獅勇

15 件の小説
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獅勇

はじめまして だいぶ下手ですが良い作品を書けるように頑張ります!

『一日だけの英雄』②

 テレビの画面に映った文字を、神谷ユウはしばらく理解できなかった。  「本日の英雄:未確認」 「……未確認って、どういうことだよ」  昨日までなら分かる。  英雄は毎日、誰かに移る。  なのに今日はーーどこにもいない?  そのとき、外から轟音が響いた。  ドゴンッ!!  窓ガラスが震える。  ユウは反射的に立ち上がった。  カーテンを開ける。  そこにはーー  昨日の怪物とは比べものにならないほど巨大な、黒い存在が立っていた。 「……嘘だろ」  心臓が一気に速くなる。  だが、昨日と決定的に違うことがある。  体が光らない。  力も湧いてこない。  ただの高校生の体のまま。  外では、人々が逃げ惑っている。 「英雄は!?」「誰か戦ってくれ!」  叫び声が聞こえる。  ユウは、唇を噛んだ。 「……今日はいないんだろ、英雄」  なら。  誰がやる?  答えは、分かっていた。  ユウは靴を履いて、外に飛び出した。  怪物はゆっくりと歩いている。  だがその一歩ごとに、地面が揺れ、建物が崩れていく。 「やめろ……!」  叫んでも、届くはずがない。  ユウは近くに落ちていた鉄パイプを拾った。 「……こんなんで勝てるわけないだろ」  手が震える。  昨日は簡単だった。  目をつぶって殴るだけで終わった。  でも今日は違う。  死ぬかもしれない。  それでも。 「ーーでも、やるしかないだろ!」  ユウは走り出した。  怪物の足元まで一気に駆け寄る。  そして、全力で鉄パイプを振り上げた。  ガンッ!!  ……何も起きない。  怪物は、ゆっくりとユウを見下ろした。 「……あー、終わった」  巨大な腕が振り上がる。  その瞬間。  ピタッ、と動きが止まった。 「……え?」  怪物の体が、黒い粒子のように崩れ始める。  空から、光が降りてきた。  そしてーー  ユウの体が、再び光に包まれた。 「なに……これ……?」  頭の中に、あの声が響く。  ーー例外発生。  ーー英雄不在時、直前の英雄に権限を一時委譲。 「……は?」  つまり。  英雄がいない日は、昨日の英雄が戦う。  ユウの拳に、昨日と同じ力が宿る。 「……遅いっての」  だが、その声は少しだけ震えていた。  ユウは地面を蹴る。  一瞬で空へ。  そのまま、怪物に向かって拳を振り抜いた。  ドンッ!!  衝撃が走る。  怪物は、跡形もなく消えた。  静寂。  そしてーー歓声。  ユウは、空に浮かんだまま呟いた。 「……結局」 「二日連続かよ、俺」  夜。  再び時計が0時を指す。  体の光が消える。  そしてテレビに表示される。  「本日の英雄:神谷ユウ」  ユウは固まった。 「……え?」  頭の中に、声が響く。  ーー例外継続。  ーー英雄は、固定されました。  ユウは、ゆっくりと顔を上げる。 「……は?」  窓の外。  遠くの空に、いくつもの黒い影が現れていた。 「……マジかよ」  “たった一日だけの英雄”は終わった。  ここからはーー終わりの見えない戦いだった。  

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『一日だけの英雄』

 世界には「英雄」がいる。  ただし、その英雄は同じ人ではない。  英雄の力は、毎日、別の人間に移る。  昨日は軍人だった。  一昨日は警察官だった。  その前は、どこかの格闘家だったらしい。  そして今日。  その力は、ただの高校生ーー神谷ユウの体に宿った。  朝、目が覚めた瞬間、体が妙に軽かった。 「……なんだこれ」  ベッドから起き上がると、無意識に握った拳が空気を震わせる。  窓の外を見ると、遠くのビルの壁が爆発していた。  テレビをつける。 『巨大生命体が出現!現在、市街地に接近中!』  画面には、ビルよりも大きい黒い怪物が映っていた。  そして画面のテロップ。 『本日の英雄、出現』  ユウの体が光る。 「……え?」  その瞬間、頭の中に声が響いた。  ーー今日の英雄は、君だ。  ユウは固まった。 「いやいやいや!無理だって!」  英雄といえば、強い人がなるものだ。  自分はただの高校生。体育も普通。喧嘩もしたことがない。  だが窓の外では、怪物がビルを壊していた。  人々が逃げている。  声がまた響く。  ーー英雄の力は、今日だけ。  ーー明日になれば別の人間へ移る。 「……今日だけ?」  ユウは拳を握る。 「今日逃げたら……誰かが死ぬのか」  怪物が咆哮する。  足が震える。  心臓がうるさいほど鳴る。  それでもユウは、ゆっくり歩き出した。  外に出た瞬間、体が光に包まれた。  信じられない力が体を満たす。 「これが……英雄の力……?」  地面を蹴る。  次の瞬間、ユウはビルの屋上に立っていた。 「速っ……!」  怪物がこちらを見る。  巨大な腕が振り下ろされた。  ユウは、目をつぶって拳を振るった。  ドンッーー!!  衝撃が街を揺らす。  恐る恐る目を開けると、  怪物は、真っ二つに割れて倒れていた。 「……え?」  街が静まり返る。  そして次の瞬間ーー  歓声が上がった。 『怪物撃破!!英雄の勝利です!!』  テレビのレポーターが叫んでいる。  人々がユウを見上げる。 「英雄だ……」 「助かった……!」  ユウは立ち尽くした。  怖かった。  逃げたかった。  でもーー  少しだけ、嬉しかった。  夜。  ニュースが流れる。 『本日の英雄、神谷ユウさん。世界を救いました』  そして時計が0時を指す。  体の光が消えた。  英雄の力は、次の誰かへ移った。  ユウは小さく笑う。 「……まあ」 「一日くらい、英雄でもいいか」  だがそのとき。  テレビの速報が流れた。 『新たな怪物出現』 『出現場所ーー』  神谷ユウの家の前。  そして画面のテロップ。  「本日の英雄:未確認」  ユウは、静かに呟いた。 「……嘘だろ」

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『誰もいない世界で出会った君は』

 目が覚めたとき、世界は静かすぎた。  いつもなら遠くから聞こえる車の音も、隣の部屋の生活音も、何もない。耳が詰まったのかと思って指で押さえてみたが、違う。音そのものが、消えている。  窓の外を見る。  街はそこにあった。電柱も、コンビニも、信号機も、全部そのままだ。ただ、人がいない。  玄関を飛び出した。靴もまともに履かず、冷たい地面を踏みしめながら走る。  誰もいない。  本当に、誰も。  呼んでも、叫んでも、返事はない。風すら吹かない世界で、自分の息だけがやけに大きく聞こえた。  最初の数日は、正直に言えば少し楽しかった。  店に並ぶ食べ物は自由に取れるし、ゲームもやり放題。誰にも怒られない。学校にも行かなくていい。  世界は、急に自分だけのものになった。  でも、それは長くは続かなかった。  音がない。  テレビをつけても映像だけが流れ、スピーカーは沈黙したまま。蛇口をひねっても、水は出るのに音がしない。足音も、物音も、どこか現実味がない。  まるで、世界が死んでいるみたいだった。  君に出会ったのは、その頃だった。  夕方の公園。ブランコが静止したままの場所に、ぽつんと立っていた。 「……人?」  思わず声が出た。  君はゆっくり振り返る。長い髪がわずかに揺れて——その瞬間、確かに“音”がした。  かすかな、風のような音。  俺は息を呑んだ。 「君……聞こえるのか?」 「うん、聞こえるよ」  その返事は、ちゃんと“声”だった。  あまりにも久しぶりに聞いた人の声に、胸の奥が強く締めつけられる。  それから、俺たちは一緒に過ごすようになった。  理由なんてなかった。ただ、ひとりでいるのが怖かったからだと思う。  一緒に食料を探して、夜は同じ場所で過ごした。  意味のない会話を、ずっと続けた。 「なあ、もし元の世界に戻れたらさ」 「うん」 「普通に学校行って、普通に話して……それって、悪くなかったのかもな」  君は少しだけ笑った。 「今、気づくんだね」 「……うるさい」  そんなやり取りすら、救いだった。  ある日、気づいたことがある。  君といるときだけ、音が戻る。  足音、笑い声、息遣い。  世界が、ほんの少しだけ“生きている”みたいになる。  逆に、君がいないと、すべてがまた無音に戻る。  だから俺は、できるだけ君のそばにいた。  離れるのが、怖かった。  その日も、いつも通りだったはずなのに。  君はふいに言った。 「私、もうすぐ消えると思う」  頭が真っ白になる。 「は?何言ってんだよ」 「なんとなく、わかるの」 「意味わかんねえよ……消えるって何だよ」  声が少し震えていた。  君は静かに空を見上げる。 「この世界、君のためにあるから」 「……は?」 「だから、もう大丈夫になったら、私はいらなくなる」  理解なんてできなかった。  ただひとつだけ、はっきりしていた。  君がいなくなるのは、嫌だ。 「行くなよ」  気づけば、そう言っていた。 「やっと会えたのに……やっと、ひとりじゃなくなったのに」  君は困ったように笑う。 「最初から、ひとりじゃなかったよ」 「何言って——」 「私、君が作ったんだよ」  その言葉で、何かが崩れた。  頭の奥に、思い出したくなかったものが浮かぶ。  教室のざわめき。  誰にも話しかけられない日々。  笑い声の中で、自分だけが浮いていた感覚。  逃げたかった。  全部から。  誰もいない世界に。 「君はさ、本当はずっと誰かに会いたかったんだよ」  優しい声だった。 「ちゃんと話を聞いてくれて、隣にいてくれる人」 「……だから、お前が?」 「うん」  君は小さくうなずく。  体が少しずつ透け始めていた。  指先から、光みたいにほどけていく。 「やめろよ……」 「大丈夫」 「大丈夫じゃねえよ!」  叫んだ声が、やけに響いた。  君は最後まで穏やかだった。 「現実にも、きっといるよ」 「……」 「私みたいな人」  信じられなかった。  でも、否定もできなかった。 「だから——戻って」  その言葉と同時に、君の姿は消えた。  音も、また消えた。  完全な無音。  本当の「誰もいない世界」。  ——目を開ける。  教室だった。  ざわざわとした声、机の音、窓の外の風。  全部、うるさいくらいに戻っている。  でも、不思議と嫌じゃなかった。  隣の席のやつが、何か話しかけてくる。  今までなら、無視していたかもしれない。  でも、少しだけ迷ってから、口を開いた。 「……なに?」  たったそれだけの言葉。  でも、確かに“誰かと繋がった”気がした。  誰もいない世界で出会った君は、  誰かがいる世界へ、俺を戻してくれた。  

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『未使用の感情』

最終章 返事は、すぐには来なかった。 それでよかった。画面を伏せ、ポケットに入れる。期待も不安も、同じ場所に置いておく。どちらも、今は使わない。 翌朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。 空は薄く明るい。昨日と同じ朝だ。カーテンを開け、窓を少しだけ開く。冷たい空気が入ってくる。胸の奥は静かだった。 通勤路は変わらない。 改札で人の流れに一瞬つまずく。肩が触れる。 「すみません」「大丈夫です」。いつも通りのやり取りだ。違うのは、鈴の音が鳴らないことだった。 会社でも、問題は起きなかった。 メールを確認し、資料を作り、会議に出る。誰かの顔色をうかがう自分に気づくが、否定はしない。癖は、すぐには消えない。 昼休み、同僚がまた愚痴をこぼす。 視線が向く。 「どう思います?」 一拍、置く。 胸の奥に、空白がある。 「分かりにくいですね。ただ——」 言葉は、自然に続いた。 断定しない。攻撃しない。ただ、考えを出す。場の空気がわずかに揺れ、前に進む。問題は起きなかった。 午後、スマートフォンが震えた。 昨夜送った相手からの返信だった。短い文だ。肯定でも否定でもない。ただ、受け取られたという事実が、そこにある。 息を吐く。 結果は、まだ先だ。それでも、選択は終わっている。未使用の感情は、もう棚に戻らない。 退勤後、路地の前を通る。 足は止まらない。建物は、あるのかもしれないし、ないのかもしれない。振り返らない。 夜、机に向かい、ノートを開く。 白いページ。書くことは決めていない。ペンを持ち、待つ。言葉は、必要なときに出てくる。 書き始めたのは、今日のことだった。 特別ではない一日。問題の起きなかった一日。けれど、使われた感情が、行間に残る。 ページを閉じる。 未使用の箱は、もうない。代わりに、使われた痕跡が、生活のあちこちに残っていく。それでいい。 眠る前、窓の外を見る。 街灯は、いつもと同じ明るさだ。世界は変わらない。変わったのは、選択の置き方だけだ。 目を閉じる。 胸の奥は、静かで、重くない。

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『未使用の感情』

第四章 鈴の音は、逃げ場を失ったように鳴り続けていた。 耳ではなく、胸の奥で。呼吸のたび、微かに震える。 「使うと、どうなりますか」 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。 店番は棚に視線を向けたまま答える。 「失われます」 「何が」 「使わなかった可能性が」 箱を閉じる。 音は立たない。それでも、区切りが生まれた気がした。 「感情は、使うためにあります」 「使わなければ?」 「未使用のまま、保管されます」 「一生?」 「選ばれ続ければ、そうなります」 選ばれ続ける。 その言葉は、奇妙な重さを持っていた。 偶然の積み重ねだと思っていた日々が、ただ同じ選択を繰り返した結果だったことに気づく。 棚を見渡す。 怒りも、悲しみも、後悔も、期待も、価値の差はない。 使うか、使わないか。それだけだ。 「全部、持って帰ることは?」 「できません」 「一つだけ?」 「ええ」 白紙の箱を見る。 中身の分からない感情。 名前のない衝動。 「これを使ったら、何が起きますか」 「分かりません」 即答だった。 「安全ではない?」 「安全という基準は、ここにはありません」 基準は、いつも外にあった。 波風が立たないか、失敗しないか、後悔しないか。 測れるものだけを選び、測れないものから距離を取ってきた。 「使わなかった場合は?」 「今日と、同じ明日が来ます」 脅しではない。 事実の提示だった。 「期限は?」 「ありません」 一歩、後ろに下がる。 出口は近い。 扉を開ければ、いつもの世界に戻る。 鈴の音が止まらない。 今までなら、ここで引き返していた。 「壊れますか」 「壊れるものもあります」 「戻らない?」 「戻らないことの方が多いですね」 想像できる。 関係、立場、自分自身の像。 簡単に崩れる。 「それでも、選ぶ人は?」 「います」 「どうなりました?」 「それぞれです」 箱を開ける。 空のはずなのに、確かな熱がある。 送別会の夜。 改札の前で、相手が何か言いかけて、やめた瞬間。 会議で飲み込んだ言葉。 相談に、無難な返事をした夜。 すべて、同じ場所で止まっていた。 「全部、今につながっているんですね」 「ええ」 「未使用は、溜まります」 「溜まると?」 「重くなります」 だから、昨日より重かった。 深く息を吸う。 結果ではなく、選択を取る。 「使います」 言った瞬間、鈴の音が止んだ。 代わりに、静寂が落ちる。 箱が熱を持つ。 白紙にひびが入り、形を変える。 溢れ出したのは、特定の誰かに向けた感情ではなかった。 伝えたいという衝動。失う覚悟。変わってもいいという受容。 「これが」 「はい」 「使用されました」 箱は空になった。 今度こそ、本当に。 外に出ると、雨は止んでいた。 世界は変わっていない。 スマートフォンを取り出す。 連絡先を開く。戻れる。閉じれば、明日は今日の続きだ。 短い言葉を打つ。 飾らない、本音。 送信する。 胸の奥で、何かが確かに動いた。

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『未使用の感情』

第三章 外に出たはずなのに、しばらく現実に戻った感覚がなかった。 雨は降り続いている。街灯も、アスファルトの匂いも変わらない。 それでも、世界との間に薄い膜が一枚挟まったような違和感があった。 帰宅してからも、その感覚は消えなかった。 シャワーを浴び、濡れた服を洗濯機に放り込む。 いつもと同じ動作なのに、意識が半拍遅れて追いつく。 胸の奥で、あの鈴の音が鳴る。意識しなければ聞こえないほど、小さな音だ。 眠りは浅かった。 夢は見ない。代わりに、棚と箱の並びが浮かぶ。 白紙の札。埃のない箱。目を逸らそうとするたび、胸の奥が鳴った。 翌朝、目覚ましより少し早く目が覚めた。 体は軽い。昨日の出来事を夢だと決めつけようとし、すぐにやめた。感触が残りすぎている。 出勤途中、改札で足が止まった。 人の流れに遅れ、肩がぶつかる。「すみません」と声がかかる。「大丈夫です」と返す。いつものやり取りだ。 その一瞬、胸の奥で何かが立ち上がった。 違和感。昨日までなら沈めていた感覚が、完全には消えない。鈴の音が、はっきり鳴った。 会社では、同じ一日が始まる。 メール、資料、会議。滞りなく進む。 意見を求められなければ、無難に終わる。 昼休み、同僚が愚痴をこぼす。 昨日と同じ話題。頷き、相槌を打つ。 「どう思います?」 不意に、視線が向けられた。 正論が喉まで上がる。言えば、空気は変わる。 責任が生じる。 鈴の音が鳴る。 「......難しいですよね」 結局、いつもの言葉を選んだ。 場は穏やかに流れ、昼休みは終わる。 問題は起きなかった。 それでも、胸の奥に何かが残る。 使わなかった感覚。昨日と同じ選択なのに、後味が違った。 退勤後、理由もなく寄り道をした。 足は自然と、あの路地へ向かっている。 止めようとすると、胸の奥が鳴る。 建物は昼間でも暗かった。 昨夜と同じ場所に、同じ形で存在している。通り過ぎ、何も起きない。一度、立ち止まり、振り返る。ただの建物だ。 それなのに、わずかな落胆があった。 その夜、夢は見なかった。 代わりに、過去の場面が断片的に浮かぶ。 退職する同僚の背中。 送別会のざわめき。自分の番が回ってくる前に、場が流れていった瞬間。 言葉は用意していた。 短く、軽い一言。使わなくても問題は起きなかった。 問題は起きなかった。 それなのに、なぜ今になって思い出すのか。 三日目の夜、再び雨が降った。 終電を逃したわけでもない。ただ、足が止まる。 路地の前で。 肩に触れると、冷たいはずの金属が温かい。 「今は、どういう意味ですか」 誰に向けた言葉でもない。 扉は、静かに開いた。 中は、あの静けさだった。 棚と箱。均一な灯り。 店番は、すでにそこにいた。 「戻ってきましたね」 「用事はありません」 「用事がある人は、来ません」 棚の一番下を見る。 白紙の箱は、そこにある。 埃はない。 「まだ、使っていません」 否定できなかった。 「使わなくても、生きられます」 「ええ」 「問題も起きません」 「ええ」 「それでも?」 「それでも、です」 箱を持ち上げる。 軽いはずなのに、昨日よりわずかに重い。 「開けますか」 「少しだけ」 蓋を開ける。 中は空だ。けれど、掌に残る温度は確かだった。 「あの時」 声が止まる。 「言わなかったのではありません」 店番が言う。 「言えたのに、使わなかった」 鈴の音が、強く鳴った。

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『未使用の感情』

第二章 帰り道、雨が降り始めた。 傘を持っていなかったが、少し走れば済む距離だ。 コンビニで買うほどでもない。そう判断し、足早に歩く。 駅から外れた細い路地に入ったとき、見覚えのない建物が目に入った。 小さな店だった。古いが、荒れてはいない。照明は点いているのに、人の気配がしない。 通り過ぎようとして、足が止まった。 理由は分からない。看板もなければ、商品も見えない。 ただ、扉の前に立った瞬間、胸の奥で微かな音がした。 鈴の音だった。 実際に聞こえたわけではない。そうとしか表現できない感覚が、体の内側で鳴った。 扉を開ける。 中は静かだった。外の雨音が、嘘のように消える。 棚が並び、その上に箱が置かれている。 すべて同じ形、同じ大きさ。色だけが違う。机には、短い言葉が書かれていた。怒り、悲しみ、後悔、期待。 「いらっしゃい」 声がした。 店の奥に、店番らしき人物が立っている。年齢も性別も、判然としない。 「ここは?」 「未使用の感情を保管する店です」 冗談だと思った。 けれど、笑えなかった。否定する材料もなかった。 棚の一番下に、白い箱があった。 机には、何も書かれていない。 「それは?」 「まだ使われていない感情です」 手に取る。 軽い。中身があるとは思えないほど。 「使わなければ?」 「ここに残ります」 「ずっと?」 「選ばれなければ」 箱を戻す。 選ばない。それは、これまで何度もしてきたことだ。問題は起きなかった。 「今日は、見ただけでいいですか」 「もちろん」 扉を出ると、雨は弱まっていた。 振り返ると、店は闇に溶けるように見えなくなっていた。 その夜、胸の奥で、あの鈴の音が微かに鳴り続けていた。

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『未使用の感情』

第一章 気づけば、問題の起きない人生を選び続けていた。 それは意識的な判断というより、癖に近かった。 選択肢が現れた瞬間、危険でない方、波風の立たない方が自然と手に取られる。 結果として、何も失わない代わりに、何も増えない日々が続いていた。 朝は決まった時間に起き、同じ道を通って会社へ向かう。 満員電車の中で視線を落とし、誰とも目を合わせない。 トラブルを避けるためではない。 そうする必要がないほど、体が慣れているだけだ。 会社では、与えられた仕事を過不足なくこなす。 目立たないが、遅れもしない。 評価は平均的で、悪くない。 会議では、必要以上の発言はしない。 聞かれたことだけに答え、踏み込まない。 そうすれば、問題は起きない。 昼休み、同僚の愚痴に相槌を打つ。 肯定も否定もしない、便利な言葉を選ぶ。 相手は満足し、会話は穏やかに終わる。 ここでも、問題は起きない。 帰宅後、簡単な食事を済ませ、動画を見る。 画面の向こうで起きている出来事は、すべて安全だ。 自分が傷つくことはない。 感情を使わなくても、時間は過ぎていく。 眠る前、ふと考えることがある。 今日一日、何かを「選んだ」だろうか。 答えは、いつも曖昧だ。 選ばなかった記憶はあっても、選んだ記憶は薄い。 それでも、生活に支障はない。 問題が起きないことは、十分に価値がある。 そう思うことで、納得してきた。 その日も、同じ一日が終わるはずだった。

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『名前を呼ばれない卒業式』

 体育館に、名前が一つずつ落ちていく。  呼ばれるたびに、拍手が起き、椅子がきしむ。  私は背筋を伸ばして待っていた。  自分の番が来ると、信じて。  けれど、最後の名前が読み終わっても、私の名は呼ばれなかった。  ざわめきの中で、先生が原稿を閉じる。  欠席者はいない。  間違いでもない。  私は気づいてしまった。  この一年、私は「出席」していただけだったのだと。  意見を言わず、目立たず、名前を呼ばれないまま。  式が終わり、誰もいなくなった体育館で、私は小さく自分の名前を口にした。  音は、確かにそこにあった。  呼ばれなかった名前は、消えたわけじゃない。  これからは、自分で呼べばいい。

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『地球滅亡五分前』

 それは、突然やってきた。  スマホの画面に表示された通知は、冗談にして は質が悪すぎた。 |地球滅亡まで、残り五分  同時に、街中のスピーカーが低い音を鳴ら し始める。  緊急放送。  誰かの冗談ではないと、すぐに分かった。  空は、いつもと同じ色をしていた。  雲も、風も、何一つ変わらない。  なのに、世界だけが終わろうとしている。  人々は叫び、泣き、走り出す。  電話をかける者、座り込む者、ただ空を見 上げる者。  俺は、動けなかった。    四分前。  やり残したことを考える。  謝れなかった言葉。  伝えなかった気持ち。  全部、今さらだった。  三分前。  隣にいた見知らぬ人と、目が合う。  言葉は交わさない。  それでも、不思議と一人じゃない気がした。  二分前。  空が、わずかに震える。  終わりが近づいているのが、分かる。  俺は、スマホを閉じた。  もう、知らせはいらない。  一分前。  最後に何をするか、ようやく決めた。  深く息を吸い、吐く。  ただ、それだけ。  生きている感覚を、確かめるために。  零分。  ーー何も、起こらなかった。  音も、光も、衝撃もない。  世界は、そこにあった。  数秒後、放送が再び流れる。 |誤報でした。地球は滅亡しません。  街に、怒りと安堵が同時に広がる。  誰かが泣き、誰かが笑い、誰かが怒鳴る。  俺は、空を見上げた。  五分前と、同じ空。  でも、同じには見えなかった。  あの五分間で、  俺は確かに、世界を失い、取り戻したのだ。  だから思う。  もし本当に終わりが来るなら、  きっと今日みたいな空の下で、  人は初めて「生きていた」と気づくのだろう。

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