鍵
───まずい。冷や汗をじんわりとかきながら教室の前に立ち尽くしていた。なぜ私がこんなにも絶望しているのかというと、教室の鍵が開かないから。
それだけ?って思う人もいる、というかそう思う人がほとんどだと思う。だが私にとってはかなりの大問題なのだ。
まず私は朝早く学校に行くタイプで、いつも一番最初に学校に着いて教室の鍵を開けているのもいつも私。つまり、あと約30分ほど待たないと誰も学校に来ないということだ。
そして朝一番に学校に来て私はしなきゃいけないことがある。教室の掃除だ。
うちのクラスの人たちはどうやら掃除に熱心になる、という思考が無いらしく、毎日の掃除が疎かになっていた。潔癖症である私にとってそれは結構嫌だった。
そういうわけで私は誰も来ない時間帯に来て1人で掃除をするのが日課になっているわけだが、今日はその日課が出来そうにない。どうしたものか、と教室の前で鍵穴に差したままの鍵をぼーっと見つめていた。
1分に1回ほど鍵を開けられるか試したが、何度やってもやはり鍵は開かず、かく必要の無い汗を無駄にかいてしまった。
これはかなりまずい、誰かが来て鍵が開いたとしても、人がいる場所で掃除なんて絶対に嫌だ。クラスの空気を読まないと、クラスメイトたちから省かれてしまう。
鍵と格闘して約15分経った頃、私たちの教室があるフロアに向かう足音が聞こえてきた。
今日の掃除は諦めて、今来てるはずの誰かに開けてもらおう、と思っていたところに、1人の生徒がやってきた。
「───あれ、白川さん?何してんの?」
びっくりして声の方を向くと、クラスメイトの男の子、黒山くんがいた。
「...あー、えっと、教室の鍵が、開かなくて...」
黒山くんはクラスのリーダータイプで、人と話す時相手の目をじっと見つめてくるタイプだ。
私はというと黒山くんとは正反対で人と話す時相手の目を全然見れない。だから極力目を合わせないように鍵の方を見ながら言った。
「え、まじ?そんな硬いの?...あーでも、たまにあるよな、自転車とかの鍵が全然開かない日」
そうなのか?とは思ったが口には出さず、適当にそうなんだよねー、みたいな返事をした。
「先生呼ぶかー...って、白川さん、手真っ赤じゃん、大丈夫?」
そう言いながら突然手を掴まれて、私は一瞬何が起きたのか分からなかった。私の手を優しそうに握り直した黒山くんの顔は、なんだかすごく心配そうだった。
「え、あ、うん。鍵頑張って開けようとしてたら、赤くなっちゃって」
「ダメじゃん!そういう時は誰でもいいから誰かに頼らないとさ。...うーん、血は出てないみたいだけど、皮むけてるとこあるなー...」
軽く叱られた私は、黒山くんって、優しいんだな。なんて思っていた。
「じゃあ俺、先生呼んでくるから!ちゃんと手洗えよ?あ、あと血が出たら言えよ!絆創膏持ってっから!」
と言って私の手からそっと離れて、走って職員室に向かって行った。
───それから5分も経たないうちに、黒山くんは先生を連れて戻ってきた。
「あ、先生ここです。全然開かないらしくて...」
「そうか、分かった。...本当だ、全然開かないな。...とりあえずスペアキーで開けておこう。あとでその鍵は修理に出しておく」
それだけ言って先生は鍵を開けてすぐにどこかに行ってしまった。
「よかったなー、鍵開いて」
「...あ、うん。...えっと、あ、ありがとう。先生の所に行ってくれて」
「え?別にお礼なんていいよ、放っておくわけにはいかないじゃん?大事なクラスメイトなんだし。...あ、そうだ。ずっと聞こうと思ってたんだけどさ、白川さんっていつも早く来てるみたいだけど、早く来て何してんの?」
黒山くんはそう言って自分よりもかなり小さい私を不思議そうにじっと見つめていた。
「...えっと、その、掃除、してて...」
「掃除?え、毎日わざわざ早く来て教室の掃除してんの?」
「う、うん...変、だよね...」
「いやいや、全然変じゃないよ!むしろすげえと思う!だって俺、掃除とか苦手だし、1人の時にしてるってことは目立ちたいって訳でも無いみたいだし、俺は全然いいと思う!」
「そ、そう、かな...」
「そうだよ!!ありがとう、白川さん!」
そう言いながら黒山くんは私の手を勢いよく握ってきた。
「え、あ、どういたしまして...?」
どうしよう。私、こういう時どうしたらいいのかなんて分からない。なんていうか、こんなに褒められるとは思っていなくて、恥ずかしくなった。体が熱くなっていくのを感じた。
「あっ、いいこと考えた!今日から俺も掃除手伝うよ!」
黒山くんは私の手を握ったまま瞳をキラキラさせてそう言った。
「え?そんな、悪いよ...自分で言うのもなんだけど、私来るの結構早いし...」
「そんなのいいよ!俺が早起き頑張ればいいだけだし、それに、えっと、白川さんと仲良くなりたいなーって思ってたし」
一瞬理解が出来なかった。私と仲良くなりたいなんて、そんなことを思う人がこの世界にいるわけが無い、そう思っていたから。
「わ、私と仲良くなりたいって、それ、本気で言ってるの...?」
「?そうだけど...ダメ、だった?」
悲しかったのか肩を少し落として首を傾げていて、目は心做しかうるうるして見えた。その様子を見てなんとなく子犬みたい...と思ってしまった。
「...え、あ、いや、ダメとかじゃなくて、私と仲良くしてもいい事なんて無いと思うから...」
「何言ってんだよ、人と仲良くなることにいいことも悪いことも関係ねえよ。...あと、俺にとってはめちゃくちゃいいことだから...」
「...?どういうこと?」
「っな、なんでもねえよっ...!...ほら、さっさと掃除するぞ」
顔が少し赤いし、何か意味深な感じがして気になったけど、まあいいか、と思ってそれ以上は何も言わなかった。
───今思えば、この時から黒山くんは、私に何かただの友情とは違う感情を抱いていたのかもしれないと、思う。