紗倉亞空生
6 件の小説紗倉亞空生
紗倉亞空生(さくら あくお)と申します。 ミステリとホラゲーとちょっぴりロードバイク🚴を嗜むしがない会社員です。 主にミステリとホラーを書いています。 よろしくお願いします。
あなたのためにできること
【キケンな推し活】 1 世界で一番輝いている女の子を、僕は知っている。 ここ最近、頭角を現してきたアイドルグループ『コットン・キャンディ』のメンバーのひとり、桜井あかり。僕の最推しだ。 彼女はいわゆる「清楚系」を売りにしている。イメージカラーは当然「白」。 グループの末席に位置する彼女は、テレビの大規模な特番に抜擢されるわけでもなければ、シングルの表題曲でセンターを張るわけでもない。それでも、スポットライトの端で一瞬だけ見せる不器用な笑顔や、パフォーマンスの合間に見せる真剣な眼差しは、僕の退屈な日常を色鮮やかに染め上げるのに充分すぎるものだった。 あかりん(彼女のニックネームだ)を推して早一年。僕はライブや握手会等のイベントの度に足繁く通った。彼女と言葉を交わせるほんの一瞬の、数秒間の逢瀬。ただそれだけのために給料を注ぎ込み、有給休暇を惜しみなく使って通い続けた。 そんなことを繰り返すうちに、奇跡が起きた。 「あー、ノブユキさんだ。また来てくれたんですね。ありがとう!」 あかりんが僕の顔と名前を覚えてくれたのだ。「認知」されたその瞬間から、僕の世界は完全に彼女を中心に回り始めた。 握手会や交流イベント等で交わした何気ない会話から、僕たちは互いの生活圏が極めて近いことを知る。世田谷の、少し寂れた住宅街。大きな公園の近く。 「こんなに近くに住んでたなんて、なんだか奇妙な縁ですね」 あかりんが少し悪戯っぽく笑ったあの瞬間を、僕は生涯忘れないだろう。 もうひとつ――うっかり住所を漏らしてしまったことに焦りを感じた彼女はその直後、大慌てで「これ、絶対に内緒ですよ?」と、僕の耳元で囁いた。(顔が近い!)心臓が止まるのではないかと思うほど、ドキドキしたことも合わせて、他の何ものにも代えがたい、大切な思い出だ。 2 その夜は、冷たい小雨が降っていた。 深夜、よく通うコンビニ帰りに、近道の公園の中を通りかかったときのことだ。街灯の灯りが滲む暗がりの中で、人影が二つ、奇妙な格好で固まっていた。一人は地面に倒れ、もう一人はその傍らに佇み、地面を見下ろしている。 いったい何ごとかと不審に思い、妙な胸騒ぎがして駆け寄った僕は息を呑んだ。 地面に横たわっていたのは、血溜まりに沈む中年男性の死体だった。そして、その傍らで震えていたのは、僕が誰よりも愛するあかりん――桜井あかりだった。 普段目にするステージ衣装ではない、地味な私服だし、ノーメイクで印象はだいぶ違って見えるが、推しを見間違えるはずがない。 彼女の手には、鈍く光る刃物が握られている。 「あ、あかりん……だよね?」 僕は恐る恐る声を掛ける。すると彼女はハッと我に返り、手にした刃物――アウトドア用のナイフ――を離し、両手で顔を覆う。 「わたし、なんてことを……ああっ!」 錯乱しかけていると思った僕は、まずは彼女を落ち着かせるため、「落ち着いて。何があったの?」と言いつつ、今にも崩れ落ちそうな彼女の両肩に手を添えた。推しのアイドルに、握手以外で触れたのだが、このときはそれどころではなかった。 「どうして……こんなことに……」 地面に横たわる男の死体を前に、動揺を隠しきれない僕の声がようやく届いたのか、彼女はゆっくりと顔を上げた。街灯に照らし出された彼女の顔は蒼白で、瞳は恐怖と絶望に大きく見開かれていた。 「仕事のことで……揉めて。事務所のスタッフの人なんですけど……もう耐えられなくて……つい、カッとなって……。わたし、殺しちゃった……」 彼女は言葉を詰まらせながら、小さく震える声で呟いた。 「――今から警察に行って、自首します」 彼女の言葉が、雨音の中に溶けていく。 やり切れない気分だった。 彼女のアイドルとしての人生は、ここで終わってしまうのだろうか。あの眩しい笑顔も、歌声も、すべてがこの冷たい雨と血の匂いの中で消えてしまうのだろうか。事件が発覚して警察が来れば、彼女は逮捕される。世間からは激しいバッシングに遭い、もう二度と表舞台に戻ることはできないかもしれない――。 いや、そんなことは、絶対に許されてはならない。彼女は光の中にいるべき存在だ。こんな泥塗れの闇に落ちていい人間じゃない。 ――そうだ。 僕の頭に、ある考えが閃いた。頭よりも先に、身体が動いていた。僕は地面に転がる、凶器のナイフをすでに拾い上げていた。 「な、なにをするの……?」 あかりんは目を丸くして僕を見つめる。 「僕がやったことにする。大丈夫、あとは僕が何とかするから」 言いながら、僕はシャツの裾でナイフに残されているであろう、彼女の指紋を念入りに拭い取る。次に自分の指紋を付けるため、持ち手を何度も握った。 続いて地面の男の死体を引きずり、近くの植え込みの中に隠した。いつの間にか雨脚は強まり、地面に広がっていた血溜まりはほとんどが洗い流されていた。 「あかりんは今すぐここを離れて。何ごともなかったように、家に帰るんだ。いいかい? 誰に何を訊かれても、君は何も見ていないし何も知らないって言い張るんだ」 「でも、そんな……ノブユキさんに迷惑が……」 「いいんだ!」僕の声が、無人の公園内に響いた。「推しを守るためなら、僕の人生なんてどうなったっていい」 僕は彼女の両肩を掴み、少し強引に押し出した。少しでも早く、その場から離れるように。 「僕の人生は、桜井あかりの輝きを見届けるためにあったんだから。後悔なんてしないよ」 あかりんは涙を浮かべ、何度も首を振りながらも、最後は僕に背を向けて走り去っていった。雨の中に消えていくその華奢な後ろ姿を、僕はただ見送った。 警察へ自首するまでの間、恐怖は不思議と湧いてこなかった。胸を満たしていたのは、誇らしさと歪んだ達成感だった。僕は、僕の手で推しの未来を守ったのだ。 3 後日、警察の取り調べを受け、やがて裁判が開かれた。 僕は全面的に罪を認めた。 犯行推定時刻、現場の公園内で男の声を聞いたという近隣住民による証言。そして凶器から採取された僕の指紋。状況証拠も物的証拠も僕が犯人であることを指し示していた。裁判はスムーズに進んだ。判決は懲役刑。もちろん、控訴はしない。 一審を終え、冷たいコンクリートの壁に囲まれた独房に戻った夜、僕は静かに天井を見上げた。 ニュースでは、事件の犯人が逮捕されたことで世間は安堵し、桜井あかりを始めコットン・キャンディは何事もなく活動を続けていると報じられていた。彼女の笑顔は、今もどこかのステージで、誰かを魅了しているのだろう。 「殺人犯」のレッテルと共に、前科が付いてしまった僕の人生は、ここで途絶えたのかもしれない。けれど、あかりんの未来の一部になれた。推しの身代わりになれた。 それだけで、僕の犯した罪は、僕の生涯で最大の誇りになった。 それが僕にしかできない、僕があかりんのためにできることなのだから。 【アイドルの憂鬱】 1 高校二年の、夏休みのある日のことだった。 街で声を掛けられた。小さな芸能プロダクションによるスカウトだった。新しく結成するアイドルグループの、メンバーを探しているのだとか。 小さい頃からの憧れだったアイドルになれる――渋る両親を何とか説得し、わたしは数枚の契約書に署名捺印した。 歌やダンス、演技のレッスンを半年近く受けた後、わたしは新生アイドルグループ『コットン・キャンディ』のメンバーとしてデビューすることになった。夢の入口に、ようやく立つことが出来たのだ。 だが、その後わたしを待ち受けていたのは、順風満帆なアイドル活動ではなかった。 他のメンバーはわたしよりも可愛い子ばかり。年齢も若い。 元々自分から前に出ていくタイプではないこともあり、徐々にグループ内で埋もれる存在になっていくのを感じていた。 SNSでは心無いアイドルファンから「不人気」「地味子」などと呼ばれていた。 (何とかしないと――) せっかく憧れだったアイドルになれたのに、このまま終わるのは絶対にイヤ。 わたしは事務所のスタッフ――マネージメントやディレクションなどを取り仕切っている、それなりに高いポジションに就いている富永に相談を持ちかけた。父親に近い年齢ということもあり、彼は親身に話を聞いてくれた。 「前に出るのが苦手なら、清楚キャラで行こう――たまに辛辣な発言をして、ギャップが出せるといいんだけど。どうかな?」 彼のアイデアだ。 ――なるほど。清楚なお嬢様キャラなら、口数が少なくても不自然じゃないし、時おり他メンバーのボケに鋭いツッコミが入れられれば、目を引くしキャラも立つ。 わたしは富永のアイデアを実践した。 実家は別にお金持ちという訳でもないが、「清楚系」「お嬢様」を自分なりに研究し、人前での口調や立ち居振る舞いに反映させるよう、努力を重ねた。 そして、やがてそれが実を結ぶことになった。 わたしを推してくれるファンが、少しずつだけれど現れだしたのだ。 デビュー間もない頃からライブでわたしのイメージカラー・白のサイリウムを振ってくれている古参のファンも「最近、あかりんイメチェンした? すごくいいよね!」と、SNSで褒めてくれる。 ともあれ、わたしはグループ内に、居場所を見つけることが出来た。 「ありがとうございました。富永さんのお陰で、これからも上手くやっていけそうです」 ある現場で、若手スタッフを指揮する富永を見かけたわたしは、彼に頭を下げた。 「うん、そいつは良かった。だけど、君ならもっとこう、人気を稼げるはずなんだけどな」 「は、はあ」 「どうかな? 今度、ゆっくりメシでも食いに行かないか? もっとアドバイスしたいこともあるし」 「え、ええと、二人で、ですか?」 「……ほら、ほかのメンバーに聞かれるとうるさいんだよ。贔屓してるとか言われてさ」 「ああ……そうですね。分かりました」 彼からの誘いを承諾し、わたしは彼と密会することになった。 そしてそれが、悪夢の始まりだった。 2 富永は今後、グループ内でもわたしを優先してプッシュすると持ちかけた。もちろん無償という訳ではない。彼は交換条件として、わたしの身体を求めた。定期的に『密会』することが条件だった。 自分を売り出すため、女の武器を使う――いわゆる『枕営業』。 この業界(せかい)ではよく聞く話だし、珍しいことでもない。話を切り出されても、特に驚きはなかった。「ついに来たか」としか思わなかった。 この先も、アイドルを続けたい。わたしは彼の話に乗ることを決意したが、応援してくれているファン、特にノブユキの顔が頭に浮かんで離れなかった。 わたしは彼らを裏切ろうとしている―― そう思いつつも「これもファンの皆んなのためだから」そう自分に言い聞かせ、無理やり納得した。 そんな、純粋なファンの想いを踏みにじる行為の、罰(ばち)が当たったのかもしれない。 富永との逢瀬を何度か重ねるうち、わたしは体調の変化に見舞われる。 「まさか――これって」 検査薬の結果は陽性。妊娠の可能性が高いということだ。もちろん相手は富永に相違ない。 「いずれ妻とは別れて、君と一緒になるつもりだ」と甘い言葉を囁かれ、泥沼の不倫関係を続けてきた。けれど、富永にとってわたしは単なる都合のいい遊び相手に過ぎなかったのだ。 それを思い知らされたのは、わたしが妊娠したかもしれないと告げた夜のことだ。 ホテルの一室。わたしは妊娠検査薬の結果を富永に見せた。彼は激昂するでもなく、ただ心底鬱陶しそうに溜息をつき、ポケットに手を突っ込んだまま言った。 「妊娠した? チッ、堕ろせよ? 仕事に支障が出たらどうすんだよ――ったく」 そのヘラヘラとした冷淡な顔を見た瞬間、わたしの中で蓄積されていた怒りと憎しみが弾けた。 その夜の出来事をきっかけに、わたしはある計画を企てた。 「彼に協力してもらえないかしら」 彼――あの哀れで愚かなファンの男に。 わたしを穴が開くほど見つめ、目が合えば顔を赤らめ、わたしの言葉一つひとつに大袈裟なほど一喜一憂する。典型的な「アイドルオタク」の青年だ。 彼はライブやイベントには欠かさず参加してくれる。毎回、必ずといってもいいほど見かけるので、すっかり顔を覚えてしまった。初めての握手会のとき「ノブユキって言います。あかりんが最推しです!」と、熱く語っていたのを思い出す。 そうか。彼、ノブユキっていうのね―― 何度か会話を交わすうちに、ノブユキが世田谷区の、わたしの家の近くに住んでいることを知った。その瞬間、わたしの頭の中で一つの「設計図」が出来上がった。 身近に使えるコマを置いておくことは、芸能界という足場の悪い世界を生き抜くための、リスク管理だ。だからわたしはノブユキを「認知」し、特別なファンであるかのように振る舞い、彼の警戒心を完全に解いた。「生活圏が近いなんて運命的だね」と囁くだけで、彼はわたしに盲目的な忠誠を誓うようになった。 ノブユキの家が近いことを知ったわたしは、さりげなく彼の行動を観察した。そして彼が、深夜に近所のコンビニへよく買い物に行くことを知る。数週間かけ、買い物へ行く頻度の高い曜日を割り出した。アイドルの本業と掛け持ちだったので、骨の折れる行動だが、目的を遂行するためだ。わたしを弄んだ代償(ツケ)を、あの富永に払わせるためと思えばなんてことはない。 3 そして、計画の決行日。深夜。 わたしは富永を、自宅近くの公園へ呼び出した。 「なんだよ、こんなところに呼び出して。ガキ堕ろすのに金がいるって相談なら、LINEでもいいだろ?」 相変わらず面倒そうに言い放つ富永。彼の標的が、すでに別のメンバーに向いていることをわたしは察していた。 わたしはさり気なく、彼に近づく。そしてバッグに忍ばせておいたナイフを取り出し、油断していた富永の胸元へと、躊躇なく突き立てた。 血が噴き出し、彼は地面に倒れ込む。驚愕に目を見開いたまま息絶えていく様を見下ろしながら、わたしは息を整えた。 ここまでは、予定通りの「処理」だ。問題はここからどうやって逃げ切るかだった。 わたしはノブユキの「買い物」のルートと時間を思い出し、暗闇の中で息を潜めてじっと待った。いつの間にか雨は本降りになり、身体を濡らしていく。 数分後、狙い通りにノブユキ――あの哀れな、わたしのファンが通りかかった。 地面に横たわる死体と、ナイフを持つわたしを見て、彼は激しく狼狽した。わたしは恐怖に怯える哀れで非力な女を演じ、涙を浮かべながら搾り出すような声を発した。 「仕事のことで……揉めて。事務所のスタッフの人なんですけど……もう耐えられなくて……つい、カっとなって……。わたし、殺しちゃった……」 わたしの演技は、完璧だったかもしれない。デビュー前の演技のレッスンが、こんなところで役に立つとは想像もしなかったが。 「――今から警察に行って、自首します」 自首するという言葉は、彼に「自分が庇わなければ、彼女(わたし)の人生が終わってしまう」というヒーロー願望を抱かせるための、最高のエサだった。 そしてその狙いは、見事に的中した。 「僕がやったことにする。大丈夫、あとは僕が何とかするから」 彼は興奮した面持ちで、わたしの手から滑り落ちたナイフを拾い、死体を植え込みの奥へと引きずり込んだ。自分の人生を差し出してわたしを守るというカタルシスに、彼の瞳は怪しく輝いていた。 「いいかい? 誰に何を訊かれても、君は何も見ていないし何も知らないって言い張るんだ」 ノブユキにそう言い含められ、わたしは小さく頷いてその場を立ち去った。 家に戻り、シャワーを浴びて血の匂いを洗い流し、雨と返り血で濡れた服を処分した。 4 翌日からは、事務所スタッフの突然の訃報を悲しむ健気なアイドルとして、何事もなかったかのように仕事をこなした。 警察の事情聴取を受けた際も、ノブユキに言われた通り「何も知らない」「事件には一切心当たりが無い」と涙ながらに答え続けた。事件現場から採取されたのは、彼の指紋と被害者の血痕だけ。警察は疑いもなく彼を犯人として逮捕した。ノブユキは最後までわたしを庇い抜き、自分で描いたおめでたい「悲劇のヒーロー」を演じきったわけだ。 わたしの妊娠も、初期の段階で穏便に処置を済ませた。グループの活動は何の支障もなく続いており、わたしの人気もさらに上がっている。 世の中の男なんて、誰も彼も本当に単純で扱いやすい。 わたしは手元のスマートフォンに表示されたニュース記事をスクロールしながら、小さな笑みを漏らした。 画面には、世田谷区の公園で発生した殺人事件の裁判が結審し、被告の男に有罪判決が出たという短い記事が載っていた。 すべて思い通り。完璧な結末だった。 記事にひと通り目を通したわたしはスマートフォンの画面を閉じ、楽屋の鏡に向き合った。 鏡の中に映るのは、誰もが守りたくなるような、清楚で可憐なアイドルの顔。 「ごめんなさい、ノブユキさん。わたしのために。そして――」 わたしは鏡の中の自分に向かって、悲しげな表情を作ってみせる。続いて、ゆっくりと口元を歪め、最高の笑顔を浮かべた。 「――そして、本当にありがとう。わたしの身代わりになってくれて」 次の現場へ向かうため、わたしは衣装の裾を整えて楽屋のドアを開けた。スポットライトが待つ、眩しい世界へと足を踏み出すために。 全ては彼、ノブユキが望んだこと。 それはわたしにしかできない、わたしが彼のためにできることなのだから。 〈了〉
裏窓
「夜分遅く申し訳ございません。私、こういう者です」 いまだ慣れない手つきで松葉杖を突き、おぼつかない足取りで玄関まで歩いてドアを開けると、いかついスーツ姿の男が懐から出した革ケースの身分証と記章(バッジ)を提示した。 「またですか? 刑事さん」 全身から汗が滲み出る心地の中、俺は答えた。少し声が震えていたかもしれない。 つい一週間ほど前の、八月十七日の夜のことだ。隣のマンション――駐車場と公園を挟むので、約五、六十メートル離れているが――の一室で、住人の女性が殺害される事件があった。 警察の捜査が始まると、マンションの隣りに建つこのアパートに住む俺のところにも、すぐに聴き込みの刑事がやって来た。 「前に来た刑事さんにも言いましたけど、俺は何も見てないですよ」 心なしか声がうわずってしまう。 真夏の夜に起きた事件だ。犯行現場の部屋の窓は大きく開かれ、カーテンも掛かっていなかった。そのため、向かいのアパートの住人は犯人を目撃している可能性が高いと、特に念の入った聴き込みが行われているのだとか。俺のところも今回が二度目だ。 「何か思い出したことはありませんか? 些細なことでいいんです。あなた、あの晩もこの部屋にいたんですよね?」 と言いつつ、刑事は俺の足元に視線を下ろす。 俺は今、片足にギプスをしている。 ふた月ほど前、俺は交通事故に遭い右足を骨折した。現在は自宅療養中で、たしかに事件のあったあの日も一日中アパートにいた。 「え、ええ。部屋にいましたよ。でも、窓の外は見てないんですよ」 つい目が泳いでしまう。 だめだ。あのことだけはバラすわけにはいかない。 駆け出しカメラマンの俺は、仕事はおろか近所の買い物すら困難なこの状況下で、退屈しのぎに望遠レンズを装着したカメラを使い、隣のマンションを時折り覗き見していた。ちょうど真向かいの部屋には若い女が住んでいた。ほんの出来心だった。 あの夜のことを正直に話したら、覗き行為がバレてしまうのではないか。そんな強迫観念に駆られ、俺は事件について口をつぐむことにしたのだ。 「――なるほど。では失礼ですが、事件のあった日の夜、あなたが何をしていたのかを教えてもらえますか? いやいや、これはあくまでも形式的なもので、別にあなたを疑っているわけではありませんよ。その怪我ではあのマンションへ行き来するだけでもひと苦労でしょうし、ましてや殺人が行えるとは思えない」 刑事は胸ポケットの手帳とペンを取り出した。 本当のことは言えない。なんとか誤魔化さなくては。 「ええと、あの夜は……そう、映画。テレビで映画を見てました」 焦りの中で、俺の脳裏にある映画のワンシーンが浮かんだ。 「ほう、その映画のタイトルは覚えていますか?」 「たしか『裏窓』です。アルフレッド・ヒッチコックの」 五十年以上も昔の古い映画だ。滅多にテレビ放映などされないだろう。だが、そこを指摘されたとしても、映画マニアの友人から借りたDVDで見ていたとでも言えばいい。全く問題ない。 ところが俺の返答を聞くと、刑事は突然、眉根を寄せて鋭い目を俺に向けた。 何だ? 俺は何かマズいことを言ったのか? そもそもこの刑事はなぜこんな遅い時間に俺のところへ来たんだ? 俺が怪我で外出できないことは、前の聴き込みで警察は把握しているのではないのか? 一日中家にいることが分かっているのなら、前みたいに昼間に来ればいいじゃないか。それなのになぜ? その直後、俺はそれらの疑問の答えを全て、身をもって知ることになった。 「なあんだ。あなた、やはり見ていたんじゃないですか」 刑事はニヤリと薄笑いを浮かべると同時に、俺の首に力強い手を伸ばした。 襲いくる苦痛と、余計なことを口走ってしまった自分に対する激しい後悔のさなか、俺は思い出していた。 あの日、あの夜、カメラのファインダー越しに見た、映画『裏窓』のワンシーンを。 そして女に覆いかぶさる、いかついスーツ姿の男の背中を。 〈了〉
塩のリング
障子を透かして差し込む光は、いつもどこか濁っていた。 亡くなった祖母の家は、築五十年を超える木造の二階建てだった。廊下を歩けば床板が沈み、風が吹けば目に見えない隙間から、ヒュウヒュウと湿った音が漏れ聞こえてくる。 三十二歳になる真由は、離婚の手続きと引き換えに手に入れた幼い娘――紬(つむぎ)の小さな手を引き、この家に引っ越してきた。仕事に忙殺され、夫との冷え切った関係に終止符を打った真由にとって、ここは逃げ込むようにたどり着いた場所だった。 「ママ、ここ、おばあちゃんち?」 「そうよ。今日からここが、つむちゃんのお家だからね」 五歳の紬は、大きな瞳を輝かせて頷いた。紬は聞き分けのよい子だった。わがままを言わず、大人の顔色をよくうかがい、教えられたルールを几帳面に守る。 日々の忙しさに追われる真由にとって、その聞き分けのよさは救いではあったが、同時にどこか後ろめたさを感じずにはいられなかった。 引っ越しの荷解きが一段落した夕方、真由は台所の下から小さな小袋に入った粗塩を見つけた。 祖母の生前の記憶が、ふと蘇る。祖母は玄関や部屋の四隅に、欠かさず小皿に盛った白塩を置いていた。幼い真由が「これなあに?」と尋ねると、祖母は皺だらけの顔に、さらに深く皺を刻ませ、ひ孫に「悪いものが、入ってこないようにね」と囁いたものだった。 真由は迷信だと思いながらも、古い家の独特の冷気に背中を押されるようにして、小さじ二杯ほどの塩を玄関の三和土(たたき)の隅に盛った。 「ママ、なにしてるの?」 背後から紬がのぞき込んでいた。真由は屈み込み、紬の幼い肩を抱き寄せた。 「これはね、お塩よ。こうやって置いておくとね、外から『悪いもの』が入ってこないの。つむちゃんとママを守ってくれるおまじない」 「わるいもの?」 「そう。病気とか、嫌なこととか、ママたちをいじめるもの。そういうものが、ここから先に入ってこられないように、お塩で通せんぼするの」 紬は真面目な顔で玄関の白い固まりを見つめ、それから真由の顔を見上げて、力強く頷いた。 「わかった。お塩で、通せんぼね」 そしてそれが、すべての始まりだった。 数日後、家の中で奇妙な現象が目につくようになった。 最初は、台所のフローリングの上だった。調味料の棚からこぼれたのかと思ったが、そうではなかった。塩が、きれいな円を描くように撒かれていた。直径三十センチほどの小さな輪だった。その中央には、紬のお気に入りである赤いくまのぬいぐるみがちょこんと座っていた。 「つむちゃん、これどうしたの? お塩で遊んじゃダメでしょ」 真由が声をかけると、居間で絵本を開いていた紬が振り返り、誇らしげに微笑んだ。 「くまさんね、お外がこわいって言ったの。だから、お塩で囲んであげたの。これでわるいものが来ないでしょ?」 真由は一瞬、言葉に詰まった。叱る気も失せ、胸の奥に小さな温かさが広がるのを感じた。 「そう。くまさんを守ってあげたのね。でもね、お塩は食べるものだから、遊ぶのに使っちゃダメよ」 だが、紬の「守る」という行為は、それで終わらなかった。 次の日には、廊下の突き当たりに塩の輪ができていた。その次の日には、真由の寝室の入り口に。 塩の量は日ごとに増えていった。どこから持ち出すのか、台所の塩の容器はあっという間に底を突き、真由が買い足した大きな塩の袋も、いつの間にか角が切られて減っていた。 その頃から、真由の耳に得体の知れない音が届くようになった。 夜、静まり返った家の中で、みしり、と廊下が軋む。 それだけなら古い木造建築の「家鳴り」で済んだ。しかし、耳を澄ますと、その軋み音は塩の輪が描かれた廊下のあたりで止まり、そこから先へは進んでこないように思えるのだ。 シュッ、シュッと、塩の上を靴下で擦るような、かすかな摩擦音。 重い体を起こして廊下へ出ると、月光の中に白い塩の輪が浮かんでいる。そこには誰もいない。 ただ、近づいて息を呑んだ。 塩の輪の一部が、わずかに乱れていた。まるで、輪の内側から外へ向かって、小さな指でなぞり落としたかのように。 (気のせいだ……紬が昼間、触った後だろう) そう自分に言い聞かせた。 だが、その夜の出来事が、真由の心を深く削り取ることになる。 夜中の二時を過ぎた頃、ふと目を覚ました真由は、隣の布団に紬がいないことに気づいた。 胸を嫌な予感がかすめ、薄暗い廊下へ出た。 廊下の暗がりの中、小さな背中がぽつんと座り込んでいた。紬だった。 紬は、昼間自分が描いた大きな塩の輪の前にしゃがみ込み、何もない輪の中心――暗闇に向かって、ぽつり、ぽつりと語りかけていた。 「ダメだよ。まだ出ちゃダメ」 鈴を転がすような優しい声だった。 「お外は危ないんだよ。ママが言ってたの。お塩の中にいればね、わるいものが来ないの。だから、ずっとここにいてね」 真由は凍りついた。 「つむぎ……?」 声をかけると、紬はゆっくりと振り向いた。その表情には何の陰りもなく、ただ母親への無邪気な親愛の情だけに満ちていた。 「あ、ママ。お起こしちゃった? 大丈夫だよ、ちゃんとお塩の中にいてもらってるからね」 真由は紬の華奢な身体を抱きしめたが、その体温は真夏の夜であるにもかかわらず、どこか冷たかった。 紬の「遊び」は、やがて家の外へと溢れ出していった。 休日の午後、庭で遊んでいた紬が、庭木の根元でうずくまっていた。 真由が縁側から覗くと、紬は地面に真っ白な塩で輪を描き、その中に一匹の大きなダンゴムシを閉じ込めていた。ダンゴムシは外に出ようと這い上がるが、白い塩の壁に触れるたびに身体を丸め、動かなくなる。 「つむちゃん、なにをしているの?」 「ダンゴムシさんをね、守ってあげてるの。鳥さんに食べられないように」 紬の顔は真剣そのものだった。 「でもね、つむちゃん。これじゃあダンゴムシさん、動けなくて可哀想だよ? お家に帰れなくなっちゃう」 「ううん、大丈夫だよ。ここがいちばん安全なんだもん。出ちゃダメなんだよ」 数日後には、近所の野良猫がターゲットになった。 紬は寝そべっている猫の周りに静かに塩を撒き、ぐるりと円を描いた。猫は逃げ出そうとしたが、撒かれた塩の匂いか、あるいは紬の執拗な視線に圧迫されたのか、ウーと低く唸りながら円の中で身を縮めていた。 さらに恐ろしい出来事は、近所の子供たちが庭に遊びに来たときに起きた。 同じ年格好の男の子と女の子が、紬と一緒に遊んでいた。真由が麦茶を運ぼうと庭に出たとき、妙な静けさに気づいた。 男の子が、庭の中央で泣き出しそうな顔をして立ち尽くしていた。その足元には、真っ白な塩で大きな円が描かれている。 「ちょっと、これ消してよ! 僕、お家に帰る!」 「ダメだよ」 紬は優しく、だが断固とした口調で言った。 「ゆうちゃんは今日、転んでお膝痛かったでしょ? それはね、『わるいもの』がゆうちゃんについてるからだよ。だから、ここから出ちゃダメなの。ここでお塩の中にいれば、もう痛いの飛んでいくよ」 「嫌だ! 出る!」 男の子が輪を踏み出そうとすると、紬は両手を広げて立ちふさがった。 「ダメ! 出たら死んじゃうよ! ママが言ったの、外は危ないんだって!」 男の子は恐怖のあまり大声を上げて泣き出した。真由は慌てて駆け寄り、男の子を輪の外へ引っ張り出した。 「紬、なんてことするの! お友達がいやがってるでしょ!」 真由は思わず声を荒らげ、足で地面の塩の輪を乱暴に踏み荒らした。白い粉が乱れて散った。 男の子は逃げるように家へ帰っていった。 真由は激しい動悸を抑えながら、紬に向き合った。叱りつけようとした。しかし、紬の顔を見た瞬間、真由の言葉は喉の奥で氷ついた。 紬は怒っていなかった。泣いてもいなかった。ただ、心の底から絶望したような、痛切な眼差しで、散らばった塩と真由を見つめていた。 「……ママ、どうして?」 ポロポロと、紬の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。 「どうして、出ちゃったの? ゆうちゃんを守ってあげたのに……わるいものが入ってきちゃうよ。ママのばか。ママを守ってあげようと思ったのに……」 その涙には、一片の悪意も混ざっていなかった。純粋な善意と、愛情。自分が正しいと信じて疑わない子供の無垢さが、そこにあった。 真由は自分の手が小さく震えていることに気づいた。真由が怯えていたのは、怪異などではない。娘の、この完璧で狂気的なまでの「優しさ」だった。 その夜、真由は祖母の遺品が押し込まれていた仏間の押入れを捜索した。 何かにすがりたかった。祖母がなぜあの盛り塩をしていたのか、この家に何か恐ろしい由来があるのではないか。怪異のせいであってほしかった。娘が狂っているのではなく、この家に取り憑く何かの仕業なのだと、誰かに思わせてほしかった。 押し入れの奥から見つかったのは、黒い革表紙の古い日記帳だった。祖母の筆跡で、びっしりと文字が埋め尽くされている。 真由は夢中でページをめくった。 『昭和五十二年 八月十日。今日も玄関に塩を置いた。あの子が外へ出たがる。外は恐ろしい。悪いものがたくさんいる。あの子を渡すわけにはいかない』 『昭和五十四年 十一月三日。また音が聞こえた。廊下の向こうから。塩を撒かねば。家じゅうを塩で満たさねば。あの子を部屋から出してはいけない。守るのだ。私が守るのだ』 『昭和五十八年 四月十六日。あの子が泣く。外へ行きたいと泣く。どうして分かってくれないのか。私がこんなに愛しているのに。外へ出れば死んでしまうのに』 真由の手から、日記帳が滑り落ちた。 そこに書かれていたのは、怨霊の記録でも、怪異の祟りでもなかった。 少なくとも、真由にはそう思えた。 そこにあったのは、娘を守ろうとするあまり、娘の世界を狭めていった、一人の女の記録だった。 怪異など、最初からいなかったのかもしれない。 この家に染みついていたのは、怨念ではなく、「愛ゆえの拘束」という呪いだった。 そして――真由は血の気が引くのを感じた。 紬に「悪いものが入ってこないように塩を置くのだ」と教えたのは、自分だ。 祖母から母へ、母から自分へ……そして自分から娘の紬へ。 自分自身が、その呪いの引き金を引いたのだ。紬の純粋な心は、真由が与えた「言葉」をそのまま吸い上げ、完璧な形で実行しているに過ぎない。 足音がした。 振り返ると、薄暗い仏間の入口に、紬が立っていた。 手には、ずっしりと重い塩の袋を抱えている。 「ママ」 紬は優しく微笑んだ。 「お仕事、お休みでしょ? お外に行っちゃダメだよ。ママ、ずっと泣いてたでしょ? パパのことや、お仕事のことで。お外には、ママをいじめる『わるいもの』がいっぱいいるの」 「紬……もう、やめなさい……」 「大丈夫だよ」 紬は手慣れた手つきで、袋から塩を掴み、床に撒き始めた。 白い粉が、さらさらと音を立てて真由の周りに落ちていく。 「つむちゃんが、ママを守ってあげる。ここにいれば、誰にもいじめられないよ。ずっと、ずっと、ここにいようね」 真由の足元に、真っ白な円が完成していく。 真由は立ち上がり、輪の外へ一歩踏み出そうとした。だが、足が動かない。 恐怖のせいだけではなかった。 紬が、泣いていたからだ。 「お願い、ママ、出ないで!」 紬はボロボロと涙を流しながら、必死の形相で真由の足元にすがりついた。 「出たらママがいなくなっちゃう! わるいものに殺されちゃう! お願いだからここにいて! いい子にしていて! ママ、わたしを一人にしないで!」 幼い娘の、悲痛な叫び。それは真由を愛しているからこその、魂の叫びだった。 真由はその手を振り払うことができなかった。 振り払えば、紬を傷つけてしまう。自分を守ろうとする幼い娘の愛情を、拒絶することになる。 それだけではなかった。紬の手を振り払ったあと、自分が何をすべきなのか、真由にはわからなかった。 「つむちゃん……ママは……」 「ママはいい子だよね? ここにいてくれるよね?」 紬の濡れた瞳が、真由をじっと見つめていた。 その瞳の中に映る自分は、まるで塩の輪の中に閉じ込められた、哀れな虫のように見えた。 翌朝。 初夏の陽光が、古い家々の屋根を照らし始めていた。 近所に住む中年女性が、買い出しのために真由の祖母の家の前を通りかかった。 通りに面した静かな家だった。何十年も前からそこにある、少し傾いた木造家屋。 女性はふと、玄関脇に目をやった。 古い木の引き戸の足元、三和土の端に、小さな白い固まりがあった。綺麗に三角錐に盛られた塩だ。 (ああ、あそこは昔から盛り塩をするお家だったわね……) 女性が通り過ぎようとしたその時、密閉された家の中から、かすかな声が聞こえてきた。 幼い女の子の声だった。 「お塩をあげるね」 楽しそうな、歌うような声。 少しの間のあと、また声が続いた。 「これで、もう大丈夫だよ」 女性はふと足を止め、胸に小さなざわめきを感じて、もう一度玄関のガラス戸を見た。 曇ったガラス越しには、家の中の様子はうかがえない。 だが、玄関の盛り塩のすぐ隣に、もう一つ、小さな円が描かれているのが見えた。 地面に撒かれた、真っ白な塩の輪。 その円の内側――白い粉が敷き詰められた床の上に、誰かが指でなぞり、もがいたような跡が、幾重にも、幾重にも残されていた。 まるで、中から必死に外へ出ようとして、ついに諦めたかのように。 女性は一瞬背筋に冷たいものが走るのを感じ、居心地が悪そうに目をそらした。気のせいだ、子供の悪戯だろうと、自分に言い聞かせて歩調を速めた。 背後で、パタパタと小さな足音が走り回る音、そして子供の無邪気な笑い声が、いつまでも響いていた。 〈了〉
甘いシロップの秘密
都会での目まぐるしい仕事に追われ、私は久しぶりに故郷の土を踏んだ。今回の帰省には、実家に顔を出すこと以上にもう一つ、大きな目的があった。 学生時代からの親友、真希子の元を訪ねることである。 私たちは同じ大学に通い、卒業後はそれぞれ別の道を歩んだ。都会の広告会社に就職した私に対して、彼女は地元に残り、小さな運送会社で事務員をしている。 郊外にぽつんと佇む彼女の実家は、年月の染みついた古い日本家屋だった。格子戸を開けると、どこかカビと古い木材が混ざり合った独特の匂いが鼻を突く。 両親を早くに亡くした真希子は、現在この家にひとりで暮らしている。 「いらっしゃい、紗耶。遠いところをよく来てくれたね」 迎え出てくれた真希子の顔を見て、私は息を呑んだ。昔の面影はあるものの、頬はこけ、目元には深い影が刻まれている。 真希子はシングルマザーだった。 学生時代に付き合った男はたちが悪く、真希子が妊娠したことを告げると、逃げるように彼女のもとを去った。 その後、彼女はたった一人で娘を産んだ。 誰にも頼らず、健気に女手一つで娘を育てていたはずだった。 私はそんな彼女を心から尊敬していた。 けれども、二年前――娘の由香里ちゃんが突然いなくなった。彼女が五歳のときだった。真希子が仕事から帰ると、家の中から忽然と姿を消していたのだという。警察も捜索し、地元の新聞にも載った。だが、手がかりは何ひとつ見つからなかった。 私は気落ちしている親友の助けになればと、何度か無理をしてでも会いに行こうとした。だが、真希子は想像以上に精神的なダメージを受けており、会うことすら難しかった。 電話をしても返事が遅い。たまには会おうと誘っても、何かと理由をつけて断られる。届くメッセージも、以前の彼女とは別人のように短く無機質だった。 そんなこともあり、今回は半ば強引に帰省の予定を合わせ、泊まりがけで彼女を訪ねることにしたのだ。 居間に通され、私たちは昔を懐かしむように言葉を交わした。しかし、どんな会話を重ねても、部屋の隅に置かれた小さな子供用の玩具や写真立てに、どうしても視線がいってしまう。 私はしばらく迷った末、静かに切り出した。 「……由香里ちゃん、まだ見つからないの?」 心のどこかでは、もう生きてはいないのではないかと思っていた。五歳の子供が、何の手がかりもなく二年間も行方不明なのだ。そう考えるのが自然だった。 けれど、真希子は膝の上で固く拳を握りしめ、掠れた声で言った。 「あの子は生きている。絶対に……」 その声には、妙な力がこもっていた。 「そうよ、諦めては駄目」 私は彼女の手の上に自分の手を重ね、嘘だと知りながら、そう気休めを言うしかなかった。 だが、少なくとも彼女はまだ前を向こうとしている。そう思い、私は少しだけ安堵した。 「そうそう、何も出さずにごめんなさい。喉、乾いたでしょう。コーヒーを淹れるね」 娘の話題を断ち切るように立ち上がった真希子は、どこか虚ろな面持ちで台所へ向かった。 古い日本家屋の居間には、柱時計の音が響いていた。窓の外では陽が傾き始めている。庭の木々が風に揺れるたび、障子にぼんやりと影が映った。 「お待たせ」 やがて運ばれてきたトレーには、湯気を立てる二つのカップと、小さなガラス瓶が二つ載っていた。一つは牛乳、もう一つには……市販のガムシロップとは違う、美しい琥珀色の液体が入っていた。 「娘がいなくなってから、一人だと寂しくてね。梅干しを作ったり、果物の砂糖漬けを作ったりするようになったの。……そのシロップも自家製なのよ」 そう言って、真希子は琥珀色のシロップを自分のカップに静かに注いだ。 「――塩はね、殺すのよ。痛いぐらい、殺すの。だから長持ちさせられる」 ぽつりと呟かれた言葉に、私は首をかしげた。保存食を作る手順のことだろうか。 「塩漬けは、余計な水分を抜いて、腐りにくくするんでしょう?」 私は聞きかじりの知識を披露する。 「そう。だけどね――」 真希子はカップを両手で包み込んだ。 「砂糖は殺さない。殺さないまま、保存してくれるの。そっちのほうがむずかしいのよ」 柱時計が、かちり、と鳴った。 真希子の瞳はどこか遠く、底なしの暗がりを見つめているようだった。 砂糖は浸透圧で水分を奪い、腐敗菌の繁殖を防ぐ。塩のように細胞を破壊せず、その形を保ったまま留める――そんな知識を、彼女は詩的な熱っぽさで語っていたのだ。 「……保存食作りって、奥が深いのね」 「入れてみて」と真希子に勧められるまま、私はコーヒーにシロップとミルクを垂らし、口を付けた。 一口飲んで、私は目を見張った。 角のない、実にまろやかで上品な甘みが広がる。後味にほのかなコクがあり、これまで飲んだどのシロップよりも美味しかった。 「これ、すごく美味しい……! 何の果物を使っているの? 作り方、教えてよ」 「ふふ、それは秘密。手間の掛かるものだから」 真希子はただ寂しげに微笑むだけで、教えてはくれなかった。 その夜、客間に敷いてもらった布団に入ったものの、なかなか眠りにつけなかった。 深夜、激しい喉の渇きを覚えて目を覚ました。昼間のコーヒーの甘さが残っているのかもしれない。私は静かに部屋を出て、お手洗いで用を足した帰りに廊下を渡り、台所で水を一杯飲んだ。 部屋に戻る途中、廊下の奥にある木製の引き戸が少しだけ開いているのに気づいた。 薄暗い廊下に、部屋の闇が漏れ出している。昼間は気づかなかった場所だ。扉を閉めようと近づいたが、ふと湧き上がった好奇心に背中を押され、私は隙間から中を覗き込んだ。そこは納戸のようだった。 柱のスイッチを入れると、小さな裸電球が点灯し、埃っぽい室内を照らし出した。 棚には、大きなガラス瓶が幾つも整然と並んでいた。 シソの葉と一緒に漬け込まれた赤い梅干し、透明な液に浸かったレモンやアンズ。瓶の表面には丁寧な文字で漬け始めた日付と『梅塩漬け』『杏砂糖漬け』といったラベルが貼られている。真希子が言っていた趣味とはこれのことか、と納得した。 棚の瓶詰めを見ていると、納戸の一番奥、床の上に直に置かれた、ひときわ大きな存在に目が留まった。 それは紫色の風呂敷で厳重に包まれていた。だが、結び目の隙間から、中に巨大なガラス瓶が隠されているのが見えた。 ガラス越しに覗くのは、昼間見たのと同じあの美しい琥珀色の液体だった。 (あ、これだ……) あの美味しいシロップの「素(もと)」がここにある。何の食材を漬け込んでいるのか知りたいという誘惑に勝てず、私は忍び足で近づくと、風呂敷の結び目をそっと解いた。 瓶の正面に、白い紙のラベルが貼られていた。 そこには、二年前の日付。そして達筆な文字で、こう書かれていた。 『由香里』 「……え?」 思考が停止した。 裸電球の心許ない光のなか、私は瓶に顔を近づけ、目を凝らした。 琥珀色の液体のなかに、何かが沈んでいる。 それは、膝を抱えて小さく丸くなった、子供だった。 長い髪がゆらりと液体の中にたゆたっている。生きて眠っているかのように肌は瑞々しく、傷一つない。まるで精巧な標本のように、幼い少女が琥珀色の光の中に漂っていた。 「ひっ……!」 喉から短い悲鳴が漏れた。 逃げなければ。そう思い、恐怖で震える脚をガクガクとさせながら立ち上がった瞬間、納戸の入り口に人影が立っているのが目に入った。 真希子だった。 薄暗闇のなか、彼女の顔には正気とは思えない恐ろしい笑みが貼りついていた。落ちくぼんだ目が、爛々と見開かれている。 「……由香里にはね、あいつの血が混じっているのよ」 真希子は落ち着いた、恐ろしいほど平坦な声で囁いた。 「私を捨てて逃げたあの男の……汚い血。娘の顔を見るたび、あの男の顔がちらついて、憎くて、憎くて仕方がなかったの」 真希子の告白が、部屋の空気を凍りつかせる。 彼女は娘を探していたのではなかった。自分を捨てた男への憎悪から、幼い娘を虐待の末にあやめてしまったのだ。そして、その遺体を隠し、永遠に手元に留めるために―― 「塩漬けにしたらね、皮膚がしわしわになって、肉が崩れちゃうでしょう? だから砂糖漬けにしたの。砂糖は形を壊さない。生きていたときのまま、美しい姿で留めてくれるの……」 真希子はすり足で私に近づき、愛おしそうに大きなガラス瓶の表面を撫でた。 琥珀色の液体の向こうで、ゆらりと小さな影が揺れる。 「ねえ、紗耶。――由香里、まるで生きているみたいでしょう?」 真希子はうっとりと微笑みを浮かべ、私の顔を覗き込んできた。 「このシロップ、美味しかった?」 ――美味しかった? その言葉が頭の中で弾けた瞬間、昼間飲んだコーヒーの、あのまろやかで上品な甘みとコクが、舌の記憶として鮮烈に蘇ってきた。 あれは、由香里ちゃんの遺体を砂糖に漬け込んで出来たシロップだったのだ。 「うぐっ……! げほっ、ぁ……!」 喉の奥から激しい嘔吐感がせり上がり、私はその場に膝をついた。胃液を吐き出そうと何度も口を開くが、痙攣する喉からは掠れた叫びしか出ない。 「だめよ、出せないわよ?」 真希子は吐き捨てる私を冷ややかに見下ろし、歌うような優しい声で囁いた。 「だってもう、体の中に浸透しちゃったんだもの。細胞に届いちゃったんだもの。……ねえ、よかったね紗耶。あなたの中で、由香里が生きているよ」 「嫌……っ、あぁあぁっ……!」 私は狂ったように自分の喉を掻きむしり、逃げるように納戸から這い出た。そのまま荷物も持たず、夜の闇へと飛び出した。 あれから、どうやって東京へ戻ってきたのか覚えていない。私はすぐに警察へ駆け込み、真希子の家で見たことをすべて話した。後日、真希子は逮捕され、あの瓶も回収されたのだという。事件は終わったはずだった。 しかし、私の中の恐怖は終わっていない。 洗面所で何度うがいをしても、どれほど香料の強い歯磨き粉を使っても、舌の奥にこびりついた「あの味」が消えないのだ。 何かを口にするたび、お米を食べても、水を飲んでも、舌の表面からあのまろやかで、濃厚な、甘い琥珀色のコクがじわりと染み出してくる。 砂糖は殺さない。殺さないまま、細胞の中に留まる。 鏡の前で口を開け、自分の舌を見つめる。 私の体の一部になった由香里ちゃんが、舌の裏側で静かに微笑んでいるような気がして、私は今日も洗面台で嘔吐を繰り返している。 〈了〉
真夜中のサイクリング🚴
※分かる方は怪談師・稲川◯二氏の声で脳内再生しながら読んでみてください。 ◆ えーこれはアタシが実際に体験した話なんですがね―― プロフィール欄を見てもらうと分かるように、アタシは自転車――ロードバイクが趣味なんです。 時間があると、あちこち遠くまで走りに行ったりしてるんです。 で、自転車ではいろいろと思い出があるんですけれども、今回は特に印象的だったサイクリングの話をしようと思います。 あれは数年前の年末のこと。 突然思い立ち、年明け最初のサイクリングとして、自転車で初日の出を拝みに行こうと思いましてね。 アタシの家からだいたい百キロほど離れたところに、関東最東端の日の出の鑑賞スポットで有名な漁港の町があってですね――ここでは仮にC県C市、とでもしておきましょうか。で、アタシも嫌いな方じゃないもんだから、どうせなら自転車で行ってみようってことになったわけです。 自宅からC市までの距離がだいたい百キロなので、大雑把に計算して平均速度時速二十キロを維持すれば、五時間かければ行ける。 こう言うとたいていの人は「――ええ、そんなに走るの?」ってな感じで、ちょっと引いたりするんですけど、アタシも日頃から短くても三十キロ、平均で五、六十キロくらいは走ってますんでね、百キロの距離は「ちょっと頑張れば全然行ける」距離なんですね。 念のため天気アプリを確認したところ、元日は晴れの予報。日の出予想時間が午前六時四十五分頃でしたかね。途中の休憩時間も考えて、余裕を持って深夜一時くらいに出発すれば丁度いい塩梅です。 でもって、前日の大晦日は準備に充てて夜六時に早寝し、日付けが変わる頃に起きて、予定どおりに元日の午前一時頃に家を出たんですね。 普段なら深夜の交通量がほとんどない道でも、大晦日から元日にかけてはそうはいかない。幹線道路は昼間ほどではないけれど、けっこうな量の車が走ってる。 なので安全面を考慮して、交通量の少ない裏道や自転車OKの遊歩道、サイクリングロードをメインに走ることにしたわけです。 ただですね、遊歩道やサイクリングロードってのは、本来なら昼間利用する道じゃないですか。だから基本的に街灯が整備されてないんですよ。夜は真っ暗なんです。 あーイヤだなあイヤだなあ、なんて思いながらもね、我慢して走ったんだ。左右を草木に囲まれた、真っ暗な細い道をですよ。 よく走りにくる同じコースでもね、昼間走るときとは全く違うんですね。暗くて景色が見えないから、今自分がどのあたりを走っているのかが分からない。普段よりも異常に長く感じるんです。 そんなこんなで家を出て一時間くらい走って、ようやく隣のI県との県境を流れるT川に出ます。あとはこのT川沿いのサイクリングロードを走るだけで、C市まで行ける。ただ、やはり街灯もなく、近くに街もない暗闇の中を、延々と走るんですけどね。 で、家を出発して二時間くらい経った頃でしょうか。人間何にでも慣れてしまうものでね、アタシも真っ暗闇の中のサイクリングに慣れてきて、いつの間にか恐いって感覚がなくなってたんです。 そんな油断した瞬間でした。 自転車のライトの明かりに、突然人影が浮かんだんです。 人がいるなんて想像もしてませんでしたからね、アタシも相当驚きましたよ。 その人は真っ黒な服を着ていて、フードを被っていたので顔ははっきりと見えない。通りすがりにチラ見した程度なので、若い人なのか年配の方なのか、男なのか女なのか、年齢も性別も分からなかった。 「なんだ、びっくりさせるなよ」なんて思いながらね、そのときは特になにも考えずに先へ進んだんです。 ですが、そのまましばらく走っているうちにね、アタシある違和感を覚えたんだ。 アタシが走っているサイクリングロード、左手は川幅の広いT川と河原だけ。そして右手は田んぼが広がっていて、民家のありそうな街灯の明かりはかなり遠くに小さく見えます。 「ちょっと待てよ……」アタシ思ったんだ。 さっき追い越したあの黒い服を着た人、いったいどこから来たんだろう、どういった経緯であの場所にいたんだろう――。 アタシがT川サイクリングロードに入ってから、相当な距離を走って来たけど、周囲に民家なんてなかった。それに時間も深夜の三時頃ですよ。しかも真冬の。近隣の住人が「ちょっと近場を散歩」しているなんて考えられないんだ。 あの人物、いったい何者だったんでしょうね? あれからもう数年経ちますが、今でも思い出すたびに背すじがゾッとするんですよね。 で……ここまで書いてきて、実はもっと恐ろしいことに、アタシ気付いてしまったんだ。 実はね――この話、オチがないんです。 〈了〉
足音
仕事帰りというのは、不思議なものだ。 慌ただしい朝は気にも留めない景色が、夜になるとまるで別世界のような顔を見せる。 最寄り駅を出たころには、空は夕焼けと夜の境目だった。商店街の雑踏を抜け、いつものように人通りの少ない、道幅の狭い裏路地へ入る。 街灯はあるにはあるが、ところどころ切れている。細い道の両側には古びたブロック塀と住宅が並び、どこかの家の夕飯の匂いだけが静かに漂っていた。 淋しい道ではあるが、家への最短ルートだ。ここを抜ければ、自宅までもうあと五分。 帰宅後は早く風呂に入って、ビールでも飲もう。 そう思った、その時だった。 ――パタ、パタ、パタ 背後から、小走りの足音が聞こえた。誰かが急いでいるのだろう。 私は道の端へ寄った。細い道なので、足音の主が追い越しやすいように。 だが——。 ――パタ、パタ、パタ その足音は、一向に私を追い越さない。一定の距離を保ったまま、背後で鳴り続けている。 (あれ?)少し不思議に思った。 歩調を少し速めてみる。すると。 ――パタパタパタ 足音も速くなる。 偶然だろう。そう自分に言い聞かせる。 気のせいだ。仕事で疲れているだけだ。 ……それでも。 背中に、じっと視線を向けられているような、そんな感覚が消えない。 振り返って背後を確認すれば済む話だ。そう思う。 だが、振り返った瞬間、もしそこに「いてはいけないもの」「この世ならざるもの」が立っていたら。 そんな考えが頭をよぎり、私は振り返れなかった。 歩く。 ――パタ、パタ、パタ ひたすら歩く。 ――パタ、パタ、パタ 心臓が嫌な音を立て始める。 「後ろから足音が聞こえても、絶対に振り返るな」 そんな話を、どこかで聞いたような気がする。 私は唾を飲み込む。手のひらが汗ばんでいる。 いっそのこと走るか? いや、もしこちらが走って、向こうも走りだしたら? そんな最悪の想像ばかりが膨らんでいく。 家まで、あと三分。まだ三分もある。 長い。嫌になるほど長い。 ――パタ、パタ、パタ 足音は消えない。 背中にぴたりと貼りついたままだ。 もう限界だった。 あと少しで家なのに。 お願いだから、追い越してくれ。 そう願った、その瞬間。 ――パタパタパタパタッ 足音が急に速くなった。 来る! 私は思わず肩をすくめ、目をつぶった。 そのまま背後の何かが、私の横を通り過ぎていく。 ……恐る恐る目を開ける。 そこにいたのは―― 両手いっぱいに大きなスーパーの買い物袋をぶら下げた、小柄で少しふくよかな主婦だった。 「よいしょっと……」 息を切らしながら私を追い越すと、そのまま数メートル先で立ち止まり、買い物袋を持ち直している。 どうやら荷物が重く、小走りするペースが私の歩く速度とほとんど同じだっただけ、ということらしい。 だから追い越せず、ずっと後ろにいただけ。 私は立ち尽くした。 主婦はこちらを振り返り、不思議そうな顔で軽く会釈した。 「こんばんは」 「あ……こんばんは」 私はぎこちなく頭を下げる。 主婦は再び「パタパタ」と小走りで去っていった。 私はその背中を見送りながら、大きく息を吐く。 心臓はまだ激しく鳴っていた。 ……考えてみれば。 こんな細い裏路地を、大荷物を抱えて全力疾走できる人なんて、そうそういるわけがない。 私は苦笑しながら家路についた。 その夜、風呂上がりのビールはいつもより少しだけ苦かった。 ――翌日。 会社でこの話をしたら、同僚に腹を抱えて笑われたのは言うまでもない。 〈了〉