雁木ひとみ

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雁木ひとみ

全てフィクションです

人生60年時代(2)

「はい、よく頑張ったね」 看護師さんがやんわりと笑って、注射した腕に絆創膏を貼ってくれた。母にホルモン注射を打ちたくないと話して以来、ニ度目の注射だった。 「看護師さん、私、胸が大きくなったりしていくのどうしても気持ち悪いの。変かな?」 なよなよと話す私に、注射器を片付ける手を止めて言った。 「あら、楓ちゃんもそうなのね。最近そういう子多いみたいよ。大丈夫、みんなやってることだし楓ちゃんもそのうち慣れるわよ」 やっぱり、言うことは同じか。楓はまだ少し痛い気がする腕をさすりながらバレないようため息をついた。  楓はあれから、男子の目線が異常に怖く感じるようになった。注射は逃れられないとわかったので、せめてもの抵抗としてネットでサラシを買い、学校に行く際はそれを着けるようにしていた。毎日、毎日、締め付けられる圧迫感に気持ち悪さを感じていたが、あいつらの性の対象になるよりは遥かにマシだと思った。  楓には、男子の性的関心は日増しに強くなっているように見えた。教室で卑猥な話題を大きな声で話すことなど当たり前で、「クラスでヤるなら誰ランキング」などもノートに書き起こし、授業中に男子だけで回して遊んでいたのを教師に見つかり、クラス全体指導されたこともあった。だが性的関心があるのは男子だけではないようで、一部の女子も興味を持ち始めているのを楓は知っていた。特に、男子からクラス一の巨乳だなんだと陰で言われている吉岡静香は、男子とも積極的に関わることが多いためかなりの人気のようだった。そんな彼女は3学期が始まる前に学校を辞めた。噂では、他校の男子との子供を妊娠したなどと言われていたが、本当のことは誰もわからない。  「楓、そんな格好で寒くないの。受験まで一ヶ月切ってるんだから、今風邪なんて引いたら大変よ」 朝からバタバタと支度しながら母が私に言う。 「分かってるよ、もう。今ダウン出そうと思ってたの」 母の圧に当てられた私も口調が強くなってしまう。季節はもう12月。私の住むところは雪こそ降らないが、今から行くおばあちゃんの家は雪が降っているかもしれない。  お父さんのお母さん、つまり私の祖母が亡くなったと知らせを受けたのは昨日の夜のことだった。60歳まではあと2年あったはずだが、食べ物を喉に詰まらせ誤嚥性肺炎でぽっくりだったらしい。天寿まで後少しだったのに。父がポツリとこぼした言葉を楓はこっそり聞いていた。  母は義母と仲が良くなかったらしく、私も親戚付き合いなどはほとんど記憶にない。しかし父が線香だけでもというので、家族4人で朝からおばあちゃんの家に向かっている。 「何でお母さんはおばあちゃんと仲が悪いの?」 中学生の頃、父に聞いたことがある。 「お母さんはさ、楓を産んだ後、体調を崩しちゃってね。それで、2人目が産めないかもしれないってお医者さんに言われたんだ。でもどうしても子供が欲しいって言うから、人工授精って形をとったんだよ。それをおばあちゃんは自然に反する行為だなんだって大揉めしちゃったんだよ」 父はゆっくりと説明をしてくれた。私には、どこまで話していいのか探りながら話しているように聞こえた。  線香あげたら、とっとと帰るからね。お母さんはすでにピリピリしていて、こうなった母を誰も止めることはできないと知っているので私達はただ黙ってついていった。記憶より小さく感じたおばあちゃんの家にはたくさんの弔い客がいた。4人で線香をあげ、母は父と一緒におじいちゃんのところへ挨拶に行った。なんだかんだそういうことはするんだなと思いながら、私は部屋の隅に座り忙しく動く黒い人たちをぼうっと眺めていた。 「あなたも、千夜子さんのお知り合いかしら」 いきなり声をかけられ、反射的に背筋が伸びる。振り向くと背の高い女の人が立っていた。さらさらな黒髪を後ろで一括りにしている。こちらをまっすぐ見ている目はぱっちりしていて少し潤んでいる。肌は白く、つんっと上がった鼻先がどこか日本人離れした雰囲気を纏わせている。 「驚かせてしまったわね。私、大宮花子。千夜子さんのお姉さんの孫よ」 おばあちゃんのお姉さんの孫…?私からしたら何になるんだ?考えてもピンとこずとりあえず答える。 「河谷楓です。えっとおばあちゃんの息子の子供です」 言い終えると、そう、なら遠い親戚なのね、と花子さんは笑った。私はなんだか、この人の目から視線を外せなかった。吸い込まれそうなほど綺麗な瞳。長いまつ毛。綺麗、その言葉以外浮かばなかった。 「ねえ楓ちゃん。あなた、線香の香りは好き?」 なぜ今そんな質問を?なぜ私に声をかけたの?色んな疑問が頭に湧いたが、もうどうでもよかった。今はただこの人と話してみたい。何かが変わる予感が、楓には確かにあった。 「はい、好きです」

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人生60年時代(2)

白雪姫のファーストキス

 朝日が差し込み目が覚める。カーテンを捲ると青々とした空が広がっており、なんだか心も晴れやかだったから、死ぬなら今日だと思った。  「白雪姫はいいなあ。キスをされたら、目が覚めるんだから」  誰の言葉だっただろう。なぜ思い出したかもわからないまま、布団から這いずりでて、洗面所へ向かう。  朝の準備を済ませると、いつもより濃くメイクをした。普段は会社勤めなので薄くしているが、私はこれくらいばっちりとアイラインを引いた顔が好みなのだ。服は色々と迷った末、こんな時だからこそと翡翠色のワンピースを選んだ。ショーウィンドウに飾られている姿に一目惚れして買ったものの、なんだか恥ずかしくて一度も袖を通していなかったのだ。 「いいさ、今日は私、お姫様だから」   スマートフォンと財布を持ったことを確認し、家を出た。思ったより強い日差しにくらっとする。日焼け止めを塗り忘れたことに気付いたが、私は今から死ぬのだ。この際肌なんていくらでも焼いてやるさ。  駐車場に停められたオレンジ色の軽自動車。私の愛車。私はこの車に一目惚れをしたのだ。全体的にまるっこい愛らしいデザインに、中は思いのほかひろびろとしていて快適だ。なんと言っても色が良い。この半年はこの車のローンを返すために働いたといっても過言ではない。それくらい思い入れの深い物なのだ。  スマホに上司から何度も電話がかかっている。 「出てやるもんか。パワハラ野郎め」 鼻で笑い着信拒否にする。そして大好きな音楽をかけ車を発進させた。  私は何も病んでいるわけではないのだ。ただ出社しては詰められ、誰のためともわからない仕事を続け、自分を消耗品のように使っていく日々に嫌気がさしたのだ。子供の頃憧れていた仕事は、暴言と圧力で出来上がったものだったのだ。  どこまで行こう。この服で、このメイクで。私は今の私が人生で一番好きかもしれない。そうだ、お金はたんまりあるんだ。途中でコンビニに寄って買いたいものを買い漁ろう。いつもはカロリーも気にしてしまうが関係ない。ホットスナックも食べきれないくらい買ってやろう。お菓子だって。イケメンな店員なら連絡先も聞いてしまおうか。今ならそれをする勇気だってある。だって私は今日、お姫様なのだから。  最高のドライブだった。走ったこともない道を走り抜け、晩御飯は老夫婦がやっている山奥の小さなご飯屋さんで食べた。名物だというエビフライがとても美味しかった。さて、6時を回った。あたりは少しずつ暗くなっていくだろう。私はもう少し車を走らせた。  車一台分しかないのではというくらい細い道に入っところで、エンジンを停める。ここにしよう。頭は冷静だった。遺書も車にある。されてきた事、言われてきた事、全部書いてある。私の意思も。  ガードレールにロープを結ぶ。いつこんな日がきてもいいよう、ホームセンターで買ったものを車に積んでいたのだ。ガードレールに結んだ反対の端末を輪っかの形に結び、頭を通す。あとは飛び降りるだけ、ここは崖のような斜面になっているから、足も着かないだろう。深呼吸をする。  ぎちっ。  私は頭の中で童話の白雪姫を思い出していた。  

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白雪姫のファーストキス

人生60年時代

もし、人間の寿命が60年と決まっていたとしたら 例外なく、60年で死ぬとするならば、あなたは何を幸せとして生きていきますか その幸せはあなたにとっての幸せと言い切れるんでしょうか  「私ね、将来お嫁さんになる。子供は2人いてね、イケメンのダンナさんと、ママとパパで暮らすの」  そう言った私の頭を撫でながら母は、「賢いね、楓は親孝行者だわ」と柔らかく笑ったのを覚えている。窓からアネモネがみえたので春頃のことだっただろうか。  何で急にこんなこと思い出したんだろう。アラームを止めながらぼんやりと考える。ああきっと昨日のことのせいだ。夏休みの課題として出された作文、テーマは「将来について」。書いたはいいが、私は提出を躊躇っていた。笹原はその作文を勝手に取り上げたかと思えば、大声で読み上げ、私はクラスの笑い者にされたのだ。悲しさと恥ずかしさと怒りが込み上げ、家に帰ってすぐ作文は破り捨てたのだった。 「昔はそんなことする奴じゃなかったのにな」  ひとりごちながら着替える。朝といえどもまだまだ暑い。  一階に降りると弟の俊介はもう朝食を済ませていた。遅かったねと一瞥もくれずに言う。携帯をいじりながら険しい表情をし、くそっ!って言い放ったかと思えば、だるそうにスポーツバッグを肩にかけ朝練あるから先行くわと家を出て行った。中学に上がり野球部に入った俊介は毎日朝練に励んでいるようだ。毎日よくやるよなあと思いながらテーブルに用意されたパンに齧り付く。 「今日はゆっくりめなのね」  母が自分の分をテーブルに運びながら言う。私はうぅんと唸るような返事をしながらテレビを眺めていた。きっちりと髪を分けたアナウンサーが、はきはきとした声で話している。テロップには大きく「人生60年時代の生き方について」。人は60年で死ぬ、それは子供の頃から私だってわかっていたが、まだ4歳そこらの私には遠い遠い先の話で60年なんてまだまだあるじゃないかと思っていたものだった。 「つまりね、たった60年しかない人生をどう生きるか!これが人としての幸せに直結すると思うわけですよ。私はね、子供が5人生まれて、本当に幸せだったんです。今では孫も遊びに来てくれてね、これが幸せなんだと実感する毎日なんですよ」  白髪まじりのコメンテーターが何やら熱く語っているが、何をどうしていきなりそうなったのかぼんやり聞き流していた私には分からなかった。しかし母は違ったようで「そうね、私ももうそんなに長くないし、あとは孫の顔を見れればねえ」 と頬杖をつきながら言うのであった。  学校に行く途中、何度も引き返そうか迷った。行ったところでどうなるかはわかっているのだ。だが母が休ませてくれるわけもない。受験を控えているのだから成績に響いてはいけないと言うはずだ。 「はあ、」  何度目かも分からないため息をつきながら校門をくぐる。私立桐ヶ丘中学校、俊介と私が通う学校だ。この町では一番大きく、いわゆるマンモス校であるが、それゆえに色んな人間がいるのだ。良くも悪くも。 「おはよう〜」  後ろから声をかけられて振り返ると吉岡奈々美が気だるげな目で笑っていた。 「おはよう奈々美」  彼女はいつも甘ったるい声で話すので私は彼女といるとトゲトゲしい心を落ち着かせることができるのだ。 「昨日は大変だったねえ、笹原のせいで」  私が朝から抱えていたことにあっさり触れてくる。このマイペースさが彼女のいいところでもあるのだが今はそこが少し憎たらしかった。「昔はあんな奴じゃなかったんだよ。私のことも楓ちゃん楓ちゃんって呼んでたくせにさ」  そういうと奈々美は、 「そっか。かえちゃんと笹原小学校一緒だったんだもんね」 と言う。そう、もともと私と笹原は仲が良かったのだ。  クラスに入った途端男子数名がこちらをニヤニヤ見てるのがわかった。すると案の定、私が来たことに気づいた笹原が半笑いで言う。 「お!独身貴族じゃん!今日は1人じゃないんだ」 どっと周りの男子が笑う。奈々美も気まずそうに、気にしなくていいからねの目線を私に送ってきた。こんなことなら書かなきゃ良かった、昨日から何度目かの考えに朝から至るのだった。  私が作文に書いたのは、将来世界を周りたいというものだった。様々な文化を人をこの目で見たかったのだ。たった60年の人生なのだから。だがそれをみた笹原は笑った。 「世界を周る?何のためにだよ。お前女だし見たってなんにもならないじゃん。ていうか世界回るなら家庭とかどうするの?もしかして、独身?今の時代に?やっば、お前、独身貴族ってやつ?」 がらがらの声でクラス全体に聞こえるよう言った。笹原の取り巻きを含め、クラスのあちこちでクスクスと笑う声が聞こえた。今の社会で女性が未婚でいたいと思うことはこれほど笑われることなのだ。それもそうなのかもしれない、だって皆知っていることなのだ。幼稚園の頃から教えられることなのだ、お箸の持ち方のように、お友達と仲直りをする方法のように、お歌の歌い方のように、人間という生き物について、当たり前のように教えられた。 「楓ちゃん、人っていうのはね、60年しか生きられないの、60年生きたらね、もうバイバイしちゃうんだよ、だからね、楓ちゃんは早いうちに運命の人とあって結婚できたらいいね」 幼稚園の先生も笑顔でよくそう言っていた。今の時代、子を持たない、結婚をしたくないというのは異端も異端なのだった。それを中学の作文で書いてしまった私は卒業まできっと笑い者なんだろう。  「本当ねちっこいよね」 イラつきながらカレーパンに齧り付いているのは菊田望。笹原グループの嫌がらせについて怒ってくれてるらしい。 「でもなんでかえちゃん結婚したくないの?子供が嫌いとか言ってたっけ?」 パックのジュースを吸いながら奈々美が聞いてくる。 「いや別に嫌いとかは無いんだけどさ、子供産んだら18年は育てなきゃいけないじゃん。男の子なら大学も行くかもしれないからもっとだし、2人、3人いたら私の人生の時間どんどん無くなっちゃうって考えちゃってさ」 そう言うと、 「でも子供がいたらそれだけで幸せなんじゃないかな。うちのママも私が生まれてきてくれて幸せっていつも言ってるし」 奈々美が言うと、 「あたしは絶対結婚するけどね。高校中にイケメンの彼氏作ってー、卒業したら即結婚!子供産まれたら1人につき結構な額もらえるんでしょ?3人は欲しいな〜」 望が油できらきらさせた唇で言う。 「そういうもんなのかなあ」 ぶつぶついう私をもう2人とも気にしていないようだった。昼休みが終わる頃、望は早退していった。今日はあれの日らしい。私たち女の子は初潮が来たタイミングでカウンセリングを行う。心と体の健康を見ながらホルモン注射を行うことが義務付けられているのだ。楓も最初は定期的な注射が怖かったが今はもう慣れたものだ。  教室に戻ると男子はもういなかった。そうか5限は保健体育だった。私が生まれる前の大きな法改正により学校の教育体制も変わったのだという。中学での保健体育の時間は男子は主にグラウンドや体育館で体力作り、女子は教室で育児についての授業や、たまに調理実習などがある。今日は授業だったので適当に聞き流しているうちに睡魔に襲われ、楓はそのまま眠りについてしまった。起きた時授業はほぼ終わりかけ男子は外からちらちらと帰ってきていた。男子更衣室に向かう群れの中でぽつりと、 「河谷の胸でかくね?」 誰かが言った。がつんと殴られた気分だった。頭がぐわんぐわんと回り寒気がした。眠たくて朦朧としていた意識がはっきり目覚め、同時にいい表せない嫌悪感が全身を巡ったのがわかった。おいやめろって聞こえるぞ、笑いながら遠くなっていく男子の声を聞きながら、私は自分に起きたことが何なのか理解が追いついていなかった。家に帰るとすぐ服を脱ぎ鏡の前にたった。あの言葉が頭から離れない。気持ち悪い気持ち悪い。私はそんな目で見られていたのか。男子が女子を性的に見始めていることは知っていた。だがそれはクラスの可愛い子達だけではなかったのか。いざ自分に向けられるとこんなに気持ちが悪いのか、声のトーンまで鮮明に思い出せる声を聞きながら楓は見慣れたはずの自分の体を見続けていた。  「ホルモン注射したくない?」 その日の晩御飯の後、父と俊介がいなくなったタイミングを見て母に打ち明けた。洗い物の手を止め母は私に聞き返した。 「副作用でも出た?前回は一月前だったかしらね」 そういって洗い物に戻ろうとする母に、 「何だか、体が変わっていくのが気持ち悪いの、あれ、打たなきゃだめ?」 学校であったことは言わず、できるだけ隠して言った。母はケロッとした様子で 「もちろん打たなきゃよ。じゃなきゃ子供を産めないでしょう。変化で驚くことは、誰だって経験するものよ」 この子も年頃ねえといった母の様子に、楓はただ黙って俯いていることしかできなかった。

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