透明な鼓動

透明な鼓動
-ただ、風だけが生きている- 前髪がわずかに揺れているのが、妙に鮮明に感じられた。 傾いたまま朽ちた建物、砕けたガラスが散らばる道路。彼女は音を立てぬよう、その上をただ歩いていた。手はポケットの奥深く。 今日が何日目なのか、もう思い出せなかった。 時の流れは、とっくに意味を失くしていた。 ウイルスが世界を覆ったあの日、彼女はまだ小さかった。母の手に握り返されていた、あの柔らかい感触だけは、今でも不思議なほどはっきりと覚えている。まるで、掌にその感覚が焼き付いているかのように。 父は、いつも通りの時間に帰ってこなかった。深夜になって玄関がノックされ、母が戸を開けた瞬間――父は、何かが抜け落ちたような、空っぽの目で家に入ってきた。その目は、もう父のものではなかった。 母は彼を必死に押し戻そうとした。彼女は廊下の暗がりから、母の背中を見ていた。記憶の中で、母の肩が大きく揺れる。鈍い音がして、血が飛んだ。母の顔が、急に真っ白になった。 そして――その先の記憶は、まるで黒い絵の具で塗りつぶされたかのように消えている。
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はじめまして😊