冬
5 件の小説人間の擬態
私は人と話す時、少しだけ遅れて反応をする癖がある。 教室で誰かが面白いことを言い、笑い声が上がる時も、半拍遅れて笑う。 理由は分からない。だがその方が周りと馴染める気がして安心できる。 いつも顔を見合わせるクラスメイトと毎日同じ場所で同じ授業を受け、同じ景色を見ている。なのに私だけ違うところにいる気がする。 見ているものが遠く感じる。 すぐそこにいるはずなのに、触れられない。 帰り道になると、あれは本当に自分なのか分からなくなる。 同い年くらいの学生を横目に観察しながら歩く。 まるで動物を見るみたいに。 どうすれば自然に話せるのか。 どんな顔をして過ごせばいいのか。 それを覚えるために。 私は少しずれている。 それでも明日も同じように過ごす。
夕暮れのあいだ
今の時刻は十七時三十分。 空は青とオレンジがゆっくり混ざり合っている。 外から、小学生の軽い足音が聞こえた。 それを懐かしいと思ってしまう自分に、少し驚く。 目の前には遥がいる。 光を受けた黒髪が、やけにまぶしい。 「ねえ、そろそろ何か頼まない?」 さっきまで寝ていた朔が、まだ眠そうな声で言う。 「いいね。俺、チーズバーガー」 環がすぐに続いて、部屋の空気が少しだけ軽くなる。 私と遥も、それに合わせるみたいに注文を決めた。 注文を終えると、朔と環は漫画の話で笑っている。 その輪の外で、私は少しだけ距離を感じていた。 昔は、こんなふうじゃなかった。 視線だけが、朔の服のあたりを彷徨う。 目を合わせるのが、どうしてもできない。 そのとき、不意に袖を引かれた。 顔を上げると、環が何も言わずに笑っていた。 輪の中に戻される。 けれど、やっぱりうまく話せなくて、視線が落ちる。 「……澪?」 名前を呼ばれて顔を上げると、すぐ近くに朔がいた。 心臓が、少しだけうるさい。 「ちょっと、来て」 短くそう言われて、廊下に出る。 少しだけ冷たい空気。 部屋の中の笑い声が、遠くに聞こえる。 沈黙が続く。 何か言わなきゃ、と思うのに、言葉が出てこない。 「ずっと、好きだった」 その一言が、思っていたよりも静かに落ちてきた。 顔を上げると、朔はまっすぐこちらを見ていた。 逃げ場がない、と思った。 胸の奥が、ゆっくり熱くなる。 うまく息ができない。 言葉を探すけれど、見つからない。 代わりに、小さくうなずいた。 それだけで、十分だったみたいに、朔は少し笑った。 その笑い方が、昔と同じで、少し安心する。 廊下の窓から、さっきの空が見えた。 青とオレンジの境目が、もう曖昧になっている。 どこまでが過去で、どこからが今なのか、よくわからない。 ただ、さっきより少しだけ、距離が近い。 それだけは、確かだった。
踏まなかった葉
時計の秒針が十二を通り過ぎた。十二時三十分。昼休みを告げるチャイムが鳴ると同時に、教室が一斉にざわめき出す。購買に向かう足音が床を叩き、誰かの笑い声が天井にぶつかって跳ね返る。 私は昴、歩夢、薫と四人で机を寄せて昼食をとっていた。私と昴は弁当箱を開けたが、歩夢と薫は次の時間に提出する宿題に取り組んでいる。薫の右手には、細かく切られた絆創膏がいくつも貼られていた。ペンを動かすたびに、白い布が僅かにずれる。 昼休みが始まってしばらくした頃、薫が先生に呼ばれて教室を出た。その背中を目で追っていると、歩夢がぽつりと言った。 「あいつ、不登校にならないかな」 一瞬、箸を持つ手が止まった。誰も笑わない。でも、誰も否定もしなかった。昴が顔を上げる。 「急にどうしたんだよ」 「別に深い意味はないって」 軽い口調だった。その軽さが、妙に耳に残る。私は何か言えたはずだった気がする。でも、言葉を探すのが面倒で、弁当を食べ続けた。 教室の扉が開き、薫が戻ってきた。会話は途切れ、四人は黙って箸を動かす。何事もなかったみたいに。私はその空気から逃げるように席を立ち、図書館へ向かった。 図書館は冷たかった。温度というより、湿った空気が肌に残る感じがする。私はいつもの席に座り、漫画を広げる。文字を追っているうちに、頭が少し軽くなった。昼休みの終わりのチャイムが鳴る頃には、何も考えていなかった。 午後の授業と清掃時間が終わりかけた頃、廊下で薫と目が合った。 「伊織ってさ、どうしてこの学校にいるの」 「第一志望に落ちたからだよ」 「私も。だから、次はちゃんと出るつもり」 薫はそう言っただけだった。自分の机に戻る彼女の手には、また新しい絆創膏が増えている気がした。 掃除が終わり、片付けをしながら私は聞いた。 「さっきの話、聞こえてた?」 薫は少しだけ頷いた。 「だから距離を置こうと思った。でも――」 一拍置いて、薫は続けた。 「伊織が何も言わなかったの、分かるよ。怖かったんでしょ」 私は何も返せなかった。でも、薫はそれ以上責めなかった。 「でもさ、次は言えるでしょ。ならいい」 そう言って、薫は初めて少し笑った。 教室に向かう途中、床に一枚の葉が落ちていた。私はそれを跨いで歩いた。踏みもしなければ、拾いもしない。ただそこにあるままにして。 その先で、薫が振り返る。 「一緒に帰ろ」 私は少し遅れて頷いた。 まだ全部うまくいくわけじゃない。 でも、何も失っていないと、初めて思えた。
反対の理由
「高校生になったら美容整形したいな」 秋菜は黙って私を見た。声が震えたかもしれない。 「美容整形なんか絶対にしたら駄目、冬華はそのままが可愛いよ!」 と強く言われた。言われた瞬間しばらく俯いてしまった。冷気が身体中に感じた。 私は自分の顔を見ると手が震える。胸がぎゅっと締め付けられる。 秋菜に言われた言葉を思い出すと、視界が揺れる。秋菜は手が届かない存在だ。私はそんな彼女に密かに憧れている。きっと彼女には私の気持ちなんか分からないだろう。相談なんて、しなければよかった。 次の日、学校に行くと秋菜が友達と話していた。私は柱の影に隠れて会話を聞いた。声が遠くに揺れ、息が止まる。 「昨日、冬華に整形したいって言われたけど、反対しちゃった」 「何で反対したの?整形嫌いなの?」 「冬華、話題のアイドルに似てるじゃん、顔が変わるのがもったいないと思っただけ」 「うん、冬華、あのアイドルにそっくりだよね、本当に可愛い。」 まさか昨日の自分の話だとは思わず体が固まった。学校の休み時間、こっそりそのアイドルを調べてみた。まるで双子みたいに自分と顔が似ている。胸の奥が温かくなり始めた。画面をずっと見つめていた。
視線の行方
私は女子校に通っている高校2年生だ。今日は数学の授業で小テストがあるため、普段よりも早い時間に家を出た。朝礼が始まる1時間前だからなのか、自分の足音が妙に心に響いている。頭の中で公式を思い出しながら教室の扉を開けると、クラスメイトの雫と目が合った。 雫は、先生が何も言わなくても次の予定を知っているような人だった。だが私と雫はそこまで親しくないため挨拶をすることなく席についた。すると雫から視線を感じた気がして振り向くと私の方を見ていた。 「どうしたの?」 「この時間に来るの珍しいね」 「小テストの勉強をしようと思って早めに家を出たの」 「いつも小テスト何点?」 「まあ普通だよ」 はっきりと点数を言いたくないため、そう答えると雫は無言で自分の参考書に視線を向けた。しばらく沈黙が続きそれがどこかに置き去りにされたように感じられた。今までの流れを頭の中でなぞってみるが何も分からず長い間俯いてしまった。気がつけば他のクラスメイトたちが次々と教室の中に入って行った。時計を見ると朝礼開始まで20分前だ。私は焦りを感じ、慌てて参考書と筆記用具を机の上に並べて勉強を始めた。 朝礼が始まる時間になり、雫は教卓の前へ向かった。教卓の前に立つと、教室のざわめきが一瞬だけ静まった。私は机の木目をなぞるように視線を動かし、顔を上げなかった。朝礼が終わり雫は自分の席に戻った。私の横を通る時に冷たい風が腕に触れた。 1、2時間目は体育の授業だ。着替えを済まして親友の聖香のところへ行こうとすると雫が耳元で何かを囁いた。だが私は聞き取れず、雫に聞き返すと表情を変えないまま体育館の方へ歩いた。すると窓から激しい雨と雷の音が聞こえた。 私はさっきの出来事を聖香に話した。そしたら聖香が一瞬驚いたような表情を見せ、小声で「気にしないほうがいいよ。何かあったらすぐに相談してね」と話した。私はよく分からなかった。もう少しで授業が始まる時間なので雨に濡れながら2人で走って体育館へ向かった。 体育が終わり10分休みの時間になった。3限目は数学の小テストなので私は早く着替えて勉強をした。10分休み中、後ろから雫の声が聞こえた。会話の内容は分からないが自分のことを言われている気がした。小テストが始まっても雫の態度と聖香の言葉が頭に残ってしまい、なかなかシャーペンを持つ左手が進まなかった。 放課後になり、数学の授業で実施した小テストが返却された。点数を見て、答案用紙を二つ折りにした。雫は私の机の前で一瞬だけ立ち止まり、目を合わせないまま何も言わずに教室を出て行った。その背中を見送りながら、私は荷物の整理をした。窓の外ではさっきまで激しく降っていた雨が止んでおり、鮮やかな青空一面から眩しい光が差し込んでいた。