Maters

5 件の小説

Maters

まったりと書いていきます。

パルメニデス ギリシャの哲学者

「かくして・・・・全くあるか、全くあらぬかのどちらかでなければならぬ。」 すなわち→「あるはある」「ないはない」 断片2  今こそ私は汝に語ろう。  汝はこの言葉を聞いて心に留めよ。  まことに探求の道として、考えうるのは、ただこれらのみ。  そのひとつ、すなわち「ある」そして「あらぬことは不可能」の道は、説得の女神の道である~それは真理に従うものであるから~。  ほかの一つ、すなわち、「あらぬ」そして「あらぬことが必然」の道は、この道は、まったく知りえぬ道であることを汝に告げておく。  そのわけは、あらぬものを汝は知ることもできず~其れはなしえぬこと~、また言うこともできぬからである。 断片7  なぜなら、このことはけっして強いられることではないだろう。  すなわちあらぬものがあるということは。  いな、汝は、探求のこの道から、汝の思考を遠ざけよ。  また、牢固とした習慣が、汝をこの道につかせて、あてどない眼と、鳴り騒ぐ耳と、舌とを働かせるよう強いることがあってはならぬ。  むしろ汝は理(ロゴス)によって、私の述べた、論争的な駁論を判定せよ。 断片8。  道について語る言葉としてなお残されているのはただ一つ。  「行う」ということ。  この道にはきわめて多くのしるしがある。  すなわち、あるものは不生にして不滅であること。  なぜなら、それは一つの総体としてあり、不動で終わりなきものであるから。  それはあったことなく、あるだろうこともない、それは全体としてあるもの、一つのもの、連続するものとして今あるのだから。  かくして、それは全くあるか、全くあらぬかのどちらかでなければならぬ。  また、あるものの他に、なお何かがあらぬものから生じてくることを確証の力はけっして許さないであろう。  それゆえ正義の女神は足枷をゆるめて、それが生じたり減じたりするのを許さず、それを固く掴まえている。  これらについての判決は、以下の点にかかっている・・・  すなわち、ある、あるいはあらぬ。  だが判決は必然のことながら、こう下された  すなわち一方は、考ええぬもの、名指ししえぬものとして捨てるべし~~真なる道でないゆえに~~、だが他方は、これを真にあるもの、真実のものとしてみるべし、と。  あるものが後に滅びるなどということが、どうして可能であろうか。  生ずるということが、どうして可能であろうか。 ※ある人の論考  感覚的探究では真理には至れない。 女神の提示する三つの学び 1 玉なす真理の揺らぐことない心 2 死すべき者どもの真の信頼なき思惑 3 いかに思惑されることがらが、全てのものを不断に貫き通し、真実らしい在りようを   もたねばならなかったかを ※ある人の論考  己の運命や宿命から逃れられるただ一つの方法が哲学すること 断片3  なぜなら、思惟することとあることは同じことであるから 断片8  思惟することと思惟がそのためにあるところものとは同一である。  なぜなら、あるもの~~このもにもとづいてこそ、言表はなされてきたのだ~~なければ、汝は思惟を見出すことはないであろうから。まことにあるもの以外には、何ものもあることはないし、あることもないであろう。 ※ある人の論考  真理は知ることも語ることもできない

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ドイツ観念論に対する批判 ショーペンハウアーより

もし理性が、経験の領域を超え出て、つねに厳密な一致を可能にするような能力であるなら、人類の歴史において、そもそも宗教対立は起こりえなかったはずだ。  しかし現代にいたるまで、もろもろの哲学体系はつねに争いあい、宗教は常に異端を裁く牢獄を備えている。  このような状況において、もはや理性が形而上学的な能力であるという主張を行い続けることはできない。  そうした理性は、厳しく批判しなければならないのだ。

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ドイツ観念論に対する批判

もし理性が、経験の領域を超え出て、つねに厳密な一致を可能にするような能力であるなら、人類の歴史において、そもそも宗教対立は起こりえなかったはずだ。  しかし現代にいたるまで、もろもろの哲学体系はつねに争いあい、宗教は常に異端を裁く牢獄を備えている。  このような状況において、もはや理性が形而上学的な能力であるという主張を行い続けることはできない。  そうした理性は、厳しく批判しなければならないのだ。

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テスト WEB版

 私たちの心が何らかの形で触発された時に、心の内に像を受け取る能力が受容性であるが、この受容性を、感性と呼ぶことにしよう。  これに対して心には、みずから像や概念をつくりだす能力も存在しているが、これは認識に自発性であって、これを知性=悟性と呼ぶことにしよう。

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神(根源的存在者)を崇め奉る

 わたしたちが神の為にまず為すべきことは、わたしたちの心の中に神を祀る神殿を造ることだ。  その神殿は神以外のモノが存在しない様に注意すべきである。  わたしたちの心に様々な雑念が渦巻いているいるわけだが、唯一その神殿だけには何ものも入ってはいけない、その神殿は神のみが存在する場所であるからだ。  わたしたちの心の奥底にある神殿、そこには全ての根源的存在者である神が存在するのだ。  わたしたちは、それ故に孤独では無い、わたしたちは何か事が起きた際には神殿の中に入り神と対話することが可能だからである。  神の前では嘘などはつきたくてもつけないであろうし、その様な行為はわたしたち自身が許さないであろう。    神は私たちの目の前に存在するに在らず、私たちの心の深い奥底にある神殿の中に居られるのだ。

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神(根源的存在者)を崇め奉る