獅勇
26 件の小説『既読がつかなくなった日』
美咲とのLINEは、呼吸みたいなものだった。 「眠い」 「わかる」 「今日の英語むずくない?」 「それな」 中身なんてない。意味もない。なのに、気づけば一日の終わりはいつもそのやり取りで締めくくられていた。 高校三年の春。席替えで隣になってから、自然と会話が増えて、いつの間にかLINEを交換して、いつの間にか毎日連絡を取るようになった。 話題はほとんど美咲から振ってきた。俺は返すだけ。それでも会話は続いた。続けてくれていた。 その夜も、いつも通りだった。 「明日の小テストやばい」 「もう諦めた」 「はや」 「おやすみ」 「また明日な」 それが、俺の最後の送信だった。 既読は、つかなかった。 最初は気にもしなかった。寝落ちだろう、くらいに思っていた。美咲はよく、寝落ちするタイプだったから。 次の日の朝も未読のまま。学校に来ていなかった。 「体調悪いんじゃない?」と友達が言った。俺もそう思った。 その次の日も、そのまた次の日も、美咲は来なかった。LINEも未読のまま。電話も出ない。SNSの更新も止まっている。 少しだけ、嫌な予感がした。 けど、どこかで思っていた。 そのうち「ごめん寝てたー」って、いつもみたいに返信が来ると。 当たり前が、当たり前すぎたから。 暇つぶしに、トーク履歴を遡った。 なんとなく、スクロールしただけだった。 でも、指が止まった。 話題を振っているのは、ほとんど美咲だった。 「今日元気ない?」 「なんかあった?」 「無理してない?」 「ちゃんと寝なよ」 俺が既読をつけるのが遅いと、いつも向こうから気にしていた。 俺が「だるい」と送った日は、やけに長く話してくれていた。 俺はただ、返していただけだった。 続けてくれていたのは、美咲だった。 その事実が、やけに胸に刺さった。 数日後、担任に呼ばれた。 職員室の空気は、妙に静かだった。 「朝倉のこと、聞いているか?」 首を横に振ると、先生は少し迷ってから話し始めた。 美咲は数ヶ月前から入退院を繰り返していたこと。 クラスの誰にも言わないでほしいと、本人に頼まれていたこと。 最近、容体が急変したこと。 頭の中が、真っ白になった。 そんな素振り、一度も見せなかった。 いつも通り笑って、いつも通り話して、いつも通りLINEして。 「心配かけたくないから、って言ってたよ」 先生の言葉が、やけに遠く聞こえた。 帰り道、スマホを開いた。 未読のままのトーク画面。 俺が最後に送った言葉。 『また明日な』 その“明日”が、もう来ないかもしれないことを、ようやく理解した。 指が震えた。 初めて、長い文章を打った。 今まで言わなかったこと。 気づかなかったこと。 ありがとうも、ごめんも、全部。 送信ボタンを押す。 既読は、つかない。 それでも、初めてちゃんと美咲に話しかけられた気がした。 数日後、訃報を聞いた。 涙は出なかった。現実味がなかった。 家に帰って、ベッドに寝転んで、またLINEを開いた。 未読のままの画面。 スクロールすると、いつものやり取りが並んでいる。 どうでもいい会話。意味のない言葉。 でも、その全部が、今はどうしようもなく愛おしかった。 最後のメッセージの下に、自分の長文がある。 読まれることのない文章。 それでも、そこに確かに気持ちが残っている。 俺はスマホを胸に押し当てた。 もし、既読がついていたら。 もし、あの時もう少し気づけていたら。 考えても仕方のないことばかり浮かぶ。 だけど、ひとつだけ分かったことがある。 あの「どうでもいい会話」は、 どうでもよくなんかなかった。 あれが、俺にとっての大切な時間だった。 美咲がくれた、かけがえのない毎日だった。 未読のままの画面を見つめながら、俺は小さく呟いた。 「また明日な」 今度は、返事が来ないと分かっていながら。
『モンスターしかいない森で、パン屋を始めました』
森の朝は、白い息から始まる。 まだ日が昇りきらないうちに、ユウは小さな石窯に火を入れた。乾いた薪がぱちりと鳴り、火はゆっくりと息をするみたいに広がっていく。粉を量り、水を注ぎ、塩をひとつまみ。指先で混ぜると、生地はやわらかくまとまって、掌の温度を覚えていく。 「今日は少し、水を多めにしようかな」 独り言は、森に吸い込まれていく。ここには、人間の客はいない。けれど、焼き立ての匂いは、ちゃんと届く。 ぷるん、と音を立てて、入口の影から青い塊が跳ねた。 「おはよう、スラ」 スライムのスラは、嬉しそうに揺れながら、こね台の端に乗る。生地に触れると、器用に押し伸ばし、折りたたむ。まるで長年の職人みたいな手つきだ。ユウは笑って、任せる。 外では、ゴブが薪を割っている。規則正しい音。無口なゴブリンは、毎朝きっちり同じ量だけ薪を用意してくれる。頼んだことは一度もないのに、欠かしたこともない。 店先では、フェンが丸くなって眠っていた。大きな体を小さく畳み、尻尾で鼻先を隠している。番犬のつもりらしいけれど、パンの匂いが濃くなると、いつも先に起きる。 やがて、生地はふくらみ、窯に入る。しばらくして、甘く香ばしい匂いが、森へ流れ出す。 その瞬間、三匹の動きが変わる。 スラはぴょん、と跳ね、ゴブは手を止め、フェンは目を開ける。 ――匂いを、覚えているみたいだ。 ユウは、焼き上がった丸パンを木の皿に並べた。まだ湯気が立っている。 「はい、どうぞ」 スラは表面をつつき、ぷるりと震える。ゴブは両手で大事そうに持ち、フェンは鼻を寄せて、ゆっくりとかじる。 そのとき、いつも思う。 彼らは、ただ食べているだけじゃない。 どこか懐かしむように、噛みしめている。 * 森の奥へ薪を拾いに行った帰り道、ユウはそれを見つけた。 小さな靴だった。 子ども用の、革靴。苔に半分埋もれているのに、なぜか最近まで履かれていたような気配がある。紐はほどけ、つま先には泥の跡。 こんな場所に、人間の子どもが来るはずがない。 胸の奥が、ざわついた。 さらに奥へ進むと、蔦に覆われた石碑があった。文字は風化して読みにくい。それでも、かろうじて残っている。 ――この地、リューネ村。 ――災厄により、姿を変えられし者たちを、忘れるな。 ユウは、靴を握りしめた。 振り返ると、フェンが少し離れたところに立っている。いつの間にかついてきていたらしい。赤い瞳が、靴を見つめていた。 「……知ってるの?」 フェンは答えない。ただ、ゆっくりと近づき、靴をくわえた。 やさしく。まるで、壊れ物みたいに。 * その日から、ユウはパンを焼く時間を増やした。 水の量を変え、焼き加減を変え、匂いがより強く広がるように工夫する。森の奥まで届くように。 スラは生地をこねる時間が長くなり、ゴブは薪を山のように積み、フェンは森へ何度も往復するようになった。 数日後。 ゴブが、パンを受け取ったときだった。 いつも通り、両手で持ち、口元へ運ぶ。そのまま、ぴたりと止まる。 喉が、震えた。 「……あ、り……」 かすれた、音。 ユウは息を呑む。 ゴブの目が、大きく見開かれている。自分でも信じられないという顔で、口を押さえる。 「が……」 最後の音は、風に溶けた。 それでも、はっきり聞こえた。 ありがとう。 スラが、ぽたり、と雫を落とす。涙みたいに。フェンは静かに座り、靴をユウの足元に置いた。 ユウの目が、熱くなる。 「……やっぱり」 確信はなかった。けれど、信じられる。 ここは、かつて人間の村だった。 彼らは、姿と記憶と言葉を奪われただけ。 パンの匂いが、その奥に触れている。 ユウは、もう一度窯に火を入れた。 今日は、たくさん焼こう。 思い出せる分だけ、思い出してもらえるように。 森に、あたたかな匂いが満ちていく。 その中で、スラが嬉しそうに跳ね、ゴブがぎこちなく頭を下げ、フェンが目を細める。 ここはもう、モンスターの森じゃない。 小さなパン屋のある、帰る場所だ。
『このクラスには、犯人が二人いる』
クラス費が消えた日のことを、僕は妙に細かく覚えている。 放課後、職員室の前で立ち止まったとき、ドアの向こうから榊先生の声が聞こえた。 「おかしいな……確かにここに置いたはずなんだけど」 やがて騒ぎになり、なくなったのは期末行事用の封筒だと分かった。三万円。 職員室の鍵は閉まっていた。こじ開けた跡もない。 出入りできたのは、放課後に用事で職員室へ行った数名だけ。 その中に、三宅がいた。 「俺じゃねーって。ピッキングなんて都市伝説だろ」 笑っているけど、クラスの視線は冷たい。三宅は手先が器用で、文化祭のときに壊れた南京錠を開けてみせたことがある。 証拠は揃いすぎていた。 だけど僕は、違和感を拭えなかった。 職員室のドアはオートロック。外から開けるには鍵かピッキングしかない。 三宅なら可能だ。 でも。 ーー同じことができる人が、もう一人いる。 「ねえ、柊。あの日、職員室行ったよね」 「うん。提出物を出しに」 学級委員の柊は、さらりと答えた。 柊は知られていないだけで、鍵開けが得意だ。以前、ロッカーの鍵をなくした子のために、ヘアピンで開けていたのを僕は見ている。 つまり。 三宅も柊も、職員室に“痕跡を残さず”入れる。 もし二人が同じ日に、同じことをしたら? 片方の出入り時間が、もう片方のアリバイになる。 先生の証言はこうだ。 「五時過ぎに一度、職員室のドアが開いた音がした」 それは、どちらの音だ? 三宅が入った音か。柊が入った音か。 どちらにしても、もう一人はその時間、教室にいたことになる。 互いの存在が、完璧なアリバイを作る。 僕は二人を呼び出した。 「二人とも、封筒取ったよね」 沈黙。 「共犯じゃない。ただ、偶然、同じ日に、同じ方法で」 柊が小さく息を吐いた。 「……三宅くん、なの?」 「は? お前も?」 その瞬間、二人の表情が同時に崩れた。 動機は別だった。 三宅は妹の誕生日プレゼントのため。柊は、家庭の事情で塾代を払うため。 誰にも相談できなかった。だから盗んだ。 そして最悪な偶然が、二人を守ってしまった。 僕は言った。 「先生に話そう。二人分、僕も一緒に行く」 そのとき初めて、二人は同じ顔で笑った。 皮肉だ。 このクラスには、犯人が二人いる。 でも、誰も気づかなければ、犯人は一人もいなかった。
『魔王城の清掃員、実は歴代最強でした』その2
翌朝。 アルトはいつものようにバケツに水を汲み、鼻歌まじりで廊下を歩いていた。 最近は紫のモヤを見つけるのが少し楽しい。 見つけるたびに体が軽くなるからだ。 「お、ここにも」 雑巾でひと拭き。 ぞわり、と空気が震えた。 その瞬間、城全体がわずかに揺れる。 遠くで警鐘が鳴った。 「……え?」 けたたましい鐘の音が廊下に響き渡る。 《勇者軍、侵入! 勇者軍、侵入!》 アルトはきょろきょろした。 「ゆ、勇者って、あの勇者?」 慌ただしく魔族たちが走り抜けていく。 そこへ、あの鎧の大男ーー四天王リグナが現れた。 「アルト! ここにいたか!」 「え、はい!」 「ここから動くな。廊下は安全だ。絶対に外に出るなよ!」 言い残し、リグナは走り去る。 アルトはぽつんと取り残された。 (やることないな……) とりあえず、目の前の掃除を続けることにした。 ひと拭き、ふた拭き。 紫のモヤが消えるたびに、体の奥が熱くなる。 その頃、魔王城正門。 勇者と魔王、四天王たちが激突していた。 剣と魔法がぶつかり、空気が歪む。 だが魔王は違和感を覚えていた。 (力が……出ぬ) 四天王リグナも同じだった。 (魔力の巡りが、異様に軽い……いや、薄い?) 勇者が剣を振り下ろす。 魔王は受け止めるが、押し込まれる。 「魔王! 終わりだ!」 その瞬間。 魔王城の奥から、途方もない魔力の奔流が巻き起こった。 全員の動きが止まる。 勇者が顔をしかめる。 「な、なんだこの圧は……」 リグナが振り返る。 「城内から……?」 一方その頃。 「うわ、今日めっちゃ取れるな」 アルトは夢中で床をこすっていた。 気づけば、紫のモヤはほとんど消えかけている。 最後のひと拭きをした瞬間。 ーードンッ!! 衝撃波が廊下を駆け抜けた。 アルトの体から、見えない何かが溢れ出す。 廊下の窓ガラスがビリビリと震え、壁の燭台が砕け散る。 「……え?」 本人だけが、何もわかっていない。 そのとき、勇者軍が廊下へ雪崩れ込んできた。 「奥に魔力源があるぞ!」 兵士たちがアルトを見つける。 「いたぞ! 魔族だ!」 「え、清掃員ですけど」 剣が振り下ろされる。 反射的にモップで受け止めた。 キィンッ!! 金属音。 剣が粉々に砕け散った。 「……あれ?」 兵士が目を見開く。 アルトも目を見開く。 「モップ、硬くない?」 次の瞬間、兵士たちが一斉に吹き飛んだ。 アルトは何もしていない。 ただ、立っていただけだった。 廊下の奥から、リグナが駆けつける。 そして、目にした。 清掃員の周囲に渦巻く、歴代魔王すべての魔力。 「……ばかな」 アルトが振り向く。 「あ、リグナさん。勇者来ちゃってますよ」 リグナは震える声で言った。 「アルト……お前、いったい何者だ」
『魔王城の清掃員、実は歴代最強でした』
ーー目が覚めたら、天井がやけに高かった。 白でも木目でもない、黒曜石みたいに鈍く光る天井。 しかも、ゆらゆらと紫の光が漂っている。 「……ここ、どこ?」 体を起こした瞬間、ズルッと手が滑った。床がやけにツルツルしている。まるでワックスを何十回も塗ったみたいに。 そのとき、頭の奥に声が響いた。 《ようこそ魔王城へ。あなたは本日より清掃員です》 「は?」 状況説明が雑すぎる。 だが次の瞬間、目の前に制服が出現した。黒いエプロン、モップ、バケツ。 そして名札。 アルト 魔王城清掃係 「……いやいやいや」 転生って、普通もうちょっとこう、勇者とか賢者とかじゃないのか。 よりにもよって清掃員。 しかし腹が減っては何とやらだ。とりあえず廊下に出てみる。 すると、信じられないほど長い廊下が続いていた。赤い絨毯、禍々しい彫像、壁に灯る紫の炎。 完全に、魔王の城だった。 そこへ鎧姿の大男が通りかかる。 「お、新入りか。掃除係だな?よろしく頼む」 普通に挨拶された。 怖い顔なのに、やたら礼儀正しい。 「え、あ、はい……」 「廊下は特に念入りにな。床の“汚れ”は触れるなよ。危険だからな」 そう言って去っていった。 床を見る。 黒い石の隙間に、紫色のモヤみたいなものが溜まっている。 (あれが汚れか?) 雑巾でこすってみる。 するり、と取れた。 同時に、体の奥がカッと熱くなった。 「……あれ?」 なんか、元気になった気がする。 まあ気のせいだろう。掃除を続ける。 取るたびに、なぜか体が軽くなる。疲れない。むしろ気持ちいい。 「この仕事、楽すぎないか?」 それから数日。 アルトは誰よりも真面目に掃除した。 廊下、階段、壁、天井。 紫のモヤは見つけ次第こすり落とした。 そして気づけばーー モップをかけただけで石床が新品みたいに輝くようになっていた。 本人は「掃除のコツを掴んだ」と思っている。 だがその頃。 魔王城・作戦会議室。 四天王リグナは、深刻な顔で魔王に報告していた。 「魔王様。城の魔力濃度が、異常な速度で減少しています」 「……ほう」 玉座に座る魔王は目を細める。 「結界維持に影響は?」 「まだありません。しかしこの減り方は異常です。まるで、誰かが吸い取っているような……」 沈黙。 魔王はゆっくりと立ち上がる。 「調査せよ。城の内部に原因がある」 その頃、原因はというと。 「よし、今日もピカピカ!」 満面の笑みで廊下を磨いていた。
『余命三時間の勇者』
魔王を討った直後、世界は不自然なほど静まり返っていた。 歓声も、祝福もない。あるのは、胸の奥を焼くような痛みだけ。 「……これが、呪いか」 勇者カイルは荒野に膝をつき、剣を地面に突き立てた。 体の奥から、命が削られていく感覚がする。 頭の中に、声が響いた。 ーー余命、三時間。 「三時間……か。短いな」 仲間の顔が浮かぶ。帰りを待つ人々の顔が浮かぶ。 だが足は動かない。この場から一歩も動けないほど、体は重かった。 そのとき、風が揺れた。 「あなたは、優しすぎます」 振り向いた先に、ひとりの少女が立っていた。 白い髪、赤い瞳。見間違えるはずがない。 「……魔王の、娘」 「セレス、と申します」 なぜここにいるのか。なぜ生きているのか。問いは山ほどあった。 だが、それより先に彼女は言った。 「呪いを解く方法があります」 カイルは目を見開く。 「禁術『時逆の詠』。時間を、少しだけ巻き戻せます」 「代償は」 「私の存在です」 迷いのない声だった。 「だめだ」 カイルの声は、初めて強く響いた。 「そんなもの、許せるわけがない!」 セレスは、静かに微笑んだ。 「私は、あなたに生きてほしいのです」 「俺は、お前に消えてほしくない!」 「それでも」 彼女は一歩、近づく。 「あなたが生きる未来を、見たい」 詠唱が始まった。空気が震え、光が舞い上がる。 「やめろ、セレス!」 伸ばした手は、彼女に触れられない。 「ありがとう、勇者さま」 その言葉を最後に、世界は白に染まった。 気づくと、カイルは魔王城の前に立っていた。 体の痛みは消えている。呪いもない。 時間が、戻っている。 仲間たちが駆け寄ってきた。歓声。祝福。涙。 けれど。 「なあ……セレスは、どこだ?」 「誰だ、それ?」 誰も知らない。誰も覚えていない。 カイルだけが、覚えている。 荒野で微笑んだ、白い髪の少女を。 「……ありがとう」 空に向かって、カイルはつぶやいた。 その頬を、静かに涙が伝っていた。
『拾った家が、最強でした』
目が覚めたら、森の中だった。 スマホもない。道路もない。代わりに、やたらと澄んだ空気と、聞いたことのない鳥の鳴き声がある。 「……これ、異世界ってやつじゃないか?」 半日ほどさまよって、俺は一軒の家を見つけた。 ツタに覆われ、屋根は抜け、窓ガラスも割れている。どう見ても廃屋だ。 でも、雨風をしのげるだけで十分だった。 「今日からここが俺の家、か……」 そうつぶやいた瞬間、家の中がふわりと光った。 床の埃が消え、折れていた机が元に戻り、壁のヒビがすうっと塞がっていく。 「え?」 あっという間に、家は“普通に住める状態”になっていた。 意味が分からないまま、井戸で水を汲む。飲んだ瞬間、体の疲れが一気に消えた。 「……ポーション?」 さらに裏庭を見ると、小さな畑があった。とりあえず種らしきものを埋めて寝た。 翌朝。 「育ってる!?」 一晩で野菜が収穫時期を迎えていた。 台所に持っていくと、勝手に鍋に火がつき、見たことのない料理が出来上がる。 うまい。異常にうまい。 「なんだこの家……」 その日から、俺のスローライフが始まった。 三日後、森で倒れている女騎士を見つけた。 鎧はボロボロで、腕から血を流している。 「おい、大丈夫か!?」 家まで運び、風呂に入れてやる。 湯から上がった彼女は、傷一つない体でぽかんとしていた。 「傷が……消えている……?」 井戸水を飲ませると、さらに驚いた顔になる。 「これは、王都の秘薬よりも効くぞ……」 彼女はしばらくここに滞在することになった。 次に来たのは、追放されたというエルフの薬師。 「この家の水、借りていい?」 試しに薬を作った彼女は、震えながら言った。 「これ……伝説級の霊薬ができたんだけど……」 さらに、旅に疲れた商人がやってきて、一泊した翌日には元気いっぱいで帰っていった。 その商人が噂を広めたらしい。 気づけば、この家は「癒しの家」と呼ばれていた。 俺は何もしていない。ただ、住んでいるだけだ。 ある日、女騎士が真面目な顔で言った。 「この家はな……大賢者アストレアの魔法住宅だ」 昔、戦いに疲れた人を救うために作られた家。 持ち主がいなくなり、長い間放置されていたらしい。 「ここにいるだけで、人は救われる。お前は気づいていないが……多くの人を助けている」 そんな大それたこと、しているつもりはない。 でも。 裏庭でみんなが笑いながら野菜を収穫し、 縁側で昼寝し、 風呂上がりに幸せそうな顔をしているのを見るとーー 悪くないな、と思った。 「今日の晩ごはん、できたぞー」 呼ぶと、三人が嬉しそうに駆けてくる。 森の奥のボロ家で始まった俺の生活は、 いつの間にか、誰かの帰る場所になっていた。 戦わない。競わない。 それでも、人は救えるらしい。 俺は今日も、最強の家で、のんびり暮らす。
『異世界アパート、隣人が元魔王でした』 その2
ミリスが帰ってから、アパートの空気が少しだけ変わった。 レオンは相変わらず無口だけど、前よりベランダに出る時間が増えた。洗濯物の干し方も、だいぶ上達している。 「ユウマ」 「はい?」 「このシャツ、縮んだ」 「熱湯で洗いましたね?」 「……そうなのか」 元魔王の失敗は、いちいち規模が小さくて、少しおかしい。 数日後、街が妙に騒がしくなった。 市場へ買い出しに行くと、人だかりができている。 「魔物が出たらしいぞ」 「騎士団でも手こずってるって」 嫌な予感がして、俺は急いでアパートに戻った。 レオンは、部屋の前に立っていた。 「聞こえるか」 遠くで、爆発音。 「行くんですか」 「行かない」 即答だった。 けれど、その拳はわずかに震えていた。 ドン、と窓ガラスが揺れるほどの衝撃。 悲鳴が聞こえる。 俺は、思わず言っていた。 「レオン」 彼は目を閉じる。 「……私は、もう戦わないと決めた」 「でも、あの人たち死にますよ」 沈黙。 長い沈黙のあと、レオンは深く息を吐いた。 「これは、最後だ」 街の広場は半壊していた。 巨大な魔物が暴れている。騎士たちが次々と吹き飛ばされる。 レオンが一歩前に出た瞬間、空気が変わった。 重い。息が詰まる。 魔物が、怯えたように後ずさる。 「退け」 たった一言。 次の瞬間、魔物の身体が地面に叩きつけられ、動かなくなった。 誰も、何が起きたか理解できなかった。 帰り道。 「やっぱり、すごいんですね」 「……昔の話だ」 「でも助かりました」 レオンは何も言わない。 ただ、少しだけ歩く速度を落として、俺に合わせてくれていた。 その夜、ドアがノックされた。 開けると、騎士団の男たちが立っている。 「この近くに、とんでもない魔力反応があった」 背中に、嫌な汗が流れる。 「心当たりは?」 俺は、迷った。 レオンを見る。 彼は静かに首を横に振った。 「……知りません」 騎士たちは去っていった。 ドアが閉まったあと、レオンがぽつりと言う。 「嘘をつかせたな」 「隣人ですから」 少しの沈黙。 「ユウマ」 「はい?」 「……カレー、また作ってくれ」 それはたぶん、「ありがとう」よりも、ずっとレオンらしい言葉だった。 翌朝。 「今日は何ゴミですか」 「燃えないゴミだ」 「完璧ですね」 元魔王と、異世界の新生活。 世界を救うよりも難しいのは、 たぶん、こういう日常なのかもしれない。
『モブ役の僕だけ脚本を知らない』
教室の後ろの掲示板に、今日の「予定」が貼り出されていた。 ホームルーム、数学小テスト、昼休み、放課後ーーそして最後に、赤字でこう書かれている。 《十七時四十二分 廊下にて転倒、死亡》 ざわりと背中が冷える。名前は、僕だった。 周囲のクラスメイトは誰も騒がない。むしろ、淡々としている。隣の席の佐伯はシャーペンを回しながら言った。 「今日は早いな。頑張れよ」 「……何を?」 「何って、予定通りだろ?」 予定通り。まるでそれが当たり前みたいに。 廊下に出ると、先生が腕時計を見ていた。僕と目が合うと、申し訳なさそうに笑う。 「大丈夫、痛くないから。すぐ終わる」 何が終わるんだ。 違和感はずっと前からあった。みんな、出来事を“知っている”。 テストの点も、雨が降る時間も、告白の返事も。まるで未来をなぞって生きている。 でも僕だけは、何も知らない。 やがて廊下の突き当たりに人だかりができた。カメラ、照明、マイク。 見覚えのない機材が、当然のように並んでいる。 その中央に、黒い服の男が立っていた。 「被写体、配置完了。モブA、マークに立って」 モブA。僕のことだ。 「台本は?」と聞くと、男は怪訝な顔をした。 「モブに台本は要らない。転んで、死ぬ。それだけだ」 心臓が嫌な音を立てる。 「僕は、役者じゃない」 その瞬間、空気が凍った。 クラスメイトも先生も、全員がこちらを見た。無表情で。 「予定外の発言は困る」 黒服の男が低く言う。「この世界は撮影中だ」 世界は映画。全員が役者。 僕だけが、台本を渡されていない。 「十七時四十二分、スタート!」 誰かが叫ぶ。 廊下の床に、目印のテープが貼られているのが見えた。僕が転ぶ位置だ。 足が勝手にそこへ向かおうとする。体が言うことを聞かない。 周囲の視線が、僕を押す。 ここで転ぶ。頭を打つ。死ぬ。 それがこの世界の「正解」。 でも、僕は知らない。 台本を読んでいない。結末を知らない。 だから、選べる。 僕はテープの上を踏み越えた。 瞬間、世界が止まった。 照明が点いたまま静止し、カメラのレンズも、先生の瞬きも、空中の埃も動かない。 音が消え、色が抜ける。 時間が、完全に凍った。 ただ一人、僕だけが動ける。 黒服の男も動かない。目を見開いたまま、彫刻のようだ。 廊下の先、今まで見えなかった扉が現れている。白い光が漏れている。 近づくと、扉に文字が浮かび上がった。 《脚本室》 僕は扉を開けた。 中には机と一冊の分厚い台本がある。表紙にはタイトル。 『モブの人生』 ページをめくる。 一行目から、僕のこれまでの人生が書かれている。生まれた日、転んだ日、笑った日。すべて。 最後のページにはこうあった。 《十七時四十二分 モブA、死亡。撮影終了》 僕はペンを取った。 その下に書き足す。 《十七時四十二分 モブA、走り出す》 その瞬間、世界が再起動した。 「カット!?」誰かが叫ぶ。 僕は廊下を全力で走った。 誰も追ってこない。いや、追えない。全員が混乱している。 校門を飛び出す。街へ出る。信号も車も、人も、ぎこちなく動き始める。 空を見上げると、見えた。 巨大な照明。空に吊られたカメラレール。 この世界は、本当にセットだった。 でも、もう関係ない。 僕は台本にない行動を選んだ。 モブだったはずの僕が、初めて自分の意思で歩いている。 背後で、何かが崩れる音がした。 世界が、脚本から外れていく音。 僕は笑った。 初めて、自分の人生を生きている気がした。
『余命三日と宣告された俺、なぜか異世界で不死身でした』
余命三日、と医者は言った。 驚きはなかった。むしろ、やっと終わるのかと思った。 病室の白い天井を見上げながら、蒼真は静かに目を閉じた。 次に目を開けた時、そこは森だった。 鳥の声。土の匂い。頬を撫でる風。 病室の消毒液の匂いとはまるで違う、生きた世界の匂い。 「……どこだ、ここ」 立ち上がろうとした瞬間、視界を銀の光が横切った。 剣だ。 反射的に体を引く間もなく、刃が胸を貫いた。 焼けるような痛み。息が止まる。視界が暗転する。 (ああ、終わりか) そう思ったのにーー 次の瞬間、蒼真は立ったままだった。 胸に開いたはずの穴は消え、血も流れていない。 目の前で、剣を握った女が目を見開いていた。 金色の髪を束ね、鋭い瞳をした騎士。息一つ乱れていない。 「……なぜ、生きている」 「それ、こっちの台詞なんだが」 女はすぐに剣を構え直し、今度は容赦なく首を薙いだ。 視界が回転する。地面が近づく。 そしてまた、何事もなかったかのように立っている自分。 蒼真は理解した。 死ねない。 「不死者だ」 石造りの大聖堂で、白衣の男ーー大司教が断言した。 「不死者はやがて理性を失い、世界を壊す災厄になる」 蒼真の隣に立つ女騎士ーーリシェルが、無言でこちらを見る。 「処分対象だが、今は殺せぬ。監視しろ、リシェル」 「……承知しました」 蒼真は笑った。 「俺、三日後に死ぬはずだったんだけどな」 リシェルの盾が、わずかに動いた。 それから数日。 蒼真は何度も死んだ。 崖から落ち、魔物に食われ、刃に貫かれ、炎に包まれた。 それでも、目を覚ませば元通り。 痛みだけが、記憶として残る。 「なぜ、そこまでして死のうとする」 焚き火の前で、リシェルが問いかける。 「病気だったんだ。もう長くないって言われてた。だから……覚悟、してたんだよ」 「生きたいとは思わなかったのか」 「思ったよ。でも、諦めもついてた」 蒼真は火を見つめる。 「だからさ、ここで無限に生きるって言われても、困るんだ」 リシェルは何も言わなかった。 古文書を漁るうち、二人は知る。 不死者は、この世界の「核」と同化している存在だということ。 核を破壊すれば、不死者は死ぬ。 そして世界もまた、崩壊を免れる。 「お前だけが、核に触れられる」 リシェルの声は震えていた。 「触れれば……俺、死ねるんだな」 「だがーー」 「世界も助かる。最高じゃん」 蒼真は笑った。 ずっと望んでいた「終わり」が、ようやく見つかった気がした。 地下深く。脈打つ光の結晶。 「これが、核……」 手を伸ばそうとする蒼真の腕を、リシェルが掴んだ。 「やめろ」 「なんで」 「生きろ」 初めて、彼女の声が感情を帯びた。 「お前は、死にたくないと言っただろう!」 「言ってないよ」 蒼真は優しく笑う。 「生きたいって思ってたのは、病気になる前の俺だ」 リシェルの目から、涙が零れた。 「私は……お前に、生きていてほしい」 その言葉に、蒼真の手が止まる。 初めて、この世界でーー 自分の死を、誰かが止めてくれた。 「俺、やっと死ねるんだ」 「生きなさい」 どちらが正しいのか、分からなかった。 ただ、蒼真は思った。 もう少しだけ、この世界にいてもいいのかもしれない、と。 結晶に触れる手は、ゆっくりと下ろされた。 余命三日を過ぎても、蒼真は生きている。 その隣には、いつもリシェルがいる。 彼はまだ、不死身のままだ。 だがーー 初めて、死にたいと思わなくなっていた。