べっこう飴
56 件の小説骸の上で微睡む
「鬼になるのは女だけ」 静かな夜だった。 猫の爪のような月と僅かな星だけが瞬いていた。 「ご一緒しても?」 「どうぞ」 グレーの髪に青いピアスが良く似合う女性だった。 初夏とはいえど涼しいとは言えないテラス席でわざわざ酒を飲む人は珍しく、そんな物好きを相手にしようとは変わっている。 「何となくボトル買いしてしまったのだけど、 一人で飲むには多かったみたい」 テーブルの向かいに座った彼女から勧められるままに注がれた飴色の液体はどうやらウィスキーのようだ。 案の定傾けたグラスから広がる匂いは渋いのに仄かに甘い。 「寝不足のようね」 「夢見が悪くて」 コンシーラーで隠してもどうやら誤魔化せてなかったらしいそれを指摘されて私は曖昧な笑みを零す。 「それは、貴方の鞄の中にあるものと何か関係してるのかしら」 誰を殺しに行くの。 音になるか怪しいほどの小さな声が確かに私の鼓膜を揺らす。 何故だろう。驚きはしなかった。 刃渡り二十センチの包丁は白い布切れに包まれて鞄の奥底にある筈なのに。 「……止めますか」 あれ、でも私は。私は、止めてもらいたいのだろうか。 「貴方が、止めて欲しいと言うのなら」 彼女の静かな囁きと瞳の奥にある理知的な光。 美しくて、賢い人。 この人はどれだけ歳を重ねてもきっと綺麗なまま。 「……酔っ払いの戯言だと思って聞いてくれますか」 「あら奇遇ね。私も相当酔ってるの。だからきっと明日の朝には全て忘れてるわ」 茶目っ気のある言葉に僅かに心が軽くなる心地がした。 夜は長い。 ボトルに満ちたお酒はそう簡単には無くならないだろう。 グラスから流れ落ちる結露はまだ冷たかった。 「もうない愛の骸に縋っている間に気が付けば二十九歳になっていました。」 もう冷められていることなんて気づいていたけど。 でも、それでも。 結婚したいって、結婚するなら彼がいいって私は思っていた。 私の一回りも年下の女の子と彼が浮気していると知るまでは。 『もっと早く出会っていたら俺はりさちゃんと結婚したかったよ可愛いし』 震える手でロックを解除したスマホの中の言葉は何処までも残酷で。 私が喉から手が出る程求めていた言葉はこんなにも雑な形で消費されていた。 胸に広がるのは絶望と果てしないほどの憎悪。 まさか彼があんな若い女の子と。 馬鹿な女。もう少女でもないのに。 それでも夢を見ていた、物思いという亡骸の上で。 また貴方に愛してもらえる夢。 「……彼の隣で能天気に眠るあの女を殺す夢を毎晩見るんです」 最初はあの細い首を締める夢だった。 薔薇色の頬が青白くなっていくのを笑いながら見つめた。 ガソリンを撒いてマンションごと燃やしたこともあった。 赤い炎と甲高い叫び声を聞いた。 毎晩、毎晩あの女を殺した。 その度に穏やかに眠るあの二人の幸せそうな顔を見るの。 憎らしい。むかつく。……虚しい。寂しい。 朝も夕も 生も死も 愛も呪いも 全部分からないし、全部に疲れた。 だからもう、これで終わりにしよう。 あの女も、私も。 夢の中の彼の表情はいつも伺えない。 あの人の瞳の中にいた私という女がどんな顔をしていたのかなんて、もう思い出せなかった。 どれだけ頭にアルコールが回ってもさっき研いだ包丁の切れ味はよく覚えているというのに。 それがどうしようもなくやるせない。 「……それでも、貴方は責めないのね」 貴方をそこまで追い詰めたその男を。 私の髪をそっと撫でるその手に含まれているのは憐れみか、それとも共感か。 確かに私の殺意は矛盾している。 殺すべきはあの女ではなく彼であって、 そもそも理性では私がこれからすることの全てが間違っていることをよく分かっていた。 でもその正しさの中では私は眠れないの。 制御できない激情に苛まれて目が覚める明け方の薄闇に日が昇るのを私はもう見たくない。 何もない荒野でいい。 広大な大地でどうか私を眠らせて。 「馬鹿なもので」 結局口をついて出たのは自嘲気味な言葉だった。 「鬼になるのは女だけ」 生きながらにして、鬼になるのは。 甘く苦い言葉に惹かれて飴色の液体を傾けて緩く微笑む彼女の方を見遣る。 「嘆きわび空に乱るるわが魂を結びとどめよしたがへのつま」 紅く塗られた唇が紡ぐのは身を滅ぼす程苦しい嫉妬の歌。 「……六条御息所」 「知ってるの」 「学生時代に専門にしていました」 年下の美少年に狂わされた美しく気高い彼女は嫉妬に狂って結局生霊になり相手の女を殺してしまった。 「かつて彼女の心に巣食った鬼が私の中にもいるのでしょうか」 「そうね……」 ランプの光がゆらゆらと映る瞳を柔らかく細めて女性は呟く。 ボトルのウィスキーはきっともう無くなる。 「それでも愛している男を責められないのが 女の可愛いところよ。」 私の胸中を知ってか知らずかその言葉はいつまでも後を引いて私の心に残った。
目眩
「光って名前、似合うよな」 期末テストが終わった帰り道 俺と誠は、かき氷のシロップは本当に果物の味がするのか論争に決着を付けるべく、近所のファミレスに寄った。 イチゴ、メロン、レモン、ブルーハワイ 大量に並べたかき氷を目隠しをしてランダムに食べて当てるという馬鹿みたいな実験。 でも、楽しかった。 誠の視線の先にあるのは鮮やかな緑に染まったかき氷。 グラスの氷がカランと音を立てた。 そういえば、メロンは野菜と果物のどっちなのだろうか。脈絡もなくそんなことを考える。 「……?そりゃ光って名前だからな」 「まぁ、そうなんだけど違うくて。」 かき氷を見ていた誠の視線が上がる。 カラフルなかき氷を前にしても彼の瞳にある色が何なのか俺には予めなかった。 「やっぱ、なんでもないや。…目が眩んだだけ」 あ、居た。 空き教室の机でぼんやりと考え事をする彼の後ろ姿は途方にくれた幼子みたい。 落ち込む彼に掛ける上手い言葉はひとつも浮かばない私は何となく彼の座る席の後ろに腰掛けた。 「中村?」 夢から醒めたように振り返る彼の表情。仕草。声。 光くんは、本当に綺麗。 美しいものにどうしようもなく惹かれてしまうのが人間の性だけれど、 その世界の真理が彼を幸せにしているようには見えなかった。 頭のてっぺんから爪先まで彼はずっと寂しそう。 目を眩ませるような光の中では見て欲しいものはきっと何も見えないだろうから。 「……誠から何か聞いた?」 「……告白したって」 「あ、そ」 突き放すような相槌とは裏腹に彼の頬はやけに青白く不安に彩られているように思えた。 「告白ってか、危うく押し倒されかけたんだけどな」 「え?え!?」 幼馴染と光くんの間に起きたショッキングな内容に思わず言葉を失うと彼はくつくつ笑い声を立てる。 「嘘嘘。キスされそうになったからぶん殴ってやっただけ」 「それあんまり変わらなくない?」 合意無しでキスなんて駄目。 あ、そこなんだ。 そりゃあそうでしょ。 「絶交、したの」 「そうだな」 分かってる。そこに恋があると分かってしまったら、友情はもう成立しない。大事な友達であればあるほど、余計に。 分かってるけど 「そんな顔を中村がすることないだろ」 光くんが信頼を置いていた人がまた一人減っていく。 彼の周りにいる人間は焦がれて去っていくの繰り返しばかり。 「大丈夫だよ」 別に何も感じない。 感じないけど、ただ。 「誰も、見ないで欲しい」 呟いた言葉は誰かに聞かせる為のものではなかった。 「なぁ、俺を嫌な奴だと思うか」 心地の良い囁き声に含まれた罪悪感と少しの疲労。 誠にそういう目で見られてると分かった時、ぞっとした。 大事な友達なのに。 俺はあいつの親友なのに。 同性愛を認めるなんて簡単だと思ってたんだ。 その愛が向けられる相手に自分がなる可能性だなんて考えてもいなかった時は。 現実はそんな生易しいものじゃない。 受け入れてあげたい。 受け入れられない。 分かってやりたい。 理解らない。 誠はいつまで俺のことを親友だと思っていたんだろ。 そもそも友達だと思ってくれていたんだろうか。 一緒にかき氷を食べた日、あの日の言葉が蘇る。 誠の表情は笑っているようにも泣いているようにも怒っているようにも見えた。 あれは不器用な彼のSOSだったのかもしれない。 あの時、誠は何を考えていたんだろ。 俺は、何て言えばよかったんだろ。 どうしたら、まだ親友のままで、いられた? 「どうすることが正しかったのか、とか思ったりして。まぁ答えなんてないんだろうけどさ」 だけどやっぱ、俺はあいつと、誠と友達でいたかったよ。 分からないと思った。 私は教科書をなぞった多様性しかしらないから。 でも何となく思う。 誰も見ないで欲しい。 光くんの言った言葉を思う。 彼はもううんざりしているのではないだろうか。 男であるとか、女であるとか、そういう性別よりも前に 同性愛とか異性愛とかそういうものよりも前に 彼はもう抱えきれない重いものを向けられることに疲れてしまったのではないか。 だって、愛されることは幸せで 愛されることはしんどいのだ。 自嘲ぎみに微笑む彼の背後に入道雲の影が降りる。 あぁ、駄目だ。 光くんに見蕩れてしまう私では。 彼の隣で対等に会話してあげられない。 隣に座って、あげられない。 私の言葉は彼に届かない。 いっそ私の目が何も映さなければよかったのに。 そうすれば光の先の何かがきっと見えた筈なのに。 「誰も、光くんのことを責めることなんて許されない。」 誠が光くんに好意を寄せてしまったことを 誰も責めれないのと同じように。 それだけは確かだった。 「……ありがとな」 届いたのかな。届いてないかもね。 それでもいいよ。ただ、こうしよう。 私はこれからも消え入りそうな細い彼の友達の友達という場所に身を置き続けよう。 愛の代わりに馴れ馴れしさを 恋の代わりに居心地の良い他人を 今、彼が欲しいのはきっとそういうものなのだ。 あぁでもこれもまた、執着なのだろうか。
未確認
「やめときなよあんな人」 別に何人も女がいるような男なんか。 ジョッキを傾けて呆れたような声を響かせる友人の小指に光るピンキーリングが私の目を焼く。 半年前から付き合ってる彼とは上手くいってるらしく惚れ気も吐かない代わりに彼女は愚痴を吐くこともなかった。 いいな。 不安から来る苛立ちを誤魔化す為に私は再びグラスを仰ぐ。 マドラーでかき混ぜた苺のチューハイはいつもより苦い。 「その手の男は特定の女なんて作る気ないよ。女の子ならみんな好きだしきっと女の子なら誰でもいい」 むかつくよね。 その気がないなら優しくしないで欲しいよね、ほんとに。 ハイボール片手に過去にちょっかいを出してきたチャラ男でも思い出したのか彼女は眉を寄せながらそうまくし立てる。 私は空になった彼女のグラスを見つめながらぽつりと零した。 「彼女、出来たんだって」 「え?」 あいつの眼。 愛することも愛されることも諦めたような寂しい眼。 あいつが誰も愛せない欠陥のままで居てくれたらいいのに。 そしたら、少しはましな不幸なのに。 「あの人の特別はあの子だけ」 「…ほんとに彼女出来たの?」 無言は肯定だった。 私だって馬鹿じゃない。 私の他に女が沢山いることなんてちゃんと理解してた。 だけど、あいつに本命の女が出来るなんて。 悔しい。 最悪。 なんでよ。 どうせ上手くいくわけない。 どうせ別れるでしょ。 別れてよ。 『彼女のこと本気で好きなんだ。だからもう会えない』 私はあんたの気まぐれな会いたいに今まで馬鹿みたいに応えてきたのに。何それ。そんな言葉で私ともう一生会わないつもりなの。 氷で味が薄くなったお酒をいつまでも私はかき混ぜた。凍った苺がすり潰れていくのを眺めていたら涙が零れた。 私はまだあいつの何もかもを置いて行けそうにはないのに。 机に置いたままの空のカップラーメン。 投げ出された服が皺の寄ったままソファーに転がっていた。 重たい香水と汗が混じった匂い。 気を許されていたからじゃない。 気を遣うほど眼中になかっただけ。 「やっぱり会いに行きな。私も一緒に行く」 あのいけ好かない塩顔をぼこぼこにしなきゃ気が済まない。 血の気の多い友人の言葉に思わず笑いを零しながら強がりじゃない本心を呟く。 「もう会わないよ。」 「帰る」 「夜遅いし気を付けろよ」 駅から遠いあいつの家。 送ってもらったことはなかった。 私がどんなに理不尽なことで怒ったって、もう帰るって言ったって動揺したりなんかあいつはしない。 機嫌を損ねた私を見送る声はいつも優しくて気遣っているようにも聞こえたけれど そんなの、全然嬉しくない。 だってそれってあいつにとって私はそこまでの感情を向けるほどの存在じゃないってことでしょ。 分かってたよ、分かってた。 あいつはずっと私に優しくない。 「終電ギリギリじゃない?今日は私の家に泊まってから帰る?」 「ううん、大丈夫。ありがとう」 幸せそうな彼女にこれ以上気を遣わせてしまうのも申し訳ない。 居酒屋を出た後、キャッチの鬱陶しいネオン街を幾分かふらつく足取りで私は突き進む。 改札まで着いていくという友人の言葉も断った。 送ってくれなかったあいつと比べて辛いばっかだから。 幸い、程々にアルコールに強い私はこれくらいで家に帰れなくなることはない。 煙草の吸殻が転がるアスファルトを買ったばかりの五センチヒールで踏みつける。 道路脇に立ち並ぶゴミをアルコールで酔っぱらった瞳でぼんやりと見つめた。 結局、私は何がしたかったのだろうか。 馬鹿になりたかったの。 後先なんて考えないで自分のことを消費してみたかったの。 自分を大事にすることに疲れちゃったの。 いいや。そんな言い訳、私は使わない。 そんな投げやりな理由であいつに会いに行ったわけじゃない。 結局、あいつにとって私はカップラーメンを作る三分間で釣れるような女だった。少なくともあいつにとってはそうだった。 でも、私は好きだったよ。 あいつの即席の愛してるも可愛いも全部信じてたわけではないけれど、それでも嬉しかった。 髪を撫でる手が優しいの。 名前を呼ぶ声色が甘いの。 綺麗な銀色の指輪もくれたの。 ねぇ、なんで私が一番じゃないの。 あんたには、もう会わないよ。 その代わり幸せになって欲しいとも思わない。 ようやく見つけた特別なその子を愛することで地獄に落ちたくなる程の苦しみに苛まれたらいい。 何の約束も想いも込められれてやしない銀の指輪を駅前のゴミ箱に捨てながらそんなことを思う。 駅の構内の雑踏で 彼とあの子の後ろ姿を見た気がした。 でも多分それはきっと気の所為で。 気の所為なんだろうけど今まで見たことない程に優しい微笑みを浮かべた彼の横顔を眺める。 「やっぱ一発くらい殴ってもいいかな」
泡沫よりも遠い場所
「亡くなっています」 絶望はいつも足元に転がっている。 死んだ。あの子が、死んだ。 お医者様の言葉はどれも私の頭をすり抜けてしまって上手く咀嚼出来なかった。 不自然に震える肺に意識しながら呼吸を取り込む。 少し硬い椅子の感触も病院特有の消毒液の匂いも今は遠くて。 あの子がいないと知らされた私のお腹の中はあの子がいる前よりも空っぽな気がした。 「先生」 貴方の性別はまだ知らない。 貴方の名前もまだ付けれてない。 貴方の顔も、まだ知らない。 でも 「それでも私、愛していました。あの子のこと、愛おしいって」 生まれてもいない貴方のことを私は今こんなにも愛している。 誕生したばかりだから、まだお腹の中にいるから、 そう思って口にしなかった言葉。 もっと早く言えばよかった。 あの子が死ぬ前に。あの子が居なくなってしまう前に、もっと伝えておけばよかった。 「伝わっていたと、思いますよ」 深々とお辞儀をする看護師さんを背にして私は病院を出た。 春の日差しの暖かさですら今の私には痛かった。 あの子が泣くことのない世界で産声を聞いた。 あの子が歩かない道に野花が咲いた。 あの子が笑うことのない世界に虹がかかる。 火傷のようにじわじわと爛れ落ちていく視界に それでも映り込んでくる美しいこの世界の全てが 余りにも、痛いから。辛いから だからどうか 笑わないで。 泣かないで。 歩かないで。 呼吸、しないで。 どうかあの子の為に世界よ、滅んでください。 「いつも、分からなくて」 お子さんを亡くしたお母様になんて声を掛けたらいいのか。 医療従事者として仕事をするようになって数年。 脳が理解を阻んでいるかのような表情を見せた後に瞳がベールのように絶望で包まれるあの瞬間を何度も見てきた。 あの瞬間に何らかの言葉を掛けることに意味はあるのか。 そもそもそこに正解なんてないことは分かっていて、 分かっているんだけど、それでも。 それでも。 「これから一生その葛藤を抱えて生きていこうと、今そう思いました。」 「…そうですね。結局それしかないんでしょうね」
四月の雨
「聞こえない」 雨が降っていた。 私は窓辺から流れ落ちる水滴をぼんやりと見つめる。 イヤフォンから流れるはずだったお気に入りの曲は透明のまま再生されている。どうやら充電が切れているせいだと気付いたのは暫くしてからだった。 喧嘩した。 理由なんて昨日の夕ご飯が何だったかくらい定かではないけれど 珍しくしっかり怒った彼が家を飛び出してからもうすぐ一時間が経ってしまう。 何となく、彼が今何処にいるかは分かっていた。 迎えに行った方がいいことも。 でも嫌。 私だって怒ってる。 私は別に悪くない。 元はと言えば彼が機嫌悪かったのが悪い。 だからちょっと言い過ぎただけだし。 ……あんな怒らなくてもいいのに。 ソファーで寝心地の良い姿勢を探そうとしたけれど一向に定まる気配がない。 だってあの人の腕がないからよく寝れない。 スマホでネットショッピングも全然捗らない。 見せた服の写真に可愛いって言ってくれる人がいないから。 つまんない。 時計の針が刻む音。 冷蔵庫の音。 ブランケットが擦れる音。 一人暮らしの部屋は静かだ。 だから別にこんな不在の音は聞き慣れている。 でも、喧嘩しなかったら今の時間に聞くはずのなかった独りの音はやけに寂しかった。 瞬きの隙間からぽろぽろ涙が溢れてきて私は顔を顰めた。 ねぇ、なんで帰ってこないの。 もう分かってるから。 私も悪かったって分かってるから。 「詩乃さんは傘を差すのが下手だな」 彼が私と相合傘をしようとする時にいつも言ってくる不器用で可愛い言い訳。 私を傘に入れたら肩が濡れるだろうに、この方が詩乃さんの声が聞き取りやすいと笑っていた。 翔馬くん、怒って出て行ったし傘ちゃんと持って行ったかな。 雨足はどんどん強まっている。 今日は春にしては冷える。 寒くないかな。彼の低い体温を思い出す。 気が付いたらスマホと家の鍵を握り締めていた。 迎えに、行こ。 扉を閉じた時、彼女の顔を少し見た。 その表情に怒りと共に僅かな寂しさが含まれているのを確認して少し安堵した俺はきっと狡い。 彼は私の顔を見て僅かに目を見開いた。 少しきまり悪げな表情に見えた。 「翔馬くん、傘…持ってたんだね」 「まぁ、結構降ってたし」 逆になんで後から来たのにそんな濡れてるんですか。 呆れ返った表情でぽたぽた水滴が溢れ落ちる私の髪に彼が触れる。 付き合って一年。 敬語は辞めてって私が言ってからは話さなくなったけれど、ふとした時に戻るこの敬語が私は結構気に入っていた。 「翔馬くんのそういう案外合理的なところ嫌いじゃない」 「……さっきは嫌いって言ってたのに?」 喧嘩中のぎこちない空気が無くなったわけではない。 でもそれでもよかった。 「…好きだよ」 さっきは私が言い過ぎだった。ごめんね。 「……ん」 俺も、ごめん。 棘のある言葉に必要以上に傷付いたのは彼女が言ったからで ムキになって怒ってしまったのも彼女だったから。 人間味のある俺を発見するのはいつも彼女といる時だ。 それがほんの少し、嬉しいとも思う。 「年上なのに大人気ないって思う、?」 神妙な顔で以前から感じていた不安を口にすると彼はけらけらと笑った。 「思わないよ」 そういうところを好きになったんだから。 「ほら」 「え」 「…入らないの」 「……入る」 「詩乃さんは傘を差すのが下手だから」 ちょっと照れくさげに微笑んで傘に入ってくる彼女の横顔を俺は見つめる。 少し充血した目を見て胸が軋んだ。 泣き虫な女。 感情はいつも剥き出しだし、 いつまで経っても珈琲は飲めない子供舌な彼女。 年上らしさなんて全然なくて。 性懲りも無く、俺はそれがずっと愛おしい。
共喰い
「消えろよ」 零れ落ちた言葉は願いよりも祈りに近かった。 「……ごめんな」 兄が、人を殺した。 飲酒運転だった。 引いたのは、まだランドセルを背負っているような男の子。 死なせたのではない。 紛れもなく兄は罪人であったのだ。逃れようもなく。 そして俺は犯罪者の弟だった。 人生とは分からないものだ。 仕事帰り突然掛かってきた母からの電話。 転がり落ちる原因が自分にあるとは限らない。 天啓のように降りてきた言葉は何処までも残酷だった。 「怖気づいたの」 消え入りそうな声でそう告げてくる彼女の顔は罪悪感で塗りつぶされていた。 「本当に、ごめんなさい」 赦して。 「…仕方がないよ、仕方がない」 彼女とは来月籍を入れる予定だった。 でも、しょうがないだろ。 彼女は悪くない。 悪くない。 でも良いよな。 お前は、他人だもんな。 あぁ、酒を飲みたい。 飲んで、 呑んで、 理性を飛ばして。 手当り次第踏みしだいて 俺は、俺を理由にして人生を壊してしまいたい。 もう何日も寝れてない頭が酷く痛んだ。 俺は吸いかけの煙草を吸殻に落として目頭を押さえる。 消えろと言った翌朝、兄は家を出て行った。 家族の誰もが、消息を探そうとはしなかった。 あの日、彼は何て言ってたか。 あぁ、そうだ。謝ったのだ、あの兄が。 馬鹿で、不器用で、乱暴で。 昔からどんなに自分が悪くても意地を張って謝ろうともしなかった兄ちゃんが。 砂色に染まった視界でも捉えられた兄の表情。 傷ついた顔はしなかった。 それが許されないことだと分かっているかのように。 兄は酒を飲むと調子に乗る人で。 機嫌が悪い時は舌打ちをする人で。 酒を飲んで運転をする人で。 でも雨が降った日には車で迎えに来てくれるような人だった。 俺が昔誕生日に送った安物の革ジャンをいつも着てくれた。 綺麗に畳まれたベッドの布団はまるで兄らしくない。 兄は、そんな人ではなかった。 友達であれば憐れめたのだろう。 知り合いであればせせら笑えただろう。 家族というものはほとほと他人にはなれないのだ。 俺はこれから先一生兄の罪に自分の生活を貪られるだろう。 自らの身体が兄の鋭い犬歯に食い破られていく様が頭を過ぎる。 頭蓋骨をむしゃぶられ、腸を引き裂かれる。 口から流れ落ちる赤黒い血。 血に染まる兄の顔は俺の顔だった。 だって俺の血は兄の血であり、兄の血は俺の血であるから。 地獄だ。 そして地獄の底で俺はこれからも兄を罵倒するだろう。 憎いよ。憎くないわけないだろ。 返せよ。俺の普通の生活。 返せよ。 返せよ。 でもさ兄ちゃん 死んでくれじゃない。 本当は一緒に死にたかったんだ。死んで生まれたかった。 明け方、兄ちゃんはあの着古した革ジャンを来て、少ない荷物をリュックに詰めてこの家を出て行ったのだろうか。 俺は、俺は、それでも俺は。 憎いよ、兄ちゃん。 なぁ、何でだよ。兄ちゃん。
先駆け
春が死んだ。 あの人がいないから。 腐敗した心ではどんな言葉も内側まで届かない。 「ハル」 「ん?」 名前を呼ぶと返ってくる声の声色の柔らかさが好き。 「何でもない」 「何だよ」 我儘な私に困ったような顔でそれでも手を差し伸べてくれる 優しすぎるところも好き。 休日の昼下がりにするうたた寝のような安らぎを彼からはいつも感じた。 「もうすぐ桜が咲くね」 咲いたらさ、花見に行こうか。 私の額に口付けをしてそんな約束を零す彼。 ねぇ、好きな人との約束は守らなきゃ。 ニュースが桜の開花予報で埋まる頃、 病死だった。 誰も気付かない間にたしかに彼を蝕んでいた腫瘍は一夜にして私の大事な人の命を奪いとった。 忘れていた。死の訪れはいつも静かなのだ。 視界の隅で薄紅色の花びらが零れる。 うららかな日差しで髪が透ける。 頬を撫でる風は暖かい。 嫌。そんなものは全て、認めない。 おぼつかない足元を心配してくれたあの人はもう居ない。 もう居ない。居ないのか。居ないなんて。 眠そうに垂れた目元も 笑う時に左眉がくしゃっと寄る可愛いところも 変な寝言ばかり言うところも 私を好きにさせておいて、貴方は私を置いていくの。 ハル はる 春。 私の春一番。 桜なんて要らない。 前線の先に貴方がいればそれでいい。 それで、よかった。 春なんて来ない。 だって私にとっての春はずっと貴方だけ。 桜よりも早く散らないでよ。
紅茶に砂糖は入れないで
「久しぶり」 懐かしい声だった。 あの頃と変わらないアールグレイの香水に胸が揺れる。 三年前に別れた彼女はニューヨークに渡り、世界的に注目されるような画家になっていた。 いつのまにか遠い存在になっていた彼女のインスタを見つめて静かにフォローを外したのも随分前のことだ。 巻かれた黄色いマフラーが柔らかな光を纏う。 彼女はミモザの花が好きだった。 「なんで」 今日は彼女は来ないはず。 「個展最終日は私は不在って公式ホームページに書いたのは嘘」 悪戯な目を細めて彼女は首を傾げる。 私がいなかったら貴方は来ると思ってたから。 緩やかに弧を描いた唇が僅かに震えるのを見る。 「迎えに来たの」 私と一緒にニューヨークに来て。 「ふふっ懐かしい。圭くんのその機嫌の悪い時の顔」 「当たり前だろ」 俺の眉間によった皺を撫でる手はたしかに彼女のもので。 「…今更だ」 あの日捨てた恋心をもう一度拾う気はなかった。 それに彼女が画家として三年間活躍していた中で俺も何も変わらなかったわけではない。 ずっと入りたかった会社に就職して、こつこつ積み上げてきたキャリア。あと二年も働けば昇進の話も出て来るだろう。 そういうものを全て脱ぎ捨てないと日本は出れない。 「全部捨てて着いてこいって?」 「そうよ」 「あんたは、あの日俺よりも絵をとったのに?」 「そうね、でも」 私が愛する人は生涯貴方だけ。 彼女の柔らかな言葉が心臓をなぞる。 「ねぇ」 初雪が降った次の日の朝だったと思う。 天井が水面のような硝子で覆われた美術館を二人で歩いた。 空調が効いてないのか随分寒くて、館内にいるはずなのに息が白くなっているかのように見えた。 「圭くんには、もう会わない」 絵画の勉強の為に留学すると言う彼女を俺は本気で待つつもりでいた。 帰ってくるまでに会社で地位を築いて、貯金もして、それで、プロポーズして。 「なん…で」 「帰ってくるか分からないから」 海を渡るなら中途半端なことはしたくない。 「本気で自分の絵に人生を掛けたい」 真っ直ぐな眼。 眩しくて、直視するのも憚られるような、鮮烈な魅力。 俺が彼女に惚れたきっかけ。 でも今はそれが苦しくて堪らない。 あんたのその眼に俺が映っていないことが、 嫌でも伝わってくるから。 どれだけ焦がれたって、太陽は独り占め出来ない。 分かってる。 それでも俺はなりたかった、唯一に。 選んで、欲しかった。俺を。 でも違うんだろ。 違うから、捨てたんじゃないの。あの日に俺を。 「なんで、俺なの」 んー、だってね 「砂糖の入っていない紅茶が飲みたくなったの」 ストレートティーは付き合っている時に彼女のためによく入れたお茶だった。 甘党な彼女が甘いものと一緒に何杯も砂糖の入れた紅茶を飲んでいるのを心配したのが初めだった気がする。 「そんなの、自分で作れば」 「自分で作ったらどうしても砂糖入れちゃうの」 相変わらずよく分からないことを言い出す女だ。 よく分からないって思ってる癖に可愛いな、なんて思ってる俺もいることに、自分でも呆れている。 「あの日の選択を間違ってたとは正直思ってない」 でも、後悔してる。 貴方のこと忘れた日なんて一日もないよ。 「でも、やっぱり遅かったのかな」 私のことなんか、もう忘れてたよね。 困らせたよね。ごめん。 眉を下げて後悔で塗り潰されたような顔で笑顔を作ろうとする彼女に腹が立った。 勝手に決めつけんなよ。 久々に抱き締めた彼女の身体はあの頃より更に小さくなっているような気がした。 「そんなわけ、ないだろ」 何ひとつ、忘れられなかった。 忘れたかったのに。 忘れられたら、楽だったろうに。 グレーのコートの後ろ姿も アールグレイの香水も よく履いていた華奢なハイヒールの音も あの美術館での寂しそうな眼も 「俺をいつも困らせるのがあんただろ、でもそういうところが好きなんだよ。訳わかんないだろ。でも、しょうがないんだよ。」 どうしようもなく、好きだから。 だからこそ。だからこそなんだよ。 「俺、もう無理だよ。一回目は諦められたけど二回目は無理だと思う、絶対離れてなんかやらない」 だから俺のこと、もう捨てないで。 震える俺の唇が次の言葉を紡ぐ前に塞がれるのを感じた。 「捨てるわけないよ。あの時は大事だったから逆に、連れて行けなかったの」 頬をつたう濡れた感触にあぁ、俺は泣いてるのかと気が付く。 俺の髪を撫でる懐かしい感触に簡単に絆されそうになっている自分が少し悔しい。 「ごめんね。私は泣かせてばっかだね。圭くんのこと」 「…ほんとにな」 あんたといると俺はいつも格好がつかない。 「これからも泣かせるかもしれないけど、絶対圭くんのこと幸せにするから私に着いてきて欲しい」 負けた。 目を眩ませるほどの彼女の強い視線に自分が映っていると感じた時何故だかふいにそう思わずにはいられなかった。 それは不思議と清々しい敗北感だった。 「わかったよ」 紅茶なんていつでも入れてやる。 だからあんたも、責任取れよ。 一人の男の人生を狂わせた女として。
余白
肌を刺す冷たい空気。 マフラーをそろそろ探さなきゃいけない。 今年の秋は随分早上がりみたいだから 白色、白色…あ、そっか。 スマホをスライドする手を止める。 もうその色である必要はないことに気づいて。 「白色がいいよ」 優香は白が似合う。 くしゃっと頭を撫ぜてそう笑っていたあの人の顔がよぎって少し顔を顰める。 恋人と長続きしない私はあの人との記憶は冬しかなかった。 それは結構最悪なことで、思い出が分散しないから冬になると絶対に思い出してしまうってことだ。 喧嘩する時絶対に譲ろうとしないのがあの人の悪い癖。まさか去り際まで往生際が悪いとは。 意地っ張りで寂しがり屋の私も悪かったって、 今なら少しだけ、分かるけどね。 「赤がいいなぁ」 残念だったね祐介くん。 私って何色でも似合う女なの。 今年買った秋服を無駄にしたくなくて強がりで着た茶色のブラウスはやっぱり寒かったらしく自然と肩が震える。 見上げた空はもう完全に冬の色。 後悔があったとしても私はその時その時最善の選択をしてきたってことにする主義だ。 だって魔法のポケットを持つ青いロボットには出会えなかったから。 焼き上がるまであと5分を知らせるストップウォッチの音に私は顔を上げた。 甘い匂いが広がる部屋に自然と頬が緩む。 クッキーを焼くのは別に初めてじゃない。 でも、自分の為だけに焼くのは初めて。 私は甘い方が好きだからチョコチップも入れよう。 バターは多めの方がいい。 それは何だか背徳感のようなものを私に抱かせた。 勿論、好きな人や大事な友達のためにお菓子を作る楽しさも知っている。 あの子は甘過ぎるのは駄目だから、砂糖は少し少なめにして、とか。ココアパウダーを使って焼いたら喜ぶかも。そんなことを考えて作る幸せもたしかにきっとあって。 だけど、こういうのもたまにはいいね。 綺麗なに焼きあがった猫型クッキーの写真をインスタに載せようとしてやっぱり辞める。 誰に共有しなくても、今この瞬間の幸せは私のものなのだ。 最近編み物にはまったという友達からもらった手作りふわふわブランケットはあったかい。 出来上がったまだ熱いクッキーを食べながら私は先程送られてきたラインのメッセージについて考えていた。 「前から一度ちゃんと話したいと思っていて、一度ご飯に行きたいと思っていたんだよね」 同期の彼からのご飯のお誘い。 嫌だとまでは思わなかった。 彼は明るくて話しやすいし、頼りになるところもある人だ。別に嫌いじゃない。 だけど、後輩と一緒にした案件の仕事でも自分だけでなし得たかのように話すところがあった。 少しの迷い。 別に1回くらいご飯に行ってから考えても遅くないかも。私の知らない側面は勿論あるだろうし。 でもなぁ。 『ごめんね、今月はちょっと忙しいから厳しいかも。また今度同期の皆でご飯行こ』 察しの悪い人ではない。この言葉の意図はきっと読んでくれるだろう。 次に会った時、何もなかったかのようにように普通に話しかけてくるところは簡単に想像できた。 どうして断ったんだろ。 自分でも不思議だった。 今までの私だったらきっとこのデートの誘いに乗っていた。 だって悪い人では無さそうだったし。 紅茶の湯気が睫毛にかかるのを感じながら私は少し首を傾げる。 口に含んだクッキーがサクッと解けて溶ける。 あぁそっか。 誰でもいいから、私のことを愛して欲しい。 前まではずっとそう思ってた。 永遠を勘違いさせてくれる一瞬の熱を渇望していたし、愛されたくて必死で、何を貰っても寂しくて堪らなかった。 その気持ちが完全に無くなったなんて、そんなわけはないけど。 だけど。それだけでは、きっともうないのだ。 私が誰かを愛したい。 ありのままの自分を見つけて欲しい。 私のことだけをずっと見てて欲しい。 そんな気持ちよりも今は ありのままの誰かを見つけて、その誰かを好きだと思えるようになりたい。 そういう自分を、見つけたい。 そう。上手く言えないけど、なんか、今はそんな感じ。 彼氏はいない。 好きな人もいない。 でもこの清々しさは、なんだろう。 別にもう恋なんてしないなんて、意地を張るつもりもなければ 早く次の恋を見つけなきゃと焦る訳でもない。 何かを手にしたわけでなくても、人は満たされるのだ。 たかだか市販の紅茶一杯と自分で焼いたクッキーだけで。 それが何だかとても面白くて、ブランケットに包まり直した私はくすくす笑いを零した。 「恋は涙と溜息で出来ている」シェイクスピアの言葉。 この言葉に一つ足すものがあるとすればそれは期待だろう。 いつかはまたそれを手にする時が来るかもしれない。 でもそれはきっと、今じゃない。 なんて何の面白みもない、傍から見れば退屈で刺激のないように見える日常を 決して主人公にはなれない毎日を それでも私は愛している。 「今までどうやって生活してたっけって考えるんだよね」 一昨日恋人と別れたという友達の嘆きにはたとえ何があったとしても全てに耳を傾けて全肯定が鉄則というもので。 「ねぇ優香ちゃんと聞いてるー?」 「うん勿論。この限定チョコレートラテめっちゃ美味しそう」 まぁ例外というものは何にでもある。 頬を引っ張られることで強制的に話に引き戻された私はこの可哀想な女の子を慰めなきゃならないらしい。 「生活も何も、朝起きて大学行ってバイトしてスマホ見て寝ればいいだけじゃんか」 世の中の大学生のほとんどはこの生活なんだから是非とも贅沢言わずにSNSで時間を溶かしてもらいたい。 「分かってるんよ、分かってる」 でも、私本当に何にもないの。 自嘲気味な笑顔には見覚えがあった。 あの冬、あの日の私もきっとこんな顔をしていたのではないかと思って。 いつもより濃い化粧で誤魔化された少し腫れた目は気付かないふりをしよう。 プライドが高くて泣き虫な彼女はきっと触れてほしくないと思うから。 「…真奈美もチョコレートラテ飲むでしょ」 生クリーム盛り盛り、チョコチップとマシュマロ追加で。 舌が溶けそうなくらい甘いものが好きだったもんね、最近見てなかったけど。 もう、ブラックコーヒーなんか飲まなくていいんだからさ。 四年の年の差を埋める必要も、ないしね。 「……チョコソースも追加して」 「聞くだけで胃もたれする組み合わせだな」 きっと、干渉と不干渉の間に友情がある。 「手芸屋さんで赤い毛糸買わないと」
化けもの
あ、また間違えた。 去っていく後ろ姿を見るまで私はいつも気づくことが出来ない。 今度は、何がだめだったんだろ。 何度目か分からない離別で、それでもわかっているのは心当たりがない自分こそに問題があるということだけだった。 アスペルガーであることを知ったのは中学一年生の時だった。 「みーちゃんといるとしんどい」 「人の心ない」 「なんで空気読めないの」 「大っ嫌い」 誰とも目が合わなくなって初めて悪者は自分であることに気付いた。私は、人間として不完全だったのだ。 小さな頃から何をやっても人並み以上に良く出来た。 教科書を読めばテストで分からない問題はなかった。 一度聞けば同じ曲を再現出来たし、絵を描くのも得意。 体育で特定の競技に苦戦するということもない。 それなのに 人の心というものだけはいつまでたってもよく分からない。 分からないないなら完璧に模倣しようとした。 理解は出来ずとも、人間に極めて近い何かになれば弾き出されずに済むと思ったから。 私だけの人間関係の教科書を作ればいい。 相手の容姿について触れてはいけない。 関係性が深まっていないのに相手の家庭について詳しく聞くのもだめ。プライベートな問題だから。 相手が出来ないことに理由を求めようとしてはいけない。 相手の話を聞く時は相槌を打つ。時々質問も挟む。 書く項目は増える一方だった。 幸い、頭は良いので一度書けばその内容は覚えていられた。 でも、どれだけ精巧な人間に化けることが出来た狐もふとした瞬間に尻尾を出してしまうように 私が時々間違えてしまう距離感も、言ってはいけない場面で発してしまった余計な言葉もたしかに周りの人を遠ざけた。 私に答え合わせをさせて。 私にやり直しをさせて。 ごめん、ごめんなさい。 ねぇ、やっぱり、生きづらいね。 「やっぱり、分からない、上手くいかない。私なりに、頑張ってみたつもりだったけど、やっぱり駄目だった。」 どうしていつも、こうなっちゃうんだろ。 彼女の呟く言葉ひとつひとつを今だけは、拾ってあげたいと思った。滅多に弱音を吐かない子だったから。 剥き出しの傷口から血はとめどなく流れているはずなのに、それさえ当然のことであると受け入れるような女の子。 気付かない傷に絆創膏も包帯も巻けない。 穏やかな口調で語る言葉が鋭利な刃物のように また彼女を削っていってしまうような気さえした。 「本質って、そう簡単には変わらないみたい」 爪弾きにされない存在になりたかった。 気配りの出来る子というものになりたかった。 でも駄目だね。 「化け物は、化けもののまま」 ひび割れた笑い声は泣き声とよく似ていた。 「それは違う」 「翔?」 美莉亜が心の機微を読み取るのが苦手だからといって自分の心がないわけじゃないだろ。 誰かが自分の元を去ったら誰だって悲しい。全てが自分に非があると思って背負っていたら、余計に。 「相手を傷付けた時に傷付くような人が人間じゃないなんて僕は思わない」 夜中に彼女がノートにその日の反省と対策を書き込んでいるのを僕は知ってる。 その教科書みたいに整った文字でぎっしり敷き詰めて どうしたらもっと上手なコミュニケーションを築けるのか、 どうしたら大事だと思った人を傷つけないでいられるか、 十五の夏から書き始めたという彼女の心ノートはもう九冊目にものぼっていた。 あの子の周りが一人一人と去っていく度に彫刻刀で削られていくようにして小さな背中がまた縮んでいってしまっているような気がした。 哀れみなのかと聞かれたことがある。 あの子の隣にいるのは可哀想だからかと。 アスペルガーでなくても人は人を傷付けうる生き物なのだ。 全然違うよ、本当に違う。 僕はただ、あの子が好きなだけだ。 それでももうそんなに頑張らなくていいとは俺は言えない。 一生傍にいる覚悟を決めたからこそ、そんなことは言えない。 それは狡さになってしまうのだろうか。 それでも、そうだとしても。 「僕にとっては一生懸命なところが可愛くて大切な女の子だよ」 化けものなんかじゃない。 僕の好きな女の子だ。 今言えることはそれだけ。