豊寿村と朔に就て

 楢野辺(ならのべ)の深い山林間に、豊寿村(とよひさむら)は在ると云う。  人口四十人にも満たぬ、小さな集落である。  朝、中央に聳える一本杉の影が西の三角岩を昏く染め、夕刻、それが東の赤い祠に掛かるまで、——村民は殆ど働かない。  彼らは、それでも豊かに生きられるのだ。  澄んだ水が流れる白い川縁には、一年中鮎や山女魚(ヤマメ)が打ち上げられ、湿った黒土に自生した赤米と小豆は、放っておいても村民の腹を十二分に満たせる程の取れ高が有った。  島国を襲った七度の飢饉でさえも、この村には凡く関係が無かった。  神仏に護られた、極楽浄土の如き村——と、もっぱらの噂である。    但し、それは酷い誤解だ。  
ぬけがら文学