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はじめまして😊

お疲れ様のあとで。

春の風が頬をなでた朝。 新卒として初めてオフィスのドアをくぐる私は、少しだけ息を整えてから中へ入った。 スーツは新品のまま、パンプスはもう少し履き慣らすべきだったと思いながら、硬くなった表情を必死にほぐす。 (あぁ、緊張する……) そんな風に硬直していた私に、最初に声をかけてくれたのが、優斗さんだった。 「お疲れ様、緊張したでしょ」 「これから分からないことがあったら、なんでも聞いて」 グレーのシャツに、落ち着いたトーンのネクタイ。 静かで優しい声なのに、どこか芯の強さを感じさせる。 その瞬間、私は何かが心に触れるのを感じた。 (かっこいい……) だけど同時に、胸の奥にふっと冷たい風が吹く。 (……私なんて、まだ子供にしか見えてないよね) だって、7歳も年が離れてるし。 私のことなんて、ただの「新入社員」で「若い子」くらいにしか思ってないはず。 全体の自己紹介の中で、彼が「30歳です」って言ってるのを聞いてしまった。そう思えば思うほど、自然と距離を置いてしまう。 だけど、気づいたら目で追ってしまってる。 忙しそうにパソコンに向かう横顔も、 後輩におだやかに指導してる姿も、どれも眩しくて。 そんなある日、部署の歓迎会が開かれた。 人見知りする私は、空気を読みながらもずっと緊張していて、ほとんど飲み物ばかり口にしていた。 そのとき、優斗さんがそっと言ってくれた。 「無理して笑わなくても、大丈夫だよ」 その声に思わず肩の力が抜けた。 でも、その優しささえも“上司として”なんだろうと思うと、なんだか寂しくなった。 会の終盤、斜め向かいにいた先輩が言った。 「優斗さん、あの先輩と仲いいですよね〜。お似合いって噂になってましたよ」 その“先輩”は、落ち着いていて、大人の余裕があって、誰が見ても魅力的な女性だった。 私とは比べものにならないくらい、ちゃんと“大人の女性”。 (あぁ……そうだよね) 私とは違って、ちゃんと対等に話せる人。 仕事でも頼りにされていて、隣を歩く姿が自然に想像できる。 その夜、少しだけ泣きたくなった。 ⸻ 次の日、気持ちを切り替えたくて、わざと軽く冗談を言ってみた。 「優斗さん、今日もお疲れ様です!あ、私今日めっちゃ頑張ったんで、帰りにタピオカ奢ってくださいっ」 実はこのセリフ、入社してから何度か言っている。 毎回「やだよ」とか「自分で買いな」なんて軽くいなされてたけど、それでも懲りずに言い続けていた。 するとその日は、彼がふっと笑って、 「ほんと、生意気な小娘だな〜……しゃーねぇな、今日だけな」 ――え、まさかのOK? 心臓が跳ねる音が、聞こえたと同時に胸の奥がズキっとした。 (やっぱり“子供”なんだ) そう、小娘と言われるのは初めてじゃなかった。 でも、優斗さんに言われると、ちょっと違って、悔しくて、切なかった。 だから私は、また次の日もその次の日もタピオカの話をした。 まるで、それが“私と彼を繋ぐもの”みたいに。 ⸻ しばらくして、別部署も合わせた合同の飲み会で見た。 別部署の上司と話している優斗さん。 笑いながら、誰かを指さされてる。 「いい加減あの子に告白しろよ、絶対お似合いだから」 その“誰か”は――やっぱり、あの先輩だった。 視界が一気にぼやけた。 その瞬間。 (ああ、もうだめだ) ちゃんと自覚してしまった。 私、優斗さんのことが好きなんだ。 だけど、私じゃ叶わないってことも、同時に思い知らされた。 ⸻ それでも、簡単に想いは消せなかった。 ある日、もう振られたも同然の覚悟で誘ってみた。 「優斗さん……ちょっとだけ、話し聞いてくれませんか? 彼氏と、最近うまくいってなくて」 ほんとは、もう終わってた関係。 だけど、“好きな人に相談してる自分”でいられるだけで、少しだけ救われた。 食事中どこかぎこちなくて、話がふわふわしてたけど、帰り際、私は思いきって言った。 「……あの! 彼女ができるまでの“繋ぎ”でいいので、またご飯、行ってくれませんか?」 自分でも何を言ってるのか、ちょっと分からなかった。 でも、それが精一杯の“私もちゃんと、女なんだ”って伝えたかった言葉だった。 優斗さんは、一瞬驚いたように私を見て―― それから、ふっと口元を緩めて言った。 「それなら、ここが付き合えって話だよね」 それが冗談だったのか、本気だったのか、彼の表情からは読み取れなかった。 だけど私も、笑って「そうかもですね」なんて軽く返してしまった。 ほんの少し期待して、でもそれを悟られたくなくて。 ふたりの間に生まれたその言葉は、冗談のまま、ただ静かに風にさらわれていった。 残ったのは、少し甘くて、ちょっとだけ苦い――コンビニの缶コーヒー。 それを片手に、私たちは並んで歩き出した___。 それからも私は、ことあるごとに「今日も頑張ったんで、そろそろごはん連れてってくださいよ」なんて、冗談まじりにねだっていた。 最初はいつもみたいに、「生意気な小娘だな」って軽くあしらわれていたけど 何度目かのある日、彼はちょっとだけ笑って、ぽつりと言った。 「……お前、ほんとにしつこいな。じゃあ今度の日曜空いてる?」 まさかの展開に、私は一瞬固まってから―― 「えっ、…空いてます!行きます!」 なんて、慌てて返事をした。 ⸻ そして日曜日、私たちは本当に、二人でごはんを食べに行った。 だけどその日の彼は、なんだかぼんやりしていて、笑顔も少なかった。 抑えきれなくなって、私は思いきって口にした。 「やっぱり…好きな人って、あの先輩なんですか?」 もう、振られてもいい。 もし気まずくなったら――会社、辞めてもいいや、なんて冗談ながらも本気で思ってた。 彼は少しだけ困ったように微笑んで言った。 「…教えないよ」 からかうような口ぶりだったけど、その瞳の奥には、どこか誠実な色がにじんでいて。 私は思わず、勢いのままに言ってしまった。 「じゃあ!ゲームに勝ったら教えてください!ボーリングでも、カラオケでもなんでも!」 でも、どれも私が負けてしまって、彼は最後まで口を割らなかった。 ⸻ そんな時、ふと立ち止まって優斗さんが言った。 「じゃあさ。逆に“好きな人”を教えてくれたら俺も教えるよ?」 ずるいな、その言い方。 でも、なんだか少しうれしかった。 「…いいですよ。」 でも、口に出すのは……やっぱり恥ずかしい。 “好き”って一度声に出したら、もう後戻りできない気がして。 「……じゃあ、紙に書きません? 声に出すの、ちょっと……」 そう提案すると、彼は一瞬きょとんとしたあと、ぶはっと笑った。 「なんだそれ。学生みたいだな。でも、いいよ」 ふたりで誰もいない近くの公園に入って、ベンチに腰かけた。 そして、財布の中からレシートを探し出す。 こんな時に限って、きれいな紙なんて持ってない。 それでもなんとかくしゃくしゃになったレシートを見つけて、裏にそっと名前を書く。 見られないように、こっそり手で隠しながら。 「…先に書いたんだったら、見せてくださいよ」 「やだよ」 やりとりの末、私はとうとう彼のレシートを奪い取った。 でもそこに書かれていたのは――見知らぬ名前。 …え? 誰? 心臓がストンと落ちるような感覚。 冗談だと信じたいのに、胸がズキズキと痛む。 そんな私を見て、彼がくすっと笑った。 「冗談だよ。それ、架空の名前」 「……っ!最低ですっ!」 思わず彼の腕を叩こうとしたその瞬間。 彼はその手を優しくつかんで、真剣な目で言った。 「ごめん。今度はちゃんと書く。…だから、見て」 そう言って差し出されたレシート。 私が震える手で見つめると、そこには ――『小春』 私はそっと、自分のレシートを見せた。 ――『優斗』 顔を上げると、彼と目が合った。 そして、ふたり同時に吹き出してしまった。 公園の静けさの中に、私たちの笑い声が優しく響いた。 ──そして帰り道。 私たちは少しだけ距離を詰めて歩いた。 駅の改札前で、優斗さんがふと立ち止まり、私の方を向く。 街灯の光が彼の横顔をやわらかく照らす。 次の瞬間――彼の唇が、そっと私の唇に重なった。 胸の奥が、キュッと熱くなる。 恋が、確かに始まった瞬間だった。 ⸻ それから私たちは、恋人として日々を過ごした。 たくさんケンカもしたし、不安になったこともあったけれど、 そのたびにちゃんと向き合って、笑い合って、少しずつ歩幅を合わせてきた。 そして──季節が三巡して、春。 あの日、「ここが付き合えって話だよね?」と笑い合った帰り道を今は、彼とふたりで歩いている。 同じ方向に、同じ歩幅で。 私は彼の隣に手を添えて、そっと指を絡めた。 すっと、彼も握り返してくれる。 薬指に触れる、ぬくもりがうれしかった。 「ねえ、晩ごはん、何食べたい?」 「うーん……唐揚げは?」 「え?また?ほんと好きだねぇ」 「うん、だってうまいじゃん」 なんて、何気ない会話が、なんだか愛おしくて、 私は彼の横顔を見上げて、ふっと笑った。 春の風がふわりと吹いて、ふたりの間を優しく通り抜けていった。

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お疲れ様のあとで。

Echo Below —闇が選んだその声—

アメリカ・シアトル。 雨が多く、灰色の空が広がる街。 古びたビルの立ち並ぶ裏路地には、人々の目が届かない“地下の闇”が存在する—。 第1章:濡れた路地 午後8時。 彼女はいつものように仕事帰りの路地を歩いていた。オフィスビルの清掃。決して楽ではないが、ようやく軌道に乗ってきた生活。 明日は新しい職場の面接も控えている。少しずつ未来が見え始めていた。 シアトルの空は、今日も雨。 ぬかるんだアスファルトの上に、彼女の足音だけが規則正しく響く。 冷え切った空気の中で、傘もささず、フードを深くかぶって歩いていた。 スマホが震えた。 「明日の面接、頑張ってね」 久しぶりに届いた、友人からのメッセージ。 思わず笑みがこぼれた、その瞬間_ ——ガコンッ! 足元が崩れ、視界がぐるりと回転する。 濡れた鉄の匂い、落下する感覚、反射的に伸ばした手が空を掴む。だが、掴めるものなど何もなかった。 「え……っ!?」 叫ぶ暇もなく、彼女は闇の底に呑まれた。 第2章:闇の底 彼女が目を覚ましたとき、そこには“音”がなかった。 しん……とした、耳が痛くなるほどの静寂。 ときどき、水がポタ…ポタ…と落ちる音。 全身が痛んだ。 頭から血が流れていたのか、こめかみを触るとぬるりとした感触がある。何よりも、空気が重い。カビのような匂い、錆びた鉄と水の混じる匂い。 「だれか……たすけて……」 声を絞り出したが、壁に反響して虚しく返ってきただけだった。 「たすけて……けて……て……」 叫べば叫ぶほど、自分の声が嘲笑うように戻ってくる。 ここには誰もいない。 通りの上を車が通る音も、人の足音も、まるで届かない。 この場所は……“地上”から断絶されている。 まるで、存在ごと消されたように__ 第3章:生きるために 日付の感覚は、すぐに失われた。 時計もスマホも壊れていた。 照明もない。 食料は、ポケットに入っていた小さな飴玉だけ。 レモン味。 一粒を、舐めては溶かし、しばらく口に含んでから飲み込む。 それだけが唯一の“エネルギー”だった。 水は、天井の隙間から落ちてくる雨水を、手で受けて少しずつ飲んだ。 濁っていたが、飲まなければ死ぬ。 寝床は、壁の隅にしゃがんで丸くなっただけ。足を伸ばすスペースもなく、体温がどんどん奪われる。 数時間ごとに目を閉じ、意識が飛びかけるたび、自分を痛めつけて目を覚ます。 「生きなきゃ……」 その言葉だけを、心の中で何度も繰り返した。 第4章:理由 ふと、薄れる意識の中で落下した瞬間を思い出す。 足元のマンホールの蓋—— あのマンホール……あれは最初から、わずかにズレていたように見えた。 「偶然じゃなかった……?まさか……誰かが?」 そう思った瞬間、ある男の顔が一瞬脳裏をよぎった。 以前、清掃先のビルでしつこく話しかけてきた男。 無視をすると、家の近くや帰り道でよく見かけるようになった。 「選ばれたんだよ」 そう、ふざけた声で言っていたのを思い出す。 マンホールは「開いていた」わけではない。 だが、確かに何かが「仕掛けられていた」感覚があった。 計画的だった…? 私を“落とすために”? そう思った瞬間、背筋に冷たいものが走った。 第5 章:微光 意識が途切れ— もう限界だと思った、その時。 「……おい、これ……ズレてないか?」 男の声。上から、懐中電灯の光が差し込んでくる。 「誰か、下にいるぞ!」 パトカーのサイレンが遠くで響く。 警官の無線、救助隊の足音、光。 騒がしさが、あまりに眩しくて… 涙がにじんだ。 ─そして再び、意識が遠のいた。 第6章:目覚め それからどれだけの時間が経ったか分からない。 彼女は気を失っていた。 そして次に目覚めたとき—病院のベッドの上だった。 人工呼吸器が外され、医師と看護師が慌ただしく動く。 だが彼女は、すぐには喋れなかった。 喉が焼けたように痛み、言葉が出ない。 調査の結果、地元の警察がある男を連行したという。 監視カメラに不審な動きが映っていた。 彼女が落ちる数分前マンホールの蓋の上に立ち何かをしていた男。 —だが、証拠は不十分だった。 不起訴処分。 彼女は筆談でこう書いた。 「偶然じゃなかったんだね。」 第7章:白い封筒 退院して2週間後、彼女のもとに一通の手紙が届いた。 差出人不明、真っ白な封筒。 中には、一枚の紙だけが入っていた。 『あなたは選ばれた』 『今回は生き残った。でも、次はどうだろうね』 ぞわっと、背中に寒気が走った。 間違いない。あの男だ。 彼女は窓のカーテンを閉め、鍵をかけた。 「もう、警察は何もしてくれない」 そう思ったとき、彼女の中で何かが変わった。 —自分で、終わらせるしかない。 最終章:偶然という名の罠 それから数週間。 毎晩のように男の動きを調べ続けた。 そして、ついにその日が来た。 あの裏通り。 彼女が落とされた“あの場所”。 男が現れた。 彼女の存在に気づいたのか、男は微かに笑った。 「また会えたね」 唇が、そう動いた。 返事はしなかった。 ただ、数歩だけ歩み寄り、静かに男を見つめ返した。 雨は降っていなかったが、地面はまだ濡れていた。 路地の奥にある、古びたマンホール— 私が落ちた、あの場所。 男はそのすぐ脇に立っていた。 「何か言いたいことでもあるの?」 男が少し顎を上げ、挑発するように言う。 だが、彼女は無言で首を横に振った。 そのまま、ゆっくりと一歩引いた。 男は小さく鼻で笑いながら、歩き出した。 無防備に、マンホールの中心を踏み越えようとする。 その瞬間— 「カクンッ」と、足元がわずかに沈んだ。 「……っ?」 男の表情が変わる。 実は彼女は、前日の夜— マンホールの蓋に一部だけグリスを塗り、中央のバランスが崩れるよう微調整を加えていた。 日中に歩く人々は気づかず、通り過ぎていった。 だが、雨上がりの濡れた靴底と、わずかに傾いた蓋の上では—— ほんの一歩のズレで、足元の安定が失われる。 「っ——あぶっ……!」 滑った男はとっさに踏ん張ろうとしたが、 靴が蓋の縁で空転し、重心が傾いた。 「ガタンッ!」 鉄の蓋が傾き、男の体がマンホールの穴に吸い込まれていく。 「っっ!!」 短い悲鳴。 闇の中へ、音もなく消えていく影。 しばらくして—— 「カン……」という、乾いた金属音。 蓋が元の位置に戻った。 彼女は一歩近づき、足元を見下ろした。 何も言わず、しゃがんで蓋の端に指を添えると、ほんの少しだけ位置を整えた。 まるで、そこが最初から何もなかったかのように。 あの日と、まったく同じように。 _後日、彼女は小さなカフェで静かにミルクを飲んでいた。 もう震えてはいなかった。 友人にこう聞かれた。 「彼、捕まらなかったんだよね?」 彼女は微笑んだ。 そして、ナプキンに一言だけ書いた。 「落ちたらしい。偶然ね。」

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Echo Below —闇が選んだその声—

明日への航跡

これは、僕が曾祖母から聞かされた、古い、けれど決して色褪せることのない物語だ。 夏休み、僕は曾祖母の家で、埃を被った古い木箱を見つけた。 中には、たくさんの白黒写真と、色褪せた寄せ書きが入っていた。 写真には、笑顔の若い青年たちが写っていた。 曾祖母は、僕がその箱に興味を持ったのを見て、静かに語り始めた。「これはね、あんたが生まれるずっと前の**知覧(ちらん)**の物語だよ」(鹿児島県の地名) そして、彼女は、戦時中の食堂で「お母さん」と呼ばれていた、自身の祖母の物語を語り始めた__ 昭和二十年、春。知覧では、穏やかな空気に包まれていた。桜並木は満開で、風が吹くたびに、花びらが雪のように舞い散る。 特攻隊員たちが集う小さな食堂では、若者たちの朗らかな声が響いていた。 彼らは、戦闘機乗りとしての顔とは違う、ごく普通の若者だった。 「お母さん、僕、戦争が終わったら、故郷の村で先生になるんだ。子どもたちに、空の青さを教えてやりたい」 そう話す青年は、いつも食堂の隅で熱心に本を読んでいた。別の隊員は、故郷に帰ったら、弟と野球チームを作りたいと熱く語った。皆、未来の話ばかりをしていた。 誰もが、いつか、いつかとこの戦争が終わることを信じていたのだ。 しかし、その穏やかな日常の裏で、彼らの心には深く暗い影が落ちていた。夜になると、彼らは一転して寡黙となる。 皆で囲む食卓でも、時折、箸を止めて遠い目をする者も。 故郷に送る手紙には、どうしても書けない言葉があった。 「本当は、死にたくない」 「生きて、もう一度、家族に会いたい」 そんな本心を、彼らは誰にも明かせなかった。 弱音を吐けば、仲間の士気を下げてしまう。死を覚悟した若者たちの集団の中で、 「生きたい」 と願うことこそが、最も恥ずべきことのように思えたのだ。誰もが、その孤独な恐怖とひたむきに戦っていた。 女将は、彼らの言葉にならない苦悩を、痛いほど感じ取っていた。だから、彼女は決して何も聞かなかった。ただ黙って、温かい味噌汁と、彼らが大好きなカツ丼を差し出した。温かい食事は、彼らにとって、故郷の母親がくれた愛情そのものだった。 ある晩、一人の青年が、女将に問いかけた。 「お母さん…僕たちは、何のために死ぬんでしょうか。国のため? 家族のため? 僕は、正直、怖いです。死にたくないです。」 その瞬間、食堂の空気は一変した。近くに座っていた別の隊員が、顔をしかめて言った。 「バカを言うな! そんな弱虫なこと、お国のためにならないぞ!」 また別の隊員が、軽蔑の眼差しを向ける。「死ぬのが怖いだと? それが我々の使命だろうが。家族に顔向けできるのか」食堂に重い沈黙が落ちた。誰もが、その青年の本音に触れ、居心地が悪そうに目を伏せた。 女将は、その緊迫した空気を破るように、静かに、しかし力強く語り始めた。 「あんたが怖いと思うのは、生きている証拠だ。あんたたちは、死ぬために生まれてきたんじゃない。あんたたちは、生きるために、この桜の木の下にいるんだよ。命を懸けているのは、未来の、まだ見ぬ子供たちが、この桜の木の下で、笑って過ごせるようにするためだよ。あんたたちの命は、この桜の花びらみたいに、散りゆくものかもしれない。でも、その花びらが土に還って、また次の命を育むようにこの国の未来を育てるんだ」 女将の言葉は、彼の心に深く響いた。彼は、静かに涙を流し、そして、何かを決意したように、まっすぐに女将を見つめた。「ありがとうございます、お母さん。僕、生きます。僕の命が、未来へ繋がるように、生きて、戦ってきます」彼は、死を覚悟することではなく、未来へ命を繋ぐために「生きる」ことを選んだのだ。 そして__出撃の朝が来た。 前日までとは打って変わり、空は重い鉛色をしていた。食堂には、いつもの笑い声はなかった。皆、静かに、最後の朝食を食べていた。最後のカツ丼。女将が心を込めて揚げたそれは、いつもよりも、ずっと熱く感じられた。彼らはそれを、一言も言葉を発さずに、ゆっくりと、かみしめるように食べた。まるで、故郷の母親から最後の愛情を受け取るかのように。 食後、彼らは一人ずつ、女将の前に立った。 「お母さん、行ってきます」 彼らは、晴れやかに、しかしどこか寂しげに笑い、深く敬礼した。女将は、その一人ひとりの目を見つめ、感謝を込めて、深く頭を下げた。彼らが、ただの「兵隊」ではなく、「死にたくない」と願いながらも、未来へ命を捧げようとした、かけがえのない「息子」たちであることを、決して忘れてはいけないと思ったからだ。 飛行機に乗り込む姿は、僕の想像をはるかに超えるものだった。彼らは、まるでこれから遠足にでも行くかのように、互いに冗談を言い合い、笑いながら乗り込んでいった。そこには、死への恐怖を押し殺し、仲間の前で精一杯、強がろうとする若者たちの、悲しいほどの優しさがあった。 一人の隊員が、乗り込む直前、女将に向かって叫んだ。 「お母さん! 僕たちの命が、いつか平和な世界に繋がりますように…そう願っております!」 プロペラが回り、轟音が響く。 彼らの乗った飛行機が、桜並木の滑走路をゆっくりと走り出した。そして、大空へと舞い上がる。それは、まるで、命を賭した、神聖な儀式のように見えた。彼らの機体は、雲の中へと消えていった。女将は、その姿が見えなくなるまで、 ただ、ただ、立ち尽くしていた。 曾祖母は、そこで物語を終え、僕に語りかけた。 「あの人たちはね、自分たちの命が、何世代も後の、まだ見ぬ子供たちの幸せに繋がるって信じていたんだよ」 僕は、曾祖母の家を出て、知覧の町を歩いた。そこには、物語に出てきた桜並木が、今も変わらずにあった。その下では、子どもたちが元気いっぱいに笑い、恋人たちが手を繋いで歩き、家族が楽しそうに写真を撮っている。僕たちが当たり前のように過ごしている平和な日常は、あの若者たちが命を懸けて掴み取ってくれた、尊い未来だ。彼らは、「生きたい」と願いながらも、愛する故郷と家族を、そして、まだ見ぬ未来の世代を守るために、最後の戦いを選んだ。僕は、満開の桜を見上げ、心の中で静かに問いかける。彼らが命を懸けて守りたかったのは、本当に、この世界だったのだろうか。 彼らは、この平和な日常に、満足しているだろうかと。

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明日への航跡

透明な鼓動

-ただ、風だけが生きている- 前髪がわずかに揺れているのが、妙に鮮明に感じられた。 傾いたまま朽ちた建物、砕けたガラスが散らばる道路。彼女は音を立てぬよう、その上をただ歩いていた。手はポケットの奥深く。 今日が何日目なのか、もう思い出せなかった。 時の流れは、とっくに意味を失くしていた。 ウイルスが世界を覆ったあの日、彼女はまだ小さかった。母の手に握り返されていた、あの柔らかい感触だけは、今でも不思議なほどはっきりと覚えている。まるで、掌にその感覚が焼き付いているかのように。 父は、いつも通りの時間に帰ってこなかった。深夜になって玄関がノックされ、母が戸を開けた瞬間――父は、何かが抜け落ちたような、空っぽの目で家に入ってきた。その目は、もう父のものではなかった。 母は彼を必死に押し戻そうとした。彼女は廊下の暗がりから、母の背中を見ていた。記憶の中で、母の肩が大きく揺れる。鈍い音がして、血が飛んだ。母の顔が、急に真っ白になった。 そして――その先の記憶は、まるで黒い絵の具で塗りつぶされたかのように消えている。 あの場面だけは、何度思い出そうとしても、脳が勝手に映像を遮断してしまうのだ。突然、画面が真っ暗になり、音も消える。それは、自分を守るための脳の最後の防衛本能なのかもしれない。 けれど、守りきれてはいない。あの時の痛みだけが、ずっと胸の奥に残っていた。 それから、彼女はずっとひとりだった。「誰が引き取るのか」と怒鳴る大人の声だけが、遠い過去の笑い声のように耳鳴りの奥で響く。ただ、静かに立っていたことしか覚えていない。 _数ヶ月後、年下の、小さな男の子と行動を共にした時期があった。名前は思い出せない。ただ、無邪気に笑う声と、その声が耳に残っていることだけは忘れられなかった。 彼を守るために、一度だけ彼女は戦った。錆びたバットを拾い、振り下ろした。骨が軋む音、鮮血が飛び散る音。ゾンビの唸り声と、男の子の悲鳴。どちらも、今では曖昧な音の塊になってしまった。 でも――あれ以来、彼女は一度も武器を手にしなかった。 駅のホームに降りると、ひしゃげた自動販売機が1台だけ立っていた。割れたガラスの下に転がるペットボトルをひとつ拾う。手にずしりと残る重さを確かめる。水だ。 冷えてはいない。けれど、そのぬるさが、今はなぜか少しだけ安心させてくれた。 キャップをひねり、一口飲む。喉の奥に、ぬるい液体が流れ込んでいく。その瞬間、なぜか記憶が蘇る。昔、母がコンビニ帰りに渡してくれた、冷たいペットボトルのこと。 「冷たいうちに飲んじゃいな」と、笑いながら言っていた母の声。それも、もうはっきりとは思い出せない。走馬灯のように、記憶の断片が浮かび上がっては、遠ざかり、すぐに闇に溶けていく。 夜は、廃ビルの3階で過ごした。湿った絨毯、崩れかけた天井。誰もいない会議室の椅子を積み上げてバリケードを作る。小さな物音さえ嫌で、息を殺してバッグから水をもう一口だけ飲んだ。ぬるい。もちろん味なんてしない。けれど、そのぬるさが、「まだ自分は生きている」と教えてくれるようだった。 翌朝、目が覚めると風が止まっていた。空は、どこまでも真っ白だった。あまりの静けさに、耳の奥が詰まっているような気がした。 彼女は重たいバッグを背負い、ゆっくりと立ち上がる。 廊下の奥、割れた窓の前を通ったとき、ふと、ガラスに自分の姿が映った。思わず、立ち止まる。そこに映っていたのは自分のはずなのに、何かが違うとすぐにわかった。 目だ。 目が、「何も映していない目」をしていた。瞬きもせず、じっとこちらを見ている。 背筋をぞっと撫でられるような感覚がして、彼女はすぐに目をそらした。そのまま歩き出す。けれど、数歩進んだ後、また立ち止まって振り返る。 ガラスの中の彼女は、まだこちらを見ていた。 まったく動かない。瞬きも、しない。でも確かに、そこに“何か”がいた。 空気が、異常なほど静まり返っていた。風も、音もなかったのに、なぜかその「気配」だけが、背後からじわじわと近づいてくるような気がした。 彼女はポケットの中に手を入れた。ナイフの感触を探すつもりだったが、指先が触れたのは、別のもの。細くて、ひんやりとしていた。 見なくても、何かわかってしまった。 それは、母が昔つけてくれた銀のブレスレット。 とうに失くしたはずのもの。 ――なんで今、ここにある? 彼女は手を出さず、ポケットの中で、そっとそれを握りしめた。 彼女は今日も、生きていた。名前も、目的も、忘れてしまって。何が正しいのかも、もうわからないままで。 でも、それでも。 彼女は歩き続ける。 静かなまま―― たとえもう、「人間だった頃の自分」が、ほとんど残っていなかったとしても。

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