叶夢 衣緒。/海月様の猫
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綺麗事が救いにならない夜の話。 正しさに置いていかれた感情と、 救われなかった青春の残骸。 優しい言葉ほど、いちばん痛い。 2023年 2月27日start 3月3日初投稿
あの日の続きー
あの日の続き 私たちは いつまでも若いと思っていた。 放課後の空に オレンジ色の光がこぼれて、 くだらない話をして 笑いすぎて、 「また明日」 そう言って手を振った。 明日が来ることを 疑いもしなかった。 でも、 来なかった。 たった一日で 世界は変わることがある。 昨日まで隣にいた人が もういない。 声も、笑顔も、 一緒に見た景色も、 触れようとすると 夢みたいに遠くなる。 私はまだ若くて、 命が終わるということを ちゃんと知らなかった。 人は死んだら いなくなるのだと思っていた。 違った。 いなくなった人ほど 心の中に残り続ける。 桜を見ると 思い出す。 夏の匂いがすると 思い出す。 夕暮れの帰り道で 誰かが笑っていると、 振り返ってしまう。 そこに あなたがいる気がして。 でも、いない。 何度確かめても いない。 それが一番 悲しかった。 青春は きらきらしているものだと 思っていた。 けれど本当は、 大切なものを 大切だと知らないまま、 失ってしまう時間なのかもしれない。 だから今でも あの日の「また明日」を 思い出す。 あの言葉が最後になるなんて 知らなかった。 もし知っていたなら、 もっと話した。 もっと笑った。 もっとちゃんと あなたの顔を見た。 そして最後に、 「生きていてくれて ありがとう」 そう伝えたかった。 今日も空は あの日と同じ色をしている。 世界は何も知らずに 夕暮れになっていく。 私はまだ生きている。 あなたのいない明日を 何度も迎えながら。 それでも時々、 空を見上げてしまう。 もしかしたら どこかであなたも 同じ空を見ている気がして。 そして小さく つぶやく。 「私はまだ、 あの日の続きを生きているよ」 返事はない。 ただ夕暮れだけが、 私たちが確かに 生きていたことを知っている。
碧
冬の朝は、世界から音が消える。 雪が降った翌日は特にそうだった。 誰も踏んでいない道路を、俺は一人で歩いていた。白く濁った空気が肺に入るたび、胸の奥が冷えていく。 田舎の駅前のコンビニはまだ開いていない。 シャッターの前に自転車だけが倒れていて、昨夜のまま時間が止まっているみたいだった。 スマホが震える。 通知はもう増えない。 画面の一番上には、昨日の二時十四分で止まったメッセージ。 『ごめん、先帰る』 それだけ。 たったそれだけだった。 俺はスマホをポケットに押し込んで走り出した。 どこへ向かうでもなく。 ただ立ち止まったら終わる気がした。 靴が雪を潰す音だけがやけに響く。 白い息が苦しい。 涙は出なかった。 実感がないまま身体だけが壊れていく感じだった。 昨夜、病院で白い布を見た。 それがあいつだと、まだどこかで認められていない。 だって数時間前まで普通に笑っていた。 カラオケで、マイクを離さなくて。 コンビニで肉まんを半分奪って。 「受験終わったら海行こうぜ」とか言っていた。 未来の話をしていた人間が、急にいなくなるわけない。 信号を無視して道路を渡る。 クラクションが鳴った。 知らない。 全部どうでもよかった。 肺が焼けるみたいに痛い。 それでも走る。 走っていれば、追いつける気がした。 雪が降っている。 細く、淡く、灰色の空に溶けるみたいな雪だった。 あいつは冬が嫌いだった。 「寒いと世界終わりそうじゃね?」 去年、そう言って笑っていた。 意味わかんねえよ、と返したら、 「わかれよ」 って少し寂しそうにしていた。 あの時ちゃんと聞けばよかった。 何が終わりそうだったのか。 何が怖かったのか。 駅前を抜けて、川沿いまで来る。 雪の積もったベンチが見えた。 去年の冬、二人で缶コーヒーを飲んだ場所だった。 あいつは猫背のまま白い息を吐いて、 「卒業したらさ、離れんのかな」 と呟いた。 俺は「知らね」としか返せなかった。 本当は嫌だった。 離れるのも、変わるのも。 でも、それを口にした瞬間、全部終わってしまいそうで怖かった。 雪が頬に落ちる。 冷たい。 そこで初めて、息が詰まった。 「っ……」 声にならない。 なのに胸の奥だけが叫んでいる。 なんで。 なんでお前なんだよ。 なんで置いてくんだよ。 ちゃんと言えよ。 海行くって言ったじゃんか。 春になったらまた馬鹿みたいに笑うと思ってた。 来年も、その次も。 ずっと。 ずっと続くと思ってたのに。 膝から崩れ落ちる。 雪が制服に染みる。 誰もいない川沿いで、俺は子どもみたいに泣いた。 どれだけ叫んでも、冬の空は静かなままだった。 雪だけが降り続いている。 まるで世界が、あいつのいなくなった穴を、白く埋めようとしているみたいに。
【第10回N-1グランプリ】 「 あ
冬の体育館は、誰もいないときだけ息をしている。 そう僕は思っていた。 放課後体育館の戸締まりをするのは、三年になってから僕の役目だった。 部活が終わると、最後に残ったボールを倉庫へ戻し、モップをかけ、窓を閉める。 それから、ステージの脇にある小さな時計を確認する。 十七時四十三分。 毎日、ほとんど変わらない。 冬になると、その時間にはもう外が暗い。 体育館の窓は黒い鏡みたいになって、僕の姿がぼんやり映る。 その日も、いつものようにモップをかけていた。 すると、誰もいないはずの体育館から、 「あ」 と聞こえた。 僕はモップを止めた。 振り返る。 誰もいない。 当然だった。 今日は僕が最後だった。 倉庫も、ステージの下も、用具室も見た。 誰もいない。 それでも、確かに聞こえた。 「あ」 声というより、息だった。 誰かが寒い朝に、手のひらを温めるように吐いた息。 僕はしばらく立っていた。 やがて、気のせいだと思って帰った。 次の日も、聞こえた。 「あ」 体育館の奥。 誰もいない観客席のほうから。 僕は少し怖くなった。 だから、声を返した。 「あ」 すると、静かになった。 しばらくして、 「あ」 また聞こえた。 今度は少し近かった。 僕は笑ってしまった。 馬鹿みたいだと思った。 「あ」 もう一度。 「あ」 向こうから。 それで、その日は帰った。 それから僕は、毎日「あ」と言うようになった。 体育館を閉める前に、一度だけ。 理由はなかった。 ただ言わないと一日が終わらないような気がした。 ある朝、教室に入ると窓が開いていた。 外は雪だった。 誰かが閉め忘れたらしい。 僕は窓を閉めようとして、ふとガラスに映った自分を見た。 口から白い息が出る。 「あ」 自然に声が漏れた。 白い息が、少しだけ揺れた。 その日の昼休み、僕は友達に聞いてみた。 「『あ』って、何だと思う?」 「何それ」 「いや、文字の『あ』」 「最初の文字じゃん」 「なんで最初なんだろうな」 「知らねえよ」 友達はパンを食べながら笑った。 「じゃあ、お前が新しい文字作れば?」 「どんなの?」 「知らん。『い』の次に『あ』とか」 「意味わかんない」 「だろ?」 それで話は終わった。 僕も忘れた。 でも、その日の帰り。 体育館で「あ」と言ったとき、返事がなかった。 僕は待った。 十秒。 二十秒。 一分。 何も聞こえなかった。 体育館は、いつもより広く感じた。 僕はもう一度言った。 「あ」 返事はなかった。 窓の外では、雪が降っていた。 音がしない。 ただ、照明の下を白いものが落ちていく。 僕はそのまま帰った。 次の日から、声は聞こえなくなった。 別に何かが変わったわけではない。 授業があって。 昼休みがあって。 放課後になって。 友達とくだらない話をして。 先生に怒られて。 帰る。 それだけだった。 ただ体育館だけが少し静かになった。 卒業式の一週間前。 僕らは体育館で卒業式の練習をしていた。 何度も立って、座って、礼をする。 校歌を歌う。 名前を呼ばれたら返事をする。 そんなことを繰り返した。 最後に先生が、 「じゃあ、今日はここまで」 と言った。 みんなが一斉に立ち上がった。 椅子が床を擦る音。 話し声。 笑い声。 靴音。 それらが一気に体育館へ広がった。 僕は最後に立った。 ふと、体育館の天井を見上げた。 高い。 こんなに高かったっけ、と思った。 そして、気づいた。 僕らは三年間、ここでずっと呼吸していたのだ。 走って。 笑って。 転んで。 怒鳴って。 歌って。 泣いて。 そのたびに、 「あ」 と息を吐いていた。 その夜、僕は一人で体育館に戻った。 卒業式の前日だった。 もう、戸締まりをすることもない。 最後の仕事だった。 照明を消す。 半分だけ暗くなる。 さらに消す。 最後の一つを消す前に、僕は体育館の真ん中に立った。 暗い。 窓の向こうに雪が見える。 僕は息を吸った。 冷たい空気が肺に入る。 それから、 「あ」 と言った。 白い息が浮かんだ。 しばらくして、 どこかから、 「あ」 と返ってきた。 僕は振り返らなかった。 誰なのか、もうどうでもよかった。 友達かもしれない。 昔の誰かかもしれない。 体育館そのものかもしれない。 あるいは、僕自身だったのかもしれない。 もう一度、 「あ」 と言った。 返事があった。 「あ」 また。 「あ」 また。 気づけば、体育館のどこかで、僕の記憶の中で何人もの「あ」が重なっていた。 遠い「あ」。 近い「あ」。 低い「あ」。 笑いながらの「あ」。 泣きそうな「あ」。 眠そうな「あ」。 全部違うのに、全部同じだった。 人は、言葉より先に息をする。 生まれたばかりの赤ん坊も。 朝、眠そうに目を開けた人も。 走り終わった人も。 泣いたあとに顔を上げた人も。 みんな最初に、 「あ」 と息を吐く。 それは言葉じゃない。 名前でもない。 意味もない。 ただ、生きている人間が、生きていることを確かめるみたいに吐く息だ。 卒業式の日。 僕の名前が呼ばれた。 「はい」 と答えた。 体育館に声が響いた。 少しだけ震えていた。 席へ戻る。 友達の肩が隣にある。 春と冬の狭間。窓の外では雪が降っている。 校長先生が何か話している。 僕はその言葉をあまり覚えていない。 ただ、 みんなが同じ場所で息をしている。 それだけを覚えている。 卒業式が終わった。 体育館を出る。 誰かが笑っている。 誰かが泣いている。 誰かが先生と写真を撮っている。 僕は少し離れたところで、雪を見ていた。 一枚、手のひらに落ちた。 冷たい。 すぐに消えた。 僕は息を吐いた。 「あ」 白くなった。 隣にいた友達が、 「あ」 と返した。 僕らは顔を見合わせた。 意味なんてなかった。 だから、少し笑った。 校門を出る。 雪はまだ降っている。 振り返ると、体育館の窓が白く曇っていた。 中ではきっと、誰かがまだ息をしている。 明日になれば、僕らはいない。 来年になれば、知らない誰かがここに座る。 その誰かも、笑って、怒って、泣いて、 「あ」 と息をする。 きっとそれだけでいい。 名前が残らなくても。 声が残らなくても。 誰がいたのか忘れられても。 呼吸だけは、次の誰かへ渡っていく。 雪みたいに静かに。 手のひらみたいに温かく。 僕はもう一度だけ、 「あ」 と言った。 白い息が冬の空へほどけていった。 その先には、誰もいなかった。 でも、 誰もいないことが、 少しだけ寂しくて、 少しだけ嬉しかった。
うみのまち
「俺たち、少なすぎるよな。」 「今年の一年生は五人です。」 聞き慣れた入学式のセリフ。 拍手は保護者の分だけ響いた。 僕らはずっと五人だった。 幼稚園も、小学校も、中学校も、そして高校も。 過疎化が進む海沿いの町。 一学年五人。 教室は小さくても、思い出だけはいつも入りきらなかった。 誰が泣いても、誰が笑っても、全員が知っていた。 秘密なんて、一日ももたなかった。 だから僕らは、友達というより家族に近かった。 海斗は、その五人の真ん中にいるようなやつだった。 写真を撮るのが好きで、いつも古いフィルムカメラを首から下げていた。 「データは消えるけど、フィルムは歳を取るんだ。」 高校生らしくないことを言っては笑う。 「卒業したら現像しよう。」 そう言って、三年間撮り続けた。 教室。 体育館。 放課後の坂道。 五人でした学園祭パフォーマンス。 観客より演者の方が多かった演劇。 全部、海斗が撮っていた。 「最後の一枚は決めてる。」 そう言ったとき、僕らは誰も聞かなかった。 どうせ海なんだろ、と思っていたから。 卒業まで、あと十日。 海斗は帰り道で事故に遭った。 信号も一つしかない町だった。 救急車が来るまで時間がかかった。 僕らは病院へ走った。 でも間に合わなかった。 17年ずっと一緒だった五人は、 初めて四人になった。 卒業式。 椅子は五脚並んでいた。 でも一脚だけ空いていた。 校長先生は何度も言葉を詰まらせた。 在校生代表もいない。 送辞も答辞も短かった。 人数が少ない学校では、一人いないだけで静けさが増える。 卒業証書を受け取る。 海斗の名前だけが呼ばれない。 その現実が、何より苦しかった。 卒業式のあと。 誰も約束なんてしていなかったのに四人とも海へ向かって歩いていた。 悲しいことがあると、みんな海へ来た。 理由は知らない。 ただ昔からそうだった。 波の音を聞いていると、誰かの声が少しだけ近くなる気がした。 「これ。」 雪菜が紙袋を差し出した。 中には海斗のカメラが入っていた。 ご両親が、 「みんなで現像してあげて。」 そう言って預けてくれたらしい。 町に写真屋はない。 隣町まで電車で一時間。 数日後、出来上がった写真を受け取りに行った。 一枚。 また一枚。 運動会。 遠足。 体育祭。 卒業アルバムには載らないような、くだらない毎日。 全部、五人だった。 最後の写真まで見ると店員さんが言った。 「もう一枚ありますよ。」 封筒の底から出てきた最後の一枚。 そこには夕暮れの海だけが写っていた。 誰もいない。 ただ砂浜と水平線。 「あ、」 声が漏れた。 砂浜の砂に棒で書かれた文字。 【ここで5人で最後の一枚を撮りたい】 誰も声を出せなかった。 海斗は最初から決めていた。 卒業の日、この海で五人そろって写真を撮ることを。 その約束だけが、叶わなかった。 夕日が沈み始める。 僕らは写真と同じ場所へ立った。 カメラは三脚に置く。 セルフタイマーを押す。 四人で並ぶ。 その真ん中だけ、一人分空けた。 カシャッ。 シャッターの音が、波より小さく響いた。 写真には四人しか写らない。 それでも僕らは知っている。 あの日からずっと五人でいることだけは変わらない。 帰ろうとしたとき、僕は海斗の写真をもう一度見た。 夕焼けが海を青く染めていた。 写真越しの景色と、目の前の景色が重なる。 「届いたかな。」 誰にともなく呟く。 返事の代わりに、波が静かに足元まで寄せてきた。 僕は写真を胸に抱く。 海へ流したりはしない。 忘れるためじゃない。 連れて帰るためだ。 17年間、五人で育った町。 笑い声も、泣き声も、全部この海が見ていた。 だからきっとこの町で終わらなかった海斗の時間も、 どこかで波に乗って続いていく。 空を見上げる。 春の風はまだ少し冷たかった。 「また来るよ。」 その言葉だけを残して、僕らは歩き出した。 後ろでは、海が変わらない音で鳴っていた。 まるで、五人目の返事みたいに。
選択
高校二年の春、僕らのクラスには「卒業記念制作」の話が持ち上がった。 三年生になる前に、学校の歴史を残す映像を撮るらしい。 誰でも参加できる実行委員を募集すると、教室は一瞬だけ静かになって、すぐに誰かが笑った。 「めんどくさそう」 その一言で空気は決まった。 僕は手を挙げかけて、やめた。 窓際では、親友の樹が鉛筆を回している。 目が合うと、「お前、やると思った」と笑った。 「やらないよ」 「ふーん」 その「ふーん」が、少しだけ残念そうだった。 結局、実行委員になったのは樹を含む五人だけだった。 六月。 放課後、校舎裏で樹がカメラを持っていた。 レンズ越しに僕を見ながら言う。 「撮る側って面白いよ。みんな、カメラ向けると急に“今”を大事にし始める」 僕は笑った。 「何それ」 「本当だよ。さっきまでダラダラ歩いてたのに“今しかない”って思ったら急に走り出す。」 樹は昔からよく僕なんかが思いつかないような見方をする。 そういうやつだった。 何でも面白がって、何でも少しだけ本気だった。 夏休み前。 実行委員の仕事が増え始めた。 帰り道が合わなくなった。 一緒にゲームをする時間も減った。 昼休みもパソコン室にいることが多かった。 「最近忙しそうだな」 そう言うと、 「楽しいからな」 と笑う。 少し悔しかった。 僕らはずっと同じ速度で歩いてきたと思っていた。 でも、樹は知らない道を選び始めていた。 文化祭の日。 上映された映像には、教室、部活、先生、何気ない日常が映っていた。 そのどれもが僕の知っている学校なのに知らない景色みたいだった。 笑っている人。 泣いている人。 怒られている人。 夕焼けに染まる窓。 体育館の埃。 風でめくれるプリント。 最後に画面へ映った文字。 『今日を選んだ人たちへ』 会場が静かになった。 拍手が鳴る。 僕だけが、胸の奥で何かを落とした音を聞いていた。 もしあの日、手を挙げていたら。 その“もし”は、どこにも届かない。 冬。 進路希望調査が配られた。 先生は言った。 「人生は選択の連続です」 ありきたりな言葉だった。 でも僕は、その紙を見つめたまま動けなかった。 選ばなかったものは、消えるわけじゃない。 ずっと心のどこかに残って、別の自分になって生き続ける。 卒業式の日。 校門の前で写真を撮る人たちの輪から少し離れて、樹が空を見上げていた。 「なぁ」 「ん?」 「後悔って、ある?」 少し考えてから樹は笑う。 「あるよ」 意外だった。 「でもさ、選ばなかった道って、多分、全部綺麗に見えるんだよ。」 風が制服の裾を揺らした。 「だから比べても勝てない。」 沈黙が流れる。 「お前は?」 そう聞かれて、僕は校舎を見上げた。 四階の窓。 毎日見ていた景色。 もう二度と、あそこから夕焼けを見ることはない。 もう守られる立場ではなくなる。 「…ある。」 そう答えると樹は頷いた。 「それでいいんじゃない?」 「え?」 「後悔があるってことは、本気で選ぼうとしたってことだから。」 校庭では、誰かが泣いていた。 誰かが笑っていた。 みんなそれぞれ違う未来を選んでいく。 同じ制服を着ていたのに同じ明日はもうない。 帰り道の分かれ道で、僕らは自然に立ち止まった。 右へ行けば駅。 左へ行けば川沿い。 高校生活では何百回も一緒に歩いた道なのに、その日はどちらも少し遠く感じた。 「じゃあな。」 「また。」 また、なんて曖昧な約束だった。 永遠なんてきっとない。 それでも僕らは笑った。 樹が右へ歩き出す。 僕は左へ歩く。 振り返らなかった。 振り返れば立ち止まってしまう気がしたから。 夕暮れの空は、痛いほど青かった。 あの日、手を挙げなかった僕。 あの日、手を挙げた樹。 小さな違いだ、たった少しの話だ。 だけど、 たった一つの選択で、景色は変わる。 どちらの青春も間違いじゃない。 ただ、もう戻れないだけだ。
そと
窓の外には、六月の夕方が広がっていた。 病室の窓は大きくて、空だけはよく見えた。 僕はぼんやりと外を眺めていた。 遠くに電車が走っている。 その向こうには住宅街があって、たぶん今ごろ誰かが夕飯の支度をしている。 カレーの匂いとか、味噌汁の匂いとか。 そういう匂いはここまで届かない。 僕は想像するしかなかった。 死んだらどこへ行くんだろう。 最近はそればかり考えている。 考えたところで答えなんて出ない。 先生も看護師さんも誰も知らない。 本を読んだ。 インターネットで調べたこともある。 天国だとか、生まれ変わりだとか、無になるだとか。 みんな違うことを言っていた。 だから結局わからない。 僕はまだ16歳だ。 本当なら今も学校に行っていたはずだった。 朝起きて、制服を着て、自転車をこいで。 眠いなとか一時間目だるいなとか言いながら教室に入って。 そんな当たり前のことをしていたはずだった。 窓の外では、たぶん今も高校生たちが帰宅している。 部活帰りの集団とか。 コンビニに寄り道する、とか。 好きな人の話をする、とか。 僕はそういう普通が欲しかった。 特別なことじゃない。 ただ学校へ行きたかった。 文化祭とか、修学旅行とか。 進路に悩んだり。 テスト勉強を嫌がったり。 そんなことで悩みたかった。 生きるとか死ぬとかじゃなくて。 もっとくだらないことで。 窓ガラスに映る自分は、 自分なのに、自分じゃないみたいだった。 誰だって、 明日も来年もあると思って生きている。 昔は僕だってそうだったと思う。 少なくとも、あいつが死ぬまでは。 親友だった。 唯一の親友。 寒い冬だった。 本当に突然だった。 昨日まで笑っていたのに、次の日にはいなくなっていた。 そのとき初めて、人がいなくなることをちゃんと理解した。 葬式の帰り道、空が妙に青かったのを覚えている。 世界は何も変わらない。 誰かが死んでも。 電車は走るし、店は開くし、みんな学校へ行く。 そのことが悲しかった。 僕だけが取り残されたみたいで。 窓の外を見ながら、今でもたまに思う。 死んだら、あいつに会えるのかな。 会えたら何を話そう。 久しぶり、とか。 遅かったな、とか言われるだろうか。 それとも何もないのだろうか。 ただ意識が消えて終わりなのだろうか。 それが一番怖かった。 親友に会えないことより。 何もなくなることが。 僕は昔から家が嫌いだった。 父親は酒を飲むと怒鳴った。 母親はいつも疲れていた。 家の中には怒鳴り声があった。 物が壊れる音があった。 泣き声があった。 テレビドラマみたいな温かい家庭なんて知らなかった。 だからずっと思っていた。 いつか大人になったら出ていこう。 自分の家を作ろう。 静かな家がいい。 誰も怒鳴らない家。 家族みんなで夕飯を食べる家。 そんな普通の家。 だけど、その夢はたぶん叶わない。 最近はもう、未来を想像するのが難しい。 大学生の僕も。 社会人の僕も。 結婚した僕も。 うまく思い浮かばない。 あるのは病室の天井と、この窓だけだ。 空が少し赤くなってきた。 夕方だった。 家々の窓に灯りがつき始める。 あの中に、普通の夕飯がある。 普通の会話がある。 普通の家族がある。 少しだけ羨ましかった。 少しじゃないかもしれない。 すごく羨ましかった。 僕はただ、そういうものが欲しかった。 それだけだった。 死にたくないな。 なんて思わない。 そんな気持ちとっくの昔になくなってる。 だけど少しだけやり残したことがある。 別に立派な夢があるわけじゃない。 世界を変えたいわけでもない。 ただ明日も生きて、学校へ行ってみたかった。 親友と馬鹿な話をしてみたかった。 普通の家族になってみたかった。 それだけなのに。 窓の外で、一羽の鳥が飛んでいった。 小さな黒い影が空を横切る。 どこへ行くんだろう。 帰る場所があるのだろうか。 僕も死んだら、どこかへ行くのだろうか。 それとも消えるだけなのだろうか。 わからない。 ずっと考えているのに、わからない。 だけどもし。 本当にもし。 死んだ先に何かがあるなら。 そこであいつに会えたらいい。 「最近どうだ」 そう聞きたい。 そして僕のほうも話したい。 学校へ行けなかったこと。 家は変わらなかったこと。 怖かったこと。 寂しかったこと。 全部。 あいつなら黙って聞いてくれる気がする。 窓の外の空は、もう紫色になっていた。 街の灯りが増えていく。 僕はそれを見つめる。 今日も世界は続いている。 僕がいなくなった後も続くのだろう。 そのことは悲しい。 でも少しだけ安心でもあった。 誰かの夕飯があって。 誰かの笑い声があって。 誰かの明日がある。 それは悪いことじゃない。 僕は窓に映る自分へ小さく笑いかけた。 死んだらどこへ行くんだろう。 まだわからない。 たぶん最後までわからない。 でももし会えるなら。 そのときはまず最初に、親友の名前を呼ぼうと思う。 そして返事が聞こえたら。 そのときだけは、少し泣いてしまうかもしれない。
ろくがつ、
六月の雨は嫌いだった。 制服の裾は濡れるし、髪はまとまらないし、空はずっと機嫌が悪そうだから。 だけど高校二年の梅雨だけは少し違った。 校舎裏の紫陽花が毎日少しずつ色を変えていったからだ。 青だった花が紫になり紫だった花がどこか赤みを帯びる。 まるで心そのものみたいだ、と彼は言った。 「知ってる? 紫陽花の花言葉」 放課後の渡り廊下。 雨を眺めながら、私は隣の席の春人に聞かれた。 「移り気、とか?」 「有名なのはね。でも色によって違うらしい」 彼はスマホで調べた知識を得意げに披露した。 青は辛抱強い愛情。 紫は知的。 ピンクは元気な女性。 そんな話だったと思う。 「花にまで性格診断させるんだ」 私が笑うと春人も笑った。 その笑顔を見るたび、胸の奥が少しだけ温かくなった。 たぶん好きだった。 でも、それを認めるにはまだ幼かった。 春人には夢があった。写真家になること。 いつも古いカメラを持ち歩いていて、誰も気に留めない風景ばかり撮っていた。 濡れたアスファルト。 電柱に止まる雀。 放課後の空き教室。 そして紫陽花。 「なんでそんなに紫陽花ばっか撮るの?」 ある日聞くと、彼は少し考えてから言った。 「終わりが近い花だから」 「え?」 「桜は散る瞬間がきれいって言うじゃん。でも紫陽花は枯れていく途中も残るんだよ」 雨に打たれながら咲いて、気づいたら季節が終わってる。 そんなところが好きらしかった。 私はよく分からなかった。 私みたいな普通の高校生にとって終わりなんて、卒業式くらいしか実感がなかったから。 七月に入った頃だった。 春人が学校を休み始めた。 最初は風邪だと思った。 次の日も。 その次の日も。 そして担任が教室で静かに言った。 「しばらく入院することになった」 病名は知らされなかった。 私は何度か病院へ行った。 白い部屋の窓から、紫陽花が見えた。 春人は以前より痩せていたが相変わらず笑っていた。 「写真、撮れてる?」 と聞くと、肩をすくめていった。 「でも今度撮りたいものがある」 「なに?」 「君」 思わず吹き出した。 「なにそれ」 青春漫画とかアニメとかでよく聞くセリフ。 春人が真顔で言ったのが無性に面白かった。 「最後の文化祭の日にさ、」 「最後って卒業ってこと?」 春人の口から“最後”という言葉を聞くことが増えている気がした。 「そう」 彼はそう言った。 でもそのときの目が少しだけ遠くを見ていたことを私は忘れられない。 夏休みの終わり。春人の妹から電話が来た。 私は内容を聞く前に理解した。理解してしまった。 人は泣き声の種類で分かる。 あれは悲しいときの声だった。 文化祭の日。 春人は来なかった。 当たり前だった。 もう来られないのだから。 私はクラスの出し物を途中で抜け出し、校舎裏へ向かった。 紫陽花はとっくに季節を終えていた。 茶色くなった花だけが残っている。 そのとき担任に呼び止められた。 「これを渡しておいてくれって頼まれてた」 封筒だった。 春人の字で私の名前が書かれていた。 震える手で開く。 中には写真が一枚。 私だった。 知らないうちに撮られていたらしい。 雨の日の渡り廊下。 紫陽花を見て笑っている横顔。 そして裏には短い文字。 『紫陽花の花言葉は移り気だって言うけど、 本当は色が変わりながら生きてるだけだと思う。 人も同じ。 ずっと同じ気持ちじゃいられない。 だから忘れていい。 でももし大人になったとき、 雨の日に紫陽花を見て少しだけ僕を思い出してくれたら 嬉しいなぁなんて。』 「忘れられるわけないじゃん、」 私は泣かなかった。 泣いたら終わってしまう気がした。 代わりに写真を胸に抱いて、ずっと空を見ていた。 雨が降り始めていた。 十年後。 私は花屋になっていた。 特別な理由はない。 ただ季節の花に囲まれて働くのが好きだった。 六月になると店先に紫陽花を並べる。 青も紫もピンクもある。 客はそれぞれ好きな色を選んでいく。 ある日、小学生くらいの女の子が聞いた。 「紫陽花の花言葉ってなあに?」 私は少し考えた。 移り気。 辛抱強い愛情。 いろんな意味がある。 だけど。 「そうだなあ色々あるんだけど私は」 私は店先の雨を見ながら答えた。 「色が変わっても、その花のままでいること。だと思うな」 女の子は首を傾げながら笑った。 そのまま母親のところへ走っていく。 私は一人になった店先で、ふと空を見上げた。 紫陽花が揺れていた。 もう顔も声も少しずつ曖昧になっている。 約束どおり、たくさん忘れた。 けれど雨の日に紫陽花を見ると、あの渡り廊下だけは鮮明に蘇る。 青春は戻らない。 恋も実らなかった。 誰かが奇跡的に生き返ることもない。 それでも。 人は失ったものだけでできているわけじゃない。 失ったものに色をもらいながら、その先を生きていく。 店先の紫陽花は今年も静かに色を変えていた。 まるで、 忘れてもいいし、忘れなくてもいいとでも言うように。
死神
雨が降ると、死神は制服を着るらしい。 高校二年の春、僕―朝倉 琉は、駅前の古本屋でそいつに出会った。 黒いブレザー。白いシャツ。赤いネクタイ。 どう見ても同じ学校の女子生徒なのに、店の奥で文庫本を立ち読みしているその子だけ、なぜか周囲の音から浮いていた。 なのに僕が「その本、面白い?」と聞くと、彼女はぴたりとページを止めた。 「…見えてるんだ」 「え?」 「君、死ぬ人間の匂いがする」 第一印象、最悪だった。 彼女の名前は、クロ。 本名は長すぎて人間には発音できないらしい。 「死神って、もっとこう…骸骨とかじゃないの?」 「令和の価値観にアップデートしてるの」 そう言ってクロはメロンパンをかじる。 死神のくせに、やたら食う。 放課後、屋上。 クロは僕の隣で、勝手に購買のパンを食べながら言った。 「あと三か月」 「なにが」 「君の寿命」 僕は笑った。 笑うしかなかった。 「それ、詐欺とか宗教勧誘?」 「違う。正式な死の通知」 「市役所みたいに言うな」 クロはポケットから黒い手帳を出した。 中にはびっしり名前が並んでいる。 朝倉 琉。 そこには、確かに僕の名前があった。 死亡予定日。 八月二十七日。 「夏休み終わる前じゃん…最高」 「感想そこなんだ」 「夏休みの課題やらなくて済むなって」 クロは数秒黙ったあと、吹き出した。 死神でも笑うんだ、と思った。 それからクロは毎日のように現れた。 教室の窓際。 ゲームセンター。 ファミレス。 商店街。 僕にしか見えない時もあるし、普通に見える時もあるらしい。 死神のシステムはよく分からない。 「なんで付きまとうの?」 「担当だから」 「市役所感覚で言うなって」 クロは感情が薄いくせに、妙に人間臭かった。 炭酸でむせるし、 ホラー映画でびびるし、 犬に吠えられると泣きそうな顔になる。 あと、とんでもなく方向音痴だった。 「海、見に行きたい」 そう言って電車に乗った結果、なぜか山に着いた時は笑い死ぬかと思った。 「おかしい…潮風の気配はあった」 「それたぶん森林浴」 僕らは真夏の山道を歩いた。 蝉がうるさくて、 空が痛いほど青くて、 クロは途中でアイスを二本落とした。 「死神なのに不器用すぎる」 「魂の回収はもっと上手い」 「そこだけプロなんだ……」 その時ふと、 この時間がずっと続けばいいのに、と思った。 思ってしまった。 八月。 僕はクロに聞いた。 「死ぬのって、痛い?」 「人による」 「僕は?」 「死因はわからない。」 クロはただ花火の光を見ていた。 河川敷。 夜空に大輪が咲く。 赤。 青。 金色。 その光がクロの横顔を照らしていた。 「……ねえクロ」 「なに」 「死神って恋愛禁止?」 「は?」 「いや、もし好きな人とかできたらどうすんのかなって」 クロは珍しく目をそらした。 「死神は、人間を好きにならない」 「へえ」 「好きになったら、仕事ができないから」 花火が弾ける。 音が遅れて胸に届く。 僕はその時、たぶんもう分かっていた。 自分が、クロを好きになっていること。 八月二十七日。 僕の死亡予定日。 朝からクロは何も喋らなかった。 病院の屋上。 入院着の僕。 点滴。 夏の終わりの風。 実は僕は心臓が悪かった。 ずっと隠していたけど、春からかなり危なかったらしい。 「言えよ」とクロは怒った。 「だって、死神のくせに泣きそうな顔するから」 「…するわけない」 でもクロの声は震えていた。 「ねえクロ」 「なに」 「最後に一個だけ、お願い」 クロは黙って頷く。 「君の本当の名前、教えてよ」 長い沈黙のあと、 クロは小さく笑った。 「無理。人間が聞くと死ぬ」 「今日死ぬからセーフじゃん」 「そういう問題じゃない」 僕らは笑った。 笑って、 笑って、 それから静かになった。 遠くで入道雲が崩れていく。 「…ねぇ、琉」 クロが初めて僕の名前を呼んだ。 「もし次があるなら」 「うん」 「今度はちゃんと、海に行こう」 僕は頷いた。 その瞬間。 ふっと世界の音が遠くなった。 視界が白く霞む。 ああ、終わるんだなと思った。 でも最後に見えたのは、 泣きながら笑う、死神の顔だった。 ー数年後。 春。 海辺の町。 高校へ向かう途中、僕は変な女子に話しかけられた。 「ねえ君」 黒いブレザー。 赤いネクタイ。 「…どこかで会った?」 彼女は少しだけ目を見開いて、 それから困ったように笑った。 「さあ。初対面じゃない?」 潮風が吹く。 遠くで波の音がした。 その時なぜか僕は、 無性にメロンパンが食べたくなった。
第4回NSS 毒林檎と初恋
文化祭を目前にした放課後、空き教室だけはなぜか時間が緩やかに流れていた。湿った空気。ふと彼が言った。 「こういうの、毒林檎って言うんだろうな」 相変わらず意味は教えてくれない。でも、その言葉が不思議としっくりくる瞬間を私は知っていた。例えば彼が笑うとき。優しさの奥に少し距離を感じるあの笑い方。彼はよく嘘をついた。でも嫌いにはなれなかった。その曖昧さに触れていると、自分が溶けていくようで心地よかった。 冬の気配が近づいた頃、彼は言った。 「俺、春になったらいなくなるよ」 卒業式の前日、空っぽの教室で彼と話した。彼は窓を開けながら何かを言いかけてやめ、結局背を向けた。 呼べばきっと振り返る。 でもそれをしたら、何かが変わってしまう気がした。彼が去った後に残ったのは、開いたままの窓と、かすかな甘い匂い。私はその場から動けなかった。 今でも思い出すたび胸の奥が疼く。彼がいなければ今の私はいないのかもしれない。彼の言っていた「毒林檎」はきっと形のないもの。甘くて少し痛くて、すべてを差し出せば戻れなくなるもの。結局私は最後まで口にしなかった。だから今も、その味を知らないまま、時折思い出してしまう。
タイムカプセル
夜の屋上の空気はぼんやりとしていた。 彼はフェンスにもたれたまま、スマホの録音アプリを開いている。赤い点が、規則正しく瞬いていた。 「これ、未来に送れるらしいよ」 唐突にそう言って、録音ボタンを押す。 「もしもし、二年後の俺。ちゃんと覚えてるか〜」 風がマイクに当たって、言葉がざらつく。 僕は少し離れた給水タンクの横でその様子を見ていた。僕達の距離はいつもこんな感じだった。 「今日、屋上に来た理由とか。たぶん忘れるだろうし」 彼は笑うでもなく、ただ続ける。 「でもさ忘れたほうがいいことって、あるよな」 その言葉だけやけに音がはっきりしていた。 録音を止めて、彼はスマホをポケットにしまう。代わりに小さな金属の箱を取り出した。角が少し潰れている。 「タイムカプセルって、埋める場所が重要らしいよ」 「へえ」 ようやく声を出すと、彼は一瞬だけこちらを見る。暗がりの中で、目だけが遅れて光る。 「でもさ、場所じゃなくて、“開ける理由”のほうが重要だと思わないか?」 返事を待たずに、彼は箱をフェンスの外に差し出した。 ここは五階だ。 落とせばたぶん壊れる。 「埋めないの?」 そう聞くと、彼は少しだけ考えるふりをしてから、首を横に振る。 「埋めたら未来があることを信じてるみたいだから嫌」 その言い方は、未来を信用していない人のそれだった。 風が強くなる。箱がかすかに揺れる。 「今、開けるかもしれないし落とすかもしれないし」 彼は指先の力を少しだけ緩める。 「それくらいのほうが、ちゃんと“今”って感じがする」 僕は、落ちていく箱の軌道を想像する。中身は知らない。でも、開けたあとの顔だけはなぜか具体的に思い浮かんだ。 「ねえ」 思わず声が出る。 彼の指が、ほんのわずかに止まる。 「それ、二年後のためじゃないの?」 沈黙が落ちる。 彼は少しだけ笑った。 「二年後の俺に渡すなら、ちゃんと渡すよ」 じゃあこれは何なのか、と聞く前に、 彼は箱を、フェンスの内側に戻した。 ただ、そのままポケットにはしまわず足元にそっと置く。 カラン、と軽い音がした。 「なあ」 今度は彼がこちらを見る。 「未来ってさ、誰のものだと思う?」 その問いは、答え方を間違えると、彼も僕もどこかに落ちてしまいそうだった。 僕はフェンスに近づいて、足元の箱を見る。 さっきよりも、ずっと重そうに見えた。 録音アプリの赤い点が、まだ消えていないことに気づく。 誰に向けた言葉なのか、もうわからなくなっていた。