はのん
3 件の小説金木犀
朝目が覚めると、庭の金木犀が咲いていた。 何をするより早く庭に出て、今年も咲きましたよ、と心の中で呟く。また、今年も。 何年前だったろうか、あなたに出会ったのは。 確か、大学生のとき。 あなたは先輩のくせに、初対面の後輩に満面の笑みで絡んでいくような人だった。でも優しくて、心まで綺麗な人。 いつのまにか憧れになっていた。僕の手が届くような人ではなかったけれど。 あなたは金木犀が好きだった。 秋に遊びに行くと必ず、金木犀の木がある公園に連れて行かれた。 「いい匂いだねぇ」 金色の絨毯の上であなたは笑った。 「似合いますね」 なんてことを言うと、「そんなことないよ」と謙遜された。 ずっとそんな関係が、続くと思っていたのに。 あなたと最後に会った日、もう会えないと直感で分かった。 秋の夕日が、あなたの銀の指輪に反射していた。 最後のプレゼントは、金木犀の苗。僕はそれを何も言わず受け取った。あなたもそうだった。 あれから今まで僕は、律儀に金木犀の世話をしている。毎年秋は甘い香りがして、あなたを思い出す。 この金木犀の寿命がきたら、あなたを忘れられますように。 そう願いながら、僕は強い香りの小さな花を拾った。
人魚は水に還る
ある学校に、「人魚姫」と言われる女の子がいた。 人魚姫は美しかったけど、誰が声をかけても彼女の長い黒髪は揺れなかった。 「王子様と結ばれたいの」 「海に落ちた王子様を助けるの」 誰に対しても、それだけだった。 貝がらの髪飾りを触りながら、彼女はたまに微笑む。それはこの世の何よりも綺麗だ。 みんなそんな彼女に釘付けだった。 僕もその1人であり、僕は唯一の例外だった。 転校生の僕に、誰も興味がなかった。それなのに、彼女だけは僕を見てくれた。 毎日話しかけてくれたんだ。 「君は、私がいないとダメなんだね」 いつのまにか、彼女は僕にそんなことを言うようになった。 そうだよ、僕は彼女がいないとダメだ。 僕たちは目を合わせて、ガラス壁を隔ててキスをした。 「直接はダメだよ」 彼女は綺麗に微笑んで言った。 ある日、彼女はこんなことを言った。 「やっと王子様を見つけたの」 動けなかった。彼女の言葉が上手く飲み込めなかった。 「君だけに教えるね。信頼してるから」 やっと君は好きな人と結ばれるんだ。待って、誰のもとにも行かないで。 言いようのない感情がごちゃ混ぜになって、その後の声がよく聞こえなかった。 彼女は、僕の人魚姫じゃなかった。それだけ覚えてる。 翌日、教室は人魚姫の話題で持ちきりだった。 彼女は昨晩、亡くなったらしい。遺体は見つかっていないが、近所の人が彼女が海に行くのを見たとのこと。 きっと、君は泡になって消えたんだ。最後まで王子様と結ばれなくて。 ガラス越しに映った君の机に、花瓶が置かれていた。 ねえ、君がいないと僕はダメだよ。でも、良かった。 —おめでとう、人魚姫。 *** 人魚姫が亡くなった数日後、教室の隅で飼われていた金魚が死んだ。 本当はもっと前に死んでいたのかもしれないが、誰もその金魚に興味がなかったから分からない。 そういえば、人魚姫は毎日あの金魚の世話をして話しかけていたっけな。 まあ金魚だし、餌がなかったらそりゃあすぐダメになるよな。
約束
「絶対また、会いに行くから」 君は確かにそう言った。言ったはずだ。言われたから、私はまだ君を待っている。 私はまだ、君を忘れていない。 七月九日。午後の授業中。ふと昔の約束を思い出した。何かその約束に関係するものがあったわけでもなく、本当にふと。 今は数学の授業をしている。でも、私はなぜか先生の話に集中しようとは思えなかった。仕方がないから、私は諦めて、君との記憶を引き寄せることにした。 別に特別じゃなかった。友達の妹で、たまに会うくらいだったから。 すごく素敵な人ってわけでもなかった。どこにでもいるような、普通の子だったから。 年下なのに私より大人っぽかったのは、気に入らなかったけど。 君は友達とよく似た顔で、いつも三つ編みで、いつも微笑んでいた。その表情は好きだった。 でも君は、中二の夏にいなくなった。 「あの子は?」って聞いたら、「入院中」って返ってきた。 驚かなかった。病弱だってことは知っていたから。 「そっか。頑張ってね」 他人事みたいにそう言った。他人事だと思っていた。でも、そういうわけには、いかなかったらしい。 友達に。君の姉に、お見舞いに行くからついてきてと言われた。 真っ白な部屋に、真っ白なベッドがあった。祖母が亡くなったとき以来の光景だった。 君の顔がベッドに負けないくらい白くて、もう死んでしまったのかと思った。 君の右腕に点滴が打たれていた。友達が声をかけると、君は目を開けた。 「ありがとう」 なぜか、私を見てそう言った。微笑んでいた。 友達は君とひとしきり話したあと、病室を出て行った。 私は君と、2人きりになった。 「……あのね」 最初に沈黙を破ったのは君だった。熱があるのか、顔が少し赤かった。 細い三つ編みを触りながら、君は言葉を続けた。 「私もう、長くなくて。さいごに言いたいだけだから、聞き流してもらっていいんだけど」 その瞬間、君が言おうとしている言葉を、悟った。 「…ずっと好きでした」 悲しいことに、予想した通りだった。 私の喉に、透明な壁があるみたいだった。言いたいことが言えなくて、わからなかった。 嬉しいも、嫌だも、待ってもわからなかった。 一瞬でも、「君でいいや」なんて思った自分を恨んだ。 黙り込んだ私を見かねたのか、君は「もう大丈夫。帰っていいよ」と言った。 何か言おうと思って顔を見た。 そのときの君は、私の知らない微笑みを浮かべていた。切れ長の瞳が、わずかに潤んでいた。 いつもより大人っぽく見えた。気に入らない。もう、大人にはなれないくせに。 病室を出る直前、君は言った。 「絶対また、会いに行くから!約束するから、だから、待ってて!」 私は小さな小さな声で、「…うん」とだけ呟いて、部屋を出た。 それが最後だ。その夏にいなくなったんだ、君は。 最後に会ったのは —「七月九日」 「っ!」 急に、意識が連れ戻された気がした。 「…なので、足して十六番の人」 先生がそう言った数秒後、あなたが問いに答えた。 そっか、思い出した。今日は君と最後に会った日だ。 君の命日は知らないから、私はこの日を命日にしている。本当の命日は、あなたが教えてくれなかった。 あなたはノートに落書きをしている。その横顔さえも、綺麗で。 「大丈夫だよ」と、誰かが囁いた気がした。 …本当に気に入らない。 そうやって私を幸せにさせるつもりなんだ。そうやって初恋を続けさせるつもりなんだ。 きっと君がこの日に、私の記憶を無理やり繋いだんだ。 でもきっと、大丈夫じゃない。私とあなたは結ばれない。 君だって分かってるくせに。こんなことのために、会いにこないでよ。約束を果たしたつもりにならないで。 …私を振り向かせようとしてよ。どうせずっと叶わないから。 そう心の中で言って、私は君によく似た顔から目を逸らした。