Yameta
4 件の小説洞窟の歌
暗く湿った洞窟へ、船をゆっくりと進める。櫂(かい)が静かに水をかき、水面に滑らかな波紋を描く中、訪問者は息を潜めながら辺りをそっと見渡した。 洞窟の中は薄暗く、天井から滲む水滴が水面を柔らかに打っている。ぽちゃりと響き渡る水面下は、夜空のように深い紺を纏い、訪問者の視界を何処までも覆い尽くしている。 空気は冷たく、吐息はたちまち白く染められ、霧のように散ってしまう。みるみるうちに身体が濃厚な絵の具で色付けされていくようだと、訪問者の口は独りでに弛緩し、ささやかな感嘆を漏らしていた。 いつだったか、海沿いの小さな村で、海には美しい歌姫が住んでいるという噂が広がっていた。 歌姫の宮は絶壁の下に空いた小さな洞窟の、更にその最奥部にあり、村の漁師によれば、その奥に行けば歌声を聞けるのだという。 その声は清く、小鳥のさえずりのように甘美で、耳にした者はたちまち舟の上で眠ってしまう。 ほとんどの者は舟を転覆させ、そのまま帰らぬ人となるが、何人かは奇跡的に生き残っているようで、そのうちの一人である漁師は、洞窟の体験を夢でも見るかのように語っていた。 海に散りかけたにも関わらず、恍惚に埋もれていく人々の顔。しばらくの間、訪問者の彼らに対する疑念が晴れることはなかった。 一方で、一度は目にしてみたいという好奇が訪問者の中に渦巻き、ついに今日、洞窟に足を踏み入れることになってしまった。 それにしても、不思議な洞窟だ。水面に触れるか触れないかの距離で、何羽もの蝶がひらひらと飛んでいる。 蝶の羽はほの明るく灯り、一、ニ、三粒と、天井から水滴が滴り落ちる度に、羽の色が分光器のように七色に変わってゆく。 洞窟を住処とし、更には発光する蝶など、今までに見たことがない。加えて羽は透き通り、まるでガラス細工のようなひび割れ模様を映している。 夢のような世界だ。今更ながら、虫かごを持参しなかったことに唇を噛み締める。 しかし、ここで舟を止めるわけにもいかない。一度は歌姫に会っておかねば、それこそ悔いが勝ってしまう。 舟が蝶をかき分けるように、すいすいと進んでゆく。やはり、会わずに帰るわけにはいかないのである。 段々と蝶の光が遠ざかり、視界が暗闇に染められた。 奥へ進むほど洞窟の幅が狭くなっているのか、舟の縁と岩の擦れ合う音が大きくなり始めていた。 暗闇は果てしなく続き、一体どこまで舟を漕いだのかわからない。 先程から疲労ばかりが腕に蓄積し、訪問者から深いため息が漏れる。洞窟内の冷気に晒されすぎたのか、身体の方も小刻みに震え始めている。 しかし、ここで引き返してしまっては面目が立たない。身体は違和感を感じているが、信じる他ないのだ。 もう少しだけ進んでみようと、訪問者は暗闇の先へと目をやり、櫂を握りしめた。 更に奥へ潜り込んだ頃、肺が氷を吸ったように固まり、訪問者の呼吸は荒々しくなっていた。 真っ暗闇の中、周囲にはただ冷気だけが渦巻いている。身も心も凍え、訪問者に漠然とした不安が襲いかかる。 『このまま、一人狭い洞窟の中に閉じ込められてしまうのだろうか?』 助け舟を求めるにも、訪問者はあまりにも奥へ進んでしまっていた。引き返すにも、体力を消耗しすぎていた。静まり返った洞窟内で、訪問者の小さな吐息だけが頼りなげに響いている。 ああ、怖い。誰か、誰か助けてくれ。 突如、ぽちゃり、と滑らかに水面を打つ音が聞こえた。 視界が暗く、狭い洞窟のためか、水の音が耳のすぐ傍で反響している。何処から発せられたのか、一度では把握することができない。 しかし、なんと甘美で柔らかな音だったのだろう。先程まで抱いていた暗闇への恐れが、あっという間に和らいでしまった。 不思議な響きが、頭の中で何度も繰り返されている。もう一度、せめてもう一度だけ響かせてくれれば。その響きが、どれだけ慰めになることか。 ぽちゃり、ぽちゃり。 打った。また音が舟を打った。 舟の振動が身体を伝う。ぞくぞくと、下から上へと体内が火照り始める。 とても繊細な揺れだ。こちらが息を潜めていなければ、たちまち逃げ去ってしまいそうで、どうにも身体が落ち着かない。 胸が高鳴っている。鼓動が相手を遠ざけてしまわないかと、不安で張り裂けそうになっている。 鎮まれ、鎮まれと何度も身体に言い聞かせるが、呼吸はますます荒ぶってゆく。 苦しい。なんと苦しい時間だろう。 生温かいものが手の甲に触れた。 薄く滑らかなそれは、手の輪郭をなぞり、するりと船の下へ落ちていった。 ぽちゃり、と官能的な響きが耳を包み込む。暗闇で姿を目にすることができないが、とても親密で、捕まえてしまいたくなるほどに愛らしい。 身体はすっかり熱を帯びている。訪問者には、まぶたが半分眠ったように閉じ、自身の頭が独りでに揺れているのがわかっていた。 舟が微笑みを乗せながら、水面の上に浮かんでいる。訪問者が浮遊感に身を任せ、ぽつりと呟く。歌は声ではない。揺りかごのような存在そのものだったのだ。訪問者がその正体に気づいた頃には、その感触が身体にぴとりと張り付いていた。 『来て』 耳元に、艶めかしい肉感が伝う。暗闇が存在を得たようにくねりだし、控えめに腕に絡みつく。 返事をしなければならないが、喉が甘い感触に撫でられ、快楽に溺れてしまう。 ああ、帰れない。二度と帰れなくなってしまった。 舟の上で、訪問者は夢を見ている。その柔らかな尾ひれに魂を閉じ込めてくれと、水面に向かってひたすら乞うている。 訪問者の火照った顔から、涙がぽつりと流れ落ち、悲しげに水面を打った。
百合の色
剪定バサミを握り、白い百合の茎を慎重に挟む。パチンと金属部分がぶつかり合い、大きな花弁がぽとりと落ちた。俺は百合の頭をつまみ上げ、水をたっぷり張った水槽にそっと浮かべる。 「ひどいのね」 水槽が透明なガラスのショーケースのように、きらりと光を反射する。底には軽石が規則的に並べ、敷き詰められており、その上を百合がすいすいと泳ぐ。真っ白な金魚だ。手のひらが水槽の壁に触れる。 「どうして、こんなことを」 すらりと伸びた華奢な首、ふっくらと膨らんだ白い頬。部屋の隅に添えられた君は、蜜のように甘い視線で、いつも俺を見つめてくれた。瑞々しく健気な姿で、いつも微笑みかけてくれた。俺はその顔が好きだった。だから今、そんな悲しげな顔を見せるのは止めてくれ。昔の姿のまま、この場で散ってくれないか。 「あなたって、残酷」 花弁が一枚剥がれ、水の重みで沈んでいく。ゆらゆらと揺れて落ちた先は、錆色の丘。燃えかすのように蝕まれ、すっかりくたびれた他の花たちの亡骸。甘い香りが、水面から煙のように漂っている。水上に浮かんでいた百合の花弁に、雨粒がぽつぽつと滴り落ち、一枚、また一枚と沈んでいく。 「やめて、やめてよ」 百合の悲痛。雨はますます激しくなり、柔らかな花弁を打っては沈ませる。残酷なのは君の方だ。君の心はあまりにも真っ白で、何一つ混じり気がなくて、痛いくらいに胸が締め付けられる。 「嫌だ、嫌だ」 方舟のように揺れる花弁。偲びの涙を乗せ、いつまでも、いつまでも荒波の中でもがいている。最後の一滴が水面を穿つと、いよいよ枯れ果てた空が俺の顔を覆い尽くした。 「助けて」 俺は水槽に手を浸す。水中で溺れた花弁がふわりと舞い、次々と手の周りに集まる。穢れなき一心が皮膚に吸い付いているような、しがみついているような、くすぐったい感触が伝わった。この花に慎ましい儀式はそぐわないのではないかと、今更ながら考え始める。 「助けてよ」 野性的な叫び、罪深き執念。君に抗えない本能があるならば、共に償ってみよう。俺は剪定バサミを開き、刃を手首に押し付けた。開いた傷口から、赤い染料が流れ出る。ばらばらに散りかけていた花弁に、赤い紐が絡みつく。 「いいの?」 真っ赤に染まった百合。三日月のように微笑みかける君。いいさ。共犯者にだって、生贄にだってなってやる。だって、俺は君に弔われたい。 そうだ、もっと笑ってくれ。 見せかけの美しさでも、君なら構わないから。
息
高さ約十センチメートル、円周三十五センチメートル。 目の前の円柱を両手で覆い、感触を確かめる。 強ばった筋肉、熱を帯びた皮膚。 円周÷円周率、直径十一センチメートル。 断面を測らずとも解ける問題。 私は胸を撫で下ろす。 彼の汗が私の手のひらに滲み、じわりと溶けていく。 温もりに満ちた汗、健気であどけない、思わずあなたから漏れてしまった体液。 私の手の中でもがき、苦しみ、かすれ声で助けを呼ぶあなたの声。 一粒一粒を、すくい上げて、あなたの声ごと飲み込んでしまいたい。 私の舌が彼の首を這う。 「海の香りだわ」 汗粒を絡め取った舌が、独りでに踊りだす。首を絞める手のひらがますます熱くなり、彼の顔が歪み始める。荒波に揉まれた岩のような、窪んだ目元と、隆起した頬。のたうち回りたいという衝動をかき消すように、彼は唇を噛み締めている。 「海へ、行ったのね」 真夜中のダブルベッドが二人の重さで軋み、シートに皺をつける。テーブルに置かれた唯一のランプが、部屋をほの明るく灯し、身体の輪郭をあらわにしている。首の真ん中から突き出た喉仏が、陰影を伴いながら、艶めかしく煌めいている。私が指の腹で喉仏を撫でると、彼は不意をつかれたように、小さく呻いた。 「私も連れて行ってよ」 彼のかさついた唇に接吻する。彼の荒い息遣いが伝わり、心臓が激しく脈動し始める。滑らかに回る舌が、互いに触れ、離れ、また縋るようにまとわりつく。彼の舌は忙しなく私のものから逃れようとするが、私が深く舌を入れると、彼は嘔吐き、首を振ろうと動き出す。私は首にのしかかるように、両手に力を込め、体重をのせた。 「連れて行ってったら」 筋肉に爪が食い込むと、彼はますます暴れだした。太い腕が私の腕に絡みつき、懸命に引き離そうとしている。真夏の砂浜のような、焼けるように熱い彼の身体。皮膚の湿りが、生命が息絶える前の焦燥を表し、最後の救済を訴えかけている。擦れ合う腕、摩耗する時間。あなたに投げかけた、無意味で滑稽な問い。あなたの気管は、一体何センチメートルだったのかしら。 コンパスを手に取って、平面図形であなたを模して。 この日のために取っておいた、私の人生。 あなたの吐息が何処からやって来るのか。 どうすれば手に入れられるのか。 あなたの首の長さ、太さ、強さが知りたくて、ずっとあなたのことを考えていたわ。 高さ約十センチメートル、円周三十五センチメートル。 大理石の彫刻のように、あなたを測っては削っていたけれど。 あなたの全ては、今この瞬間に最も激しく渦巻いている。 止まらない脈動、滴り落ちる塩っぽい汗粒。 熱い息が通る道。あなたの生命が燃え盛るひととき。 あなたと本物の息を交わす、最初で最後の時間。 独りぼっちの夜の砂浜。 寄せては返す波に身体を浸して、あなたの声に耳を澄ませる。 優しく疲れ果てた、あなたのメロディー。 水面が滑らかに波打ち、私の心を揺さぶっている。 来たる潮騒の日、今日もあなたは攫ってくれなかった。 私を連れて行ってよ。 もう、独りにしないでよ。
海へ
崖から足を踏み外すと、水面で僕の身体が砕ける音が響き渡った。 小さな気泡が視界を遮り、水面の美しい模様がぼやけていく。 やがて意識は暗闇にのまれていった。 再び目を開けた時、僕は異なる景色を目の当たりにした。 肉体の裂け目から、血液が流れ、赤い雲となって水中を漂っている。 醜い色を見て、僕の実感が蘇った。 ああ、僕は死んだのだ。 壊れた肉体、肉体なき精神。 海底に横たわった一体の人生。 そんなものか、とため息を漏らすための口はもうない。 光を見上げようと、起き上がるための胴体もない。 僕の肉体は完全に散ってしまった。 砂埃が舞う中、魚の群れが僕を囲う。 肉片を食む小魚、小賢しくつきまとう無数の唇。 だけど、僕はもう死んだのだ。 僕の腸が浮いている。 腹部から魚に引っ張り出され、海水をたっぷり含んで膨れ上がっている。 腸はまだまだ中に詰まってるようで、魚が引っ張れば引っ張るほど、紐のように遠くへ伸びていった。 この臓物は、これから一体誰のものになるのだろう。 僕は考えることができない。 僕の脳みそもまた、割れた頭蓋骨から漏れ出し、水中を漂っているからだ。 僕にはもう考えるための脳みそがない。 僕はしばらく間、自分の脳みそを眺めていた。 大脳は歪み、扁桃体と思われる部分が魚につつかれている。 僕は腹がよじれるような笑いを予知したが、まもなく予想外の感覚に襲われた。 僕は確かに笑っているのだが、それは筋肉による引力がなく、どこかよそよそしい笑みだった。 例えるならば、それは食べ物を口にせず、見るだけで味わっているような感覚だった。 僕は首を傾げたかったが、最早首すら見当たらない。 僕の肝臓、僕の胃袋、僕の腎臓。 僕の臓物が次々と流れていく。 やがて僕の身体は割れた頭部のみになった。 頭部は海底の泥に埋まり、まるで置き物のように横たわっている。 なんだか貝になったような気分だ。 いつか僕の精神はこの頭蓋骨を住処にするかもしれない。 僕は海底に住むただ一匹の貝となって、静かに暮らすのだ。 かつての僕には、手足があった。 目があり、鼻があり、耳があり、口があった。 しかし、今の僕はその全てを海で削り、捨て去ってしまった。 今、僕の頭蓋骨には、各部位を表す穴や窪みだけが残っている。 正面の二つの窪みは、かつての僕。側面の二つの窪みも、かつての僕。 かつての僕はこれらの部分で世界を捉えていた。 目を閉じ、耳を塞ぎ、世界を遮断していた。 どうやってそれらの動作をするのか。今の僕はもう忘れてしまっている。 目なき、耳なき、手足なき僕の精神。 体感なき感覚。感触なき存在。 この精神が居なくなれば、僕は一体何処へ行くのだろうか。 孤独。 僕はそれを目指して、海へ飛び込んだ。 地上は僕が住むにはあまりにも騒々しかった。 僕は家に帰るようにして、海へ飛び込んだ。 ふらりと散歩をするように、海へ飛び込んだ。 美しい。ただ美しい。 虚しい、ただ虚しい。 そんな歌を口ずさみながら。 地上に、この手紙と一組の靴と残して。