光沢 季環
4 件の小説光沢 季環
カクヨム→kindleに移行し、現代ドラマ系の小説を出版中です。 Noveleeさんでは、恋愛系の長編を投稿したいと思っています。宜しくお願い致します。 twitter→@mitsu_kiwa
ミステイク(第1章-4)
4 「早かったな」 昨日見たばかりの顔が、人を食ったような笑みを浮かべていた。テーブルから上に出ている上半身には、カジュアル過ぎないジャケットを纏っていて、一見するとベンチャー企業の人間のようだった。 「どういったご用件で」 隣のブースに人の気配のないことを確認してから、座るより先に芹馨は訊く。 「まぁ、座れよ」 独特のペースで美嶋が促した。 渋々といった体で、芹馨は向かいに腰を落ち着ける。 「んな迷惑そうにしなくても、言うって」 言いながら、美嶋がディスクを出した。 「何」 「広報だったか、そこのカタログ用」 「…広報の担当者をお呼びしましょうか?」 いろいろ突っ込みどころはあるが、それらを堪え、芹馨は訊く。 「いや、面倒だからいい。用件だけじゃ済まないしな」 その一言に、合点がいく。 自業自得だろうとの言葉が浮かんだが、口にせずにおく。 「分かりました。お預かりします。ご足労頂き、ありがとうございました」 言いながら、芹馨は、担当者には喜多原に持って行って貰おうと決める。その方が角も立たないだろう。 「あと、これ」 立ち上がろうとする芹馨に、美嶋が封筒を差し出した。 「一緒にお渡しすればいいですか?」 「いや、それは別件。お前の分」 「拝見しても?」 何も頼んだ覚えはないが、と思いながらも、芹馨は座り直す。 「どうぞ」 その許可に、封筒を開けると、一冊の本が入っていた。鮮やかな写真の表紙は、件の写真集だろう。 咄嗟に、小憎たらしい、と脳裏に浮かぶ。 「恐れ入ります。相田さんにも宜しくお申し伝え下さい」 「いや、礼を言うなら俺にだろ」 美嶋がにやつきながら、不服を唱える。 「そうですね。美嶋さまにおかれましては、いつも弊社にご協力頂きありがとうございます。こうしたお心遣いまで頂き、誠に恐縮でございます」 わざとらしく、芹馨は笑みを向ける。 美嶋が片方の眉を上げて見せた。 「まぁ、いいけど。捨てたりやったりするなよ」 然して気にしていないような言い方だった。 できるものならそうしたい、と芹馨は内心悔しく思う。多分、きっと、かなりの高確率で、自分は目の前の写真集を開いてしまうだろう。そうすれば、確実に丁重に扱ってしまう。 「おい、本気で捨てる気か?」 黙っていると、まさかだろうというように、美嶋が訊いてきた。 それが可笑しく、芹馨は思わず笑みを零す。 「だから、黙って海外に行く人ほど、薄情じゃないって言ったでしょ」 そう言うと、美嶋の顔に少しだけ、安堵のようなものが浮かんだ。だが、すぐに元の読めない表情に戻る。 「まぁ、そこんとこの誤解は、気長にいくことにする」 「誤解じゃなく事実ね」 芹馨は即座に訂正を入れる・ 「事実じゃなく思い込みだろ」 負けじと美嶋が言い換えた。 「待って。なら、検証する」 芹馨はそこで言葉を切る。美嶋が黙ったのを確認し、考える振りで一拍置いてから、口を開く。 「やっぱり事実」 きっぱりと告げた。 「ホンット、可愛げねー」 匙を投げたというように、美嶋が口にした。 芹馨は、ふっと笑みを見せる。 「知ってる」 「そこだけあっさり納得すんな」 呆れ気味に突っ込みを入れられる。 「まぁ、お話は以上ってことで」 さらっと流し、立ち上がろうとする。 不意に手首を掴まれた。 「そんな急がなくてもいいだろ」 暢気な口調に引き留められる。 「これでも忙しいんですけど」 手を引こうとするも、意外とがっしり掴まれていて、簡単には離れそうもない。仕方なく、芹馨は浮かし掛けた腰を元に戻す。 「知ってる、前からそうだった」 「なら、さっさと終わらせて」 「金曜の夜、空けといて」 間髪入れず、告げられる。真顔になった男と目が合う。 「無理」 答えてすぐに視線を外す。 「何で」 「先約がある」 「男?」 当然の権利のように訊く美嶋に、芹馨は笑みを浮かべて見せる。 「関係ないでしょう?」 「いーや、あるね」 にやりと、人を食ったような笑みが返って来る。 どうしてと問えば、多分負けだろう。 「そう。でも、話す義理はない」 「あんだろ。自分の男以外と会うってんなら」 美嶋が、しゃあしゃあと言ってのけた。 怒りより呆れが先んじ、芹馨は小さく息を吐く。 「あのねぇ、美嶋さん」 「ん?」 「そうやって、執着してる振りも結構だけど、肝心なことは何も言わずにいなくなる人だって、とっくにばれてる」 自然と漏れた笑みに、美嶋がぐっと言葉を詰まらせる。それが、少しだけ愉快だ。だが、その経緯を思えば、少しも愉快じゃない。 「お前だって、何も話してなかっただろ」 不機嫌そうになった声が零した。 「少なくとも、音信不通にはなってない」 「じゃあ、先に話してたら待ったのか」 待たなかっただろう、と言下に付いてきそうな言い方だった。 「今更の話に興味はないし、ここでする話でもないわね」 言いながら、一応周りのブースの気配を確認する。 美嶋が苦笑を漏らした。 「ホンット、冷めてるよな」 「どっちが、って言い返せば、堂々巡りになるだけね」 「ちゃんと話がしたい。土曜、空けといて。それまでは他に行くなよ」 手首に触れるだけになっていた美嶋の手が、芹馨の手に移動する。縋るように握られれば、すぐには振り払えない。 咄嗟に握り返しそうになる指先を、思い止まらせる。付き合っていたとされる頃だって、手を繋いだことなんてなかったのに。 「場所と時間は」 「リクエストは?」 素っ気なく言ったのに反し、美嶋の声に甘さが混じる。それを振り払うかのように、芹馨は殊更、不機嫌を装う。 「ある訳ないでしょう」 「じゃ、泊まりで箱根でも行くか」 「二時間制の居酒屋」 「色気がねぇな」 目の前の顔が大げさに呆れて見せた。 「そういうことなら他へどうぞ。話があるんでしょう?」 「他に行ったら泣くくせに?」 指を絡ませるついでに掌を撫でられる。その刺激に手を引こうとするも、にやりと笑った男に絡め取られる。 最悪だ。 「離して」 「何を?」 焦る芹馨とは対照的に、美嶋は余裕の笑みを浮かべる。先程の殊勝さは見る影もない。 本当に最悪だ。 「手。離して」 早く離せと言わんばかりに、芹馨は手を引く。だが、余計に美嶋の方に引き寄せられる。 「何で?」 そう言った彼の吐息が指に掛かる。 思考より先に、鼓動が反応する。 「せり?」 甘やかすように労わるように、懐かしい呼び方をされる。 たかがそれだけで、目眩がしそうだ。手軽すぎる自分に腹が立つ。 「分かったから、離して」 視線を避けるように俯いたまま、告げる。 「何が分かった?」 「土曜の件は分かったから、とりあえず離して」 口早に繰り返すと、やっと手が自由にされた。素早く引き戻し、もう片方の手で彼の感触を上書きする。 ムカつく、と目の前の顔を睨む。 「んな顔するなって」 そう言って心底楽しそうに笑った美嶋が、少し眉尻を下げる。 「相変わらずで安心した」 からかった結論がそれか。そんな男に簡単に乗せられるなんて悔しいし、情けない。芹馨は無言を通す。 「別にからかった訳じゃないぞ。まぁ、試したけどな」 無言の抗議を察してか、美嶋が言った。 TPOはないのかと睨めば、甘いと言ってもいいような笑みが返って来る。 「プライベートでやっても揺さぶられてくれないだろ、お前は」
ミステイク(第1章-3)
3 「昨日の撮影、どうだった?」 始業前の一服の合間、浅茅が訊いた。 「あぁ、恙なく」 芹馨は言ってから、そういえば来なかったな、と遅れて思う。 「記事上がった?」 「そうですね、八割方」 「にしちゃ浮かない顔してないか?」 目敏く、浅茅が気付く。 「浅茅さんこそ」 内心どきりとしながらも、芹馨は適当に矛先をずらす。事実、浅茅にしては珍しく疲労の色が見えた。 「あー、まぁ、二日酔いだ」 顔を擦りながらの、くぐもった声が告げた。 「まーた、合コンですか」 呆れざまに、芹馨は苦笑する。 「いや、同期が結婚するってんで、ヤローばっかでな。っても銀行ん時のだけど」 「銀行って」 晴れ晴れとした笑顔に、疑問を投げ掛ける。 「行員時代の同期ってこと」 知っていることが前提のように、浅茅が口にした。 だが、浅茅の鷹揚さは、銀行員のお堅いイメージとは結び付かない。 「え? 銀行に勤めてたってことですか?」 改めて訊くと、浅茅が苦笑した。 「そう」 「初めて聞きましたけど」 「おう。初めて言った」 そうなのか、と芹馨は浅茅をまじまじと見る。 「銀行員でしたっても、何のメリットもないだろ? だから黙ってた。特にオープンにすることでもないしな。さすがに、部内の古参は知ってるけど」 浅茅が取り成すように説明した。 「まぁ、そうですね。個人的に資産運用とか聞けるかな、くらいで」 「何? 運用する資産あんの?」 「あると思いますか? 飲み代に消えてます」 芹馨が即座に返すと、浅茅から笑みが漏れる。 「あとヤニ代な」 「禁煙外来でも行った方がいいんですかね」 止められるなら止めたいよ、という思いと、止めたら仕事にならない、という意見が相反する。 「あーな。何でも、薬出されるらしいぞ。で、それで無理なやつは、どうやったって無理って話らしい」 「行ったんですか?」 やけに詳しい浅茅の話に、そこまで煙草に依存してたのか、と芹馨は意外に思う。 「いや、三俣の話」 「誰ですか」 訊くと、浅茅が呆れた顔をした。 「商管にいんだろが。時々ここにも来てんぞ。大概、周りに興味ないよな」 「あぁ、ないですね。浅茅さんが顔広すぎるんですよ」 特に女に、と芹馨は内心だけで付け加える。 「即答か。人脈あった方が動き易いだろ」 「そう思ってた時期もありましたけど。疲れますし、いいです。そこそこやり易ければ」 「何だ、冷めてんな。まだ二〇代のくせして」 「まぁ、一一年目にもなれば」 「え?」 浅茅が驚いた顔をした。 芹馨は苦笑する。 「いや、アルバイト期間も長かったですけどね。一応、仕事して生計を立てるようになってからは」 「そうか、初耳だな。つーか、先輩か」 浅茅がからかうような笑みを見せた。 「まぁ、その辺はいろいろ柵が。後輩には変わりないです。浅茅先輩にごちそうして貰うのが楽しみで」 芹馨はわざと畏まって見せる。 だが、浅茅は、そうか、と一人で納得したように頷く。 「いや、貫禄あるもんな、確かに」 「は?」 体型のことじゃないだろうな、と思わず顔を顰める。ここ数年、加齢とデスクワークの日々で、数キロは体重が増えたことを思い出す。 「こう、ふとした時にさ、頼もしいって言ってんだよ」 浅茅が、腑に落ちたというような笑みを浮かべた。 「いえ、持ち上げて頂かなくても」 呆れ半分、恐縮半分に芹馨は告げる。 「じゃなくて、褒めてんだから素直に受け取れ」 まったく邪気のない笑顔で返される。 「はぁ、そう言って頂けると」 否定するのも躊躇われ、結局は曖昧に礼を言うに止めた。 それから二言三言交わした後、朝一で会議があるという浅茅とは別れ、芹馨は自分のデスクに戻った。 八割方出来上がったページを見直し、仕上げに掛かる。 美嶋の撮った写真が目に入った。 悔しいが、非の打ちどころのない作品だと思う。好き嫌いで言っても、間違いなく好きな部類に入る。それがまた悔しい。 ただの薄情な男でいればいいものを、と目の前にいない顔に、内心悪態を吐く。 半年振りに見た背中が、脳裏に浮かんだ。テンポよくシャッターを切る音に、少ない言葉で出す的確な指示。その声の低さ。それから、自分に向けられる目も。 思わず、小さく舌打ちを漏らす。 「わぁ、昨日の写真ですね」 唐突に、背後から声が掛かった。 驚いて振り向くと、斜め後ろに喜多原が立っていた。 「おはようございます」 見知った礼儀正しさで、喜多原が挨拶した。 「あ。おはよう」 「完成ですか?」 「そうね、チェック待ち」 言いながら、まだ空席の上司の席を見る。 「マネージャは、前半休ですか」 喜多原が訊いた。 「みたい。まぁ、急ぎじゃないから」 「深山、ヘルプ」 不意に、横から声が掛かった。情シス企画の伊本だった。 「はい?」 「話し中悪い。エイギョークンの追加修正頼んでいい?」 言いながら、ジーンズに半袖のカットソーといった、カジュアルな服装が近付いてくる。 喜多原が彼のために場所を空ける。 「複雑なのでなければ」 芹馨は言いながら、朝一から疲れの滲む顔を見る。 伊本がデスクにメモを置いた。 「フィールド追加と、既存のやつの型変更。検索掛かってくるし、コードいじることになるけど」 「大丈夫です。急ぎですか?」 走り書きに目を通しながら、芹馨は訊く。 「いや、どっちにしても止められんのが、昼か定時過ぎだけだから、とりあえず明日朝一までに稼働してればいい」 その言葉に時計を見れば、一〇時二〇分とあった。昼休みまで二時間半といったところだ。 「じゃあ、昼ストップで。ドキュメントは明日までに上げときます」 「OK。営業にはこっちでメール回しとく。助かる。何かあったら声掛けて」 片手を拝むポーズにし、そう言うと、伊本は忙しなく去って行った。 「あの、訊いてもいいですか?」 伊本の姿が見えなくなってから、遠慮がちに喜多原が切り出した。 「ん?」 「エイギョークンって何ですか?」 不思議そうな顔に、あぁ、と芹馨は笑う。 「本社の営業だけで使ってる取引先データベース。アクセスだから重いんだけど、まぁ、そこそこ使えるみたい」 「.NETですか?」 「いえ、アクセスだけ。VBAで書いてる。部署内だけのオプションだから」 「見てもいいですか?」 興味津々といった様子で、喜多原が訊いた。 「ローカルに落としてからなら。把握できたら、テスト手伝って貰いたいし」 「いいんですか? 是非」 嬉しそうに乗り出す喜多原に、芹馨は笑みを零す。 「うん。その時に、また声掛ける。置き場所はメールしとくから」 そこまで言ったところで、芹馨のデスクの内線がなった。 「じゃ、また後で」 芹馨は喜多原に声を掛けると、ディスプレイに総務の文字を確認してから、受話器を取った。 「はい」 「お疲れさまです。総務の北田です。スタジオαの美嶋さまがお見えです」 受話器から淀みなく告げられた言葉に、は?と返しそうになる。 「…分かりました」 何の用だよ、と思いながらも、ここで言っても仕方がないと諦める。 「ブース1でお待ち頂いていますが、応接にお通ししますか?」 「いえ、大丈夫です。ありがとうございます」 わざわざ応接室の予約を取ってやることもない、と簡単な遣り取りで通話を終えた。 それから念の為に携帯と手帳を持ち、喜多原に声を掛けてからフロアを出た。
ミステイク(第1章-2)
2 撮影スタジオに入るなり、見知った顔に遭遇した。 「こいつ、美嶋。深山ちゃんは知ってると思うけど、俺の後輩でカメラマン。今回からまた入って貰うことになった」 スタジオαのオーナー、相田がそう紹介する。 「美嶋と申します。宜しくお願い致します」 紹介された男―美嶋斉至が、喜多原に名刺を差し出した。 「こちらこそ宜しくお願い致します。喜多原と申します。名刺の持ち合わせがありませんので恐縮ですが、頂戴致します」 卒なく言ってのけ、喜多原が名刺を受け取った。 「ご無沙汰しております」 美嶋の笑みが、芹馨の方を向く。 「こちらこそ、ご無沙汰しております。本日は宜しくお願い致します」 強張りそうな表情を、芹馨は頭を下げることで誤魔化す。 「うん。まぁ、堅苦しい挨拶はそれくらいにして、始めようか」 苦笑しながら、相田が言った。 その言葉に、芹馨は内心安堵する。 「企画書通りに配置したけど、どっか変更あったら、その都度言って」 「はい」 芹馨が頷くと、相田が美嶋に声を掛ける。撮影開始の合図だった。芹馨と喜多原も後方に移動し、待機する。 美嶋が三脚に設置されたカメラのレンズを覗き込む。傍らに相田のアシスタントが付いていた。 やがて、シャッターを切る音がスタジオに響く。 半年振りに見る背中が、時折、細かい指示を出す。その声が鼓膜に響く。 「びっくりした?」 控えめの声が横から掛かった。 驚いて、芹馨はそちらを見る。 相田が笑みを浮かべていた。 「今のにびっくりしました」 そう返すと一層笑われる。 「じゃなくて、美嶋」 相田の視線が、美嶋の方を示す。 その名前に、芹馨は内心動揺する。 「あぁ、そうですね。帰国されてたんですね」 「そう。写真集出すよ、来月。貰っとこうか?」 善意の塊のような笑顔で、相田が訊いた。事実、彼には善意しかないだろう。 先程の紹介にもあったように、美嶋は相田の大学の後輩で、講師をしていた相田の生徒でもある。その頃から気が合うようで、飲み友達兼仕事仲間ということだった。 もっとも、相田は人物も風景も撮るが、人物を得意としているのに対し、美嶋は専ら風景を得意としていた。その背景から、芹馨の会社の撮影は、半年前までは美嶋が担当していた。今更、海外のカメラマンのアシスタントに行く、との理由で海を渡るまでは。 独り立ちし、それなりに収入もあるのに、今更アシスタントに逆戻りするなんて、よく分からない理屈だと思う。だが、傾倒しているカメラマンと仕事ができる、加えて仕事をしながら海外での写真が撮れる、と速攻で向かってしまうのが美嶋だった。三〇を幾つか超えているが、驚くほどフットワークが軽い。 「それだと、売上に貢献できませんよ?」 芹馨は茶化しながら、相田の提案を断ろうとする。 「いやいや、深山ちゃんにはいつもお世話になってるし、言っとくよ。あいつも写真好いて貰って嬉しいだろうし」 もう決めたように相田が口にした。 芹馨は苦笑を返す。 「実際、献本って扱いに困るんだよ」 ここだけの話、と相田が付け加えた。彼も、幾つか写真集を出版していた。 「それじゃ、お言葉に甘えさせて頂きます。ご無理でなければ」 相田の優しさに固辞する訳にもいかず、芹馨は小さく頭を下げる。 満足そうに相田が頷いた。 それから、写真の確認に始まり、セットの入れ替えに撮影、また確認と適度に密なスケジュールをこなすこととなった。 初めはもたついていた喜多原だったが、繰り返すうちに慣れたのか、中盤からは率先してインテリアの配置も行っていた。やはり、彼は飲みこみが早い、と芹馨が満足したところで、全工程が終了した。 社に戻る前に一服しようと、喫煙所に行く旨を喜多原に告げる。 「あ。深山ちゃん、これ持ってって」 相田が缶コーヒーを差し出した。 「いいんですか?」 「うちのアシスタントが間違えたんだよ。ブラック飲めないから、引き取ってくれると助かる」 言葉通り、缶にはブラック・無糖と書かれてあった。 「ありがとうございます」 芹馨はコーヒーを受け取ると、スタジオの裏庭にある喫煙スペースに向かった。相田自身は煙草を吸わないが、スタジオに訪れる客とスタッフのために、中庭に簡易スペースを作ってある辺り、彼の人柄が表れている。 中庭に出ると、先客の姿が目に入った。 「お疲れ」 引き返そうとするより先に、声を掛けられる。 「…お疲れさまです」 仕方なく、芹馨は喫煙スペースに入る。美嶋が座っているのとは別のベンチに腰を下ろした。 とりあえず、煙草を吸って落ち着こうと思った。 「会社は辞めてなかったんだな」 煙を吐き出しているところに、そう言われる。 見ると、美嶋がからかうような笑みを浮かべていた。 「そうですね。フットワークが軽い方ではありませんので」 できるだけ感情の籠らない声で答える。 「やっぱ怒ってんのか」 仕方ないな、と言うような声が聞こえた。 「いいえ。怒られる心当たりでも?」 中庭に目を向けたまま、しれっと答えてやる。 「まぁ、ないことはない」 暢気な声に、あるだろう、と内心だけで突っ込みを入れる。 「それより、連絡先変わったんなら、言っとけ」 当然のように、美嶋が口にした。 思わず、は?という表情で、芹馨は彼を見る。 「携帯と住所、変わっただろ」 目頭を揉み解しながら、美嶋が言った。 「変わりましたけど」 それが何か、というように芹馨は答え、煙草を口に運んだ。 「で?」 続きを促すように、美嶋が訊く。 「それだけです」 「ふーん。ま、いいか。とりあえず、帰国祝いってことで、夜空けといて」 「は?」 今度こそ、そう口に出し、芹馨は抗議の目を向けた。 面白い、といった笑みを浮かべた美嶋の顔があった。 「帰国祝い、してくれるだろ?」 「して貰える立場ですか?」 間髪入れず、訊き返す。 「やっぱ怒ってんだろ」 そう言われ、芹馨は小さく息を吐く。 「それは、ここで話すことじゃないと思いますけど」 「連絡先知らない以上、ここでしか話せなくないか?」 のんびりした口調で訊かれた。 「それが意思表示になりませんか?」 「生憎、聞けないな」 飄々と言ってのけられる。 「フツー、聞くっての」 思わず突っ込んでしまう。 「お前、そんなキャラだった?」 すかさず、美嶋が反応した。 「付き合ってた時は、作ってたに決まってるでしょう」 芹馨は恭しく笑みを向ける。 美嶋が意外そうな表情になった。 「別れたみたいな言い方だな」 「そうでしょ、実際」 「別れ話した覚えはない」 美嶋が眉を上げて見せた。 芹馨も呆れた表情を作って見せる。 「いや、別れたわよ、思いっきり」 「いつ、何時何分何秒」 子供のような言い分が返って来る。 「出発のフライト時刻でも見たらどうですか」 引き下がって堪るかとばかりに即答してやると、美嶋が溜め息を零した。 「だから、やっぱ怒ってんだろうが」 「怒ってない。呆れて終わり」 芹馨はどうでも良さそうに言ってのけ、煙草を口に運ぶ。 「ハガキ送っただろうが」 「いきなり海外に行ってサプライズですか? 知ってました、相田さんに伺って」 「それか」 意を得た、というように美嶋が頷いた。 「結局は、人伝に聞いたのが気に入らないんだろ」 次いで、そう確認される。 「今更どうでも。普通は、半年連絡を取り合ってないと、終わったって認識だと思いますけど」 「向こう転々としてたんだよ。携帯も速攻でいかれるし、ハガキ以外に方法がなかった。で、こっち帰って来てデータ復旧したと思ったら、番号変わってたんだろうが」 仕方なさそうに、美嶋が事情を説明した。 だが、それすら、芹馨にはただの言い訳にしか聞こえない。 「それは予期できるエラーじゃないですか?」 認識が甘いと仄めかす。世界中のあらゆる場所で、インターネットが普及している時代に、何故、確実に連絡が取れる方法を確保しておかない、そう何度も浮かんだ疑問が再浮上する。 「まぁ、迂闊だった」 あっさりと美嶋が認めた。 迂闊どころの話じゃないだろう、馬鹿じゃないのか、と芹馨は内心悪態を吐く。 「反省してる。だから連絡して」 そう言い、美嶋が名刺を差し出した。 芹馨は一瞥を返す。 「連絡先あったんですか」 「お前ね、冷たいにも程があるよ」 初めて美嶋が、弱ったような、呆れたような声音を出した。 芹馨は今日一番の笑みを見せる。 「何の前置きもなしに海外に行く方が、余っ程冷たいと思いますよ」 煙草を消して立ち上がると、名刺は受け取らずに、その場を後にした。
ミステイク(第1章-1)
第一章 1 「深山さん、ちょっとここ見て頂きたいんですが」 人好きのする顔が、そう訊いた。 「どこ?」 深山芹馨は、パソコンのディスプレイから視線を逸らし、隣に立つ後輩が差し出した書類を見る。 「ここなんですが」 そう言って、後輩の喜多原暁が指したのは、芹馨も気になっていた部分だった。 喜多原は新卒研修を終え、情報システム部に配属されたばかりだが、国立大の工学部を出ているだけあって、基礎知識は群を抜いていた。その彼は今、OJTの一環で、情報システム部が扱っているシステムのプログラムを解読している。 「あー、それは外注だから。まどろっこしい処理だけど、動作的には問題ない」 動いてるプログラムには触るな、と芹馨は暗黙のルールを告げる。 喜多原が苦笑した。 「分かりました。今も外注なんですか?」 「いえ、開発だけ。メンテは自社内だけど、基幹部は触ってないみたい。大幅変更もなかったって話」 芹馨の勤める会社は、インテリアの販売を主としていて、店舗販売が中心だったが、インターネットの普及に伴い、ECサイトを立ち上げた。それが順調なこともあり、何年か前からWEB事業にも力を入れ始めた。それに付随して、ECサイトやHP、社内システムも自社内で管理することとなった。そこで設立されたのが、情報システム部だった。創業三〇余年の歴史に反し、部署の歴史は一桁と、まだまだ浅い。 「更新者は、タケナカさんってありますけど」 喜多原が、ソースコードを見て言った。 芹馨はその手元を覘く。三年前の日付と共にtakenakaとの記載があった。芹馨が中途採用されるより前の日付だった。 「今の担当は、情シス企画の伊本さんだから、前にいた人かも」 「そうですか。伊本さんに伺うのはご迷惑ですかね」 喜多原が少し考える素振りを見せる。 情報システム部は、社内システムに関する業務を担う企画課、ECサイトに関する業務を担うWeb事業課、自社HPに関する業務を担う広報課に分かれる。とは言え、各課は自社の社員と、他社からの派遣や出向社員を合わせて数人の小規模なもので、どこかの課が立て込めば、他の課が加勢に入るといった具合だった。 芹馨と喜多原のいる情報システム部広報課は、各店舗HPも含めた自社HPの更新や修正を主とし、会社全体の宣伝を行う広報部とは一線を画す。勿論、HPでの宣伝も業務に含まれるので、広報部と情シス広報での連携業務もあるが、比較的忙しくない課だった。 「今は止めた方がいいと思う。勤務管理がイントラ上に移行するってあれ、本決まりになったから。来週から人増やすらしいし」 芹馨はパーティションの向こうを見ながら、声を落とす。 ただでさえ最も忙しい情シス企画の面々は、これから開発会社よろしく、無残な状態になることだろう。 「え、外注じゃないんですか」 喜多原が少し驚いたような表情になる。 「あーね。普通はね。でも、上の意向としては、情シスの人間がいるんだから、できるだろうって話。あとは、大企業でもあるまいし、難しくないだろうって」 まったく無茶振りだ、と芹馨は内心溜め息を吐く。 「でも店舗も含むんですよね。それを三人でですか」 案の定、喜多原も難色を示した。 「四人になる予定。給与計算システムはあるから、将来的にはそれと繋げる形になる」 「その給与計算システムは」 「外注」 芹馨が即答すると、喜多原が、うわぁ、と言いたそうな顔になる。 「でもって、うちは各課の垣根が低い。多分、コーディング以降はこっちにも回ってくる」 「あ。そうなんですか」 喜多原が少し喜色を浮かべる。 「ここでプログラムかじったことがあるのは、私と喜多原くんと、あとWeb事業の橋岡さんだけだから」 あと嬉しそうにしてられるのも今のうちだけだから、と芹馨は内心だけで突っ込みを入れておく。 「それはちょっと楽しみです。勿論、HPの仕事も楽しいですが」 喜多原の言わんとしていることを悟り、芹馨は苦笑を浮かべる。 Webプログラマ枠で採用された芹馨だが、HPの更新と修正がメインのため、然程プログラムをする機会はない。否、あることはあるのだが、プログラムをメインとしてきた者にとっては、もの足りない。どちらかと言えば、Webデザイナのような仕事も多かった。 「それは良かった。あと、午後一で撮影入ってるから。スタジオαね」 業務の一環となって久しい、HP用の商品撮影のスケジュールを告げる。 「今日スーツじゃありませんけど」 喜多原が自身のチェックのシャツの胸元を引っ張る。 本社の人間は大抵、スーツやオフィスカジュアル、または制服が基本だが、情報システム部は私服OKだった。元は、社外の人間に会うことがないという理由からだが、今日のように撮影くらいには立ち会うこともある。 「いい、いい。αの相田さんとは懇意にさせて頂いてるし、先様もスーツで押し掛けられたんじゃ困るって」 個人経営の写真スタジオ主人を思い出し、芹馨は笑う。一度、スーツを着て行った時は堅苦しいと苦笑された。 「そうですか。それなら、お昼はαの近くでご一緒させて頂いてもいいですか」 ほっとした顔をした後、喜多原が提案した。素直な感情表現と気配りは、工学部出身者には見えない。 「オッケ。じゃ、後で」 そう返すと、芹馨は席を立つ。部署を出ると、通路の先にある喫煙所に向かった。 窓に面して設置された喫煙所には、一つの人影があった。 「お疲れさまです」 言いながら、中に入り、知った顔の向かいに座る。 「お疲れ。そっち、新卒ちゃんはどう?」 座るなり声を掛けて来たのは、商品管理部企画課のバイヤー、浅茅寿柾だった。彼は社歴でも年齢でも、芹馨の先輩に当たる。 「優秀ですよ。社交的ですし」 答えてから、煙草を銜え、火を点ける。数時間ぶりの煙を堪能しようと、大きく息を吸い込んだ。 「そっか。女? 男?」 「男のコです」 「何だ、男か。女のコなら、合コン頼もうかと思ったのに」 浅茅が心底残念そうに言った。そういう彼は、情シスの芹馨の歓迎会の際にも顔を出していた。中途採用とのことだが、彼の人脈は社内でも上位に入るだろう。 「浅茅さんのとこは入ってないんですか? 新卒」 呆れ交じりに芹馨は訊く。 「いや、入ったよ」 「あぁ、男だったんですか」 だからか、と言うように口にすると、いや、と否定が返って来る。 「女のコだけど」 「じゃあ、そっちに頼めばいいじゃないですか」 そう言うと、浅茅が微妙な表情を浮かべた。 「まぁ、ああいうきゃぴきゃぴしたのは範疇外。営業のやつ追って入社したらしいし」 よく受かったなと思う、と苦笑が寄越された。 「守備範囲の広い浅茅さんにしては珍しいですね」 社内外問わず合コン三昧、と噂の男への皮肉を込めて、芹馨は笑みを浮かべる。だが、その実、浅茅が手を出したという話は聞かない。本気になる女を余所に、彼は純粋に飲み会での交流を楽しんでいるだけのようで、付き合う相手は仕事の外に求めるタイプのようだった。 「嫌味だな、おい」 芹馨の言葉を正しく察したようで、浅茅が眉を上げた。 「協力してって、今年に入って何人に言われたと思います?」 芹馨はうんざりして見せる。 喫煙所で遭遇する確率が高い所為か、浅茅とは飲み友達のようになっていた。その認識は社内でも同じのようだ。 「さぁ」 特に気がない様子で、浅茅が煙草を口に運ぶ。 「四人。いっそ飲みに同席させてやろうかと思いました」 「それは勘弁。煙草吸えないだろ」 基本的に、女の子の前では煙草は吸わない、というのが浅茅の方針だった。なら、自分は何なんだとの突っ込みも浮かんだが、面倒なので口にしたことはない。 「別に気にしないと思いますけど」 「いや、俺が気にすんの。飲みメインの時は煙草がほしい。けど、吸わない人間がいると吸えない」 「まぁ、確かに」 それは分かるだけに、芹馨は頷くしかない。 「だから、連れて来るのはNGってことで。喫煙者だったとしても、気ぃ遣うから勘弁」 「あんだけ合コンしといてですか」 「合コンは交流を楽しむ場だろ。で、飲みは酒と会話を楽しむ場。趣旨と気合いが違う。たまには脱力したいんだよ」 浅茅の持論があるらしい。 「はぁ、そうですか」 まぁ、好きにしてくれ、と思い、芹馨は曖昧に返す。 「で、今月は焼鳥屋押さえたから。今週の金曜」 どうだ、というように浅茅が笑みを浮かべる。 「隣の駅の?」 美味しいと評判の小洒落た焼鳥屋は、芹馨が口にした店だった。それを覚えていて、すかさず予約を取るところが浅茅らしい。 「そ。一九時半でいい?」 「浅茅さん、定時ダッシュできるんですか?」 その時間だと一九時の定時に帰らなければ難しいだろうと、芹馨は訊く。 「する」 浅茅が即答で言い切った。 「分かりました。ここ集合で?」 「おう。宜しく。んじゃ、戻って新卒ちゃんの相手してくるか」 備え付けの灰皿に煙草を捨てると、浅茅が立ち上がる。そのまま伸びの姿勢を取った。 「あ。午後一の撮影、行けそうなら行くわ」 次いで、思い出したように言った。 「あぁ、浅茅さんの買い付けですか」 「そう。独占契約。ちっさい工房だから数は出せないけどな、あれは売れる」 自信満々に告げられた。事実、浅茅のセレクトは手堅く、殆どが売れ筋となる。 「企画に話は通してあるんですよね?」 なら、撮影に来なくてもいいんじゃないか、との意を込めて、芹馨は訊く。 「いや、Web先行だから、そっちのマネージャに話が行ってる筈。Web連載の企画出しただろ」 「出しましたよ。何故か、私が。あれで行っちゃっていいんですか」 あれか、と芹馨は企画を思い出す。確かにWebで連載している記事の企画は出した。 「OK出てんだろ。企画は店舗のフェアに掛かりっ切りだからな、勝手に進めていいってさ」 「そうですか。通りで」 あっさりOKが出た訳だ、と芹馨は納得する。情報システム部とはいえ、広報課である以上、そのための企画も仕事の内だ。だが、何でも屋のようで、些か納得できない部分もある。 「まぁ、広報企画もできるWeb担当ってのは、おいしいポジションだ。将来役立つよ」 内心を見越したように、浅茅が言った。 芹馨は苦笑を返し、彼の背中を見送った。