如月凪央

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如月凪央

如月 凪央(きさらぎ なお) 日常の隙間に落ちる感情を書いています。 派手な展開より、ひとことの沈黙や、言えなかった一言の方が物語になると思っています。 恋愛は好きです。 綺麗なだけじゃ描けないところまで含めて。 更新は不定期。 書けるときに書きます。 読んでくれた人の時間を少しでも奪えたなら、それで十分です。 いいねや感想は励みになりますが、義務ではありません。 読む人も書く人も自由であってほしいので。

第8回N1 月光る水面に、ソナタの雫が落ちるとき。

鍵盤に触れると、古いピアノがかすかに震えた。月夜の湖面に影を落とす前触れのような鼓動。 千紘は息を吸い、指先をゆっくり沈めた。 音が生まれた瞬間、部屋の空気が変わる。静寂は薄い膜になり、月光がそこへ染みこんだ。第一楽章の低音が床下から立ちのぼり、天井を揺らし、見えない波紋が広がっていく。 父が遺したこの山小屋で弾くのは、今日が初めてだった。遺品の中に残されていたのは、手入れされ続けたピアノと、折り目の深い楽譜。それだけだったのに、千紘にはそれで充分だった。むしろ、それ以上の言葉を父は残せなかったのだろう。 第二小節に移ると、湖が応えた。 窓の外の水面がふるえ、月の輪郭が細かく崩れ始める。かつて父が「音は水を動かす」と言っていたのを思い出し、千紘は胸の奥で小さく頷く。 父は、頑固で、音に対してだけ異常に誠実だった。涙より音を優先したし、人の言葉より和声を信用した。最後まで病気を認めず、治療より楽器の調律を選んだのだ。その生真面目さは、千紘にとって憧れであり、呪いでもあった。 中盤に差しかかる。 右手がそっと光を集め、左手が影を織り上げる。ふたつの色が混ざるところに、父の面影が蘇り、部屋にいないはずの誰かの気配が、背後で立ち止まる。 千紘は弾き続けた。 父に届くかどうかはもう関係なかった。これは、父のためではなく、自分自身のための演奏だった。父の影を抱え続けたままでは、どこへも進めない。けれど影そのものを嫌うほど、千紘は薄情にはなれなかった。 音が深く沈むにつれ、湖は光を失い、夜の底へ吸い込まれていく。音と水が互いを引き込み合い、境界が消えていく。部屋の空気は透明度を増し、外と内がゆっくり混ざり始めた。 最後の和音を押し込んだ瞬間。 湖面がぱんと割れた。 月が砕けたような反射が、千紘の身体に降りかかる。冷たさはなく、むしろ温かい残響が肌に集まり、小屋全体が拍動を始めた。 そして、父の気配が薄れていく。 それは別れではなく、溶け合うような感覚だった。存在を失うのではなく、千紘の内側のどこかへ居場所を移すだけのような静かな動き。 「ありがとう」 声は月光の粒に吸い込まれ、湖の底に落ちていく。 千紘は鍵盤から手を離し、その冷たさに初めて自分の体温を感じた。 窓の外では、砕けた光がゆっくり集まり、再び月の形に戻っていく。夜は何事もなかった顔で静まり返った。 千紘は椅子から立ち上がり、小屋の扉を開く。 月光ソナタの余韻が背中を押し、湖面を渡る風が道をつくる。父が残した最後の曲は、父を手放すためではなく、前へ歩く足音を照らす灯だった。 千紘は歩き出す。 柔らかな月の息吹を肩に受けながら。

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沈んだ輪郭

彼と彼女は、互いを深く愛していた。 少なくとも、そう信じて生きてきた。 彼女はいつも彼の言葉を欲しがり、彼の気持ちを欲しがり、それは次第に彼の中にあるもの全部を手に入れたいという渇きに変わる。 彼はそれを愛情だと思い込もうとしていた。 最初は心地よかったし、支えられている気がしたから。 けれどある晩、彼女は言った。 「あなたが何を考えてるのか、どれだけ感じてるのか、どこまでがあなたで、どこからがわたしなのか……全部ひとつにしたいの」 その言葉には優しさも狂気もなかった。 ただ、境界という概念を忘れてしまった人の声だった。 テーブルの上には、白い皿がひとつ。 何も載っていないのに、彼は奇妙に息が詰まる。 彼女は椅子を回り込み、そっと彼の肩に触れた。 指先はあたたかいのに、そこにあるのは支配ではなく“吸い込み”に近い感覚。 彼の思考がゆっくり静かになっていく。 輪郭が曖昧になり、重心が彼女の方へ引っぱられていく。 何も乱暴なことは起きなかった。 痛みも、叫びも、抵抗も。 ただ、ふたりのあいだにあった空白が、一滴ずつ埋まっていった。 やがて彼は、自分という形がどこまで残っているのか分からなくなった。 考えれば考えるほど、彼女の内側に沈んでいく気がする。 翌朝、部屋にはひとりだけ。 彼女は静かにコーヒーを飲みながら、昨日より少しだけ重い沈黙を胸に抱えていた。 彼の痕跡は、どこにもなかった。 けれど彼女の中には、確かに昨日より“満ちている何か”がある。

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静かな沈殿

薄い霧のような時間が、部屋の中に積もっていた。 目覚ましは何度も鳴ったはずなのに、起きた瞬間には静かで、まるで最初から存在しなかったかのようだ。 椅子に座る。机の上には昨日と同じ紙コップ、昨日と同じ読みかけの本、昨日と同じ形にしわの寄ったタオル。 窓の外ではバスが通り過ぎ、人の話し声が線のように切れ切れに届く。 そのどれもが、遠い。 海のずっと向こう側で起きていることを、単にスピーカーで流しているだけみたいだ。 午前と午後を区切る線は、今日も曖昧なまま溶けた。 昼食はパンを半分だけかじって終わる。味も何も思い出せない。 ただ「食べた」という事実だけが、ぼんやり胸のあたりで浮いていた。 夕方、同じ椅子に深く沈み込んだ。 なにかをしなきゃいけない気がするのに、その「なにか」が輪郭を持ってくれない。 伸ばした手は空気をつかむだけで、求めていた形に触れることはない。 夜になった。 照明の白はどこか薄く、影すら怠けて形を作らない。 布団に入ろうとしたとき、ふと気づく。 今日一日、心の中に言葉がほとんど生まれなかった。 それでも、眠る前の数秒だけ、小さなつぶやきが生まれる。 「明日は、昨日と少しだけ違いますように」 願いとも呼べないほど弱々しいその声は、暗闇に溶け、跡形もなく消えていった。 けれど、それが今日唯一の、確かな感情だった。

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お題【本棚】

部屋の隅に置いた本棚は、もともとこんなに大きかっただろうか。 大学に入ってから買ったはずなのに、いつの間にか背が伸びて、幅を増して、気づけば壁一面を占領している。 けれど、入っている本は少ない。 空白の段ばかりが目立って、まるで誰かを待っているみたいだ。 昔、誰かに言われたことを思い出す。 「好きなものを詰め込んだ本棚は、その人の形みたいでいいよね」 その時は頷いただけだった。 今になってようやく意味がわかる気がする。 好きなものを入れればきっと満たされる。 けれど、好きなものなんて簡単には決められない。 入れてしまったら最後、その空白は空白にはもう戻れないのだ。 本棚を眺めていると、ふと視線が止まる。 一冊だけ何度も読み返して角の擦り切れた文庫が置いてある。 別に特別な本じゃない。 ベストセラーでもないし、派手な展開もない。 苦しいときに読むと苦しみが増した。 嬉しいときに読むと嬉しさが薄まった。 寂しいときに読むと寂しさが壊れた。 ひとことで言うなら、僕を苦しめる。 でも、捨てることもできなかった。 その文庫を棚から取り出す。 背表紙を撫でて、ページを開いて、閉じる。 別に読むわけじゃない。ただ、確かめただけだ。 棚に戻すとき、気づく。 空白の段が、少しだけ違って見える。 空いていることが寂しいんじゃなくて、 空けていることが、たぶん選択なのだ。 「いつかまた、誰かがここに並ぶならいい」 声に出すと、滑稽だった。 誰に聞かせるつもりでもないのに。 文庫を棚に戻したあと、部屋の電気を消す。 暗闇の中で、本棚は見えない。 だけど、そこにあると思うだけで、少し眠れそうだった。

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