第8回N1 月光る水面に、ソナタの雫が落ちるとき。

鍵盤に触れると、古いピアノがかすかに震えた。月夜の湖面に影を落とす前触れのような鼓動。 千紘は息を吸い、指先をゆっくり沈めた。 音が生まれた瞬間、部屋の空気が変わる。静寂は薄い膜になり、月光がそこへ染みこんだ。第一楽章の低音が床下から立ちのぼり、天井を揺らし、見えない波紋が広がっていく。 父が遺したこの山小屋で弾くのは、今日が初めてだった。遺品の中に残されていたのは、手入れされ続けたピアノと、折り目の深い楽譜。それだけだったのに、千紘にはそれで充分だった。むしろ、それ以上の言葉を父は残せなかったのだろう。 第二小節に移ると、湖が応えた。 窓の外の水面がふるえ、月の輪郭が細かく崩れ始める。かつて父が「音は水を動かす」と言っていたのを思い出し、千紘は胸の奥で小さく頷く。
如月凪央
如月凪央
如月 凪央(きさらぎ なお) 日常の隙間に落ちる感情を書いています。 派手な展開より、ひとことの沈黙や、言えなかった一言の方が物語になると思っています。 恋愛は好きです。 綺麗なだけじゃ描けないところまで含めて。 更新は不定期。 書けるときに書きます。 読んでくれた人の時間を少しでも奪えたなら、それで十分です。 いいねや感想は励みになりますが、義務ではありません。 読む人も書く人も自由であってほしいので。