨日、グレーのコートの女性と歩く彼を見た。 東京の夜は目紛るしい。 冷たい煌びやかさに満ちたビルの明かり。 分かってる。 彼は浮気なんかしないだろう。 「就職先決まったお祝い。プレゼント」 「え!」 来週、私は東京を出る。 東京の無関心さは嫌いじゃなかった。 雑踏の中で聞く音楽も 常夜灯の隙間で蠢く闇も 寂しくて、愛おしくて。 結ばれたリボンを丁寧に解いて開けた小箱の中には銀の蝶のピアスが入っていた。 「前にピアス開けて欲しいって言ってたし丁度いいなって」 「…ほんとに嬉しい!ありがとう」 ピアッサー買ってきた。 そう言ってふわっと笑う彼の笑顔に胸が疼いた。 ピアスホールを空けて欲しいって言ったこと。 私が好んで着けるのはシルバーアクセなこと。 そうやって私が話した一つ一つのことを凛は覚えていてくれる。 私はこの人がどれだけ魅力的な人なのかをよく理解していた。 素敵な人。 だからずっと、不安。 幸せになれば幸せになるほど、 嬉しければ嬉しいほど、 見えない天井が私達の近くにあって きっともう少しでそこに辿り着いてしまう そんな予感がして。 グレーのコートの女性を見た時、思った。 ああ、私はきっとこのことを彼に聞けないだろうなって。 私は大事なことをいつも聞きそびれる。 それは遠距離恋愛をする上であまりにも致命的で 「蝶って縁起がいいんでしたっけ」 「そうそう、飛躍とか上昇とかね」 でももういい。 今隣に居られるならそれで。 地方に行ってしまう私が東京にいるこの人を繋ぎ止めることの出来る自信は何処にも無かった。 取り出した銀の羽は風を含んでいるような軽やかさで揺れる。 「飛んで行ってしまわないかな」 何となく口をついて出た言葉。 特に深い意味はなかった。 「小さい頃に幼虫から成虫になるまで蝶を育てたことがあってさ」 もたれかかってきた彼のさらさらした髪が私の首を擽る。 俺、羽が生えた蝶を空に飛ばすことが出来なかったんだよね。 幼いなりに頑張って世話してたから余計に寂しくなってしまったんだと思う。勇気が出なくて何日も籠の中から出してやれなかった。でもあんな狭い虫籠ではやっぱり長くは生きられなくて。 「後悔、してるの」 「…したよ」 床についていた右手を挙げて彼の頬に指を滑らせた。 重ねられた彼の唇は少しだけ乾燥していたのに私の目頭は熱い。 凛、私のことは解き放つつもりなの。 それとも、貴方が飛び立ってしまうの。 そしたら貴方はきっと私の処へは帰ってこないんでしょ。 季節風に乗って何千キロメートルも旅をする渡り蝶が元居た場所に帰ってくるとは思えなかった。 「後悔したから」 閉じられたカーテンから零れていた光が消えていて、いつのまにか日が暮れていたことに気がつく。 次は殺さないようにしないとなって思った。 「え、」 重ねられた唇はゆっくりと離れていき首筋へと移動する。 広めに心地好い環境を作れば籠の中でも蝶は生きられるからね。 あまりに予想できなかった言葉に私が言葉を失っていると彼は不思議そうに首を傾げる。 彼、今何て言った、。 「ピアス開ける準備はもう出来てるけど、空ける?」 「…うん」 あ、れ。 消毒液の匂いが充満するこの部屋の中で私は自分は何かを見誤ったのではないかという感情に襲われた。 少し冷たいコットンが耳に当てられて僅かにビクついた私の手を大きな彼の手が握り込む。 「…飛ばさないの、蝶々」 「そうだね」 だってなんで俺の目の前以外を飛ぶ必要があるの。 引きずり、込まれる。 ゆっくり弧を描く唇も、 ある種の傲慢さを含んだ目の中に渦巻く独占欲も 知らない。知らなかった。 耳に穴が空く衝撃が頭の中で響く。 「似合うよ」 耳から下がった銀の蝶。 見せられた鏡の中で鈍く輝くそれを捉えて私はようやく自分の間違いに気付いた。 最初から、手放すつもりなんか全くなかったのだ。 「ねぇ、凛」 ドライアイスで冷やされた耳を彼の指がなぞる。 「銀の羽じゃ、何処にも飛べない」 「あぁ、」 その方が、都合がいい。 懐かしい夢を見た。 習慣になってしまった耳で揺れる蝶。 あの人が私の元を去った今もこれをつけているのは何故なのか。 熱い感情と言葉を向けてくる奴ほど直ぐに去ってしまう呪いはきっと現実世界にしか適用されてはいないだろう。 もう慣れてしまった珈琲が今日はやけに苦い。 だって私が好きなのは蜂蜜を三杯入れたカフェオレだったはずだから。珈琲が好きだったのはあの人だ。 立ちのぼる湯気が私の睫毛を僅かに蒸らして何処かに消えてゆく。 「おはよう」 チェストの上の写真立ての中、今日も彼はあの頃と変わらない笑顔を浮かべている。 交通事故だった。即死だった。 『作ってもらってる指輪あともう少しで出来るらしいよ三日後とかかな』 出来上がった二つの指輪を一人で取りに行った。 大好き。そして、大嫌い。 貴方がくれた重すぎる羽を抱えて今日も私は生きている。 銀の羽じゃ、飛び立てないでしょ。
通り雨
「ごめん」 顔の横に突かれた彼の腕が震える。 はらはらと私の頬に零れ落ちた涙は彼のものだった。 背中に感じる生えたばかりの芝生がちくちく痛い。 後ろに広がる青い空は何処までも続いていて、私の気持ちを受け止めるにはあまりにも底がなかった。 彼の瞳から流れる涙は綺麗だった。 人の涙を綺麗だなんて思ったのは、初めてだったから。 だから、ね。 ねぇ凛くん。 終わりなんだね、私たち。 「綺麗になったね、麻衣さん」 震える凛くんの手が私の頬をなぞる。 そこに愛情がないなんて、私は思わない。 ただ、 「麻衣さん、俺と、別れて欲しい」 そこに恋がなかっただけ。 「…うん、凛くん」 別れよう。 一度ボロボロになった私の心をひとつひとつ拾いあげてくれたのは彼だった。 特別な言葉をかけられたわけじゃない。 特別なことをしてもらったわけでもない。 それでも彼の小さな気遣いが、彼の思いやりが、私の壊れた心をもう一度人らしい形に戻してくれたことは確かで。 だからもう、充分。 「結局、俺はどう足掻いたってあの人のことを忘れられないんだ。きっと俺はこれからも麻衣さんの笑顔にあの人の顔を重ねてしまうんだと思う」 三年も前に死んでるのにな。馬鹿だと、思うだろ。でもだめなんだ。どうしても、彼女を忘れられない。 麻衣さんの人生をこんな馬鹿な男の隣で終わらせたくない。 …そんなの、最悪だ。 幸せになって欲しいんだ、本当に。 大事だから、大切だと思うから。 今度こそ、麻衣さんを心の底から大切にしてくれる、貴方を一番に思ってくれる、そんな人と一緒に過ごして欲しい。 それは、俺じゃないんだ。俺じゃないんだよ、 ごめんな。ごめん。 雨のように降りかかる懺悔の言葉。 二番目でもいいから、忘れられなくてもいいからって強引に彼女にしてもらったのは私の方なのに。 利用していれば、良かったのに。 それで私は、いっこうに構わなかったのに。 馬鹿な男。優しくて、優しすぎて。 でもね、そこが好き、大好き。 貴方のその底抜けにお人好しなところが。 眠ってる時に見せるあどけない顔が好き。 ご飯を食べる時の所作の綺麗な手が好き。 抱きしめると意外と大きな背中が好き。 彼を形成する、全てのものを愛している。 「ねぇ凛くん、悪いなんて思わないで」 彼の額に自らの額を合わせた。 彼の柔軟剤の匂い。柔らかな前髪の感触。 「私、嬉しいの」 それが苦しくて、胸が痛くて、どうしようもなく、切なくて。 それでも、貴方に言わなくてはならない。 私は、伝えなくてはならない。 「ありがとう、最後まで私から目を逸らさないでくれて。私をずっと大事にしてくれて」 だってそれって愛だと思うから。 紛れもない、愛情がそこにはあったと思うから。 恋でなくても、それでも。 貴方の好きな人にはなれなかったけど、 大切な人のひとりにはなれたってことでしょ。 「私幸せだったよ、凄く凄く幸せだった」 休日に作ってくれた端の焦げたパンケーキも ソファーで寝ていると掛けてくれたブランケットも 深夜に一緒に食べたカップヌードルも どうしようもなく、どうしようもなく。 枯れた私に水をあげてくれた通り雨を誰が引き止められると言うのだろう。 最後に貴方の体温を忘れない為にぎゅっと抱き締める。 貴方は私には勿体ない。 「幸せでいてね…ずっと幸せでいて」 帰りのバス、横に貴方はいない。 今までの写真とか、消さないと。 スマホの充電が残り少ないことに気付いて鞄からモバイル充電器を探す。そういえば昨日結構使ったから残ってないかも、残り三パーセントとかだった気がする。 「……あれ」 百パーセントの画面をさすモバイル充電器を見つめながら思う。 思えば私は彼といる時にモバイル充電器をコンセントに差したことがなかった。家ではよく充電し忘れるスマホも不思議と彼の家ではし忘れたことがない。 あぁそうか。そういうことか。 どうして私達は失わないと、大事なものに気づけないんだろ。 無意識の涙が頬を伝う。 優しい彼を傷つけない為に流さなかった涙が、今。 そう、彼は優しいのだ。どこまでも。 嘘だよ。全部、嘘なの。 もう充分だなんて全く思ってない。 私、そんなに物分りのいい女じゃない。 世界に私と貴方の二人だけだったらいいのにって思ってた。 私の為だけの愛が欲しかった。 私だけに降る雨でいて。足りない。全然、足りない。 引き止めればよかった。 馬鹿でみっともない女になってもいい。 通り過ぎないでよ、私を。 私、本当に貴方が好きだったの。 まだ、間に合うだろうか。 忘れられそうもない彼の電話番号を私は震える手で押した。
花冷え
好きだと言えない。 口から発した先から温度を失っていきそうで 自信が、なくて。 助手席で鼻歌を口ずさむ彼を横目に見る。 知らないバンドの曲が耳元を通り過ぎた。 センターコンソールに置かれているのは灰皿ではなくてカラフルな果物の飴。 それが甘党な私の為であることはちゃんと分かっていた。 分かって、いるけど いつの間にか頑固になった私の心はなかなか簡単には動いてくれそうになくて。 私は、好きなんだろうか。 この人を。 感情の渦に巻き込まれるには勇気が必要で。 飛び込むには、私は弱くて。 いつの間にか張り巡らせすぎた予防線は私の本音から心を遠ざけてしまっていた。 この想いが本物でなかったらどうしよう。 口にしてしまえばどちらなのか分かってしまう気がした。それを考えたくなかった。 怖かった。 言った言葉を受け止めてくれなかったら、 また、拒絶されたら。 「そういうの、全部しんどい」 かつて好きだった人に付けられた傷はたしかに癒えないまま今日まで私の人生の障壁となっていた。 でもきっと悪いのはあの人じゃない。 永遠を勘違いさせる恋が悪い。 楽しかった旅行の帰り、 駐車場に車を止めて、エンジン音が止むと聞こえる虫の声。 音を立てるお土産の紙袋。 満たされているのに、何かが足りない。 心の奥、何処かの隙間が軋むような違和感。 充実した寂しさ。 帰ってこれたことへの安心と、 帰ってきてしまったことの切なさ。 助手席で眠っている君の涙袋のきらきらと 少し乱れて絡まった髪の毛。 安らかな寝息が聞こえてくる。 静かな夜だった。 僕は暫し、君を起こすのを躊躇う。 そこに、永遠があるような気がした。 どんなものでも何かが終わるのは寂しい。 それがたとえ旅行だったとしても。 上手く言えない。でも伝えたい。 君と、そういう話がしたい。 些細なことを どうでもいいことを 取り留めのない内容を 暖かいものをゆっくりと積み上げていきたいと思った。 きっとそういうものの方が壊れにくいはずだから。 旅行前なのに切りすぎたと怒っていた、いつもより少し短い前髪を撫でる。 「好きだよ」 ゆっくりと口付けた唇は柔らかかった。 「また旅行…行きたいね」 思っていたよりも出てきた言葉は掠れていて、綺麗な音にはならなかった。 下手くそでもダサくても、想いを伝えることを諦めたくない。 だって、せっかく付き合っているんだから。 こんな綺麗な子の隣にいることが出来るんだから。 不確定でも未来は約束したいし 暑くても手はずっと繋いでいたい。 抱き締めていたいし 会った時はキスしたい。 たとえ君が僕をそんなに好きでないとしてもそれは関係ないことなんだ。 僕は君が好きだよ。それが全て。 こんなふうに愛を紡ぐような優しいキスを貰ったのは初めてだった。こんなに暖かいものをくれる人も初めてだった。 愛情を受け取るばかりでは嫌だと思った。 「すきだよ。大好き、こうきくん」 だから傍にいて。 驚いたように見開かれた目元に手を添えてそっとキスをする。 これ以上なく近くにいるはずなのに寂しかった。 心の奥、もっと深く、隅っこでいいから私をずっと置いておいて。私を置いていかないで。 変わりたい。私は変われる。 腹を括ろう。私にまた人を好きになる覚悟を。 全ての言葉は発した先から色を失っていくとしても、 価値が薄れていったとしても、 それでも私は愛を口にする側で居たい。 「…寝てたと思ったから、驚いたよ」 「寝てたよ、さっきまで」 珍しいね。君から好きって言うなんて。 そうだった?きっと、気の所為よ。
綺麗なあの子
真っ白なショートケーキも スワロフスキーの髪飾りも ひらひらフリルのミニスカートも この世の可愛いものは全てあの子の為のもの。 桃が大好きだというあの子。 ふわふわの猫を飼っているというあの子。 それが似合うあの子。 妖精のように華奢な姿と緩やかに巻いている髪の毛を思い出す。 あの色素の薄い髪の一本一本、小さな爪の一つ一つ、きらきらしたくりくりお目目。 全部取り込めたらあの子になれるのかな。 小さな頭のてっぺんからつま先までかぶりついて咀嚼する自分を思い浮かべる。 あの子からはいつも砂糖菓子のような匂いがした。 埋めないと。 補わないと。 私は、欠陥品だから。 あの子のもので、私を埋めて、原型なんか留めないで。 最初は消しゴム。 ペンケースの奥にしまった消しゴムを最初は周りを伺いながらこっそりと使った。 次は花柄のハンカチ その次はハートの鏡 さくらんぼのスマホケース 薔薇の香りのハンドクリーム ピンクのイヤホン ひとつひとつ揃えていった。 明け方までネットを彷徨ってあの子と同じランジェリーを見つけた時は本当に嬉しかった。 「気をつけた方がいいよ」 「あの子莉緒のものばかりパクってて気持ち悪い」 全部その通りだと思った。 私のしていることは間違っている。 全部全部、間違っているのに。 「私本当に桃大好きなんだよね!毎日食べたいくらい」 私は桃アレルギーだった。 それがあの子とはまるでかけ離れた人間であることの証明であるかのように思えて だからあんな馬鹿なことをしたのかも。 震える手で桃を口に運ぶ。 銀のフォークが鈍く光る。 全身がこの禁断の果実を拒絶していることが分かった。 「アレルギーなのに食べたらしいよ」 「え!なんか、そこまでいくと病的じゃない?」 無機質な病室は私の心の中のようだった。 あの子がお見舞いに来た。 「なんで?」 小さなお花のブーケとクラスの皆で書いたのであろう色紙を脇に置いて、真っ直ぐ私を見つめるあの子。 「分かんない、でも」 私、貴方になりたかった。 どうしてもなりたかった。 過不足なく莉緒ちゃんになりたかった。 「…そっか」 不機嫌そうで怒ってるような声。 いつも笑顔の莉緒ちゃんの新鮮な姿。 それがほんの少しだけ嬉しかった。 ずっと私は特別を夢見ている。 「…前髪、そっちの方が私はすき」 無言の時間が続いたあと莉緒ちゃんはそう言い残して帰っていった。 自分の目が嫌いで隠していた前髪は病院の検査の関係もあってピンで止められている。 莉緒ちゃんの持ってきたブーケは可愛いらしいピンクのガーベラだった。 変化があったからといって私が何か変わったわけではない。 相変わらずあの子と同じイヤホンで音楽を聴くし同じ消しゴムで文字を消した。 あの子に依存することで構築したアイデンティティをすぐに変えることはむずかしかった。 でも少し変わったこともある。 「おでこ出してるのいいね」 「そのヘアピン可愛いね」 私の前髪は兎のヘアピンでとめられるようになった。 駅前の雑貨屋さんで私が見つけた白い兎のヘアピン。 「でもスマホケースとかハンカチとか全部莉緒のパクリだよね。そういうのってなんか…」 「違う」 大きくもない声なのにやけに響いた。 莉緒ちゃんが綺麗な髪を耳に掛けて少し微笑む。 「お揃いなだけ」 でも心配してくれたんだよね、ありがとう。 柔らかな肯定。 莉緒ちゃんは綺麗な子だった。 中身も。 綺麗なものを見ると人はどうやら涙が出るらしい。 「…うん、うん」 少しずつ見つけていこうと思う、新しい私を。
残り香
「本当にいいの」 雨の中でもライターに火は着く。 私は黙って頷くとそれを燃やした。 元彼からの手紙だった。 それは引越しの準備で荷物を整理していた時のこと。 壁に掛けた鏡から出てきた四年越しの白い封筒は綺麗なままで。 なんで、今頃。 四年前の私ならきっと泣くほど嬉しかっただろう。 あいつ、無愛想で何考えてるのか全然分かんない男で。 好きとか滅多に言葉にしてくれなかったし 私が髪の毛を切っても新しい服を着ても気づかないし 女心なんか、全く理解していない。 だから私はあいつによく泣かされた。 歩くのも早く…て けど。 デートの時、脚の長い彼は歩くのが早くて、 慌てて追いかけようとすると、思い出したように振り返っていつもあいつは私に手を伸ばしてくれた。 「…手、貸せ」 ぶっきらぼうな声。 手を繋いだ後の、言い訳じみた「危なっかしいし歩きにくい靴履いてくんな」ていう不器用な照れ隠し。 あいつの大きな手は暖かくて、優しくて 包み込む指が好きだって言ってくれてるような気がして。 だから私はわざといつもヒールのある靴ばかり履いた。 好きだったよ。大好きだった。 でも、あんたが振ったんじゃない。 あんたが、私を置いていったのよ。 「…まだ起きてる?」 私物を殆ど詰め終えた私の部屋は殺風景で寒々しい。 けれど、大人の男女が寝るには少し狭いシングルベッドの中は暖かかった。 掠れた低い声と共に回される腕はあったかい。 まだ止まない雨が窓の外を叩く。 「なぁに」 一昨年から付き合い始めた今の恋人は少しヘタレで、でも優しい人。 明後日、私はこの家を出る。 左手薬指に嵌められた斗真君から貰った婚約指輪を見つめる。 「あ、あのさ…」 二年記念日のデートの帰り、そわそわと差し出された可愛らしいチューリップの花束と指輪。 人生で見たことないくらいに緊張した彼。 震える手と一生懸命な声。 「舞さん、本当に…愛しています。僕と、結婚してくれませんか」 ヘタレなこの人が、どれだけ頑張ってこの言葉を言ってくれてるんだろうと思った。 熱を孕んだ彼の瞳を見つめる。 あぁ、愛おしい。 この人を、傷つけたくないな。 「手紙、どうして読まなかったの」 暗い部屋では彼の表情までは分からない。 けれど、別にわかる必要はなかった。 回された腕をなぞって彼の指にはまる指輪に辿り着く。 私はそれをそっと撫でて彼の額にキスを落とした。 「だって読む必要性がないもの」 気にならなかったかというときっとそれは嘘で。 数年ぶりに見たあいつの角張った懐かしい文字に胸が高鳴らなかったのかというとそれも嘘で。 あいつの不器用な愛情と言葉が懐かしくて、だから少しだけ、寂しくて。 それでも。 そうだとしても。 「私がこの先ずっと好きな人は斗真くんだから」 結婚式をあげるのはまだ先になりそうだけど、お色直しは柔らかい黄色のドレスが良い。 一緒の家に住んで彼が帰ってきたら「お帰りなさい」って抱きしめるの。 甘党の彼の朝食には珈琲なんか似合わないから、ココアを入れてあげたい。 子供は欲しいし、可愛い猫も飼いたい。 結婚記念日はお祝いしたいから忘れられたら拗ねると思う。 「ねぇ、私幸せだよ。ちゃんと」 終わった恋の残り香にすら、私は縋り付く気は無い。 ずっと、不安だった。 あの手紙を見つけたのは本当はもっと前のことで僕はあの人がどれだけ彼女のことを想っていたのかを知っている。 隣にいても、いいのか。 彼女と一緒にいてもいいのか。 僕と一緒にいて、この子は幸せになれる、? だから手紙を渡すことは出来なかった。僕は元の場所に戻しただけだ。きっと書かれていた内容を彼女に話す日は来ないだろう。 だけどそれでもいいのか。 彼女が好きなのは僕なんだと言ってくれている。 この先も、ずっと。 それがなんだかようやく腑に落ちた気がして、終着点の見えない心に光が灯ったかのように思えた。 「僕もだ。人生かけて幸せにしたい人は舞さんだけだよ。」 愛してる。 誰よりも、あの人よりも。 一生分の愛を一瞬で注ぐのではなくて一生かけて君を愛していたい。 ずっと、ずっと、君だけ。 舞へ 映画館に入ればお前が頑なにチュロスを食べたいと言って聞かなかったことを思い出す。 線の細いヒールを見ると支えなきゃいけないと身体が勝手に動く。 新作のフラペチーノが出たら伝えようと思うし桜が咲くとお前が喜ぶ様子が浮かぶ。 何をやっていてもきっと頭から離れることはない。 弾むような足取りも、口を大きく開けて笑う表情も、何事にも一生懸命なその姿勢も 全部全部可愛いと思っているのに俺は不器用だからいつも言うタイミングが分からない。 常に可愛いからいつ言えばいいのか分からない。 愛しいよ、舞のことが。 好きだよ。好きだ。大好きだ。 戯言だ。恥ずかしいと思ってくれて構わない。 もし掃除の時にでも見つけたら俺への優しさだと思ってそっと処分してください。
寝なくていいよ
誰かに当たる人間がいるということは、当たられる人間がいる。 そして自分は間違いなく後者の側であることは 幼い頃から嫌でも気がついていた。 鈍くぼんやりとした頭を抑えて布団に横たわる。 ヘラヘラ笑う自分が嫌いだった。 すみませんと謝る時にちょっと高くなる自分の声が惨めだった。 奥歯に走る鈍い痛み。 悲しみじゃなくて、怒りを感じれる側だったら。 傷つけられる側じゃなくて、傷つける側だったら。 搾取される側じゃなくて搾取する側であったなら。 そしたら何かが変わったのだろうか。 寝返りを打っても眠れなかった。 よく眠れるように新しくふかふかマットレスに変えたばかりなんだけどなぁ。 どうしてかな。 なんだかとても、泣きたくなって。 ちょっとだけ、しんどくて。 「小さい頃の夢って誰しもあるでしょ」 ふいに思い出したのは一昨日久々に会った高校時代の友人とした馬鹿みたいなくだらない話。 「私幼稚園の先生だったなぁ」 「叶えてんじゃん」 「まぁね」 夢を叶えた誇らしい気持ちと夢ばかり語ってはいられない現実に思いを巡らせるながら頷いた。 「私さぁ、権力者だったんだよね」 「なんて?」 相変わらず突拍子もない私の友人の言葉に笑いが止まらない。権力を手に入れたい幼稚園児嫌すぎる。 「ふふっ、叶ったの、夢は」 「叶うか!」 やけくそ気味に頬張るパンケーキがみるみるうちに消えていくのを見つめているとオレンジジュースを一口飲んだ彼女が緩く微笑んだ。 「全てを奪えば何も奪われないで済むって、思ってたんだよね」 だけど、なれなくてよかったんだよ。 「きっとそれって寂しいと思う」 奪えば満たされるわけではなくて、 傷つければ傷つけられないわけでもない。 何も失わないで生きていくことなど、出来ないのだと言うのなら 私達は何を捨てるのではなく、何を残さなくてはならないかを考えていかなくてはならない。 メープルシロップの香りがした。 甘くて、ふわふわとした子供の夢みたいな味。 「だから働く下々の者に甘んじていると?」 「そーそー、ポテンシャルはあったんだよ残念」 軽口を叩き合いながら私はえも言えぬ感情を噛み締めた。 「大人になっちゃったんだね」 あの頃と何も変わってないと思うと同時に 全てを望めたあの頃にはもう戻れないということを否応もなく私は感じていた。 「今からでも目指す?」 「それもいいかも」 残念ながら大人になってしまった私達ではあるがそのおかげで愉快な仲間を手に入れることが出来たわけで。 私は起き上がると一度消したライトのスイッチを再び入れた。 今の私に必要なのは高級マットレスじゃなくて馬鹿みたいな話に付き合ってくれる誰かだ。 開いたスマホのLINEにピン留めされた友人のトーク画面を開く。 『もう寝たー?』 『寝たけど何ー?今からラーメン食べるところなんだけど』 零れた笑いを拾ってくれそうな相手はラッキーなことに起きていたようだ。 どうやら私は不器用なりに大事なものまでうっかり捨てないでいられているらしい。 冷蔵庫に買いためてあるビールと安売りしてたチーズがあったはず。 『ちょっと色々愚痴りたいから電話させて』 『わー、全然魅力的じゃないお誘いー』 『かけるね』 『無視かよ』 私は舐められやすいし、当たられやすいかもしれないが人望と信用はそれなりに得ているのだ。 眠れない夜に電話を掛けられる相手がいる。 きっとそれは権力者になるよりも幸せなことなんだろう。
漂白剤でも消えない
「知らなかったの」 ふっくらした頬にぼたぼた涙を零す妹。 彼女の小さな足の横に転がった白い塊。 引き裂かれたレースのカーテンが垂さがる部屋には異様な空気が満ちていた。 「だって、こんな、簡単に…」 死ぬなんて。 足元に転がっていたのは猫の死体だった。 昨日まで妹が可愛いがっていたふわふわの毛が窓から吹き込む風で埃のように舞う。 首の骨が折れているらしく既に冷たくなったそれに背筋が冷たくなるのを感じた。 「お兄ちゃん、お兄ちゃん」 腰程にも満たない小さな背。 がたがた震える手が俺袖を掴んだ。 たすけて。 まぁるい目だった。 ビー玉のように透き通った。 無垢で、綺麗で、何も分かっちゃいない。 まだ五歳だ。 子供だ。 その日は嫌に静かな朝で 両親はどちらも出張で家を空けていた。 今にも雨が降りそうなどんよりとした灰色の空を覚えている。 歩いて十分もすれば小さな公園がある。 俺たちは一昨日砂場で遊んだスコップで既に冷たくなった死体を埋めた。気休め程度の花を添えて。 可愛い可愛い妹。 この子にひとつの罪も与えたくなかった。 「ゆり」 猫は窓から逃げちゃったんだ。 「お前は、悪くないよ」 でもそれは間違いだった。 認められなかった罪に罰は与えられない。 なかったことにも、ならない。 あの子はきっと忘れられなかった、 あの日折った首の骨も消えていく体温も光を失っていく目も。 忘れられなかったから、壊れたんだ。 俺が悪い。 俺があの子を壊した。 欠落して、時間が経てばそれはもう直らないのに。 だから、だから。 「ゆり」 雨の中で墓石を磨く最近未亡人になってしまった妹の背中は今にも消え入りそうに見えた。 「風邪引くぞ」 「あともう少しだから」 針よりも細い銀の雨に突き刺されて、 土の匂いを強く感じた。 「…健吾さんのどういうところが好きだったんだ」 んー、彼女の声が柔らかく響く。 「一緒に真夜中にオレンジジュースを飲んでくれるところ、かな」 「オレンジジュース?」 動かしていた手を止めてゆりは顔に貼り付く雨粒を拭う。 供えられた菊の花からぽたぽたと水滴が零れ落ちた。 「私お酒弱くて、一緒に飲んであげることも出来ないのにね、彼にその話したら美味しそうなサーモンとかチーズとか買ってきてくれて、ジュースで乾杯しよう。って言ってくれたの」 そういう寄り添ってくれる優しさが、好きだった。 透明なグラスに、陽だまりのような橙色を注ぐ様子を俺は思い浮かべた。 「優しかったんだな、健吾さん」 「うん」 車も通らないような真夜中に二人はグラスを付き合わせたのだろうか。 それはなんて穏やかで、なんてあたたかな。 「お兄ちゃん」 不安定な声が俺を呼ぶ。 「健吾さん、帰ってこないの」 毎日、毎日ね、電話をかけたのに。 私ね、気をつけてって言ったのに。 いつものように仕事に出掛けただけなんだよ。 今日の夕ご飯は健吾さんの好きなハンバーグだって、私言ったんだよ。 警察も捜査、打ち切りするって。 なんで。 なんで? まだ、あの人は帰ってきてないのに。 「明日から気温もっと寒くなるんだって、健吾さん寒い思いするかもしれない。心配なの」 ボロボロ零れ落ちるゆりの涙は雨と見分けがつかない。 俺にはゆりの健吾さんへの愛は本物に見えた。 見えたけれど、 「ゆり」 焦点の定まらない、北も南も分からないこの森の中。 彼女の目はやはり綺麗だった。 五歳の頃と何も変わらず。 「健吾さん、」 埋まってるんだろ、この森の何処かに。 雨が、ずっと降っている。 ずっと俺たちを外から阻むように、降っている。 矛盾だらけの世の中だ。 そんなことはとうの昔に分かっていて、 分かっていても、ゆりと健吾さんの二人の関係があまりにも綺麗に見えたから、 だからどうしてこうなったのか分からなかった。 何も分からない。 ゆりの周りで人が消えるのは三人目だった。 中学校の時の同級生が一人自殺。 大学生の時付き合っていた男が事故死。 なぁゆり……嘘だと言えよ。言ってくれ、ゆり。 じっとりした汗が背中を伝う。 ゆりは俺にこんなことを言われたというのに顔色ひとつ変えることはなかった。 「お兄ちゃん」 綺麗に赤く塗られた唇がぱっくり割れる。 「ゆりはわるくないの」 だって健吾さん他の女の子とキスとかするから。 そんなのって許せないじゃない。 「人間ってね、結構簡単に死ぬんだよ」 睡眠薬を栄養剤って嘘ついて渡した後にお酒飲ませたらあっという間だったもん。 警察も全然気づかないし、ばかだよね本当に。 「ね。」そう言って微笑みかけてくる笑顔はこの場においては異常だった。 困ったように眉を下げて首を傾げる妹に目眩と嘔吐感が込み上げる。 「お兄ちゃん」 あの日と同じように小さく華奢な手が俺の手を包む。 「たすけてくれるよね」 漂白剤でも消えなかった染み付いた罪はまるで悪意を伴っていなかった。だからこそ、もう無理だろう。 「助けるよ」 因には果を。 罪には罰を。 ああ、俺は。 俺が、 これが俺の果か。 妹が言うように、人は案外呆気なく死ぬものらしい。 冷たい骸を抱えて俺はけらけら笑った。
通り雨
「ごめん」 顔の横に突かれた彼の腕が震える。 はらはらと私の頬に零れ落ちた涙は彼のものだった。 背中に感じる生えたばかりの芝生がちくちく痛い。 後ろに広がる青い空は何処までも続いていて、私の気持ちを受け止めるにはあまりにも底がなかった。 彼の瞳から流れる涙は綺麗だった。 人の涙を綺麗だなんて思ったのは、初めてだったから。 だから、ね。 ねぇ凛くん。 終わりなんだね、私たち。 「綺麗になったね、麻衣さん」 震える凛くんの手が私の頬をなぞる。 そこに愛情がないなんて、私は思わない。 ただ、 「麻衣さん、俺と、別れて欲しい」 そこに恋がなかっただけ。 「…うん、凛くん」 別れよう。 一度ボロボロになった私の心をひとつひとつ拾いあげてくれたのは彼だった。 特別な言葉をかけられたわけじゃない。 特別なことをしてもらったわけでもない。 それでも彼の小さな気遣いが、彼の思いやりが、私の壊れた心をもう一度人らしい形に戻してくれたことは確かで。 だからもう、充分。 「結局、俺はどう足掻いたってあの人のことを忘れられないんだ。きっと俺はこれからも麻衣さんの笑顔にあの人の顔を重ねてしまうんだと思う」 三年も前に死んでるのにな。馬鹿だと、思うだろ。でもだめなんだ。どうしても、彼女を忘れられない。 麻衣さんの人生をこんな馬鹿な男の隣で終わらせたくない。 …そんなの、最悪だ。 幸せになって欲しいんだ、本当に。 大事だから、大切だと思うから。 今度こそ、麻衣さんを心の底から大切にしてくれる、貴方を一番に思ってくれる、そんな人と一緒に過ごして欲しい。 それは、俺じゃないんだ。俺じゃないんだよ、 ごめんな。ごめん。 雨のように降りかかる懺悔の言葉。 二番目でもいいから、忘れられなくてもいいからって強引に彼女にしてもらったのは私の方なのに。 利用していれば、良かったのに。 それで私は、いっこうに構わなかったのに。 馬鹿な男。優しくて、優しすぎて。 でもね、そこが好き、大好き。 貴方のその底抜けにお人好しなところが。 眠ってる時に見せるあどけない顔が好き。 ご飯を食べる時の所作の綺麗な手が好き。 抱きしめると意外と大きな背中が好き。 彼を形成する、全てのものを愛している。 「ねぇ凛くん、悪いなんて思わないで」 彼の額に自らの額を合わせた。 彼の柔軟剤の匂い。柔らかな前髪の感触。 「私、嬉しいの」 それが苦しくて、胸が痛くて、どうしようもなく、切なくて。 それでも、貴方に言わなくてはならない。 私は、伝えなくてはならない。 「ありがとう、最後まで私から目を逸らさないでくれて。私をずっと大事にしてくれて」 だってそれって愛だと思うから。 紛れもない、愛情がそこにはあったと思うから。 恋でなくても、それでも。 貴方の好きな人にはなれなかったけど、 大切な人のひとりにはなれたってことでしょ。 「私幸せだったよ、凄く凄く幸せだった」 休日に作ってくれた端の焦げたパンケーキも ソファーで寝ていると掛けてくれたブランケットも 深夜に一緒に食べたカップヌードルも どうしようもなく、どうしようもなく。 枯れた私に水をあげてくれた通り雨を誰が引き止められると言うのだろう。 貴方は私には勿体ない。 三年前、いやそれよりも前から、彼はあの人のものなのだ。 「幸せでいてね。ずっと幸せでいてね。」
取れないキャラメル
アップルパイって見た目は可愛いけど食べるのが難しい。 「真由、あの…ね」 右耳の真新しいピアスを弄りながら彼女が喋り出す。 まぁ、良い話ではないだろうなとは思った。 言いにくいことを話す時に右耳のピアスを弄るのは最近気がついた沙奈の癖。そうはいっても聞かないわけにもいかない。 「どしたんー何か相談?」 上手く食べれなくて分かれた林檎のコンポートとレーズンの残骸を置いて沙奈に話の続きを促す。 「私、陸君と付き合った」 「……え!そうなのおめでとう!」 少しの動揺と予感の的中を彼女に悟られるのは嫌だった。 その動揺が陸への気持ちが残ってるせいだと思われるのはもっと嫌。 「何も言ってないのに、ごめん」 申し訳なさそうに下げられた眉毛とそわそわ動く指先を見つめる。 「謝らなくていいのに。私本当に、なんていうかあいつのことどうでもいいっていうか…強いて言うなら陸に沙奈はもったいないって気持ちでいるけど」 そもそも振ったのは私の方からだったのだから余計に沙奈に怒りを感じるのは、なんかお門違いな気がするし。 「よかったー、これが原因で真由と気まずくなるのは嫌だったの」 「えー?そんなこと私がさせないよー」 首に張り付いた髪がやけに気になるし、ヒールの足の収まりはなんか悪い。 けど、そんなものは全部無視して私は彼女に笑顔を向けた。 別に沙奈をこんなことで嫌いになったりしない。 ただ、 あの人は本当にやめといた方がいいと思うけど。 心の底からそう思う。 勿論付き合いたての女の子にそんなこと言わないけど、 嫉妬だと思われるのも癪だし。 でもなぁ。 でもさぁ。 あいつと付き合ってた時の愚痴、結構沙奈に話してたのに。 私が別れる前の夜に泣いて電話をかけたこと、この子覚えてんのかな。 私の話なんか、所詮その程度だった? あ、だめだ。 今の私、何かやだ。 こんなの、きらい。きらいだ。 「なぁ、目閉じて口開けて」 「えなに」 「いいから」 訝しみながら口を開けると放り込まれたそれは馴染みのある味だった。 「…キャラメル?」 「そーそー」 ソファーで寝返りを打ってまたスマホに目を戻す陸と視線が合うことは無い。 「嫌いなんだよなー。甘ったるくて粘着してきてさ」 「…ふーん」 あんたは嫌いだよね。そういうの。 そういうの全部、ダルいって言うもんねいつも。 だから私はどんどん何も言えなくなった。 「真由、ちょっと友達と飲み行ってくる」 「今から?」 「そうだけど?」 「…分かった。行ってらっしゃい」 ほら、やっぱり何も言えない。 今日の夜ご飯一緒に食べに行こって言ったの、陸なのに。 私、今日髪の毛巻いてきたのに。 明るい色の服、選んできたのに。 いつもより少し手の込んだメイクしたのに。 あーぁ、全部、馬鹿みたい。 「行ってくる、家出る時鍵閉めて適当にポストに突っ込んどいて」 「はーい」 彼の匂いはするのに気配だけがない部屋の中は他の何処よりも寂しくて。 冷たいフローリングの上、顔を埋めたクッションからも感じる、私の嫌いな重めの香水。 彼が他の女と遊びに行く時の匂い。 口内のキャラメルはとうに溶けたはずなのに、ずっとあの甘ったるい風味だけが歯にこべり付いて離れなかった。 気持ち悪い。気持ち悪い。 あの日の甘さがまだ口の中にある気がする。 お風呂上がり、鏡に写る血色のない自分の顔を見つめる。 磨いても、磨いても、まとわりついてくる鬱陶しい彼の影。 あんたなんか、大嫌い。 お願いだから私の人生にあんたの切れ端ですら残さないでよ。 伸ばした手で写る自分の顔をそっとなぞる。 「…かわいい。かわいいよ、私は」 なんて、痛くてみっともないおまじないを、 気休めでしかない、絆創膏を、 ボロボロの心に貼るのだ。 だけど明日はあの子と笑って話そう。 大嫌いなあいつとのツーショットのストーリーにもいいねを押そう。 だって、 その方が惨めな気持ちにならなくて済むじゃん。 だけどやっぱり。 「面白くはないや、元彼と友達が付き合うのなんて」