尾鰭(おひれ)
4 件の小説ペット
11/11 遂に我が家にあの子がきた! 私の住んでいるお家に、私のお気に入りの子がいるだけで、こんなに素敵な気持ちになるなんて! 自然と口から鼻歌が漏れてしまって、あの子が嫌そうな目で見ていたわね。そんなところも可愛い! この一週間でしっかり準備は済ませたわ! けれどおうちもトイレも慣れていないから、怯えたような表情を浮かべていたの。 それに、きゃんきゃんと私に向かって吠えてくる。 ゆっくりでいいからね。ここが安心できる場所って思ってくれるまで私頑張る! 11/14 あの子が来てから三日が経った。 あの子はなかなか懐いてくれそうにない。まだ全然日が経ってないからしょうがない。 とはいえ、ご飯も食べていないので心配だ。 お水だけは飲んでいるけど、どうにかご飯も食べてもらいたい。 少しずつでいいから、私が安心できる相手だって認識させていかないとね! 11/16 ご飯を食べていなかったからだろうか。 今日家に帰ってみると、あの子がぐったりと倒れていた。 思わず、うあっ!と大きな声が出てしまったわ。 慌てて私はあの子に駆け寄り、ご飯を無理やり口に含ませたの。 あの子は抵抗しようとするが、ほとんど力も残ってなかったんだと思う。しばらく時間が経ったあと、少しずつ少しずつ咀嚼を始めた!よかった! あの子は触ってほしくなさそうな表情を浮かべていたけれど、緊急事態だったので許してもらいたい。 今は寝息を立てて眠っている。 この子のことは私が守らなきゃ、そう改めて決意したわ。 11/18 あの子はこの前倒れてたから、自分でご飯を食べるようになった。それだけで私はとても嬉しい気持ちになる。 こちらを少し警戒しながらも、ちゃんとご飯を食べる様子がとっても可愛い! この子を家族の一員として受け入れた自分の決断は間違っていなかった、改めてそう感じた。 お水をお皿に入れてあの子の近くに置くと、こちらを少し睨んできた。けれども喉の渇きには勝てないのか、ちょっとずつちょっとずつ口に含み始めた。 あの子が少しずつ警戒を解いてきている、改めてそう感じた。 11/23 お仕事に行こうと外に出て、しばらく歩いていると忘れ物をしたことに気づいた。 慌てて家に戻ると、あの子が変な動きをしているのをみてしまった。紐を引っ張りながら机の角に擦り付けていたみたい。 見られたあの子は咄嗟にその動きを止めたが、私はきちんと見てしまった。あの子はやってしまったというような顔をしている。 私が一生懸命お世話をしたというのに、あの子はここから逃げようと考えていたのか。 失望と怒りで頭がいっぱいになり、気がつけば思いっきりあの子の頭を叩いてしまった。 あの子は痛そう、ぐっ、という声を漏らす。 やってしまった。本当に申し訳ないことをしてしまった。またあの子の信用を失ってしまう。 私のよくないところが出てしまったんだわ。 本当に反省しないと。 11/26 この間のことがあって、私はあの子からなかなか視線を離せなくなった。 あの子はあの子で、全くこちらを見なくなってしまった。本当にやってしまった。 私がいないときにご飯は食べてくれるのだけれど、私が見ていると全く口にしない。 私の信用がなくなってしまったのだろう。 どうしたらあの子の信頼を取り戻せるのか。 色々と声をかけてみたり、触れようとするけれども、こちらを見ずに逃げてしまう。 そして見えないところからこちらに向かって吠えてくる。また最初の状態に戻ってしまった。 11/30 しばらくコミュニケーションの続かない状態が続く。 とても苦しいけど、こちらからの声かけは続けていた。 意味があるといいな。 11/33 ある日仕事から帰ってくると、あの子が待っていた。久々にあの子の顔を正面から見た気がする。思わずびっくりして、きゃっと声が出てしまった。 あの子は、こちらをじっと見た後に吠え始めた。 今までのような感情的な声ではなく、落ち着いた声だった。 私に何かを訴えようとしているのだろうか? 餌を出したり、水をあげたりしたけれども、あの子は吠えるのをやめなかった。 私にはあの子の声の意味が分からない。それが悔しく、とても悲しかった。家族の一員のはずなのに。 しばらくするとあの子は鳴くのをやめた。悲しそうな、辛そうな表情を浮かべながら寝床に帰っていく。 何も分からなくてごめんね。 11/36 あの子はあの日以降声をかけてくることはなかった。ただ出されたご飯を食べて、決められたところでトイレをして、私と関わろうとせずに過ごしている。 今は、部屋の中をうろうろと歩いている。今はあの子を刺激するのが怖くて、あまり目を向けないようにしている。監視されるのも嫌だろう。 私はあの子に見放されたのだろうか。私にはもう分からない。 あの子とはもう仲良くなれないのだろうか。とても悲しい。 けれども、責任を持って育てなければ。 私は飼い主なんだから。 11/40 あの子のことが分からない。 今日は急にあの子が暴れ始めた。あの子が机や壁に身体をぶつけながら吠えていた。 私は思わず、やめて!と叫びながら彼にしがみついた。あの子の力はとても強く、必死に必死に押さえつけた。 あの子はしばらく暴れてから、少しずつ落ち着いていった。私は落ち着いている間も身体を押さえつけていた。 そうしてしばらくしてから、もう暴れなさそうと判断して身体の拘束を緩めた。緩めた瞬間、あの子はさっと立ち上がりお家に戻った。 あの子のことが分からない。 騒動のせいで、お気に入りのペンも無くなってしまった。今日はもう寝よう。 11/44 あの子には、気づかない間に私の理想を押し付けていたのかもしれない。 私はもっと、もっとあの子自身に向き合わなければならなかったんだ。 そんな当たり前のことに気づいた。 あの子を私の力でどうにかしようとするのではなく、あの子のしたいことを考えて私が動くべきだったんだ。 あの子の気持ちはもっと理解できるように。 これからのあり方について、改めて考えなければ。 だって私 ーーー 俺は、肩を上下に動かしながら激しく呼吸をしていた。 目の前には、タコのように大きな頭と5本の足をもつ生き物が倒れ込んでいる。 こいつはなんなんだ。 この状況はなんなんだ。 俺は、普通の大学生だったはずだ。 ある日帰宅しようと、家の扉を開けようとしたところから記憶が途切れている。 俺は何に襲われたのか、何故襲われたのか、襲われた後どうなったのか、その全てがわからなかった。 気づけば檻の中に入れられていた。そこから毎日、このタコみたいな何かが次々とあらわれ、俺を見て、聞いたことのない音を発していた。 そして、ある日現れたこいつに買われていた、らしい。 らしい、というのも自分の置かれた状況がよくわからないままだからだ。 そこからは、まるでペットのような扱いを受けていた。 こいつの言うことはよく分からなかった。気味の悪い飯を無理やり食べさせられて、トイレの管理までされていた。 このまま何も分からず過ごすのが嫌だった。元の世界に帰りたかった。このままだと俺がどうにかなってしまいそうだった。 帰るために、まず身体に括り付けられているロープをどうにかしようと思った。しかしそれはやつに見られて失敗した。その後からやつの監視はより強くなった。 出してくれ、となるべく冷静に、真剣に、本気で訴えかけてみたりすることもあったが伝わらなかった。やつは俺を対等な存在とすら思っていないんだろう。 焦った俺は、やつを殺すための計画を練った。 まず、いつも夜になると机に向かって長時間何かを書いていることを俺は知っていた。その机の上には、書き物をするための尖った何かがあることも確認していた。 そこならロープがあっても、身体は届く。やつはそこに座りながら、俺に触れようとすることがあったからな。何を考えているのかは全く分からなかったが。 毎晩訪れる、机に座りながら何かを書く時間。これこそが俺のチャンスと思った。 やつはやたらとねっとりとした緑色の体液を流しながら倒れていた。 これでもかとばかりに滅多刺しにしたから、おそらく死んでいるはずだ。 俺は絶対元の世界に戻ってやる。 こんな訳のわからない場所でくたばってたまるか。 部屋にある身の丈ほどの高さの窓から見える景色は、鮮やかな赤色で満ちていた。
旅人
やあねぇ、ああはなりたくないわねぇ。 隣を歩くお母様は、ふとそうこぼした。何のことかと思い、お母様の視線を追ってみる。 すると目線の先には、見ただけで浮浪者だとわかる男がいた。駅の中だと言うのに、柱に背をつけながら床に座っている。 肌は浅黒く、近くを通るとなんだか嫌な匂いがした。しばらく風呂にも入っていないためだろう。顔を伏せていたため、どんな顔、表情なのかはわからなかった。 男の前を通り過ぎてから、お母様は僕に言った。 いいですか、あんな惨めにならないためにも、しっかりとお勉強をするのですよ。 僕は、はい、とだけ答えた。 男は、ただ俯いていた。 ーーー 僕は、お父様とお母様と3人で暮らしていた。お父様とお母様はなかなか子供ができず、辛い思いをしていたようだ。親族からも、何故子供が生まれない、このできそこないが、と責めたてられることもあったらしい。お父様もお母様も、肩身の狭い思いの中で必死に頑張っていた。 そんな中、僕が生まれた。 ようやく生まれた待望の長男、ということもあり、お父様もお母様もとても期待しているのが、息子の僕にもよくわかる。お父様とお母様の期待に応えるために、僕はあらゆることに努力しなければならない。勉強はもちろん、運動、ピアノ、礼儀作法と、様々な習い事に日々勤しんでいた。そうすればお父様とお母様は、褒めてくれる。 褒めてもらえるのは嬉しい。それに、できることが増えると達成感を得られる。それがただただ嬉しかった。 また、できることが増えてくるにつれて、僕は自身が優れている人間であると錯覚するようになっていた。ただ遊んでいるだけのクラスメイトとは違い、僕は常に努力を重ねている。周りの友人がとても幼稚に見えて、見下すようにすらなっていた。 僕は周りとは違う人間だ。お前らよりももっと偉くなるんだ。 そんな気持ちで学校生活を送っていた。だけれども、それを出すのはマナーとして最低だ。周りのレベルに合わせて、時には相手の気持ちを優先して行動し続けていた。だから、いじめられるようなことはなかった。 中学校でも、同じように生きていた。常に勉強はトップクラスだった。野球部に入るためにいくつか習い事を辞めた。その代わり、部活動では必死に努力し、三年生の時には部長にまで上り詰めた。 高校は、県内随一の進学校に決めた。そこで、初めて自分並み、いやそれ以上に勉強ができる者たちに囲まれた。衝撃であった。自身が優秀であったと思っていたが、この学校ではそれが平均より少し上、くらいだったのだ。 焦りを感じた僕は、常に勉強をするようになった。部活動に入る余裕なんてない。クラスメイトと遊ぶよりも、クラスメイトより優位になることの方が重要であった。クラスでも孤立した状態だった。やつらを打ち負かしてから、改めて仲良くなろう。そんなことを考えていた。 けれども、結果は変わらずであった。僕の方が努力を重ねているつもりだった。クラスメイトが馬鹿なおしゃべりを重ねている間も勉強をしていたのに、テストでは負けていた。それがなぜなのかわからず、焦りが加速していくばかりであった。 試験結果をお父様とお母様に見せると、激怒された。お前に、どれだけの費用と手間をかけたと思っている、お前ならきっとできる、努力が足りない、そんなことを言われた。 僕は、優秀な人間で居続けなければならない。そのためには、より努力しなければならないんだ。そんな気持ちで常に満たされるようになった。 しかし、そんな気持ちとは裏腹に、クラスの中での順位を少ししか上げられずにいた。気づけば、高校三年生、受験の年だ。 僕は、難関と言われる大学に挑戦することにした。両親のことを考えると、それしか道はなかった。両親も僕に、なんとしても受かれ、とプレッシャーをかけてきた。僕自身も、受からなければならない、というプレッシャーを常にかけていた。 しかし、この頃になると、焦りと苛立ちで満たされているというのに、頭がなかなか回らなくなっていた。文字を読んでも、目が滑るような、そんな感覚だ。文字の意味を、頭の中できちんと理解することが難しくなっていた。 これは、僕自身の覚悟が足りないせいだ。そんなことを考え、誰にも相談せず、ただ1人で教科書を眺めていた。いつか回復すると信じて、とにかく耐えていた。真っ暗闇の中をがむしゃらに歩き続けている、そんな気持ちだった。 月日はどんどんと過ぎていく。模試の結果も芳しくなく、焦りは増すばかりだ。お父様もお母様も、口を開けば僕を責め立てた。一向に改善の兆しが見えないまま、受験本番を迎えることとなった。 結果は、当然のようにダメであった。僕が望んでいた学校はもちろん、滑り止めとして考えていた学校にすら落ちた。 全ての不合格通知を見た瞬間、僕は優秀な人間ではなく、落ちこぼれなんだと受け入れざるを得なかった。悔しい、悲しい、絶望、そんな気持ちでごちゃ混ぜになった。 お父様とお母様は、そんな僕を罵倒した。期待したのに、親不孝もの、そんな言葉を僕にぶつけた。卒業後は浪人を強制された。僕には反対するという道はなかった。ただ、従うばかりであった。 高校を卒業し、浪人することとなった。しかし、勉強に身が入ることはない。焦りと無力感、その二つが常に僕を満たしていた。 お父様とお母様は、相変わらず厳しかった。僕は何もできず、ただ逃げたいとばかり考えるようになっていた。家族のいないところで、誰も知らないところで、ひっそりと生きていたら、どんなふうに過ごそうか。最低限のお金を稼いで、僕のためだけに生きていたい。もしそうなったら、どれだけ嬉しいか。そんな妄想を膨らませるようになった。 しかし、お父様とお母様は、そんな僕の行動を許さないだろう。世間体を大いに気にするあの2人だ。きっと、烈火のごとく怒るに違いない。僕は、僕のために生きることを許されていないのだ。それに、お金を稼いだことのない僕には、外に出てまず何をしたらよいのかさえ分からない。 こんな思いをするのならば、アルバイトでもするべきだったのだろうか?勉強に熱心になっていたつもりだったが、こうして結果を残せていない。あるのは、劣等感まみれの自分と、僕を縛りつけることを生業としているお父様とお母様だけだ。僕は、いったい何のために頑張っていたのだろうか?気持ちが破裂する寸前まで迫っていた。 とどめは一言で充分であった。 お父様、お母様と夕食を食べていた時のことだった。必ず家族全員で食事を摂る、そんなことまで強いられていた僕は、この食事の時間が苦痛でしょうがなかった。 お母様は、浪人を始めた当初、食事中でも勉強のことばかり口にしていた。勉強はどのくらい進んだのですか、試験までまだ時間はあると思って油断してはいけません、あなたは精一杯努力して立派な人間にならねばなりません、そんな説教の言葉ばかりが食卓に並べられていた。 お父様は、基本的には喋らず、食事に集中していた。時折、お母様から同意を求められた時に、そうだな、と一言返すくらいであった。稀に、お前は私たちの息子だ、努力できないはずがない、今は根性を見せる時だ、と説教めいた言葉を発する時があった。 そんな状態での食事は、味も感じる余裕もなく、ただ口元に食べ物を運ぶだけとなっていた。ただただ、早く自室へ帰りたかった。 しかし、この日は違った。お父様もお母様も黙って、食事をしていた。ただお母様が時折、ちらりとお父様に視線を送っていた。お父様は、そんな視線に気づかないふりをしているように見える。 そんな2人が気になりながらも、僕は構わず食事を続けていた。かちゃりかちゃりと、箸をすすめる音だけがリビングに響く。茶碗に盛られた白米が残り三口分になったところで、お父様が口を開いた。 優(すぐる)。最近、勉強はどうだ? その声からは、何の感情も見えなかった。顔は、食卓の方に向けていたため、表情も見えなかった。ただ、形式的に発した言葉のように思えた。 はい、次の試験に向けて努力しております。 本当は、全く勉強に身が入っていなかった。ただ机に向かい、考え事をしているだけだった。 けれども、そんなことを正直に話したら、説教の嵐になることは分かっていた。だから、僕は嘘をつくしかなかった。 お父様は、その言葉を聞いても顔を上げることはなかった。今更ながら、食事が始まってから、お父様とお母様は一度も僕の顔を見ていないことに気がついた。 お父様はふぅ、と一息を入れた後に、箸を置いた。食事はまだ途中のようであった。部屋が静かなのもあり、箸を置いた音も父が一息ついた音も、鮮明に聞こえた。 そして、ただ一言だけ呟いた。 そうか。 その声には、何の感情も込めないように努力しているように感じた。しかし同時に、失望、落胆、幻滅、そういった感情に満ち満ちているようにも聞こえた。 これは、僕の嘘が分かっていて、こんなしょうもないことを言う僕にがっかりした、ということなのか? それとも、もうお前に期待はしないという覚悟を決めたということなのか? それとも、これ以上は責めないようにしようという、お父様なりの気遣いなのだろうか? いや、そんなはずはない。 お父様はいつだって僕に優しさをかけるようなことはなかったはず。ならばきっと、僕に対して最後の評価を下したに違いない。 どんどん胸が苦しくなっていく。まるで内臓がかき混ぜられるようだ。どろどろと身体の中を這いずり回られている。反対に、頭の中は強烈な光を直視した時のように、真っ白になっている。頭と身体がちぐはぐになっている、そんな状態にとてつもない不安を覚える。 もしや、お母様も同じように考えているのだろうか?お母様を見ても、怯えているような、蔑んでいるような、憐れんでいるような、そんな表情を浮かべていた。 もう、分からない。 その瞬間、僕の頭の中で押し込めていた気持ちが、どばっと溢れ出していた。 僕に期待をしないで。 僕を放っておいて。 僕のことを見ないで。 僕を否定しないで。 期待通りになれなくてごめんなさい。 僕に優しくして。 僕はできないやつなんだ。 周りの方がずっと優秀だ。 なんで僕だけこんなことに。 お父様とお母様は何を考えているの? 責めないで。 嫌いにならないで。 消えたい。 ただ逃げてしまいたい。 それからどうやって部屋に戻ったのか、覚えていない。気づいたら部屋で、床に寝転がっていた。頬に伝わる絨毯の柔らかな感触や窓から差し込む街灯の光、埃の匂い、遠くで聞こえる車の走る音、その全てが不快に感じた。 ちらりと目線だけを勉強机に向けてみる。ノートと教科書が、乱雑に散らかっている。そんな道具ひとつひとつが、僕を責め立てているようなそんな風にすら見えてきた。 もう、何もかもが嫌だった。このままここにいたら、僕は狂ってしまう。お父様とお母様が何を考えているのか。 僕を守ることができるのは、僕自身なんだ。 最低限の服とお金だけ、鞄に詰める。ここに居続けることはもう無理だ。堪えられない。鞄を持った僕は、足音を殺しながら玄関へ向かった。途中でお父様とお母様に遭遇しないように、最大の注意を払った。そして何の問題もなく、玄関の前に辿り着く。 一度、家を振り返る。しんと静まり返った廊下が、僕を責めるような視線を送っているような気配がした。 けれど、僕はもう耐えられない。一刻も早くここを出なければ、心が壊れてしまう。そうしたら、僕は僕でなくなる。 だから、ここを出るのだ。 意を決して、扉をゆっくり開けた。外に身を出した後に、扉にきちんと鍵をかけた。 僕は小心者であった。戻るかどうかもわからないのに、家の安全について気を配っていたのだ。そして扉が施錠されたことを確認してから身体の向きを変えた。そして、歩み始めた。 最初は足音が聞かれないように、一歩一歩意識しながら歩いていた。けれどもだんだんと焦りと家を出た喜びから、足は速くなっていく。最終的には、全速力で走り出していた。どこに向かっているのかも分からなかった。 ただただ、自由を感じていた。 ずっとこの時が続けばいい。 疲れを感じることもなかった。ただ、がむしゃらに走り続けた。街灯が、僕だけを照らしていた。静かな夜の住宅街に、僕の足音だけが響いていた。 そこには僕しかいなかった。僕を責め立てる者は誰もいない。この時間、この場所は僕のものになっていた。それが嬉しくて、楽しくて、気持ちよくて、僕は笑っていた。ただ走ることに集中し、頭の中を空っぽにする。それが、とても快感になっていた。 疲れを感じ始めて走るのをやめた頃には、日差しが少しずつ空を赤く照らしていた。この空に美しさを感じていた。この世界には美しいもので満たされている、そんなことすら考えていた。もう少しこの世界を見ていたい。だから、僕はあの家にいてはいけないのだ。そんな風に、決意を改めた。 --- 家を飛び出してから、どれだけの時間が経ったのだろう。僕は、あてもなくとにかく歩き続けた。眠くなったら公園を探して、ベンチに横たわって眠った。しばらく寝たら起きて、また歩き始めた。 食事は本当に耐えきれない状態になったら、スーパーやコンビニのご飯を食べた。お金はもう少しでなくなるだろう。 どこまで歩いても、終わりというものはなかった。そして見るもの全てが新鮮であり、僕の心に清々しい風を吹き込ませた。 僕はなんと狭い世界の中で生きていたんだ。そう実感した。家を捨てることで、こんなにも自由な世界が開かれていたんだ。僕はこの世界の可能性を再確認していた。 歩き続けていた僕は、名前も知らない駅にたどり着いた。さすがに疲れた。今日はここで少し休もう。背中を預けられそうな柱を見つけて、そこに座り込んだ。 これからのことは、全然考えられない。今はただ歩いていたい。そのためにも少しだけ、少しだけ休もう。そう思い、顔を下に向け、目を瞑った。 目を瞑りしばらくすると、かつ、かつと高いヒールの靴音が聞こえてきた。その音についていくように、ぱたぱたと別の足音も聞こえてくる。二つの足音が近づき、目の前を通り過ぎていく。通り過ぎる間際に、女性の声が聞こえてきた。 やあねぇ、ああはなりたくないわねぇ。
食育
仕事を終えて、帰り道を一人で歩く。 今日も疲れた。 上司は、相変わらず無茶な仕事を平然と僕に振ってきた。その上、言うことは二転三転していく、結局、よくわからないことになる。 部下は、僕の意図したものとは異なる作業をしていた。そもそも、僕の伝え方が悪かったのか、作業の目的すらよく理解できていなかった。それを怒るわけにもいかないので、なんとか笑顔を保ちながら訂正のお願いをした。 結局、今日も自分の仕事はあまり進まなかった。少しばかり、急ぎの仕事のために残業してから、退勤する。 これが中間管理職か。そんなことを思いながら、とぼとぼと歩いた。 悶々とするけれども、気持ちを切り替えなければ。家には、妻と娘が待っている。彼女たちのためにも、腐った気持ちを引きずっていてはいけない。心配をかけないように。立派な父親、優しい夫でいられるように。僕は、一歩一歩、帰り道を歩きながら、少しずつ気持ちを切り替えていった。 そして、家の前に着く。我が家の入り口には、人に反応して点灯する、小さな照明が付いていた。これは、夜帰る時に家の前が暗いのは怖い、という妻の要望に応えたものだった。家に入る直前に、この照明の光が僕を照らす。いつからか、これが僕の気持ちの切り替えを後押ししていた。この光で僕は父になるのだ。 しかし、今日はいつもと少し様子が違う。電球が切れかかっているのか、光が点滅していた。これでも充分明るいけれども、なんだか嫌な感じだ。近いうちに変えなければ。妻も怖がってしまうだろう。そんなことを考えながら、玄関の扉に手をかけた。 ーーーーーーー 「ただいま」 「おかえりなさい」 扉を閉めながら、いつも通りの挨拶をする。そうすると、いつも通りの優しい返事がくる。 鍵を閉めたことを確認してから、顔を前に向ける。そこには、優しい笑顔の妻と嬉しそうに顔いっぱいの笑顔を浮かべる娘がいた。僕の大事な家族だ。 「パパ、おかえりなさい!」 「うん、ただいま」 きらきらとした目を向けながら、娘がこちらに駆け寄っていく。僕はそんな娘を抱き上げる。そして、満面の笑みを浮かべる娘の頬に、軽くキスをした。そして抱き上げたまま、廊下を進んでいく。妻は気を利かせて、僕の荷物を運んでくれた。いつもそうしてくれるのだ。 「今日のご飯は、ハンバーグとポテトサラダ、わかめのお味噌汁よ。」 妻が僕に夕食の献立を伝える。 「おおー。由紀の好きなハンバーグじゃないか。よかったなあ。」 僕は優しく娘に笑いかける。 「うん!」 娘は元気に返事をする。そんないつもの景色。 自室で手早く着替えを済まし、リビングに向かった。テーブルを囲む椅子には、すでに娘が着席しており、今か今かと夕食を待ち侘びていた。 妻は、夕食を食器の上に盛り付けていた。盛り付けの済んだものから、僕が食卓へ運んでいく。それを見た娘も、僕の真似をして、運べるものからゆっくりと運んでいた。 「おお、運んでくれてありがとう!偉いなあ!」 「でしょー!」 僕が大袈裟に褒めると、娘は満面の笑みを浮かべて、嬉しそうに返事を返した。褒められることが大好きなのだ。僕はにっこりと笑顔を返した。 そして食事が始まった。娘が今日の出来事を楽しそうに語り、僕と妻で聞いていた。時折、相槌を打ちながら、ご飯を口に運ぶ。 娘は話の合間に、美味しい美味しいと言いながら、夢中でハンバーグを食べていた。食べることと話すことに精一杯になってしまい、時折口の端をソースで汚してしまうこともあった。 それを見た妻は呆れ笑いを浮かべながらも、丁寧に娘の口元を拭う。娘は一瞬、むすっとした顔を浮かべるけれども、ハンバーグを口にするとすぐ笑顔に変わった。本当に、美味しくてたまらないようだ。 娘の食べているところを見ると、僕は嬉しい気持ちになると同時にふとある疑問が浮かぶ。 最近、僕は娘のように食事に対して、猛烈な感動を覚えた瞬間があっただろうか?惰性で、ただ胃の中に食べ物を入れているだけになっていないか?いつからだろうか。娘のようにご飯を感動を覚えながら食べれなくなっていたのは。 もちろん、味は美味しい。妻の手料理は絶品だと思う。ハンバーグは肉の旨みをぎゅっと閉じ込めており、ご飯との相性も抜群だ。それに、サラダと味噌汁にもどんどん箸が進む。 だけれども、食を楽しむ気持ちは、幼少期よりも確実に小さくなっていた。ただ栄養を取るため、ただ生きるために食事を摂っている気がする。これが大人になったということなのだろうか? これは食事に限ったことではない。 僕はここ最近、感動するものがなく、惰性で生きるようになっていた。学生時代は貪るように本を読んでいたし、社会人を始めた頃は様々な場所を旅していた。 しかし、今ではそんなことをする気力も時間もない。ただただ、一社会人として、上司と部下に気を遣いながら必死に仕事をしていた。それに、仕事に達成感を覚えることも減ってきていた。ただ、目の前のことを淡々と処理していた。 家庭でもそうであった。今までは、父親として、また夫として一生懸命に家庭を支えながら、家族といる喜びを感じていた。また、娘の成長も自分のことのように喜ばしいと思っていた。けれども、その感動もだんだんと減ってきている。それよりも、妻と娘を支え続けなければ、という責任ばかりが重たくのしかかってきていた。 なぜ、こんなことになってしまったのだろう。 仕事のせいなのだろうか? そう考えてみたけれども、悪い職場であるとは思わなかった。職場に嫌な人間がいるわけではない。むしろ、互いを尊重しようとする人間が多くいると思う。お互い深入りすることなく、社会人として真っ当な付き合い方ができている。 とても良い職場だ。 また、決して妻が悪いわけでもない。 優しい女性だ。僕と娘のことを第一に考えて行動している。時々、不測の事態に陥ってしまうと混乱してしまい、変わった事をしてしまうのも可愛いと思える。 僕の大事な妻だ。 娘が悪いわけでもない。 迷惑をかけることこそあるけれども、よく外で遊ぶ、元気いっぱいの女の子だ。優しい一面もあり、僕と妻の誕生日にはそれぞれの似顔絵だって書いてくれた。彼女の幸せを願ってやまない。 僕の大事な娘だ。 こんな二人と一緒に暮らしていて、僕は幸せなはずだ。 なのに、どうしてだろう。 なぜ、満たされた気持ちにならないのだろう。なんだか、無性に叫びたくなる。おそらく、本当は、自分はもう幸せと呼べる状態なんだ。けれども、幸せが当たり前になってしまい、認識できなくなっているのだ。甘いお菓子を食べ続けたら、その甘さを感じなくなるように。 それに、今の状態は僕が選択を重ねた結果だ。 今の仕事を選んだのも僕だ。業績も良いし、きっと良い会社だよ。父は言った。 中間管理職を引き受けたのも僕だ。周りからは褒め称えられた。大変になるだろうけれど、きっとやりがいがある、頑張れよ、と上司からは激励された。 実際、当初はやり甲斐も感じていた。普段は全然報われないけれども、努力が結果に反映されると達成感、充実感を覚えた。 僕は、この会社で、職務を全うせねばと思っていた。 また、妻に交際を申し込んだのは僕だし、結婚を申し込んだのも僕だ。「彼女」になるときも、「妻」になるときも、妻はとても喜んでいた。そんな彼女を見て、僕も嬉しかった。 家族を増やす選択をしたのは、妻と話し合って決めた。けれども、結婚した当初から僕はそのつもりだった。実際に娘が生まれた時、猛烈な感動を覚えた。これが僕の子なんだ、絶対に守らなければという責任を感じた。両親は僕を褒め、父として頑張れよ、と激励した。 妻は、くたくたになりながら、けれどもとても幸せそうに笑っていた。僕は父として家族のために尽力せねばと決意した。 娘を育てる間も二人で奮闘した。妻はもちろん、僕も育児に積極的になった。娘の命を預かっているのだからと、必死になった。二人で娘にとっての最善を考え続けた。その結果が実ってか、こうして娘はすくすくと良い子に育っている。 今の環境を作ったのは僕自身だ。 僕が望み、努力したから、周りがそれに応じて、この形になったのだ。だからこそ、僕は願いを叶えてもらった分を返さなければならない。僕自身が周りから求められている役割を一生懸命に演じるべきなのだ。それこそが、恩返しであり、僕自身が幸せになるために必要なことだと思う。 だけれども、なぜ胸の中に澱んだ気持ちがあるのだろうか。僕は、何かを間違えていたのだろうか。僕自身を偽っていたのだろうか? そこまで考えたところで、ふと我に帰った。いけない。楽しい食事中に、そんな暗いことを考えていてはだめだ。なんとか気持ちを切り替えなければ。 そう思い、改めて我が家の景色を見渡した。綺麗に整頓されたリビング。調味料が並んだ生活感のあるキッチン。冷蔵庫や電子レンジなどの家電。家族が並んで座ることができるソファ。昼間に暖かい光が差し込む窓。窓のカーテンは閉じられていたが、2枚のカーテンの間にわずかな隙間ができている。その隙間をじっと見つめると、僕らの姿がぼんやりと映っていた。 満面の笑みを浮かべる娘、そして優しく微笑みかける妻、そして二人に対して明るい笑顔を振りまく僕がいた。幸せな家庭の1ページがそこにはあった。僕が望んでいた、幸せな光景。幸せの形がそこにあったはずだった。 ーーーーーーー 「贅沢だな。」 そんな話を、大学時代の友人である吉永と、二人で飲んだ際に話してみた。 吉永は、とても活発な男であった。彼は独身で、やりたいことを好きなだけやっていた。趣味も多い。僕が知っている限りでは、ボルダリングにサーフィン、釣り、ギター、車の改造などアウトドア、インドア関係なしに気になることに挑戦している。 そんな彼を僕は尊敬していたし、羨ましいとすら思っていた。また、読書や音楽鑑賞といったインドアな趣味しかない僕とよく付き合ってくれるな、といつも思う。 彼は、僕といるのが楽しいらしい。自分と感性が似ているところがあり、一緒にいてほっとするのと同時に、自分にない側面もあり、自身の考え方に幅が広がる、と以前飲んだ拍子に漏らしていた。 そんな彼が笑いながら、僕の話を聞き、僕のことを揶揄してきた。 贅沢者、本当にその通りだと思う。様々な望んだものを手に入れていると言うのに不満を漏らすのは、贅沢と言って間違いない。 彼の発言に、そうだな、と同意の相槌を返す。 しかし、その後吉永は続けた。 「だけど、なんだかお前の気持ちもわかるよ。自分の持っているものがいかに特別かっていうのは、すぐに忘れてしまうものだからな。欲しいものが手に入ると、すぐにまた他の欲しいものが出てくるし。」 これは、多くの人に共通していることなのだろう。だからこそ、人はより良いものを求めている。 「やっぱりそういうもんだよな。僕は最近、欲しいものすらわからなくなってきているけど。」 僕は自虐しながら笑った。 「相変わらず暗いなあ。自分が楽しくなれることを何か探してみろよ。」 まさしく、その通りであった。これはおそらく誰でも感じることなのだろう。だからこそ、多くの人は趣味を持つのだ。 さらに吉永は続ける。 「まあでも、世間一般で幸せと呼ばれるような状態でも本人がそう感じていないなら、当たり前のことだけど、それは幸せではないよな。」 「それはまあ、そうだな…うーん…」 だとすると、僕が今本当に求めているものはなんなのだろう。 さらに吉永は続ける。 「あとさ、お前は、会社、嫁と娘のことを第一に考えてるよな。それが自分自身の幸せにつながると信じて。だけど、もっと、自分のためだけに動いてみてもいいんじゃないか?直接、自分のためになるようなことをもっとしてみたらどうだ?」 「自分のため、なあ…」 確かに彼の言うことは合っているような気がする。 最近の僕は仕事と家庭を第一にして、自分を疎かにしている。それが自分自身のためになると信じていたからだ。 だけれども、実際はこうして満足感を得られず、苦しい状態になっているのだから、自分自身のためにはなっていないのだろう。 少し考え込んでしまった僕を見ながら、吉永はにやりと笑った。そして、僕にある提案をする。 「今度の金曜の夜、空いているか?連れて行ってやりたいところがあるんだ。」 「なんだ?風俗だったら、興味ないぞ。」 僕は妻以外の女性に興味がない。だから、キャバクラや風俗に魅力を感じることはなかった。結婚する前は興味本位で友人と行くことがあったが、ここ最近は全く行っていない。 「いや違う。もっと刺激的なところさ。今のお前は、一つの部屋にじっと閉じこもってるようなもんだ。外にも出れず、部屋の窓さえ開けられない。そういうときは、まず、外に出るべきなんだよ。周りの常識だったり、価値観から一回離れることで、自分の気持ちに気付いたりするもんだよ。」 吉永はにやにやと口角を上げながら言った。この男は、僕に説教めいたことをよく言ってきて、たまに腹が立つ。 けれども、確かに自分の内面は今澱んでいる。ちょっと空気を入れ替えることで、楽になるかもしれない。 僕は話を聞いてみることにした。 ーーーーーーー 次の金曜日、仕事を終えた僕は吉永の指定した場所へと向かった。普段は全く寄ることのない駅を降りる。すでに吉永は改札の前で待っていた。相変わらずにやにやと笑いながら、僕を迎える。 そうして、二人で歩き始めた。僕はまだどこに連れて行かれるのかわかっていなかった。それがなんだか、不安であると同時に楽しみでもあった。ソワソワしながら吉永になんてことのない世間話を振る。彼はそんな僕の様子を見てにやにやとしながら相槌を打っていた。 もう十五分は歩いただろうか。集合場所の駅からは、だいぶ離れていた。駅前の商店街を抜けて、住宅街も通り過ぎ、古くて小さなビルが立ち並ぶオフィス街のようなところに出た。こんなところに、何があるというのだろうか。 吉永は、ビルの間の小さな路地に入っていく。日陰にいるせいか、どんよりとした空気すら漂っているように感じた。 そしてこちらを振り返り、言った。 「到着だ。ここが今日の目的地だ。」 吉永は、右手側のビルを指差した。そこには、地下へと続く階段があった。階段の横にある看板には、「Under_Bar」と書かれていた。地下にあるバーだから、アンダーバーか。なんだか安直だ。 吉永は、僕の顔を少し見てから、階段を降りていった。僕は恐れと期待を胸に、吉永の後に続いた。 扉を開くと、そこにはカウンター席が5つほどあるだけの、細長い部屋であった。客もおらず、ゆったりとしたピアノの音色が 聞こえる。 カウンターの向こうには、ベストに黒の蝶ネクタイ姿の男性がいた。年齢は40代くらいだろうか。かっちりと決めたオールバックの髪型が印象的だ。彼は調理台に手を置いてこちらを見ていた。料理の準備をしていたようだ。 「いらっしゃいませ。」 深みのある低い声で挨拶をする。 僕は軽く会釈で応える。 「2名で予約していた吉永です。」 「吉永様ですね、お待ちしておりました。」 そんなやりとりの後に着席を促された。ちなみに僕は、あまりバーの経験はない。何度か上司に連れられたくらいだ。ここが刺激となるのだろうか? まずは、お酒、というわけで僕と吉永は、ウイスキーをロックで頼んだ。目の前で氷を削り、グラスに入れる。カランとい う音が小気味良い。そこに、指2本分の高さまでウイスキーが注がれた。吉永と軽く乾杯をしながら、お通しで出されたナッツを食べる。僕は口を開いた。 「ここが刺激になる場所なのか?ごく普通のバーみたいだけど。」 「まあそう焦るな。ここからが大事なんだ。」 吉永はバーテンダーにチラリと目をやった。 彼はコンロの前に立ち、何やら料理の準備をしているようだ。良い匂いが漂ってくる。もしや、ここの料理が絶品ということなのだろうか。 僕は、再び尋ねた。 「おい、いい加減教えてくれ。秘蔵のお酒がここでは飲めるのか?それとも、ここの料理がめちゃくちゃうまいのか?」 「料理という点は合っているけどね。まあ、もう少しだけ待っていてくれ。」 そんな風にぼんやりとはぐらかされる。 僕は何が起きるのか不安な気持ちになりながらも、彼の言葉に従った。彼は一体どんなものを見せてくれるのだろうか?全く予想がつかなかった。 「どうぞ。」 しばらくすると、料理が目の前に置かれた。親指程度の大きさの肉が皿に盛られている。肉には焼き目が付いていた。ステーキだろうか?牛肉のような見た目をしているが、何の肉なのかは分からなかった。 思わず隣にいる吉永にも尋ねた。 「これはなんだ?」 「それは、食べてからのお楽しみだ。よく味わって食べな。」 吉永はにやりと笑いながら答える。 僕は料理と一緒に出されたナイフとフォークで、小さな肉をさらに小さく切り分けた。それをフォークで突き刺し、口に入れる。そして噛み締めた。 噛むと同時に、肉汁がじゅるりと口の中に広がる。今まで食べたどの肉とも違う独特の臭みが広がった。なかなかに美味しかった。そのまま、口を動かし続ける。ゆっくりと味わってから、飲み込んだ。 「どうだ?」 吉永は尋ねる。表情は相変わらずにやにやとした笑顔のままだ。 「うん、美味しい。けれど、食べたことのない味だな。これはなんの肉なんだ?ジビエかな?」 僕は吉永に尋ねた。彼はすぐに答えを返さなかった。ただ、にやりと笑っているだけであった。 おもわず、バーテンダーにも目線を向けた。バーテンダーは視線を下に向け、黙々と作業をしていた。暫しの沈黙が流れる。 僕は、回答がないことに困惑し、吉永とバーテンダーの顔をきょろきょろと交互に見ていた。 吉永は、そんな僕の様子を意地の悪そうな顔で見ていた。まるで困惑している僕の様子を、楽しんでいるように感じる。 そして、少しの間をおいて、吉永は答えた。 「それはな、人の肉だよ。」 何を言っているのか、最初はよく理解できなかった。思わず、え、とも、い、とも聞こえるどっちつかずな声が漏れた。 今なんて言った?こいつは、人の肉、と言ったのか?吉永は相変わらず気味の悪い笑顔を浮かべている。 「それは、人の肉だ。」 僕が困惑している様子を見て、吉永は繰り返し言った。2回目できちんと理解した。これは人の肉だ、と言ったのだ。まさか、なんの冗談だ。 そう思って、バーテンダーの顔を見る。バーテンダーは、相変わらず下を向いていた。思わず立ち上がり、カウンターから身を乗り出し、バーテンダーの視線の先を追う。 そこには、まな板に乗った人間の腕があった。断面からは骨が見えており、まな板に血を滴らせていた。店に入った時から、そこにあったのかもしれないが、店内が薄暗いのと、カウンターに隠れていたため、よく見えていなかった。 本当に人の肉なんだ。僕は今、人の肉を食べたんだ。 理解した瞬間に、全ての音が消えた。代わりに耳鳴りがし、心臓の鼓動の音がどんどんと強くなっていった。そして身体中がブルブルと震え始めて、言葉にならない声が口から溢れる。 目の前にいる男二人が、全く理解のできない存在、人の皮を被った別の何かのようにすら見えた。表情すらも理解できない。それは一瞬の出来事のはずだったけれども、とてつもなく長い時間のように感じていた。 そして、ふと我に帰った瞬間に、立ち上がった。気持ちが悪い。吐き出さなければ。僕はとんでもないことをしてしまった。トイレに向かおうと身体の向きを変えたが、吉永に腕を掴まれ阻止された。僕は思わず怒鳴っていた。 「離せ!お前何してんだ!早く吐かせろ!」 「落ち着け!吐くな!ダメだ!」 吉永も僕と同じように怒鳴り声で返してきた。なぜ僕を止めるのか、わけがわからない。思わずまた怒鳴り声を上げた。 「ふざけるな!とんでもないとこに連れて来やがって!」 「これが、お前に必要だと思ったんだ!」 「なんで、にに、人間を食べる必要があるんだ!」 「それをちゃんと説明するから、座れ!」 僕は、今すぐにでもトイレに行きこの肉を吐き出したかった。 しかし、吉永が僕の腕をものすごい強さで掴んでくるので動くことができなかった。そのうえ、吉永の瞳がなんだか恐ろしい光を放っているようで、ゾッとしてしまった。彼に従わなければ、何をされるか分からない。そんな恐怖すら感じた。 思わず僕はゆっくりと上げていた腰を下ろしてしまった。 なんでこんなことになってしまったんだ。 僕は肩で息をしながら、吉永を見つめる。吉永は鋭い眼差しを僕に向けていた。 バーテンダーは相変わらず手元を見ながら、調理をしていた。こういったことは、日常茶飯事なのだろうか。 僕の息が少しずつ整っていく。吉永は、そんな僕を静かに見ていた。何を考えているのか、その表情からは読み取れなかった。 僕はなんでこんなことに巻き込まれているんだ。誘われたままについてきてしまったことを後悔した。早く帰りたい、そんな気持ちを思わずこぼしていた。 「…さっさと帰してくれ。これ以上犯罪に巻き込まれるのはごめんだ。」 しかし、吉永は僕を止めた。 「頼むから、話だけ聞いてくれ。そしたら帰っても良いから。」 「今更なんの話をするっていうんだ…本当にもう、早く帰らせてくれよ…」 僕は、再び腰を浮かして帰ろうとする。 しかし、その瞬間に吉永は冷たい声で言った。 「待て。ここで帰ったら俺はこの後警察に全部洗いざらい吐いてやる。そしたら、お前も共犯者だぞ。いいのか?」 吉永は相変わらず感情の見えない顔で言った。 この男、なんてやつだ。 僕は怒りで拳を思わず握りしめた。なんとか振り切って逃げることができるか?いや、家族のことを考えるとどうにも動けない。 しばしの間、そんな葛藤を繰り返す。結局、少し浮かせていた腰を下ろした。 改めて思う。なんでこんなことになったんだ。 後悔の念と、これからどうなるのかという恐怖で、僕の胸の中は満たされていた。僕はどうするべきなんだ。 吉永は静かにこちらをじっと見ている。彼が何を考えているのか、全く分からなかった。分からないことばかりの状態は、今はとても怖い。 少しでも恐怖を和らげようと、僕から話を切り出した。 「…まずこっちからいくつか質問しても良いか?」 「ああ、いいぞ。分からないことだらけだろうからな。」 僕の要望を、吉永は了承した。 僕は頭の中を整理しながら、なんとか言葉を捻り出した。 「これは、は、犯罪だよな…?」 「ああ、そうだ。死体損壊罪という罪に当たる。」 半ばわかっていたけれども、ショックであった。僕は罪を犯してしまったんだ。鼓動が早くなる。 吉永は、話を続ける。 「けれども、これが発覚することはおそらくない。そのために様々な対策をしっかりと取っている。例えば、この店は紹介制だ。見ず知らずの人は入れない。それに、ホームページすら持っていない。加えて、このメニューもごく少数の者しか知らないんだ。」 店として出している以上、何かしらの対策をしているのは当然だろう。まだまだ疑いは晴れないが、話は続く。 「それから、お前は言い訳することもできる。俺に連れて来られて、何が何だかよく分からない肉を食べた、そんな風に言えばいい。」 吉永の考える言い訳は、確かに筋が通りそうだ。しかし、それで僕は本当に罪を被らずに済むのだろうか。詳しいことは調べなければ。未だ、恐怖で身体が震えているけれども、少しだけ落ち着きを取り戻してきた。 僕は、次の質問を投げかけた。 「これは、こ、殺された人間の肉なのか?」 殺された人間だろうと、自然に亡くなった人間であろうと、これは人間の死体だ。口にしてはならないものには変わりない。 しかし、殺人が関わってくるとなると、より事の深刻さが増す、そんな風に思った。 吉永は、この質問も予想していたのか、特に表情を変えることなく答えた。 「そこについては説明させてほしい。まず、この食材に使われているのは、死にたいと願っていた人間だ。」 「死にたいと願っていた人間…?」 そういう人間がいることはさすがに知っている。毎年、何人が自殺したといったニュースは見かける機会がある。 「そうだ。自身の都合で死にたいと願い、死後はどんな風に扱われても構わないと了承している人間だ。そういった人たちに薬を使って安楽死を実施している。必要なものには、誰か大切な人を残すことになる人なんかには、少なくない額の謝礼金も渡している。」 なんとなく吉永の言いたいことが分かった。これは、殺された、と表現して良いのか難しい。自ら望んで亡くなっているわけだから、人に自殺を助けてもらった、とも言える。だからと言って、その肉を食べていいとは到底思えないが。 質問を重ねながら、僕は核心に触れる覚悟を決めていた。吉永の行為について賛同することは全くできないけれども、僕は知りたかった。僕に何故こんなことをさせたのかを。そして、少しの間をおいて、次の質問を口にした。 「なんで…なんで、こんなことを僕にさせたんだ?」 吉永は僕のことをじっと見ていた。彼の瞳には、なんの感情の色も見えない。僕には、その真意を測ることはどうしてもできなかった。 少しの間を置いて、彼は答えた。 「お前に必要だと思ったからだ。」 「こんなことが必要なはずないだろう。」 「いや、必要なんだ。少しだけ、俺自身の話を聞いてくれないか?」 なかなか核心に触れることができず、苛々とする。しかし、吉永に通報されることを恐れていたため、彼の話を聞くしか選択肢はなかった。 「そもそも俺がこんなことをさせたのは、お前に人間らしい時間を味わって欲しかったからだ。」 「……何を言っているんだ?」 僕は目の前の男が、何を言っているのかさっぱりわからなかった。何故、人間を食べることが人間らしい時間につながるんだ。疑問で頭がいっぱいになり、何も言えなくなってしまった。 そんな僕に構わず吉永は話し続ける。 「前々から思っていたんだが、俺はお前にどこか似ている。趣味なんかは全然違うけれど、物事を見る目や価値観がどこか共感できるところがあるんだ。」 それは僕もなんとなく感じている時があった。だからこそ、よく一緒にいたし、仲良くやっていけたのだろう。 「そんな俺もお前と同じように悩んでいたことがあった。俺は自由を満喫しているはずなのに、どこか満たされない気持ちも感じていたんだ。それに気づいてから色々試した。スポーツ、芸術、エンタメと色々となものに手を出した。海外に行ったりもしたんだぜ。けれど、どれもピンとくることはなかった。」 吉永が多趣味なのは知っている。しかし、満たされなさがその根幹にあったということまでは知らなかった。色々なものに触れるのが好きなのだとばかり思っていた。 「もう俺はだめだと思った。生きていることに向いていないのでは?そんなことまで考えていた。そんな苦しみから逃れたくて、解決策を模索し始めた。そしてここへ辿り着いたんだ。」 「…その、人間を食べることががどうして、解決策になったんだ?」 人を食べる、そんな野蛮極まりないことでどうして悩みが解決するのだろうか。 吉永は、手元のグラスに口をつけた。ほとんど氷は溶けていた。 「生きるのに向いていないのでは?そんなことまで考えていた俺は、そもそも生きるとは何か、それを考えるようになっていたんだ。」 生きるとは何か。これはただ命を失わないようにする、ということではないのだろう。豊かに生きる、幸福に生きる、そう言った意味であると感じた。 「そんな時に、ふと、新たに何かを始めるのではなくて、生きるために普段からしていることを見直そうと考えた。そして、色々な行為の中でも、特に身近で、かつ生に直結している、食事に目をつけたんだ。」 食事を通して、自身がより豊かに生きることができるようにする、というわけか。それ自体は間違っていない。結果はこんなにもおかしなことになっているが。 「そこで、食事について色々と調べてみた。日本各地の美味しいもの、珍しい食べ物なんかがほとんどだった。そんな中で、ある食べ物しか食べないことで、自身の考えを主張するような人々を見つけたんだ。」 「ヴィーガンやベジタリアンのことか?」 「ああ、そうだ。彼らは、健康面や環境面を理由としてそういう食生活にしているんだけどな。その理由の一つに、動物達が苦しまないように、と言うものがある。少しでもかわいそうな動物を減らすために、自らの習慣を見直したというわけだな。」 それくらいは知っている。ヴィーガンの方の話をネットやテレビので見たことはある。すごいな、とは感じたが自分は真似しようとは思わなかった。 「こういう言い方は良くないと思うが、彼らは植物のみを食べることで、道徳的なことをしている、という満足感を得ている、と思うんだ。自身の行動で苦しむ動物が少しでも減る、なんと立派なことか、というわけだ。」 それは何となく理解できる。何かを食べなければ、生きていけないけれども、少しでも苦しむものが減るように自身の行動を見直した、というわけだ。それが満足感に繋がっている。 「しかしある説によると、植物もまた動物と同じように思考しているらしい。思考しているとするならば、植物が苦しんでいないだなんて言い切れないだろう?菜食主義ですら暴力的だと思ったんだ。」 なるほど、それはそうだ。疑わしきは罰せず、といったように、苦しんでいるかどうかわからないけれども、食べて良いというのはなんだか違和感を感じる。 「動物を食べても、植物を食べても、かわいそうという気持ちがついてまわる。そして、ふと思ったんだ。死にたいと願っている者を食べるのが一番なのではないかとね。」 「…」 僕の背中に嫌な汗がスッと流れた。吉永の考えがとてもおぞましいものであると分かっているけれど、それをうまく説明することができなかった。 僕が何かを言い淀んでいる間に、吉永はまた語り始める。 「そんなことを思いついた俺は、もしかしたら、これが何かの糸口になるのではないかと考え、実行できる場所を探した。そして、ここに辿り着いた。」 ここに辿り着くまでに、おそらく法的に裁かれるような人々と繋がりも得ているだろう。そんなことを思ったが、口に出すことなどもちろんできなかった。 「ここではじめて人を食べたんだ。最初の一口になかなか手が伸びなかったよ。この人間はどんなやつだったんだろう、なぜ死にたくなったんだろう、といったことを考えてしまった。」 「…そうなるだろうな。でもお前はそこでやめようと思わなかったのか?」 やめなかったからこそ、彼はこうして僕と人間を食べているわけだ。その理由を詳しく知りたくなった。 「最初はやめようとも思った。けれども気付いたんだ。人間を食べる時だけじゃなくて、他の動物、植物にも同じことが言えるんじゃないか、と。同じ人間だから想像が膨らみやすいけれども、他の動植物を食べる時も同じようなことを考えるべきなんじゃないか?それこそが人間らしい食事なんだと思ったんだ。」 「人間らしい、食事…」 カニバリズムが人間らしい食事。無茶苦茶だ。そう思っているはずなのに、その考えは僕に大きな衝撃を与えた。 「人を食べることでそれに気付くことができたんだ。そして日々の食事がとても刺激的なものになっていったんだ。この牛はどんな風に過ごしたのか、このトマトは何を考えていたのか、そんなことを考えながら日々の食事を摂るようになったんだ。」 幼い時に、自分の食べているものが、元々は生きていたということに気づいた時の衝撃を思い出した。気づいた当初こそ、食べることへの罪悪感があった。 しかし、その気持ちは薄らいでいく。食べなければ生きていけない、だからこそ命を頂くことに感謝するのだと、そう母親も言っていた。僕は食べることを肯定しながら、少しずつそれを忘れていったんだ。 けれども、今ここで、人を食べることで、より強烈に食べることについて考えざるを得ない。 この時間こそが、人間らしくいられる時間というわけなのだろうか。 「そんな時間をお前にも過ごして欲しかったんだ。惰性で生きることをやめるために。生きるとは何か、見つめ直すために。さあ、食べろ。」 僕は改めて、食べかけの肉を見つめた。 僕と吉永が長い間話していたせいで、少し冷めてしまっていた。この食事は僕が食べなければ、どうなるのだろう。ゴミ箱に捨てられるのだろう。 この食べ物は僕が食べなければ捨てられる。そんな命を踏みにじるようなことをしてはならない、そんな気がする。 そうか、これが食事。 相手の犠牲の上で成立している、醜くグロテスクな行為。こんな行為を普段からずっと行なっていたのだ。 僕の前には食べかけにされた人がいる。この人のことを考えるならば、最善の行為はなんなのだろうか? 肉を見つめて黙っている僕に、吉永は再び言う。 「さあ、食べろ。そして考えろ。これはお前に必要なことなんだ。」 吉永は僕にナイフとフォークを手渡してくる。それを僕は受け取る。よく分からないまま僕は、震える手でナイフを使い、肉を削いでいた。 躊躇いながらもフォークを突き刺し、口に運ぶ。なぜだろう。僕は迷っているはずなのに。 なぜ、肉を口に運んでいるのだろう。 僕は肉を口に入れ、噛み始めた。途端に口の中から肉の香りが鼻に抜けていく。なんだか臭い、とすら感じてしまう。一瞬戻しそうになるが、その衝動を抑えて咀嚼を続けた。そして飲み込んだ。 飲み込みながら、ふと考える。 この人は、なぜこんなことになってしまったのだろうか。死にたいと願うまで、追い詰められていたのだろうか。この人は、最後に自身の望みを叶えることができて、幸せだったのだろうか? 僕は、死を願う程、辛い思いをせずにここでこの人を食べている。そんなことに気づいた。それはとても、大事な気づきである、そんなことを考えた。そして、気づけば、食べている相手への感謝の思いすら出てきた。 同時に、自身が生きているということを確認していた。 そう、僕は生きていた。 僕だってもしかしたら、この口の中の人のようにぐちゃぐちゃにされているかもしれない。もしくは自身で死を選ぶことすらできずに、どこかで急に殺されているかもしれない。ここで僕が誰かを食べて生きている、そのこと自体が、とても幸運なことなんだ。 当たり前のことなのに、いや当たり前のことだからこそ、僕はこの幸せに気づいていなかったんだ。 僕は、生きている。だから、食べる。命を、奪う。 これは当たり前だけれど、とてつもなく幸せなことなんだ。 食べられないでよかった。そんな醜い幸せに気づいた。僕がこうやって、誰かを食べているということ、それはとても幸せなことなんだ。 ああ、そういうことだったのか。 ここまでしないと幸せを感じないくらいに僕は狂っていたのか。僕は愚かだった。そのことにも気づいてしまった。 気づいてからはもう夢中だった。ゆっくりと肉を切り分け、口に運び、咀嚼する。そして、自身の生を実感していた。 思わず涙が流していた。 そんな様子を吉永はにやにやと笑いながら見ていた。なぜ、この景色を笑いながら見ていられるのだろうか。そんな彼と目が合った時に気づいた。 彼は見抜いていたのだ。僕の本質を。 吉永は、僕が同じような感覚の持ち主だと気づいていたのだ。そしてそんな僕だからこそ、声をかけたのだ。 恥ずかしいような、だけれど、理解者がいることが嬉しいような、そんな気持ちであった。 僕が少しずつ食べている間に、吉永のもとにも食事が配膳された。そして吉永も僕と同じように人の肉を食べた。二人とも特に味についての感想などは口にしなかった。食べる、ただそれだけで十分だった。食事を終えるまで幸せを噛み締め続けていた。 ーーーーーーー ゆっくりと時間をかけて、完食した。食事を終えてから、吉永とどんな話をするべきなのかわからなかった。今はただ、自分の幸せを噛み締めていたかった。それは吉永も同じだったようだ。二人でお酒をまた頼み、無言で飲んでいた。ゆっくり、一口ずつ、丁寧に飲んでいた。 「そろそろ出るか。お前は帰らないとまずいだろう。」 お酒を二人とも飲み終え、吉永は声をかけた。僕は頷き、財布を取り出そうとした。こんな店だ。おそらく法外な料金を取られるのだろう。 しかし、吉永が勘定の声かけをしようとする僕を制し、一人で支払いを行った。 「今日は俺が誘ったんだ。俺に奢らせろよ。」 その言葉に甘えさせてもらった。今はもう、何も考えたくなかった。 店を出た。吉永とは、店の前で別れた。彼は、別のお店に寄り道してから帰るそうだ。それ以上、多くを語ることはなかった。この店が違法であること、僕らのやっていることが犯罪であること、それらには一切触れなかった。でも、それでよかった。 僕は家に妻と娘を待たせている。あまり遅くには帰れないため、寄り道もせず、そのまま帰った。帰り道、今日食べた肉のことをずっと思い返していた。 僕は、人を食べた。法を犯し、家族を危険に晒すような行為だ。それでも、僕は食べた。 けれども、それは今の僕には必要なことだったのだ。おかげで僕は今がどれだけ幸せなのか、気づくことができた。 ぼんやりと考えながら歩いていたせいか、気づいたら家の前であった。いつもなら、家の前に立った瞬間に光り始める照明が、今日はなぜか点かなかった。電球が切れてしまったのだろう。 僕は、家を見上げた。今日はいつもより、窓から漏れる光を明るく感じた。
ある男性の独白
私は、以前教師をやっておりました。 中学校の理科を担当していたんです。 教師の仕事内容よりも、子供を相手にする仕事が魅力に感じていました。まあ私の場合は、子供というより女の子と接する機会が欲しかったというわけなのですが。本当に恥ずかしい話なのですが、私は、年下の少女に興奮する人間なのです。とりわけ、中学生の女子がたまらなく好きなんです。それが今回のようなことに繋がってしまいました。 そもそも、私は可愛い女子生徒に対して劣情を抱くことはあっても、決してコトを起こすつもりなんてなかったんです。三十何年も生きているわけですから、人並みの倫理観は持っていました。私のような、女の子に対して劣情を抱く存在は汚らわしく忌避されるものだ、ということも重々承知していたのです。だから、私は成人向けの漫画などで自身の劣情を処理しながら、なんとかやっていけたのです。 そこまで自覚があるなら教師になるべきではない、というのはごもっともな意見です。しかし、受験生の時の私は、特になんの夢もなく、学びたいこともありませんでした。そんな私は友人が受けるから、という理由だけで教育学部に入ってしまったのです。教育学部に入ってしまった以上、教員を目指すのは自然なことではないのでしょうか?その時から多少の下心はありましたけれども、欲望は自分で抑えられていたし、友人との会話の中で話のネタにすらしていたのです。さらに言うならば、学生時代に塾講師のアルバイトをしており、そこで教える力について絶大な信頼を得ていたのです。こんな私は教員になる他なかったのです。 教師になってから十年近くは、自身の欲望を一人で処理していたので、特に大きな問題を起こすことはありませんでした。教師としては、我ながらよくやっていたと思います。生徒に下心を見せることは決してなく、男子女子共に平等に接しておりました。気になる女子生徒がいても、仕事だから思考を切り替えることがちゃんとできていたのです。他の教員からの信頼も厚く、こつこつと真面目に職務に励んでおりました。 そんな私なのですが、ある年に出会ってしまったのです。まさに私の理想とするような、とても美しい女子生徒に。 彼女は、雑誌のモデルなんかもやっていたそうです。非常に整った容姿。そして徐々に女になっていることを象徴するかのような膨らみ始めた胸。衣替えの際に見えるしなやかな四肢。どこか大人びた表情、仕草。しかし、あどけなさも同時に残っている。その全てが、私の好みそのものだったのです。 その子は、私の担当するクラスの子ではありませんでした。理科の授業で、彼女の学年を担当していたのです。彼女のクラスでの初めて行った授業のことを今でも覚えております。教室の扉を開けて、教卓まで向かう途中に彼女を初めて見かけました。確か、真ん中左側の列の前から二番目の席でした。彼女の姿を見た瞬間に、身体中に衝撃が走りました。私はそれまで一目惚れというものを知りませんでしたが、たぶんあれがそうだったのでしょう。それは本当に私の願望をそのまま具体化したような少女だったのです。 その日の授業中はずっと動揺してしまいました。この動揺が生徒に伝わってはいけない、と思い必死で授業を行いました。幸い、経験の甲斐があってか特に大きな問題はなく終わりました。とにかく、彼女は私の理想そのものだったのです。初めての授業を終えた日の夜は、この欲望をどうにかしなくては、という思いで、漫画や動画を見ながら必死に自身を慰めました。しかし、どんな手段を持ってしても、気づけば彼女との交わりを想像してしまうのです。 最初の何回かの授業を行った日の夜は、しばらく大変でした。 いや、初めて会ったその時から、彼女に何かしようという気持ちがあったわけではなかったのです。なんなら、あの事件を起こす直前までは行動に移すつもりはまるでなかったのです。私は善良な市民でいたかった。この欲望が間違っていることは何度も何度も自覚しておりましたし、その都度自らその気持ちを収めておりました。それに教師を仕事としていたわけですから、欲望のままに行動して、その後生きていけなくなることも恐れておりました。本来の私は、小心者だったのです。しかし、まるで仕組まれたかのように、まるで読んでいた漫画のように、ことごとく状況が揃ってしまっていたのです。あの事件を起こす勇気を後押しする要因が二つ出てきてしまったのです。 一つ目の要因、これが一番大きいのですが、彼女は母子家庭でした。母と娘である彼女、それから弟が一人の三人で暮らしていました。そんな環境だったためか、彼女は家族に迷惑をかけないようにと振る舞う、とても良い子だったのです。これは教員との世間話で知ってしまいました。家庭の事情を考慮して、生活態度の指導をするのは教師として当然ですので、そういう込み行った話も当然していたのです。 二つ目の要因、それは彼女が夏休み前の期末試験を欠席したことです。体調不良によるものでした。私の勤めていた学校では、定期試験を休んだ生徒や、赤点を取った生徒はその後補習を受けなければならなかったのです。そのため、彼女は夏休みに補修を受けなければなりませんでした。しかも、元々偏差値の高い学校であり、ほとんどの者がきちんと赤点を回避していたため、私の科目で補習を受けるのが彼女一人だけだったのです。これは、チャンスなのではないか?そう思ってしまったのです。 この状況が揃ってなお、私は迷っておりました。やってはいけない、私自身の破滅しか待っていない、そんなことは分かっていました。相手が深く傷付き、今後の人生もめちゃくちゃになってしまう、それも理解しておりました。だけれども、この欲望は決して消えない。この欲望はずっとずっと私の人生をついて回る。だとするなら、やってしまう他ないのだろうか?理性を持ち続け不満を抱きながら生きるより、最悪の状況になるとわかりながらも、例え一時の幸せでも追い求めて生きる方が遥かに良いのではないか?そんな自分にとって都合の良い見方がふと出てきてしまったのです。 そんなことを何度も考えては結論を出せずにいました。しかし、夏休みが近づくにつれて私の欲望ばかりが膨らんでいきます。私は弱かった。大きくなっていく歪んだ願望を抑え込むことができなくなっていたのです。そしてついに私は決行することにしました。 当時、私は運動部の顧問をしておりました。といってもその競技においては弱小校、一日部活を休みにしてもなんら問題はありません。それから、他の先生達があまり登校しない日を補修日として設定し、彼女に伝えました。彼女は何も疑問を持たず、わかりました、と返事をしていました。それから、補修前日に体育担当の教員に、部活の際に忘れ物をした旨を伝えて、体育館の鍵を預かりました。実際怪しまれないように、事前にわざと忘れ物もしていました。全てつつがなく事は運んでいきました。これで準備は整ったのです。 前日の夜は、緊張でなかなか寝つけませんでした。しかし、どうにか寝なければと思い、十時に床についてから一時に眠り始めることができました。そして翌朝の五時には目が覚めていたのです。睡眠時間は短かったのですが、特に眠さを感じることはありませんでした。ただただ今日のことで頭がいっぱいでした。 起きてから朝食を食べた後、早速学校に行き下準備をしました。事前の置いておいた忘れ物を回収し、女子更衣室を少し散らかしておきました。大した時間はかけておりません。それだけでよかったのです。 それから職員室に戻り、授業の準備をしておりました。授業は授業でちゃんとこなさなければいけません。今日やる内容をきちんと復習しつつ、彼女の登校を待っておりました。そして、彼女がやってくる時間になりました。補修を始める前に、少しだけ彼女にお願いをしました。体育館の更衣室を片付けなければいけないのだけれど、少しだけ手伝ってくれないだろうか?時間はそんなにかからないから。それだけ伝えると、彼女はそんなに嫌そうな顔をせず、わかりました、と答えておりました。彼女は良い子でありましたし、お願い自体そんなに大変なことではなさそう、と思ったのでしょう。なんなく、了承してもらえたのです。補修は午前から始まり、途中休憩を挟みながら午後十四時には終わらせました。そして僕たちは体育館へと移動したのです。 体育館の女子更衣室に着いた私たちはまず片付けを始めました。実は緊張と迷いがまだあったのです。声を出そうとしては踏みとどまる、というのを幾度も繰り返しました。覚悟がようやく決まった頃には、片付けもほぼ終わっていました。片付ける動作のついでに部屋の鍵をこっそり閉めました。そして、まず彼女に呼びかけました。彼女は何の疑問もなく、返事をしながら振り返りました。そして私は唐突ではあるけれど、と前置きをしてこう伝えました。 「実は、俺は、君のことが好きなんだ。」 実際は緊張のあまり吃っていましたし、なかなか口に出せていなかったため、もっとみっともない伝え方だったと思います。彼女の表情は、最初は何を言っているのかわからない、といった表情でした。なので、再度吃りながら同じことを繰り返し伝えました。私は絶対に理解されないとわかっていても、ほんの少しの可能性に賭けたかったのです。もしかしたら、本当にごく僅かの確率でもしかしたら、彼女に受け入れてもらえるのではないか。そうすればお互いに傷つかないのではないか。そんなことを必死に考えていたのです。これが自分の荒唐無稽な願望であると分かっていました。しかし、そのごく僅かの可能性にもかけたかったのです。 当たり前ですが、彼女は私を拒絶しました。この状況で受け入れる人の方なんて、ほとんど皆無に近いだろうとはわかっていました。それでも自身のため、また、彼女のために説得をしました。このまま受け入れてもらえないと、君の家族を悲しませることになる。どうしてもだめか。それは、一方的なお願いどころか脅迫でした。彼女は困惑と恐怖のあまり泣き出してしまいました。だけれども、私はやめませんでした。もう、破滅への道を走り出していた私には、止まることは出来なかったのです。 彼女は困惑し、否定と逃避の言葉を繰り返していました。この年頃なら当たり前だと思います。十歳以上年上の男性から無茶苦茶な脅迫をされているのですから。もはや私はけだもの同然です。私は彼女に黙れと叫びました。続けて、とにかくここで反抗したら彼女の家族にまで迷惑をかけるという、脅しをかけました。恐怖で満たされた彼女は、そのまま私の指示に従うしか考えられなかったのでしょう。長い時間をかけて、少しずつ大人しくなりました。 そこから彼女に服を脱いでいくように命令しました。彼女はなかなか手を動かすことができませんでしたが、少し声を荒げて命令すると怯えながら脱ぎ始めました。それは、これまで見てきたどんな動画や漫画よりも、艶かしく欲情的な光景でした。彼女が身につけていた下着が淡い黄色であったことまで、鮮明に脳裏に焼き付いております。そうして彼女は全てを脱ぎ去りました。妄想の中でしか見ることができなかった彼女の姿が、現実に目の前であるのです。とてつもない興奮が身体中を駆け巡っていました。じっくりと時間をかけて彼女の身体を目に焼き付けていました。気付けば彼女に触れていました。それから私は、彼女に、欲望の限りを尽くしました。 そこから先を思い返すと、夢を見ているかのような感覚になります。いくら欲望をぶつけても枯れることはありませんでした。目の前の光景、人と人とが触れ合う音、彼女の柔らかな肌、汗と埃の混じったような匂い、その全てが私を興奮させるのです。まるで私自身が十代の頃に戻ったかのようでした。彼女は泣いていました。叫び声をあげそうになったら、私が黙れ、と一声かけるだけで大人しくなりました。涙を流しながら、怯えと軽蔑、悲しみが入り混じったような顔で私を見ていたような気がします。だけれども私は自身を止めることはできませんでした。 私は彼女にとてつもない恐怖と傷を与えました。本当に申し訳ないと思っております。彼女にはどんなに償っても許されないことは重々承知しております。 だけれども。自身の全てを払って得た、あの絶頂の時間は何物にも変えられないのです。 私は人間ではなく、獣に堕ちました。自身の快楽だけを考え、他人を傷つけました。人として持つべきであった倫理に背きました。人の道を外れました。理性というものを無視しました。 だけれども。それでも私は彼女が欲しかったのです。 我慢ができなかったのです。全てを失ってでも得たあの時間は、人生で最も充足した最高の時間でした。そんなものに出会ってしまったことを嘆きました。私が他人を犠牲にしてまで得た幸福は、何か他の、代わりとなるものがあったのでしょうか?食事、娯楽、芸術、スポーツ、友人、恋人、家族、などでこの欲望は満たせたのでしょうか?あの最上の時間を過ごした今の自分には、到底思いつきません。 その後、私は何度か彼女を脅して犯しました。彼女は、家族に迷惑がかからないように気丈に振る舞っていましたが、見るからに衰弱していきました。それから、彼女の異変に気づいた母親が問い詰めたことにより、今回の悪事が明らかとなりました。私は法にて裁かれることになったのです。 今の私は、細々と生きるためだけに生活しております。彼女を含めた多くの人に対する申し訳ない気持ちはあります。だけれども、後悔はありません。私は、短い間ですが、最高の幸せを手に入れたのですから。