叶夢 衣緒。/海月様の猫

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叶夢 衣緒。/海月様の猫

綺麗事が救いにならない夜の話。 正しさに置いていかれた感情と、 救われなかった青春の残骸。 優しい言葉ほど、いちばん痛い。 2023年 2月27日start 3月3日初投稿

そと

窓の外には、六月の夕方が広がっていた。 病室の窓は大きくて、空だけはよく見えた。 僕はぼんやりと外を眺めていた。 遠くに電車が走っている。 その向こうには住宅街があって、たぶん今ごろ誰かが夕飯の支度をしている。 カレーの匂いとか、味噌汁の匂いとか。 そういう匂いはここまで届かない。 僕は想像するしかなかった。 死んだらどこへ行くんだろう。 最近はそればかり考えている。 考えたところで答えなんて出ない。 先生も看護師さんも誰も知らない。 本を読んだ。 インターネットで調べたこともある。 天国だとか、生まれ変わりだとか、無になるだとか。 みんな違うことを言っていた。 だから結局わからない。 僕はまだ16歳だ。 本当なら今も学校に行っていたはずだった。 朝起きて、制服を着て、自転車をこいで。 眠いなとか一時間目だるいなとか言いながら教室に入って。 そんな当たり前のことをしていたはずだった。 窓の外では、たぶん今も高校生たちが帰宅している。 部活帰りの集団とか。 コンビニに寄り道する、とか。 好きな人の話をする、とか。 僕はそういう普通が欲しかった。 特別なことじゃない。 ただ学校へ行きたかった。 文化祭とか、修学旅行とか。 進路に悩んだり。 テスト勉強を嫌がったり。 そんなことで悩みたかった。 生きるとか死ぬとかじゃなくて。 もっとくだらないことで。 窓ガラスに映る自分は、 自分なのに、自分じゃないみたいだった。 誰だって、 明日も来年もあると思って生きている。 昔は僕だってそうだったと思う。 少なくとも、あいつが死ぬまでは。 親友だった。 唯一の親友。 寒い冬だった。 本当に突然だった。 昨日まで笑っていたのに、次の日にはいなくなっていた。 そのとき初めて、人がいなくなることをちゃんと理解した。 葬式の帰り道、空が妙に青かったのを覚えている。 世界は何も変わらない。 誰かが死んでも。 電車は走るし、店は開くし、みんな学校へ行く。 そのことが悲しかった。 僕だけが取り残されたみたいで。 窓の外を見ながら、今でもたまに思う。 死んだら、あいつに会えるのかな。 会えたら何を話そう。 久しぶり、とか。 遅かったな、とか言われるだろうか。 それとも何もないのだろうか。 ただ意識が消えて終わりなのだろうか。 それが一番怖かった。 親友に会えないことより。 何もなくなることが。 僕は昔から家が嫌いだった。 父親は酒を飲むと怒鳴った。 母親はいつも疲れていた。 家の中には怒鳴り声があった。 物が壊れる音があった。 泣き声があった。 テレビドラマみたいな温かい家庭なんて知らなかった。 だからずっと思っていた。 いつか大人になったら出ていこう。 自分の家を作ろう。 静かな家がいい。 誰も怒鳴らない家。 家族みんなで夕飯を食べる家。 そんな普通の家。 だけど、その夢はたぶん叶わない。 最近はもう、未来を想像するのが難しい。 大学生の僕も。 社会人の僕も。 結婚した僕も。 うまく思い浮かばない。 あるのは病室の天井と、この窓だけだ。 空が少し赤くなってきた。 夕方だった。 家々の窓に灯りがつき始める。 あの中に、普通の夕飯がある。 普通の会話がある。 普通の家族がある。 少しだけ羨ましかった。 少しじゃないかもしれない。 すごく羨ましかった。 僕はただ、そういうものが欲しかった。 それだけだった。 死にたくないな。 なんて思わない。 そんな気持ちとっくの昔になくなってる。 だけど少しだけやり残したことがある。 別に立派な夢があるわけじゃない。 世界を変えたいわけでもない。 ただ明日も生きて、学校へ行ってみたかった。 親友と馬鹿な話をしてみたかった。 普通の家族になってみたかった。 それだけなのに。 窓の外で、一羽の鳥が飛んでいった。 小さな黒い影が空を横切る。 どこへ行くんだろう。 帰る場所があるのだろうか。 僕も死んだら、どこかへ行くのだろうか。 それとも消えるだけなのだろうか。 わからない。 ずっと考えているのに、わからない。 だけどもし。 本当にもし。 死んだ先に何かがあるなら。 そこであいつに会えたらいい。 「最近どうだ」 そう聞きたい。 そして僕のほうも話したい。 学校へ行けなかったこと。 家は変わらなかったこと。 怖かったこと。 寂しかったこと。 全部。 あいつなら黙って聞いてくれる気がする。 窓の外の空は、もう紫色になっていた。 街の灯りが増えていく。 僕はそれを見つめる。 今日も世界は続いている。 僕がいなくなった後も続くのだろう。 そのことは悲しい。 でも少しだけ安心でもあった。 誰かの夕飯があって。 誰かの笑い声があって。 誰かの明日がある。 それは悪いことじゃない。 僕は窓に映る自分へ小さく笑いかけた。 死んだらどこへ行くんだろう。 まだわからない。 たぶん最後までわからない。 でももし会えるなら。 そのときはまず最初に、親友の名前を呼ぼうと思う。 そして返事が聞こえたら。 そのときだけは、少し泣いてしまうかもしれない。

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ろくがつ、

六月の雨は嫌いだった。 制服の裾は濡れるし、髪はまとまらないし、空はずっと機嫌が悪そうだから。 だけど高校二年の梅雨だけは少し違った。 校舎裏の紫陽花が毎日少しずつ色を変えていったからだ。 青だった花が紫になり紫だった花がどこか赤みを帯びる。 まるで心そのものみたいだ、と彼は言った。 「知ってる? 紫陽花の花言葉」 放課後の渡り廊下。 雨を眺めながら、私は隣の席の春人に聞かれた。 「移り気、とか?」 「有名なのはね。でも色によって違うらしい」 彼はスマホで調べた知識を得意げに披露した。 青は辛抱強い愛情。 紫は知的。 ピンクは元気な女性。 そんな話だったと思う。 「花にまで性格診断させるんだ」 私が笑うと春人も笑った。 その笑顔を見るたび、胸の奥が少しだけ温かくなった。 たぶん好きだった。 でも、それを認めるにはまだ幼かった。 春人には夢があった。写真家になること。 いつも古いカメラを持ち歩いていて、誰も気に留めない風景ばかり撮っていた。 濡れたアスファルト。 電柱に止まる雀。 放課後の空き教室。 そして紫陽花。 「なんでそんなに紫陽花ばっか撮るの?」 ある日聞くと、彼は少し考えてから言った。 「終わりが近い花だから」 「え?」 「桜は散る瞬間がきれいって言うじゃん。でも紫陽花は枯れていく途中も残るんだよ」 雨に打たれながら咲いて、気づいたら季節が終わってる。 そんなところが好きらしかった。 私はよく分からなかった。 私みたいな普通の高校生にとって終わりなんて、卒業式くらいしか実感がなかったから。 七月に入った頃だった。 春人が学校を休み始めた。 最初は風邪だと思った。 次の日も。 その次の日も。 そして担任が教室で静かに言った。 「しばらく入院することになった」 病名は知らされなかった。 私は何度か病院へ行った。 白い部屋の窓から、紫陽花が見えた。 春人は以前より痩せていたが相変わらず笑っていた。 「写真、撮れてる?」 と聞くと、肩をすくめていった。 「でも今度撮りたいものがある」 「なに?」 「君」 思わず吹き出した。 「なにそれ」 青春漫画とかアニメとかでよく聞くセリフ。 春人が真顔で言ったのが無性に面白かった。 「最後の文化祭の日にさ、」 「最後って卒業ってこと?」 春人の口から“最後”という言葉を聞くことが増えている気がした。 「そう」 彼はそう言った。 でもそのときの目が少しだけ遠くを見ていたことを私は忘れられない。 夏休みの終わり。春人の妹から電話が来た。 私は内容を聞く前に理解した。理解してしまった。 人は泣き声の種類で分かる。 あれは悲しいときの声だった。 文化祭の日。 春人は来なかった。 当たり前だった。 もう来られないのだから。 私はクラスの出し物を途中で抜け出し、校舎裏へ向かった。 紫陽花はとっくに季節を終えていた。 茶色くなった花だけが残っている。 そのとき担任に呼び止められた。 「これを渡しておいてくれって頼まれてた」 封筒だった。 春人の字で私の名前が書かれていた。 震える手で開く。 中には写真が一枚。 私だった。 知らないうちに撮られていたらしい。 雨の日の渡り廊下。 紫陽花を見て笑っている横顔。 そして裏には短い文字。 『紫陽花の花言葉は移り気だって言うけど、 本当は色が変わりながら生きてるだけだと思う。 人も同じ。 ずっと同じ気持ちじゃいられない。 だから忘れていい。 でももし大人になったとき、 雨の日に紫陽花を見て少しだけ僕を思い出してくれたら 嬉しいなぁなんて。』 「忘れられるわけないじゃん、」 私は泣かなかった。 泣いたら終わってしまう気がした。 代わりに写真を胸に抱いて、ずっと空を見ていた。 雨が降り始めていた。 十年後。 私は花屋になっていた。 特別な理由はない。 ただ季節の花に囲まれて働くのが好きだった。 六月になると店先に紫陽花を並べる。 青も紫もピンクもある。 客はそれぞれ好きな色を選んでいく。 ある日、小学生くらいの女の子が聞いた。 「紫陽花の花言葉ってなあに?」 私は少し考えた。 移り気。 辛抱強い愛情。 いろんな意味がある。 だけど。 「そうだなあ色々あるんだけど私は」 私は店先の雨を見ながら答えた。 「色が変わっても、その花のままでいること。だと思うな」 女の子は首を傾げながら笑った。 そのまま母親のところへ走っていく。 私は一人になった店先で、ふと空を見上げた。 紫陽花が揺れていた。 もう顔も声も少しずつ曖昧になっている。 約束どおり、たくさん忘れた。 けれど雨の日に紫陽花を見ると、あの渡り廊下だけは鮮明に蘇る。 青春は戻らない。 恋も実らなかった。 誰かが奇跡的に生き返ることもない。 それでも。 人は失ったものだけでできているわけじゃない。 失ったものに色をもらいながら、その先を生きていく。 店先の紫陽花は今年も静かに色を変えていた。 まるで、 忘れてもいいし、忘れなくてもいいとでも言うように。

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ろくがつ、

死神

雨が降ると、死神は制服を着るらしい。 高校二年の春、僕―朝倉 琉は、駅前の古本屋でそいつに出会った。 黒いブレザー。白いシャツ。赤いネクタイ。 どう見ても同じ学校の女子生徒なのに、店の奥で文庫本を立ち読みしているその子だけ、なぜか周囲の音から浮いていた。 なのに僕が「その本、面白い?」と聞くと、彼女はぴたりとページを止めた。 「…見えてるんだ」 「え?」 「君、死ぬ人間の匂いがする」 第一印象、最悪だった。 彼女の名前は、クロ。 本名は長すぎて人間には発音できないらしい。 「死神って、もっとこう…骸骨とかじゃないの?」 「令和の価値観にアップデートしてるの」 そう言ってクロはメロンパンをかじる。 死神のくせに、やたら食う。 放課後、屋上。 クロは僕の隣で、勝手に購買のパンを食べながら言った。 「あと三か月」 「なにが」 「君の寿命」 僕は笑った。 笑うしかなかった。 「それ、詐欺とか宗教勧誘?」 「違う。正式な死の通知」 「市役所みたいに言うな」 クロはポケットから黒い手帳を出した。 中にはびっしり名前が並んでいる。  朝倉 琉。 そこには、確かに僕の名前があった。 死亡予定日。 八月二十七日。 「夏休み終わる前じゃん…最高」 「感想そこなんだ」 「夏休みの課題やらなくて済むなって」 クロは数秒黙ったあと、吹き出した。 死神でも笑うんだ、と思った。 それからクロは毎日のように現れた。 教室の窓際。 ゲームセンター。 ファミレス。 商店街。 僕にしか見えない時もあるし、普通に見える時もあるらしい。 死神のシステムはよく分からない。 「なんで付きまとうの?」 「担当だから」 「市役所感覚で言うなって」 クロは感情が薄いくせに、妙に人間臭かった。 炭酸でむせるし、 ホラー映画でびびるし、 犬に吠えられると泣きそうな顔になる。 あと、とんでもなく方向音痴だった。 「海、見に行きたい」 そう言って電車に乗った結果、なぜか山に着いた時は笑い死ぬかと思った。 「おかしい…潮風の気配はあった」 「それたぶん森林浴」 僕らは真夏の山道を歩いた。 蝉がうるさくて、 空が痛いほど青くて、 クロは途中でアイスを二本落とした。 「死神なのに不器用すぎる」 「魂の回収はもっと上手い」 「そこだけプロなんだ……」 その時ふと、 この時間がずっと続けばいいのに、と思った。 思ってしまった。 八月。 僕はクロに聞いた。 「死ぬのって、痛い?」 「人による」 「僕は?」 「死因はわからない。」 クロはただ花火の光を見ていた。 河川敷。 夜空に大輪が咲く。 赤。 青。 金色。 その光がクロの横顔を照らしていた。 「……ねえクロ」 「なに」 「死神って恋愛禁止?」 「は?」 「いや、もし好きな人とかできたらどうすんのかなって」 クロは珍しく目をそらした。 「死神は、人間を好きにならない」 「へえ」 「好きになったら、仕事ができないから」 花火が弾ける。 音が遅れて胸に届く。 僕はその時、たぶんもう分かっていた。 自分が、クロを好きになっていること。  八月二十七日。 僕の死亡予定日。 朝からクロは何も喋らなかった。 病院の屋上。 入院着の僕。 点滴。 夏の終わりの風。 実は僕は心臓が悪かった。 ずっと隠していたけど、春からかなり危なかったらしい。 「言えよ」とクロは怒った。 「だって、死神のくせに泣きそうな顔するから」 「…するわけない」 でもクロの声は震えていた。 「ねえクロ」 「なに」 「最後に一個だけ、お願い」 クロは黙って頷く。 「君の本当の名前、教えてよ」 長い沈黙のあと、 クロは小さく笑った。 「無理。人間が聞くと死ぬ」 「今日死ぬからセーフじゃん」 「そういう問題じゃない」 僕らは笑った。 笑って、 笑って、 それから静かになった。 遠くで入道雲が崩れていく。 「…ねぇ、琉」 クロが初めて僕の名前を呼んだ。 「もし次があるなら」 「うん」 「今度はちゃんと、海に行こう」 僕は頷いた。 その瞬間。 ふっと世界の音が遠くなった。 視界が白く霞む。 ああ、終わるんだなと思った。 でも最後に見えたのは、 泣きながら笑う、死神の顔だった。 ー数年後。 春。 海辺の町。 高校へ向かう途中、僕は変な女子に話しかけられた。 「ねえ君」 黒いブレザー。 赤いネクタイ。 「…どこかで会った?」 彼女は少しだけ目を見開いて、 それから困ったように笑った。 「さあ。初対面じゃない?」 潮風が吹く。 遠くで波の音がした。 その時なぜか僕は、 無性にメロンパンが食べたくなった。

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死神

第4回NSS 毒林檎と初恋

文化祭を目前にした放課後、空き教室だけはなぜか時間が緩やかに流れていた。湿った空気。ふと彼が言った。 「こういうの、毒林檎って言うんだろうな」 相変わらず意味は教えてくれない。でも、その言葉が不思議としっくりくる瞬間を私は知っていた。例えば彼が笑うとき。優しさの奥に少し距離を感じるあの笑い方。彼はよく嘘をついた。でも嫌いにはなれなかった。その曖昧さに触れていると、自分が溶けていくようで心地よかった。 冬の気配が近づいた頃、彼は言った。 「俺、春になったらいなくなるよ」 卒業式の前日、空っぽの教室で彼と話した。彼は窓を開けながら何かを言いかけてやめ、結局背を向けた。 呼べばきっと振り返る。 でもそれをしたら、何かが変わってしまう気がした。彼が去った後に残ったのは、開いたままの窓と、かすかな甘い匂い。私はその場から動けなかった。 今でも思い出すたび胸の奥が疼く。彼がいなければ今の私はいないのかもしれない。彼の言っていた「毒林檎」はきっと形のないもの。甘くて少し痛くて、すべてを差し出せば戻れなくなるもの。結局私は最後まで口にしなかった。だから今も、その味を知らないまま、時折思い出してしまう。

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第4回NSS   毒林檎と初恋

タイムカプセル

夜の屋上の空気はぼんやりとしていた。 彼はフェンスにもたれたまま、スマホの録音アプリを開いている。赤い点が、規則正しく瞬いていた。 「これ、未来に送れるらしいよ」 唐突にそう言って、録音ボタンを押す。 「もしもし、二年後の俺。ちゃんと覚えてるか〜」 風がマイクに当たって、言葉がざらつく。 僕は少し離れた給水タンクの横でその様子を見ていた。僕達の距離はいつもこんな感じだった。 「今日、屋上に来た理由とか。たぶん忘れるだろうし」 彼は笑うでもなく、ただ続ける。 「でもさ忘れたほうがいいことって、あるよな」 その言葉だけやけに音がはっきりしていた。 録音を止めて、彼はスマホをポケットにしまう。代わりに小さな金属の箱を取り出した。角が少し潰れている。 「タイムカプセルって、埋める場所が重要らしいよ」 「へえ」 ようやく声を出すと、彼は一瞬だけこちらを見る。暗がりの中で、目だけが遅れて光る。 「でもさ、場所じゃなくて、“開ける理由”のほうが重要だと思わないか?」 返事を待たずに、彼は箱をフェンスの外に差し出した。 ここは五階だ。 落とせばたぶん壊れる。 「埋めないの?」 そう聞くと、彼は少しだけ考えるふりをしてから、首を横に振る。 「埋めたら未来があることを信じてるみたいだから嫌」 その言い方は、未来を信用していない人のそれだった。 風が強くなる。箱がかすかに揺れる。 「今、開けるかもしれないし落とすかもしれないし」 彼は指先の力を少しだけ緩める。 「それくらいのほうが、ちゃんと“今”って感じがする」 僕は、落ちていく箱の軌道を想像する。中身は知らない。でも、開けたあとの顔だけはなぜか具体的に思い浮かんだ。 「ねえ」 思わず声が出る。 彼の指が、ほんのわずかに止まる。 「それ、二年後のためじゃないの?」 沈黙が落ちる。 彼は少しだけ笑った。 「二年後の俺に渡すなら、ちゃんと渡すよ」 じゃあこれは何なのか、と聞く前に、 彼は箱を、フェンスの内側に戻した。 ただ、そのままポケットにはしまわず足元にそっと置く。 カラン、と軽い音がした。 「なあ」 今度は彼がこちらを見る。 「未来ってさ、誰のものだと思う?」 その問いは、答え方を間違えると、彼も僕もどこかに落ちてしまいそうだった。 僕はフェンスに近づいて、足元の箱を見る。 さっきよりも、ずっと重そうに見えた。 録音アプリの赤い点が、まだ消えていないことに気づく。 誰に向けた言葉なのか、もうわからなくなっていた。

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透明な君が消えるまで#12

普通の日常が戻ってきた。 あの子達はボク達に関わらなくなった。蒼真くんや湊くんが守ってくれたから。 ボクのせいで2人がって申し訳なく思う気持ちも大きい。だけど2人はいつもボクと一緒に過ごしてくれた。 2人の前では好きな物も隠さないでいられた。 「今日はちょっと天気が崩れるらしいね。」 ある日の帰り際蒼真くんがそう呟いた。 「じゃあみんなで相合傘して帰ろうぜえ?」 湊くんがボクの傘を見て笑いながら言った。 「しょーがないなあ。」 口ではそう言いながらもボクはこんな時間が楽しくて大好きだった。 「じゃあボク今日塾あるから…!また明日ね。」 「また明日!」 手を振って別れを告げて歩き出す。 塾に向かって歩いている時スマホが鳴った。 知らない番号からの着信だった。恐る恐る電話に出る。 「はい…」 「あ出た笑」 電話の向こうからひそひそと笑う声が聞こえる。 嫌な予感がした。だけど何故か電話を切ることができなかった。 「凛透ちゃーん?笑後で歩道橋の近く来れるー?」 すぐに返事ができなかった。行ったらどうなるのか想像はできないけど良いことなんてきっとない。 今度こそ通話を切ろうと思った。その時耳に流れ込んできた言葉でボクは指を止めた。 「は?無視かよ。来なかったらどうなるかわかる?笑」 「お前の“おともだち”がどうなってもしらないよ」 “おともだち” 蒼真くんと湊くんの顔が脳をよぎった。 「…い、くよ」 塾の後歩道橋の前で首を傾げた。見た限り誰もいなかった。 歩道橋を渡り始めたとき後ろで音がした。 ぱっと振り返って傘を落とした。 「蒼真…く、ん?」 落ちていく見慣れた体。後ろで笑っている電話の声の主たち。 雨だけが容赦なく髪を濡らしていく。 何も考えられなかった。

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透明な君が消えるまで#12

昔の僕へ

なんにも変わんなかったよ 少し大人に近づいたら どうにかなるかなって思ったことも 未来の自分に期待して 我慢したことも 何も変わんなかったよ 弱くて 怖がりで 何もできなくて 辛いこととかいっぱいあるよ 信じられないことが起こるよ 今まで信じてきたもの全部 ひっくり返されたよ 立ち上がれない夜なんて 数え切れないよ 消えたい気持ちは 消えないよ 今だって将来のこと 明日のことさえ 考えられなくて 前も見れなくて 振り返ってどうにもならないことを反省して バカみたいだなって思うよ だけどね 素敵な人に出会えたの このネットっていう広い世界で 寄り添ってくれる人達がいてくれるの 「なんとかなる」って励ましてくれる人達がいる 解決策を考えて一緒に戦ってくれる人達が 消えたいよ いなくなりたいよ 生きてるだけで 迷惑かけてるの でもさ もう少しだけ頑張ってみようって思える日があるんだよね 努力なんて足りなすぎるけど 僕なりには 頑張ったね 頑張ったよ 少し先の未来で待ってます。

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しぬまでにやりたかったこと

みんなが走るグラウンドで 僕だけは窓の内側 空気みたいに、そこにいるだけだった 黒板の文字よりも 背中に刺さる笑い声の方が ずっとよく見えた 「生きてる意味あんの?」 って言葉は たぶん質問じゃなくて 確認だった それでも 家に帰れば 家族がいる それだけでよかった 叩かれる手も 怒鳴る声も ちゃんと僕に向いてる証拠で 僕が出来損ないだから 当たり前なんだ 親友が 「先に行ってるね」って 冗談みたいに言ったあの日 その意味を あとから知るのは あまりにも遅すぎた 僕がはまだ ここにいる 生きてるっていうより 残ってるだけだけど それでも 朝が来るたびに 少しだけ期待してしまう もしかしたら今日こそ どれかひとつくらい 叶うんじゃないかって でもきっと 全部叶わないまま 終わるんだと思う だからせめて この上でだけは 全部、やったことにする 笑ったことも 愛されたことも ちゃんと、あったことにする ねえ 僕の人生は ちゃんと 「生きてた」って言っていいかな それだけが 最後にやりたかったことだから

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【第9回N 1】過去時計

教室の時計は、壊れているわけでもないのにどこかぎこちなく時を刻んでいた。 秒針が進むたび、わずかにためらう。その一瞬の引っかかりが、僕はやけに気になっていた。 「逆に回ったらいいのにね」 窓際の席で、彼女は唐突にそう言った。名前は朝比奈。春の終わりに転校してきたばかりでまだ誰とも深く話していないはずなのに、なぜか僕にはよく話しかけてくる。 「時間が?」 「うん。反時計回り。そしたら、ちょっとくらいはやり直せるでしょ」 冗談みたいに笑うけれど、その目は冗談を言う人のものじゃなかった。 僕は曖昧にうなずいた。やり直したいことなんて、誰にでもある。でもそれを口に出すのは思っているよりずっと苦しい。 放課後、校舎裏の自販機の前で、彼女はまた同じ話をした。炭酸の抜けかけたサイダーを飲みながら、ぽつりぽつりと。 「ねえ、もし本当に逆に回せたらさ、どこまで戻る?」 「さあ…昨日とか?」 「つまんない。もっと戻ればいいのに。入学式とか、小学校とか、いっそ生まれる前とか」 軽やかに言うけれど、その言葉の先にあるものは軽くなかった。 僕は返事を探して結局何も言えなかった。 沈黙の代わりに、風が吹いた。 グラウンドの砂を巻き上げて校舎の壁にぶつかる。春の終わりの風は、どこか夏の匂いが混じっていて少しだけ息苦しい。 「苦しいよね、前に進むのって」 彼女は空を見上げたまま言った。 「でも止まるのも、もっと苦しい」 そのとき初めて、僕は彼女が何かから逃げているんじゃなくて、何かを必死に追いかけているんだと気づいた。見えない時間の流れを逆走するみたいに。 それから僕たちは、放課後に会うようになった。特別なことは何もしない。ただ歩くだけ。川沿いの道を、駅とは逆方向へ。人の少ないほうへ、夕日が沈むほうへ。 「なんで逆に行くの?」 ある日、僕が聞くと、彼女は少し考えてから言った。 「流れに乗るのって楽じゃん。でも、それだとどこに行くか自分で決められない気がして」 「じゃあ、逆らってれば決められるの?」 「わかんない。でも、少なくとも“選んでる”感じはする」 その言葉は、不思議と胸に残った。選ぶことは、苦しい。でも選ばないまま流されるのも別の苦しさがある。 六月の終わり、雨の日が続いた。川は濁って、流れも速くなる。僕たちは橋の上に立って、しばらく水面を見ていた。 「ねえ」 彼女が言った。 「ほんとはさ、戻りたい日があるの」 「…どこ?」 「一年前の。今日」 雨音に紛れて、彼女の声は少しだけ震えていた。 「大事な約束、破っちゃったの。どうでもいいことで、後回しにして。そのまま会えなくなった」 僕は何も言えなかった。言葉にできることはたいてい薄っぺらい。 「だからさ、せめて歩く方向くらいは逆にしようと思って」 彼女は笑った。泣いているのか笑っているのか、よくわからない顔だった。 「時間は戻らないけど気持ちはちょっとだけ逆らえるでしょ」 その日、僕たちは初めて駅のほうへ歩いた。 人の流れに紛れて、いつもの逆を行くのをやめてみた。 不思議なことに、苦しさはあまり変わらなかった。でも、少しだけ風が通った気がした。 夏休みの前日、彼女はまた転校することになったと言った。 理由は聞かなかった。聞けば、たぶん何かが決定的に終わってしまう気がしたから。 「最後にさ」 校門の前で、彼女は振り返った。 「一回だけ時計、逆に回そうよ」 「どうやって?」 「こうやって」 彼女は腕時計を外して、くるりと逆向きに回した。秒針は当然、前にしか進まない。それでも彼女は満足そうにうなずいた。 「ほら、ちょっとだけ戻った気しない?」 僕も真似してみた。何も変わらないはずなのに、ほんの一瞬だけ、昨日より前に立っているような気がした。 「ね」 彼女は言った。 「戻れないから、進めるんだよ」 風が吹いた。今度は、少しだけ涼しかった。 彼女がいなくなったあとも、教室の時計は相変わらずぎこちなく動いている。秒針は、やっぱり時々ためらう。 でもその一瞬の引っかかりが今は少しだけ好きだ。そこに、小さな“逆向き”がある気がするから。 僕は今日も歩く。 前に進みながら、ときどき心の中でだけ反時計回りに。苦しさを抱えたまま、それでもどこかで風を感じながら。

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明日、ー

屋上の柵は、思っていたより低かった。 乗り越えようと思えば、簡単に越えられる高さだった。 風が強くて、シャツの裾がばたつく。グラウンドの声は遠くて、別の世界みたいに聞こえた。 「ここから飛んだら、どうなるんだろうな」 独り言のつもりだった。 「普通に死ぬんじゃない?」 後ろから声がした。 振り返ると、見たことない男子が、給水塔にもたれて立っていた。 いつからいたのか分からない。 「……誰」 「同じクラス」 そう言って、面倒くさそうに目を細めた。 「教室行ったことないんだけど」 ああ、と思った。名前も顔も知らない“出席番号だけ存在するやつ”。そういうのが、確かにいた気がする。 「で、飛ぶの?」 軽い口調だった。 止めるでもなく、驚くでもなく、本当にただの確認みたいに。 「…まだ」 「まだ、か」 彼は近づいてきて、僕の隣じゃなく、少し離れたところで立ち止まった。 柵の内側で。 「やめといた方がいいよ」 「なんで」 「めんどいから」 予想外の答えだった。 「死ぬのも、生きるのも、大体めんどいけどさ」 空を見上げる。 「その中でわざわざ“飛ぶ”っていうイベント挟むの、コスパ悪くない?」 思わず、少しだけ笑った。 何だそれ。 それが最初だった。 次の日も、僕は屋上に行った。 彼はいた。 その次の日も、そのまた次も。 「お前、なんで毎日来てんの」 「なんでだろね」 「屋上ってそんな魅力ないぞ」 彼はいつも適当だった。 名前も名乗らないし、僕の名前も聞かない。会話も、途切れ途切れで、意味があるのかないのか分からない。 でも、気づいたら僕はそこに行くのが当たり前になっていた。 「お前さ」 ある日、彼が言った。 「頑張りすぎじゃない?」 唐突だった。 「別に」 「嘘」 即答された。 「顔に出てる」 むかついた。 でも、否定できなかった。 「ちゃんとやらないとダメだろ」 そう言うと、彼は肩をすくめた。 「誰が決めたの、それ」 「…普通はそうだろ」 「“普通”って便利だよな」 彼は笑った。 「自分が決めたことを、人のせいにできるから」 言い返せなかった。 それから、少しずつ話すことが増えた。 家のことは言わなかった。でも、学校のことは話した。 うまくやれないこと。頑張っても空回りすること。誰にも必要とされてない気がすること。 彼は、ほとんど共感しなかった。 「ふーん」 「まあ、そういう日もあるんじゃない」 それだけだった。 でも、なぜかそれで十分だった。 否定されないことが、こんなに楽だとは思わなかった。 もう僕は柵に手をかけなかった。 ただ、空を見ていた。 「飛ばないの」 彼が言う。 「飛ばない」 「そっか」 それだけ。 でも、その一言で、何かが少し変わった気がした。 「なあ」 僕は言った。 「もしさ、あの時飛んでたらどうなってたかな」 彼は少し考えてから言った。 「さあ」 いつもの答え。 でも、そのあとで続けた。 「でもまあ」 「今、生きてるなら、それでいいんじゃない」 その日、初めて思った。 もう少し、生きてもいいかもしれない って。 数日後。 帰り道だった。 特別な日じゃなかった。いつも通りの、つまらない一日だった。 でも、前より少しだけ、嫌じゃなかった。 信号を待ちながら、ふと空を見る。 屋上から見たのと、同じ空だった。 そのとき— ブレーキの音がした。 次に目を開けたとき、真っ白な世界にいた。 知らない場所。 体は動かなかった。 音が遠い。 誰かが何か言っている。 でも、意味が入ってこない。 次に屋上に行けたのは、いつだったのか分からない。 時間の感覚が曖昧だった。 でも、気づいたらそこに立っていた。 いつもの場所。 風。 空。 そして— 彼がいた。 「遅い」 いつも通りの声だった。 「…ああ」 なぜか、少し笑ってしまった。 「ごめん」 彼は僕の顔を見て、少しだけ目を細めた。 「今日でお別れ?」 あまりにも軽くて、現実感がなかった。 「……たぶん」 「そっか」 それだけだった。 しばらく、何も話さなかった。 風の音だけがする。 「なあ」 僕は言った。 「僕さ」 少しだけ、言葉を選ぶ。 「生きようって、思ってたんだ」 彼は頷いた。 「知ってる」 「なんで」 「顔に出てた」 少しだけ、悔しかった。 「理不尽だよな」 ぽつりとこぼす。 「まあね」 彼はあっさり言った。 「でもさ」 空を見る。 「そんなもんじゃない?」 「…軽いな」 「重くしても、変わんないし」 そのとき、ふと思った。 ずっと引っかかっていたこと。 「お前さ」 「ん?」 「なんで、あの日、声かけたの」 「なんでだろうな」 最後の最後まで軽くて。適当で。 だけど最期に見えたのは彼の初めて見る寂しそうな笑顔だったー

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