夏木 蒼

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夏木 蒼

短編小説しか書かない人です twitter→ https://twitter.com/summer_blue_04

恋の栞

 電車の中で本を読む人が減った気がする。  通勤ラッシュ、と言うほど混んでいるわけでもない、ローカル線の朝の車内。  ふと文庫本から目を上げて、辺りを見渡すが、本を読んでいるのは自分を含めて数人だけ。だいたいの人はスマホを見ているか、俯いて寝ているかのどちらかだ。  最近はスマホがあればなんでも事足りるから、当たり前か。  そう思いつつ本に目を戻した瞬間、電車が大きく揺れた。いつもより揺れが激しいので、どうやら今日の運転手は新米のようだ。  立っていた私は転びそうになり、慌ててつり革を掴む。その拍子に、本に挟んでいた栞が滑り落ちた。  風に舞う葉のように落ちた栞は、斜め前に座っている男性の足元にはらりと着地する。 「あ」  思わず声が出た。心臓が跳ねる。  その男性は、以前から私が意識していた人だったから。  彼は毎朝、本を片手に電車に乗っている。  ネクタイがいつも少し歪んでいて、まだスーツが体に馴染んでいない。多分、私と同じように新卒で就職したのだろう。  真剣な表情でページを捲ったかと思いきや、ふっと急に笑ったりする。  どんな本を読んでいるんだろう。  そんな興味が湧くのは、読書家としての性だと思いたい。下心がないとは言い切れないけれど。  くるくる変わる表情に惹かれ、私は本を読むふりをして、よく彼を盗み見ていた。  私の視線の先を辿り、足元に落ちている栞に気づいた彼は、ぱたんと持っていた本を閉じる。骨張った細い指でそっと栞を拾い上げた。 「あなたの?」 「……はい」  頷いてそう返すのが精一杯だった。元々男性と話すことに慣れていないせいもあるけれど、前から気になっていた人といきなり話せという方が無茶だろう。 「綺麗な栞ですね」  口角を上げて彼は微笑む。落とした栞は私の手作りで、四葉のクローバーをラミネートしたものだ。  口の中で小さく、ありがとうございます、と呟く。  ああ、もっとちゃんと話したいのに。目を見ることすら恥ずかしくてできない。  はい、と栞を手渡される。手が震えないように、慎重に受け取った。  彼は私を見て微笑んだ後、また文庫本に目を戻す。  このままでは何も話せずに終わってしまう。  何か、何か話さなきゃ。  咄嗟に、 「あの、何読んでいらっしゃるんですか」  そんなことを聞いてしまった。  本から顔を上げて、彼は首を傾げる。  いきなりそんなことを聞くなんて、変な女って思われた? でも、それ以外に話題なんか思いつかない。  やっぱりなんでもないです、と言おうと口を開いたところで、 「僕ですか?」  彼は自分を指差した。慌てて私はこくこくと何度も頷く。 「はい、あの、本を読んでいる方が少ないので仲間意識というか…」  こじつけのような理由をもごもごと説明すると、くくっと彼は下を向いて少し笑った。  彼は本のカバーを外して見せる。驚いたことに、私が今読んでいる本と同じ作者の本だった。 「あなたは?」  お返しのように聞かれ、私も彼に表紙をおずおずと見せた。 「同じ作者さんじゃないですか!」  この作者さんの本面白いですよね、と彼の顔が明るくなった。  神様ありがとう、と思わず心の中で拝む。普段は神様なんて信じていないけれど。  昨日、たまたま立ち寄った本屋で目に止まったのが、今読んでいるこの本だった。女性誌を買うか本を買うか悩んで、こちらに決めた。  なんという巡り合わせ!この本を選んだのはきっと神様の思し召しに違いない!  何の神様かはわからないが、とりあえず今度神社に行ったらお礼を言おう、と心に決める。 「私、この作者さんの本読むのはこのお話が初めてなんですけれど、何かおすすめありますか?」  そう聞くと、彼は更に嬉しそうな顔になった。この作者のファンなのか、何冊もおすすめの本を挙げる。忘れないように、私は慌ててスマホを取り出してメモに記録した。  また読んでみます、と目一杯の笑顔を作ると、彼も嬉しそうに微笑んだ。  ゆっくりと電車が減速し始める。  まだ、全然話し足りない。非情にも、私の降りる駅が近づいていた。 「次で降りないと」  呟いて、栞を本に挟む。  それを見た彼が、ふと口を開いた。 「今読んでるこの本、図書館で借りたからか栞が無くて。毎回どこまで読んだかわからなくなるんですよね」  困ったように言う彼。  電車はホームにゆるゆると滑り込む。  名前も連絡先も、何も聞けていない。じゃあ、せめて―― 「あ、あの! ……これ、あげます!」  私は本から栞を抜いて差し出した。 「え、でもあなたが困るんじゃ」  戸惑う彼に笑いかけて、 「今度、読み終わった時に返してくだされば大丈夫です」  そう言うのが精一杯だった。顔が赤くなっているのが、鏡を見なくてもわかる。  ブレーキ音とともに電車が止まった。  では、と背を向けてドアの方に向かおうとした時。 「じゃあ、また明日」  そんな声が飛んできた。  ぱっと振り返ると、彼の頬も少し赤く染まっている。 「いつもこの電車に乗ってますもんね」  ほんの少し目を逸らして、そう言う彼。  ――意識しているのは、私だけじゃなかったってこと?  鼓動が速くなる。  何か言わなきゃ、と口をぱくぱくさせているうちに、ドアが閉まるアナウンスが入った。  慌てて小走りで電車から降りる。  ホームに立って振り向くと、彼が照れ臭そうな顔で、栞を片手に小さく手を振っていた。  私も、彼に手を振り返す。きっと、私も同じような顔をしているだろう。  彼を乗せた電車は、少しずつ速度を上げてホームを離れていった。  電車が見えなくなったところで、大きく息を吐く。  まだ熱い頬をごしごしと両手で擦った。  よし、と呟いて改札へと向かう。  1日はまだ始まったばかりだけれど、もう明日が待ち遠しい。  あの栞が、恋の始まりの栞になりますように。  走り出した恋は、止まらない。  いつもよりも軽い足取りで、私は階段を駆け降りた。

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恋の栞

初体験

 ぎしり、と俺と彼女を乗せたベッドが音を立てる。 「や、優しくしてね…?」  彼女は少し怯えたような目で俺を見上げた。 「大丈夫、痛いのは一瞬だから」  彼女を落ち着かせるように、俺はそっと頭を撫でた。  それでもまだ怖いのか、彼女は体を強張らせる。  華奢な体は小刻みに震え、目をぎゅっと瞑って『その時』を待っている。 「力抜いて」  俺は彼女の耳に囁いた。 「やっ…だって初めてだから…っ」  頬を赤く染め、小さな手で俺の腕を掴む。吐息は熱く、瞳は潤み、その姿はなんとも色っぽい。  だが、しかし。 「ピアス開けるだけなんだけど」  俺はため息をついた。  ベッドの上、と言っても椅子代わりに座っているだけだ。 「だってぇ! 痛いの嫌いなんだもん!」  ぷくっと頬を膨らませた彼女が憤慨する。 「うるさい、動くな」  耳元でそう言うと、またびくっと体を強張らせた。どうやら耳が弱いようだ。 「じゃ、開けるよ」 「イヤー! 待って待って!」 「待たない」  ばぢん、と音を立てて、ピアッサーが彼女の耳に穴を開ける。 「きゃー!痛い……ってあれ、そんなに痛くないや」  開ける前こそ騒いでいたが、開けてしまえばなんてことはなかったようだ。 「ちゃんと消毒しろよ。ていうか、こんなことで俺を呼ぶな、自分でやれ」  彼女の頭を軽く小突くと、ごめんごめんと舌を出された。 「だって君にしか頼めなかったんだもん。ね?」  悪戯っぽく上目遣いで俺を見上げる。  知らねえよ、とそっぽを向いて部屋を出て、玄関へと向かう。  俺と彼女はただの幼馴染み。家が隣同士なだけの友人――のはずなのだが。 「俺以外にあんな色っぽい顔、見せられてたまるかよ、バカ」  そんな呟きが聞こえないように、どすどすと足音を立てて階段を下りた。  部屋に呼ぶくらいなのだから、好意は無くもない……と思うのだが、いかんせん幼馴染みで昔から家を行き来していたせいで、距離感がよくわからない。  意識しているのはきっと俺だけだな、と少しだけ涙が滲んだ。 「あーあ、あれだけ頑張って色っぽくしたのに……手も出してこないなんて。やっぱり私の片思いなのかなぁ」  家を出る彼を窓から見ながら、私は溜息をついた。  ピアスを開けた耳が熱いのは、きっと痛みのせいだけじゃない。  門を出たところで、振り返って私の部屋の窓を確認する彼。  ありがとー、と手を振ると、 「ばかやろう」  と、手で追い払われた。相変わらず素っ気ない。 「バカはそっちだよ、鈍感! ばーか」  小さく呟いて、べーっと背中に舌を出した。  

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初体験

君のいない部屋、僕のチャーハン

 3年付き合った彼女が、家を出て行った。  結婚するものだと思っていた。だから去年、同棲を始めた。  2人で決めたテレビ、2人で決めたソファ、2人で決めた冷蔵庫、2人で決めたベッド。カーテンだけはこれが良いって君が言ったんだっけ。  思い出ばかりが残されて、肝心の君はどこにもいない。  君の残した家具や物で囲まれているはずなのに、空っぽの部屋にいるような気がして、胸がぎゅっと痛くなる。  ご飯の担当はいつも君。土曜日だけ僕。  僕はチャーハンしか作れないから、土曜日の夜はいつもそれだった。 「ごめんね、いつも同じメニューで」  と言う僕に、 「美味しいから良いの」  って、君は笑ってくれた。  不器用な僕が、君の倍以上の時間をかけて作ったご飯。君はいつだってわくわくして待っていて、テーブルにお皿が置かれただけで、すごく嬉しそうな顔をしていた。 「美味しい、美味しい」  って、ずっとにこにこしたまま言うから、つられて僕も笑って食べた。  いつからそんな風に食卓を囲まなくなったんだっけ。  感傷に浸っていても、お腹は空いてくる。  仕方なく、キッチンに行ってチャーハンを作る準備をする。  シンクに並んだ、赤と青のマグカップが目に入る。付き合って初めてのクリスマス、君と色違いで買ったマグカップ。置いて行ったのか、とまた胸が痛くなる。  炊飯器には、君が炊いたご飯がまだ温かいまま残っていて、食べてしまうのが少し惜しくなる。君の痕跡がまた一つ、消えてしまう気がして。  にんじんに玉ねぎ、ピーマンにベーコン。 「ピーマンはみじん切りにしてね」  君はいつもそう言っていたっけ。いつまで経っても、ピーマンだけは嫌いなままだった君。子供みたいな味覚だったから、辛い物も食べられなくってカレーはいつも甘口だった。  君がいなくなったから、カレーはもう辛口でも良いんだ。  そう気づいたけれど、今更何も嬉しくない。  すれ違い始めたのは、半年くらい前だったか。  僕の仕事が忙しくて、顔を合わせる時間がどんどん短くなっていった。残業も増えて、なかなか家に帰れない日が続いていた。  たまに仕事が休みでも、僕は疲れて寝てばかり。  家のことなんて何一つ、やってこなかった。  君だって仕事はしていたのに、合間を縫ってご飯を作り、掃除をして、洗濯をして。文句もたくさんあっただろうに、言う暇すら与えなかったのは僕だ。  寝てばかりの僕をたまにつついて起こしては、 「かまってよ、つまんないよ」  って寂しそうにしていた。眠気の勝る僕はごめんね、と言いつつまた眠りに落ちていった。  君はどんな顔をしていたんだろう。今となっては思い出せない。  ゆっくりゆっくり時間をかけて、野菜を刻む。  刻み終わったら、次はコンロに火をつける。 「ここは都市ガスじゃないから、ガス代が高くなって嫌だね」  そんな話もしていたっけ。  チチチチチ、と音を立てて青い炎が立ち上がるのを、ぼんやりと見つめた。  フライパンに油をひいて、野菜とベーコンを炒める。  その間に、器に卵を割って溶く。ここでマヨネーズを入れるのが僕の隠し味。  卵をそっとフライパンに流し入れて、すかさずご飯を投入する。  いつだったか、ご飯がパラパラのチャーハンを作って君に食べさせてあげるって話をしたけれど、結局いつまで経ってもパラパラのチャーハンは作れなかった。  塩と胡椒を適当に振りかけて、醤油を投入。香りだけは良い炒飯が出来上がる。  食卓にお皿を並べると、残業から帰ってきたときを思い出す。  ご飯、味噌汁、それとおかず。ラップがかけられて、毎日きっちり用意されていた。オムライスが作ってあった日は、ケチャップで「おつかれ!」と書いてあった。  オムライスなんてどうやって作るのだろう。  君の作るオムライスは、ケチャップライスはちょっとしょっぱい。でも卵はふわふわで甘くって、まるで君みたいな味がした。同棲を始めた頃の君。明るい未来しかないと思っていた頃。 「いただきます」  誰に言うでもなく、僕は呟く。君はいつも、食べる前にきっちり手を合わせてそう言っていたから。  そういうところも好きだった。  スプーンでぺっとりしたチャーハンを掬う。  口に入れると、醤油を入れすぎたのか、しょっぱさが一番にやってきた。 「……ぜんっぜん、美味しくないじゃん」  ぽたぽたぽた、と机に水滴が落ちた。しょっぱいのは、僕の涙のせいかもしれない。  醤油は入れすぎ、野菜は生焼け、ご飯はぺっとりしているし、ベーコンはなぜか焦げている。  ずっと作っていても全く上手くならないチャーハン。  だけど、君はずっと美味しいって食べてくれていたんだ。  そんなことに今更気づく。君がいたから、僕も美味しいって食べていたことにも。  こんなに不味いチャーハン1つですら、思い出が溢れているのに。  思い出ばかりが残るこの部屋で、僕はいったいどうやってこれから過ごせば良いんだい?  問いかけても、答えてくれる人はいない。  仕事を言い訳に、何もかもを蔑ろにした僕を待っていたものは、空虚な部屋と不味いご飯――君のいない、現実。  僕にとってどれだけ君の存在が大きかったのか、今更思い知らされる。  机の上にぽつんと置かれた一筆箋。見慣れた文字が小さく並んでいる。 『ごめんね、さよなら』  便箋の隅に、ぽつぽつと水滴の跡がある。きっとこれは、君の涙の跡だろう。  そっとそれを指で撫でて、チャーハンを口に運ぶ。  涙も一緒に、ぎゅっと噛み締めた。君のいない現実は、そう簡単に飲み込めない。  いつにも増してしょっぱい味が、口の中に広がった。

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君のいない部屋、僕のチャーハン

妻の小説

妻が小説を書き始めた。ジャンルはサスペンス。 夕食を食べ終えて立ち上がろうとした時に、恥ずかしそうに打ち明けられた。あなたに読んで欲しいの、と。 毎話ごとに女性が殺される。 一話ではユカリという女性が崖の上から突き落とされ、二話ではサユリという名の女性が首を絞められて死んだ。三話ではヨーコが包丁で刺され、最終話ではカケルという男性が毒を盛られて殺された。 俺は震え上がった。小説の完成度に、ではない。 殺された女性たちの名前は全て、俺の今までの不倫相手の名前だったからだ。 そして俺の名前はカケル。つまり彼女らは既に殺されており、次に殺されるのは…。 気づいた時には遅かった。視界が歪み、立っていられず床に手をつく。 目の前に影が落ち、無理矢理顔を上げる。そこには、微笑みをたたえた妻が立っていた。神の迎えが来たのかと錯覚するほどの、美しい微笑みだった。 どうやら俺の最後の晩餐は、彼女の作ったシチューのようだ…。 そこで俺の意識は途切れた。 「バカねぇ、ただの睡眠薬なのに。死にそうな顔しちゃって」 私は床に転がった彼に背を向ける。数時間もすれば起きてくるだろう。 「まあ、これで不倫の証拠は全部掴まれてるってわかっただろうし」 彼が食べ終えたシチューの皿を片付けた後、ダイニングテーブルの上に書類を綺麗に並べる。探偵を雇い、彼の不倫を徹底的に調べた内容の書類だ。 寝室に行き、クローゼットに隠しておいたトランクを引っ張り出した。不倫に夢中で、私が家を出ようとしていることなんて気づいてもいなかったみたいだけれど。 数日かけて家を出る準備は整えたが、最後に忘れ物がないか、家をぐるりと回って確認する。 リビングの床には、先程と同じ体勢の夫が転がっている。 そっと近づいて傍にしゃがみ、目を瞑ったままの夫の頬を撫でた。 「じゃ、次は調停で会いましょうね。いくら慰謝料を払っていただけるのか楽しみだわ」 ふふ、と微笑んで立ち上がり、軽やかな足取りで玄関へと向かった。

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