シャイニー
23 件の小説フィクション
——小説家は、嘘つきである。 そんなことを誰かが言った。嘘の話を読んで何の意味があるの? それなら現実に目を向ける方がよっぽど生産的じゃない? 確かにそうだ。そうかもしれない。わたし自身、そう思っていた。 そんな時、わたしは一冊の本に出会った。その本に、わたしは自然と呑み込まれていった。主人公とわたしを同一視し、共に喜び、共に悲しんだ。わたしは、小説の中の人物と一体化していた。 物語が進んでいくごとに昂る高揚感、物語が終わりに近づいていくたびに感じる哀愁感、物語が終わったときに感じる郷愁感。それら全てが、余韻となってわたしにのしかかった。 こんな体験をしたのは、初めてだった。フィクションとか関係ない。自分が感じたことが大切なのだ。これを嘘と言わずになんと言うのか。 今ならわたしはこう答えるのだ。 小説は、その人だけの真実を見つけるために読むのだと。
抗えないもの
人は、過去には抗えないのだろう。僕は幾度と後悔した。ありとあらゆる理不尽に対し、人はただ不平を述べることしかできない。それでも今を生きるのは、きっと未来に希望を抱いているからだろう。訪れるはずのない幸せを、人は今も夢想してる。 ——ごめんね、好きな人が出来ちゃった。 そう、彼女から告げられたのは一昨日の夜二十三時だった。今でもその後に続く八文字が忘れられずにいる。 ——だからね、わかれよ? この時ほど、神様を呪ったことはなかった。失望、怒り、呆れ、未練。ありとあらゆる感情が入り混じり、渦を巻く。どうすればよかったのだろう。そう問いかけても、答えは出ない。 ——別にね、浮気をするつもりはなかったの。ただ、ひと目あってこの人だ! ってビビッと来て。だけど、秀くんと付き合ってるのに悪いなって思って。この感情が爆発してしまわないうちに伝えたかったの。 彼女のそんな言葉はもはや頭に入らなかった。言い訳だと感じたわけではなく、ショックで何も考えることができなかった。いろんな感情がよぎるはずなのに、言葉を発することができなかった。 ——秀くんには本当に悪いと思ってる。こんな私、最低だって自分でも思ってる。だけどね、この感情に抗うができなかったんだ。だからね、このまま秀くんと付き合っても、秀くんが傷つくだけだと思うし、秀くんにこんな最低な私なんて釣り合わないと思うんだ。 もちろん、彼に振られる可能性だってあるし、秀くんに気持ちがまた向くこともあるかもしれない。でも、どんな結果になっても、一度でもこんな感情を抱いた私に秀くんと付き合う資格なんてないと思ったんだ。秀くんのことを大切に思ってたから、私は言ってるの。私はどんな結果であれ、この罪悪感を一生背負って生きていくつもり。だから、別れて欲しいの。 大切に思ってたから——その言葉に僕は一つ憎しみを感じた。今はもう、大切に思っていないのだろう。彼に恋をしてしまったのだから。 ——だめ、かな? この時僕はやっと言葉を発することができた。そして、その言葉には彼女が思いもしなかった言葉だったのだろう。 「僕はあなたのことをずっと、好きでした」 ◇◆◇ その夜、私は泣いた。彼の最後の告白に、私は涙が止まらなかった。電話を切った後、私はベッドの上でひとりごちる。 「ごめんね。こんなひどい嘘をついて」 彼に聞こえるはずもない。それでも私は彼に今すぐでもそう伝えたかった。ほんとはこんなことをしたくなかった。私も彼のことが大好きだった。好きで、好きで仕方がなかった。だけど、嘘をつくしかなかった。彼が私を嫌いになるような嘘をついて、別れるしかなかった。そうじゃないと、彼は私のことでもっと苦しむから。 私は、来月から親の赴任で海外に引っ越す。もう彼とは会えなくなる。だから、私は彼が悲しまないように、彼に嘘をついてでも別れるしかなかったのだ。人は運命には抗えない。だから、せめて彼には私のことを忘れて誰かと幸せになってほしい。 「ごめんね、秀くん。愛してるよ」 ただ一つだけ、彼に本当のことを私は言っていた。私は、一生この罪悪感を背負って生きていくだろう。
心からの望み
心から望んでいた。彼は、わたしに寄り添ってくれた。だから、今度もきっと寄り添ってくれるだろうと。 「それで? 僕になにして欲しいわけ?」 その言葉を聞いた時、心がポッカリと抜けるような感触に蝕まれた。 「いつも思うんだよね。僕にはどうしようもないのに、なんでわざわざ話すの? 僕になにを求めてるの?」 ——話を聞いてもらうだけでよかった。それだけでも救われたように感じる。そんな気持ちを彼が理解しているとは思えなかった。 「——わたしはこんなにもあなたのことが好きなのに……」 「それ、今関係ある?」 この時、わたしは初めて彼に嫌悪感を抱いた。あんなにも彼のことが好きだった気持ちが、一気に冷めてゆく感触を覚えた。そして、こう言った。 「——なにして欲しいかって聞いたよね? 別れて欲しい」 心から望んでいた。彼の顔がみるみる豹変してゆく様が見えた。 「……なに言ってんだよ? 付き合ってまだ半年だろ?」 「そのままの意味だよ。わたしはあなたと別れることを求めてる」 彼は黙ったまま顔を真っ青にしていた。わたしは、勝ち誇った気分だった。 「——僕はこんなにも君のことが好きなのに……」 わたしは、彼のくしゃくしゃになった顔に向かって言い放った。 「それ、今関係ある?」
豹変
「ねぇ、私のこと覚えてる?」 そう聞いたのは二年前に引っ越してしまった真凛だった。 「覚えてるよ」 「よかったー」 久々の会話に、わたしは胸が弾む。こうして会えたのは、ちょうど同じイベントに参加したからだった。 「私ね、ずっと佳代ちゃんと会いたかったんだー」 真凛は、にこやかに笑顔を見せる。 「わたしもずっと真凛のことを考えてたよ」 「ほんと? 嬉しい!」 その言葉一つ一つが、新鮮に感じた。久しぶりの雰囲気に、まるで過去に戻ったかのように感じた。 「一つ、お願いがあるんだ」 なんだろう? そう思った時、真凛は胸を弾ませながらこう言った。 「ちょうどね、今日合コンがあるんだけど、一人熱出して来れなくなっちゃって。それで佳代に代わりに出て欲しいんだ。あ、佳代のことは私から紹介しとくから」 わたしは、胸がざわつくのを感じた。それは、嬉しさではなく、恐怖からなるものだった。 「ごめん、彼氏いるんだ」 嘘だった。だけど、真凛は突然様子が一変した。 「は? 何抜け駆けしてるんだよ?」 「え? 別に彼氏作るなって約束は……」 「口答えするんじゃねぇよ。あん?」 怖かった。怖くて、震えが止まらなかった。わたしは、「ごめん」と言って、思わずその場を去っていった。その後ろで、真凛は舌打ちをしながらこう言ったのが聞こえていた。 「せっかく、アイツとくっつかせくてここまで来たのに。写真見せるんじゃなかった」 わたしは怖くて必死に走った。逃げるのに必死で前を見ていなかったのか、途端、目の前にいた男の人とぶつかった。 「すみませ——」 「お? お前が真凛が言ってた例の佳代ってやつか。ちょうど良かった。俺と遊んでくれよ?」 「ごめんなさい、それはちょっと——」 「そんなこと言わずに、ほら」 男の人はわたしの腕を掴み、引っ張る。——やめてください。やめて。その言葉が届くはずもなく、わたしはただ引っ張られる。男の人は、獣のような目でわたしを見ていた。
嘘から生まれた真実
言葉を綴る、それは自分の内部に宿るもう一人の自分を形作るようなものだ。分身を作り、新しい一つの人生として歩く、それが私が小説を書く意義であり使命でもあるのだ。 ——小説なんて、ただの虚構でしょ? そう言う者だっていただろう。しかし私はその言葉を無視して歩き続ける。それが正しい道だと信じて。 嘘、嘘嘘嘘嘘嘘—— 果たして私は嘘つきだろうか? そう思うと、自分の人生が否定されたかのように聞こえる。嘘で塗りつぶされた人生に価値なんてあるだろうか? 何が本当の私の人生なのか? ——何事も信じ続ければ、本当になるよ。 そうだ、そうだった。私が小説を書く理由、それは。 読者にとっての、真実を見つけてほしいから。
海に届けたい
好きな人、がいた。彼は海を越えたところにいて、私に初めて言葉を超えた繋がりを教えてくれた。留学先で出会った、彼の瞳に目を奪われた。 届けたい。何度も、そう思った。瓶に手紙を入れ、海に流したこともあった。彼に届くことを願って。 でも、結局そんなのは幻想なのだと思った。国が違う限り、彼と会うことはないし、ましてや付き合うなんてことはない。でも、海を見るたびに彼のことを思う。彼は今、どこで何をしているのだろうか? そんな切実な疑問を心に抱きながら。 海に届けたい——。さざなみに消されたその願いを、私はいつまで持っているのだろうか。 波の音が、ひどく煩く聞こえる。 ◇◆◇ 「幻想なんてさ、海に流そうよ」 僕は紗奈にそう言った。確かに、彼女は彼のことが忘れられないのだろう。それでも、僕はどうしても彼女に振り向いて欲しかった。もう会えない人を恋煩うよりも、彼女の隣にいるのが僕であって欲しかった。 「無理だよ。海を見るたびに、彼を思い出すの」 そこまで言われると、僕はもう何も言えなかった。ただ、胸が痛くなるばかりだった。 彼女を好きになったのは僕が先だったのに。留学中のストーリーも誰よりも早く見ていたのに。それなのに——彼女は顔も名前も知らない彼に惹かれた。それが、とてつもなく辛かった。まるで、僕の人生がぽっと出の脇役に奪われたかのようだった。 辛い。と同時に悔しかった。彼女に振り向いてもらうために、必死で努力していた自分が否定されたようだった。 海なんて、嫌いだ。海さえなければ、彼女がどこか遠くに行くことはなかったのに。 恋に溺れ、海をもがきながら彷徨うようだった。呼吸をするのに必死で、波に身を寄せるしかなかった。 僕は水平線を見つめる彼女の横顔を眺めていた。 「隼人くんはさ、海を見て何を思う?」 彼女は海を見つめながら言った。広く、何もない海をただ見つめながら。 「好きな人と結ばれない辛さ」 自分でも驚くほど、素直に出た。もはや告白しているようなものだった。 「私と一緒だね」 皮肉なことに、指向は違えど僕も彼女も海に対する思いは同じだった。彼女にとって海は恋を表すのに対し、僕にとって海は失恋を意味するのだと思った。 彼女の隣にいていいのは、僕ではなく彼なのだろうか? 海に問いかけるが、返事はない。 ただ波の音だけが、ひどく煩く聞こえる——。 「好きです」 「え?」 気付けば声に出ていた。僕は急いで、「海が」と付け加えた。彼女はくすりと笑った。笑ってから、言った。 「ありがとう。ごめんね、こんな話をして」 その笑みは苦笑いだったのだろうか? 期待した僕が間違いだったのだろう。僕は顔が焼けたかのように赤面する。 「——私もそろそろ海に流さないとね」 何を、かは言わなかった。だけど、それが何を意味するのかはわかった。 「私も好きだよ」 「え?」 それから彼女はくすりと笑って付け加えた。「——海が」
恋を乞い、愛を願う
童話「青い鳥」では、「本当の幸せは遠い場所ではなく身近な場所にある」と教わった。だけどわたしには、どうしてもそれが解釈に依存するのではないかと思ってしまう。 人が幸せだと思う時——誰かを好きになったとき。テーマパークに行ってるとき。好きなことをしているとき。どれも非日常という共通点を持ち、逆に日常が続くと人は退屈する。かくいうわたしもそのひとりだった。 わたしが中学生だった時、初めて人を好きになった。Mくんと話しているだけで心がどきどきし、夢心地だった。今まで退屈だった現実が一気に晴れ、毎日がテーマパークにいるようだった。Mくんと話してるだけで幸せで、目が合うだけでも嬉しかった。 わたしは放課後に親友のYちゃんに、Mくんの話をよくしていた。Yちゃんはわたしの話に興奮しながら聞いていて、わたしの恋の応援をしてくれた。 Yちゃんは隣のクラスのIくんと付き合っていたので、よく恋愛について相談していたりした。その時、Yちゃんの言葉に印象に残ってるものがある。 ——Iくんと一緒にいるだけで落ち着くんだよね。恋愛って、どきどきするものじゃなく、幸せな感情になるのも恋愛だと思うんだ。 この時、Yちゃんの気持ちは恋なのではなく、愛なのではないかと感じた。少なくともわたしは、Mくんのことを考えるたびにどきどきし、M君と過ごした日々を何度も思い返す。幸せには二種類あり、それが恋と愛なのではないかと思った。 あれから月日は流れ、気づけば高校生となっていた。Mくんは別の高校に進学して、想いを伝えることなく卒業した。 わたしは後悔した。話してるだけで満足してしまい、次の一歩を踏み出すことができなかった。この時、わたしは思った。 幸せは、失って初めて気づくものなのだと。 「青い鳥」の教訓も失った日常、すなわち非日常から気づく幸せなのではないかと感じた。皮肉なことに、幸せも不幸も同じ非日常の中にあるのだろう。 そんな中、高校になってSくんと知り合った。気づけばよく一緒に帰る仲になっていて、一緒にカフェなどにも寄った。わたしは次第にSくんに惹かれていき、気づけば好きになっていた。 それから、わたしはSくんと付き合った。告白は彼の方からで、わたしは喜んで承諾した。 彼と一緒にいたい。彼と一緒に遊びたい。彼と一緒に過ごしたい。そういった気持ちが徐々に膨らんでいき、気づけば彼に幸せになってほしいという気持ちも現れていった。 彼から幸せを受けるたびに、彼に幸せになってほしいという気持ちになる。そして、幸せを共有したいという思いを抱く。これが幸せの伝染なのだと思った。今思えばこの感情が愛なのだとわかった。 今ではわたしが幸せとは何かと聞かれると必ずこう答える。 ——幸せとは、誰かの幸せを願うこと。
アナベル
化学の先生が言っていたことがある。リトマス試験紙は紫陽花と色の変化が反対だという。紫陽花の色が土壌のpHによって が変化することは知っていたが、最近まで私も逆で覚えていた。 私自身、そんなに紫陽花に思い入れがあるわけではなかった。ただ、校内の中庭に咲いてある程度で、普段から意識していたわけでもなかった。 それなのに、私はなぜここにいるのだろう? 私はどんよりとした空を見上げ、中庭のベンチに背を預ける。 信頼していた彼氏には、好きな人ができたからと言って別れを告げられ、私は生きる意味を失っていた。 友達には、また新しい人ができるよ、と言われたが、一度経験したトラウマはすぐには癒えない。しばらくは恋なんて出来っこないし、一生過去の恐怖に苛まれながら過ごすことになるだろう。 裏切るのは一瞬だが、裏切られた傷跡は一生残り続ける。 そんなこと、考えればわかるはずなのに、なんでアイツは平気でヘラヘラしていられるのだろう。 腹が立った。同時に悲しくもなった。怒りと絶望がとぐろのように渦を巻く。 雨が降る。私は傘も差さずに目を瞑りながら顔をあげる。タイミングが良かった。雨は涙を誤魔化すのに都合がいい。空が一番私の気持ちをわかってるのかもしれない。皮肉なことに彼よりも。 私の心も空と同化して雨が降る。私は、髪が崩れるのも気にせずに、ただ雨に打たれていた。 ふと前を見ると紫陽花が目に入った。紫陽花の花言葉は、移り気、浮気。紫陽花が土壌によって色が変わると同じように、彼も人によって色気が変わったのだろう。私は負けたのだ。顔も名前も知らないあの人に。 紫陽花には毒があるというように、彼の浮気は私にとっての毒だった。毒は次第に全身を蝕み、私の心身を苦しませる。私は次第に体が硬直していき、足の感覚がなくなっていくように感じた。 その時、ふと雨が止んだ気がした。見上げると、傘が差し出されていた。 「何してんだよ、こんなところで」 傘で顔こそ見えなかったが、声で誰かわかった。それは、最近まで付き合っていた元カレだった。 期待していた私がバカだったのだろうか? 私は不貞腐れながら言った。 「放っておいて」 私が言うと、彼はタオルを私に差し出した。 「とりあえず、これで髪拭けよ。綺麗なやつだからさ」 私は無言のまま、ただタオルを見つめる。受け取る気力もなく、ただ俯いていた。雨音だけが、その場に響く。 「あの時はごめんな。自分でもどうかしてたと思ってる」 静寂を破ったのは彼の声だった。私は、思わず声を荒げて言った。 「ごめんで済む問題じゃないでしょ」 「悪かったって、本当に反省してる。こう言ってはなんだが、アイツとは別れたからもう一度やり直して欲しいんだ」 「は?」 意味がわからなかった。ちっとも反省しているように見えない。ここまで来るともはや、呆れて言い返す気にもなれなかった。 「今度はお前だけを愛するからって。約束する。だからお願い、やり直してくれ」 私は右手で頭を支え、これ見よがしにため息をついてみせる。反論する代わりに手で、もういいよ、とサインを送る。 「本当だよ。アイツと別れてから、考えてみたんだ。本当に好きだったのはお前だったんだって。信じてくれ」 正直、呆れと同時にほんの少しの嬉しさも残っていた。それはまだ彼のことを忘れられない自分がいたからなのだと思った。だけど、そんな欲望に身を委ねるほど精神的に余裕はない。 「もう新しく好きな人できたから」 嘘だった。だけど、そう言わないと彼を忘れられる気がしなかった。しばらく沈黙が続く。その沈黙を断ち切ったのはまたしても彼の声だった。 「ほんとに嘘、下手なんだから」 声が聞こえた刹那、私の目の前に何かが差し迫った。ほんの数秒のことだった。はじめは何が起きたかわからず、フリーズしていた。それから口先に残るわずかな温かみを感じ、それがキスだったのだとわかった。気づけば彼は自分の傘をベンチにかけてその場を去っていた。 今更ながら顔が熱くなった。私は今、キスをされたのだ。頭が今になって今の状況を認識し、だけど信じられない自分もいた。彼のことしか頭に入らず、他のことがなかったかのようにさえ思えた。心臓の鼓動がうるさい。私の頭は彼のことで頭が一杯だった。まるで付き合う前のあの頃のように、私は恋に溺れていた。 私だって紫陽花と同じだ。あんなに彼のことを忘れると決めたくせに未だに彼のことを好きになる自分がいる。私はキスの感覚を思い返すように、唇を指で触れた。 雨はただ、激しくなるばかりだ。 ◇◆◇ 結局、彼と復縁することはなかった。意外にも、失恋のショックを癒す方法は時間なんだと感じた。私はなんとか心を持ち直し、元気に毎日を送っていた。まるであの頃悩んでいた自分が嘘かのように晴れていた。 今の私は、新しい恋を探している。次は前みたいなのではなく、純愛のようなプラトニックな恋をしてみたいと思っている。 帰り道、友人と別れた後の帰路の途中に白い紫陽花、アナベルが咲いていた。 アナベルの花言葉は——一途な愛情。
いすとり
放課後、前の席の花蓮が振り返りながら言った。 「今日、行きたいカフェがあるから一緒に行こうよ!」 わたしは、頬杖をつきながら言った。 「いいよ。じゃあゲームして負けた方がおごりでー」 「望むところ」 花蓮は、今にも待ちきれない様子をしている。わたしは、人差し指を出しながら言った。 「じゃあ、前はしりとりをしたから、今度はいすとりゲームで!」 「でも、音楽は誰が止める?」 言われてみれば、他の人はもうすでに帰っていた。わたしは、少し考えてから言った。 「専用のアプリがあるから、それを使おー」 「それいいね」 わたしは、アプリをダウンロードして早速準備に取り掛かる。 「イスはわたしのイスを使うね。音楽が止まった時に先に座った方が勝ちで」 「りょうかい!」 スマホを花蓮の机にセットし、わたしたちは向かい合ってイスの近くに立つ。 「じゃあ、ゲームスタート!」 曲を再生し、わたしたちはイスの周りを時計回りに歩く。 歩いてから数秒後、音が一瞬だけ止む。瞬間、花蓮がイスに座った。花蓮は、やってしまったという顔をする。音楽はまだ流れていたのだ。 「ごめん、静かになったから音楽止まったかと思った……」 花蓮は今にも泣き出さんばかりだ。花蓮は続けて言う。 「前にもずるしてしまったね。わたし、前のしりとりで友香にずるするなとか言ってたくせに、最低だよね……」 花蓮の泣き出しそうな表情を見ると、わたしまで胸が痛む。その瞬間、音が止んだ。わたしは花蓮のイスに座り、言った。 「わたしも、間違えて花蓮のイスに座ったから、ずるしちゃった。これで、お互い負けだね」 わたしが言うと、花蓮は吹き出した。わたしも釣られて笑ってしまう。花蓮は、笑いを堪えながら言った。 「前もそんな感じだったね」 「じゃあ、今回は割り勘で」 「うん!」 それから、わたしたちは教室を一緒に出た。下駄箱で、わたしは花蓮に聞く。 「そういえば、花蓮が行きたいカフェってどこの?」 「駅前にオープンしたてのカフェだよ」 「じゃあ、いすとりに負けないようにね」 夕日が差す中、わたしたちの笑い声だけが響いていた。
ギフテッド
望んで手に入れたわけではなかった。わたし自身、そんな才能、欲しくなかった。 それなのに—— ただ後悔だけがわたしの脳内を彷徨う。苦しくて、息ができない。 ——咲はいいよね。将来有望で。 そう、友人の百香は口にした。その言葉は、わたしにとってひどく傷むものだった。 わたしはただ人より暗記が得意なだけだった。画像記憶をすることができ、教科書の内容は一言一句すべて覚えることができた。だけど、嫌な写真も忘れることできなかった。わたしは百香のあの顔を、今でも色褪せずに頭の中に一枚の写真として記録されてる。 ——あーあ、わたしだってそんな特殊能力、望むなら手に入れたかったな。 望むなら——わたしだってその特殊能力を手放したかった。なんなら、百香に譲りたかった。本来、特殊能力なんて、望む人に恵まれればいいのに。わたしは自分自身を呪った。自分が嫌いになる—— 先生は、わたしのことをギフテッドと呼んだ。ギフト、それはプレゼントととしての意味が広く知られているが、ここでいう意味は才能だ。ギフテッドと聞くと、天才という認識があるかもしれないが、わたしからしては生まれ持った特殊な能力以外は一般人とさほど大差がないと思っている。 実際、わたし自身画像記憶ができるという点を除けば他の人と大差がなく、むしろ劣っている方だった。体育だって得意ではなかったし、数学なんて全然できない。なんなら、この前の数学の定期テストで一桁の点数を更新したことがある。確かに、数学の公式はすべて覚えているけど、肝心の使い方が分からず、全然解くことができなかった。 だからみんな勘違いするんだけど、ギフテッドだからってなんでもできるわけではない。特定の分野だけ得意なのであって、それ以外は一般人なのだ。わたしはよく知らないけど、サヴァン症候群と似たようなものだと思ってる。 それなのに百香はいつもわたしを妬んでいた。わたしは、単に普通に接して欲しかった。だけど、そんなことが無駄だってことはわかっていた。 結局、百香は最後までわたしと打ち解けることはなく、卒業した。それ以降は連絡も取っていない。 わたしはここまでの回想を頭の中に残ってるアルバムから写真を取り出しながら遡った。 もういいんだ。 わたしはそう思うと、アルバムを閉じた。 それから、同窓会が開催された。 二次会の時、たまたま隣が百香だった。百香はあの時とは全然違っていた。 「あの時はごめんね。咲には言ってなかったけど、私、ほんとは咲が好きだったんだ」 百香はただ、続けて言う。 「望むなら——咲と同じ大学に行きたかった」 その言葉を聞いた時、すべてがつながった。百香は、勉強をがんばってた。だけど結果が出ず、いつもクラスでは下から数えた方が早かった。 「だけど、私、バカだったね。違う大学行っても、咲とは仲良くいれたはずなのに。勉強だけでなく、中身も不器用だったんだって今でも後悔してる」 思えば、百香はわたしのことを一度も嫌いとは言っていなかった。百香は、わたしと同じ大学に行ってわたしと一緒にいたかったんだ。 これを聞いた時、わたしは百香に言った。 「望むなら——わたしはこれからも百香とずっといたい」 これは本心だった。心の底から望んでいた。百香とずっと友達でいたい。ずっと一緒にいたい。百香は微笑を浮かべた。 「ありがとう。だけどね、もう無理なんだ」 頭が真っ白になる。恐る恐る、わたしは聞いた。「なんで?」 「私、もうここを出るんだ。専門学校卒業したら、東京の方に就職することになってて」 わたし自身、心のどこか底でハッピーエンドを期待していた自分があった。最後まで百香がずっと一緒にいてくれて、これが最高のギフトになるのだと望んでいた自分があった。だけど、そんなのは夢物語だ。 自然と涙がこぼれる。そんな時、百香は言った。 「望みはね、自分で叶えるものだってわかったの。私は、ずっと東京で内定をもらうのは不可能だって思ってた。だけど、必死にがんばってやっと内定をもらうことができたんだ。だからね、咲もきっとこれからいろんな望みを叶えていくと思うんだ」 百香の言葉に自然と涙が止んだ。気づけば百香は笑っていた。優しい笑みだった。 「望むなら——咲には幸せになってほしい」 その言葉にわたしは救われた。これこそがわたしのギフトだったのだ。 あれから数ヶ月が経った今となってはわたしは一流企業に勤めている。だけど、あの百香の笑顔だけは今も鮮明に頭の中に写真として残っている。