薫
3 件の小説豊寿村と朔に就て
楢野辺(ならのべ)の深い山林間に、豊寿村(とよひさむら)は在ると云う。 人口四十人にも満たぬ、小さな集落である。 朝、中央に聳える一本杉の影が西の三角岩を昏く染め、夕刻、それが東の赤い祠に掛かるまで、——村民は殆ど働かない。 彼らは、それでも豊かに生きられるのだ。 澄んだ水が流れる白い川縁には、一年中鮎や山女魚(ヤマメ)が打ち上げられ、湿った黒土に自生した赤米と小豆は、放っておいても村民の腹を十二分に満たせる程の取れ高が有った。 島国を襲った七度の飢饉でさえも、この村には凡く関係が無かった。 神仏に護られた、極楽浄土の如き村——と、もっぱらの噂である。 但し、それは酷い誤解だ。 豊寿村の即ぐ隣に、もう一つ村があると云う。 名は無い。 只——朔(さく)、とだけ呼ばれている。 朔は、不気味な程に豊寿村に似ている。 一本杉も、三角岩も、赤い祠も、白い川縁も、湿った黒土の畑も在る。 それ処か、其処に棲む村民一人一人の顔すらも、豊寿村の者達に瓜二ツなのだと云う。 ただ一ツ違うのは、彼らの村は酷く貧しく、生きてゆくのにやっとの暮らしをしているのだと云う事だ。 故に、朔の彼らは必死に働く。 だが……暮らしは一向に善くならぬ。 和やかで飢えを知らぬ豊寿村と違い、常に目を血走らせ、腹を空かせているのだと云う。 圓で、陽と陰である。 それも、當然なのだ。 朔とは、身代護《みがわりまもり》—— ——否、村代護なのである。 豊寿村の村民達は、常に幸福でありたかった。 その不可能を可能にする為、幸福を呼び込み、災厄凡てを他所へ押し付ける呪(まじな)いを講じ、朔を創った。 鏡写しの様に寸分違わぬ閉じた村を拓き、自らの身代となるモノ達を棲まわせる事にした。 神仏すらも欺く朔を創り上げる為に、彼らは『必ず双子を身籠る』ようになり、朔に押し込めたのである。 朔とは——、 豊寿村の際限無い幸福追求の翳が生み出した、この世の冥府なのである。 ある日、豊寿村の若者が、誤って朔に足を踏み入れてしまった。 いつも目にしている村民と同じ顔をしたモノ達が、貧困に喘ぎ、苦しみ、哀しみ嘆きながら暮らす様を目にして、彼は茫然とした。 そして、生まれて初めて、不幸というモノを知った。 然し、次の瞬間—— 己と同じ顔をした男が、獣の様な雄叫びを上げ乍ら、鉈を手に襲い掛かって来た。 若者は腕を斬り付けられ乍らも、命辛々、逃げ仰せる事が出来た。 そして、村に戻った彼は、 もう二度と村の外には出て行こうとせず、歳老いて死ぬ迄、 幸福に、暮らしたのだそうだ—— 了
凡庸と地獄
人並みに、「死のう」と思っていた。 ハッキリした理由なんて無い。あるハズも無い。 俺の「死のう」は、「死にたい」とは違う。きっと、他人にその違いは判らないのだろうけど。 ケチが付いたのは、高校受験だ。負け犬の遠吠えだろうが、あんなモノは冬にやるべきじゃ無いと思う。入試当日にはインフルエンザは完治していたけれど、療養中、頭を少しやられてしまっていた所為で、結局実力の半分も出せなかった。 奇跡なんて起きない。 だから、当然のように、落ちた。 あんなモノに、罹らなければ。 ──それか、寧ろ試験当日に罹っていれば。そう、それならリカバリする手段だってあったのに。当日完治していたばかりに、不用意な状態で試験を受ける羽目になった。 ──とにかく、それが、ひどく悔しかった。 仲の良かった連中とは、そこから離ればなれだ。仕方なしに受けた滑り止めの高校に入り、楽しくもない高校生活を続けながら、俺はこの人生をすっかり見限ってしまっていた。 ──つまりは、そういう事だ。 進んで死にたいワケじゃ無い。フッとした拍子に、苦しまずに死ぬ様な──そんな目に遭いたい。 それなのに、社会は非情だ。何かに強く絶望していなければ、「死のう」と思う事さえ悪にしてしまう。 だから、仕方無く生きていた。「死のう」だなんて思ってませんよ、という貌を作って。 これ以上、幾らも生きたくない──そう思いながら、それでも実際には死ぬ程の苦しみを味わって死ぬのがイヤだと駄々をこね、無名な大学に入り、これっぽっちも興味がないトビウオの生態を研究したりもした。 が、結局はそんな経験を活かす就職先にはカスりもせず、保険会社に就職することになった。 「全ての努力が報われる訳じゃあないが、努力をしなければ、その可能性さえ失う」 人生はやり直しの効かないハードモードしかない。 父親も大学の教授も、何十年も生きているクセに、同じ様な教訓しか吐かない。 だが、反感を持ちつつも、俺は彼等が言っている事は正しいと感じていたらしい。 入社式の壇上で、丸々太った醜い社長が「皆さんの頑張りは、必ず実を結びます。必ずです」──なんて、お花畑にも程がある訓示をほざき、会場全体から万雷の拍手が鳴り響いた時、俺はいよいよドン詰まり人生の入口に立ってしまったのだと理解して、愕然とした。 明け透けな嘘を吐いて、それが認められ、まかり通るのを目の当たりにした時の気持ちの悪さは、学生時代の「清く正しくあれ」という教育との齟齬の所為だろう。正論なんて、社会じゃ役に立たない方が多い。多過ぎる。 どうして、人生には電源ボタンもプラグも無いんだろう。 命を終わらせるのに、死ぬ程苦しまなきゃいけないなんて、そんなの、あんまりじゃないか。 穏やかな心持ちのまま、すっぱりと人生を終えたいのに、この袋小路は、じくじくと俺の命を蝕みながら、それでも生き存えさせようとしてくる。まるで、緩やかな拷問だ。 強烈な絶望も、熱烈になれる希望も無いまま、帰宅途中のコンビニに並ぶエナジードリンクと缶チューハイだけが、俺の命を無理矢理廻していた。 * * * * * 先日、実家の親父から「ハガキが届いた」と電話があった。 この時代にハガキが来るなんて、と訝しく思っていたのだが、なんてことはない、それは中学の同窓会の知らせだった。 何の感傷か、思わず口から「ああ……」と息が漏れた。 俺の人生のピーク。 坂道に落ちる前に歩いていた場所。 一瞬でもいいからと、現状の俺から離れてしまいたくて、浮かされた様に実家に向かい、何も考えずにハガキの『参加』に丸を付け、ポストに放った。 ひと月後の夜、俺は港区を歩いていた。 都内に出るのは久しぶりだ。同窓会の会場は、イタリアンレストランを貸切にしたらしい。……豪勢な事だ。今更だが、俺には贅沢をしようなんて発想すら枯れていたのだと気付かされた。 アーチ型石畳の坂道の中腹、シチリア風の黄色い建物の前に、シルバーのシャレたスーツと、ベージュのジャガードワンピースの若い男女が立っていた。まるでそこだけ観光地みたいだ。 「こ、んばんは」 口から間抜けな声が出た。 「お、お? ……アレ⁉︎ 三島か⁉︎」 銀スーツの男は俺の顔をまじまじと眺めて、そう言った。 「ああ、うん」 「やっぱりそうか‼︎ おい、久しぶりだなぁ、元気にしてたかよ‼︎」 「まあ、な──」 会っただけでこんなに嬉しそうな顔をされたのは、一体何年振りだろう。胸にジーンと込み上げてくる物があった。 だと言うのに、俺の方はというと、この銀スーツの同級生の名前も面影もまったく思い出せなくて、ただ苦笑いをしていた。薄情だなと、自分でも思う。 「……みんな、揃ってんの?」 「今まだ半分くらいかな。まぁ、入れよ」 挨拶もそこそこに会釈して、〝PRIVATE RESERVATION〟と書かれた札が下がった扉の把手に手を掛けた。 「──ねぇ、今の、誰だっけ?」 「三島だよ。覚えてないか? ほら、図書係のさ──」 背中で、そんな会話を聞く。俺なんかが、女子の記憶に残るワケが無い。判っていたから、そんなに寂しくは無かった。 大きな波打ガラスが嵌った扉を開く。エビとレモンの香りがした。 過度な装飾が無い、品のある店内は、懐かしい顔で溢れていた。喧騒が、少し耳に痛い。 本当は、落ち着いて食事を楽しむ店なんだろう。……こんな風に、大人ぶった若者達が、似合わない服を着て集まって、大騒ぎしていいような場所じゃない。 あちこちで花を咲かせている話の中身だって、どれも大して変わらなかった。 久しぶり、元気だったか、今何してる── それを聞いていると、胸が苦しい。……嘘つけよ。お互いの人生に大して興味なんて持って無いクセに。 楽しかった中学時代の仲間たちですらコレだ。わざわざ同窓会用のシャツまで買った俺も馬鹿丸出しだ。こんなクサクサした気分になるんだったら、家でネトフリでも観てた方がマシだったかも知れない。 そうして、一方的に渡されたグラスを煽りながら、笑って話す女子達と、それを店の端からニヤつきながら眺めてる男子達を見渡した。 記憶の中にいる彼女達は芋臭い制服やジャージ姿だ。そこから急に女の匂いがするワンピやドレス、スーツ姿にアップデートされたら、男共なんて、みんな戸惑いながらニヤけるに決まっている。 自分だって、うっかりすれば彼女達の左手に指輪があるかを気にしてしまうんだから、他人の事は言えないけれど。 どうやら、思った通り、まともな大人の男になり損ねたみたいだ。 まともな大人なんて本当にいるのか、疑問だけど。 グラスの中で弾けるレモンソーダは、とてつもなく美味くて、エナドリとチューハイ漬けの俺なんかには、とても似合わない気がした。 「なあ、聞いたか」 「何を」 「吉岡の話」 「いいや。何かあったの?」 「死んだんだってよ」 ────。 不意に聞こえてきた話は、俺の心を一撃で凍り付かせた。 いま、なんて──? ……死んだ──? 誰が? 吉岡が? 「死んだ? いつ? どうして?」 「病気だってさ。詳しくは、知らんけど」 「嘘だろ……」 「同窓会のハガキ返ってきて、それで判ったって」 「え、じゃあ誰も知らなかったのかよ」 「そう、なるな」 「マジかよ……。ええ、なんだよそれ、マジかよ……」 …………。 言葉が浮かんでこない。 吉岡。吉岡って、どんな奴だっけ。 確か、あいつだ。あの、サバサバしてた女。少し変わってて、男子の輪の中に居る方が多かった。 ……ああ、思い出した。カエデだ。吉岡楓。 丸顔でガタイが良くて、その分、胸もデカくて。声が低くて、お笑いが好きで、推しを茶化すとすぐキレた。 特別誰かと親しかったって印象は無い。ただ、満遍なく、クラスのみんなからは好かれてた奴だった。 良い奴だったんだ。……それしか、出てこないけど。 頭の中が、ぼうっとしてくる。 「死のう」なんて考えてたら俺が生きてココに立っていて、みんなに親しまれていた吉岡が死んで天国にいるなんて、どうしても実感が湧かない。 実感。……実感ってなんだ? 死ぬってのは、……『死ぬ』って事だろ。 そこで、そいつの人生は終わり、そこから先は何も無いって事だ。 吉岡は死んだから、ここには居ない。来たくても来れない。……いや、そもそも、死んでしまっているんだから、「来たい」って思う事だって、もうできない。 それが、──死ぬって事だ。 今更だけど、その事実に背筋が震えた。 吉岡は、何歳だったんだろう? 誰かと付き合ったり……寝た事はあったのかな。いや、それは流石にあるか。良い身体してたもんな。 まさか、結婚してたなんて事、無いよな。……有り得ないとも、言い切れないか。 恋も知らずに死ぬなんて……とか、たまに聞くけど、恋した後こそ、死ぬのはイヤに決まってる。 吉岡はどうだったんだろうか。 家族や恋人を置いて死んだのか。それとも、独りで寂しく死んだのか。 ぐるぐる、ぐるぐる。変な考えばかりが頭の中を駆け抜ける。 おかしな話だ。 俺は、今日ここに来るまで、吉岡の事なんて、すっかり忘れていたじゃないか。 つまり、あいつが死んだ時から今日のこの瞬間まで、俺はそんな事も知らずに、のうのうと生きてたって事になる。 「死のう」とか考えてた奴が、間抜けヅラしてまだ生きてるのに、みんなと楽しく出来る吉岡の方が死んでしまうなんて──。 まるで、地下深く進行するドリルみたいだ。堂々巡りな思考に、渇いた笑いが出そうになって、グッと堪えた。 ふざけるな。不謹慎だろ。 なんだか、ずっと変な気分だ。このグラスの中身、本当にレモンソーダか? それとも、過労で頭が変になってるのか? ……急にこんな事考えるなんて、どうかしてる。 「……おい、あそこ。今入って来たのって、アラキじゃね?」 「え。……あ、ホントだ」 今まで吉岡楓の話で落ちてた二人は、ケロっとした様子で話題を変えた。 「──は?」 俺は、二人の変わり身を見て、呆気に取られた。 嘘だろ。同級生が死んだっていうのに、もうその話に飽きたのか。人一人の死って、そんなに、軽いもんなのか──? 淋しさや、怒りや、やるせ無さが、俺の胸の中で渦を巻く。 これは、知ってる。無情ってやつだ。 自分の人生の畳み方よりも、ずっと本気で、生きることと死ぬことの意味を考えていた。 ……何故だろうな。 ただ、俺は自分から「死のう」と思ってた事が、恥ずかしいと感じるようになった。 『人生は、何が起こるか判らない──』 そんな言葉は、運のいい奴だけが特権的に使う、合言葉みたいなものじゃないだろうか。 店の隅で、延々とレモンソーダを飲みながら、グダグダ進行の同窓会の様子を眺める。酒を呑む気にはなれなかった。 話を戻すけど、『山あり、谷あり』だってそうだ。良い事も悪い事も半分ずつ起こるなんて、誰が確かめた訳でもないだろうに、無責任な言い回しだと、ずっとモヤモヤしていた。 俺の人生には、起伏すら無い。 一日の内で、ほんの少しの時間しか陽の当たらない路地に生えたタンポポみたいだ。大きく咲く事も出来ないし、枯れもしない。 そんな自分の命が不憫だから、さっさと無くなってしまえばいいんだと思いたかったのかも知れない。 何なんだ、一体。 一切、絡む必要も無くなった、昔の仲間達と寄り添い合って。俺はどうして、こんな気分にならなきゃいけないんだ──? 不意に、 「ねぇ、三島くんだよね」 声を、掛けられた。 * * * * * ──吉岡は、死の間際……一体どんな気持ちだったんだろう。 マグカップの中で、音も無く渦を巻いて混ざり合うコーヒーとミルクを見下ろしながら、ふとそう思った。 「私の分、ある?」 不意に話しかけられて顔を上げると、沙由菜(さゆな)が洗面所から顔だけ覗かせていた。 「ん? うん。半分くらい」 「ゴメン、あれに入れといてくれない?」 「いいよ」 ヘアアイロンで髪を巻いてる間、沙由菜は洗面台から動けない。俺は流しの横に置いてあった花柄の小さいタンブラーにコーヒーを注いだ。 ……同窓会の半年後、俺と新城 沙由菜は同居を始めた。 あの夜、吉岡が死んだ事を妙に引き摺り続けていた俺は、相当酷い顔をしていたんだろう。 駆け付けで挨拶回りをしてた沙由菜は、ビックリするほど綺麗になっていて、声を掛けられた俺は、それだけで顔を熱くした。 ブラウンのレースワンピースの上に白いシルクのショールを掛けた彼女は、同級生の筈なのに、何故か自分よりずっと歳上に見えた。 きっと、その所為だろう。二言目に「どうかしたの?」と訊かれた俺は、落ちてる理由を馬鹿正直に答えてしまった。 すると、沙由菜は酷くショックを受けたようだった。やっぱり、彼女も吉岡の件は知らなかったらしい。 その反応を見て、「しまった」と思ったけど、もう手遅れだった。 力無く崩れるように隣のテーブルに着くと、沙由菜は静かに泣き始めた。鼻と目を赤くして、何度もハンカチに涙を吸わせるその横顔は、──それでも、ひどく綺麗だった。 こんなに悲しむなんて、彼女達はそこまで仲が良かったのだろうか。……俺は良く知らない。 「私たちの歳でも、そんな風に、いなくなっちゃうことって、あるんだね……」 沙由菜のその言葉は、妙に印象に残っている。 お互い、中学時代は殆ど言葉を交わした事も無かった相手なのに。この一瞬だけ、同じ気持ちの誰かがいると判って、少しだけ救われたような気分だった。 吉岡は怒るかも知れない。 結果的に、彼女の死を偲ぶ時間が、俺たちが一緒に住む事に繋がる切っ掛けになったのだから。 それでも──、 「同窓会で再会して、そのまま付き合うなんて、なんか古いマンガとかドラマみたいだよね」 そう言って笑う沙由菜は、俺の心を見透かした上で許してくれているようで、何度も気持ちを楽にしてくれた。 起伏が無いと思っていた自分の人生に、暖かい光が差したような気がした。 薔薇色──は行き過ぎかも知れないが、視界が明るく、鮮やかになったのは、大袈裟でもなく、本当に沙由菜のお陰だった。 そもそも、二十数年しか生きていない。道を歩いても、歳上の大人の方が圧倒的に多い。それなのに、さも人生の始めから終わりまで知ったような気分に浸って、無情を気取って……一体何を考えていたんだろう……とすら、今は思う。 まるで、遅れてきた思春期だ。恥ずかしくて、当時の気持ちと向き合うのは無理だった。 「じゃあ、行ってくるね」 「わかった。終わったら、連絡して」 「うん」 玄関で手を振り合って、パリッとしたスーツ姿の沙由菜を見送る。 一年前は想像もしていなかった生活をしている自分を、時折、『俺』が遠くから見ている。 こう言っては何だが、──普通の生活を演じている、みたいな感じがする。 朝から晩まで、ずっと心地が良いし、活き活きした暮らしをしてるのは、エナドリとチューハイの助けが要らなくなったからかも知れないが、それまでの薄暗い視界に慣れ過ぎた所為で、どこか生きてる実感が湧かない。まるで、喉の奥に刺さった魚の骨のようで、心の底から気分が晴れるという事は無かった。 俺も、『俺』という役者も、この生活を気に入っているし、そこに不満があるワケじゃないけれど、どこか、自分らしく無いと思うのだ。 でも──、 鬱屈して、絶えず足先だけを見下ろす人生と、恋人と同居してる、らしくない人生を比べて、どちらを取るべきかなんて──そんな事は、判りきってる。 そうだ。少なくとも、その判断が出来る内は、俺は壊れていない、──そう思える。 それは、沙由菜との生活を続けていくと、少しずつ実感に変わっていった。 代官山で買い物をしたり、モネだかマネだかの絵を二人で見に行ったり、高尾山に登ったり、池袋に油そばを食べに行ったりして……一緒に過ごして、お互いが視界に入っていても、いなくても、俺の頭の中には、いつも沙由菜がいた。 酷く気持ち悪い言い方になってしまったけど、それ程幸せという事なのだと思う。 何もかもがひっくり返ってしまったようだ。らしくない、なんて考えは、もう微塵も残っていない。 きっと、自分が幸せだなんて感じた事が無かったから、戸惑っていただけなんだろう。その事を不幸だとは思っていない。今幸せに感じられるなら、それに越したことはないんだから。 冷え切った身体に温泉が沁みていたようなモノだったのかも知れない。温まったら、隅々まで「幸せ」が染み込んでくるのが判る。 幸せという温かさに慣れてきたのだろう。 ──だから、 * * * * * 「別れましょう」 その一言は、まさに晴天の霹靂というヤツで、聞いた瞬間、俺の頭の中にはマンガのコマみたいに、ビシャリと稲妻が走った。 「──え、……なん……?」 「三島くん、ずっと自分の事ばかりじゃない」 沙由菜は、酷く思い詰めた様な顔をして、テーブルの上のマグカップを見つめていた。 初デートで行った水族館のお土産で買った、ペアのマグカップだ。 取っ手の上には、元々イルカが付いていた。俺が洗った時に、ポロッと取れてしまったのだ。 その時は猛烈に謝った。沙由菜は、怒りもせず、苦笑いして許してくれた。 ……なんだ? 俺は、こんな時まで、一体何を思い出してるんだろう。 「私、三島くんを支えてあげられる自信がないの」 ──なんだよ、それ。 沙由菜の言葉は、判るような、判らないようなもので……具体的に何の事を言ってるのか判らないけれど、同じような言葉を、他の誰かからも聞いた事が有ったと思う。 「俺、なんかした?」 「……そういう、ところだよ」 そういう、って……どんなだよ。 「ごめん。とにかく、俺が悪かったんだよな。ちゃんとする。悪いところは、全部直すからさ……」 震える声。言いながら、情けなくなってきた。 でも、そんな事、この際どうでも良い。 ハッキリした理由も教えてもらえないまま、沙由菜に切り捨てられてしまったら、俺はこれからどうやって生きていけば良いっていうんだ──。 「どこが良くないか判って無いのに、直せるの?」 恨めしそうな目で、彼女はこちらを見る。 耳に痛い正論だった。 「…………」 何も言い返せないまま、いつか二人で選んだ壁掛け時計の秒針の音を聞いていた。 二人とも黙ってから、一体何千回鳴ったんだろう。 沙由菜は、静かに椅子を引いて立ち上がり、冷え切ったコーヒーが半分残ったカップをそのままにして、代官山デートで買ったサーモンピンクのトレンチコートを腕に掛けて、玄関から出て行った。 もう戻って来ないだろう。 それでも……もしかしたら、俺の事を許して、帰って来るかも知れない。 だから俺は、彼女が出て行った時の姿のまま、ずっとテーブルに着いていた。 そんな態度が、何の反省の証明にもならないと判っていても、他にできる事なんて何も無かったからだ。 * * * * * あれから、一ヵ月が過ぎた。 イケアのテーブルセットの椅子は固くて、丸一日以上座っていただけで腰が痛くなってしまったし、そもそも、外に出なければ、働かなければ、腹だって減る。 だから、仕方なく日常生活に戻った。 つまらない意地で、人は生きてはいけない。 『食事も喉を通らない』なんて良く聞くけれど、失恋程度の不幸は、空腹にだって勝てないと思い知った。 そうして、俺はまた、何の為に生きていれば良いのか、まるで判らなくなってしまった。 暫くは、沙由菜と一緒に歩いた場所を一人で歩くだけでもツラかったし、彼女に戻ってきて欲しい気持ちが、何度もイヤな夢を見させてきたが、それを過ぎると、あの「死のう」と思っていた日々を思い出す事が増えた。 生きる事に前向きになった俺は、やっぱり本当の俺じゃなかったのかもしれない。 あの頃とは少し、感情の中身が違ったけれど、ふとした拍子でこの世から消えてしまいたいという願望の気配だけは、腹が立つくらい同じだった。 センパイって、歳の割に白髪が多いですねと、お世辞も機嫌取りも判らない新入社員に笑われて、その憤りと悲しみを、コンビニの外でエナドリとチューハイに混ぜて飲み下した。 胃がキリキリと悲鳴をあげる。このまま倒れて死んだら、かなり現代人っぽいな、と思ったけど、ネットニュースにも上らないだろう。 つまらな過ぎる自惚れに、思わず苦笑する。 ──そう言えば、三島なんて奴がいたよな──。 頭の中で、同級生の声らしい幻聴が響く。 ──ああ、あの陰キャだろ。同窓会でも辛気臭い顔してたよな。あの後、新城と付き合ったらしいよ。嘘だろ。いや、本当なんだけど、でもすぐ振られたって聞いた。ああ、まぁ、そうだろうな── ……まったく、なんて有り様だろう。 吉岡の時はそんなんじゃなかったのに。 もっとも、俺とあいつじゃそのくらいの差が有っても、当然だと思うけど。 俺が死んだって、結局こんな風に罵られて終いだ。それなら、チリツモな不幸を苦にして死ぬなんて、本当に馬鹿馬鹿しい。 確かに、ロクな人生じゃないけれど、火花も散らさないまま火の玉を落とすような、シケた線香花火になるつもりは無い。 こんな俺だって、欲を出して死にたい。少なくとも、沙由菜との時間は俺にそう思わせてくれるだけの出来事だったんだから。 自嘲気味に唇を歪めていると、ホテル街の方から腕を組んで歩いている連中が視界に入ってきた。 沈んだ気分を寂しく紛らわせてるすぐ近くで、薄暗い密室でベタつきながらよろしくやってる連中がいたとしても、昔みたいに腹が立ったりはしないが、誰かと付き合った事がある、という経験を積んだ所為で、感情の振れ幅が大きくなった気がする。自分があまりにも憐れに思えてきて、惨めだ。 今の俺の様な気分のヤツも、もっとドン底に近いヤツも、同じ様な連中は、山程いる。 それでも、たった一度の人生っていうやつを、一生懸命だか仕方無くだかで、生きてる。 俺は独りだけれど、『俺たち』は独りじゃない。その、薄ぼんやりとした連帯感だけが、今の俺の慰めだった。 パキリ、と音を立てて潰した缶を、コンビニの外の溢れかえったゴミ箱の隙間に押し込む。こんな事でも善行と見栄を張ろうとする自分がいるのを無視しながら。 平気だ。生きていける。 今こうして、生きているんだから。それを続けていけば良いだけなんだから── だけど、『サーモンピンクのトレンチコートを着た女』が、俺の目を釘付けにした。 身体にフィットした、仕立ての良いスーツの男と腕を組み、笑いながら歩いているその女には、見覚えがあり過ぎた。 ──沙由菜……。 俺の部屋から出て行った、あの時のままの沙由菜だった。 ああ、くそ……あんまりだ。 あの目も醒めるようなピンクが、俺じゃない奴の腕を抱いている。 見間違える筈がない。俺が選んだ色だ。ネオングリーンとの二択で、俺が「こっちが良い」って言ったんだ。 今更仕方がない事かも知れないけど、何故それを着て、他の男と歩けるのか、俺には判らなかった。 エナドリとチューハイで臭くなった息が震え、荒くなる。 心臓が暴れて痛い。 いっそ、このまま胸の中で爆発してしまえばいいのに。 「…………」 反対側の道に消えていく面影を見送って、「死のう」と思った。 今度こそ。今度こそ死のう。 そして──、 ……ふふ──と、嗤った。 何か、肝心な部品が壊れたみたいに、ストンと気分がフラットに変わる。 無駄だよ。無駄無駄。 無駄に決まってる。 どうせ俺は死ねない。 その時が来るまで、生き汚いままだ。これまでも、ずっとそうだったんだから。 どれだけ決意を固めても、きっと、明日の朝には命が惜しくなってる。 ……嗤いながら、泣いた。 一度きりの人生だ。 みんな、一生懸命だか仕方無くだかで、生きてるんだ。 ──だから、俺もそうする。 でも、それまでは── せめて、この心だけでも死んだままにしておこう、と思った。 了
世界の終わりには 君に隣にいてほしい
どうやら、この世界は終わってしまうみたいだ。 それも多分、あと数時間くらいで。 「だからさ、集団幻覚を起こす次世代型兵器なんだって」 「なんだよ、それ。テロ?」 教室の真ん中、一人が捲し立てるようにタブレットを見せびらかしながら陰謀論を振り撒き、周りの何人かは退屈そうな顔で彼を見守っていた。 彼らの気持ちはわかる。無視したいんだけど、結局は気になって仕方がないんだ。 世界は、終わるらしい。 理由は……よく分かっていない。 一週間ほど前、「世界滅亡の夢を見た」と言い出す人が世界中のあちこちで現れた。 その数は推定、700人程度。 予知夢と言っても、夢は夢だ。みんな具体的に何がどうなるか覚えてるワケでも無く、話す内容だってバラバラで、まるで要領を得なかった。 地震、津波、隕石衝突、核戦争、宇宙人の襲来……もしかしたら、その全部──。 「根拠が無い」、「バカバカしい」と、政治家とか科学者とか、偉い人達はあらゆるメディアで笑っていた。 その時は僕だって、新手のネットミームか何かかと思っていた。 ただ──、 一つ夜が明けるたびに、「夢」を見る人は増えていった。 その中には、数日前に「ウソだ」、「デマだ」とフカしていた大学教授もいる。 前日と同じニュース番組で、前日までと180度違う表情で溜め息ばかりついていた彼女は、出演後「私も夢を見た」とポストした。 嘘だと信じている人は、まだいる。 でも、笑ってる人は、もういなくなった。 僕も、少し前から毎晩毎晩、世界滅亡の夢を見るようになった。 火の海に包まれていたり、足元に開いた大穴に落ちたり、その終わり方は安定してない。 ただ、起きた時、「ああ、世界は終わるんだ……」っていう実感だけが残るのは変わらない。 だから、信じられなくても、信じたくなくても、……信じるしかない。 世界は終わる。 それはわかってるのに、何もする事がない。 何日か前から、学校に来なくなったクラスメートもいて、ちょっと様子を見に行ったら、部屋から一歩も出ないままやつれた顔でネトゲしていたヤツとか、積んでたプラモを作ってたヤツとか、とにかくそんな連中ばっかりだった。 僕だって、いまさら将来もへったくれもないのに、学校へ来て勉強してる。 どうでも良くなったからって、僕らはどこまでいっても自由になんてなれないんだ。 ……ああ、 彼女と一緒に何処かへ消えたってヤツもいたっけ。 ……それは少しだけ、羨ましいと思った。 ──彼女、か。 僕は窓の外を見る。 濃い青空の真ん中に、重たそうな入道雲が浮かんでいた。 急に寂しさを覚えたのは、きっと、夏のコントラストのせいだ。 授業中にも関わらず、こっそりスマホを取り出した。 アプリを立ち上げ、トークルームの選択画面を下へ下へとスライドしていく。 ……なかなか、見つからない。 あの娘とは、もうずっと喋っていなかった。 * * * * * 昼休みの屋上。 僕は、遠くの防砂林を貫く街道の隙間から少しだけ覗く狭い海を、ぼんやりと眺めていた。 あの海に最後に遊びに行ったのは、いつだっけ? 「何の用?」 少しハスキーな声に、僕は振り返る。 そこに、彼女は立っていた。 ワンレンの髪が、夏の風をまとってフワリとなびく。 アイロン掛けされた白いシャツが眩しい。 怒っているような声色だけど、実はそうでもないのだと、僕は知っていた。 「ん……なんとなく、喋りたくて」 正直に、そう答えた。 「それだけ?」 「それだけ」 「……」 さすがに、ちょっとだけ不快そうな顔をした彼女に、僕は怯まないように唇を結ぶ。 怒って引き返すかもと思ったけど、彼女はその場を動かない。 無言の時間が出来てしまったせいで、僕らは変な緊張感のまま、見つめ合う形になってしまった。 いや、見つめ合う、は正しくないかも。 悔しいけれど、やっぱり僕は彼女に見惚れてしまっていた。 たっぷり一分くらい黙った後、彼女は溜め息をついた。 「……呼び出した責任、とってよ」 「責任?」 「だって、そうでしょ。世界、終わっちゃうんだよ? 残り時間、少ないんだから」 「……ああ」 僕は納得して頷く。 そうだった。僕だけ満足したって仕方がない。 「あー……じゃあさ、海行く?」 スッと海の方を指差して、提案してみる。 「え、今から?」 「うん」 「授業は?」 「サボっちゃダメかな」 「ダメでしょ」 「ダメ、かぁ」 「うん……」 彼女は一度俯いてから、僕の後ろの空を見た。 セミが煩く鳴いていた。 今気がついたっていうだけで、きっとずっと鳴いていたんだろうけど。 『彼ら』は滅亡を悲しんだりはしない。 余計な事なんて何も考えず、本能のままに生きて、最後には死ぬ。 それは僕らから見たらとても淡くて、儚い命のようでもあるけれど、今は何だか、その命のあり方がとても身近に感じられる。 だから僕は、 「……ダメだけどさ──、」 もう一度、 「──行こうよ、海」 そう誘ってみた。 * * * * * 小さな子供が、砂浜に打ち上げられたクラゲを棒でつついていた。 「触っちゃダメよ」と後ろからお母さんらしい人が声を掛けている。 お父さんはどこだろう。……世界が終わってしまうのなら、あの子と一緒にいて欲しいなと、ふと思った。 「何も無いね」 僕の後ろで、彼女はそう言いながら、ローファーを脱いだ。 「夏休みに入らないと、海の家開かないんだってさ」 「ふぅん。じゃあ、今年ムリじゃん」 「それな」 話しながら、白いソックスも爪先から引っ張って脱ぎ、丸めてローファーに突っ込む。 僕も彼女の真似をして、裸足で砂の上に立った。足の裏がちくちくとくすぐったくて、二人で思わず笑ってしまう。 「ねぇ、コレって、デートに入る?」 彼女が使った単語に、僕はびくっとした。 「さぁ、……入らないんじゃない?」 「そう」 「……なんで?」 「だって私、彼氏いるし」 「あぁ、そっか」 僕はとぼける。 ……本当は知っていた。 知った上で、呼び出していたんだ。 「まぁ、……だからコレは、場面」 「夏だしね」 「青春だしね」 「仕方ないよね」 「だよね」 言い訳し合いながら、また二人で笑う。 久しぶりに心が軽くなったような気がした。 「てかさ、聞いてよ」 彼女は突然そう言って、僕のそばまで駆け寄ると、頬を膨らませた。 「カレさ、ずっと部屋に引きこもってるの」 「え、普通じゃない? わりといるじゃん、そんなの」 「それで、私に『部屋に来い』って言うのよ? そんなのさ……ヤじゃん」 「……あぁ」 なんだか生臭い話になってしまって、僕は苦い顔になる。 青い海と青い空で視界をいっぱいに満たして、イヤな妄想を全部溶かした。 「……なんか想像した」 彼女のジト目が、僕の心の中を覗こうとする。 「……してない」 「絶対してた」 「してないって」 「ホントに?」 「想像したくない」 「……ふぅん」 くるりと身を翻して、彼女は一歩ずつ僕から離れて行く。 可愛い形の足跡が、僕と彼女の間に点々としているのを見て、僕は何となくその上に自分の足を重ねていった。 僕の足跡だけが、砂浜に残る。 「そうやって良い人するのって、疲れない?」 「ん? うーん、そうだな……たまに」 疲れるかな、と口の中で呟いた。 「いいじゃない。どうせ世界は終わっちゃうんだから、やりたいようにやっても」 「……」 振り向かずにそう言う彼女の背中は、僕に何を言わせたいんだろう? 「それなりに、やりたいようにやってるよ」 そう答えた後で、今のは何となく強がりっぽいなと思った。 僕は、ウソが下手だ。 「それで私のこと呼んだの?」 「そうかな。……そうかも」 「ノープランで?」 「そうだね。それは認める」 僕は苦笑した。 「でもさ、プランなんか練ったら、デートになっちゃうじゃない」 「ああ、そっか」 僕の言葉に、彼女は振り返って笑った。 真っ直ぐに見たらいけない。そんな太陽の光みたいな笑顔だった。 「どうして、私だったの?」 「え?」 「他の人じゃ、ダメ?」 試すような言葉。 僕は……そういう話が苦手なんだ。 「……正直に言うと」 「うん」 その、期待するような目から逃げながら、僕はボソボソと白状を始める。 「君じゃなきゃ、っていう感じじゃなかったかな。他に、誰も思い付かなかったんだ」 「……なぁんだ」 「ゴメンね」 「ホントだよ。無駄に期待させてさ」 彼女は溜め息をつく。がっかりさせたみたいだ。 「世界が終わっちゃうって思うと、なんだか気持ちばかり焦ってさ。『何かしなきゃ』って、頭が勝手に思おうとしてるっていうか。……でも、なんかソレがイヤだった」 僕はその場に腰を下ろす。灼けた砂が、お尻に熱かった。 そのまま、ぼうっと波打ち際を眺めていると、世界の終わりなんてどうでも良くなってきた。 「だから、最後には、一緒にいてホッと出来る相手が欲しくて」 「……ふぅん」 彼女は、つまらなそうに相槌を打つと、僕の隣に座った。 不思議だ。 二人で海を眺めていると、何故か「これで良かったんじゃないか」と思えてくる。 「贅沢な要求」 ぼそり、と彼女が呟く。 「え、そう?」 「うん。なんか、チュウしたいとか、胸触りたいとかより、ずっと贅沢な気がする」 「そこまで?」 僕は思わず彼女の方を見た。 海を見ていた顔が、こちらの方を向く。 「それはそうでしょ」 大きな瞳が、僕を捉えた。 「一緒にいたい、って、そういう意味なんでしょ?」 同意を求める言葉。僕は一瞬、答えに詰まった。 「そっ……か」 ……そういう事か。 僕は自分の欲求をわかっていなかったのかも知れない。 今からじゃ、沢山の時間を共有する事は出来ない。 ましてや、痛々しく傷付くくらいに誰かを本気で好きになったり、そんな相手と心や体を重ねたり、「いつまでも一緒にいようね」なんて、ありきたりの言葉を交わす事も──出来ない。 だから僕は、僕の人生で一番必要だと思う事を、無意識に選んだんだ。 だらだらと、何十年もあると思いこんでいた人生。 その中の、ほんの一瞬みたいな僅かな時間でいい。 僕は、「僕と一緒にいてもいいかな」って思ってくれる人と、一緒にいたい。……そう思ったんだ。 「……じゃあ」 彼女はおもむろにスマホを出して、なにやら打ち始めた。 「……?」 見守る僕の方を見て、いたずらっぽく笑う。 「……カレと別れた」 「えっ⁉︎」 「あはは! まぁ、ケジメみたいなものだから」 慌てる僕とは対照的に、彼女はスッキリした顔でスマホの電源を落とす。 「でも、こういう事の方が、私の気持ちをすぐに伝えられるのかなって」 言った後で、タイパだよ、と彼女は照れ隠しのように付け足す。 それはそうか。だって、世界はもうすぐ終わっちゃうんだし。 だから、そんな気遣いが、なんとなく彼女らしいなと思えて、 「うん、伝わった」 僕も笑った。 ちょっとだけ見つめ合ったけど、気恥ずかしくなった僕は、海の方を向いた。 僕の肩に彼女が寄りかかる。 『一緒にいよう』 どっちも、そんな言葉は使わなかったけど、きっと伝わっているんだと思った。 今しかない僕たちは、 きっと、これで良い。 了