べっこう飴

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べっこう飴

甘いものと二度寝と金曜日の夜が大好きです🫧通勤中に読めるような短編ものを書こうかなって取ってます!!

花冷え

好きだと言えない。 口から発した先から温度を失っていきそうで 自信が、なくて。 助手席で鼻歌を口ずさむ彼を横目に見る。 知らないバンドの曲が耳元を通り過ぎた。 センターコンソールに置かれているのは灰皿ではなくてカラフルな果物の飴。 それが甘党な私の為であることはちゃんと分かっていた。 分かって、いるけど いつの間にか頑固になった私の心はなかなか簡単には動いてくれそうになくて。 私は、好きなんだろうか。 この人を。 感情の渦に巻き込まれるには勇気が必要で。 飛び込むには、私は弱くて。 いつの間にか張り巡らせすぎた予防線は私の本音から心を遠ざけてしまっていた。 この想いが本物でなかったらどうしよう。 口にしてしまえばどちらなのか分かってしまう気がした。それを考えたくなかった。 怖かった。 言った言葉を受け止めてくれなかったら、 また、拒絶されたら。 「そういうの、全部しんどい」 かつて好きだった人に付けられた傷はたしかに癒えないまま今日まで私の人生の障壁となっていた。 でもきっと悪いのはあの人じゃない。 永遠を勘違いさせる恋が悪い。 楽しかった旅行の帰り、 駐車場に車を止めて、エンジン音が止むと聞こえる虫の声。 音を立てるお土産の紙袋。 満たされているのに、何かが足りない。 心の奥、何処かの隙間が軋むような違和感。 充実した寂しさ。 帰ってこれたことへの安心と、 帰ってきてしまったことの切なさ。 助手席で眠っている君の涙袋のきらきらと 少し乱れて絡まった髪の毛。 安らかな寝息が聞こえてくる。 静かな夜だった。 僕は暫し、君を起こすのを躊躇う。 そこに、永遠があるような気がした。 どんなものでも何かが終わるのは寂しい。 それがたとえ旅行だったとしても。 上手く言えない。でも伝えたい。 君と、そういう話がしたい。 些細なことを どうでもいいことを 取り留めのない内容を 暖かいものをゆっくりと積み上げていきたいと思った。 きっとそういうものの方が壊れにくいはずだから。 旅行前なのに切りすぎたと怒っていた、いつもより少し短い前髪を撫でる。 「好きだよ」 ゆっくりと口付けた唇は柔らかかった。 「また旅行…行きたいね」 思っていたよりも出てきた言葉は掠れていて、綺麗な音にはならなかった。 下手くそでもダサくても、想いを伝えることを諦めたくない。 だって、せっかく付き合っているんだから。 こんな綺麗な子の隣にいることが出来るんだから。 不確定でも未来は約束したいし 暑くても手はずっと繋いでいたい。 抱き締めていたいし 会った時はキスしたい。 たとえ君が僕をそんなに好きでないとしてもそれは関係ないことなんだ。 僕は君が好きだよ。それが全て。 こんなふうに愛を紡ぐような優しいキスを貰ったのは初めてだった。こんなに暖かいものをくれる人も初めてだった。 愛情を受け取るばかりでは嫌だと思った。 「すきだよ。大好き、こうきくん」 だから傍にいて。 驚いたように見開かれた目元に手を添えてそっとキスをする。 これ以上なく近くにいるはずなのに寂しかった。 心の奥、もっと深く、隅っこでいいから私をずっと置いておいて。私を置いていかないで。 変わりたい。私は変われる。 腹を括ろう。私にまた人を好きになる覚悟を。 全ての言葉は発した先から色を失っていくとしても、 価値が薄れていったとしても、 それでも私は愛を口にする側で居たい。 「…寝てたと思ったから、驚いたよ」 「寝てたよ、さっきまで」 珍しいね。君から好きって言うなんて。 そうだった?きっと、気の所為よ。

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花冷え

綺麗なあの子

真っ白なショートケーキも スワロフスキーの髪飾りも ひらひらフリルのミニスカートも この世の可愛いものは全てあの子の為のもの。 桃が大好きだというあの子。 ふわふわの猫を飼っているというあの子。 それが似合うあの子。 妖精のように華奢な姿と緩やかに巻いている髪の毛を思い出す。 あの色素の薄い髪の一本一本、小さな爪の一つ一つ、きらきらしたくりくりお目目。 全部取り込めたらあの子になれるのかな。 小さな頭のてっぺんからつま先までかぶりついて咀嚼する自分を思い浮かべる。 あの子からはいつも砂糖菓子のような匂いがした。 埋めないと。 補わないと。 私は、欠陥品だから。 あの子のもので、私を埋めて、原型なんか留めないで。 最初は消しゴム。 ペンケースの奥にしまった消しゴムを最初は周りを伺いながらこっそりと使った。 次は花柄のハンカチ その次はハートの鏡 さくらんぼのスマホケース 薔薇の香りのハンドクリーム ピンクのイヤホン ひとつひとつ揃えていった。 明け方までネットを彷徨ってあの子と同じランジェリーを見つけた時は本当に嬉しかった。 「気をつけた方がいいよ」 「あの子莉緒のものばかりパクってて気持ち悪い」 全部その通りだと思った。 私のしていることは間違っている。 全部全部、間違っているのに。 「私本当に桃大好きなんだよね!毎日食べたいくらい」 私は桃アレルギーだった。 それがあの子とはまるでかけ離れた人間であることの証明であるかのように思えて だからあんな馬鹿なことをしたのかも。 震える手で桃を口に運ぶ。 銀のフォークが鈍く光る。 全身がこの禁断の果実を拒絶していることが分かった。 「アレルギーなのに食べたらしいよ」 「え!なんか、そこまでいくと病的じゃない?」 無機質な病室は私の心の中のようだった。 あの子がお見舞いに来た。 「なんで?」 小さなお花のブーケとクラスの皆で書いたのであろう色紙を脇に置いて、真っ直ぐ私を見つめるあの子。 「分かんない、でも」 私、貴方になりたかった。 どうしてもなりたかった。 過不足なく莉緒ちゃんになりたかった。 「…そっか」 不機嫌そうで怒ってるような声。 いつも笑顔の莉緒ちゃんの新鮮な姿。 それがほんの少しだけ嬉しかった。 ずっと私は特別を夢見ている。 「…前髪、そっちの方が私はすき」 無言の時間が続いたあと莉緒ちゃんはそう言い残して帰っていった。 自分の目が嫌いで隠していた前髪は病院の検査の関係もあってピンで止められている。 莉緒ちゃんの持ってきたブーケは可愛いらしいピンクのガーベラだった。 変化があったからといって私が何か変わったわけではない。 相変わらずあの子と同じイヤホンで音楽を聴くし同じ消しゴムで文字を消した。 あの子に依存することで構築したアイデンティティをすぐに変えることはむずかしかった。 でも少し変わったこともある。 「おでこ出してるのいいね」 「そのヘアピン可愛いね」 私の前髪は兎のヘアピンでとめられるようになった。 駅前の雑貨屋さんで私が見つけた白い兎のヘアピン。 「でもスマホケースとかハンカチとか全部莉緒のパクリだよね。そういうのってなんか…」 「違う」 大きくもない声なのにやけに響いた。 莉緒ちゃんが綺麗な髪を耳に掛けて少し微笑む。 「お揃いなだけ」 でも心配してくれたんだよね、ありがとう。 柔らかな肯定。 莉緒ちゃんは綺麗な子だった。 中身も。 綺麗なものを見ると人はどうやら涙が出るらしい。 「…うん、うん」 少しずつ見つけていこうと思う、新しい私を。

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綺麗なあの子

残り香

「本当にいいの」 雨の中でもライターに火は着く。 私は黙って頷くとそれを燃やした。 元彼からの手紙だった。 それは引越しの準備で荷物を整理していた時のこと。 壁に掛けた鏡から出てきた四年越しの白い封筒は綺麗なままで。 なんで、今頃。 四年前の私ならきっと泣くほど嬉しかっただろう。 あいつ、無愛想で何考えてるのか全然分かんない男で。 好きとか滅多に言葉にしてくれなかったし 私が髪の毛を切っても新しい服を着ても気づかないし 女心なんか、全く理解していない。 だから私はあいつによく泣かされた。 歩くのも早く…て けど。 デートの時、脚の長い彼は歩くのが早くて、 慌てて追いかけようとすると、思い出したように振り返っていつもあいつは私に手を伸ばしてくれた。 「…手、貸せ」 ぶっきらぼうな声。 手を繋いだ後の、言い訳じみた「危なっかしいし歩きにくい靴履いてくんな」ていう不器用な照れ隠し。 あいつの大きな手は暖かくて、優しくて 包み込む指が好きだって言ってくれてるような気がして。 だから私はわざといつもヒールのある靴ばかり履いた。 好きだったよ。大好きだった。 でも、あんたが振ったんじゃない。 あんたが、私を置いていったのよ。 「…まだ起きてる?」 私物を殆ど詰め終えた私の部屋は殺風景で寒々しい。 けれど、大人の男女が寝るには少し狭いシングルベッドの中は暖かかった。 掠れた低い声と共に回される腕はあったかい。 まだ止まない雨が窓の外を叩く。 「なぁに」 一昨年から付き合い始めた今の恋人は少しヘタレで、でも優しい人。 明後日、私はこの家を出る。 左手薬指に嵌められた斗真君から貰った婚約指輪を見つめる。 「あ、あのさ…」 二年記念日のデートの帰り、そわそわと差し出された可愛らしいチューリップの花束と指輪。 人生で見たことないくらいに緊張した彼。 震える手と一生懸命な声。 「舞さん、本当に…愛しています。僕と、結婚してくれませんか」 ヘタレなこの人が、どれだけ頑張ってこの言葉を言ってくれてるんだろうと思った。 熱を孕んだ彼の瞳を見つめる。 あぁ、愛おしい。 この人を、傷つけたくないな。 「手紙、どうして読まなかったの」 暗い部屋では彼の表情までは分からない。 けれど、別にわかる必要はなかった。 回された腕をなぞって彼の指にはまる指輪に辿り着く。 私はそれをそっと撫でて彼の額にキスを落とした。 「だって読む必要性がないもの」 気にならなかったかというときっとそれは嘘で。 数年ぶりに見たあいつの角張った懐かしい文字に胸が高鳴らなかったのかというとそれも嘘で。 あいつの不器用な愛情と言葉が懐かしくて、だから少しだけ、寂しくて。 それでも。 そうだとしても。 「私がこの先ずっと好きな人は斗真くんだから」 結婚式をあげるのはまだ先になりそうだけど、お色直しは柔らかい黄色のドレスが良い。 一緒の家に住んで彼が帰ってきたら「お帰りなさい」って抱きしめるの。 甘党の彼の朝食には珈琲なんか似合わないから、ココアを入れてあげたい。 子供は欲しいし、可愛い猫も飼いたい。 結婚記念日はお祝いしたいから忘れられたら拗ねると思う。 「ねぇ、私幸せだよ。ちゃんと」 終わった恋の残り香にすら、私は縋り付く気は無い。 ずっと、不安だった。 あの手紙を見つけたのは本当はもっと前のことで僕はあの人がどれだけ彼女のことを想っていたのかを知っている。 隣にいても、いいのか。 彼女と一緒にいてもいいのか。 僕と一緒にいて、この子は幸せになれる、? だから手紙を渡すことは出来なかった。僕は元の場所に戻しただけだ。きっと書かれていた内容を彼女に話す日は来ないだろう。 だけどそれでもいいのか。 彼女が好きなのは僕なんだと言ってくれている。 この先も、ずっと。 それがなんだかようやく腑に落ちた気がして、終着点の見えない心に光が灯ったかのように思えた。 「僕もだ。人生かけて幸せにしたい人は舞さんだけだよ。」 愛してる。 誰よりも、あの人よりも。 一生分の愛を一瞬で注ぐのではなくて一生かけて君を愛していたい。 ずっと、ずっと、君だけ。 舞へ 映画館に入ればお前が頑なにチュロスを食べたいと言って聞かなかったことを思い出す。 線の細いヒールを見ると支えなきゃいけないと身体が勝手に動く。 新作のフラペチーノが出たら伝えようと思うし桜が咲くとお前が喜ぶ様子が浮かぶ。 何をやっていてもきっと頭から離れることはない。 弾むような足取りも、口を大きく開けて笑う表情も、何事にも一生懸命なその姿勢も 全部全部可愛いと思っているのに俺は不器用だからいつも言うタイミングが分からない。 常に可愛いからいつ言えばいいのか分からない。 愛しいよ、舞のことが。 好きだよ。好きだ。大好きだ。 戯言だ。恥ずかしいと思ってくれて構わない。 もし掃除の時にでも見つけたら俺への優しさだと思ってそっと処分してください。

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残り香

寝なくていいよ

誰かに当たる人間がいるということは、当たられる人間がいる。 そして自分は間違いなく後者の側であることは 幼い頃から嫌でも気がついていた。 鈍くぼんやりとした頭を抑えて布団に横たわる。 ヘラヘラ笑う自分が嫌いだった。 すみませんと謝る時にちょっと高くなる自分の声が惨めだった。 奥歯に走る鈍い痛み。 悲しみじゃなくて、怒りを感じれる側だったら。 傷つけられる側じゃなくて、傷つける側だったら。 搾取される側じゃなくて搾取する側であったなら。 そしたら何かが変わったのだろうか。 寝返りを打っても眠れなかった。 よく眠れるように新しくふかふかマットレスに変えたばかりなんだけどなぁ。 どうしてかな。 なんだかとても、泣きたくなって。 ちょっとだけ、しんどくて。 「小さい頃の夢って誰しもあるでしょ」 ふいに思い出したのは一昨日久々に会った高校時代の友人とした馬鹿みたいなくだらない話。 「私幼稚園の先生だったなぁ」 「叶えてんじゃん」 「まぁね」 夢を叶えた誇らしい気持ちと夢ばかり語ってはいられない現実に思いを巡らせるながら頷いた。 「私さぁ、権力者だったんだよね」 「なんて?」 相変わらず突拍子もない私の友人の言葉に笑いが止まらない。権力を手に入れたい幼稚園児嫌すぎる。 「ふふっ、叶ったの、夢は」 「叶うか!」 やけくそ気味に頬張るパンケーキがみるみるうちに消えていくのを見つめているとオレンジジュースを一口飲んだ彼女が緩く微笑んだ。 「全てを奪えば何も奪われないで済むって、思ってたんだよね」 だけど、なれなくてよかったんだよ。 「きっとそれって寂しいと思う」 奪えば満たされるわけではなくて、 傷つければ傷つけられないわけでもない。 何も失わないで生きていくことなど、出来ないのだと言うのなら 私達は何を捨てるのではなく、何を残さなくてはならないかを考えていかなくてはならない。 メープルシロップの香りがした。 甘くて、ふわふわとした子供の夢みたいな味。 「だから働く下々の者に甘んじていると?」 「そーそー、ポテンシャルはあったんだよ残念」 軽口を叩き合いながら私はえも言えぬ感情を噛み締めた。 「大人になっちゃったんだね」 あの頃と何も変わってないと思うと同時に 全てを望めたあの頃にはもう戻れないということを否応もなく私は感じていた。 「今からでも目指す?」 「それもいいかも」 残念ながら大人になってしまった私達ではあるがそのおかげで愉快な仲間を手に入れることが出来たわけで。 私は起き上がると一度消したライトのスイッチを再び入れた。 今の私に必要なのは高級マットレスじゃなくて馬鹿みたいな話に付き合ってくれる誰かだ。 開いたスマホのLINEにピン留めされた友人のトーク画面を開く。 『もう寝たー?』 『寝たけど何ー?今からラーメン食べるところなんだけど』 零れた笑いを拾ってくれそうな相手はラッキーなことに起きていたようだ。 どうやら私は不器用なりに大事なものまでうっかり捨てないでいられているらしい。 冷蔵庫に買いためてあるビールと安売りしてたチーズがあったはず。 『ちょっと色々愚痴りたいから電話させて』 『わー、全然魅力的じゃないお誘いー』 『かけるね』 『無視かよ』 私は舐められやすいし、当たられやすいかもしれないが人望と信用はそれなりに得ているのだ。 眠れない夜に電話を掛けられる相手がいる。 きっとそれは権力者になるよりも幸せなことなんだろう。

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寝なくていいよ

白い悪意

「知らなかったの」 ふっくらした頬にぼたぼた涙を零す妹。 彼女の小さな足の横に転がった白い塊。 引き裂かれたレースのカーテンが垂さがる部屋には異様な空気が満ちていた。 「だって、こんな、簡単に…」 死ぬなんて。 足元に転がっていたのは猫の死体だった。 「お兄ちゃん、お兄ちゃん」 たすけて。 まぁるい目だった。 ビー玉のように透き通った。 無垢で、綺麗で、何も分かっちゃいない。 まだ五歳だ。 子供だ。 その日は嫌に静かな朝で 両親はどちらも出張で家を空けていた。 歩いて十分もすれば小さな公園がある。 俺たちは一昨日砂場で遊んだスコップで既に冷たくなった死体を埋めた。気休め程度の花を添えて。 可愛い可愛い妹。 この子にひとつの罪も与えたくなかった。 「ゆり」 猫は窓から逃げちゃったんだ。 「お前は、悪くないよ」 でもそれは間違いだった。 認められなかった罪に罰は与えられない。 なかったことにも、ならない。 俺が壊してしまった。 欠落して、時間が経てばそれはもう直らないのに。 「どこが好きだったの」 針よりも細い銀の雨に突き刺されて、 土の匂いを強く感じた。 「一緒に真夜中にオレンジジュースを飲んでくれるところ」 動かしていた手を止めてゆりは顔に貼り付く雨粒を拭う。 供えられた菊の花からぽたぽたと水滴が零れ落ちた。 健吾さんは雨男だった。 だから、もしかしたら逢いに来たのかもしれない、奥さんに会うために。 「私お酒弱くて、一緒に飲んであげることも出来ないのにね、彼にその話したら美味しそうなおつまみをたくさん買って、ジュースで乾杯しよう。って言ってくれたの」 透明なグラスに、氷を浮かべてオレンジジュースを注ぐ様子を俺は思い浮かべた。 「優しかったんだな、健吾さん」 「うん」 車も通らないような真夜中に二人はグラスを付き合わせたのだろうか。 それはなんて穏やかで、 なんてあたたかな。 「お兄ちゃん」 不安定な声が俺を呼ぶ。 「健吾さん、帰ってこないの」 毎日、毎日ね、探したんだよ。 私ね、気をつけてねって言ったのに。 いつものように仕事に出かけただけなのに。 今日の夕ご飯は健吾さんの好きなハンバーグだって、私言ったんだよ。 どこかで、迷子になってるのかも。 電話もLINEもね、繋がんないの。 警察も捜査、打ち切りするって。 なんで。 なんで? まだ、あの人は帰ってきてないのに。 「明日から気温もっと寒くなるんだって、健吾さん寒い思いするかもしれない。心配なの」 ボロボロ零れ落ちるゆりの涙は雨と見分けがつかない。 俺にはゆりの健吾さんへの愛は本物に見えた。 見えたけれど、 「ゆり」 焦点の定まらない、北も南も分からないこの森の中。 彼女の目はやはり綺麗だった。 五歳の頃と何も変わらず。 「健吾さん、」 埋まってるんだろ、この森の何処かに。 雨が、ずっと降っている。 ずっと俺たちを外から阻むように、降っている。 矛盾だらけの世の中だ。 そんなことはとうの昔に分かっていて、 分かっていても、ゆりと健吾さんの結婚生活があまりにも綺麗に見えたから、 だからどうしてこうなったのか分からなかった。 何も分からない。 なぁゆり……怒れよ。嘘だって、言えよ。 「お兄ちゃん」 綺麗に赤く塗られた唇がぱっくり割れる。 「ゆりはわるくないの」 だって健吾さん他の女の子とキスとかするから。 直してあげなきゃって思って。 「思っていたよりも人間って脆いのね」 「たすけてくれるよね」 じっとりした汗が背を伝う。 あの日見ないふりをした罪が俺を睨みつけている。 因には果を。 罪には罰を。 ああ、俺は。 俺が、 これが俺の罪か。

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白い悪意

通り雨

「ごめん」 顔の横に突かれた彼の腕が震える。 はらはらと私の頬に零れ落ちた涙は彼のものだった。 背中に感じる生えたばかりの芝生がちくちく痛い。 後ろに広がる青い空は何処までも続いていて、私の気持ちを受け止めるにはあまりにも底がなかった。 彼の瞳から流れる涙は綺麗だった。 人の涙を綺麗だなんて思ったのは、初めてだったから。 だから、ね。 ねぇ凛くん。 終わりなんだね、私たち。 「綺麗になったね、麻衣さん」 震える凛くんの手が私の頬をなぞる。 そこに愛情がないなんて、私は思わない。 ただ、 「麻衣さん、俺と、別れて欲しい」 そこに恋がなかっただけ。 「…うん、凛くん」 別れよう。 一度ボロボロになった私の心をひとつひとつ拾いあげてくれたのは彼だった。 特別な言葉をかけられたわけじゃない。 特別なことをしてもらったわけでもない。 それでも彼の小さな気遣いが、彼の思いやりが、私の壊れた心をもう一度人らしい形に戻してくれたことは確かで。 だからもう、充分。 「結局、俺はどう足掻いたってあの人のことを忘れられないんだ。きっと俺はこれからも麻衣さんの笑顔にあの人の顔を重ねてしまうんだと思う」 三年も前に死んでるのにな。馬鹿だと、思うだろ。でもだめなんだ。どうしても、彼女を忘れられない。 麻衣さんの人生をこんな馬鹿な男の隣で終わらせたくない。 …そんなの、最悪だ。 幸せになって欲しいんだ、本当に。 大事だから、大切だと思うから。 今度こそ、麻衣さんを心の底から大切にしてくれる、貴方を一番に思ってくれる、そんな人と一緒に過ごして欲しい。 それは、俺じゃないんだ。俺じゃないんだよ、 ごめんな。ごめん。 雨のように降りかかる懺悔の言葉。 二番目でもいいから、忘れられなくてもいいからって強引に彼女にしてもらったのは私の方なのに。 利用していれば、良かったのに。 それで私は、いっこうに構わなかったのに。 馬鹿な男。優しくて、優しすぎて。 でもね、そこが好き、大好き。 貴方のその底抜けにお人好しなところが。 眠ってる時に見せるあどけない顔が好き。 ご飯を食べる時の所作の綺麗な手が好き。 抱きしめると意外と大きな背中が好き。 彼を形成する、全てのものを愛している。 「ねぇ凛くん、悪いなんて思わないで」 彼の額に自らの額を合わせた。 彼の柔軟剤の匂い。柔らかな前髪の感触。 「私、嬉しいの」 それが苦しくて、胸が痛くて、どうしようもなく、切なくて。 それでも、貴方に言わなくてはならない。 私は、伝えなくてはならない。 「ありがとう、最後まで私から目を逸らさないでくれて。私をずっと大事にしてくれて」 だってそれって愛だと思うから。 紛れもない、愛情がそこにはあったと思うから。 恋でなくても、それでも。 貴方の好きな人にはなれなかったけど、 大切な人のひとりにはなれたってことでしょ。 「私幸せだったよ、凄く凄く幸せだった」 休日に作ってくれた端の焦げたパンケーキも ソファーで寝ていると掛けてくれたブランケットも 深夜に一緒に食べたカップヌードルも どうしようもなく、どうしようもなく。 枯れた私に水をあげてくれた通り雨を誰が引き止められると言うのだろう。 貴方は私には勿体ない。 三年前、いやそれよりも前から、彼はあの人のものなのだ。 「幸せでいてね。ずっと幸せでいてね。」

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通り雨

取れないキャラメル

アップルパイって見た目は可愛いけど食べるのが難しい。 「真由、あの…ね」 右耳の真新しいピアスを弄りながら彼女が喋り出す。 まぁ、良い話ではないだろうなとは思った。 言いにくいことを話す時に右耳のピアスを弄るのは最近気がついた沙奈の癖。そうはいっても聞かないわけにもいかない。 「どしたんー何か相談?」 上手く食べれなくて分かれた林檎のコンポートとレーズンの残骸を置いて沙奈に話の続きを促す。 「私、陸君と付き合った」 「……え!そうなのおめでとう!」 少しの動揺と予感の的中を彼女に悟られるのは嫌だった。 その動揺が陸への気持ちが残ってるせいだと思われるのはもっと嫌。 「何も言ってないのに、ごめん」 申し訳なさそうに下げられた眉毛とそわそわ動く指先を見つめる。 「謝らなくていいのに。私本当に、なんていうかあいつのことどうでもいいっていうか…強いて言うなら陸に沙奈はもったいないって気持ちでいるけど」 そもそも振ったのは私の方からだったのだから余計に沙奈に怒りを感じるのは、なんかお門違いな気がするし。 「よかったー、これが原因で真由と気まずくなるのは嫌だったの」 「えー?そんなこと私がさせないよー」 首に張り付いた髪がやけに気になるし、ヒールの足の収まりはなんか悪い。 けど、そんなものは全部無視して私は彼女に笑顔を向けた。 別に沙奈をこんなことで嫌いになったりしない。 ただ、 あの人は本当にやめといた方がいいと思うけど。 心の底からそう思う。 勿論付き合いたての女の子にそんなこと言わないけど、 嫉妬だと思われるのも癪だし。 でもなぁ。 でもさぁ。 あいつと付き合ってた時の愚痴、結構沙奈に話してたのに。 私が別れる前の夜に泣いて電話をかけたこと、この子覚えてんのかな。 私の話なんか、所詮その程度だった? あ、だめだ。 今の私、何かやだ。 こんなの、きらい。きらいだ。 「なぁ、目閉じて口開けて」 「えなに」 「いいから」 訝しみながら口を開けると放り込まれたそれは馴染みのある味だった。 「…キャラメル?」 「そーそー」 ソファーで寝返りを打ってまたスマホに目を戻す陸と視線が合うことは無い。 「嫌いなんだよなー。甘ったるくて粘着してきてさ」 「…ふーん」 あんたは嫌いだよね。そういうの。 そういうの全部、ダルいって言うもんねいつも。 だから私はどんどん何も言えなくなった。 「真由、ちょっと友達と飲み行ってくる」 「今から?」 「そうだけど?」 「…分かった。行ってらっしゃい」 ほら、やっぱり何も言えない。 今日の夜ご飯一緒に食べに行こって言ったの、陸なのに。 私、今日髪の毛巻いてきたのに。 明るい色の服、選んできたのに。 いつもより少し手の込んだメイクしたのに。 あーぁ、全部、馬鹿みたい。 「行ってくる、家出る時鍵閉めて適当にポストに突っ込んどいて」 「はーい」 彼の匂いはするのに気配だけがない部屋の中は他の何処よりも寂しくて。 冷たいフローリングの上、顔を埋めたクッションからも感じる、私の嫌いな重めの香水。 彼が他の女と遊びに行く時の匂い。 口内のキャラメルはとうに溶けたはずなのに、ずっとあの甘ったるい風味だけが歯にこべり付いて離れなかった。 気持ち悪い。気持ち悪い。 あの日の甘さがまだ口の中にある気がする。 お風呂上がり、鏡に写る血色のない自分の顔を見つめる。 磨いても、磨いても、まとわりついてくる鬱陶しい彼の影。 あんたなんか、大嫌い。 お願いだから私の人生にあんたの切れ端ですら残さないでよ。 伸ばした手で写る自分の顔をそっとなぞる。 「…かわいい。かわいいよ、私は」 なんて、痛くてみっともないおまじないを、 気休めでしかない、絆創膏を、 ボロボロの心に貼るのだ。 だけど明日はあの子と笑って話そう。 大嫌いなあいつとのツーショットのストーリーにもいいねを押そう。 だって、 その方が惨めな気持ちにならなくて済むじゃん。 だけどやっぱり。 「面白くはないや、元彼と友達が付き合うのなんて」

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取れないキャラメル

硝子を口に含む 6

『水曜日予定あけて』 寧々からのLINEはいつも急だ。 肩に掛けたタオルで髪の毛を乱暴に拭いて俺は溜息をついた。 『場所は?』 『内緒。十一時に拓海の家行くねー』 それ以降のメッセージに既読がつくことはなかった。 俺行くってまだ言ってねぇよ。 「まだ」と思ってる時点で決まっている答えについては今は考えたくない。 「で、結局どこ行くんだよ」 車窓の外流れる景色をぼんやりと眺める彼女に俺は聞く。 「まーだー」 「へー」 舐め腐った表情に俺が頭をはたくと「暴力はんたーい!」と大袈裟に騒ぎ立てる彼女は実に元気そうだ。 聞いたことのない名前の駅で彼女に手を引かれて降り立った。 残暑の日差しが眩くて、日傘を差す気もなさそうな寧々の頭に被っていたキャップを被せる。 こちらを見やってきゃらきゃらと笑い声を上げる姿をずっとこのまま留めておきたいと思った。 「うっ……キーン、」 「自分で言う奴初めて見たわ」 寧々が頭を抑えて唸る様子を見守りながらかき氷を口に運ぶ。 彼女が連れて来てくれたこのレトロなかき氷屋はセルフでシロップをかけ放題のお店だった。 カウンターに並んだ瓶の中で揺れるカラフルなシロップが写真映えするらしく、店内には若い女性客がちらほらと座っている。 「シロップ全部かけたら何味になるかな」 「俺は付き合わねぇからな」 「ちぇ、おもんない」 イチゴに、メロンに、ブルーハワイに、あとレモンとか混ぜたら面白そう! どう考えても組み合わせたら不味そうなラインナップを指折り数える様子も可愛いらしく見えるから俺も結構重症だ。 「かき氷のシロップってさ、色が違うだけで、全部同じって話あるよね。本当なのかな」 くるくると銀のスプーンを回して寧々が小首を傾げる。 確かめたいから、目閉じてよ。 シロップよりも魅力的な甘い囁きに促されるままに目を閉じた。 唇に触れる銀のスプーンの冷たい気配と風鈴の音。 口に入れたかき氷の味なんか当然覚えていない。 「寧々」 「なぁに」 「かき氷、来年も食べに行こう」 あの時、彼女はどんな表情を浮かべていたのだろう。誰を瞳に、映していたんだろう。 「生きてたらね」 柔らかい、拒絶。 胸の奥をざらりと逆撫でさせる焦燥。 差し出された腕を掴んで指先に口付けても彼女は頬を染めることもないのだろう。 ムカつく。 掴めない。 掴みたい。 お前のこと、全部知りたい。 何もかも。 指先から、髪の一本一本まで、 「……雨?」 彼女を家まで送る帰り道、予報は晴れだったのに雨が降り始めた。 あいにく、互いに傘は持っていない。 身体が弱い彼女を雨に濡らすわけにはいかない。 かといって走らせるのも、 やらかしたな。 「拓海」 濡れた前髪の下できらきら輝く彼女の瞳に思考を阻まれる。 華奢な指が俺のTシャツの裾を掴んだ。 「家、おいでよ」 いつも会う時の連絡は彼女から。 会う時は大体俺の家かホテルのどちらか。 彼女の家に誘われたのは、これが初めてだった。

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硝子を口に含む 6

五月病

俺は、生き急いでいるんだろうか。 スマホから顔を上げる。 電車はトンネルに差し掛かっていた。 明るすぎる蛍光灯と不安定な地面。 握った単語帳の文字が蠢いているように感じた。 別に立っていられる。 立っては、いられるのだ。 それなりに転んできたから、 それなりに立ち上がり方は知っていた。 這いつくばってでも勉強をしてきた結果が不合格だったあの日のことはよく覚えていない。 涙は出なかった。 ただ、気がついたら日は沈んでおり、 酒の強い父が珍しくウイスキーを片手に酔っぱらい、皿を洗う母の肩が静かに震えているのを目にした。 真っ暗なスマホの画面に写る自分の顔は表情はつるりとしたのっぺらぼうのように表情がない。 「俺はまだ何も諦めるつもりは無い」 この気持ちに嘘は無い。 第一志望には合格したいし、大学生活は楽しみたい。可愛い彼女は欲しいし、車の免許も取りたい。 あぁ、でも。 初夏を感じさせる若葉も 梅雨の気配がする蒸し暑さも カレンダーの日付も その全てに追い詰められているような気がする。 浪人生最初の模試。自己採点はまだしていない。 使って二年目の参考書は既にもうボロボロ。 共通テストのあの朝、息の白さを思い出す。 不安と緊張、焦りと少しの希望。 不安はあったけど、後悔はなかった。 だからこそ、分からない。 何を間違えたのか、ただ、運が悪かったのか。 何も、見えない。 細い細い糸は光の刺さない暗闇だと手繰り寄せるのが難しい。 気づいたら針を進めている時計をぶっ壊してしまいたい。 何をどうすれば正しいのか。 どうしたら、良かったのか。 どうやって、なんで。 なんで、俺なんだよ。 なんで落ちたのは、俺なんだよ。 背負ったリュックの重みが増す。 吸い込んだ酸素が重い。 口の奥で酸っぱいものが混じり合う。 込み上げてくる何かを必死に押し戻した。 しんど……。 「やりたいようにやったらいい。金のことは気にすんな」 気にするよ、そりゃ。 「お前なら絶対いけるって!大丈夫!」 そんなの、分かんないだろ。 「一年頑張れたんだから、もう一年頑張れるよ」 伸び代、あんのかな、俺。 あと一年頑張ったら、本当に報われるとも限らないのに。 高い金、払って貰ってんのに。 そんな価値が、あんのかな。 俺が今やってる事って本当に意味あるか。 他者を介在させない強さを持て。 父の言葉だった。 浪人したいことを話した夜だった。 お前もちょっと飲むか? 少し笑いながら勧められて初めて飲んだハイボールは苦くてあんまり美味しくはなかった。 「俺にそんな強さ、あんのかな」 目の前にあったナッツを俺も齧って父の言葉を待つ。 「裕二にはそれが出来る強さが絶対にあると、俺は思う。」 何て重くて、心地の良い期待だろうと思った。 「ははっ、なんだそれ。何の根拠だよ」 「まぁ、俺の息子だしイケるだろ」 「余計に不安だわ」 足の裏の感覚が少しづつ戻ってくる。 よれよれの単語帳に嘘は無い。 あの一年で覚えた知識がある。 蓄えた忍耐力もある。 肩の力を抜くのは来年の春休みでいい。 ゆっくりと息を吸う。 夏の気配に対する恐れはもうなかった。 生き急いで何が悪い。 可能性も意味も価値も定義付けるのは自分であると言うなら、俺はそれを無限だと定義しよう。 予備校最寄り駅まで後六分。 その間に二十単語は見直せるな。 俺は、自分のこういう図太さが嫌いじゃない。

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五月病

ひととせ

『思いわび さても命はあるものを 憂きに堪へぬは 涙なりけり』 転校して行ったあの子の小さな抵抗。 黒板に白いチョークで書かれたその言葉をそっとなぞる。 小春日和のうららかなるこの日には、きっと似合わないこの歌を誰もいない教室で諳んじた。 子供だからと突き放したのは私なのに、 そんな君をきっと大人にしたのも私なのだろう。 「先生」 生意気で不器用な優しい男の子。 私の大切な生徒の一人。 告白もさせてあげなかった。 それが正しいと思ったから。 上ずった声と赤くなった耳を今でも覚えている。 あの子の視線が、緊張した肩が、紅潮した頬が、 「それ」を全て語っていた。 恋、ね。 突き放せば良かったのだろうか。 「倉橋くん」 「暇だったから」 国語科室の立て付けの悪い扉を閉めにくそうにして、いつもあの子はそんな言い訳をした。 私もまたその言葉のそれ以上を追求することはなかった。 私の思う「正しさ」は酷く不正確できっと的を射てないことくらいは分かっている。 だって。 あの子の、眼。真っ直ぐで、ひたむきな熱。 いじらしいと思った。 かわいいとも、思った。 だけどそれが何になるというのだろう。 どうしよう。 苦しい。 罪悪感。 どうしよう。 怖い。 私は教師なんだよ。 だってまだ子供。 生徒だし。 未成年。 そんなの、許されない。 年上に憧れてるだけ。 世間の目とか。 どうせすぐに忘れる。 気づかないふりを。 大人の対応を。 それは、私もあの子も幸せにしない。 人の数だけ正義があるのだと誰かが言う。 正しさはいつだって私達が優先したいことの順番に過ぎないのだから、それはきっと事実で。 私は私が思う、正しい教師でいたかった。 それはあの子の為とは程遠い。 ひとえに、私の為に。 「なぁ、先生…俺、父の仕事の都合で来月からこの街を出ることになったんですよ」 明日の天気を語るかのような軽い口調でそれは告げられた。 最近視力、落ちたから。 背に隠したその手が震えているのなんか私には見えなかったよ。 「…そうなの」 今日は、寒いね。だから声が震えそうになったんだと思うの。 彼の少しシワの寄ったズボンから飛び出した大きな足が一歩前に出る。 「先生「ネクタイ」 歪んでる。 そう呟いて、きっと今しなくても良かった歪んだネクタイを直してあげようと伸ばしかけた手を彼に掴まれる。 見上げた瞳の奥に渦巻く好意。 「なぁ…寂しい?」 きっと、見透かされている。 私の下らない意地も、体面を気にしていることも。 泣いてしまいたいくらい、彼の熱はずっと苦しい。息もできそうにないくらい。 「…寂しい」 「それって「だって、」 掴まれた手をゆっくりと振りほどいた。 この子がこれ以上傷つくことのないように。 「倉橋くんは、私の大事な生徒だから。勿論、寂しい。けれど新しい高校でも貴方なら大丈夫だとも、思うよ」 ごめんね。 でも、私は後悔なんかしないよ。 あの子の机だけが減ってしまった三学期の教室に冬の日差しが差し込む。 大きな喪失感を感じると共に、私はどうしようもなくほっとしていた。 角張った文字で書かれた百人一首。 つれない恋を嘆く歌。 「ひととせ、貴方を思ふ」 届ける気もない返事を、誰もいない教室で小さく呟いた。 春も、 夏も、 秋も、 冬も、 貴方の幸せを願いたい。 でも、会うのは今日が最後でいい。 『つれないあの人のことを想って、これほど悩み苦しみ、もう死んでしまいそうだ。それでも命はどうにかある。ただ、あとからあとから零れ落ちるのは私の涙であることよ』 「」

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ひととせ