べっこう飴
59 件の小説チョコレートの次に
青空が降ってきた。 名簿で探した窓際二番目に座る君の名前。 初恋でした。 不思議だったことがある。 小さい頃に流行った占いの本。 右下に書かれていた運命の人の誕生日。 けれどドキドキしながら開いた運命の人のページには 私の誕生日はなくて。 それは私にとってこの世界に御伽話みたいな王子様が居ないことよりも絶望的なことだった。 本当に最悪。 最初から神様は運命に双方向性なんか与えていないのだ。 私にとっての運命は誰かにとっての運命ではない。 分かってたよ、そんなことは。 風屋葵君。 出席番号は二十九番。 弟がいて猫を一匹飼っている。 白いシャツがよく似合う。 そしていつ見ても姿勢が良い。 好きなところはたくさんあるけれど 好きになった理由はよく分からない。 理屈抜きで君にどうしてか惹かれるの。 言えることがあるとするのなら 君の名前でさえも、とても切ない。 風屋君。 そうだよ、君のこと。 一昨日幼馴染の安藤さんが好きだからって私を振った君のこと。 ねぇ私にしときなよ、ばかやろう。 絶対幸せにしてやるのにさ。 絶賛「初恋は実らない」を体現中の私はそう思うのです。 「何してるの」 「ちょっと今世界中を呪うので忙しい」 「今すぐ辞めな」 飴色のテーブルを挟んだ先で呆れた表情を浮かべる彼女との付き合いも生まれてからなのだから随分長い。 同じ日だけれど数分遅く生まれた妹の顔を見る。 透かしのレリーフが美しい皿の上には 私と同じ杏の酸味が効いたザッハトルテ。 鏡のような黒い光沢を放ったケーキも銀のフォークの端から崩れ落ちていく。 「明日美」 「……なに」 「振られ、ちゃった」 「……そう」 へらりと笑おうとした顔は口角を歪ませただけで留まる。 泣くのは嫌だった。泣きたくない。 あんなにも誠実に返事をくれた風屋君のことを、たとえ今目の前に彼が居ないとしても悪者にはしたくなかった。 「だから言ったじゃない。可愛い幼馴染がいる男なんて好きになるのやめなって」 「……別に幸せになりたいから好きだったわけじゃないもん」 明日美は冷たい。でも、明日美は優しい。 今日のカフェも落ち込む私の為に探してきてくれたのだろう。 風屋君のことについて打ち明けたその日から 彼女は私のことを心配していた。 そんなことは全部分かってたけど、 分かっていたとしても理解はできても認めるのは癪だった。 「私本気で、好きだった。胸の奥が擦り切れて焼け焦げそうなほどあの人のことが欲しかった。その為なら何を差し出してもいいくらい、全てを諦めても」 あぁ駄目。 口にすれば口にするほど、私のこの感情は汚く爛れ腐っていく。 酩酊したかのような点滅する視界。 輪郭を失っていく願い。 風屋君。大好きです。 こんな私を選ばない、貴方のことが好きです。 それはひとつの絶望だった。 降ってきた青空を 澄み切った青い恋心を曇らしてしまったのはきっと私。 「そんなの嫌」 突然差し出されたフォークに驚いた私は僅かに目を見開く。 反射的に口に入れたものはどうやら彼女のケーキらしかった。 「幸せになってくれないと、私が嫌」 だから、捨てて。 時間が掛かっても胸が締め付けられたとしても全部、捨てて。 初恋でも。 良い奴だったとしても。 姉が幸せになれないなら「それ」は要らない。 「一途って綺麗ね。でも一途って苦しいじゃない」 だからどれだけ素敵な人でも私は風屋君のこと嫌いよ。 私よりも先に涙を流す不機嫌そうな妹の顔。 傷みにも似た暖かさが広がって何故だか笑いが込み上げた。 「私ね」 あんなこと言ったけどね。 これでも私、このチョコレートケーキの次くらいには 自分のことを愛してるの。 「だから、幸せにしてあげたい」 舌に広がるのは甘くて苦いビターチョコレート。 言葉の端から震えた唇の横を涙が横切った。 それは自己愛的宣言だった。 いや違う。私の片想いは多分ずっと自己愛の裏返しだった。 好きなものがたくさんあった。 深夜二時に満ちた月 暑さで溶けるチョコレート 明日美から貰った鈴蘭の栞 自転車で降りる下り坂 夏の終わりの涼しい風 だってささやかなものって愛おしいでしょ。 全てを捨ててでも彼が欲しいと思っていた。 自分を削っても貫く想いって研磨された宝石のよう。 けれど私は、そうはなれないみたい。 私は、削らなくたって原石が綺麗であることを知っている。 だからこそ彼の為に全てを捨てることなんて出来ない。 「じゃあ諦めなきゃね」 私の頭を撫でるその手つきが飼い猫を宥めるかのように無造作なのでほんの少しだけ優しい妹を恨む。 「なんでそんなこというの」 「だってそうやって、言って欲しかったんでしょ」 図星だった。 いつからだろう。 抱えきれないほどに重くなってしまった片想いから 本当はずっと解放されたかった。 あまりにも息が詰まりそうな物思いにずっと、 諦めを求めていたのだ。 「忘れられるかな」 「……忘れられるよ」 よく晴れた朝に時々思い出すような、そんな記憶にいつかなるよ、絶対。 「私もね、このケーキの次くらいにはあんたのこと好きよ」 「そこは1番に置いてよ」 「さぁね。検討しとく」
生傷
これ見よがしに死にたいと言う人間が嫌い。 遺書に希死念慮があったって書く奴も嫌い。 嫌い。嫌い。大嫌い。だってそんなんじゃなかったもの。 真澄はそんなこと言ってなかったもの。 金曜日に学校に行って 土曜日に部活と塾に行って 日曜日に私とファミレスで喋ってカラオケに行った。 月曜日にそして自殺した。 あの子もうないからってシャー芯買い足してた。 あの子、カラオケでポテトおかわりしてた。 あの子、あの子ね、いつも通りだった。 なんでよ真澄。 SNSで死にたいって呟いててよ。 鞄から大量の遺書とか出てきてよ。 リストカットでも、真っ黒なアイコンでも。 どんな危険信号だってきっと私は見つけたのに。 そうすれば、止められたかもしれないのに。 すぐ死にたいっていうクラスのあの子はまだ生きているのに そんなこと一度たりとも言ってなかった真澄は死んだ。 ねぇ知ってた。ねぇ知らないの。 人が命を絶つ時って本当はもっと静かなんだよ。 「私が全部悪い」って言う人嫌い。 慰めて欲しいだけの癖に。 「私が死ねば良かった」をやたらと言葉で飾って表現した物語も露骨で嫌い。 飾り付けしたって綺麗なわけないのに。 派手に人が死ぬ作品を好む読者も雑に人を殺す作者も嫌い。 死の安売りは面白くない。 遺書なんかあるわけもない。 そんなものに思い当たる前に彼女は死んでしまった。 何も言わずに私を置いてった。 いや置いていった自覚も無いかもしれない。 死んだ先は土の中で眠るだけ。 生きることも死ぬことも意識などせず、 疲れたとだけ思い彼女はうっかりそれを手放したのだ。 この世界が悪い。 死にたいを美化してきた小説が映画が漫画がドラマが悪いのだ。 あんなふうに人は死なないって誰も教えてはくれなかった。 あんなにも分かりやすく人は死んでくれないって。 だから私だけは覚えていよう。 この生傷に永遠に爪を突き立てて血を流し続けよう。 これは途方もなく滔々と溢れ出る怒りなのだから。 泥水を啜って這いつくばってでも生きて欲しかった。 許さないよ。 絶対、許さないから。 ねぇ真澄。 なんで死んだの。
緑の亡霊
「未成年喫煙」 げっ。とでも言いたげな顔で振り返るあいつ。 握る煙草から立ち昇るくゆりとした煙。 視線がかち合うと何だお前かとでもいうように溜息を突いてあいつは再び壁に身を預けた。 「内緒な」 薄い唇の前で立てた指に初夏の日差しが降りたような気がした。 身を隠すように校舎の裏で脚を伸ばす様子はいつか見た気持ちよさそうに眠る野良猫を思わせる。 「さぁね。明日には気が変わるかも」 スカートが皺にならないように気をつけながら私もこの男の隣に腰を下ろした。 仏頂面も素っ気ない言葉も癖のある柔らかい髪も、 全部いつものこと。 何処からか野球部の掛け声がした。 止まっていた吹奏楽の合奏も再開したのか聞こえてくる。 肩にもたれかかると形の良いあいつの指が私の頭を撫でた。 その手が何処か優しいのだって、いつものこと。 「全部、終わったの」 「……そうか」 ぽつりと零れた言葉は彼に届いただろうか。 明日から私の名字は母の旧姓になる。 両親の長い離婚調停が終わった時に思ったことはやっとかという気持ちだった。 どこからボタンの掛け違いが始まったかと言われると微妙だが、最初はやっぱり父の転職だったように思う。 以前より増えた給与に喜んでいたのも束の間で、日付を跨いで帰ってくることが増えた父が次第に酒に溺れるようになった。 気の弱い母は怯えてしまって父のことを避けるようになり、それがまた父の酒癖の悪さを加速させた。 大学進学を機に次第に家に帰らなくなった兄も気が付けば一人暮らしを始めていた。 それに異を唱えたのは母で、執拗な程兄の行動を抜け駆けだと怒り、電話を掛ける様子は何だか滑稽で。 『適当なタイミングでお前も見限れよ』 そんな言葉を置き土産に連絡の途絶えた兄からのメッセージは何の助けにもならず、 結局私は母をこんこんと説得して離婚する方向に持っていく他なかった。 それがようやく終わったのだから、もっと、もっとさ。 私が望んだことだった。 家族全員居るはずなのにばらばらで食事を摂るテーブルも 父の怒鳴り声と苦い煙草も 取り留めのない母の愚痴も 全部全部、終わらせたかったから。 望んでたことだったんだけどな。 「お前も捨てていくんだな、俺を」 母に着いていくと話した時の父の言葉が頭を掠めて私は瞼を閉じる。 途方もない程に、疲れていた。 息を吸うことさえ億劫な程に。 元々、仲が悪い家族ではなかったように思う。 小学生の頃、休日に時々行くショッピングモールでどうしても欲しいネックレスがあった。 銀色のリングの中に木漏れ日を注いだような緑のスワロフスキーが煌めくそれは一目で私の心を奪っていった。 お金は返す。お年玉で買うなど言い募ったがまだ幼い私に買い与えるには高価だと、母はまともに取り合うことすらなかった。 けれど私が余りにも悔しそうに泣くものだから可哀想に思ったのだろう。 「母さんには、秘密な」 大事にしろよ。こっそりネックレスを買ってくれた父の悪戯げに笑う顔。瞼の裏に散らつく瑞々しい緑の光。 私の棚のオルゴールの中にあの緑がまだあることを父に言うつもりはない。この先も。 私は、仲直りでもしたいのだろうか。 そして、家族みんなでまた仲良く暮らしたいのだろうか。 考えた先から嘲笑したくなるような思いを巡らせる。 修復するなんて、そんな時期はとうに過ぎている。 枯れた花は生き返らないし 水は下に流れていくもの。 壊れた信頼だって、戻らないよ。 壊れた家族だって。 こんなの、願いでもない。 亡霊みたいなものだ。 「んじゃ、付き合うか」 「……は?」 一瞬、言われた言葉の意味が理解出来なかった。 もたれかかっていた頭を上げて彼の顔を見つめる。 明日の時間割は何かくらいの気安さに聞き間違いかと思う。 「……あんたって、私のこと好きだったんだ」 「まぁな」 名前がないままの関係性に甘んじて半年が経つ。 この男の隣は不思議なくらい居心地が良かったし、 普段真面目で程々に優秀な彼がこっそり煙草を吸っているという秘密を共有するくらいの仲が丁度いいと思っていた。 てっきりこのままこの先も気まぐれに顔を合わせるものだと。 「だってお前も俺のこと好きだろ」 「……」 お前の問題も色々片付いたしもういいだろ。 さらりと告げられた言葉にぽつりぽつりと広がったのは雨のような不安だった。 「……嫌だ。付き合わない」 「あ?何でだよ」 一気に急降下したこいつの機嫌を取る余裕は私にはない。 だって、ここは私の安息地帯だった。 あいつがくれる安息の元でしか私は休めない。 蘇るのは怒鳴り散らす父と無視する母の様子。 はじめてしまえば終わりが来るかもしれない。 そんなリスクはもう負いたくない。 「名前の付いた関係を維持できるほど私器用じゃない」 結婚なんてしない。 恋人だっていらない。 好きな人だって本当は、欲しくなかったのに。 苦い苦い感情は掻き混ぜたって甘くはならない。 でも結局こうなるのか。 今日が二人きりで会う最後の日なのかな。 名前がつかなければ終わらないと思っていたのに。 暗い考えが首を擡げる。 「馬鹿か」 がさつに摘まれたほっぺたが少し痛い。 息をつく彼に溜息をつきたいのはこっちだと言いたくなる。 「それは一生一緒に居たいって言ってるのとほぼ同じじゃねぇか」 「そこまでは言ってない」 「言ってんだよばーか」 それに俺はお前の父親とは違うし お前だって、母親と同じなわけじゃないだろ。 「お前がどうしようもない馬鹿なのはもう仕方がないから、待ってやる」 俺はそんなに気が長い方じゃねぇから早く気持ちに整理つけろ。 「うるさい。待っても付き合わないから、阿呆相良」 「はいはい」 いつもとは違い乱雑に掻き混ぜられた髪の毛が涼しい風に攫われていく。 近くの木から鳥が羽ばたく音が聞こえた。 「……お前が、煙草の匂いで親父を思い出すんだったら俺辞めるよ。禁煙する」 相良の顔は真剣だった。 驚いた。そんなこと言うんだ。 彼が煙草を吸っている理由は実はちゃんと聞いたことがない。でもまぁ、弁護士になれという重苦しい重圧とか敷かれたレールの上で思うことでもあるのだろう。 煙草ひとつで道を踏み外さないでいられるのならその方が良い。 「煙草はきらい」 灰皿を吸殻でいっぱいにして、酒に飲まれて母と私に怒鳴り散らすようになった父のことを思い出すから。 間髪入れずに吐いた私の言葉に僅かにこの男の眉が上がるのを感じる。 「……そうかよ」 揺れる瞳に木漏れ日が映り込んだ。 湧き上がるこの感情は何なのだろうか。 仏頂面で何考えているのか分かりにくいこの男が、私が煙草を嫌いと言っただけでこんなにも動揺するなんて。 かわいい、な。 すぐ目の前にある頬に手を添えて唇を重ね合う。 苦い匂いが鼻腔を掠めて、それが何だか胸が抉れるくらい痛くて堪らない。 だから、上書きして。 苦くて痛い記憶なんて蘇りそうもないくらい沢山の愛を頂戴。 「……でも、あんたは吸ってもいいよ」 あんたは、私の例外だから。 「……んだよそれ」 いつもの仏頂面を崩して笑う顔。 そんな顔するから。 だから私は振り回されるんだよ。 だから何一つ思うように進まないんだよ。 あーぁ。好きだなぁ。本当に、好きだよ。 見上げた空は嫌になるくらい青くて あいつの綺麗な横顔に入道雲の影が降りる。 「いる?」 「吸わない」 差し出された箱は押し戻した。 私はこの先一生煙草を吸うことはない。 「だから、私が肺癌で死んだらあんたのせいなの」 あんた以外の人間で煙草を吸うやつを この先隣に置く気はないから。 あんたのせいで私は死ぬの。 死因はあんたとのキス。 「怖え女」 言葉とは裏腹に軽やかな笑い声をあげるこの男を見て頬なんて赤くしてやらない。 私はこいつの恋人になる気なんてさらさらないのだから。 「新しい名字何になるんだ」 「原田」 「んー何か似合わねぇな」 俺の名字の方がいいんじゃねぇの。 「馬鹿じゃないの」 にやっと笑いながら揶揄うこいつの言葉にかっと上がる体温にはもう暫く気付かない振りをしようと思う。
骸の上で微睡む
「鬼になるのは女だけ」 静かな夜だった。 猫の爪のような月と僅かな星だけが瞬いていた。 「ご一緒しても?」 「どうぞ」 グレーの髪に青いピアスが良く似合う女性だった。 初夏とはいえど涼しいとは言えないテラス席でわざわざ酒を飲む人は珍しく、そんな物好きを相手にしようとは変わっている。 「何となくボトル買いしてしまったのだけど、 一人で飲むには多かったみたい」 テーブルの向かいに座った彼女から勧められるままに注がれた飴色の液体はどうやらウィスキーのようだ。 案の定傾けたグラスから広がる匂いは渋いのに仄かに甘い。 「寝不足のようね」 「夢見が悪くて」 コンシーラーで隠してもどうやら誤魔化せてなかったらしいそれを指摘されて私は曖昧な笑みを零す。 「それは、貴方の鞄の中にあるものと何か関係してるのかしら」 誰を殺しに行くの。 音になるか怪しいほどの小さな声が確かに私の鼓膜を揺らす。 何故だろう。驚きはしなかった。 刃渡り二十センチの包丁は白い布切れに包まれて鞄の奥底にある筈なのに。 「……止めますか」 あれ、でも私は。私は、止めてもらいたいのだろうか。 「貴方が、止めて欲しいと言うのなら」 彼女の静かな囁きと瞳の奥にある理知的な光。 美しくて、賢い人。 この人はどれだけ歳を重ねてもきっと綺麗なまま。 「……酔っ払いの戯言だと思って聞いてくれますか」 「あら奇遇ね。私も相当酔ってるの。だからきっと明日の朝には全て忘れてるわ」 茶目っ気のある言葉に僅かに心が軽くなる心地がした。 夜は長い。 ボトルに満ちたお酒はそう簡単には無くならないだろう。 グラスから流れ落ちる結露はまだ冷たかった。 「もうない愛の骸に縋っている間に気が付けば二十九歳になっていました。」 もう冷められていることなんて気づいていたけど。 でも、それでも。 結婚したいって、結婚するなら彼がいいって私は思っていた。 私の一回りも年下の女の子と彼が浮気していると知るまでは。 『もっと早く出会っていたら俺はりさちゃんと結婚したかったよ可愛いし』 震える手でロックを解除したスマホの中の言葉は何処までも残酷で。 私が喉から手が出る程求めていた言葉はこんなにも雑な形で消費されていた。 胸に広がるのは絶望と果てしないほどの憎悪。 まさか彼があんな若い女の子と。 馬鹿な女。もう少女でもないのに。 それでも夢を見ていた、物思いという亡骸の上で。 また貴方に愛してもらえる夢。 「……彼の隣で能天気に眠るあの女を殺す夢を毎晩見るんです」 最初はあの細い首を締める夢だった。 薔薇色の頬が青白くなっていくのを笑いながら見つめた。 ガソリンを撒いてマンションごと燃やしたこともあった。 赤い炎と甲高い叫び声を聞いた。 毎晩、毎晩あの女を殺した。 その度に穏やかに眠るあの二人の幸せそうな顔を見るの。 憎らしい。むかつく。……虚しい。寂しい。 朝も夕も 生も死も 愛も呪いも 全部分からないし、全部に疲れた。 だからもう、これで終わりにしよう。 あの女も、私も。 夢の中の彼の表情はいつも伺えない。 あの人の瞳の中にいた私という女がどんな顔をしていたのかなんて、もう思い出せなかった。 どれだけ頭にアルコールが回ってもさっき研いだ包丁の切れ味はよく覚えているというのに。 それがどうしようもなくやるせない。 「……それでも、貴方は責めないのね」 貴方をそこまで追い詰めたその男を。 私の髪をそっと撫でるその手に含まれているのは憐れみか、それとも共感か。 確かに私の殺意は矛盾している。 殺すべきはあの女ではなく彼であって、 そもそも理性では私がこれからすることの全てが間違っていることをよく分かっていた。 でもその正しさの中では私は眠れないの。 制御できない激情に苛まれて目が覚める明け方の薄闇に日が昇るのを私はもう見たくない。 何もない荒野でいい。 広大な大地でどうか私を眠らせて。 「馬鹿なもので」 結局口をついて出たのは自嘲気味な言葉だった。 「鬼になるのは女だけ」 生きながらにして、鬼になるのは。 甘く苦い言葉に惹かれて飴色の液体を傾けて緩く微笑む彼女の方を見遣る。 「嘆きわび空に乱るるわが魂を結びとどめよしたがへのつま」 紅く塗られた唇が紡ぐのは身を滅ぼす程苦しい嫉妬の歌。 「……六条御息所」 「知ってるの」 「学生時代に専門にしていました」 年下の美少年に狂わされた美しく気高い彼女は嫉妬に狂って結局生霊になり相手の女を殺してしまった。 「かつて彼女の心に巣食った鬼が私の中にもいるのでしょうか」 「そうね……」 ランプの光がゆらゆらと映る瞳を柔らかく細めて女性は呟く。 ボトルのウィスキーはきっともう無くなる。 「それでも愛している男を責められないのが 女の可愛いところよ。」 私の胸中を知ってか知らずかその言葉はいつまでも後を引いて私の心に残った。
目眩
「光って名前、似合うよな」 期末テストが終わった帰り道 俺と誠は、かき氷のシロップは本当に果物の味がするのか論争に決着を付けるべく、近所のファミレスに寄った。 イチゴ、メロン、レモン、ブルーハワイ 大量に並べたかき氷を目隠しをしてランダムに食べて当てるという馬鹿みたいな実験。 でも、楽しかった。 誠の視線の先にあるのは鮮やかな緑に染まったかき氷。 グラスの氷がカランと音を立てた。 そういえば、メロンは野菜と果物のどっちなのだろうか。脈絡もなくそんなことを考える。 「……?そりゃ光って名前だからな」 「まぁ、そうなんだけど違うくて。」 かき氷を見ていた誠の視線が上がる。 カラフルなかき氷を前にしても彼の瞳にある色が何なのか俺には予めなかった。 「やっぱ、なんでもないや。…目が眩んだだけ」 あ、居た。 空き教室の机でぼんやりと考え事をする彼の後ろ姿は途方にくれた幼子みたい。 落ち込む彼に掛ける上手い言葉はひとつも浮かばない私は何となく彼の座る席の後ろに腰掛けた。 「中村?」 夢から醒めたように振り返る彼の表情。仕草。声。 光くんは、本当に綺麗。 美しいものにどうしようもなく惹かれてしまうのが人間の性だけれど、 その世界の真理が彼を幸せにしているようには見えなかった。 頭のてっぺんから爪先まで彼はずっと寂しそう。 目を眩ませるような光の中では見て欲しいものはきっと何も見えないだろうから。 「……誠から何か聞いた?」 「……告白したって」 「あ、そ」 突き放すような相槌とは裏腹に彼の頬はやけに青白く不安に彩られているように思えた。 「告白ってか、危うく押し倒されかけたんだけどな」 「え?え!?」 幼馴染と光くんの間に起きたショッキングな内容に思わず言葉を失うと彼はくつくつ笑い声を立てる。 「嘘嘘。キスされそうになったからぶん殴ってやっただけ」 「それあんまり変わらなくない?」 合意無しでキスなんて駄目。 あ、そこなんだ。 そりゃあそうでしょ。 「絶交、したの」 「そうだな」 分かってる。そこに恋があると分かってしまったら、友情はもう成立しない。大事な友達であればあるほど、余計に。 分かってるけど 「そんな顔を中村がすることないだろ」 光くんが信頼を置いていた人がまた一人減っていく。 彼の周りにいる人間は焦がれて去っていくの繰り返しばかり。 「大丈夫だよ」 別に何も感じない。 感じないけど、ただ。 「誰も、見ないで欲しい」 呟いた言葉は誰かに聞かせる為のものではなかった。 「なぁ、俺を嫌な奴だと思うか」 心地の良い囁き声に含まれた罪悪感と少しの疲労。 誠にそういう目で見られてると分かった時、ぞっとした。 大事な友達なのに。 俺はあいつの親友なのに。 同性愛を認めるなんて簡単だと思ってたんだ。 その愛が向けられる相手に自分がなる可能性だなんて考えてもいなかった時は。 現実はそんな生易しいものじゃない。 受け入れてあげたい。 受け入れられない。 分かってやりたい。 理解らない。 誠はいつまで俺のことを親友だと思っていたんだろ。 そもそも友達だと思ってくれていたんだろうか。 一緒にかき氷を食べた日、あの日の言葉が蘇る。 誠の表情は笑っているようにも泣いているようにも怒っているようにも見えた。 あれは不器用な彼のSOSだったのかもしれない。 あの時、誠は何を考えていたんだろ。 俺は、何て言えばよかったんだろ。 どうしたら、まだ親友のままで、いられた? 「どうすることが正しかったのか、とか思ったりして。まぁ答えなんてないんだろうけどさ」 だけどやっぱ、俺はあいつと、誠と友達でいたかったよ。 分からないと思った。 私は教科書をなぞった多様性しかしらないから。 でも何となく思う。 誰も見ないで欲しい。 光くんの言った言葉を思う。 彼はもううんざりしているのではないだろうか。 男であるとか、女であるとか、そういう性別よりも前に 同性愛とか異性愛とかそういうものよりも前に 彼はもう抱えきれない重いものを向けられることに疲れてしまったのではないか。 だって、愛されることは幸せで 愛されることはしんどいのだ。 自嘲ぎみに微笑む彼の背後に入道雲の影が降りる。 あぁ、駄目だ。 光くんに見蕩れてしまう私では。 彼の隣で対等に会話してあげられない。 隣に座って、あげられない。 私の言葉は彼に届かない。 いっそ私の目が何も映さなければよかったのに。 そうすれば光の先の何かがきっと見えた筈なのに。 「誰も、光くんのことを責めることなんて許されない。」 誠が光くんに好意を寄せてしまったことを 誰も責めれないのと同じように。 それだけは確かだった。 「……ありがとな」 届いたのかな。届いてないかもね。 それでもいいよ。ただ、こうしよう。 私はこれからも消え入りそうな細い彼の友達の友達という場所に身を置き続けよう。 愛の代わりに馴れ馴れしさを 恋の代わりに居心地の良い他人を 今、彼が欲しいのはきっとそういうものなのだ。 あぁでもこれもまた、執着なのだろうか。
未確認
「やめときなよあんな人」 別に何人も女がいるような男なんか。 ジョッキを傾けて呆れたような声を響かせる友人の小指に光るピンキーリングが私の目を焼く。 半年前から付き合ってる彼とは上手くいってるらしく惚れ気も吐かない代わりに彼女は愚痴を吐くこともなかった。 いいな。 不安から来る苛立ちを誤魔化す為に私は再びグラスを仰ぐ。 マドラーでかき混ぜた苺のチューハイはいつもより苦い。 「その手の男は特定の女なんて作る気ないよ。女の子ならみんな好きだしきっと女の子なら誰でもいい」 むかつくよね。 その気がないなら優しくしないで欲しいよね、ほんとに。 ハイボール片手に過去にちょっかいを出してきたチャラ男でも思い出したのか彼女は眉を寄せながらそうまくし立てる。 私は空になった彼女のグラスを見つめながらぽつりと零した。 「彼女、出来たんだって」 「え?」 あいつの眼。 愛することも愛されることも諦めたような寂しい眼。 あいつが誰も愛せない欠陥のままで居てくれたらいいのに。 そしたら、少しはましな不幸なのに。 「あの人の特別はあの子だけ」 「…ほんとに彼女出来たの?」 無言は肯定だった。 私だって馬鹿じゃない。 私の他に女が沢山いることなんてちゃんと理解してた。 だけど、あいつに本命の女が出来るなんて。 悔しい。 最悪。 なんでよ。 どうせ上手くいくわけない。 どうせ別れるでしょ。 別れてよ。 『彼女のこと本気で好きなんだ。だからもう会えない』 私はあんたの気まぐれな会いたいに今まで馬鹿みたいに応えてきたのに。何それ。そんな言葉で私ともう一生会わないつもりなの。 氷で味が薄くなったお酒をいつまでも私はかき混ぜた。凍った苺がすり潰れていくのを眺めていたら涙が零れた。 私はまだあいつの何もかもを置いて行けそうにはないのに。 机に置いたままの空のカップラーメン。 投げ出された服が皺の寄ったままソファーに転がっていた。 重たい香水と汗が混じった匂い。 気を許されていたからじゃない。 気を遣うほど眼中になかっただけ。 「やっぱり会いに行きな。私も一緒に行く」 あのいけ好かない塩顔をぼこぼこにしなきゃ気が済まない。 血の気の多い友人の言葉に思わず笑いを零しながら強がりじゃない本心を呟く。 「もう会わないよ。」 「帰る」 「夜遅いし気を付けろよ」 駅から遠いあいつの家。 送ってもらったことはなかった。 私がどんなに理不尽なことで怒ったって、もう帰るって言ったって動揺したりなんかあいつはしない。 機嫌を損ねた私を見送る声はいつも優しくて気遣っているようにも聞こえたけれど そんなの、全然嬉しくない。 だってそれってあいつにとって私はそこまでの感情を向けるほどの存在じゃないってことでしょ。 分かってたよ、分かってた。 あいつはずっと私に優しくない。 「終電ギリギリじゃない?今日は私の家に泊まってから帰る?」 「ううん、大丈夫。ありがとう」 幸せそうな彼女にこれ以上気を遣わせてしまうのも申し訳ない。 居酒屋を出た後、キャッチの鬱陶しいネオン街を幾分かふらつく足取りで私は突き進む。 改札まで着いていくという友人の言葉も断った。 送ってくれなかったあいつと比べて辛いばっかだから。 幸い、程々にアルコールに強い私はこれくらいで家に帰れなくなることはない。 煙草の吸殻が転がるアスファルトを買ったばかりの五センチヒールで踏みつける。 道路脇に立ち並ぶゴミをアルコールで酔っぱらった瞳でぼんやりと見つめた。 結局、私は何がしたかったのだろうか。 馬鹿になりたかったの。 後先なんて考えないで自分のことを消費してみたかったの。 自分を大事にすることに疲れちゃったの。 いいや。そんな言い訳、私は使わない。 そんな投げやりな理由であいつに会いに行ったわけじゃない。 結局、あいつにとって私はカップラーメンを作る三分間で釣れるような女だった。少なくともあいつにとってはそうだった。 でも、私は好きだったよ。 あいつの即席の愛してるも可愛いも全部信じてたわけではないけれど、それでも嬉しかった。 髪を撫でる手が優しいの。 名前を呼ぶ声色が甘いの。 綺麗な銀色の指輪もくれたの。 ねぇ、なんで私が一番じゃないの。 あんたには、もう会わないよ。 その代わり幸せになって欲しいとも思わない。 ようやく見つけた特別なその子を愛することで地獄に落ちたくなる程の苦しみに苛まれたらいい。 何の約束も想いも込められれてやしない銀の指輪を駅前のゴミ箱に捨てながらそんなことを思う。 駅の構内の雑踏で 彼とあの子の後ろ姿を見た気がした。 でも多分それはきっと気の所為で。 気の所為なんだろうけど今まで見たことない程に優しい微笑みを浮かべた彼の横顔を眺める。 「やっぱ一発くらい殴ってもいいかな」
泡沫よりも遠い場所
「亡くなっています」 絶望はいつも足元に転がっている。 死んだ。あの子が、死んだ。 お医者様の言葉はどれも私の頭をすり抜けてしまって上手く咀嚼出来なかった。 不自然に震える肺に意識しながら呼吸を取り込む。 少し硬い椅子の感触も病院特有の消毒液の匂いも今は遠くて。 あの子がいないと知らされた私のお腹の中はあの子がいる前よりも空っぽな気がした。 「先生」 貴方の性別はまだ知らない。 貴方の名前もまだ付けれてない。 貴方の顔も、まだ知らない。 でも 「それでも私、愛していました。あの子のこと、愛おしいって」 生まれてもいない貴方のことを私は今こんなにも愛している。 誕生したばかりだから、まだお腹の中にいるから、 そう思って口にしなかった言葉。 もっと早く言えばよかった。 あの子が死ぬ前に。あの子が居なくなってしまう前に、もっと伝えておけばよかった。 「伝わっていたと、思いますよ」 深々とお辞儀をする看護師さんを背にして私は病院を出た。 春の日差しの暖かさですら今の私には痛かった。 あの子が泣くことのない世界で産声を聞いた。 あの子が歩かない道に野花が咲いた。 あの子が笑うことのない世界に虹がかかる。 火傷のようにじわじわと爛れ落ちていく視界に それでも映り込んでくる美しいこの世界の全てが 余りにも、痛いから。辛いから だからどうか 笑わないで。 泣かないで。 歩かないで。 呼吸、しないで。 どうかあの子の為に世界よ、滅んでください。 「いつも、分からなくて」 お子さんを亡くしたお母様になんて声を掛けたらいいのか。 医療従事者として仕事をするようになって数年。 脳が理解を阻んでいるかのような表情を見せた後に瞳がベールのように絶望で包まれるあの瞬間を何度も見てきた。 あの瞬間に何らかの言葉を掛けることに意味はあるのか。 そもそもそこに正解なんてないことは分かっていて、 分かっているんだけど、それでも。 それでも。 「これから一生その葛藤を抱えて生きていこうと、今そう思いました。」 「…そうですね。結局それしかないんでしょうね」
四月の雨
「聞こえない」 雨が降っていた。 私は窓辺から流れ落ちる水滴をぼんやりと見つめる。 イヤフォンから流れるはずだったお気に入りの曲は透明のまま再生されている。どうやら充電が切れているせいだと気付いたのは暫くしてからだった。 喧嘩した。 理由なんて昨日の夕ご飯が何だったかくらい定かではないけれど 珍しくしっかり怒った彼が家を飛び出してからもうすぐ一時間が経ってしまう。 何となく、彼が今何処にいるかは分かっていた。 迎えに行った方がいいことも。 でも嫌。 私だって怒ってる。 私は別に悪くない。 元はと言えば彼が機嫌悪かったのが悪い。 だからちょっと言い過ぎただけだし。 ……あんな怒らなくてもいいのに。 ソファーで寝心地の良い姿勢を探そうとしたけれど一向に定まる気配がない。 だってあの人の腕がないからよく寝れない。 スマホでネットショッピングも全然捗らない。 見せた服の写真に可愛いって言ってくれる人がいないから。 つまんない。 時計の針が刻む音。 冷蔵庫の音。 ブランケットが擦れる音。 一人暮らしの部屋は静かだ。 だから別にこんな不在の音は聞き慣れている。 でも、喧嘩しなかったら今の時間に聞くはずのなかった独りの音はやけに寂しかった。 瞬きの隙間からぽろぽろ涙が溢れてきて私は顔を顰めた。 ねぇ、なんで帰ってこないの。 もう分かってるから。 私も悪かったって分かってるから。 「詩乃さんは傘を差すのが下手だな」 彼が私と相合傘をしようとする時にいつも言ってくる不器用で可愛い言い訳。 私を傘に入れたら肩が濡れるだろうに、この方が詩乃さんの声が聞き取りやすいと笑っていた。 翔馬くん、怒って出て行ったし傘ちゃんと持って行ったかな。 雨足はどんどん強まっている。 今日は春にしては冷える。 寒くないかな。彼の低い体温を思い出す。 気が付いたらスマホと家の鍵を握り締めていた。 迎えに、行こ。 扉を閉じた時、彼女の顔を少し見た。 その表情に怒りと共に僅かな寂しさが含まれているのを確認して少し安堵した俺はきっと狡い。 彼は私の顔を見て僅かに目を見開いた。 少しきまり悪げな表情に見えた。 「翔馬くん、傘…持ってたんだね」 「まぁ、結構降ってたし」 逆になんで後から来たのにそんな濡れてるんですか。 呆れ返った表情でぽたぽた水滴が溢れ落ちる私の髪に彼が触れる。 付き合って一年。 敬語は辞めてって私が言ってからは話さなくなったけれど、ふとした時に戻るこの敬語が私は結構気に入っていた。 「翔馬くんのそういう案外合理的なところ嫌いじゃない」 「……さっきは嫌いって言ってたのに?」 喧嘩中のぎこちない空気が無くなったわけではない。 でもそれでもよかった。 「…好きだよ」 さっきは私が言い過ぎだった。ごめんね。 「……ん」 俺も、ごめん。 棘のある言葉に必要以上に傷付いたのは彼女が言ったからで ムキになって怒ってしまったのも彼女だったから。 人間味のある俺を発見するのはいつも彼女といる時だ。 それがほんの少し、嬉しいとも思う。 「年上なのに大人気ないって思う、?」 神妙な顔で以前から感じていた不安を口にすると彼はけらけらと笑った。 「思わないよ」 そういうところを好きになったんだから。 「ほら」 「え」 「…入らないの」 「……入る」 「詩乃さんは傘を差すのが下手だから」 ちょっと照れくさげに微笑んで傘に入ってくる彼女の横顔を俺は見つめる。 少し充血した目を見て胸が軋んだ。 泣き虫な女。 感情はいつも剥き出しだし、 いつまで経っても珈琲は飲めない子供舌な彼女。 年上らしさなんて全然なくて。 性懲りも無く、俺はそれがずっと愛おしい。
共喰い
「消えろよ」 零れ落ちた言葉は願いよりも祈りに近かった。 「……ごめんな」 兄が、人を殺した。 飲酒運転だった。 引いたのは、まだランドセルを背負っているような男の子。 死なせたのではない。 紛れもなく兄は罪人であったのだ。逃れようもなく。 そして俺は犯罪者の弟だった。 人生とは分からないものだ。 仕事帰り突然掛かってきた母からの電話。 転がり落ちる原因が自分にあるとは限らない。 天啓のように降りてきた言葉は何処までも残酷だった。 「怖気づいたの」 消え入りそうな声でそう告げてくる彼女の顔は罪悪感で塗りつぶされていた。 「本当に、ごめんなさい」 赦して。 「…仕方がないよ、仕方がない」 彼女とは来月籍を入れる予定だった。 でも、しょうがないだろ。 彼女は悪くない。 悪くない。 でも良いよな。 お前は、他人だもんな。 あぁ、酒を飲みたい。 飲んで、 呑んで、 理性を飛ばして。 手当り次第踏みしだいて 俺は、俺を理由にして人生を壊してしまいたい。 もう何日も寝れてない頭が酷く痛んだ。 俺は吸いかけの煙草を吸殻に落として目頭を押さえる。 消えろと言った翌朝、兄は家を出て行った。 家族の誰もが、消息を探そうとはしなかった。 あの日、彼は何て言ってたか。 あぁ、そうだ。謝ったのだ、あの兄が。 馬鹿で、不器用で、乱暴で。 昔からどんなに自分が悪くても意地を張って謝ろうともしなかった兄ちゃんが。 砂色に染まった視界でも捉えられた兄の表情。 傷ついた顔はしなかった。 それが許されないことだと分かっているかのように。 兄は酒を飲むと調子に乗る人で。 機嫌が悪い時は舌打ちをする人で。 酒を飲んで運転をする人で。 でも雨が降った日には車で迎えに来てくれるような人だった。 俺が昔誕生日に送った安物の革ジャンをいつも着てくれた。 綺麗に畳まれたベッドの布団はまるで兄らしくない。 兄は、そんな人ではなかった。 友達であれば憐れめたのだろう。 知り合いであればせせら笑えただろう。 家族というものはほとほと他人にはなれないのだ。 俺はこれから先一生兄の罪に自分の生活を貪られるだろう。 自らの身体が兄の鋭い犬歯に食い破られていく様が頭を過ぎる。 頭蓋骨をむしゃぶられ、腸を引き裂かれる。 口から流れ落ちる赤黒い血。 血に染まる兄の顔は俺の顔だった。 だって俺の血は兄の血であり、兄の血は俺の血であるから。 地獄だ。 そして地獄の底で俺はこれからも兄を罵倒するだろう。 憎いよ。憎くないわけないだろ。 返せよ。俺の普通の生活。 返せよ。 返せよ。 でもさ兄ちゃん 死んでくれじゃない。 本当は一緒に死にたかったんだ。死んで生まれたかった。 明け方、兄ちゃんはあの着古した革ジャンを来て、少ない荷物をリュックに詰めてこの家を出て行ったのだろうか。 俺は、俺は、それでも俺は。 憎いよ、兄ちゃん。 なぁ、何でだよ。兄ちゃん。
先駆け
春が死んだ。 あの人がいないから。 腐敗した心ではどんな言葉も内側まで届かない。 「ハル」 「ん?」 名前を呼ぶと返ってくる声の声色の柔らかさが好き。 「何でもない」 「何だよ」 我儘な私に困ったような顔でそれでも手を差し伸べてくれる 優しすぎるところも好き。 休日の昼下がりにするうたた寝のような安らぎを彼からはいつも感じた。 「もうすぐ桜が咲くね」 咲いたらさ、花見に行こうか。 私の額に口付けをしてそんな約束を零す彼。 ねぇ、好きな人との約束は守らなきゃ。 ニュースが桜の開花予報で埋まる頃、 病死だった。 誰も気付かない間にたしかに彼を蝕んでいた腫瘍は一夜にして私の大事な人の命を奪いとった。 忘れていた。死の訪れはいつも静かなのだ。 視界の隅で薄紅色の花びらが零れる。 うららかな日差しで髪が透ける。 頬を撫でる風は暖かい。 嫌。そんなものは全て、認めない。 おぼつかない足元を心配してくれたあの人はもう居ない。 もう居ない。居ないのか。居ないなんて。 眠そうに垂れた目元も 笑う時に左眉がくしゃっと寄る可愛いところも 変な寝言ばかり言うところも 私を好きにさせておいて、貴方は私を置いていくの。 ハル はる 春。 私の春一番。 桜なんて要らない。 前線の先に貴方がいればそれでいい。 それで、よかった。 春なんて来ない。 だって私にとっての春はずっと貴方だけ。 桜よりも早く散らないでよ。