飛鳥

5 件の小説
Profile picture

飛鳥

気づいたら百合小説書いてる人

5話

「おはようございます」  挨拶しながら自分の席に着く。まばらに返事が返ってくる。  朝の八時。まだ事務所の電気はついていない。明かりはみんなが開いているパソコンの画面だけ。  いつもみたいに本を開く気にもなれず、パソコンを開きメールをチェックする。野中さんからメールが一件。東受付の周りで工事が始まったらしい。  スクロールすることもなくメールチェックが終わった。  何かをするわけでもなくぼうっとパソコンを見つめる。今日は何をするんだろう。  当面はパソコンを使った改善か現場聞き取りが私の仕事だと聞いている。パソコンはともかく、現場聞き取りは上手くいく気がしない。  今まで最低限の会話しかしてこなかった。おはようございますとお疲れさまでした。そして仕事上のやり取り。それ以外のことを会社で話したことがない。  そんな奴が聞き取りなんて向いていない。早いうちに野中さんに打ち明けたほうが良い気がする。朝礼が終わったら言ってみよう。 「はい、おはようございまーす。今日はお知らせなんもないわー。会議体もないし。今日の俺の仕事は藤代さんに仕事内容教えるのと今度の報告資料作るくらいかな」 「俺は昨日やりかけで終わっちゃった改善があるんで午前中はそっちやります。午後は表示剥がれの点検と修復行ってきます」 「この前、品質保証課と打ち合わせしてスケジュール作ったんで共有会したいんですけど、今日でも良いですか?」 「あー、前言ってた件か。俺と藤代さんはいつでも良いよ。松野は?」 「いつでも良いっすよ。良いけど午後だとありがたいっすね」 「じゃあ午後イチで。予定表送るんで参画お願いします」 「了解。じゃあそんな感じで今日も一日お願いします。唱和いきまーす。安全行動ヨシ! ゼロ災でいこうヨシ!」 「「安全行動ヨシ! ゼロ災でいこうヨシ!」」  朝礼が終わりみんなそれぞれの仕事に向かっていく。 「俺らも行こうか。今日は現場行って聞き取りしよう!」  打ち明ける暇もなく現場に直行することになった。 「おはようございまーす!」 「お、おはようございます……」  元気よくラインの人に挨拶する野中さんに続く。既に生産は始まっていて、ちらりとこちらに視線を向ける人、元気よく返事をする人、何事もなかったように仕事をする人。反応は人それぞれだった。  そんなの関係ないとばかりに野中さんは明るく振る舞う。反応しない人にだって挨拶する。 「あ、野中さん。おはようございます」  ひょいっとラインの端にある机から男の人が顔を出した。このラインの管理者の人だ。帽子にバッチが付いているから一目で分かる。 「おー、ノセ。おはよう! どう? ライン」 「いやー昨日やばかったっすよ。作業者が一人休みで。俺もライン入ったっすけど残業時間までかかっちゃって。今日は休みもいませんし、いつも通り流れてます」 「休みはしょうがねぇなぁ。他のとこから人、借りれんかった感じ?」 「習熟が追い付いてないもんで……。借りられる人がめちゃくちゃ限られとるんすわ」 「そこはなんとかしてぇなぁ……。誰でも出来るように見本サンプル置くか、いっそのことタブレット置いて作業の動画流すか……。今後の課題だな」  目の前で会話が続く。口にはさむことも無く黙って野中さんの後ろにいるとノセさんと目が合った。 「野中さん、その子は……?」 「ああ! ごめん藤代さん!」  勢いよく野中さんが振り向く。 「こいつはノセ。ここの管理者ね」 「一瀬《いちのせ》 和人《かずと》です」 「藤代です。お世話になります」  ぺこりとお互い頭を下げ合った。一瀬さんとは初対面だ。 「こいつ、アラサーだから」 「まだギリギリ二十代っすよ!」  二十九歳だと教えられた。思った通り年上だった。 「ああ、そうそう。ノセ、聞き取り調査に来たんだけど俺たち。作業者に話しかけて良いか?」 「良いっすよ。ただ検査、梱包工程だけ出荷に追われてるんでちょっと今日は止めてもらっても良いですか? 他の工程はガンガン話しかけてもらって大丈夫なんで」 「分かった。行こう、藤代さん」 「……はい」  さっき挨拶に反応しなかった人もいるのに、何も気にせず野中さんはラインの中に入っていく。  ラインで生産している人は私たちがずかずかと入り込んで来たら良い気はしないだろう。現場の人は事務所の人が嫌いだ。ずっとラインにいたから分かる。面と向かって口にする人はいないけど、そんな空気だから。  現場で働いているわけでもないのに現場に口出すな、誰かが裏で愚痴っているのを聞いたことがある。  事務所の人にああしろ、こうしろって言われるとみんな嫌がる。それを知っているからこそやりにくい。  ああ、もう野中さんが作業者に話しかけている。私も行かないと———— 「やりにくい、間違えやすい作業とかありますか?」 「いや特に……」 「色間違いとかサイズ間違いとかは?」 「それは……まあ、たまに。でも検査で気づくので流出不具合にはなってませんよ」 「なるほど、ね。ここに色見本設置しても良いですか? こげ茶と茶色は見間違えやすいから見本が合ったほうが間違いが減ると思いますよ」 「あ、ああ。確かにその二色はよく間違えるんだ。なんだ、野中さん結構現場のこと知ってるじゃないか……」 「最近はずっと事務所ですけど、数年前まで現場で管理者やってたもんで。あとはサイズ間違いですね。サイズの種類が2種類しかないなら巻尺《まきじゃく》に印でもつけましょうか」 「確かに。それなら……。今も巻尺で測ってるけど印があったら見間違いもなくなるし、楽になる。こんな一瞬ですごいな……」 「いえいえ。現場の皆さんに作業してもらってる立場ですから、こっちは。いかにやり易く出来るかを突き詰めていくのが大事なので。じゃあ、今日はこれぐらいで。色見本と巻尺はなるべく早く作って持ってきます。ちょくちょく今日みたいに聞き取りに行くと思うのでその時はお願いします」 「ああ、野中さんなら任せられる。次もよろしく頼むよ」  このラインで一番年長で職人気質なおじさんにすっかり気に入られてしまったらしく、楽しそうに二人で話している。  私の心配は杞憂だったのだろうか。野中さんは分け隔てることなくみんなに話しかけていた。  本当なら私も一緒に聞き取りをしなくてはいけない。でも足が動かない。だって、こんなの、私には向いてない。  私はただ茫然とラインの入り口で立ち尽くしていた。

3
0
5話

4話

 夕飯を作り終えイヤフォンを外す。もう声は聞こえない。  再び訪れた静寂な中で食事を済ませる。  無音な中で食事をしていると意識せずとも早く食べ終わってしまう。洗い物を手早く済ませ、お風呂を沸かした。  手元無沙汰になってなんとなく。何の気なしに家の外に出た。コンビニでも行こうと思って。  玄関の扉を開けて階段に向かって一歩。踏み出した足が何かにぶつかりそうになる。 「……え」 「…………」  セーラー服を着た女の子が膝を抱いて座っていた。  俯いていて顔は見えない。隣の部屋の住人だろうか。  思うところはあるが何の関係も無い赤の他人だ。関わっても良いことは無いだろう。当初の目的通りコンビニに向けて歩き出す。 「あざっしたー」  やる気のない店員に見送られコンビニを後にする。  賞味期限が切れていた牛乳、明日と明後日の朝食のパン。それとチョコレートのお菓子を買った。  時刻は八時。もうお風呂は沸いているだろうし帰り道を急ぐ。 「…………」  階段を上った先で顔を上げると隣の部屋の住人はまだ座り込んでいた。  無視して部屋に戻る。いつもの私ならきっとそうしていた。でも何故か、ほんの気まぐれで足が止まった。 「……帰れないの?」 「……」  ずっと俯いていた顔がゆっくり動き、ようやく目が合った。 「……ッ」  息を呑んだ。涙に濡れた顔。唇は切れて血が滲んでいる。腕には痛々しい痣《あざ》。乱れたセーラー服。どれも非日常的で異常だ。  私は気まぐれで声をかけたことを既に後悔し始めていた。 「……無視して通り過ぎるかと思った。お姉さん、隣の部屋の人でしょ。朝たまに見かける」 「……そうだけど」  全くその通りだ。いつもの私なら無視していた。気づいたら特に理由もなく声をかけていたのだ。自分で自分が分からなくなる。 「お姉さん、人に興味無さそうだもんね」  くすりと笑う。口を動かすと余計に血が滲んで痛々しい。 「ねえ、何の気まぐれで声をかけたのか知らないけど。匿ってよ。お母さんが仕事に行くまでで良いからさ」  セーラー服の少女は部屋に入れろと言う。断りたい。けどこんなに傷だらけの子供を前にして非情になりきれない自分がいるのも確かで。  気づいたら少女に手を差し出していた。 「……ちょっとだけなら」 「やった。お姉さんありがとー」  私の右手を掴み立ち上がる。軽い。繋がった右手からほとんど重みを感じない。  この子は家で虐待を受けている? そもそも他人の子供を家に連れ込んで良いのか?  頭でぐるぐると思考が回る。 「大丈夫だよ。お母さん、十時には仕事に行くから。そしたらちゃんと自分の家に戻るから」 「……分かった」  少女の言い分を信じて鍵を開ける。お風呂に入って寝るだけだった予定が変わった。あと二時間。この少女の相手をしなくてはいけなくなった。 「洗面所そっちだから。顔洗ってきて。タオルは新しいの出して良いから」 「……顔? なんで?」 「血、滲んでる。痛くないの?」  人差し指で自分の唇を指した。少女もそれに倣って自分の唇に触れる。指に付いた血を見て呑気に本当だ、と言う。 「血出てたんだ。だからお姉さん、さっき私の顔見てびっくりしたんだね」 「……早く洗ってきて」  洗面所に向かう少女を見届けてからベッド脇にあるサイドテーブルの引出しを開けた。確かここに絆創膏《ばんそうこう》があったはず。  乱雑につっこまれた書類や封筒をどけながら探すが見つからない。自分がケガをすることなんて滅多に無いし、使い切った後に補充をしなかったのかもしれない。小さく溜息が出た。 「お姉さん。タオル、洗濯機に入れちゃったけど良かった? ちょっと血が付いちゃったから水で洗ってから入れたんだけど」 「あー、うん。良いよ」  引出しを戻し、少女のほうに身体を向ける。まだ少し口の周りは赤い。目も充血して赤くなっている。 「ごめん。絆創膏、探したけど無かった」 「え? いいよ、こんなの。時間が経てば治るし。それよりお姉さん名前、教えてよ」 「藤代《ふじしろ》」 「下の名前も教えてよ」 「……羚《れい》」 「じゃあ羚さんって呼ぶね」  この子と関わるのは今日だけのつもりだったが向こうはそうではなかったらしい。長く付き合うつもりが無いなら苗字だけで納得するから。気が無い人は下の名前なんてまず聞かない。 「私の名前も聞いてよ」 「……名前、教えて」 「神田《かんだ》 彩織《いおり》。高校二年生だよ」  高校二年生と聞いてふと思い出す。神田さんが着ているセーラー服は見覚えがある。私が高校生の時に着ていたものと似ている。 「ねえ、その制服ってどこの?」 「大商《だいしょう》だよ。数年前に制服変わってさ、前のほうが良かったのになー」  大商は私の母校だ。大沢商業高校、略して大商。商業高校に通っていたからこそ今の会社に就職出来た。 「羚さんはどこの高校だったの?」 「大商」 「先輩じゃん。ウケる」  何がウケるのか分からないが神田さんはウケていた。まさか隣の家の子供が母校の後輩なんて思わなかった。世間は狭いなとしみじみ思う。  こんなに楽しそうに笑っているのに口からは血が滲み、腕には痣がある。きっと見えないだけで他にも傷があるだろう。  この子がなんでこんなに元気なのか私には分からない。それを本人に聞いて良いのかも分からない。 「羚さん、今、私の心配してたでしょ。いいよ、これくらい慣れてるから」    慣れているなんて。そんなの異常だ。 「……それ、学校でなにか言われないの?」 「言われないよ。言わないでって顔してるから」  ガチャリ。まだ十時になっていないのに隣の部屋の扉が開いた音が聞こえた。階段を降りる音も聞こえるから誰かが出て行ったらしい。 「今日は早めに仕事行ったみたい。そろそろ帰るね。羚さん、また会ったら話しかけても良い?」 「……また会ったら、ね」  神田さんはにこりと笑うと自分の家に帰って行った。  この部屋で一人暮らしを始めてから数年。初めて一人じゃない時間を過ごした。親でも友達でもない、隣の部屋に住む女子高生と。

4
0
4話

3話

 午前中は松野《まつの》さんと工場見学。という予定だったが結局いろんなラインの作業者に呼び止められ、工場全部は回り切れなかった。  あっという間にチャイムが鳴り、お昼休憩の時間になった。 「あー、ごめんね。全然見学出来なかったね。また今度解説しながら案内するわ」    松野さんは申し訳なさそうに言って食堂に歩いて行った。   「藤代《ふじしろ》さん、休憩時間だよ。食堂、行かないの?」  自分のデスクに戻り、お茶を飲んでいると野中《のなか》さんに話しかけられた。 「お昼ご飯は食べない派なので」 「えーまじか! お腹空かん?」 「大丈夫です」  女の子だから小食なんだろうとでも思ったのか、野中さんはそれ以上追及せず自分のお弁当を持って食堂に向かって行った。  お腹が空かないわけでも、小食なわけでもない。人が集まる食堂に行きたくない。ただそれだけだ。  お茶を飲みながら本を読む。  私の休憩時間の過ごし方はずっと変わらない。本を読んでいれば話しかけられることも少ない。それだけのために毎日本を読んでいる。  お昼休憩は十二時五十分まで。まだまだ時間は残っている。  静かに本に目を落とし、時間が過ぎるのを待った。 「はい、お疲れ様でーす。皆さん今日の進捗どんな感じですか?」  休憩が終わり、改善チームの昼礼が始まった。 「午前中に品質保証課と打ち合わせしてきたのでスケジュールが作り始められそうです。この案件、チーム内で近いうちに共有会するのでその時は集合お願いします」 「俺と藤代さんは工場見学するつもりだったんですけど、気づいたら改善してました」 「歩くだけで頼み事されるもんな、松野。ごめんね藤代さん、今度また時間取るから。あ、午後は俺のとこ来てくれる? パソコン設定できたから色々教えるわ」 「分かりました。よろしくお願いします」 「じゃあ進捗確認はそんなもんで。唱和いきまーす。安全行動ヨシ! ゼロ災でいこうヨシ!」 「「安全行動ヨシ! ゼロ災でいこうヨシ!」」  昼礼が終わり、野中さんに続いて事務所の中に入った。野中さんのデスクを見るとノートパソコンが二台。 「こっち、藤代さんのね。メールの設定まで終わらせといたから試しに開いてみて」  言われた通り右手でマウスを動かし、デスクトップのメールのアイコンをクリックした。 「開けました」 「じゃあ練習がてら俺にメール送ってみて。本文も件名も適当で良いから。まずは宛先に野中って入れて、そうそう。そこで何人か名前が出てくるから野中彰人を選んで」 「……送りました」  野中さんに教わりながらメールを送信した。件名は無し、本文はこれからよろしくお願いします、と。  私が送り終えるともう一台のパソコンを開きメールを確認している。カタカタと音がするからなにか文字を入力してるんだろう。 「ちゃんと届いてたよ。メールの使い方は大丈夫だね」 「はい。覚えました」  パソコンの右下にメールの通知が表示される。もうメールが届くなんて。一体なんだろう。私に用がある人なんているのかな。 『件名:無題 本文:こちらこそ。これからよろしくね!』  差出人は野中さんだった。そうか、さっき入力してたのって。 「俺の送ったメール、お気に入りフォルダ―に入れても良いんだぜ?」 「……」 「……藤代さんなんかツッコんで!」  結局、野中さんに教わって新たに作った野中さんフォルダーにメールは保存された。  パソコンの基本的な使い方、共有フォルダーを使う時のルール、その他にも細かいルールがたくさん。  必死にメモを取り、手を動かして頭に入れていく。今まで現場でやってきたことと何も変わらない。いつも通りメモを取って仕事を覚えるだけだ。 「はー、藤代さん優秀だなぁ。半日でだいたい教え終わっちゃったよ」 「……ありがとうございました」  定時のチャイムが鳴る少し前に区切りがついた。半日で頭に叩き込むのは大変だったが自分なりに頑張った。  今日は定時で帰って良いそうだ。野中さんに教わりながら今日の業務工数を入力する。  朝八時半から十七時半。八時間の労働を週に五回。土日、祝日は完全休み。高卒にしては中々良い条件で働かせてもらっていると思う。 「工数、入力できました」 「おー、後で承認しとくわ。もうチャイム鳴るね」  野中さんが言った通りチャイムが流れ始める。周りを見ると何人かの人がカバンを手に立ち上がっていた。 「藤代さん、お疲れ様」 「お疲れ様です。お先に失礼します」  帽子をデスク横にかけ、野中さんに一言挨拶しつつ立ち上がった。 「お疲れ様です。お先です」  事務所を出る時にもう一度、声をかけて退社した。  駐車場まで歩く。すれ違う人たちにお疲れ様ですと声をかける。これが社会人のルーティンなのだ。おはようございますとお疲れ様です。意識しなくても口から零れるまるで呪文のような言葉。どのくらいの人が心を込めて唱えているのかなんて分かったもんじゃない。  駐車場に着き、車に乗り込む。上着とリュックは助手席へ。  帰宅を急ぐ車の流れに乗り会社を出て家に直帰する。  家に着く頃には日が沈みかけていた。  築十八年のアパートの階段は少し歩いただけで音が響いてしまう。他の住人に迷惑にならないように細心の注意を払って上る。  二階の右端の部屋に辿りつき静かに部屋に入る。リュックを靴箱の上に置き、洗面所に向かう。  手洗いうがいをすませてキッチンに向かうと隣からすすり泣く声と激昂する声が聞こえた。ここ最近ずっとこうだ。私がキッチンに立つ時間、夕方になると声が聞こえる。  自分が怒られているわけじゃないのに嫌な気持ちになる。  こういう時は耳を塞ぐに限る。ベッド横に置いてあるイヤフォンで耳を塞ぐ。いつもより少しだけ音量は大きめでBGMを流し、再びキッチンに向かう。  家にいる時くらい心穏やかにいたい。

3
0
3話

2話

「おはようございます」  現場事務所におそるおそる入る。今日から私の職場はここになるからもっと堂々と入れば良いのだろうけど、あまり来たことがない場所は緊張する。  五年もこの工場に勤めているが自分の職場と休憩所、トイレくらいしか行ったことがない。        事務所は中にいる人が無言でずっとパソコンをカタカタ言わせていて怖いイメージがあるから苦手だ。 「おはよう。藤代さんだよね? 始業までここの席に座って待っててもらえるかな。朝礼が終わってから仕事の説明するね。あ、俺、藤代さんと同じ改善チームの野中《のなか》だから。よろしくね」 「はい。よろしくお願いします」  誰にも声をかけられず入口で立ち尽くしていた私に眼鏡の男の人が話しかけてきた。野中さんの案内のもと、窓際の空いているデスクに座る。  野中さん……見たことがある人だ。私が前にいた裏板生産ラインに改善に来たことがある。しかもその時は改善チームのリーダーだと言っていた。今日からあの人が私の上司になるのか。 「じゃあ藤代さん、自己紹介お願いね」 「はい。藤代《ふじしろ》 羚《れい》です。よろしくお願いします」  ラジオ体操が終わり、朝礼の後で私のことが紹介された。 「じゃあ俺らも順番に自己紹介しましょうか。朝も少し話したけど、野中《のなか》 彰人《あきと》です。改善チームのリーダーやってます。歳は三十六なのでオッサンです。よろしく!」 「……あ、俺? 右回りか。あ、えっと。初めまして。松野《まつの》 慧《さとし》です。二十四歳だから藤代さんの一個上かな? よろしくお願いします」 「えー、多井田(おいだ) 涼(りょう)です。三十歳です。野中さんよりオッサンじゃないです。よろしくお願いします」 「おい多井田、うるせーぞ!」  この四人が改善チーム。そこに今日から私が加わって五人になる。私一人だけ女だけど大丈夫だろうか。少し不安になった。  改善チームは去年の冬に新設されたばかりのチームだ。  ラインにいた時に改善チームが発足しましたというお知らせは聞いたことがあったが、メンバーまでは知らなかった。 「当面の間、藤代さんにはパソコンを使った改善とか、現場聞き取りをメインにやってもらおうと思ってます。女の子のほうがみんな話しやすいと思ってね。俺がスカウトした」  どや。と聞こえてきそうなほど野中さんは自慢げな顔をしている。私の異動の原因は野中さんだった。一体私のどこを見て話しやすいと思ったんだろう。 「とりあえず午前中は松野についてもらって工場見学がてら現場見ておいで。まだ藤代さんのパソコン設定終わってなくてここで出来ることなくてさ。俺、設定しとくから。それまでは松野のとこでよろしく」 「分かりました」 「じゃあ藤代さん、行こう」 「はい。お願いします」  帽子を深くかぶり、現場事務所を出た。 「じゃあ端から順番に回ろうか。前にいたラインって裏板だっけ?」 「はい。そうです」 「俺もあそこ三か月だけ入った事あったなあ」  松野さんは会話を止めて、足も止めた。 「ここ。足跡マークあるから止まって指差し確認ね。……ヨシ」  松野さんに続き、右ヨシ、左ヨシ、前方ヨシ。足跡マークがあるところはぶつかる危険があるから指差し確認をする。安全行動の基本だ。 「あー、ちょっと待って。あそこのラインの人呼んでるわ。そっち先に寄らせて」  ラインの作業者が手を振って松野さんを呼び止めた。なんだろう。 「お疲れーっす。どうしました?」 「松野さん、ここ。ここのテープが剥がれちゃって。時間ある時で良いから直してもらえないですか?」 「良いっすよ。ちょうど時間あるんですぐやります。藤代さんごめん、消耗品置き場に行って緩衝《かんしょう》テープ持ってきてくれる? あ、消耗品置き場が分かんないか。やっぱ一緒に行こう」  来た道を引き返し、消耗品置き場に向かう。  現場事務所を通り過ぎ、改善室も通り過ぎる。もっと東へ歩くと消耗品置き場と書かれたプレートが目に入った。 「何をどれだけ持っていっても良いけど、持っていく時は持ち出し用紙に忘れず記入すること。うるせぇお局《つぼね》ババアがいるから気を付けて」  けらけらと笑いながら緩衝シール、松野と記入する。なるほど、このみんなが記入した用紙を見て担当者が補充したり、足りない分を注文しているのか。原始的だが間違いがないなと思った。  消耗品置き場を出て、もう一度さっきのラインに向かって歩きだした。指差し確認も忘れずに。 「これで養生するっすわ。ちょっとだけ作業止めちゃうけど良いっすか?」 「松野さんならすぐだし大丈夫だよ」 「あざっす。藤代さん見てて。このテープを作業台の受けの部分に貼る。そうすると、ほら、こうやってステンレス置いてもキズが付きにくくなるんだよ」  丁寧に説明しながら作業を見せてもらった。この緩衝テープがあるかないかでキズがつきにくくなる。キズがつくと商品として出荷できないからイチから作り直しだ。でもこのテープで作り直しが発生しなくなるんだ。 「松野さんありがとう。やっぱり改善チームに頼むと早くて助かるわ」 「いえいえ。また何かあれば言ってください」  作業者にお礼を言われ、ラインを後にした。松野さんは作業者からものすごく信頼されていると思う。見ていて分かる。 「こういう小さい改善から大きい改善まで。なんでもやるのが改善チームなんだ」  帽子をくっと上げ、松野さんはニヤリと笑った。

3
0
2話

1話

「お前には人の心が無いのか」  よく覚えている。昔、父に言われた言葉だ。  真っ黒なセーラー服に身を包み、母の葬儀に参列していた時に父にそう言われた。父は涙で顔をぐしゃぐしゃにして私を睨んでいた。  仕方ないじゃないか。だって私は生きてるし、どこも痛くないんだから。  ピピピピ。目覚ましの音が聞こえて目を開けた。懐かしい夢を見ていた。あれは、そう。十二歳の時の記憶だ。十二歳の頃を懐かしめるくらいに私は大人になっていた。  ぼんやりと視界が霞む。早く顔を洗ってしまおう。  月々三万八千円の1K。ベッドを下りて八歩。洗面所はすぐ近くにある。  冷水で顔を洗い、眠気をとばす。鏡を見ると死んだ目をした自分の顔がこちらを見ていた。  生きているのに死んでいるように見える。これは確か職場の同僚に言われた言葉だ。  私の顔が他人からどんなふうに見えていたって知ったことじゃない。私は紛れもなく生きているのだから。  くぅ、と生きている証拠にお腹が鳴った。  食器棚から深めの器をだし、コーンフレークを七分目くらいまで注いだ。冷蔵庫には賞味期限が一日過ぎている牛乳しかない。じっと昨日の日付を見つめていたが一日くらい大丈夫だろうと結論付け、器に注いだ。  テレビの音も誰かが話す声もしない。静かな部屋のなかでコーンフレークを貪る音だけが響いていた。  七時三十分になった。そろそろ家を出る時間だ。  部屋着のスウェットを脱いで作業着に着替える。少し大きめなズボンに黒色の化繊のTシャツ、上着はリュックと一緒に手に持って部屋を出た。  アパートの駐車場の右端に停まっているシルバーの軽自動車が私の車だ。  高校を卒業する直前に免許を取ってそれ以来ずっと乗っている。  リュックと上着を助手席に置き、シートベルトを締める。右足でブレーキを踏み、エンジンをかけた。  片道二十五分。私の家と会社は決して近くない、でも通えないほどじゃない。中途半端な位置関係にあった。 「おはようございます」  すれ違う人にあいさつしながら私のラインへ向かう。  私が働くこの工場では部品を作っている。ネジや丁番、キャップ、取扱説明書など。ありとあらゆる部品の生産をしている。  その中でも私は裏板と呼ばれる部品を生産しているラインに所属している。  ステンレスを切断し、孔開け加工する。そして加工された部品を最終工程である私が検査して梱包する。これが一連の流れ。  検査は色やサイズ、個数。すべて正しいかどうか検査し、正しい宛先に出荷する。最後の砦と呼ばれる大事な工程だ。  リーダーと呼ばれる管理者が一人、工程で生産する作業者が私を入れて三人。計四人の裏板生産ラインは工場の中でも小規模ラインと呼ばれている。  あっと言う間に就業の時間になりラジオ体操の音楽が流れ始める。  ラジオ体操で体をほぐす。これが最初の仕事だ。 「えー、今日の連絡事項ですが、お昼過ぎに安全巡回があります。工場長や課長が回りますので不安全行動をしないように。保護具ちゃんとつけてね。はい、じゃあ唱和いきます。安全行動ヨシ! ゼロ災でいこうヨシ!」  リーダーからの連絡事項が言い渡され、安全唱和をする。  全員で続けて唱和し、みんな作業場に向かって行った。 「藤代《ふじしろ》さん。ちょっと良い?」  私もみんなの後に続こうとしたが呼び止められてしまった。 「今って五年目だよね?」 「はい」 「現場でかなり経験積んだし、そろそろ新しいことやってみないかって話が出てるんだけど」 「……異動ってことですか?」 「平たく言えばそうだね。でも課内異動だから。改善チームにって話がきてるけど、どうかな?」  どうかな、なんて聞いているが断りようがない。断ったところで異動して欲しい理由を延々と説明され、納得しろと言われるんだろう。結局上の意見には逆らえないのだ、下々は。 「……わかりました。いつからですか?」 「良かった! 明日から現場事務所に行ってくれる?」  この会社に入社して四年と二カ月。  初めての異動は唐突に言い渡された。

8
2
1話