叶夢 衣緒。/海月様の猫

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叶夢 衣緒。/海月様の猫

綺麗事が救いにならない夜の話。 正しさに置いていかれた感情と、 救われなかった青春の残骸。 優しい言葉ほど、いちばん痛い。 2023年 2月27日start 3月3日初投稿

第4回NSS 毒林檎と初恋

文化祭を目前にした放課後、空き教室だけはなぜか時間が緩やかに流れていた。湿った空気。ふと彼が言った。 「こういうの、毒林檎って言うんだろうな」 相変わらず意味は教えてくれない。でも、その言葉が不思議としっくりくる瞬間を私は知っていた。例えば彼が笑うとき。優しさの奥に少し距離を感じるあの笑い方。彼はよく嘘をついた。でも嫌いにはなれなかった。その曖昧さに触れていると、自分が溶けていくようで心地よかった。 冬の気配が近づいた頃、彼は言った。 「俺、春になったらいなくなるよ」 卒業式の前日、空っぽの教室で彼と話した。彼は窓を開けながら何かを言いかけてやめ、結局背を向けた。 呼べばきっと振り返る。 でもそれをしたら、何かが変わってしまう気がした。彼が去った後に残ったのは、開いたままの窓と、かすかな甘い匂い。私はその場から動けなかった。 今でも思い出すたび胸の奥が疼く。彼がいなければ今の私はいないのかもしれない。彼の言っていた「毒林檎」はきっと形のないもの。甘くて少し痛くて、すべてを差し出せば戻れなくなるもの。結局私は最後まで口にしなかった。だから今も、その味を知らないまま、時折思い出してしまう。

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第4回NSS   毒林檎と初恋

タイムカプセル

夜の屋上の空気はぼんやりとしていた。 彼はフェンスにもたれたまま、スマホの録音アプリを開いている。赤い点が、規則正しく瞬いていた。 「これ、未来に送れるらしいよ」 唐突にそう言って、録音ボタンを押す。 「もしもし、二年後の俺。ちゃんと覚えてるか〜」 風がマイクに当たって、言葉がざらつく。 僕は少し離れた給水タンクの横でその様子を見ていた。僕達の距離はいつもこんな感じだった。 「今日、屋上に来た理由とか。たぶん忘れるだろうし」 彼は笑うでもなく、ただ続ける。 「でもさ忘れたほうがいいことって、あるよな」 その言葉だけやけに音がはっきりしていた。 録音を止めて、彼はスマホをポケットにしまう。代わりに小さな金属の箱を取り出した。角が少し潰れている。 「タイムカプセルって、埋める場所が重要らしいよ」 「へえ」 ようやく声を出すと、彼は一瞬だけこちらを見る。暗がりの中で、目だけが遅れて光る。 「でもさ、場所じゃなくて、“開ける理由”のほうが重要だと思わないか?」 返事を待たずに、彼は箱をフェンスの外に差し出した。 ここは五階だ。 落とせばたぶん壊れる。 「埋めないの?」 そう聞くと、彼は少しだけ考えるふりをしてから、首を横に振る。 「埋めたら未来があることを信じてるみたいだから嫌」 その言い方は、未来を信用していない人のそれだった。 風が強くなる。箱がかすかに揺れる。 「今、開けるかもしれないし落とすかもしれないし」 彼は指先の力を少しだけ緩める。 「それくらいのほうが、ちゃんと“今”って感じがする」 僕は、落ちていく箱の軌道を想像する。中身は知らない。でも、開けたあとの顔だけはなぜか具体的に思い浮かんだ。 「ねえ」 思わず声が出る。 彼の指が、ほんのわずかに止まる。 「それ、二年後のためじゃないの?」 沈黙が落ちる。 彼は少しだけ笑った。 「二年後の俺に渡すなら、ちゃんと渡すよ」 じゃあこれは何なのか、と聞く前に、 彼は箱を、フェンスの内側に戻した。 ただ、そのままポケットにはしまわず足元にそっと置く。 カラン、と軽い音がした。 「なあ」 今度は彼がこちらを見る。 「未来ってさ、誰のものだと思う?」 その問いは、答え方を間違えると、彼も僕もどこかに落ちてしまいそうだった。 僕はフェンスに近づいて、足元の箱を見る。 さっきよりも、ずっと重そうに見えた。 録音アプリの赤い点が、まだ消えていないことに気づく。 誰に向けた言葉なのか、もうわからなくなっていた。

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透明な君が消えるまで#12

普通の日常が戻ってきた。 あの子達はボク達に関わらなくなった。蒼真くんや湊くんが守ってくれたから。 ボクのせいで2人がって申し訳なく思う気持ちも大きい。だけど2人はいつもボクと一緒に過ごしてくれた。 2人の前では好きな物も隠さないでいられた。 「今日はちょっと天気が崩れるらしいね。」 ある日の帰り際蒼真くんがそう呟いた。 「じゃあみんなで相合傘して帰ろうぜえ?」 湊くんがボクの傘を見て笑いながら言った。 「しょーがないなあ。」 口ではそう言いながらもボクはこんな時間が楽しくて大好きだった。 「じゃあボク今日塾あるから…!また明日ね。」 「また明日!」 手を振って別れを告げて歩き出す。 塾に向かって歩いている時スマホが鳴った。 知らない番号からの着信だった。恐る恐る電話に出る。 「はい…」 「あ出た笑」 電話の向こうからひそひそと笑う声が聞こえる。 嫌な予感がした。だけど何故か電話を切ることができなかった。 「凛透ちゃーん?笑後で歩道橋の近く来れるー?」 すぐに返事ができなかった。行ったらどうなるのか想像はできないけど良いことなんてきっとない。 今度こそ通話を切ろうと思った。その時耳に流れ込んできた言葉でボクは指を止めた。 「は?無視かよ。来なかったらどうなるかわかる?笑」 「お前の“おともだち”がどうなってもしらないよ」 “おともだち” 蒼真くんと湊くんの顔が脳をよぎった。 「…い、くよ」 塾の後歩道橋の前で首を傾げた。見た限り誰もいなかった。 歩道橋を渡り始めたとき後ろで音がした。 ぱっと振り返って傘を落とした。 「蒼真…く、ん?」 落ちていく見慣れた体。後ろで笑っている電話の声の主たち。 雨だけが容赦なく髪を濡らしていく。 何も考えられなかった。

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透明な君が消えるまで#12

昔の僕へ

なんにも変わんなかったよ 少し大人に近づいたら どうにかなるかなって思ったことも 未来の自分に期待して 我慢したことも 何も変わんなかったよ 弱くて 怖がりで 何もできなくて 辛いこととかいっぱいあるよ 信じられないことが起こるよ 今まで信じてきたもの全部 ひっくり返されたよ 立ち上がれない夜なんて 数え切れないよ 消えたい気持ちは 消えないよ 今だって将来のこと 明日のことさえ 考えられなくて 前も見れなくて 振り返ってどうにもならないことを反省して バカみたいだなって思うよ だけどね 素敵な人に出会えたの このネットっていう広い世界で 寄り添ってくれる人達がいてくれるの 「なんとかなる」って励ましてくれる人達がいる 解決策を考えて一緒に戦ってくれる人達が 消えたいよ いなくなりたいよ 生きてるだけで 迷惑かけてるの でもさ もう少しだけ頑張ってみようって思える日があるんだよね 努力なんて足りなすぎるけど 僕なりには 頑張ったね 頑張ったよ 少し先の未来で待ってます。

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しぬまでにやりたかったこと

みんなが走るグラウンドで 僕だけは窓の内側 空気みたいに、そこにいるだけだった 黒板の文字よりも 背中に刺さる笑い声の方が ずっとよく見えた 「生きてる意味あんの?」 って言葉は たぶん質問じゃなくて 確認だった それでも 家に帰れば 家族がいる それだけでよかった 叩かれる手も 怒鳴る声も ちゃんと僕に向いてる証拠で 僕が出来損ないだから 当たり前なんだ 親友が 「先に行ってるね」って 冗談みたいに言ったあの日 その意味を あとから知るのは あまりにも遅すぎた 僕がはまだ ここにいる 生きてるっていうより 残ってるだけだけど それでも 朝が来るたびに 少しだけ期待してしまう もしかしたら今日こそ どれかひとつくらい 叶うんじゃないかって でもきっと 全部叶わないまま 終わるんだと思う だからせめて この上でだけは 全部、やったことにする 笑ったことも 愛されたことも ちゃんと、あったことにする ねえ 僕の人生は ちゃんと 「生きてた」って言っていいかな それだけが 最後にやりたかったことだから

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【第9回N 1】過去時計

教室の時計は、壊れているわけでもないのにどこかぎこちなく時を刻んでいた。 秒針が進むたび、わずかにためらう。その一瞬の引っかかりが、僕はやけに気になっていた。 「逆に回ったらいいのにね」 窓際の席で、彼女は唐突にそう言った。名前は朝比奈。春の終わりに転校してきたばかりでまだ誰とも深く話していないはずなのに、なぜか僕にはよく話しかけてくる。 「時間が?」 「うん。反時計回り。そしたら、ちょっとくらいはやり直せるでしょ」 冗談みたいに笑うけれど、その目は冗談を言う人のものじゃなかった。 僕は曖昧にうなずいた。やり直したいことなんて、誰にでもある。でもそれを口に出すのは思っているよりずっと苦しい。 放課後、校舎裏の自販機の前で、彼女はまた同じ話をした。炭酸の抜けかけたサイダーを飲みながら、ぽつりぽつりと。 「ねえ、もし本当に逆に回せたらさ、どこまで戻る?」 「さあ…昨日とか?」 「つまんない。もっと戻ればいいのに。入学式とか、小学校とか、いっそ生まれる前とか」 軽やかに言うけれど、その言葉の先にあるものは軽くなかった。 僕は返事を探して結局何も言えなかった。 沈黙の代わりに、風が吹いた。 グラウンドの砂を巻き上げて校舎の壁にぶつかる。春の終わりの風は、どこか夏の匂いが混じっていて少しだけ息苦しい。 「苦しいよね、前に進むのって」 彼女は空を見上げたまま言った。 「でも止まるのも、もっと苦しい」 そのとき初めて、僕は彼女が何かから逃げているんじゃなくて、何かを必死に追いかけているんだと気づいた。見えない時間の流れを逆走するみたいに。 それから僕たちは、放課後に会うようになった。特別なことは何もしない。ただ歩くだけ。川沿いの道を、駅とは逆方向へ。人の少ないほうへ、夕日が沈むほうへ。 「なんで逆に行くの?」 ある日、僕が聞くと、彼女は少し考えてから言った。 「流れに乗るのって楽じゃん。でも、それだとどこに行くか自分で決められない気がして」 「じゃあ、逆らってれば決められるの?」 「わかんない。でも、少なくとも“選んでる”感じはする」 その言葉は、不思議と胸に残った。選ぶことは、苦しい。でも選ばないまま流されるのも別の苦しさがある。 六月の終わり、雨の日が続いた。川は濁って、流れも速くなる。僕たちは橋の上に立って、しばらく水面を見ていた。 「ねえ」 彼女が言った。 「ほんとはさ、戻りたい日があるの」 「…どこ?」 「一年前の。今日」 雨音に紛れて、彼女の声は少しだけ震えていた。 「大事な約束、破っちゃったの。どうでもいいことで、後回しにして。そのまま会えなくなった」 僕は何も言えなかった。言葉にできることはたいてい薄っぺらい。 「だからさ、せめて歩く方向くらいは逆にしようと思って」 彼女は笑った。泣いているのか笑っているのか、よくわからない顔だった。 「時間は戻らないけど気持ちはちょっとだけ逆らえるでしょ」 その日、僕たちは初めて駅のほうへ歩いた。 人の流れに紛れて、いつもの逆を行くのをやめてみた。 不思議なことに、苦しさはあまり変わらなかった。でも、少しだけ風が通った気がした。 夏休みの前日、彼女はまた転校することになったと言った。 理由は聞かなかった。聞けば、たぶん何かが決定的に終わってしまう気がしたから。 「最後にさ」 校門の前で、彼女は振り返った。 「一回だけ時計、逆に回そうよ」 「どうやって?」 「こうやって」 彼女は腕時計を外して、くるりと逆向きに回した。秒針は当然、前にしか進まない。それでも彼女は満足そうにうなずいた。 「ほら、ちょっとだけ戻った気しない?」 僕も真似してみた。何も変わらないはずなのに、ほんの一瞬だけ、昨日より前に立っているような気がした。 「ね」 彼女は言った。 「戻れないから、進めるんだよ」 風が吹いた。今度は、少しだけ涼しかった。 彼女がいなくなったあとも、教室の時計は相変わらずぎこちなく動いている。秒針は、やっぱり時々ためらう。 でもその一瞬の引っかかりが今は少しだけ好きだ。そこに、小さな“逆向き”がある気がするから。 僕は今日も歩く。 前に進みながら、ときどき心の中でだけ反時計回りに。苦しさを抱えたまま、それでもどこかで風を感じながら。

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明日、ー

屋上の柵は、思っていたより低かった。 乗り越えようと思えば、簡単に越えられる高さだった。 風が強くて、シャツの裾がばたつく。グラウンドの声は遠くて、別の世界みたいに聞こえた。 「ここから飛んだら、どうなるんだろうな」 独り言のつもりだった。 「普通に死ぬんじゃない?」 後ろから声がした。 振り返ると、見たことない男子が、給水塔にもたれて立っていた。 いつからいたのか分からない。 「……誰」 「同じクラス」 そう言って、面倒くさそうに目を細めた。 「教室行ったことないんだけど」 ああ、と思った。名前も顔も知らない“出席番号だけ存在するやつ”。そういうのが、確かにいた気がする。 「で、飛ぶの?」 軽い口調だった。 止めるでもなく、驚くでもなく、本当にただの確認みたいに。 「…まだ」 「まだ、か」 彼は近づいてきて、僕の隣じゃなく、少し離れたところで立ち止まった。 柵の内側で。 「やめといた方がいいよ」 「なんで」 「めんどいから」 予想外の答えだった。 「死ぬのも、生きるのも、大体めんどいけどさ」 空を見上げる。 「その中でわざわざ“飛ぶ”っていうイベント挟むの、コスパ悪くない?」 思わず、少しだけ笑った。 何だそれ。 それが最初だった。 次の日も、僕は屋上に行った。 彼はいた。 その次の日も、そのまた次も。 「お前、なんで毎日来てんの」 「なんでだろね」 「屋上ってそんな魅力ないぞ」 彼はいつも適当だった。 名前も名乗らないし、僕の名前も聞かない。会話も、途切れ途切れで、意味があるのかないのか分からない。 でも、気づいたら僕はそこに行くのが当たり前になっていた。 「お前さ」 ある日、彼が言った。 「頑張りすぎじゃない?」 唐突だった。 「別に」 「嘘」 即答された。 「顔に出てる」 むかついた。 でも、否定できなかった。 「ちゃんとやらないとダメだろ」 そう言うと、彼は肩をすくめた。 「誰が決めたの、それ」 「…普通はそうだろ」 「“普通”って便利だよな」 彼は笑った。 「自分が決めたことを、人のせいにできるから」 言い返せなかった。 それから、少しずつ話すことが増えた。 家のことは言わなかった。でも、学校のことは話した。 うまくやれないこと。頑張っても空回りすること。誰にも必要とされてない気がすること。 彼は、ほとんど共感しなかった。 「ふーん」 「まあ、そういう日もあるんじゃない」 それだけだった。 でも、なぜかそれで十分だった。 否定されないことが、こんなに楽だとは思わなかった。 もう僕は柵に手をかけなかった。 ただ、空を見ていた。 「飛ばないの」 彼が言う。 「飛ばない」 「そっか」 それだけ。 でも、その一言で、何かが少し変わった気がした。 「なあ」 僕は言った。 「もしさ、あの時飛んでたらどうなってたかな」 彼は少し考えてから言った。 「さあ」 いつもの答え。 でも、そのあとで続けた。 「でもまあ」 「今、生きてるなら、それでいいんじゃない」 その日、初めて思った。 もう少し、生きてもいいかもしれない って。 数日後。 帰り道だった。 特別な日じゃなかった。いつも通りの、つまらない一日だった。 でも、前より少しだけ、嫌じゃなかった。 信号を待ちながら、ふと空を見る。 屋上から見たのと、同じ空だった。 そのとき— ブレーキの音がした。 次に目を開けたとき、真っ白な世界にいた。 知らない場所。 体は動かなかった。 音が遠い。 誰かが何か言っている。 でも、意味が入ってこない。 次に屋上に行けたのは、いつだったのか分からない。 時間の感覚が曖昧だった。 でも、気づいたらそこに立っていた。 いつもの場所。 風。 空。 そして— 彼がいた。 「遅い」 いつも通りの声だった。 「…ああ」 なぜか、少し笑ってしまった。 「ごめん」 彼は僕の顔を見て、少しだけ目を細めた。 「今日でお別れ?」 あまりにも軽くて、現実感がなかった。 「……たぶん」 「そっか」 それだけだった。 しばらく、何も話さなかった。 風の音だけがする。 「なあ」 僕は言った。 「僕さ」 少しだけ、言葉を選ぶ。 「生きようって、思ってたんだ」 彼は頷いた。 「知ってる」 「なんで」 「顔に出てた」 少しだけ、悔しかった。 「理不尽だよな」 ぽつりとこぼす。 「まあね」 彼はあっさり言った。 「でもさ」 空を見る。 「そんなもんじゃない?」 「…軽いな」 「重くしても、変わんないし」 そのとき、ふと思った。 ずっと引っかかっていたこと。 「お前さ」 「ん?」 「なんで、あの日、声かけたの」 「なんでだろうな」 最後の最後まで軽くて。適当で。 だけど最期に見えたのは彼の初めて見る寂しそうな笑顔だったー

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“卒業式”

卒業式の朝は、少しだけ世界が静かになる。 体育館へ向かう廊下の窓から、春の光が斜めに差し込んでいた。 床に伸びる光の帯を、俺はゆっくり跨いで歩く。 今日で、全部終わる。 三年間通ったこの校舎も、放課後に無意味に残った教室も、屋上の錆びたフェンスも。 全部「思い出」になる。 「……おはよ」 声がして振り向くと、そこにあいつが立っていた。 制服の襟は少し曲がっていて、ネクタイは相変わらず緩い。 髪も寝癖がついたままだ。 いつも通りだった。 「遅いぞ」 「今日くらい許せよ」 俺が言うと、あいつは笑った。 三年の間、ずっと一緒だった。 クラスが離れても、昼はなぜか同じ場所で弁当を食って、帰り道もだいたい同じ。 特別な理由なんてない。ただ、気づけば隣にいた。 体育館に向かう途中、あいつが言う。 「なあ」 「ん?」 「卒業したらさ、お前どうすんの」 「大学」 「ふーん」 あいつは窓の外を見た。 校庭では、在校生が卒業式の準備をしている。 「俺さ」 そこで言葉が途切れる。 「なんだよ」 「……いや、なんでもない」 変なやつだと思った。 昔から、あいつはたまにそういう顔をする。 言葉の続きを、飲み込むみたいな顔。 体育館の前に着くと、人の流れが止まった。 列を作って入場するらしい。 ざわざわした空気の中で、あいつが急に言った。 「なあ、覚えてる?」 「何を」 「二年の夏」 「あー……花火?」 「そう」 河川敷で見た、でかいやつ。 帰り道、コンビニでアイスを買って。 溶ける前に食えって競争して。 「あれさ」 あいつは少し笑った。 「俺、すげえ楽しかった」 「俺も」 そう言うと、なぜかあいつは少し驚いた顔をした。 「そっか」 それだけ言って、前を向く。 列が動く。 体育館の扉が開いて、拍手が聞こえる。 卒業生入場。 俺は一歩踏み出した。 ―そのとき。 ふと気づいた。 隣に、あいつがいない。 振り返る。 誰もいない。 「……?」 おかしい。 さっきまで、 「どうした?」 後ろのやつに言われて、俺は慌てて歩き出した。 席に座ってからも、ずっと周りを見ていた。 でも、あいつの姿は見つからない。 式が始まる。 校長の話。 来賓の祝辞。 卒業証書授与。 名前が一人ずつ呼ばれていく。 「――三年二組」 俺はぼんやり聞いていた。 「……」 そして。 一つの名前で、空気が少し止まった。 「――欠席」 それだけだった。 ざわめきが、すぐに消える。 俺の手が、膝の上で固まった。 そうだった。 思い出した。 三日前。 交通事故。 夜。 自転車。 ニュースみたいに、先生が説明していた。 葬式も、もう終わった。 俺は、ちゃんと聞いていたはずだった。 なのに。 なのにさっきまで―― 「遅いぞ」 「今日くらい許せよ」 声が、まだ耳に残っている。 式の終わり、体育館の外に出ると、春の風が吹いていた。 校庭には笑い声と、写真を撮る声。 みんな未来の話をしている。 俺は校舎の裏へ回った。 屋上のフェンスが見える場所。 放課後、よく座っていた段差に腰を下ろす。 空は、やけに青かった。 ポケットに手を入れると、何かが触れた。 コンビニのレシート。 昨日のものじゃない。 もっと前。 二年の夏。 アイス二本。 その裏に、落書きみたいな字。 「負けたやつジュースおごり」 あいつの字だった。 俺は思わず笑った。 「……バカだな」 風が吹く。 遠くで、卒業式の歌が聞こえる。 ふと、隣に気配がした気がした。 振り向く。 もちろん、誰もいない。 でも。 なんとなく、わかる。 あいつは多分、ちゃんと卒業したんだ。 俺と一緒に。 だから俺は立ち上がる。 「じゃあな」 誰もいない空に向かって言う。 「またどっかで」 春の空は、少しだけ優しかった。

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奇跡

花屋で働くようになって、花言葉を覚えた。 赤いバラは「愛」。 カスミソウは「感謝」。 そして、青いバラ。 花言葉は——「奇跡」。 彼女が店に来るのは、いつも金曜日だった。 「青いバラ、一本ください」 最初は不思議だった。 青いバラは、あまりプレゼントに選ばない。 でも彼女は、毎週必ずそれを買う。 「贈り物ですか?」 そう聞くと、彼女は微笑んだ。 「好きな人に」 その笑顔が、なぜか寂しそうだった。 季節が三つ変わる頃には、 僕は彼女のことを好きになっていた。 名前も知らないのに。 金曜日が来るのが楽しみで、 彼女が帰ると少し寂しかった。 ある日、僕は勇気を出した。 「その人、幸せですね」 彼女は不思議そうに聞いた。 「どうして?」 「だって、こんなに想われてる」 彼女は少しだけ黙って、そして言った。 「……会えない人なの」 それを知ったのは、偶然だった。 配達の帰り道、墓地を通ったとき。 見覚えのある後ろ姿があった。 彼女だった。 墓石の前に、青いバラを一本置いている。 僕はその場で立ち止まった。 風の中で、彼女の声が聞こえた。 「今日も来たよ」 墓石に刻まれていた文字。 享年 二十三 胸が締めつけられた。 次の金曜日。 彼女は、いつも通り店に来た。 「青いバラ、ありますか?」 僕はうなずいた。 でも渡す前に言った。 「……あの、この前お墓の前で偶然ー」 彼女は少し驚いた顔をした。 沈黙のあと、彼女は小さく笑った。 「そっか。あのね」 彼女は言った。 「私、ずっと待ってるの」 「なにを、」 僕が聞くと、彼女はうなずいた。 「奇跡を。夢でもいいから、もう一回会えたらって」 その言葉が、彼女の真っ直ぐな目が痛かった。 僕はその日、青いバラを二本渡した。 「一本多いですよ?」 彼女は言った。 僕は笑った。 「サービスです」 彼女は少し驚いて、でも嬉しそうに笑った。 その笑顔を見て、思った。 きっと僕は、この人を一生好きなんだろう。 次の金曜日。 彼女は来なかった。 その次も。 その次の週も。 心配になって、僕は墓地へ行った。 あの墓の前に。 そこには青いバラが一本あった。 そして、その隣に 新しい花が置かれていた。 白い花。 墓石の前に、もう一つの名前が刻まれていた。 常連の女の人が教えてくれた。 小さな事故だったらしい。 僕は青いバラを一本置いた。 そして、やっと気づいた。 彼女は言っていた。 「奇跡を待ってる」って。 もしかしたら。 本当に奇跡が起きたのかもしれない。 青いバラの花言葉は 「奇跡」。 二本で 「2人だけの世界。」 遠くで風が吹いた。 青い花びらが揺れた。 まるで誰かが笑ったみたいに。

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奇跡

あの日の話

朝六時、父の目覚ましが鳴る。 止める音が乱暴で、それで目が覚める。僕の部屋には時計がないから、父さんの機嫌で時間を知る。 キッチンから音がする。 母さんはいつも無言で朝ごはんを作る。 僕はゆっくり起き上がる。 少し早い鼓動を気のせいだと落ち着ける。 「いつまで寝てるの」 扉の向こうから声が飛ぶ。 「ごめんなさい」 そう答えると、静かにため息をつかれる。何が正解かなんてわからない。 朝ご飯は食べない。食欲なんて全くなくて食べれない。 父さんは新聞を読んでいる。 僕が座っても、目を上げない。 「昨日の復習は」 いきなり聞かれる。 「しました」 「何時まで」 「十時半」 新聞がぱさりと鳴る。 「遅いな。無駄が多いんじゃないか」 無駄、という言葉は便利だ。 何にでも使える。 テストで一位を取っても、 病院から戻ってきても、 熱が下がっても。 全部、「無駄が多い」で片付く。 妹が起きてくる。 スマホを片手に明るく挨拶をする。 「××と比べてあんたは出来損ないだから」 耳にタコができるほど聞いた言葉。 「テストで一位とれたからって偉いわけじゃないのよ。上には上がいるんだから」 自分が偉いなんて思ったことない。 “出来損ない”その通りだと思う。 家では一番下だ。 それが、うちの決まりみたいだ。 学校から帰る。寄り道なんてしない。友達もいない。 逃げれない。 少しでも横になると、「また?」と言われる。 だから、机に座る。 鉛筆を持つ手がだるい。 でも、それを理由にしたら負けだ。 父さんは仕事から帰ると、僕の机をのぞく。 「姿勢が悪い」 背中を押される。 ぐっと前に押される。 一瞬、息が詰まる。 「そんなだから体も弱い」 全部、つながっているらしい。 僕の体調も、成績も、性格も、 全部、僕のせいで、全部、努力不足。 夕飯のとき、テレビはついている。 ニュースで、どこかの誰かが賞を取った話をしている。 「ほら、同い年だ」 母さんが言う。 「世界で活躍してる子もいるのよ」 僕は味噌汁を飲む。 熱い。 舌が少し痛い。 でも、顔には出さない。 出したら、「大げさ」と言われるから。 お腹なんて空いてない。少し食べただけで気持ち悪い。 食べなきゃ体調は良くならない。 食べなきゃ元気になれない。 知ってる。僕が一番分かってる。 父が言う。 「お前は環境に恵まれてるんだ。塾にも行かせてる。飯も食わせてる。何が不満だ」 不満なんて、ない。 あるとしたら、それを言えないことくらいだ。 でも、それは不満とは呼ばないらしい。 夜、咳が出る。 止まらなくなる。 呼吸の仕方がわからなくなる。 一回だけ。 扉の向こうで、舌打ちがする。 それだけで、次の咳を飲み込む。 胸がひりひりする。 布団の中で、天井を見つめる。 僕は考える。 このまま息が止まればいいのに。 殴られる日のほうが、まだわかりやすい。 音がして、痛くて、終わる。 でも、何も起きない日のほうが長い。 怒鳴られない日。 叩かれない日。 刃物を、向けられない日。 ただ、少しずつ削られる日。 「もっと頑張れ」 「甘えるな」 「普通にしろ」 普通って、何だろう。 僕はたぶん、壊れてはいない。 だから、この家では問題はないことになっている。 暴力も、怒鳴るのも、指導のうち。 体が弱いのは、僕の責任。 ちゃんと理屈が通っている。 だから誰も困らない。 僕以外は。 眠る前、静かな家の音を聞く。 冷蔵庫の低い唸り声。 父さんのいびき。 母さんの寝返り。 妹のスマホから漏れている音楽。 僕の咳だけが、いらない音みたいだ。 僕の存在だけがいらない。 音を立てなければ。 できるだけ、存在しないみたいに。

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