鞍馬
10 件の小説穴がある部屋⑩(終)
⑩ 子どもの頃に思い描いた将来の夢を、叶える人間はどのくらいいるのだろう。 きっと、考えるよりずっと少ない。 だって、人生は永い。みんな少しずつ成長して、大人になって、現実をみて、幼い頃の自分がどんなに世間知らずで、大胆不敵な愚か者であったのかを知る。 だけど、少しだけ。 そんな愚か者が、どうしようもなく羨ましくなるときがある。 * サッカーボールを抱えて、空は運動公園に来ていた。 あれこれ考えることは、もうやめた。翼を信じる。空にできることは、それだけだった。 翼がサッカーが好きだと語ったあのとき。ドリブルを教えると言ったからには、今のままではいけない。勘を取り戻さなければならない。 空は、翼と交わした言葉を一つ一つ、大切に回想していた。 「……あれ?」 そして、僅かな違和感に気づく。 会話内容の記憶を、頭の中で反芻してみる。 ――俺も好きだな、遠藤。いて欲しいところにいるんだよな。まさに中盤の支配者って感じでいいよな ――だよねーっ! あのズバッとパス通すのとか……って、兄ちゃんもサッカー好きなの? なにかおかしい。 違和感が大きくなった。 例えるなら、服のボタンをかけ違えているような。 翼は日本代表で好きな選手に遠藤選手、感動したゴールに「ガーナ戦のゴール」を挙げていた。 空はスマホでインターネットブラウザを開き、サッカー日本代表のデータベースを閲覧する。 代表親善試合 2025/11/14(金)19:20 豊田スタジアム 日本 2 - 0 ガーナ 得点者 前半16分 南野 拓実(日本) 後半15分 堂安 律(日本) 空は遠藤航選手を思い描いていた。現在、サムライブルーの遠藤といえば、彼だからだ。 しかし、遠藤航はこのガーナとの試合でゴールはしていない。 それどころか、出場さえしていないのだ。 そして、空は思い出す。サッカー日本代表には、もう一人「遠藤」の姓を持つ者がいたことを。 すぐにデータベースで調べる。 キリンチャレンジカップ2013 2013/9/10(火) 19:20 横浜国際総合競技場(日産スタジアム) 日本 3 - 1 ガーナ 得点者 24分 フランク・アチェアンポング(ガーナ) 50分 香川真司(日本) 64分 遠藤保仁(日本) 72分 本田圭佑(日本) 遠藤保仁は、一二年前の二〇一三年九月一〇日、親善試合でガーナ相手にゴールを決めていた。 違和感の正体が掴めた。思い違いがあったのだ。この二人は、苗字こそ同じだが、プレイスタイルは全く違う。遠藤航は相手からボールを奪うことに長けた選手であり、ピンチになるのを未然に防ぐ役割を持つ。 対して遠藤保仁は、正確無比なパスや巧みな技術でゲームをコントロールする司令塔。 ――だよねーっ! あのズバッとパス通すのとか……って、兄ちゃんもサッカー好きなの? 翼が語っていたのは、遠藤保仁のほうだったのだ。 空は更に、この考えを裏付けるべく、翼との会話で登場したアニメやマンガについても調べた。 『妖怪ウォッチ』2014年1月8日テレビアニメ放送開始。 『アオハライド』集英社・別冊マーガレット2011年2月号~2015年3月号。 『君に届け』集英社・別冊マーガレット2006年1月号~2017年12月号。 『orange』集英社・別冊マーガレット2012年4月号~12月号、双葉社・月刊アクション2014年2月号~2015年10月号。 全て、二〇一〇年代に流行したものだった。 「年代が、違う」 空が話していたのは、一二年前の翼だった。 あの穴は、過去と繋がっていたのだ。病院にいるはずがない。一二年経っているのだから……。 そして、もう一つ。 二〇一一年、なでしこジャパンがワールドカップを優勝したことで、女子サッカーが大きくメディアに取り上げられた瞬間があった。 ・・・ 女の子である翼が「ワールドカップで優勝したい」と思うのは、その経緯を踏まえると、ごく自然なことだろう……。 そのとき、一台の車が運動公園の出入口に停まった。 どこかで見たような車種で、空は視線を離せなくなる。 「ありがとうございました」 後部座席から出てきたのは、式島だった。彼女は運転席の磯崎にお辞儀をする。 「まったく、公私混同も甚だしいな」 とげとげしい台詞とは裏腹に、磯崎の顔は笑っていた。そんな顔ができるのかと、空は驚いた。 「やっぱり、ここにいらっしゃったんですね」 空に駆け寄った式島は、柔らかな笑みを浮かべる。 「はい」 「サッカー、やるんですね」 「はい。今まで、諦めたふりをしてたんだって気づいたんです。体が動く限りは、やり続けようと思います」 「いいと思います。それで」 「今日は、どうしたんですか」 「貴方に、返したいものがあるんです」 式島が掌を突き出した。 そこにあったのは、見覚えのあるキーホルダーだった。 サッカーボールを象った、古ぼけたキーホルダー。 驚いた空は、弾かれたように式島を見る。 「なんで」 「始めは、淡い希望だったんです」 式島はゆっくりと話し始めた。 「そんな奇跡があったらいいなって、そんな思いで東京のマンション管理会社に就職しました。本当に『カーサ・アルドーレ』の名前を見つけたときは、胸がドキドキして……止まらなかったんですよ」 式島は溢れそうになる涙を掌で拭う。 「担当になれるように頑張りました。そしてようやく、あなたを見つけたんです。あのとき、母のお腹には弟がいて。私のお見舞いどころじゃなかったものですから、本当に心細かった。あなたが穴の向こうで声をかけてくれたから、私は今、ここにいるんだと思います」 空はその瞬間、全てを察した。 キーホルダーに刻印された年月日。 その意味を考えれば、翼もまた、時間のズレに気づいたはずだ。 空が未来の存在なのだと、気づいたはずだ――。 「また会えたね、ソラ兄ちゃん」 式島の声が、耳の奥で翼のそれと重なった。 空は革ジャンのポケットに手を入れる。 穴が出現して、管理会社に連絡したあの日、式島から貰った名刺が、出されずにそのままになっている。 取り出して、目を落とす。 【株式会社エバーレジデンス マンション管理課 式島 翼】 〈了〉 ※本作品はフィクションです。作中に登場する実在の人物、団体、創作物等は、時代背景を表現するために引用したものです。
穴がある部屋⑨
⑨ 穴がなくなって、何日か経った。 毎日、夜一〇時がくると、なんとなくベッドに乗って壁にもたれてみる。 今に穴が開いて、あの無邪気な声がするんじゃないか――そんな淡い希望を抱きながら。 何事もないまま土曜日がきて、午前中を何かするでもなく、ベッドに寝転んで過ごしていた。 消えてしまった穴があった場所を見て、寂しさを覚えながら、デスクに置いていた一〇円玉を何の気なしに摘まみ上げる。白い紙に包まれた一〇円玉は、あの日翼から返されたものだ。 「この紙……」 包み紙をいじっていると、それが、ただの白い紙ではないことに気づく。表にテキストが印刷されたもので、裏にメモ書きが仕込んである。 『ありがとう』 手書きで書かれたそのメモが、翼からのお別れのメッセージなのだと分かった。きっと、翼は察していたのだろう。転院することになり、もう空と話せなくなることを。 空は紙を裏返し、印字されている無愛想な明朝体に目を走らせた。 * B—706の患者様へ 朝食 7:00 朝の検温 8:00 昼食 12:00 昼の検温 13:00 夕食 18:00 夜の検温 19:00 消灯 21:30 消灯時間には必ず病室に戻ってくださいますよう、お願いいたします。 * その書類は、患者に配られる入院のしおりだろうと思われた。 『B—706』は部屋の番号だろう。 そこで、空は思い当たることに気づいた。 急いでパソコンを起動する。 グーグルマップを開き、かつて自分が遊んでいた古びた公衆電話の場所――古びた商店街の入り口を拡大する。 【皐月が原総合病院】 電話ボックスがあったと思われる場所のすぐ横に、その病院はあった。 何の確証もない。 だが、ここに行けば、翼と会えるのかもしれない。 強くそう思った。 * 昼過ぎ、駅に向かう。電車を乗り継ぎ、降り立ったホームの懐かしさに胸が疼く。 実家のある街だった。 駅を出て、タクシーを拾う。やたらに広く、坂の多いこの街を移動するには、車が一番手っ取り早いと知っていた。 件の病院名を伝えると、運転手は軽やかな相槌と共にセンチュリーを発進させた。 数十分、走り続けていただろうか。 車窓から見える景色は、あの頃のままのようで、少しづつ違った。あったはずの店が消えていて、なかったはずの大型チェーンが建っていた。 あの電話ボックスは、確かこの辺りに——。 「あっ、すみません。一旦ここで停まってください」 古びた商店街。アーケードの看板はところどころが錆びている。見覚えのある風景だった。 グーグルマップでも、現在地を確認する。……間違いない。ここだ。 空はタクシーから降りる。 公衆電話は、影も形もなかった。 首を振って周囲を見ても、古ぼけた民家が軒を連ねているだけだった。 立ち尽くす。 あったはずの場所には、何もない。 ただ、舗装された歩道があるだけだった。 「なんで……」 「お客さん、ここで降りるの?」 「ああ、すみません」 運転手に問われて、クレジットカードで支払いを済ませる。 走り去っていくタクシーを見ながら、空は途方に暮れた。少し歩いても、見つからない。 本当に、消えてしまっている。 少し考えて、近くの実家に向かった。目と鼻の先である。 玄関を開けると、洗濯物カゴを抱えている母親と目が合った。 「空。あんた、どうしたの、急に」 物凄いスピードで移動する亀を見たような目で、母はカゴを床に置いた。 「ちょっと聞きたいことがあって。あの公衆電話、知ってる? 商店街の入り口にあった、古いやつ」 「――ああ、あれね。つい最近撤去されたよ」 「最近って、いつ?」 「そうねえ……一週間くらい前かしら。もう誰も使わないからって」 空は膝から力が抜けるのを感じた。 「そう、か……」 母親は不思議そうに空を見る。 「どうかした?」 空は少し迷ってから、話すことにした。 部屋にいきなり現れた穴のこと。 翼という子どもと話していること。 その穴が、もしかしたら……あの公衆電話なのかもしれないこと。 母親は黙って聞いていた。 馬鹿にするでもなく、心配するでもなく、ただ静かに。 「八百万(やおよろず)の神々っていうでしょ」 母親は穏やかに言った。 「もしかすると、あの公衆電話には神さまが宿っていたのかもしれないね。散々使ってくれたあんたにお礼がしたかったのかも」 笑いながら、どこまで本気なのか分からないことを言う。 「神さま、か……」 「そうよ。あんた、あの電話ボックスでよく遊んでたじゃない。友達に悪戯電話したり」 「うわ、覚えてたのかよ」 空は苦笑する。母も笑った。 「だから、お礼なんじゃないの。恩返しに、何か大切なものをくれたんじゃないかしら」 大切なもの。 翼とのやり取りが脳裏に浮かぶ。 あの子との会話で、何を得たのだろう。 あの穴がくれたもの。自分がずっと目を背けていたもの。見えているのに、見えないふりをしていたもの。 「ありがとう、母さん」 空は実家を出て、来た道を引き返した。 電話ボックスのあった場所と思われる場所。病院に隣接する商店街の端っこ。 そこに十円玉をそっと置いた。 お供え物になっているのかは分からなかったが、こうするのが正しいと思った。 手を合わせて、それから。 病院へと向き直る。 * 皐月が原総合病院は、年期がはいった建物だった。黒ずんだコンクリートが、病院としての歴を感じさせる。 空は受付で尋ねる。 「B棟の七〇六号室に入院している方に会いたいんですが……風祭空が来たって言うと名前で分かると思います」 「少々お待ちください」 受付の女性がパソコンを操作する。 空の心臓は早鐘を打っていた。 間に合ってくれ。 「申し訳ございません。現在、B—七〇六号室には患者様は入院されておりません」 受付の女性が申し訳なさそうに言った。 「え……?」 空は言葉を失った。 「もしかして、転院ですか?」 「申し訳ございません、詳細は個人情報保護の観点からお答えできません」 職員の冷たい声が、静かな院内に一際響くような気がした。その眼差しが空を訝しんでいるように感じられ、慌てて踵を返す。 「ありがとうございました」 空は病院を出た。頭の中は濃い靄がかかっているのに、故郷の空は気持ちいいくらいに晴れていた。 翼はもう、病院にはいなかった。 あるいは、ここにいるという考え自体が間違っていたのかもしれない。 天を仰ぐ。 名前も知らない鳥が、翼を広げて、ビルの陰に消えていく。 (⑩に続く)
穴がある部屋⑧
⑧ その夜も、空は穴から、翼の声を聴いていた。 「ねえ、ソラ兄ちゃん」 「ん?」 いつもとは違う、緊張気味な声色だった。 「あのね……来週、ちがうビョーインにいくことになったんだ」 「え?」 思わず穴を凝視する。暗闇は、相も変わらず先が見えない。 「もっとセンモン的なちりょうをするんだって。先生がいってた」 「そうか……それは、いいことなんだよな?」 「うん。ガッコウにいけるかもしれないって」 翼の声は明るいけれど、どこか寂しそうだった。 「でもね……」 「でも?」 「もう、サッカーは出来なくなっちゃうかもしれないんだって」 空は息を呑んだ。 「チリョウの副作用で、体がうごかなくなるかもしれないって。先生が、父ちゃんにせつめいしてるの、きいちゃった」 「翼……」 「ダイジョーブ。またふつうにくらせるなら、それでいいって思ってる。でも、ちょっとだけ……かなしいかな」 翼の声が震えている。 空は何と言えばいいのか分からなかった。 ただ、胸が締め付けられる。 「翼、ちょっと待ってろ」 空は立ち上がり、カバンの中をまさぐる。 小ポケットの奥から、小さなプラスチックケースを取り出す。 中には、サッカーボールを象ったキーホルダーが入っていた。 裏には製造年月日が刻印されている。 かなり古いものだったが、空にとって、これはお守りのようなものだった。いつもカバンに忍ばせていた。 穴に近づき、キーホルダーを放り込む。 「え? 何かおちてきた……これ、キーホルダー?」 「サッカーやり始めた頃、初めて出た大会の参加賞。お前に貸す。お守りとして持っててくれ」 「え……でも、いいの? たいせつなものなんでしょ?」 「だから、渡すんだよ。翼なら、きっと返してくれるだろ」 空は力強く言った。 「だから、諦めるな。絶対」 翼は少し黙っていた。 そして、声が聞こえる。 「ありがとう、ソラ兄ちゃん」 その声は、さっきまでと違って、力強かった。 「がんばる。ゼッタイに元気になって、サッカーする」 「ああ」 「やくそくだよ」 「約束だ」 しばらく沈黙が続く。 そして、翼が言った。 「あの、これ」 穴から何かが落ちてくる。 それを拾い、包み紙を解くと、焦げ茶色が目に入った。 「まえに入れてくれた一〇円。かえすね」 「いや、別にいいのに」 「こっちと、そっちに、いってかえった一〇円は、こうやって、トモダチになれたことのしるしだから。ソラ兄ちゃんにもっててほしい。ずっと」 空は紙に包まれた一〇円玉を握りしめた。 そんなわけないのに、心なしか、温かいような気がした。 「ビー」と機械音が鳴る。 今日も、時間が来た。 「じゃあね、ソラ兄ちゃん。またね」 「ああ、またな」 穴が閉じる。 そして、その穴が開くことは、もうなかった。 翌朝、目を覚ますと、穴は何事もなかったかのように消えていた。 (⑨に続く)
穴がある部屋⑦
⑦ 翌日は、会社の創業記念日で休みだった。 空は朝から運動公園に足を運んだ。 平日の昼間だけあって、人影はない。 腕には道中で購入したサッカーボールを抱えている。真新しいボールの手触りが、懐かしくて少し切ない。 空は公園の一角に聳え立つ大きなコンクリートの壁に相対した。 これはスケートボードパークといって、表は大きく歪曲した形になっている、本来ボードを走らせる用途で作られているものだ。 その裏側が垂直な壁になっている。 幼い頃、似たような場所をボールの壁当て練習に使い込んだ。 固い地面に真新しいボールを置く。見慣れた光景のはずなのに、まるで生まれて初めて見るような気分だった。 空は右足の義足を外す。両脇に抱えた杖を握る。アンプティサッカーでとられる体勢だった。 昨日の夜、翼と話したあと、ネットで調べたのだ。動画を何本も見た。 できるかどうかは、分からない。 でも、やってみたかった。 空は左足のインサイドでボールを蹴る。 真っ直ぐに転がったボールが、コンクリートの壁に跳ね返って戻る。 それをトラップする。 たったそれだけのことなのに、ジグソーパズルの最後の一つが収まるように、胸の奥が躍った。 空は再び、ボールを蹴る。 しかし慣れないやり方で、バランスを崩してしまう。 杖がずるりと地面を滑り、平衡感覚を失う。 したたかに体を打った。 「ちくしょう!」 悔しさに地面を叩く。掌にじわりと痛みが広がって、馬鹿なことをしたと思った。 「風祭さん!」 そのとき、空の前に見知った顔が姿を見せた。 管理会社の式島である。 「式島……さん」 「大丈夫ですか?」 式島は、打撲を負った空を支え、一緒にベンチに座った。 「ありがとうございます。あの、どうしてここに?」 「いえ。あの……」 式島は何を言えばいいのか分からないといった風で、口ごもる。 何か変だ。古本屋といい、ここといい。偶然が何度も続くだろうか。 「尾行してたんですか? 俺のことを」 その問いに、式島は顔を青くして俯いた。 「すみません。実は磯崎さんに、風祭さんの様子を見るように言われていまして……もうしませんので、ご容赦ください」 正直な告白に、怒る気すら失せてしまう。 「いいですよ。磯崎さんにとっては、俺はただのヤバい奴だろうから」 自嘲気味に笑う。式島は首を横に振った。 「そんなことありません」 「いや、壁に穴が見えるとか言ってる奴ですよ。普通じゃないでしょ」 「でも……」 式島は言葉を探すように、少し黙った。 冬の風が二人の間を吹き抜ける。 「私、風祭さんは、嘘を言ってるわけじゃないと思います」 式島の言葉に、空は顔を上げた。 「……でも、見えないんですよね」 「はい。私にその穴は見えませんけど、きっとそれは実際にあって、風祭さんにだけ見えるんだと思います」 式島は真っ直ぐに空を見つめている。 変わった人だな、と思いながらも、その眼差しの温かさには、少しだけ安心感を覚える。 空は深く息を吐いた。 「なんであんな穴が見えるのか、それはまったく想像がつかないんですけど。思ったことがあるんです。……俺のここに、穴が開いてるからなんじゃないか、って」 空は自分の胸をトン、と叩く。 「心に、ということですか?」 式島の問いに頷く。 「人生、思うようにいかないんです」 ぽつりと呟く。 「本当に望んだものには届かない。俺、サッカーが好きだったんです。ずっと続けるつもりだった。でも、事故で……こうなって」 右足を見る。式島も視線を落とす。 「それで諦めたんです。サッカーも、夢も、全部。高卒で就職して、なんとなく生きてきた。でも最近、また……」 言葉が詰まる。式島は静かに待っている。 「また、やりたくなってきたんです。サッカーが」 それを口にした瞬間、胸の奥に溜まっていた何かが溢れ出しそうになった。 「思うようにいかなくたって、いいじゃないですか」 式島はゆっくりと言った。 「案外、何とかなりますよ」 その言葉に、空は式島を見た。 「私だって子どものころは、こんな職業につくなんて思ってもいませんでした」 式島は遠くを見るような目をする。 「もっと、キラキラした将来を夢見てました。小学校の卒業文集に書くような、口に出すのは、ちょっと恥ずかしいような。それは叶いませんでしたけど、後悔なんてありません」 式島は空を見て、微笑んだ。 「結果的にこれでよかったって思います。結局、人生の選択肢を狭めているのは、自分自身だったんだなって、今では思います」 その言葉は、空の胸に引っかかっていた氷柱をゆっくりと溶かしていった。 「ありがとうございます」 空は素直に言った。 式島は少し照れたように笑って、立ち上がった。 「それでは、私はこれで。お大事にしてください」 「はい」 式島の後ろ姿を見送りながら、空は思った。 不思議な人だ。 天然で、ズレているようで、でも、核心を突くことを言う。 そして何より、温かい。 空はもう一度、サッカーボールを見た。 今度は転ばないように、ゆっくりと蹴ってみる。 ボールが壁に当たって、戻ってくる。 それを、トラップする。 ボールを蹴る。 トラップする―― (⑧に続く)
穴がある部屋⑥
⑥ 夜一〇時、穴を通して空と翼の会話は始まった。 「へへ。またあえたね、ソラ兄ちゃん」 「会ってはいないけどな」 「てゆうかこの穴、ちょっとしたらふさがっちゃうんだね」 「そうみたいだな。で、また夜一〇時に開くらしい。よく分からないな」 「なんなんだろう。どうして兄ちゃんとつながったんだろう。おもしろい。……ほんとにヨウカイじゃない?」 「だから違うって。なんなんだその……妖怪推しは」 「姉ちゃんがもってきてくれたんだ。『ようかいウォッチ』。ヨーでるヨーでるヨーでる……」 翼は楽し気に『ようかい体操第一』のフレーズを口ずさむ。 そういうことか、と納得する。気にかけてくれて、いい姉だな、と率直に思う。アニメのチョイスは古いが。 「でかい声で歌ってたら、看護師さん来るぞ」 「おっと……! しーっ」 楽し気に翼はおどけた。 「でもさ、きいてよ。姉ちゃん、マンガももってきてくれるんだけど、自分のシュミ全開で、ショージキいまいちなんだよね。『アオハライド』『君に届け』『orange』……あんまりその、レンアイがメインのやつはなあ」 少女漫画の有名タイトルだということは、空でもなんとなく分かった。 「恋愛は興味ないのか?」 「うーん、なくは……ないかもだけど。はずかしいじゃん」 子どもまるだしの回答に、吹き出しそうになった。 「翼は何が好きなんだ?」 「サッカー! 日本代表になって、ワールドカップでユーショーしたい」 「優勝とは大きく出たな」 「だって、今の日本、すごくつよいんだもん! 今年のワールドカップは、いいところまでいくよ。きっと」 確かに、今は昔と違い、海外のビッグクラブで活躍する日本人選手が増えている。翼の言うことも、着実に現実味を帯びてきている。 「好きな選手は?」 「エンドウ選手! カンドーしたのは、スタジアムで見たガーナ戦のゴール! めっちゃカッコよかった!」 興奮した様子で、翼は語る。 そういえば年明け前、ガーナと親善試合をやっていたな、と空は記憶をたどる。 同時に守備的ミッドフィールダーの選手が挙がることに少し驚く。自分が子どものころは攻撃の選手しか見えていなかったものだが、時代は変わったのか。 「俺も好きだな、遠藤。いて欲しいところにいるんだよな。まさに中盤の支配者って感じでいいよな」 「だよねーっ! あのズバッとパス通すのとか……って、兄ちゃんもサッカー好きなの?」 「まあな。社会人になる前は、結構やってたかな」 わざとぼかす。足のことで続けられなくなったことは、翼には言いたくなかった。 「ポジションは?」 「左ウイング」 「じゃあ、こんどドリブルおしえて?」 「実際に会ってか?」 「うん。ダメ?」 甘えるような声で翼は言った。 お互いがどこにいるかもわからない。 そもそも翼がサッカーをできる状態ではない。 「ダメなわけ、ないだろう」 それでも、空は躊躇いなく言った。 「ビー」という機械音が、空気を読まずに割り込んでくる。 「好きなだけ教えてやるから、早く元気になれよ」 「うん!」 空は財布から一〇円玉を取り出し、穴に入れた。 「ん? ナニコレ……一〇円?」 空は驚いた。一〇円玉が翼の元に落ちた。 この穴は物理的に繋がってるのか。 「悪い、びっくりしたか? 穴が開いてる時間を、延ばせないかと思ってな」 公衆電話の、通話終了を知らせる警告音。 もしかすると、この穴は公衆電話そのものなのかもしれない。そう考えたのだ。 「一〇円じゃちょっとたりないかも。一万円だったら、穴もナットクするよ」 「自分が欲しいだけだろそれ」 翼の言葉に思わず笑ってしまう。 次の瞬間、穴は閉じた。 なるほど、どうやら通話の延長を受け付けないジャンク品らしい。 空は沈黙した穴を見つめながら微笑んだ。 相変わらず気味の悪い、生理的嫌悪感を誘う見た目だった。 でも、悪くない。 そう思えるようになっていた。 (⑦に続く)
穴がある部屋⑤
⑤ 日曜日、買い置きしていたカップラーメンで朝食を済ませ、野暮用のため出社する。 駅を出て会社に向かって歩いていると、途中にある運動公園から歓声が聞こえてきた。 何気なく目を向けると、目まぐるしく動く子どもたちが見える。少年サッカーチームが練習に励んでいる光景がそこにあった。 ボールを追いかける選手たち。パスを出し合う姿。シュートを決めて喜ぶ姿。 空は立ち止まって、その光景をつい目で追ってしまう。 不意に、ボールが一つ、大きく山なりの軌道を描いて飛んだ。ディフェンスがクリアしたボールは、空の手前で大きく弾んだ。 体が反射的に動く。 右足を——いや、左足を上げて、土踏まずでボールを受ける。 接触の瞬間、足を引いて、インパクトを吸収すると、ボールは空の足元にぴたりと収まった。 「すみません!」 選手の一人が駆け寄ってくる。空はボールを蹴り返した。 「ありがとうございます!」 選手は九〇度の礼をして、ボールをドリブルしながら戻っていく。 空は自分の右足に目を落とした。 傍目には分からないかもしれないが、ズボンの下には精巧に作られた樹脂製の義足がある。 数年前、事故で失った右足は、もうボールに触れることはない。 * 昼休み、社員食堂にていつもの定食を食べていると、向かいの席に誰かが座った。 「風祭空くん、ちょっといいかな?」 「あ、はい」 自称アラサーの先輩、柏崎陽菜乃だった。実際の年齢は、ちょっと聞く勇気がない。 営業で外に出ることが多い空とは違い、いつも事務室でパソコンに向かっている彼女だが、情報共有のため話すことは多い。面倒見のいい性格で、入社当初から何かと気にかけてくれている。 「昨日、運動公園でサッカーボール蹴ってたでしょ?」 「え……見てたんですか」 「うん。すごいトラップだったわね。足に吸盤でも着いてるのかと思った」 柏崎は、にこりと笑った。 「実は私、キッズサッカークラブのマネージャーをしててね。練習を見に行ってたの」 「そうだったんですか。すごいですね、仕事と二足の草鞋で」 率直な感想だった。子どもの練習を見てから出社なんて、強い想いがないとできないことだ。 「ボランティアみたいなものだけど」 頬を掻いて照れた後、陽菜乃はうってかわって真剣な顔つきになった。 「空くん、サッカー経験者なの?」 「まあ、昔は……」 言葉を濁す。陽菜乃は空の表情を読み取ったのか、少し間を置いてから口を開いた。 「もしよかったら、なんだけどさ。アンプティサッカーっていうのを知ってる?」 「アンプティ……?」 「足を切断した選手が行う競技なの。私の父が、そのチームの運営をしててね」 空は息を呑んだ。 陽菜乃の目が細められる。 「興味があったら、一度見学に来ない? もちろん強制する気なんてないし、気が向いたらでいいんだけど」 「あ、いえ……すみません、ちょっと考えさせてください」 咄嗟にそう答えた。 「そうね、ゆっくり考えて」 そう言って、陽菜乃は席を立った。 小柄な背中が遠ざかっていく。 「どうして」 その背中に向けて、空は呟いた。 「どうして、思い出させるんですか」 心の中に開いた穴を、ずっと見ないようにしていたのに。 胸の奥で、何かが蠢いていた。 (⑥に続く)
穴がある部屋④
④ 夕食を済ませ、購入したハウツー本を読んでいると、気づけばかなりの時間が経っていた。 空は壁の穴をちらりと見やる。 あの子――翼との会話から、穴への謎めいた恐怖は薄れつつあった。 最初に穴を見たとき、抱いた印象は、何だか分からないけど邪悪なもの、というものだった。それが、今は違っていた。相変わらず見た目は不気味だが、少なくとも邪悪なものではない……そんな風に思っていた。 もうすぐ、一〇時になる。 昨日、翼の声が聞こえた時間だ。 空はベッドに乗り、穴の前で耳をそばだてた。 「ねえ、ソラさん、きこえる?」 その声がした。空はビクッと体を震わせる。ベッドが少し軋んだ。 「ああ、聞こえる。昨日はどうした? 何かあったのか」 「いや、ドアのまえをカンゴシさんがとおったんだ。ショートー後におきてるとおこられるから、ねたふりしてた」 「看護師? てことは、病院?」 「うん。ニュウインしてる」 「入院してるって、なんで」 「ぜんしんせいエリテマトーデス」 「えっ?」 聞こえないわけではなかったが、聞きなれない言葉に、思わず聞き返してしまう。 「ぜんしんせい、エリテマトーデス。そーいうビョウキ。はじめて聞いたときはおぼえづらそうって思ったけど、いやでもおぼえたよ」 「なんだよそれ。ヤバいのか」 「べつに。ときどき体がいたくなるくらい」 「ほんとか? 最初、泣いてたよな。泣くくらいは、痛いんじゃないのか」 「あ……えと、そういうわけじゃなくて。ああもう、聞かれちゃってたのか。はずかしいなあ」 「あのさ、辛いならすぐ看護師に言えよ。ナースコールあるだろ」 「だめだよ。看護師さん、すぐ父ちゃんと母ちゃんに言っちゃうから」 「親に言われて、何かまずいのか」 「父ちゃんも母ちゃんも、いまそれどころじゃないから。心配かけたくない」 「それどころじゃ、ない?」 蟀谷(こめかみ)を殴られたような気分になった。自分の子どもが病で苦しんでいることより、優先されるものがあるのか。 「あ、でも、父ちゃんはオミマイにきてくれる。姉ちゃんといっしょに。週に一回」 「普段は何を?」 「しごとと……母ちゃんといっしょにいる。たぶん」 「寂しくないか?」 「……さみしいよ」 聞いてしまったあとで、しまったと後悔した。寂しくないわけがない。うんざりするほど真っ白い壁に囲まれた病室の中で、翼はいつも一人なのだから。 「でも今は、はなしあいてがいるから」 「……そっか。分かった。でも無理すんなよ。痛かったら大人を頼れ。翼にはその権利があるんだから」 「うん。ありがとう」 翼の病について、家族関係について、それ以上追求しようとは思わなかった。 誰しもが、触れてほしくないことの一つや二つ、あるものだ。それは大人だろうが子どもだろうが関係ない。 「ねえねえ、ソラさんはどんなところにすんでるの?」 それから、翼は面白がって空を質問攻めにした。 空はあしらうことはせずに答えてあげた。 『カーサ・アルドーレ』というマンションで一人暮らし中なこと。 高卒で社会人となり、だらだらと時間ばかりが経つこと。 再び「ビー」という機械音がした。 「つまんない大人だろ」 「そんなことないよ。すごくりっぱだと思う」 翼は即座に否定した。かぶりを振っている様子が、見えずとも目に浮かぶようだった。 「ちゃんとはたらいて、一人でくらしてるなんて、すごいことだよ」 「……ありがとな」 素直な言葉に、胸が温かくなる。 それは、翼が子どもだから思うことでもあるんだろう。でも、皆が当たり前だと思っていることも、人によってはそうじゃない。 「ねえ、ソラ兄ちゃん。またあしたもはなそうよ」 「兄ちゃんって……まあ、いいけど。ああ、また話そう」 自然と笑みがこぼれていた。 兄ちゃん。そう呼ばれたことで、距離が縮まった気がした。 何一〇秒か経って声は途切れた。 まるでテレビの電源を間違って消してしまったときのように、不意の静寂が部屋を満たした。 同時にそれは、どこか懐かしい余韻を残した。 思い出す。空が幼い頃、実家の近くに古びた公衆電話ボックスがあった。 かなり昔からあるものらしく、何度もメンテナンスを経て生き残っている文化財じみた公共物だった。 そこで、秘密の遊びに没頭していた時期があったのだ。 今や、ほとんど利用されることのない公衆電話。それは、幼い空からみて物珍しい遊び場で、好奇心を刺激するものだった。 電話ボックスから友達の携帯に電話をかけ、幽霊のふりをして驚かせる。 たいてい、すぐに正体がバレてしまい、あとは一〇円分の通話が終わるまで雑談をする。そんなくだらないことを、飽きずに何度もやっていた。 そのとき、通話の時間切れが迫ったときに流れた警告音。 「穴」が閉じる前のブザー音は、その音と酷似していた。 空は財布を取り出し、中を確認する。 一〇円玉が何枚か入っているのが見えた。 (⑤に続く)
穴がある部屋③
③ 翌日は土曜日で、会社は休みだった。 あれから、壁の穴から声が聞こえることはない。こちらから呼びかけても、独り言が虚しく響くだけだった。 もしかすると、本当に頭がおかしくなってしまったのか? そんな風に考えると、不安に耐えられなくなりそうだった。 気を紛らわせるため、革ジャンを羽織り外に出る。向かう先は、マンションに隣接する古本屋だった。 いい本があると先輩に訊いたのを、思い出したのだ。 セールストークのハウツー本なのだが、定価は結構する。給料日前で財布の中身が心許ないので、古本で済ませられるなら、そのほうがいい。 店内に入ると、独特のインクと紙の匂いが鼻をくすぐる。 天井まで届く本棚が迷路のように並び、客はまばらだ。 お目当ての本を探して歩いていると、それはすんなりと見つかった。ただし、脚立を使わなければ届かない高い場所にあることに気づいた。 「あー……」 困ったように呟く。店員を呼ぶべきか。そう思った矢先、後ろから声がかかった。 「お取りしましょうか?」 ふわりと柑橘系の香り。振り返ると、式島が立っていた。 今日はスーツではなく、ベージュのニットにデニムというカジュアルな装いだ。ポニーテールではなく、髪を下ろしている。長い黒髪が肩にかかっていた。 「式島さん」 「風祭さん。奇遇ですね」 にこりと微笑む式島。昨日の緊張した表情とは打って変わって、柔らかい雰囲気だった。 「あ、いえ、大丈夫です。店員さんに頼めば……」 「私も高いところのを取ろうとしていて。ちょうど脚立も持ってきたところです」 そう言って、式島は軽々と脚立に上る。 「どれですか?」 「えっと……そこの青いやつです」 空が欲しかった本と、自分用の一冊を取って降りてくる。 「はい、どうぞ」 「本当に、ありがとうございます」 本を受け取る。式島の手が一瞬だけ触れて、心拍数が上がった。 「ハウツー本、読むんですね」 「ええ、まあ……お恥ずかしいんですが、まだまだ勉強中の身で」 空が高卒で入社した会社は、福祉用具のレンタルをメインに取り扱う。どちらかというと陰気なほうで、喋りにも自信はなかった。そんな自分が、営業なんてできるのかと、あの頃は思ったものだった。 「式島さんは、何を?」 「ああ、これです」 式島が手にしているのは、少女漫画だった。表紙には大きな瞳の女の子が描かれている。 「漫画、お好きなんですか?」 「はい。姉の影響で幼い頃から読んでいまして。今日は弟へのプレゼントを探していたんです」 「え、弟さんに、少女漫画を?」 思わず聞き返してしまう。 式島はきょとんとした顔で頷いた。 「ええ。年が離れているので、何をあげればいいか分からなくて。私が好きなものなら、きっと喜んでくれるかなと」 「そう、ですか……」 天然というか、少しズレたものを感じるが、止めろとは言えない。 むしろ、そのズレが微笑ましいような気がした。 「二人も、姉弟がいらっしゃるんですね」 「ええ、三姉弟です。年の近い姉と、年の離れた弟がいます」 式島は嬉しそうに話す。家族のことを話すときの表情で、彼女の人となりが見えた気がした。 「いいですね。俺は一人っ子なんで、姉弟っていうのに憧れます」 「そうなんですね。でも一人っ子は一人っ子で、自由があっていいじゃないですか」 「まあ、そうかもしれませんけど」 二人で会計を済ませ、店を出る。 外に出ると、冬の冷たい空気が肌を刺した。 「それでは、私はこれで」 「あ、はい。ありがとうございました」 式島は軽く会釈をして、去っていく。 その後ろ姿を見送りながら、空は思った。 昨日の事務的な対応は、仕事だからだったのだろうか。 今日の式島は、まるで別人のように柔らかかった。 (④に続く)
穴がある部屋②
② その夜は眠れる気がしなかったが、ウイスキーをストレートで呷り、何も考えずにベッドに潜った。酒が入ると眠くなる体質を、空は初めてありがたいと思った。 何事もなく日常は戻ってきた。 いつものように満員電車に揺られて出勤し、いつものように先輩と一緒に取引先を回って、いつものように社食の安い定食を食べる日々が続く。 会社でも、誰にも何も言わなかった。言ったところで、どうせ信じてもらえないだろうし、磯崎のように変な目で見られるのがオチだ。 それよりも、新しい部屋に移ったのだから、もう穴のことは忘れよう。そう自分に言い聞かせていた。 その日、帰宅したのは午後八時を回った頃だった。 ちらりと壁に目配せして、穴がないことを確認し、一息つく。 コンビニで買った弁当を電子レンジに入れて、デスクに向かう。パソコンを起動させ、石油ファンヒーターの電源を押す。 ふと思い立って、検索エンジンで『壁』『穴』などと調べてみる。もちろん引っかかるのは、リフォーム業者のホームページや、修繕方法をまとめた動画ばかりだった。 『ビー』とブザーが鳴り、暖かい風が足元を覆う。灯油の匂いが鼻腔をくすぐって、固まっていた心身が解けていく。 次のゴールデンウィークは旅行にでも行こうかと、グーグルマップのストリートビューを眺めているうちに、かなりの時間が経っていた。 時刻は夜一〇時を示している。 ふと、奇妙な音がすることに気がつく。 最初はファンヒーターの音と間違えた。次に、隣の部屋のテレビかと思った。 でも耳を澄ますほど、音は誰かの喉から出ているのが分かった。 ベッドのヘッドボードの辺り。音の出所はそこだ。 視線をやった瞬間、背中がぞわっと粟立った。 ひび割れた壁。 吸い込まれそうな暗闇。 そこに、あの穴があった。 「……うそ、だろ」 部屋を替えたはずなのに。 穴が空を追いかけてきたみたいに、同じ位置に同じサイズで開いている。 恐怖で体が固まる。冷や汗が背中を伝う。 なのに、胸の奥のどこかが「近づけ」と言っている。あの穴に呼ばれている気がする。 一歩、また一歩と空は、吸い寄せられるように穴の前まで行った。 穴の奥は変わらず闇で、吸い込まれそうな不気味さがあった。近づくと、音がだんだんと実態を持った気がした。 これは泣き声だ。人が、息を殺して漏らす泣き声。 空は喉の乾きを飲み込んで、穴に向かって言った。 「誰かいるのか?」 泣き声がぴたりと止まった。 数秒後、震える声が返ってくる。 「……だれ?」 絞られた声だった。 穴が筒の役割をして、存外によく聞こえる。声が幼い。子どもだ、と空は直感的に思った。 「……いや、それはこっちの台詞なんだけど」 気付けば、そんな返しをしていた。恐怖よりも、困惑が勝っていたのかもしれない。 「かべのむこうに、いるの?」 呆気にとられているのが想像できる声色だった。 「部屋の壁に穴があって、そこから話してる」 「おかしいなぁ……かべのむこうは、ロウカなんだけど」 「こっちなんか、外だぞ」 「……へんなの。も、もしかして……ヨウカイ?」 「妖怪?」 突然の濡れ衣に眉をひそめた。妖怪って。そこは幽霊じゃないのか、なんて、呑気な感想を抱きながら。 「いや、人間だ」 「そんなこと言って、ダマされない……痛っ!」 突然穴の向こうで、甲高い声が悲痛に歪んだ。不意打ちに、心臓がドクンと跳ねる。 「お、おい。なんだ、大丈夫か?」 「うん、へいき」 声が震えていることで、虚勢を張っていると分かる。 この子には何かある。直感的に、空はそう感じ取った。 「ふー……ねえねえ、ヨウカイじゃないんだったら、これってアレ? イセカイとのコウシン?」 息を整えると、子どもはころりと反転して、軽快な口調になった。 「……異世界? こっちは日本。東京ってとこだ」 「なんだ、イセカイじゃないのかぁ」 心底がっかりしたようなため息が聞こえた。 「悪かったな。異世界じゃなくて」 「オジサン、なまえなに?」 「オジ――」 危うく声を荒げるところだった。すんでのところで飲み込んだ。 なんて失礼なやつだ、と空はぽかんと開いた口が塞がらない。確かに声は低くて、老け顔なほうだが、断じてまだオジサンなんて呼ばれる年齢じゃない。 「名前は、空だ。あと、オジサンじゃねーぞ。まだ二三歳だからな」 「ソラっていうの? ……ふふっ」 「な、なんだ? お前はなんていうんだよ」 「ごめんなさい。ちょっとおかしくて。だって、ソラとツバサって、なんかセットみたいじゃん」 「翼、っていうのか」 「うん」 「小学生?」 「シツレーだなぁ。中二だよ、中二」 「え、そうなのか。その割には……」 言いかけてからまずいと思い、息を止める。 「その割には?」 「いや、ほら。中学生にしては声が高いと思ったんだ。でもよく聞くと、別にそんなことないな」 「ふーん」 少し沈黙があった。 その間の中で、「ビー」と無機質な機械音が聞こえた気がした。 思わず石油ファンヒーターを見る。点いている。 「ねえねえ、トモダチになってよ、イセカイの人。そうだ、ソラさんって呼んでもいい?」 「だ、だから異世界じゃねえって」 新しいおもちゃを見つけたみたいに、翼の声はリズミカルに跳ねた。さっきまで怖がっている風だったのに、落差がすごい。 「ちょうどヒマで死にそうだったから、楽しいんだよね。ね、いいでしょ」 「そりゃまあ、自由に呼べばいい……けど」 「やった!」 無邪気な翼の声とは裏腹に、空は歯切れ悪く言い淀んだ。 空の心理に残った警戒が、踏み込みすぎることを拒んでいた。 この穴から聞こえる不思議な声と会話することによって、自分が少しづつ、現実から遠ざかっているような気がして怖かった。 と、そのとき。 「あっ、やばい!」 翼の声が緊迫の色を帯びた。 「え、おい……なんだ?」 翼の気配がふっと途絶えた。テレビを見ている最中に停電したかのような、不意の沈黙が流れる。 どんなに待っても、声が帰ってくることはなかった。 空はベッドから降りて、穴をじっと見つめた。 なぜか痛がっていた翼の声が、脳裏によぎる。それが何を意味するのかは分からないが、微細な不安は小さな針となって、空の胸をちくりと刺した。 ピー、ピー。ファンヒーターが灯油切れの警告音を鳴らして、一気に現実感が帰ってきた。 それでも穴はそこにある。深い漆黒が、空をじっと見ている。 (③に続く)
穴がある部屋①
① 子どもの頃に思い描いた将来の夢を、叶える人間はどのくらいいるのだろう。 きっと、考えるよりずっと少ない。 だって、人生は永い。みんな少しずつ成長して、大人になって、現実をみて、幼い頃の自分がどんなに世間知らずで、大胆不敵な愚か者であったのかを知る。 だけど、少しだけ。 そんな愚か者が、どうしようもなく羨ましくなるときがある。 二〇二六年、一月某日。新たな年の始まりに、成人の日が続き、お祭り気分が抜けきらない今日この頃。何かにつけて地球温暖化が取りざたされる昨今だが、日本の冬はしっかり寒い。 風祭空(かざまつりそら)は、ゆっくりとまぶたを持ち上げた。 カーテンの隙間から差し込む柔らかな日差しが、朝の到来を告げている。 断続的に聞こえる雀の鳴き声が目覚ましになって、アラームが鳴るより早く起きることは初めてではなかった。枕もとのスマホを探り当て、幾つかの操作をすると、上半身を起こして大きく伸びをした。 「寒っ……」 カーテンを開け、明るさを取り込む。陽の光が僅かばかりの温もりを与えてくれた。天気予報によると、今日は終日晴れるらしい。 寝具を干すには絶好の機会だ。空はまだ少し重い瞼を擦りながら、枕もとに目を向ける。 そして、固まった。 強烈な違和感が視界に入り、息をするのも忘れてしまう。 穴が、ある。 ベッドのヘッドボード、その数一〇センチ上に、ぽっかりと穴が開いている。 あらぬ方向に飛び出た毛髪の先を指で巻きながら、それを凝視する。ストレスを感じたとき、そうするのは空の癖だった。 穴の向こうは、暗い……というより塗りつぶされているように冥い。うっすら焦げたみたいに黒ずんだ壁紙の周囲には亀裂が走り、まるで蜘蛛の長い足のようだった。生理的な嫌悪感に冷や汗が滲む。 少しだけ、近づいてみる。 相変わらず、黒しか見えない。相当に深い、あるいは向こう側が何らかの形で塞がっているのか。 いや、それよりも……。 眉間を押さえ、昨夜、就寝前の光景に思いを巡らせる。 どう考えてもおかしい。変だ。寝る前の壁に、こんな穴はなかった。 それどころか、入居時にベッドを運び込んだときだって、この壁にはシミ一つなかったはずだ。 寝ている間に大きな地震があったのだろうか。……いや、例えそうであっても、ヒビは入るかもしれないが、こんな穴はできないだろう。 スマホを構え、カメラアプリを起動した。この不可思議な穴を記録して、SNSに投稿しようと思ったからだ。 しかし、空は画面に映る光景に首を傾げ、片眉を上げた。 画面に映るのは、ただの真っ白い、綺麗な何の変哲もない壁でしかなかった。 分かったことが一つ。 スマホのレンズは、穴の存在を認識できない。 * デスクに向かってキーボードを叩いていると、インターホンが鳴った。 ちらりと時計を見ると、針は午前一〇時に差しかかろうとしているところだ。連絡したのが九時すぎ。到着するまでおよそ一時間かかるとのことだったので、思ったよりは若干早めの訪問だった。 素早く立ち上がり、玄関横の壁についているモニターの前に立った。画面にはきっちりした七三分けで、スーツ姿の男性が映し出されている。 「はい」 「株式会社エバーレジデンスの磯崎(いそざき)と申します。お問い合わせの件で参りました」 「どうぞ」 ボタンを押し、エントランスの自動ドアを開けた。 ほどなくしてノックの音が聞こえたので、お気に入りの革ジャンを羽織り、答えるように玄関ドアを開ける。 冷たい風が待ってましたとばかりに入ってくる。 「お世話になっております」 「いえ、こちらこそ」 磯崎は空を見るやいなや、うやうやしく頭を垂れた。隣には彼同様スーツ姿の女性がいる。 彼女は磯崎に続いて斜め四五度のお辞儀をする。ポニーテールの黒髪がふわりと揺れて、柑橘系の香りが漂う。緊張気味なのか、唇が渇いていた。空を見る眼差しは、尋常ならない気迫が感じられる。 空の視線が伝わったのか、磯崎は開いた掌の先を隣の女性に向けた。 「こちらは新しくこのマンションの担当になる、式島(しきしま)です」 「式島と申します。よろしくお願い致します」 「あ、よろしくお願いします」 式島が名刺を突き出したので、反射的に受け取る。再びお辞儀をされたので、空は慌ててポケットに名刺を突っ込み、お辞儀を返す。 株式会社エバーレジデンスは建設大手から派生したマンション管理の小さな会社で、空が住む単身者向けマンション『カーサ・アルドーレ』もその管理下にある。 磯崎とは入居時に顔を合わせている。銀縁のメガネがよく似合う、四〇代くらいの細身男性で、落ち着き払った態度がベテランの風格を漂わせているのだが、表情筋をどこかに置き忘れたのかと思うほど無愛想で、空は彼が少し苦手だった。 それに対し、式島はずっと若く、所作もどこかぎこちない。緊張が顔に出るタイプのようで、目は優しそうなのに、口元はぎゅっと強張っている。なだらかなラインを描く顎と長い睫毛が、コンビニの雑誌コーナーでよく表紙を飾っている人たちと似ていて、空としては式島が新たな担当者になることに関して一切の異論がなかった。 「とにかく、上がってください。見てもらいたいんです」 空の手招きに続いて、訪問者の二人は靴を脱いでフローリングを踏みしめる。 縦長のワンルームは、一六帖と広めだった。トイレとバスルームに繋がるドアを通り過ぎると、中央部に対面型キッチンが鎮座している。 その奥、ワードローブとデスクが並び、突き当りにベッドを置いている。 「ここです。穴、空いてるでしょ。ほら」 「……?」 二人は壁を見ながら首を傾げた。 「風祭さん、その穴の位置を指で示していただいても?」 「だから、ここです」 磯崎の言葉に、空はベッドに膝を乗り上げ、穴を指さす。 「……風祭様」 「はい?」 「穴など、どこにも見当たりません」 「え?」 頭の中がかき乱される。磯崎は相変わらず感情の見えない目でこちらをみている。 式島は唇を結び、眉間にしわを寄せていた。 「そんなはず、ないじゃないですか」 穴の隣を掌で叩く。 一瞬、亀裂が広がったような気がしてすぐに手を引く。鳥肌が立った。 「……風祭様。お疲れのところ、失礼ですが」 磯崎は社交辞令を挟んでから、きっぱりと言った。 「おそらく、貴方だけだと思われますよ。その穴が見えているのは」 あまりに率直な言葉に、一瞬だけ息が詰まる。 チクタクと秒針を進める時計の音が、静まり返った部屋に寒々と響く。 「どういうことですか? 磯崎さんたちには、見えないっていうんですか」 「ええ、残念ですが」 冷たさを孕んだ視線で磯崎は壁を一瞥した。式島はその丸い目を潤ませながら、動揺する空を見つめている。 「そんな……ほら、指が入ってるじゃないですか」 磯崎たちによく見えるように、穴に指を入れたり出したりしてみせる。 けれど結果は、二人の目に憐れみの色が浮かぶだけだった。磯崎はメガネの縁に指を当て、首を左右に振った。 「風祭様。まずは落ち着いてください。深呼吸しましょう」 磯崎は医者みたいに、淡々と言った。 本当は分かっていたのだ。スマホのカメラに映らなかった時点で。 この穴が実体を伴ったものではなく、妄想の産物か、もしくは怪異の類のどちらかだということに。 「まさか、事故物件であることを隠してた……とかじゃないですよね」 目を細めて、空は磯崎を睨んだ。自分が狂っているという可能性は見たくなかった。 「とんでもございません。コンプライアンスの遵守は徹底しております」 顔色一つ変えずに磯崎は言った。温度のない返答だった。背骨に冷たい指が這ったような錯覚に、言いようもない不快感が襲う。 「こんな部屋、居られないですよ」 空は吐き捨てるように言った。 「二年間の賃貸借契約であったと思います。退去されるかどうかは風祭様次第ですが、その場合違約金が発生いたします」 「そんなの、どうだっていいです」 「個人的に、いい病院を紹介することも可能ですが」 怒りより先に胃の奥がきゅっと縮んだ。何か言い返してやろうと思うけれど、とっさに言葉が出てこない。代わりに強く拳を握る。 そこで式島が、小さく息を吸って頭を下げた。 「申し訳ございません。弊社としましても初めてのケースで……こうした対応しかできないのです」 言葉に、ほんの少しだけ人間の体温が混じっていた。 拳の力を抜けないまま、空は唇だけで「……はあ」と息をつく。 「どうでしょう? 特別に、他の空き部屋に移っていただく、というのは」 式島がそう磯崎に提案した。磯崎は横目で彼女を一瞥する。 その視線が一瞬だけ鋭くて、反射的に背を伸ばしてしまう。 数秒間、磯崎は俯いていた。 何かを考えているようだった。 沈黙の後、結論が出たのか、ニイ、と口角を上げる。 「それはいいアイデアですね。ならば風祭様、さっそく家具を移動させますか? お手伝いさせていただきます」 「いいんですか? そんなことまで」 「本来はできない対応ですが……特殊な状況です。他の入居者様への影響も懸念されますので、ここは特別措置ということで」 他の入居者への影響。 その言い方が、穴の気持ち悪さと別の方向に胸をざわつかせた。 結局、空は一〇一号室へ移ることにした。 ベッドを磯崎と運ぶ。つまづいて転倒しそうになる空を、式島がとっさに支えた。 「大丈夫ですか」 「あ、ありがとうございます」 にこっと微笑んで、式島も運搬に加わった。意外と力持ちな彼女のおかげもあって、すんなりと作業は進む。 ミニマリストではないけれど、空はもともと荷物が少ないほうだ。 冷蔵庫と衣類。デスクにパソコン。部屋移動は一時間で終わった。残りは後日、契約書類に印鑑をもらう、と磯崎は言った。 ムッとすることもあったけれど、この迅速な対応には頭が上がらない。 空っぽの部屋を出る直前、寝室の壁を振り返る。 穴が遠目にぼやけて見えた。黒い点が、部屋を去る空を手招きしているように思えた。 (②に続く)