洞窟の歌
暗く湿った洞窟へ、船をゆっくりと進める。櫂(かい)が静かに水をかき、水面に滑らかな波紋を描く中、訪問者は息を潜めながら辺りをそっと見渡した。
洞窟の中は薄暗く、天井から滲む水滴が水面を柔らかに打っている。ぽちゃりと響き渡る水面下は、夜空のように深い紺を纏い、訪問者の視界を何処までも覆い尽くしている。
空気は冷たく、吐息はたちまち白く染められ、霧のように散ってしまう。みるみるうちに身体が濃厚な絵の具で色付けされていくようだと、訪問者の口は独りでに弛緩し、ささやかな感嘆を漏らしていた。
いつだったか、海沿いの小さな村で、海には美しい歌姫が住んでいるという噂が広がっていた。
歌姫の宮は絶壁の下に空いた小さな洞窟の、更にその最奥部にあり、村の漁師によれば、その奥に行けば歌声を聞けるのだという。
その声は清く、小鳥のさえずりのように甘美で、耳にした者はたちまち舟の上で眠ってしまう。
ほとんどの者は舟を転覆させ、そのまま帰らぬ人となるが、何人かは奇跡的に生き残っているようで、そのうちの一人である漁師は、洞窟の体験を夢でも見るかのように語っていた。
海に散りかけたにも関わらず、恍惚に埋もれていく人々の顔。しばらくの間、訪問者の彼らに対する疑念が晴れることはなかった。
一方で、一度は目にしてみたいという好奇が訪問者の中に渦巻き、ついに今日、洞窟に足を踏み入れることになってしまった。
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カテゴリー: ファンタジー
投稿日時: 2023/9/21 15:08
最終編集日時: 2023/9/21 15:14
Yameta