ろくを
4 件の小説或る猛暑日の残骸
今朝無惨な形で横たわっていたセミの死骸が、夕方帰ってみると跡形もなく消えていた。一体いつ無くなったのだろう。横断歩道を渡ったとき、ちらりと見えた潰れた半身がまだ頭の中に残っている。 「すみません、ちょっといいですか」 引いていた自転車を止め、つい呆然と眺めていたら後ろから声を掛けられた。振り返った先にいたのは、首にタオルを巻いた清掃服姿の小柄な男性。季節に似合わない茶色の長袖と黒の長ズボンを履いて、帽子を目深に被っていた。 「なんでしょうか?」 「私、先ほどここを掃除していた者です。蝉の死骸があったのですが、片方の羽根を知りませんか?」 「羽根?いや、知りません」 どうしてそんなことを?そう聞き返す前に、男性は食い気味に続けた。 「車輪の隙間とかに引っかかっていると思うんですよ。知りませんか?」 「……いいえ。さっぱり」 「そうですか」 会話はここで止まった。しかし、男性は俯き屈んで足元や自転車の車輪をまじまじと見続けている。セミの羽根を探しているのだろう。しかし、その場から動こうとしない男性は帰る道を遮っていた。勘弁してほしい。一言言おうと思ったが、じりじりと焦がす日差しとむっした熱気が気力を削いだ。 「あの、通してもらっていいですか。セミの羽根ならどこかに飛ばされたのかもしれませんよ」 そう言った途端、男に腕を掴まれた。帽子の中に隠れていた黒々とした丸い目が瞬きもせず睨みつけてくる。黒だと思っていたズボンは所々赤黒く、妙に湿っていた。 「そんなはずはありません。だって−−−−あなたですよね、私を轢いたの」 男の声を掻き消すくらいけたたましいセミの声が、耳の中で反響する。そういえば昨日の夜もこんな風に蝉が鳴いていた。 蒸し暑い風に吹かれながら、この道を自転車で渡ったことをふと思い出す。自然と自転車に目を落とした。 前輪には、粉々に砕けた茶色い羽根が確かに詰まっていた。
半端者の吐露
「どうにも私の手で描けるのは陳腐な世界ばかりのようでほとほと困りました。何かを得なければ始まらない。そう悟って、気になっている小説を買おうとしたんです」 男は肩を落とした。 「そうしたら、あらすじを見て手が止まりました。魅力的なタイトルなのに。表紙なのに。ストーリーなのに。買う意志が一転して買わぬ買わぬの一点張りになりました。そして何故か、チリチリと胸の奥が焦げ付いたんです。それで初めて、ああやっぱり私は私の作品を書き上げたいのだと気付くのですが、何分今は食指も動きそうにありません。塵積もる感情の行き場もなく仕方なしにSNSを覗いても、また胸が焦げ付きました。嫉妬でしょう。嫉妬でしょうか」 男はまた肩を落とす。重たいため息が鬱屈とした心を紛らわすように口から溢(こぼ)れ出た。 「書く意志がおのずからではなく、何かに起因して湧いてくるとなると、私は本当に小説家を目指しているワケでは無いようなのです。しかし、書きたいと思うのも事実なようなのです」 吐き出した息を吸う間もなく、男は言葉を繋ぐ。 「ですが、どうにも私の手で描けるのは陳腐な世界ばかりのようでほとほと困りました。何かを得なければ始まらない。そう考えて、気になっている小説を買おうとしたんです。そうしたら−−−−」 −−−−深夜二時三十五分。砂嵐ばかりの液晶画面に男はその言葉をずっと繰り返していた。
見栄はりな僕とクールなあの子
僕は物心ついたときから、学校が苦手だった。別に誰かからいじめられていたわけじゃない。でも、怖かった。バカで間抜けで、人一倍ヘタレな本性を知られてしまったら、なんて言われるか。笑われるか。それが怖くてどうしようもなかった。 だから、いつも明るいヤツでいた。ありったけの元気を絞り出してヤンチャしてみた。友達や先生に「僕はこういうヤツなんだぞ」って見せつけてみた。いじめっ子とか、ガキ大将とかいうのとは少し違う。バカな本性に半ば開き直って、みんなの前で戯(おど)けてみせた。 前の学校でもそうやって振る舞ってきたんだ。転校先でも、そうやっていけば上手くいくはず。 なんて、思っていたのに――。 「どうしよう……」 心の声が漏れる。必死に作り上げてきたものが、今この瞬間崩れ落ちようとしていた。 がらんとした教室には置きっぱなしのランドセルと、同じ所を何度も行き来する僕一人だけ。ときどき足がぶつかって机や椅子が音を立てる。 夕焼けに染まったカーテンが風に靡(なび)いていた。 「えっと、まず扉を右手で開けて、左手で閉めるでしょ。それから提灯を右……いや左手だ。左で持って、次の扉を右……あれ?左だっけ……!?」 マズイ、思い出せない。 ぶつぶつと独り言を呟き、そこらここらを右往左往。焦る心を抑えたくて焦りが頭の中で渦巻く中、思い出せと脳に必死に言い聞かせる。 僕が転校して来た学校ではしばしば都市伝説が流行っていた。噂は耳にしていたが、興味もなくて気に留めていなかったけれど、今日の昼友達の一人が急に怖い話をしたかと思いきや、こう言い出したのだ。 『――――この話を聞いたヤツは、三日以内に夢の中でメリーさんに出会う』 それに、メリーさんの願いを叶えないと夢の中へ永遠に閉じ込められてしまうのだ、と。 バカバカしいなんて思わなかった。本気で怖くなった。友達から繰り返し話を聞き、必死になって対処法を頭に叩き込んだ。 けれど今、それに行き詰まっている。 幽霊の類に出会ったことは一度もない。でもこういう話をされると、摩耶(まや)かしだって跳ね除けられず恐怖が一気に押し寄せてくる。 「どうしよう、どうしよう……」 焦りで往復する速さだけが増していく。もし手順を間違えたら、僕は一生夢に閉じ込められる。頭が混乱してきた。 そんなとき――。 「何やってるの」 後ろの方で声がした。驚いて振り向くと、引き戸の近くに赤いランドセルを背負った女の子が立っていた。つんとした表情がこっちを見つめている。開かれた窓から吹く風が、ショートヘアをふわふわと揺らしていた。 「べっ、別に何も」 「本当に?声、廊下まで丸聞こえだったけど」 彼女は表情を変えないまま、少し眉を顰めた。 そんなに声が大きかったのか。恥ずかしさと、何か言われるかもしれない焦りでいっぱいになる。 「ほ、本当に何でもねぇよ!」 咄嗟に声を荒げた。焦っているとはいえ、噛みついてしまったことに後悔が残る。 けれど、彼女は微動だにしなかった。そればかりか、ふーんと小さく呟くと、壁にもたれかかり腕を組む。細めた目は、まるで嘘だと言わんばかりに見つめていた。 大勢でいるのとは違う。いつものように戯けられない雰囲気に――その視線に、僕は耐えられなかった。 「……最近、クラスで流行ってる都市伝説があるだろ?」 「都市伝説?」 「ああ」 うっかり彼女にもメリーさんが来ないよう所々省きながら、ぽつりぽつりとワケを話していく。そんな中でも、彼女は表情を崩さずにいた。 ひとしきり話し終えた後、おもむろに口を開く。 「あのさ、それ……」 少しずつ距離を詰めてくる。ちょうど机一つ分まで寄ってくるとこう呟いた。 「『このはなしうそ』、じゃないの?」 「――はっ?」 この話、ウソ……? 突然のことに、間抜けた声が出てしまう。一瞬呆気に取られたが、すぐ頭を振った。 「う、ウソじゃねぇって!アイツは兄ちゃんから、アイツはアイツの友達の近所のおじさんから直接メリーさんに会った話を聞いたって」 もう誰から誰に伝わってきたか分からなくなってくる。でも、今まで焦っていた自分を真っ向から否定された気がして、何か言い返したかった。何より、現れかけた素の自分をどうにか隠したかった。 しかし、彼女は全く響いていないようだった。そうじゃなくて、とため息混じりに言葉を続ける。 「メリーさんの呪いから唯一抜け出せる呪文、『ソウシナハノコ』。これを逆から読んだの」 ソウシナハノコ。初めて聞いたその言葉に、また呆気に取られた。 「じゅ、もん……?」 「知らなかったの……?」 何も言い返せない。わずかに呆れたような声が返ってきた。 確かに、思い返すと友達が別れ際にそんな事を言っていた気がする。――ニヤニヤと、嫌な笑みを浮かべながら。 一気に、肩の力が抜けた。 なんだ、ウソなんだ。これで夢の中でメリーさんに会うこともない。夢に閉じ込められることもない。友達が僕を揶揄(からか)っただけだとようやく気づいた。安心感とともに、僕は力なくその場にへたり込む。 「よかっ、た……」 そう口からこぼれたとき、急に目頭が熱くなった。安心からか虚しさか、それとも尻餅をついた痛みなのか。 慌てて彼女に背を向けた。目に映るカーテンや机の輪郭が次第にぼやけてくる。夕日の橙色と混ざりあった視界に、ぐっと胸が締め付けられた。でも――。 「なんっだよーアイツ!『俺』がバカだからってからかいやがってー!ふっつーにビビって損したぜ。ありがとな!教えてくれて」 後ろを向きながらひらひらと手を振ると、そのまま近くの机にもたれかかる。声が震えていた。明るく繕った言葉に対し、目のなかの熱いものはどんどん込み上げてくる。 「……どうしたんだよ、帰んねーの?」 僕なりに別れの挨拶をしたつもりだったけれど、彼女に動く気配はなかった。 出来ることならさっさと帰ってほしい。弱気な『僕』は見せられない。泣き顔なんて見られたくない。 「‘‘俺‘‘はこれからここで夕焼けを堪能するからよ、別に気ぃ遣わなくていいぜ?それに、男なんかと一緒に帰りたくねーだろ?だから――」 さっさと帰れよ。 最後の言葉を言う前に、口をつむいだ。また声が震えている。息を吐くのでさえ唇が震えて億劫になってきた。 まだダメだ、人が見ている。なんとか堪(こら)えながら、霞んだ景色をじっと眺めた。 ――長い沈黙が続く。しばらく経ったあと、上履きが床を擦った。ようやく帰るのかと思いきや、目の端に置かれたランドセルが映る。いつの間にか彼女は、僕と背中合わせに腰を降ろしていた。 なにしてんだよ。 僕の言葉を遮り、彼女は呟く。 「見てないから。私は」 終始変わらない、ぶっきらぼうで静かな声。けれど今は、そこに優しさがあるように感じた。 頬を涙がつたう。一つ、また一つと零れ落ちていく。駄目だ、駄目だと思っても、涙は留まることを知らなかった。 静まり返った教室のなか、泣きじゃくる声がひとり寂しく反響する。背中越しの温もりが少しずつ孤独感を溶かしていった。
構わんよ
私は構わんよ。 アンタが失敗しても。 怒り散らしても。 へそを曲げても。 わがままを言っても。 だだをこねても。 アンタが泣いていても。 だから。 アンタは、私に構わんでいい。