べっこう飴
37 件の小説寝なくていいよ
誰かに当たる人間がいるということは、当たられる人間がいる。 そして自分は間違いなく後者の側であることは 幼い頃から嫌でも気がついていた。 鈍くぼんやりとした頭を抑えて布団に横たわる。 ヘラヘラ笑う自分が嫌いだった。 すみませんと謝る時にちょっと高くなる自分の声が惨めだった。 奥歯に走る鈍い痛み。 悲しみじゃなくて、怒りを感じれる側だったら。 傷つけられる側じゃなくて、傷つける側だったら。 搾取される側じゃなくて搾取する側であったなら。 そしたら何かが変わったのだろうか。 寝返りを打っても眠れなかった。 よく眠れるように新しくふかふかマットレスに変えたばかりなんだけどなぁ。 どうしてかな。 なんだかとても、泣きたくなって。 ちょっとだけ、しんどくて。 「小さい頃の夢って誰しもあるでしょ」 ふいに思い出したのは一昨日久々に会った高校時代の友人とした馬鹿みたいなくだらない話。 「私幼稚園の先生だったなぁ」 「叶えてんじゃん」 「まぁね」 夢を叶えた誇らしい気持ちと夢ばかり語ってはいられない現実に思いを巡らせるながら頷いた。 「私さぁ、権力者だったんだよね」 「なんて?」 相変わらず突拍子もない私の友人の言葉に笑いが止まらない。権力を手に入れたい幼稚園児嫌すぎる。 「ふふっ、叶ったの、夢は」 「叶うか!」 やけくそ気味に頬張るパンケーキがみるみるうちに消えていくのを見つめているとオレンジジュースを一口飲んだ彼女が緩く微笑んだ。 「全てを奪えば何も奪われないで済むって、思ってたんだよね」 だけど、なれなくてよかったんだよ。 「きっとそれって寂しいと思う」 奪えば満たされるわけではなくて、 傷つければ傷つけられないわけでもない。 何も失わないで生きていくことなど、出来ないのだと言うのなら 私達は何を捨てるのではなく、何を残さなくてはならないかを考えていかなくてはならない。 メープルシロップの香りがした。 甘くて、ふわふわとした子供の夢みたいな味。 「だから働く下々の者に甘んじていると?」 「そーそー、ポテンシャルはあったんだよ残念」 軽口を叩き合いながら私はえも言えぬ感情を噛み締めた。 「大人になっちゃったんだね」 あの頃と何も変わってないと思うと同時に 全てを望めたあの頃にはもう戻れないということを否応もなく私は感じていた。 「今からでも目指す?」 「それもいいかも」 残念ながら大人になってしまった私達ではあるがそのおかげで愉快な仲間を手に入れることが出来たわけで。 私は起き上がると一度消したライトのスイッチを再び入れた。 今の私に必要なのは高級マットレスじゃなくて馬鹿みたいな話に付き合ってくれる誰かだ。 開いたスマホのLINEにピン留めされた友人のトーク画面を開く。 『もう寝たー?』 『寝たけど何ー?今からラーメン食べるところなんだけど』 零れた笑いを拾ってくれそうな相手はラッキーなことに起きていたようだ。 どうやら私は不器用なりに大事なものまでうっかり捨てないでいられているらしい。 冷蔵庫に買いためてあるビールと安売りしてたチーズがあったはず。 『ちょっと色々愚痴りたいから電話させて』 『わー、全然魅力的じゃないお誘いー』 『かけるね』 『無視かよ』 私は舐められやすいし、当たられやすいかもしれないが人望と信用はそれなりに得ているのだ。 眠れない夜に電話を掛けられる相手がいる。 きっとそれは権力者になるよりも幸せなことなんだろう。
白い悪意
「知らなかったの」 ふっくらした頬にぼたぼた涙を零す妹。 彼女の小さな足の横に転がった白い塊。 引き裂かれたレースのカーテンが垂さがる部屋には異様な空気が満ちていた。 「だって、こんな、簡単に…」 死ぬなんて。 足元に転がっていたのは猫の死体だった。 「お兄ちゃん、お兄ちゃん」 たすけて。 まぁるい目だった。 ビー玉のように透き通った。 無垢で、綺麗で、何も分かっちゃいない。 まだ五歳だ。 子供だ。 その日は嫌に静かな朝で 両親はどちらも出張で家を空けていた。 歩いて十分もすれば小さな公園がある。 俺たちは一昨日砂場で遊んだスコップで既に冷たくなった死体を埋めた。気休め程度の花を添えて。 可愛い可愛い妹。 この子にひとつの罪も与えたくなかった。 「ゆり」 猫は窓から逃げちゃったんだ。 「お前は、悪くないよ」 でもそれは間違いだった。 認められなかった罪に罰は与えられない。 なかったことにも、ならない。 俺が壊してしまった。 欠落して、時間が経てばそれはもう直らないのに。 「どこが好きだったの」 針よりも細い銀の雨に突き刺されて、 土の匂いを強く感じた。 「一緒に真夜中にオレンジジュースを飲んでくれるところ」 動かしていた手を止めてゆりは顔に貼り付く雨粒を拭う。 供えられた菊の花からぽたぽたと水滴が零れ落ちた。 健吾さんは雨男だった。 だから、もしかしたら逢いに来たのかもしれない、奥さんに会うために。 「私お酒弱くて、一緒に飲んであげることも出来ないのにね、彼にその話したら美味しそうなおつまみをたくさん買って、ジュースで乾杯しよう。って言ってくれたの」 透明なグラスに、氷を浮かべてオレンジジュースを注ぐ様子を俺は思い浮かべた。 「優しかったんだな、健吾さん」 「うん」 車も通らないような真夜中に二人はグラスを付き合わせたのだろうか。 それはなんて穏やかで、 なんてあたたかな。 「お兄ちゃん」 不安定な声が俺を呼ぶ。 「健吾さん、帰ってこないの」 毎日、毎日ね、探したんだよ。 私ね、気をつけてねって言ったのに。 いつものように仕事に出かけただけなのに。 今日の夕ご飯は健吾さんの好きなハンバーグだって、私言ったんだよ。 どこかで、迷子になってるのかも。 電話もLINEもね、繋がんないの。 警察も捜査、打ち切りするって。 なんで。 なんで? まだ、あの人は帰ってきてないのに。 「明日から気温もっと寒くなるんだって、健吾さん寒い思いするかもしれない。心配なの」 ボロボロ零れ落ちるゆりの涙は雨と見分けがつかない。 俺にはゆりの健吾さんへの愛は本物に見えた。 見えたけれど、 「ゆり」 焦点の定まらない、北も南も分からないこの森の中。 彼女の目はやはり綺麗だった。 五歳の頃と何も変わらず。 「健吾さん、」 埋まってるんだろ、この森の何処かに。 雨が、ずっと降っている。 ずっと俺たちを外から阻むように、降っている。 矛盾だらけの世の中だ。 そんなことはとうの昔に分かっていて、 分かっていても、ゆりと健吾さんの結婚生活があまりにも綺麗に見えたから、 だからどうしてこうなったのか分からなかった。 何も分からない。 なぁゆり……怒れよ。嘘だって、言えよ。 「お兄ちゃん」 綺麗に赤く塗られた唇がぱっくり割れる。 「ゆりはわるくないの」 だって健吾さん他の女の子とキスとかするから。 直してあげなきゃって思って。 「思っていたよりも人間って脆いのね」 「たすけてくれるよね」 じっとりした汗が背を伝う。 あの日見ないふりをした罪が俺を睨みつけている。 因には果を。 罪には罰を。 ああ、俺は。 俺が、 これが俺の罪か。
通り雨
「ごめん」 顔の横に突かれた彼の腕が震える。 はらはらと私の頬に零れ落ちた涙は彼のものだった。 背中に感じる生えたばかりの芝生がちくちく痛い。 後ろに広がる青い空は何処までも続いていて、私の気持ちを受け止めるにはあまりにも底がなかった。 彼の瞳から流れる涙は綺麗だった。 人の涙を綺麗だなんて思ったのは、初めてだったから。 だから、ね。 ねぇ凛くん。 終わりなんだね、私たち。 「綺麗になったね、麻衣さん」 震える凛くんの手が私の頬をなぞる。 そこに愛情がないなんて、私は思わない。 ただ、 「麻衣さん、俺と、別れて欲しい」 そこに恋がなかっただけ。 「…うん、凛くん」 別れよう。 一度ボロボロになった私の心をひとつひとつ拾いあげてくれたのは彼だった。 特別な言葉をかけられたわけじゃない。 特別なことをしてもらったわけでもない。 それでも彼の小さな気遣いが、彼の思いやりが、私の壊れた心をもう一度人らしい形に戻してくれたことは確かで。 だからもう、充分。 「結局、俺はどう足掻いたってあの人のことを忘れられないんだ。きっと俺はこれからも麻衣さんの笑顔にあの人の顔を重ねてしまうんだと思う」 三年も前に死んでるのにな。馬鹿だと、思うだろ。でもだめなんだ。どうしても、彼女を忘れられない。 麻衣さんの人生をこんな馬鹿な男の隣で終わらせたくない。 …そんなの、最悪だ。 幸せになって欲しいんだ、本当に。 大事だから、大切だと思うから。 今度こそ、麻衣さんを心の底から大切にしてくれる、貴方を一番に思ってくれる、そんな人と一緒に過ごして欲しい。 それは、俺じゃないんだ。俺じゃないんだよ、 ごめんな。ごめん。 雨のように降りかかる懺悔の言葉。 二番目でもいいから、忘れられなくてもいいからって強引に彼女にしてもらったのは私の方なのに。 利用していれば、良かったのに。 それで私は、いっこうに構わなかったのに。 馬鹿な男。優しくて、優しすぎて。 でもね、そこが好き、大好き。 貴方のその底抜けにお人好しなところが。 眠ってる時に見せるあどけない顔が好き。 ご飯を食べる時の所作の綺麗な手が好き。 抱きしめると意外と大きな背中が好き。 彼を形成する、全てのものを愛している。 「ねぇ凛くん、悪いなんて思わないで」 彼の額に自らの額を合わせた。 彼の柔軟剤の匂い。柔らかな前髪の感触。 「私、嬉しいの」 それが苦しくて、胸が痛くて、どうしようもなく、切なくて。 それでも、貴方に言わなくてはならない。 私は、伝えなくてはならない。 「ありがとう、最後まで私から目を逸らさないでくれて。私をずっと大事にしてくれて」 だってそれって愛だと思うから。 紛れもない、愛情がそこにはあったと思うから。 恋でなくても、それでも。 貴方の好きな人にはなれなかったけど、 大切な人のひとりにはなれたってことでしょ。 「私幸せだったよ、凄く凄く幸せだった」 休日に作ってくれた端の焦げたパンケーキも ソファーで寝ていると掛けてくれたブランケットも 深夜に一緒に食べたカップヌードルも どうしようもなく、どうしようもなく。 枯れた私に水をあげてくれた通り雨を誰が引き止められると言うのだろう。 貴方は私には勿体ない。 三年前、いやそれよりも前から、彼はあの人のものなのだ。 「幸せでいてね。ずっと幸せでいてね。」
取れないキャラメル
アップルパイって見た目は可愛いけど食べるのが難しい。 「真由、あの…ね」 右耳の真新しいピアスを弄りながら彼女が喋り出す。 まぁ、良い話ではないだろうなとは思った。 言いにくいことを話す時に右耳のピアスを弄るのは最近気がついた沙奈の癖。そうはいっても聞かないわけにもいかない。 「どしたんー何か相談?」 上手く食べれなくて分かれた林檎のコンポートとレーズンの残骸を置いて沙奈に話の続きを促す。 「私、陸君と付き合った」 「……え!そうなのおめでとう!」 少しの動揺と予感の的中を彼女に悟られるのは嫌だった。 その動揺が陸への気持ちが残ってるせいだと思われるのはもっと嫌。 「何も言ってないのに、ごめん」 申し訳なさそうに下げられた眉毛とそわそわ動く指先を見つめる。 「謝らなくていいのに。私本当に、なんていうかあいつのことどうでもいいっていうか…強いて言うなら陸に沙奈はもったいないって気持ちでいるけど」 そもそも振ったのは私の方からだったのだから余計に沙奈に怒りを感じるのは、なんかお門違いな気がするし。 「よかったー、これが原因で真由と気まずくなるのは嫌だったの」 「えー?そんなこと私がさせないよー」 首に張り付いた髪がやけに気になるし、ヒールの足の収まりはなんか悪い。 けど、そんなものは全部無視して私は彼女に笑顔を向けた。 別に沙奈をこんなことで嫌いになったりしない。 ただ、 あの人は本当にやめといた方がいいと思うけど。 心の底からそう思う。 勿論付き合いたての女の子にそんなこと言わないけど、 嫉妬だと思われるのも癪だし。 でもなぁ。 でもさぁ。 あいつと付き合ってた時の愚痴、結構沙奈に話してたのに。 私が別れる前の夜に泣いて電話をかけたこと、この子覚えてんのかな。 私の話なんか、所詮その程度だった? あ、だめだ。 今の私、何かやだ。 こんなの、きらい。きらいだ。 「なぁ、目閉じて口開けて」 「えなに」 「いいから」 訝しみながら口を開けると放り込まれたそれは馴染みのある味だった。 「…キャラメル?」 「そーそー」 ソファーで寝返りを打ってまたスマホに目を戻す陸と視線が合うことは無い。 「嫌いなんだよなー。甘ったるくて粘着してきてさ」 「…ふーん」 あんたは嫌いだよね。そういうの。 そういうの全部、ダルいって言うもんねいつも。 だから私はどんどん何も言えなくなった。 「真由、ちょっと友達と飲み行ってくる」 「今から?」 「そうだけど?」 「…分かった。行ってらっしゃい」 ほら、やっぱり何も言えない。 今日の夜ご飯一緒に食べに行こって言ったの、陸なのに。 私、今日髪の毛巻いてきたのに。 明るい色の服、選んできたのに。 いつもより少し手の込んだメイクしたのに。 あーぁ、全部、馬鹿みたい。 「行ってくる、家出る時鍵閉めて適当にポストに突っ込んどいて」 「はーい」 彼の匂いはするのに気配だけがない部屋の中は他の何処よりも寂しくて。 冷たいフローリングの上、顔を埋めたクッションからも感じる、私の嫌いな重めの香水。 彼が他の女と遊びに行く時の匂い。 口内のキャラメルはとうに溶けたはずなのに、ずっとあの甘ったるい風味だけが歯にこべり付いて離れなかった。 気持ち悪い。気持ち悪い。 あの日の甘さがまだ口の中にある気がする。 お風呂上がり、鏡に写る血色のない自分の顔を見つめる。 磨いても、磨いても、まとわりついてくる鬱陶しい彼の影。 あんたなんか、大嫌い。 お願いだから私の人生にあんたの切れ端ですら残さないでよ。 伸ばした手で写る自分の顔をそっとなぞる。 「…かわいい。かわいいよ、私は」 なんて、痛くてみっともないおまじないを、 気休めでしかない、絆創膏を、 ボロボロの心に貼るのだ。 だけど明日はあの子と笑って話そう。 大嫌いなあいつとのツーショットのストーリーにもいいねを押そう。 だって、 その方が惨めな気持ちにならなくて済むじゃん。 だけどやっぱり。 「面白くはないや、元彼と友達が付き合うのなんて」
硝子を口に含む 6
『水曜日予定あけて』 寧々からのLINEはいつも急だ。 肩に掛けたタオルで髪の毛を乱暴に拭いて俺は溜息をついた。 『場所は?』 『内緒。十一時に拓海の家行くねー』 それ以降のメッセージに既読がつくことはなかった。 俺行くってまだ言ってねぇよ。 「まだ」と思ってる時点で決まっている答えについては今は考えたくない。 「で、結局どこ行くんだよ」 車窓の外流れる景色をぼんやりと眺める彼女に俺は聞く。 「まーだー」 「へー」 舐め腐った表情に俺が頭をはたくと「暴力はんたーい!」と大袈裟に騒ぎ立てる彼女は実に元気そうだ。 聞いたことのない名前の駅で彼女に手を引かれて降り立った。 残暑の日差しが眩くて、日傘を差す気もなさそうな寧々の頭に被っていたキャップを被せる。 こちらを見やってきゃらきゃらと笑い声を上げる姿をずっとこのまま留めておきたいと思った。 「うっ……キーン、」 「自分で言う奴初めて見たわ」 寧々が頭を抑えて唸る様子を見守りながらかき氷を口に運ぶ。 彼女が連れて来てくれたこのレトロなかき氷屋はセルフでシロップをかけ放題のお店だった。 カウンターに並んだ瓶の中で揺れるカラフルなシロップが写真映えするらしく、店内には若い女性客がちらほらと座っている。 「シロップ全部かけたら何味になるかな」 「俺は付き合わねぇからな」 「ちぇ、おもんない」 イチゴに、メロンに、ブルーハワイに、あとレモンとか混ぜたら面白そう! どう考えても組み合わせたら不味そうなラインナップを指折り数える様子も可愛いらしく見えるから俺も結構重症だ。 「かき氷のシロップってさ、色が違うだけで、全部同じって話あるよね。本当なのかな」 くるくると銀のスプーンを回して寧々が小首を傾げる。 確かめたいから、目閉じてよ。 シロップよりも魅力的な甘い囁きに促されるままに目を閉じた。 唇に触れる銀のスプーンの冷たい気配と風鈴の音。 口に入れたかき氷の味なんか当然覚えていない。 「寧々」 「なぁに」 「かき氷、来年も食べに行こう」 あの時、彼女はどんな表情を浮かべていたのだろう。誰を瞳に、映していたんだろう。 「生きてたらね」 柔らかい、拒絶。 胸の奥をざらりと逆撫でさせる焦燥。 差し出された腕を掴んで指先に口付けても彼女は頬を染めることもないのだろう。 ムカつく。 掴めない。 掴みたい。 お前のこと、全部知りたい。 何もかも。 指先から、髪の一本一本まで、 「……雨?」 彼女を家まで送る帰り道、予報は晴れだったのに雨が降り始めた。 あいにく、互いに傘は持っていない。 身体が弱い彼女を雨に濡らすわけにはいかない。 かといって走らせるのも、 やらかしたな。 「拓海」 濡れた前髪の下できらきら輝く彼女の瞳に思考を阻まれる。 華奢な指が俺のTシャツの裾を掴んだ。 「家、おいでよ」 いつも会う時の連絡は彼女から。 会う時は大体俺の家かホテルのどちらか。 彼女の家に誘われたのは、これが初めてだった。
五月病
俺は、生き急いでいるんだろうか。 スマホから顔を上げる。 電車はトンネルに差し掛かっていた。 明るすぎる蛍光灯と不安定な地面。 握った単語帳の文字が蠢いているように感じた。 別に立っていられる。 立っては、いられるのだ。 それなりに転んできたから、 それなりに立ち上がり方は知っていた。 這いつくばってでも勉強をしてきた結果が不合格だったあの日のことはよく覚えていない。 涙は出なかった。 ただ、気がついたら日は沈んでおり、 酒の強い父が珍しくウイスキーを片手に酔っぱらい、皿を洗う母の肩が静かに震えているのを目にした。 真っ暗なスマホの画面に写る自分の顔は表情はつるりとしたのっぺらぼうのように表情がない。 「俺はまだ何も諦めるつもりは無い」 この気持ちに嘘は無い。 第一志望には合格したいし、大学生活は楽しみたい。可愛い彼女は欲しいし、車の免許も取りたい。 あぁ、でも。 初夏を感じさせる若葉も 梅雨の気配がする蒸し暑さも カレンダーの日付も その全てに追い詰められているような気がする。 浪人生最初の模試。自己採点はまだしていない。 使って二年目の参考書は既にもうボロボロ。 共通テストのあの朝、息の白さを思い出す。 不安と緊張、焦りと少しの希望。 不安はあったけど、後悔はなかった。 だからこそ、分からない。 何を間違えたのか、ただ、運が悪かったのか。 何も、見えない。 細い細い糸は光の刺さない暗闇だと手繰り寄せるのが難しい。 気づいたら針を進めている時計をぶっ壊してしまいたい。 何をどうすれば正しいのか。 どうしたら、良かったのか。 どうやって、なんで。 なんで、俺なんだよ。 なんで落ちたのは、俺なんだよ。 背負ったリュックの重みが増す。 吸い込んだ酸素が重い。 口の奥で酸っぱいものが混じり合う。 込み上げてくる何かを必死に押し戻した。 しんど……。 「やりたいようにやったらいい。金のことは気にすんな」 気にするよ、そりゃ。 「お前なら絶対いけるって!大丈夫!」 そんなの、分かんないだろ。 「一年頑張れたんだから、もう一年頑張れるよ」 伸び代、あんのかな、俺。 あと一年頑張ったら、本当に報われるとも限らないのに。 高い金、払って貰ってんのに。 そんな価値が、あんのかな。 俺が今やってる事って本当に意味あるか。 他者を介在させない強さを持て。 父の言葉だった。 浪人したいことを話した夜だった。 お前もちょっと飲むか? 少し笑いながら勧められて初めて飲んだハイボールは苦くてあんまり美味しくはなかった。 「俺にそんな強さ、あんのかな」 目の前にあったナッツを俺も齧って父の言葉を待つ。 「裕二にはそれが出来る強さが絶対にあると、俺は思う。」 何て重くて、心地の良い期待だろうと思った。 「ははっ、なんだそれ。何の根拠だよ」 「まぁ、俺の息子だしイケるだろ」 「余計に不安だわ」 足の裏の感覚が少しづつ戻ってくる。 よれよれの単語帳に嘘は無い。 あの一年で覚えた知識がある。 蓄えた忍耐力もある。 肩の力を抜くのは来年の春休みでいい。 ゆっくりと息を吸う。 夏の気配に対する恐れはもうなかった。 生き急いで何が悪い。 可能性も意味も価値も定義付けるのは自分であると言うなら、俺はそれを無限だと定義しよう。 予備校最寄り駅まで後六分。 その間に二十単語は見直せるな。 俺は、自分のこういう図太さが嫌いじゃない。
ひととせ
『思いわび さても命はあるものを 憂きに堪へぬは 涙なりけり』 転校して行ったあの子の小さな抵抗。 黒板に白いチョークで書かれたその言葉をそっとなぞる。 小春日和のうららかなるこの日には、きっと似合わないこの歌を誰もいない教室で諳んじた。 子供だからと突き放したのは私なのに、 そんな君をきっと大人にしたのも私なのだろう。 「先生」 生意気で不器用な優しい男の子。 私の大切な生徒の一人。 告白もさせてあげなかった。 それが正しいと思ったから。 上ずった声と赤くなった耳を今でも覚えている。 あの子の視線が、緊張した肩が、紅潮した頬が、 「それ」を全て語っていた。 恋、ね。 突き放せば良かったのだろうか。 「倉橋くん」 「暇だったから」 国語科室の立て付けの悪い扉を閉めにくそうにして、いつもあの子はそんな言い訳をした。 私もまたその言葉のそれ以上を追求することはなかった。 私の思う「正しさ」は酷く不正確できっと的を射てないことくらいは分かっている。 だって。 あの子の、眼。真っ直ぐで、ひたむきな熱。 いじらしいと思った。 かわいいとも、思った。 だけどそれが何になるというのだろう。 どうしよう。 苦しい。 罪悪感。 どうしよう。 怖い。 私は教師なんだよ。 だってまだ子供。 生徒だし。 未成年。 そんなの、許されない。 年上に憧れてるだけ。 世間の目とか。 どうせすぐに忘れる。 気づかないふりを。 大人の対応を。 それは、私もあの子も幸せにしない。 人の数だけ正義があるのだと誰かが言う。 正しさはいつだって私達が優先したいことの順番に過ぎないのだから、それはきっと事実で。 私は私が思う、正しい教師でいたかった。 それはあの子の為とは程遠い。 ひとえに、私の為に。 「なぁ、先生…俺、父の仕事の都合で来月からこの街を出ることになったんですよ」 明日の天気を語るかのような軽い口調でそれは告げられた。 最近視力、落ちたから。 背に隠したその手が震えているのなんか私には見えなかったよ。 「…そうなの」 今日は、寒いね。だから声が震えそうになったんだと思うの。 彼の少しシワの寄ったズボンから飛び出した大きな足が一歩前に出る。 「先生「ネクタイ」 歪んでる。 そう呟いて、きっと今しなくても良かった歪んだネクタイを直してあげようと伸ばしかけた手を彼に掴まれる。 見上げた瞳の奥に渦巻く好意。 「なぁ…寂しい?」 きっと、見透かされている。 私の下らない意地も、体面を気にしていることも。 泣いてしまいたいくらい、彼の熱はずっと苦しい。息もできそうにないくらい。 「…寂しい」 「それって「だって、」 掴まれた手をゆっくりと振りほどいた。 この子がこれ以上傷つくことのないように。 「倉橋くんは、私の大事な生徒だから。勿論、寂しい。けれど新しい高校でも貴方なら大丈夫だとも、思うよ」 ごめんね。 でも、私は後悔なんかしないよ。 あの子の机だけが減ってしまった三学期の教室に冬の日差しが差し込む。 大きな喪失感を感じると共に、私はどうしようもなくほっとしていた。 角張った文字で書かれた百人一首。 つれない恋を嘆く歌。 「ひととせ、貴方を思ふ」 届ける気もない返事を、誰もいない教室で小さく呟いた。 春も、 夏も、 秋も、 冬も、 貴方の幸せを願いたい。 でも、会うのは今日が最後でいい。 『つれないあの人のことを想って、これほど悩み苦しみ、もう死んでしまいそうだ。それでも命はどうにかある。ただ、あとからあとから零れ落ちるのは私の涙であることよ』 「」
砂糖に浸かる
互いの傷に砂糖を塗り込むような関係を築いてきた。 靴擦れの起こした足をハイヒールに突っ込んで、そっとマンションの扉を開ける。 早朝の静けさに、僅かに私の罪悪感が漂っていた。 「…ボディソープ無くなってたことくらい言っとけばよかったかな」 改札を潜る前、壁にはられた石鹸の広告を見てそういえばと思い出す。 でももう彼とはインスタもLINEも繋がっていない。言う術は持ち合わせていなかった。 「今日の夕ご飯は肉じゃが」 この連絡が私と彼が会う時の合図だったように思う。 「食べる」 「何時」 「二十三時とか」 「おそ」 「泊まる」 互いの責任を負わない愛情表現は楽だった。 適当な連絡。 雑なキス。 手は繋がなくて良いけどハグはして欲しい。 空いた心の穴を埋める為に甘い言葉は多めに吐いた。 彼は料理も甘めな味付けが多かった。 それは私にとっては都合が良くて 夕ご飯をご馳走してもらうお礼に次の日の朝食は私が作った。 「目玉焼きは何かける派?」 「卵焼き派」 「え、作る前に言ってよ今度ね」 会う頻度はまちまちなので今度が来週なのか来月なのかは分からない。でもそれで良かった。 良かったんだけどな。 「私は醤油派だよ」 「へー、俺砂糖」 「噛み合わないなぁ」 箸で潰れた黄身と醤油がマーブル模様を描く。 今朝焦がしかけたトーストを口に含むと彼からの視線を感じた。 「次はフレンチトースト食いたい」 「んー、気が向けば」 どこから好きは始まるのだろう。 学生時代の頃は簡単に見い出せた答えが最近難しくてしょうがない。 キスできたら好き。 連絡を待ち始めたら好き。 彼のことばかり考えてしまったら好き。 フレンチトーストは難しくないけど 作るのに時間が掛かるから面倒くさい。 そう考えてみるとフレンチトーストを作れる相手は好きと考えてもいいかもしれないな。 私が急にこんなことを言い出したら彼は何て返すかな。 「好きな男でもなきゃフレンチトーストなんて作らない。もしくは気まぐれか」 「そういうもん?…え、俺のこときらい?」 「別にすきだよ」 「…フレンチトースト」 「えめんどくさい」 不満げに珈琲に一般的基準をかなり上回る砂糖を入れてスプーンで掻き混ぜる様子を見守る。 これだったら他のジュースとかでも飲めばいいのに彼は珈琲に拘るのだから不思議だ。 「じゃあ俺を恋人にしてくれたら作ってくれるの」 彼の口から零れ落ちたその言葉は軽薄に響いた。 「さぁね」 この男は昨日にも明日にも同じことを別の女に言うのだろう。 もう好きという感情だけで恋にはできない。 だって私はもう少女じゃない。 「フレンチトーストに乗せるアイスはレディーボーデンが良いの」 責任を伴わない愛も 雑なキスも 適当な連絡も 楽で都合が良かった関係が今は苦しい。 それが何でなのかなんて 答えなんか出さない。 でも、 次に彼と会うのが最後にしよう。 もういつ来るか分からない連絡も待たないし、 彼の肉じゃがは食べない。 「フレンチトースト、冷蔵庫」 朝起きたら横に彼女はいなかった。 予感がした。 終わったのだと。 彼女は流行りの曲を口ずさみながら目玉焼きを焼いてよくパンを焦がしかけるような子だった。 真っ黒な水面を揺らして珈琲を飲む彼女。 寝癖の残った髪の毛とまだ何も塗られてない肌。 独占欲も愛もない透明な眼差しは心地よかった。 すきだったと思う。 でもこれが恋人にしたい好きだったのかは分からなかった。 布団に潜っていても目玉焼きもトーストも焼きあがることはないので鈍い身体を起こす。 冷蔵庫の中、バットに沈んだフレンチトーストを覗いて何となく冷凍庫を開けた。 「レディーボーデンはないか」 溢れた笑いを拾ってくれる人はいない。それが寂しかった。 ばーか、気まぐれだわ。 ここに居たらそう言ってそうだな、あの子。 彼女のことだから インスタもLINEも、もうブロックされてるだろう。 既読がつくことはきっと無い。 別にそれで構わない。 「お供に珈琲が飲みたかったな」 嫌いな珈琲をそれでも飲んだのは彼女が淹れた珈琲だったから。 ちゃんと、特別だった。 満員電車は嫌いだけど人の少ない電車で座ってぼんやり窓を見つめるのは好き。 自分の最寄りの駅名が聞こえて立ち上がる。 駅前のコンビニで朝ごはんを買わなきゃ。 階段を登った先は雲ひとつない青い空。 私は彼のことを考えていた。 無意味で無価値で何の生産性もなくて、 それでも楽しかったあの時間。 いつかこの恋も砂糖に浸して、 綺麗な部分だけをなぞって眺めていられるのだろうか。 いっそ、未練タラタラで檸檬の砂糖漬けでも作ろ。 砂糖漬けの消費期限は半年と意外と短い。 彼の最寄りの駅名もその頃には忘れているだろう。 …
硝子を口に含む 5
丁寧という言葉が似合う人だった。 「好きだよ」 俺がそう言うと、少し寂しそうに「私も」と笑う優しい女性。 「綺麗」 お目当ての鰯の群れを見て子供みたいにはしゃぐ様子を想像していたけれど、思いのほか彼女は落ち着いていた。 硝子の向こうの青の世界を見つめる様子が何故か遠く思えて。 伏し目がちに微笑む姿に胸がどきりとする。 子供みたいに無邪気な癖に彼女はやっぱり大人だった。 「海月の水槽も綺麗らしいよ」 「それも見たいなぁ、でも」 あと少しだけ。 そう彼女は囁くように言うと煌めく銀色の群れを見つめる。 横顔をずっと見ていたいと思うのに振り向かせたくもなる。 なぁ、君の憂いのある表情が憎いよ。 他の男の影なのかと思うと愛おしいのに憎らしい。 「渡辺、シャンプーかなんか変えた?」 口にしてから後悔した。いきなりクラスの男からこんなこと言われるのってきもいんじゃないか。彼氏でもないのにミスった。 でも慌てて俺が謝る前に 「ふふっ…ヘアミスト付けてるの。石鹸の香りなんだよ」 頬を赤くして余りにも嬉しそうに笑うから柄にもなく「爽やかで良い香りだな」なんて言ってしまった。 思えばこの日の俺は変だった。 頭がふわふわして落ち着きもなくて。 それでも朝はまだ大丈夫だった気がする。 二限目からだろうか。頭痛と目眩が酷く、吐き気が込み上げてきて、弁当を完食するのは諦めた。 保険室、行くべきだよな。 でも来週もう定期試験なのに全然勉強が追いついてない。今、休むと後がしんどい。けど駅伝近いし無理するのもなぁ。 ちょっと休憩。寝たら少しは良くなるだろ。 ガンガン叩きつけられたような頭の痛みから逃れるように机に突っ伏した。 多分そのまま暫く寝てしまってたんだと思う。 近くで誰かが動く気配がして頭の近くに何かが置かれたのが分かった。 窓から吹き込んだ風が春を呼び込む。 あ、 ふわっと香る石鹸の柔らかい匂いは覚えがあった。 薄く開いた瞼の視界の端に写るスカートの影。 教室を去る気配を感じて暫くしてから俺はゆっくりと顔を上げた。 「…これ」 伏せた額の近くで淡く感じた冷気は置かれたポカリが原因だった。 ……気づいてた? 俺の体調が悪いことなんか拓海にもバレなかったのに。 カッと体温が上がった気がした。上擦る心音。 こんなことで単純な奴だと言われるだろうか。 でも無視出来ない。見過ごせない。 「昨日、渡辺来ただろ」 購買で買ったコロッケパンを頬張りながら拓海が意味ありげな視線を送ってきた。 「うん。ポカリ貰ったよ」 「……ふーん」 なぁ拓海。 俺は俺の気持ちに覚悟を決めるために友達の名前を呼ぶ。 「ん」 「好きな人、出来た」 「やっとかよ」 頭を搔いて呆れたような顔で拓海が俺の背中を小突く。 「うん」 心に染み付いて離れない石鹸の匂いがそれを知らせていた。 「紫乃」 青い光に照らされた彼女が振り返る。 「紫乃、好きだよ」 「ふふっ…うん、私も」 好きな人が手に入った時、 それでも消えない不安はどうしたらいい。 もういつでも手を繋ぐことが出来る。 電話を掛ければ出るだろう。 名前を呼べばきっと彼女はこっちを向いてくれる。 その頬の柔らかさも体温も照れた時の仕草も全部もう知っていて。 でも、不安。不安。 だって彼女は今も俺じゃない誰かのことを考えている。
硝子を口に含む 4
「何処かに連れてって」 「滅茶苦茶な要望だな」 濡れた髪もそのままに寧々は扇風機に向かって「このままじゃ暇だー」なんて、脅しにもならないような言葉を発する。 身体が弱いことを忘れたような行動をとる所が彼女の悪い癖。 私はドライヤーを持ってくると「熱い」などという文句をねじ伏せて寧々の髪を乾かし始めた。 気持ちよさそうに目を閉じる様子は隣のビルでよく昼寝をしているあの猫の姿と重なる。 「何処かってどこなの」 「んー、紫乃の思う何処か」 全く回答になってない返事が返ってきたので放置することにした。 無言で私が自分の髪を乾かし始めると暫くは不服そうな頭突きを背中に浴びせてきたけれど、やがて飽きたのかカーペットでごろごろする姿が見える。 「寧々、葡萄ジュース飲む?」 「飲むー」 冷蔵庫にある半額で手に入れたカマンベールチーズとクラッカーを並べると機嫌良さげに彼女が摘み始める。 グラスに注いだ濃厚な紫が手の中で水面を揺らした。 「来週からねゴッホ展が始まるらしくて。ちょっと遠いから交通費は掛かっちゃうけど行かない?」 「……行く」 彼女が私のグラスに自分のものをカツンと当ててくる。 それが紫乃の思う何処か? さぁ、でも寧々の行きたい場所でしょ 「ふふ、うん」 彼女には彼女の悩みとか苦しみがあるのだろう。 此処ではない何処かを求める時は逃げたい時だと思うから。 「絵は今も描いたりする?」 「時々かな」 俯けた顔がグラスを傾ける様子はアルコールを摂取したことないとは思えないほど様になっていた。 「いつにしよ」 「来週の水曜がいい」 水曜…水曜、二十三日だから、あ、その日だめだ。 「その日は用事あるから別の日がいいなぁ」 「…柳君?」 「うん」 鼻の奥まで香る葡萄の匂いは夏の匂いがした。 「嫌」 「…え」 静かな部屋には冷蔵庫が氷を作る音がよく聞こえる。 「なーんて」 冗談だよ、本当に。 「柳君に紫乃が取られちゃう気がして面白くなかっただけ」 寧々の明るい笑顔には一部の隙もないくらい嘘なんか見えなくて、それが逆に不自然に思えた。 「隼人は隼人、寧々は寧々だから」 どっちも私にとって大事な人だよ。 友達と恋人は私にとって比べるものじゃないの。 「分かってるもん、紫乃だいすき」 「はいはいありがと」 「信じてなさそーな返事だなぁ」 土曜日でもいい?その日なら一日空いてる。そこがいいー。 あっさり別の日に決まったゴッホ展をカレンダーアプリの予定に追加する。ゴッホは寧々が好きな画家だった。 「ゴッホの絵は本物がいいの」 筆の凹凸が明かりできらきら輝いて、宝石みたいで 「生きてるって感じる絵」 「そんなに素敵な絵なら見るのが楽しみ」 寧々、気づかないで。 「紫乃ごめん、待った?」 「そんなにだよ。行こ?」 今年買った華奢なサンダルはそろそろ見納めかもしれない。 「今日の褒めポイントは新しく塗り直したマニキュアと上手くいった巻き髪だよ」 「申告制なのかよ」 全部可愛い。 求めてた回答を言い当てられてちょっと照れくさくなって顔を逸らす。 「水族館楽しみだったの。鰯の群れが見たくなって」 「特殊な理由だなぁ」 「見たら絶対わかるよ、綺麗だもん」 どちらともなく繋いだ手に心が擽られて笑い声をあげたくなるような気持ちと共に痛みが走る。 罪悪感も嫉妬も不安もファンデーションの後ろに隠して何一つとして悟られてはならない。 だって、まだ貴方の傍にいたい。 揺れるスカートも量に気をつけながら着けた香水も、全部彼の為。 でも嘘をつき続けているのはどこまでも私の為でしかなかった。