傾奇者~カズ~
31 件の小説Cry Baby 【復讐】
阿修羅王×帝釈天王 一… (その遥か昔から…帝釈怒れば、阿修羅は逃げ回り挙げ句は葉の陰に隠れ恐れおののいたと言われる…その阿修羅王にとって屈辱の歴史からまた数億年を経て) 三面六臂の王は、永くその面(顔)を怒りの面と涙の面とを、本人の気付かぬままに往復させて深い瞑想状態に入っていた。 過去のあまりに無様な我が一族のやられ様に、怒りを越えて涙を流しては、また心底に宿した己の誓いによって、怒りの心でゆっくり、またゆっくりとその機会を…熟すのを待ち続けた。 「おのれ…帝釈天王」 「許さぬ…帝釈天王」 帝釈天王とは、この地球を含めた南閻浮提や他、一閻浮提の絶対的中心の、須弥山の山頂からまだ天に向かって浮かぶ神界の王である。 また同様の守護神として、梵天王が遠く離れた神界に住んでいる。 共に平和と調和の為に、悪しき存在を征伐していた。 この阿修羅とは、そもそもが敵対する何かがいないと、存在を示す事も本来から出来ない存在であって、それはそれで、またどんな存在にも絶対の安定の無い事や、常に気を付けて全てが生きていくべく戒めとしての役割も持った神である。 人間の世界なら、幸福絶頂の最中にガンが進行していた。また、いつ如何なる状態であろうと殺、事故、病、災害といつ終わるかも知れない儚い生命。 としての象徴であり簡単な言葉ならば【油断大敵】の象徴なら分かりやすいだろう。 驕る平家は久しからず…どんな事であろうとも、傲慢になるべきではない。 実るほどこうべを垂れる稲穂かな。 謙虚さや、控える重みを人間世界に身を持って教えている神ともいえる。 仏教神では有るが、この三面六臂や六面八臂とは、一人でそれぐらいの活躍を行う。 その代名詞ともなっている。 二… 阿修羅王は、その永遠の如く長い生命での、始まりからを瞑想にて思い返していた。 「何故に帝釈天に征伐されないといけなくなったのか?」 「また、何故に我が一族は勝てないのか?」 「帝釈天にも必ずしも、弱点があるはず」 阿修羅も神の部族であるから、その生命尽きる時にはその一人の阿修羅としての生涯を、最後はその王へと魂を遺して伝達した。 どの阿修羅もその生命尽きる原因は帝釈天の征伐であり、無数対無数の永き戦いからは、致命の一撃を与えた場所、油断するポイント、攻撃を加えた場面などを王が瞑想の中で膨大なデータとして全身に刻んでゆく。 ~こう攻めてくればこう返し~ ~この角度とタイミングならばどう傷を与える~ その無数のデータからは弱点と言える部分も見え隠れする。 あくまで一身二腕の普通の人間型の帝釈天は、この六臂で二本の腕を抑えた時に無防備になっている。 四本で捕まえて、後の二本での攻撃は為す術無しのデータが多い。腕力自体は少し帝釈天が強い様だが、それでも四本ならば身動きが取れなくなっている。が、ずっと腕を取る事も出来ていない。帝釈天と梵天を守護する四天王が助けに入る事が多く確認される。毘沙門天、持国天、広目天、増長天らが。 その助けを入れさせないのは、一体一での戦いに周囲に子供たちを配置するしか無い。帝釈の子供らと、我が一族とを北、南、東、西のいずれかの閻浮提で戦わせて、我と帝釈天の王とだけが届かない次元空間に移動するしか無い。 そう、この地球と言う生命惺がある銀河の地球から計算した太陽の真裏、八百億阿僧祇由旬ばかり離れた所ならば生物は何も存在していない。 ~絶対に邪魔は入らない~ そもそも、我ら阿修羅も帝釈天も神であるから、卑怯な戦いは出来ないのだ。あくまで力と力のぶつかり合いしか無い。 ~それが神なのだ。 歴史を遠く、遠く過去まで遡り魂の欠片たちの記憶を探っていく。戦いの始まった頃は、互角以上の戦いをしていたのに、勝率の目が低くなる度に子らは、その帝釈天の姿で逃げまどうように成り果ててしまった。 ならば、その大元の戦いで互角以上の戦いが我と帝釈の王とで可能な筈だ。 三面の王にとって、この遥か過去から全ての一族の記憶を身に宿すのは、誠に耐え難い苦痛でもあった。 子らが受けた痛みも死の恐怖も、朽ちていく様もこの一身に戻り、まだまだその哀れさに涙も止まらず、それに拠る怒りとで知らぬ間に面を往復させる。 全てが愛おしい身を分けた分身。 一人、また一人と最後の魂の記憶を見る度に涙は枯れる事も無く、ただただ怒りは増幅されてゆく。 王の知らぬ間に、哀しみと怒りの骨頂の心の状態から本人も気付かぬ内に、六臂が十臂に進化していた。 また、半眼での瞑想の時間のあまりの長さから、その半眼での状態で三面全てに怨念の如くに染み付いた。 それほどに心を痛めて、一族の苦痛を味わい、涙と怒りを往復させた王への軍神の褒美だったのか。 これによって、阿修羅王は十本の腕と、三方をずっと見据える目を得る事に成功した。 過去の見定めと、進化を遂げた阿修羅の王が眼を開けると、真紫のオーラを全身に纏っていた。 三… 全身から真紫のオーラを、また三方を常に見渡す新しい眼と、細くなった分より早く動く様になった十本の腕でゆっくりと宿敵を探しに行く。 さんざんに泣いた さんざんに怒った 一族の死にゆく辛さをこの身に全て刻み、壊れそうな心とその最後の想いから届く (絶対に奴を殺して欲しい) の強い恨みが我れを弱くはしなかった。 深く目を閉じて、もはやこの魂に染まりきった不倶戴天の息吹を感じ取る。 ~右斜め上かなり遠くに~ ゆっくり、ゆっくりとそこに向かって飛んだ。 気付かぬ間に、残っている我が子達が数千億の軍になって我れに付いてきていた。 ふと後ろを振り返り (全てが集まっている…) これは今に人の世に伝えられる歴史から、数え切れない年月を経て最後の戦い…それを意味していた。 ~人に化けて嫁、子供のいる者~ ~天界の軍神にやられて闇で過ごした者~ ~この神の世界を追われた者たち~ 【我が一族の恨みを今こそ…】 全てが我が子であるから、我れの心は全てに届いた。そして我れ一人が新しい身体になって、全身からまた口から吐かれる真紫のオーラで一族を包んでゆく。 そして、遠い天界へと全員で向かうとその時に。 「待って。私たちも」 天界の主として、悪しきを征伐する帝釈天とはいえ、僅かな汚れを嫌うがあまりに、天界から追放した部族も多かった。 ~夜叉の部族 ~鬼の部族 ~羅刹国の部族 ~その起点となる人の死して下に堕ちた者 これらも結局は帝釈天に断罪されて、その過酷な運命を辿る事になり、なにも話しも聞かないまた生前の罪だけを見てそうした帝釈天に恨みを持っていた。 王は全てに告げた。 「この先少しに一つの惑星がある。ここで食べ、飲み、寝て英気を養う。また思い残す事の無いように部族の隔てを失くして子を残せ」 「子を残す?」 永くどの部族も子孫を残す事を禁じられて、今の苦を無くしたい想いしか無くなってしまい、もう楽しいとか、快楽とは完全に無縁であった。 その惑星とは、王がこの展開になって来て急遽神の力で創った不足の無い世界である。 ここに滞在すること二十日、今の人間世界での千二百年に相当した。
第一章
ここ近年まで、全くと私はその人物を…知ってはいたが、知らなかった。 むしろ、テレビに映っていても他の出演者を…これもまだ控えめに、チャンネルは変えていた。今に一つの政党のトップとして、メロリンキューと言われるオバケみたいな被りものすら、私は見た事が無かった。何かのウワサで、たけしの元気が出るテレビのダンス甲子園が出身だと言われても、本当に見た事も無いし知らなかった。 僅かに知っていたのは、ミナミの帝王での 「アニキ アニキ」と帝王の舎弟をしていた記憶しかない。その彼の出演していたミナミの帝王すら、最後まで見た事も無い。だから、ミナミの帝王でのなん作に出ていたのかも分からない。 当然に、このタレントが何か政治家になろうとしている。なった。おまけに誰にも特段相手にされずに、私の故郷でも 「あれはあかんで」 ぐらいの噂らしい噂にもなりもしていない。 《れいわ新撰組》 代表 山本太郎 この誰も見てない一人の男は、とある映像では(泣きながら 日本のみんな 生きてくれよ)とか言っている。 私はその誰かを見る時に、顔、面構えを気にする。私も何も興味も、もちろん期待も何もない。それは、この日本には絶対に潰し様の無い自由民主党が存在していて、他のどの政党もどうやってこの巨大政党と蜜月関係を結ぶのか?しか考えていない世の慣例でもあった。 何年前であったのか、国会での様子を目にした時に 「ん?一切と官僚の作成した書類を見ていない…」 またその国会であれ、全国への演説集会でも、適当に選んだ誰かの質問に自分の知識で話している。 私が気になりだしたのは、そこからだった。何処の誰かも分からない、いち質問者に対して、涙を流している。そして今の国に対して、堂々と戦っている。段々と興味が出て来て、色んな国会中継や、ネットに溢れる動画も見てみると 「なんか…このオッサン、タレントしてた時より顔が若くないか?」 私の二年程の先輩になるのだろうが、あのミナミの帝王の時から一体、何年が経っているのだろう。私の彼を観たミナミの帝王は近年の話しでは無い。それは私が一切と二時間もの映画を観れた機会が無かったからに他ならない。 はっきりとはしない、だけど十年では決して済まない筈の相当な過去に、その売れないタレントを観た気がする。 もっとはっきりと言えば、そのミナミの帝王時代よりも完全に若く見えている。 全てが顔が、見た目が若いから何がどうとは言わない。言えない。 私は人相学も何も知らないど素人であるが、心と生き方が容姿に反映している。 ことぐらいはなんとなくは分かる。これは今や動画で溢れる、都市伝説みたいな話しの様でまた違う。 笑って生きた人には沢山の笑い皺が、眉間にしわを寄せ続けた人には眉の間に深い溝が、全員がそうだとは言わないが生き方は容姿に多少は影響を与えている。 ことは大筋間違えてはいないと思う。 全然関係ない話しになるが、金さん銀さんはそれは可愛らしいお顔をされていた。 顔だけが全てではなくとも、目力や眼光と言った部分には人生は現れるものと思われる。 この辺はこの売れなかった元タレントの政治家が、まさに天職を探し当てたとも言えるのか、本人が最大に輝く場所を見つけたのだろう。 人の前だけでそれらしくする。普段の日々にはさして何もないとしても。 普段から色んな人と接して、脳の休まる時も忘れて対話、電話にと話しをしていればボケた事は言わない、言えない。 また、政治家と言うその場、その時の問題を解決すれば良いとはまた違う日本の全てを考えながら、海外との関係も視野に入れながら被災者や、生活保護者の事も、奨学金で困る学生の事も、社会の職事情も物価も何もかもを知る能力は、政治家になるだけで全てが満たされた者らには決して理解出来る筈もなく、今やこの一人の出現に金欲政治家は焦り出したとも見える。 なにか、この男の追随をしている様にしか見えなくなって行く。おまけにコピーはコピーらしく似たりの発言はするものの、結局は操られている者には逆らえないのか、これは財務省だとか、この国の慣例とも言われる税金を奪うにはあっさりと手段は選ばないが、その奪った税金からの還元はあまりに薄いこれを意味している。 それに足して、その強引に国民を苦しめまくって奪った血税を、それになんの意味が有るのか、日本人の被災者よりも外国の戦争などしている国に平気でなん十億円、なん百億円と送っている。 私の意見では、憲法改正だどうだの前に今現在は、兵器を持たないいち国家なので、一切の軍事用資金は不要だと思われる。その大金をあってはいけない戦勝国の米国に奪われ続ける事態は、早々に手を打たなければならない。そもそもが日本が米国になど負ける要素が無いのだから。 この過去はもう消し去る事は未来永劫に不可能な事で 「いざとなれば、一千万の特攻を出す」 と言えば、何処の国ももう寝れもしないだろう。今度はその一つの特攻に水爆を載せる。とでも言えばあまりの恐ろしさに口も聞けなくなる。 これは空言を語るのではないし、幸いに私たちのある世代までは実際に祖父や祖父の父辺りならば、その事実自体を知っている戦争現役世代だとも言える。 「もういい、私の祖父と同じ様にお前らに飛びたい」 とでも言えば、決して笑い飛ばせる話しでも無いとも思われる。 断言して、私自身はとことんにあの戦争の敗戦には納得はしていない。たった二発の飛行機から落とされた物で戦争に勝てるのならば、今の日本の総人口の一億数千万の爆弾を落とせる事は出来る。 しかも、最後まで操縦するから命中率も違う。全てが日本の怖い部分だけを抜き取られる結果と成り下がってしまった。 今の米国を見てみたらいい。いったいになんの同盟なのか、君たちの同盟国とそうでない国との差はいったい何処に有るのか、もう解りもしない。 ここら辺は、この元タレントと私とでは意見の隔たりは有るのだろうが、本来は全てに恵まれたこの国の国民を苦しみから救いたい。との根底が同じならばそう大きくは変わりもしないと思われる。 完全に牙を抜かれた日本の惨状に現れた一人の男。政治家たる者がもう政治とはなんなのかすら理解をしていない今に不思議と現れた男。と思うしかない。 私はこの元タレントに全霊を掛けて付き合う心算も、日本の危機に関して負ける動きをする心算もまた無く、私の生きて来た過程からは、あらゆるカマシを放り込みながら要らない者はとっとと去ってもらう。 私はこの 【山本太郎】 の名前が日本を救うのには、最高だと思っている。 日本の大半はまだまだ山林であり、日の本の太郎。 これほどに、日本人最高傑作の名前があるのだろうか。 日本人なら知らない者はいない、桃太郎、金太郎、浦島太郎、和太郎 最後は私のいちびりではあるが、とにかくこの山本太郎の名前こそ日本のなにかを変えるべく使命を持ち併せた、男だと今は信じている。 つづく
のろのろと
昨日観ていた夢を追いかけて、昨日に日を戻して今日を生きている。その夢は確かに、僕の求めていた未来への指標となるかの様に…。 こんなにも、夢の内容をハッキリクッキリと憶えている事自体が、余計に僕のこれからに妙なるチカラをくれると信じたからだった。 「よ、よぉーし」 夢の中では、いつもの弱音ばかりを考える僕では無くて、大豪邸に住んで、たくさんの社員が楽しく、笑顔に暇の無い明るい会社の社長を僕はしていた。運転手付きの大きな車で、家を出る時はそれは綺麗な奥さんに笑顔で毎日、毎日と幸せな《いってらっしゃい》をされている。子供も笑顔で手を振ってくれている。 まだ、中学生の僕がそれを観て出来ることは、とにかく会社とは?経営とは?幸せな家庭を築くのには何が必要なのか?を考え出すのがスタートと思った。いつもは朝から憂鬱な気分で始まるけど、今日は違う。思いっきり歯を磨いて、メンソール入りの洗顔料で一つ、一つの毛穴を綺麗にしていく。その間に熱めのお湯を湯船に沸かして、キノコご飯のタイマーを入れた後、ヘチマタオルで全身をピカピカに磨き上げていく。足の裏から、指の間も、普段は気にしない自分の大切な全身を綺麗に洗い上げる。これ自体が、その夢を観る前の僕では無かった事だった。 「ありがとうな!僕のカラダ」 入念に入念に、きちんと自分と向き合い見た事の無いホクロを発見したりとする。 鏡では無く、自分の目でしっかりと全身を確認していく。 「脚の筋肉はこれで足りてるのか?」 「この弱々しい腹筋ではダメなのか?」 「細い、この腕ではあの会社は持ち続けれない」 ~あまりに情けないこのボディ 夢の中の僕と全然違う。あの威風堂々とした口ヒゲに、シブいロマンスグレーヘアー、あの顔色はゴルフ焼けなんだと思う。 一つの夢が新しい僕を、未来を創っていく。 【継続はチカラ也】 今日の、このやけに気持ちの良い毎朝を続けていこうと決めた。あの笑顔に溢れた会社だから、そして僕が社長なのだから……。 そこまでは、絶対に何があってもくじけずにやっていこう。 全身の磨き上げを終えて、シャンプーで髪も洗ってから、ドライヤーで優しく乾かして、キノコご飯と納豆と玉子焼きとみそ汁を食べる。 今月の残っている予算は、二週間で五万円がある。先月のやりくり帳と見比べて、とりあえずは一冊だけを《やる気の法則》という本を買いにいく。 まだまだ、僕のその夢の到達点には充分過ぎるほどの時間がある。大丈夫…大丈夫。 若くして、この世を交通事故で去った両親の遺影が、もともと優しそうなその顔が、更に微笑みを増やしている事は、僕はこの時は分かってはいなかった。
お題 チーズバーガーも食べれない貧困人
人生のキセキの言霊たち 一 【でも ありがとう】 生きていると、当たり前ではあるけども、泣きたい時も、切ない時も、死にたい時も、他人と何かを比べてしまったり、時にはアイツなんか死んでしまえばいいのに。私がこの手で殺めてやろうか? 普段の生活でも、学校での毎日でも、職場でも上司のしばきたい指示にも、様々な我慢や辛抱など、誰にでもそれは面白く無いことは、日常生活にこちらを狙いうちにする様に 「私を狙うのはなんなの?」 と、悲劇のヒロインになってしまうほどの、心の揺さぶりがあります。 少しなのかも知れない。けども、例えば 「あのボケ、殴ったろか?イヤ、我慢がならん。いっそのこと」 いけない気持ちになったとしても あぁしばきたい。 【でも ありがとう】 と自分勝手にでも付け加える事により ん?ありがとう? そう?そうなん?そうか? と、軽い気持ちを得れることはあります。 でもありがとう その時の想い、気持ちから何を得て、どんな成長があって、自分の未来にどう影響をするのか?何も無いのかもしれない。結果的にはそれを考える事は、人生に於いてマイナスだけなのかもしれない。が、その問題についての最終的に自分が出す答えを導いてくれる。今はそれはとても腹が立ち、はらわたが煮えくり返り 「なんで、あのボケの事でため息をつく?今日のご馳走を台無しにしてくれる?この最愛のパートナーと喧嘩をさせる?」 色んなその引き金からのマイナス点すらも、他人にため息をつく意味を、無意味さを少しは考慮させてくれる有難みをくれます。 これはもっと心を、人間性を大きくして、思考の中ではどうしてもイラついてしまい、ため息をついてる自分は確かにいるのだが、貴方の人生のひと幕の中では、貴方がため息をついているのであって、その時間に於いては、無駄な思考を切り替える速さの大切さを、自分にプラスにならない感情の、時を減らす努力をさせてくれます。 そのボケの引き金により 「今日のご馳走が台無しに?あのボケのせいで?いや、いかん。生命の源となる食事たちには関係がない。お米も、お魚も、お肉も、お野菜も、何もかもがわたしの生命の為に死んでくれている。あのボケにこの味を損なわせる事などさせない。あのボケにそんな力は存在させない」 これは、その時の気持ちであっても、他の場面でもどんな辛苦があろうとも、食事は楽しく、美味しくいただく練習、習慣付けとなり短い人生に於いては、今確かに口にするもの、それはもしかしたら、もう二度と食べれない最後かも知れない。究極はいま、自分に大災害が襲いかかり、即時に生命が終わる様な事態になると、この世の名残りの、最後の食事となるもの。それに対して 「あのボケのムカつきのせいで味が何も無かった?」 「あの有名な、そして私自身の最後の晩餐がボケのせいで?」 こんな情けない感情は、そのボケにも関係も無く、自分の人生を哀れにしただけであって、そのボケに責任も持って行けないですし、死んで、あの世とやらで 「おいっ?ボケ?お前がムカつかせたから、最後の晩餐を台無しにした。責任を取れいっ」 と言っても、もはや何とも出来ぬこと。 「ええ。なら私の最後の晩餐をお試しください」 などとぬかした時には、あの世で殺さないといけなくなるので、その展開を事前に避ける。心が怒り、我を見失ったとき、大きく深呼吸を六回は行い、もう一度内容を頭で精査し、最善策を取る。これは言い争いのとき私の大原則であり、子供の頃の様に顔面に二、三発入れたら良いとゆうものでもなく、大人としては、どの解決法が誰かに認められて、また後にも引かせず、そのボケも適度に持ち上げておけるかも、器量を観られます。 「ムカついたよお前?ムカつきは私の最大の喜びだ。ありがとう」 と、でも皮肉を言っておけば、相手は一体何だったのか?良くは分からないけども、ありがとうと言っている。なんかお礼を言ってるな、と意味不明ながら思ってくれます。 これは、別に相手がこちらに対して、言葉が通じていない。意味を分かっていない。と取られてもしめしめもんで、そのボケとの関係がどうあろうとも、もうその件からは完全避難、触れられることも無く、即ち何故かマウントまで取られての追撃は無くなります。自分に深く関係があり、避けて通れない相手のときは、こんな事はその件が時効消滅してから 「おうっ。あの時のとぼけは上手かったか?」 とでも、その件を考えていた風を、また計略だった風を話せば、相手は 「キチガイと思ったが、分かってやっていたのか?ほう、大人だな」 まったく人生に関係が無い、こちらの視界に入っていない相手の時は 「もう何も聞かなくて良い。勝手に周りに何とでも噂を流せ」 で良いと思います。 まず、人に人の噂をする。悪い噂を。 こんな事は誰も別に聞きたくもなく、それを聞いて、聞かされた方が愉快になる事もなく 「本人に言ったらええのになぁ」 「だから?それで?」 程度のことで、また噂などはその時の暇潰し、会話の種であって、話してる本人より、聞いている方の温度は低いです。 私は、人がどんな噂をしようが気にはしませんが、それは私が、そんな人生だったから。言えば、本当に有ろうが、無かろうが、自分の優越感を満たす為、揚げ足を取るとの言葉も有りますが、 人間は一度気にすると、もうこれは幼い時の好きな人に似たような感覚で、ちょっかいを出したくなるものです。全員が絶対にそうとも言いきれない。あくまで経験上、体験の上では、どう接したら良いのか?その一言、行動で相手はどう考えるのか?動くのか?そのお試しで失敗した時は、虎の尾を踏んだ様な怒りも買うし、私は 「あっちがう。そうじゃない」 心で しまった感を感じて 話すきっかけが欲しかった。 視界に入りたかった。 相手にして欲しかった。 と、後悔する時は多く有ります。 ここまででも、色んな心の移り変わりは有ります。が、全てに 〈でも ありがとう〉 と、自分の中で結論を出してみると あぁ、そうか。今にその答えをくれた事すらも、結局はアイツなんだな。 それは、同じ世界で生きる、あくまで仲間なんです。その、どうしても理解しあえない相手すら、言わば何かのソウルメイトであって、どんな件でも、同じイラつきは感じたのかも知れない。心の変化の、ターニングポイントになる人間。こそは 【でも ありがとう】 こんな事は中々、もう会えなくなってからか、探してもどうしようもなくなって、誰にでも訪れる、親、友、誰かの死に絶対感じる、悪い思い出など無くなってしまい、何故か良かった記憶しか無くなる。に、似ています。 人間など、所詮は誰とでも仲良くしたい。これは、疲れるからです。想って、イライラする事が。憎み続けるなんて体力はまぁ持てない。どこかで、私はどんな苦手な、嫌いな相手でも、呑みに誘います。男同士で有れば、車の話しなら合うのか?好みの女性の話しなら合うのか?子供の頃にした留守番の話しなのか?行かされた買い物の話しなのか?必ず、どんな嫌いと思っていた人にも、ふとしたキッカケは存在して、これもまた不思議なもので、鬱陶しいやつほど、共通点が多いのか、一度わだかまりが溶け、仲良くなってしまったら、喧嘩したら駆けつけよう。なんか助けてあげよう。私はそれは多かったです。 二 【てこと ないけど】 自分を後から苦しめてしまう弱気な言動をしてしまった時に 学校休みたい 今日は元気が出ない 今日はイライラする やる気すらない 一人で過ごしたい 私の夢は叶わない あ〜楽しくない 風邪でも引いたかなぁ 【てこと ないけど】 風邪は是非、数日はお薬を飲んで熱を測って寝てからで良いし、病院には行きましょう。 マイナス意識からマイナス思考に移り、マイナス行動となりマイナス人生になってしまう。 ならば、一言をそっとお尻に付けてあげることで意識から思考へ変わる時か、思考から行動の時なのか。 どうせどれも過去にしないといけない。単なる感情で一人勝手に底まで落ちきらなくても 「あぁ〜今日は仕事でめっちゃ疲れた〜【てことないけど】」 そう、疲れてないからこの後もデートも出来るし遊びにも行ける。 あ〜しんど〜。から勝手に疲労モードに陥る時に七文字だけ 【てことないけど】 人の感覚や気持ちはそうだと思えば大体そうなるものであり、微熱で喉が痛い時でも空気の乾燥からと思えばそうだし、コロナで死ぬと思えば布団から出るのも億劫になるものでもある。 出来る、大丈夫と想い、声を出し半紙にでも (絶対出来るし大丈夫) と書いて貼っておけば気持ちでは絶対に大丈夫で出来るのである。 自分の夢は紙に書いて目に付く所に貼った方がいいと言うのは、忘れないためと常にそれを意識する事と、自分の字で絶対に大丈夫と書いてる事で、真実味も現実味も出るのであって、偉人の格言を貼っても 「コイツはそうやな」 で終わってしまう時も多くあるものです。またその名言に「ええな〜」と浸るだけになる事もあり、自分の字で想いを書くとその字に魂が込もっている様な素晴らしい錯覚に陥り、諦めて「またの機会に」と剥がしてしまわない限りはそこに全力を向ける事が可能です。 それは自作の神さまの如くに自分を鼓舞奮起させるものである。 これは何かを達成したとかでは無くて心持ちの問題として、非常に有意義であると思うのです。 それを見ても「禁煙」と書いてもスッパスパやっているなら書いた時間の無駄、自分の行いに唾を吐いている様なもので 「せめて剥がせや」 と家族に言われて無意味に、無努力家のレッテルを貼った後悔も、自分だけで受けないといけなくなります。 その貼り付ける半紙と自らが自分に付けた言葉とは、似たような事で自己暗示の意味が有ると思います。 声に出して付けましょう。過去にそのまま後悔した何かに 【てこと ないけど】 を。 三 【それっおもろい】 友達や恋人や誰とでも同じ時を過ごす時に、あまりにシラけて気分を損ない出来ることなら一発殴ってやりたい。 言葉の魔力とはその意味で場の雰囲気も話した方も、言われた方もその言葉に操られてその様に展開して行く。 言えば、葬式でみんなが哀しみでシクシク泣いている。 「なんだ?どこなんだ?」 ずっと含み笑いしているのが聞こえて来ると、誰かが釣られて笑いそれが連鎖し大爆笑になっていた。 ぐらいの力があるものです。 だから極力に場をシラケさせる言葉は言わない様にする。それはその言葉自体がその場を創ってしまうから。 通りすがりに主婦達の井戸端会議から文句、愚痴の羅列を聞いてしまうとそれが誰の事を話しているのかは分からないが、余計な事を小耳に挟んでしまった。 何故かおもろくないものです。逆にどこ誰の所で赤ちゃんが産まれた。結婚した。懸賞で良い物が当たった等のブラス要因であったら、こちらもまた前向きになるのと同じ事で、常にモチベーションに良く作用する言葉を日常から使う事で、それも癖のものでどんなに嫌な事が辛い事があろうが、勝手に自ら話した言葉で自分が勇気付いてそれを乗り越えている。言霊の力とはそう在ります。 心が変われば意識が変わる意識が変われば言葉が変わり、言葉が変わると行動が変わる。行動が変われば習慣が変わり習慣が変われば全てが変わる全てが変わると言うことはもう未来も運命も変わってしまっている。 その運命を変えるとは何も人の前だけで取り繕う事でも無くて、一人でも周りに誰もいなくても、テレビ相手に話し掛ける時ですら意識をして良い言葉を使う様にする。心が意識、それは脳、頭で考える事でありそれはそのまま言葉となって現れる。普段から毎日が楽しく無いのに人の前でだけ、私は毎日を幸せに過ごしていると言ってもその雰囲気まで出て来ない。 ただそれは単なる心持ちであって、不足な毎日に文句や愚痴やひねくれた想い、言葉を出しているとその言霊で余計に自分の周りは嫌なものにもなるし、何をしても一切楽しく無い。私であれば楽しかったキャバクラで女性を酔わせたハニーソングでも唄ってみたり、最愛に聴かせた曲を唄い一人で思い出し恥ずかしに陥ったり、けどもそれは場を暗くはさせない。 言葉を出している時は不要な考えはしない。脳がストレスを感じないならその唄っている時間はマイナス思考にはならない。 私はナルシストであって自分の歌声に酔って泣ける時すらある。涙ストレス解消法と言うのが存在するけども、一石二鳥にも三鳥にもなってしまう。 僅かにお前それ?クソおもんないの?の代わりに 【それっおもろい】 に変換して話すだけで友達も機嫌を良くしてくれます。場も和みまたおもろないの代わりにおもろいを使った事も、常に良い言葉を使う練習になって結局はシラけさせた友達を救うのでは無くて、自分の未来を救っていると気付く事によってその習慣の重大性も、今つまらない自分こそがつまらないと悟って、さっさと楽しい今を創る喜びになっていきます。 【それっおもろい】 何もこれだけでもなくて、人が何かのミスをしていたら、そんな所は突っ込まずに 「お前のそのミスった時の顔はエラい男前やなぁ?カッコええわ」 とでも言っておけば良いのである。ミスった事は本人が一番分かっている。そこに一味カラシを刷り込む必要は無いのです。 それも毎日に人に毒を吐かない日常を、否定的な物言いをしない日々を送らない事には油断した時にアッサリと出てしまうのです。 例えば今日一日を過ごして、納得がいかない。心がスッキリとしていないときには、それはその時の対応を失敗しているのであって、思い出して何かをしようと思っても手遅れと言う時もあります。それをいつまでも悩んで、考えても良い方向にはいきません。 とっとと私の失敗だったと諦めて忘れた方がいいのです。 今日の何かを 今の何かを 楽しくさせない何もかもに大声で 【それっおもろい】 日常を変えて行く事は何も難しくありませんよ。 腹が立ってムカついて壁に穴を開けようが、泣こうが寝れない日を過ごしたとしても。その姿自体が 【それっおもろい】 先祖さまも見守る神仏もそう思うに違いありません。 【それっおもろいなぁ】 四 【うわっぜいたく】 私は決して裕福な幼少期を 青年期を 壮年期を 老齢期を 死の際を 「少し言い過ぎてるよ?キミ?」 と突っ込んでも何も楽しく無い人生を今も歩んでいる。 自分の今が幸せなのか満たされているのかは心持ちの問題でもあり、それはもしかしたら誰かには羨むべく今日を生きているのかも分からない。 金銭欲や物欲も極端に少ない事もあって、また一般に寂しいとか辛いとか苦労とする事を意に介さない、お金が無くても諦めてしまえばそれは別にどうでもいい事でもある。 例えば家賃が払えないとか携帯の支払いが出来ないとか何かがあって、それは死を意味するのか?仕事も無くて家を追い出されてそれは死ぬのか?最悪と言っては叱られるが手荷物だけで何処かのお寺の門を潜ったらいいのかも知れないし、住込み寮で日払い可能な仕事をすればいいのかも知れないし、この国に在っては人様に迷惑を掛けない形で警察の留置場に行けば、三食と屋根付きのと兎に角死にまではしない。 なら別に時の流れに任せてみる人生のひと幕があってもいいのでは無いのか?あれをしなさい、これをしなさいとは言うけどもしないとどうなのか?それが普通から離れてみると思うのであり、別に何処かで転々と生活募金を募ってもいいでは無いか、全てのインターホンを押して 「少し食べ物を」 と頼んでもいいでは無いか。人間とゆうのはこの日本国にあって本当に飢え死になど出来るのだろうか?レストランや食堂でも後払いであるのなら、飢え死にまではしないのでは無いのか。 その全ての何もかもに対して 「うわっぜいたく」 あらゆる自らの体験、経験とは先駆者がいようがそれは聞いた話ではなく、良くも悪くも実体験として味わえるのならチョーぜいたくと思うのです。 この年齢から来るのか全てに対して (笑わないと損) (楽しまないと損) (喜ばないと損) (感謝しないと損) (感動しないと損) 自分自身がどんな境遇にあろうともその今の折角に感じれる全ては生命の魂の震える程の最高の出来事であってそれこそが 生きている証 だと思うのです。 死にたいとは生きてるから思える事で、死んだ人が死にたいと思う事があるのだろうか?私たちは普段から生きてるから生きたいとは思わないし、今の生命の奇跡を目の当たりにするのはバッサリと腕を切り落としてもいいし、何箇所かの癌が見つかって明日に手術で取り去ってしまう、でもいいし身体は元気なのに失明したでもいいでしょうか?人が死にたいとか辛いとか言えるのは、不足が無い証拠とも言える。 もしも両目の視力を完全に失って生きるときに恐らくは、死にたいとは思わないし言わない。大体に死にたくとも刃物が何処にあるのかも、ビルの屋上への階段はどこなのか?完全に目を閉じて過ごしてみると死にようが無い。 そう、絶対に絶望的な未来しかなかろうが死を選べない。 その盲目の人と同じ元気な身体で両目も見えてる人が死にたいと言っている。 我儘を言っている様にしか聞こえないだろうか。それは目だけでなく何とか必死に今日を頑張って生きたいと願う者が耳にした時に、もう生命のカウントダウンが終わりを迎えている人が聞いたら、どう思うのだろうか?嫌でも絶対に迎えないといけない死に何を憧れを抱いているのか?心配しなくても今日も今も一秒、一秒と墓にしか歩けない人生で何を考えているのか?何処かの極楽浄土とやらで永遠に死ねない生命ならばまだ分かる。 絶対に避けられないそこに向かいながら。もし本当に死にたいのなら明日の朝に絶対に目が醒めない自分を想像してみたらいい。 この世でもっとやりたい事やまだ未経験の事や行きたい所などがつぎつぎと出てくるに違いない。頭の何処かでこれは錯覚だちゃんと明日は目が醒めると思っては勝手に思い込んではいるけど、それも絶対でもなくで可能性としては有り得る。寝てる間の大災害でも、人間にいつ死が訪れるか等は誰も分からない。からこそ頑張らなくてもいいがせめて笑う毎日が大切なのだと思うのです。笑っていると何が良いのか?人は笑う為に生きると思うのであり、幸福とは笑う事だと思うのです。笑っている時のストレスの無さやその笑いの原因は何なのかは個人、個人だけれども。気分も身体も心も病んでいると心からは笑えない。今も不幸のどん底を表明する人には一体にいつ笑ったのか?何が笑えたのか?記憶の中にまだその思い出があるのならば、何も病んでもいない。ただその全ては単なる 贅の極み だと言うことです。 一体に死んでから何を目にする?何を食べる?身体の痛みも辛いもしんどいも切ないも死にたいも死んでどうやって思える? 人間として今が辛い時には、お金が無いならもっと無い人を想像して、寂しいならもっと寂しい人を想い、死にたいと考えた時には本当にこの今の時間に、愛する人に無差別殺人で病気で事故で生命を失っている人はいる。 ならばその人が出来なかったこともしたかった事ももう絶対に出来ないその人の代わりに出来る 私 はその 存在 は うわっぜいたく と言うことなのです。 人間としてのぜいたくとはお金が無くとも 山に入り込んで最高の森林浴をヒーリングをして綺麗な空気を吸い、遠目に走り去る鹿やイノシシや熊でも様々な野獣を眺めて、下にはバッタもコオロギもカブト虫もダンゴムシも色んな昆虫を相手に遊んで、あちらこちらからバタバタっと飛び去る野鳥たちに双眼鏡を向け、家族や仲間と美味しいバーベキューでもすればいい。 よく宗教家や寺の門前に人として産まれるは奇跡だとか稀有だとか言うけど、そんな事は思わない。存在すべくしてこの世に存在している。両親の大きな愛からの使命としての。 今日の今の貴方の全ては おいっぜいたくだよあんた? 笑って生きましょう。 よっぜいたくっ ぜいたくだね〜 ええぞっそのぜいたく この恥ずかしい程のぜいたくものめ
野球⚾️ダルシム軍襲来⚾️
ヨガっファイアーー さてっ日本選抜の先攻で試合開始です。 一番、センター、クロマっティー さぁ注目の第一球は…ダルシム投げたっっとそのまま腕がキャッチャーダルシムまで伸びて?ストッライクっ! これは手が出ません 第二球を投げたっと同時にボールとダルシムが消えて〜クロマティの前で現れてから〜ストッライク! これは打てないクロマティ ストレートの三振か? 投げたっっ 緩めの真ん中か?これはチャンスだクロマティ おっと?マウンドから火の玉が飛んできて〜クロマティ前でボールを包む。熱そうに避けるクロマティ。三振だ ヨガっファイアーっ!! 二番、サード、落合〜 余裕のピッチャーダルシム 投げましたっ また緩い真ん中だ、後から火の玉か?ん?ダルシム、連続では吐けないようだ 落合、思いっきり振った〜ボールを捉えたぞ〜 これは文句無しにレフトスタンドに飛び込みそうだ かなりの上段に一直線に打球は飛んでいる 余裕の表情でガッツポーズをしながらゆっくりと一塁を回る落合 おっと?レフトダルシムの腕と?九人全員の腕がボールに向かって伸びているぞ?ショートダルシムが見事キャッチ!! ~ヨガっのびーる~ 不満げにベンチに帰る落合 ずっと首を傾げています 三番、ライト、イチロー 日本選抜で唯一のヒッター、イチローです。期待しましょう ヨガっファイアーっ おっといきなり火で包みながらのど真ん中、、、余裕ですねピッチャーダルシム 次は伸びるか消えるかしかないぞ?どうするダルシム やっぱり消えたっ目を瞑り、気配を読みに行くイチロー、、振った〜 「ギャッ」 おぉダルシムの腰に一撃を与えたようださすがイチロー ツーストライクから これしか残っていない腕が伸びるやつ、、、ダルシムがボールを持ったままでそのボールに当てにいくイチロー、、、 「ギャッ」 ボールを離してしまったダルシムの手からボールがセンター方向に、、、いかない、、ファーストダルシムの腕がボールまで伸びてキャッチの瞬間にアウト スリーアウトチェンジ ダルシム軍の攻撃です 全部ダルシムと呼びましょう 一番、セカンド、ダルシム ピッチャー江川初球を投げましたっ思いっきり曲がるカーブか? ダルシムの腕が伸びて〜ちょうど中間辺りでバントをするダルシム、、、ボールがバットに当たる瞬間には足が一塁ベースまで届いているので当然セーフ やれやれとため息を吐きながら気を取り直す江川 二番、キャッチャー、ダルシム チラっと一塁を見てから投げたっ おぉっと?一塁を踏んだまま腕だけが二塁に届いて?余裕の盗塁成功っ この盗塁はどうしようも無いか?江川?
私の事
今の私の姿や生き方とはここの皆さんに一体、どう映り見えているのだろう? うるさいつぶやき魔? 自由気侭な勝手野郎? 何がしたいのか不明な男? 自己紹介は私はしないし、ストーリーを含めて小説でも、人間像は見えているのか?また虚像が見え隠れとしているのか? 一度、ここでも何かで言った事があるのか、無かったとしたらFacebookでは口を酸っぱく語り続けた。 それはここのつぶやき程度では無い、世界を相手に「月収三十万円のそれ以上の稼ぎの半額をアフリカに寄付をしろ」「終末はそう遠くない」「同じ政治家でも弁護士上がりの元大阪府知事は人気だけの坊っちゃんでタレント上がりの泣き虫が本物だ」とか、毎日、毎日と色々と投稿したものだったし、はっきりと調子と追い風と勢いと図と波に乗っていた時でもあって、これは副業のリーダーとして勧誘や招待をする時に、Xのプレミアムなどアップグレードしなくてもあれは文字数制限はあるのか?相当長い文字数を投稿出来る。 他の人はほとんどが同じ文言のコピペの繰り返しだったけど毎日と絵文字で華やかにしたり、また私の招待した部下の立ち位置になるけどその部下が同じ様に参加を促す投稿をしたら、それを見てくれと投稿したりとした事により完全に図に乗っていた。 この時にザッカーバーグから賞金が出ていると話す欧米人がいて、他の同様の事案でのカマして脅しては逃げて行く。 それとは違う反応を示した者がいた。 から余計に図に乗る。 副業のグループLINE、これは私が作成し二十四時体制で管理したけど、そこでも異端だった。 絶対に逆らうな!と言われたドイツの若き本部幹部に 「こら?おのれ?俺の招待した人を勝手にクビにするな?遊びで招待してるのと違う、俺に一言ぐらい言わんかいっ殺してまうぞ」 や 「私はお前の情熱が好きだ。他のグループも管理して欲しい。お前とお前のグループから二人を連れて見て欲しい」 の時には私は月二十万円と毎月五万円の追加給、同行の者は十万円と毎月五万円の追加給を。 これの人定も辛かった。 希望する者全ては連れて行けない。 グループLINEでの新規登録者への対応やら能力も考慮しないと行けない。 また生活苦を語る者も放っておけない。 そこまでしても、手付けの二十万円、十万円を各々の口座に入ってからひと月もせずに私は頭を下げた。 これは招待時に懸念した事が、そのまま他のグループではそうなっていて 「読解力がない」「それはなんだ?アレはなんなのだ?」 とクレームが入る。 他のグループのリーダーからやめてくれと来る。 私はそのリーダーの総上司と話すの繰り返しであり、リダ、イサベラ、アニー。 これらも私の総上司のHannahの部下であり、諦めて勝手に他のグループを抜けた時に怒られた。 「何やっている?お前は?」 勝手に抜けたとは言え、何度かはHannahに 「俺たちは何のためにそこを見ている?グループ内のいざこざの問題はそこのリーダーらの仕事やろ?話しが通じない所にはいれない。する事が無いのに給料泥棒は出来ない」 と再三話してはいたのでいきなりでは無かった。 例えば 「グループ一家相伝カスタスクの妙味 貴方たちはこの秘伝を知っているだろうか? 一人も新規を招待していない者はわ五千円からのタスクが求められている。 一人でも新規招待をした者は、別に千円でも構わない さぁ一人でもさっさと招待をして、カスタスクのセレブ感を是非っご賞味あれっ」 リーダークラスは爆笑して、なるほどカスタスクですか?良いですね?とは言ってくれる。 が、分からない者は分からない。 おまけに友達に赤っ恥をかいた、LINEのプロフまで「TESCO管理部」 のマークにされて他のグループに入り込む。 「あれは誰ですか?」 「カスタスクって何ですか?」 他のグループリーダーらに説明せんかいっとは話したけども、分かりやすく説明が出来ない。 これは全員の能力を把握していない事から、毎日とタスクに参加していない者がいても放置していた。 一日約六%の複利収益。 Hannahだけ特別で他のグループは五千円からのタスク開始でも、本部成績優秀表彰から二百万円からスタート出来た。 あまりに危険なポチポチと言われた仮想注文タスク。 私のグループにその英雄は現れなかった。 三段方式の招待収益で、直招待が各々のその日の収益から十六%、その招待者がどこかで招待した者が八%、その招待者が招待すると四%の三段。 私の直招待者が二百万円で参加して、日に十二万円を稼ぐと、一万九千二百円が私の小遣いになる計算だが、その英雄は出てくれなかった。 それはともかく、私の目指すところはあくまで薬物で、二十六歳でカリスマ的生命を終わらせた 「孤独と心の弱さに抗い続けた」 I Love Youで有名な一人の伝説が、もしまだこの世にいたなら。 私が何を為して何が出来るのかも分からないし 同じ道を行くのかも知れない。 ただ生半可でも中途半端でも無く、尊敬と崇拝と憧れを生命を掛けて、抱き続けることとは恐らくこうゆう事だと思うから。 ちなみにカスタスクとは、一日に千円のタスクならば、約六十円の稼ぎにしかならない。 紛れも無く(カス)タスクである。
愛
あまりに理解が難しくて恐らくはこの愛とは遥か過去の仏陀の愛やキリストの愛ならば人にとって人生の永遠と呼ばれる存在はあるのかもしれないが、異性への愛や親への愛も友や挙句には我が子でも共に生きる関係で有るとき、それは儚い。 その時その時に激しく喜怒哀楽の感情を露わにする弱き人間と言う生き物にとっては、日常に余裕が無くても学校や仕事や家事、毎日の生活に金銭的な悩みやストレスがあっても、極端に言えば何も無くてもその日の気分、機嫌でその崇高な愛を感じ取れない事もあり何かが、誰かが捧げてくれた大切な愛を無駄にしてしまう時も数多く過ごしてしまう。 幼い頃、物心つかぬ時ならば食べ物をくれるとか小遣いを貰えると言う感情を入れないフラットな状況のとき、それは有り難くて素直に嬉しい。哀しいかな年齢の経験から相手は邪心も無く布施、奉仕の心から施してくれる有難みにでも、食べ物であるなら何が入っているか分からずに何となく気持ち悪い。現金を含めた資物で在るならば、余計な深読みまでしてしまう。「貧乏と思って憐れんでいるのか?」そう、貴方は貧乏だから憐れんでくれている。何もひねくれずに憐れみを受ければ良い。プライドや羞恥心や頑固さやら素直さを失ってしまった年齢的経験者は、相手の差し出した愛を逃してしまう事はそれは多い。またお金と言う直接な物に対してならそれしか目に入っていない、一万円と言うお札に目も魂も心も暖かい人格までも奪われてしまい「なぜ、この人はわざわざ大切なお金を渡してくれるのだろう?」「このお金を頂いて本当に大丈夫なのだろうか?この人は困ったりしないのだろうか?」まではまだ良くて「いつかどうせ返せと言ってくるな、変な借りを作ってしまったな」といきなり受けた愛を否定的に心の負い目に感じてしまう時もあります。 「返して欲しい」と言われたら言われた時に対応すればいいだけで、本当に相手がどう思っているのかもはっきり分かりもしないのに邪推はしなくてもいいだろうし、言ってきた時に「今は持ち合わせが少なくて」と逃げればいいだろうしその時の経済状況がどうあろうとも、千円でも一万円でも好きに遣えるお金をくれても貸してくれても手に乗せてくれたのだから、困っていたら遣えばいいし遣い道が無いなら手元に置けばいいだろうし、もっと言えば熨斗と菓子折でも付けてお返しする。ぐらいの感謝があってもおかしくは無い大切な愛でもあります。何とかなるなら有難くない、何ともならないから有難い。これは受け取る側の事情であって相手が行っている事は同じこと。その同じ内容の事に自分の事情で勝手に感謝の思いは変えなくていいと思うのですね。 今はもう本当に少なくなりました。部屋に籠っては携帯電話で全てを満たす生活から、お隣さんの顔も知らないとか話した事が無い、顔を合わせても挨拶をするのが恥ずかしい、何を話せばいいのか?分からない。「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」だけで構わない。無理に面白い話題を捻繰り出さなくてもいいし、別にいい奴と思われる必要すらない。荷物を持ったご老人でも別にそれを持たないといけない理由など存在もしない。顔を合わせて無視をしてしまう、言葉が思いつかなかった。思いつかなくてもいいし、挨拶だけこれで充分である。 そのご老人が可愛い笑顔で「少し持ってくれる?」と言えばあまりの可愛さに持ってしまうものなのだ。無理だと言ったところでも 「今の若い人は恥ずかしがり屋なのね」 ぐらいにしか年配の人は思いもしない。年齢なりに今の世の有り様や気持ちやらは分かっているものなのだ。心優しいご老人ならば 「困ったことでもあるのかしら?」 後日に話しを聞きに来てくれるかも知れない。僅かな 「少し持ってくれる?」 には寂しくて話したい気持ちやきっかけを探している気持ちなども存在している。貴方が居合わせなかったら別に自分で持って行く心算でお出掛けをしている。と言うことならばその微かなご縁とでも言えるのか、そこから仲良くなったり家にお邪魔をする様になったり、ご馳走になる事もあるだろうしもしかしたら知り合いか身内に後に人生のパートナーになる存在が影を潜めているかもしれない。そんな事は誰にも予想も想像も出来ない事でただ、そのままに今と全く同じで変わらなかったらその最高の出逢いを逃してしまう。経験からは高齢の人との会話はこれは面白い話題が多くて、人それぞれにドラマが在るので自分の人生のプラスになる。波長が合わないなら無い用事でさっさと帰ればいいだけで「お願い帰らないで」とは誰も言わない。 大切にしましょう。すぐそこにある笑いを幸せを喜びを。 恋人や旦那、妻と言った喧嘩するほど仲がいいと言われる存在達。 それは確かにあるのはあるし、私にもたまに会う地元の女の子は、三十半ばに失礼でも十年以上前に終わった体験済みなので女の子で構わない。 顔を合わせたら話しも尽きないし懐かしい思い出話しや近況を聞いたり、話したりとするのだけども三回に一回か二回に一回は大喧嘩をする。他愛もない事で。けども当たり前に絶対手は出さないし相手も警察行こう、行こうとは言ってもそれも結局は行かない。また顔を合わせば懐かしがって話しを弾ませると言った友達がいる。この友達にしても数ヶ月に一度会うのか会わないのか程度で、それで二、三回に一度の大喧嘩をするのなら、仮に一夜を共にした、同棲をした、気の迷いから結婚してしまったなら毎日殴り合いをしているだろうか。その適した距離感だから上手く行っているだけの事であって、それ以下なら何も問題も無いがそれ以上、二、三時間しかもたない関係で家に帰ればいる、風呂から上がればまだいる、ご飯の時まで何故かいる、寝る時までいい加減にしろっ、朝起きたらまだいてつまみ出したとしても同棲とはそうだし、また結婚もそうでもある。 昨今はごく当たり前に閃き婚や出来婚、ノリで結婚をして子供を作ってさっさと別れる。「若いシングルマザーはいかが?」 と出会いアプリでもいるだろうけども、シングルマザーの貴女はそれでいいが子供の気持ちはどうなっている? それが当たり前の社会だとしても父親のいない事に、辛さや寂しさ恥ずかしさもかっこ悪さも感じるのでは無いのだろうか?おまけにちゃんとした恋愛でもなくて 「シングルいかが?」 では無いと思う。それが生活の糧を得る手段なのか、一体何の心算かも知りたくも無いが子供の視点からではやはりそれは違う。 この人生のパートナーとはまぁ見つからないしその愛との関係性はこれは甚だに難しい。拠って愛しい、またそれで得る事も学ぶ事も笑う事も泣く事も強がる事もそれは多い。けども一人を対象にしてその目的、目標に向かってひたすらに突き進むときにその相手には一体に何が必要であるのか?その本人に聞くと言う作戦も有るには有る。私は男だけどもこれは経験、体験だとも言えるのか。 女性は真実の本音はまぁ話さない、教えない、悟らせない。オマケに全てを試していると私は考えている。男性より女性が精神的に勝負にならないぐらいは上を行っている。女性は一つ、一つの言葉や行動に対しての男の誠意を観ている。男が語った僅かな一言の信憑性をずっと確認している。女性が共に街を歩いて 「あの時計が欲しい」 と言っているのは時計自体が欲しいのでは無くて、その欲しいに対して男がどう反応するのか?何を言うのか?それは実際に買う時であっても店の店員に横柄な態度で接したり、その女性が欲しいと言った一品に一目散に飛び付いたり、さっさとそれを買って男が片膝を付いて 「さぁどうぞ プリンセス」 と言ってもそれは遅い。 女性はその買い物でもたくさんお話しをしたくて、男が 「イヤ、君にはこっちが似合う」 と店内を何周も徘徊することを楽しみにしている。また 「何を言っている?君にそんな安物を買う私と思っているのか?二十キャラットの婚約指輪を見に行こう」 それは冗談としても、全てにトキメキをロマンを求める女性と言う存在には、女性の思う、考える予想以上の何かを捧げないと行けない。そこに誰かの目が有るから。恥ずかしいから。余計な感情を入れてしまうとこの気分だけで生きてくれる厄介な存在は 「わたしの意見よりも周りの目を?店員に偉そうにしてわたしに恥を?いついかなる時もわたしを喜ばせなさいよ」「だけでいいのよ」 こんな女性は多い。食事に行こうとなっても着る服を悩む所から、その為に美容院に行く事とか、気持ちの悪い厚化粧をするのも女性にとっての喜びの道であって、別に食事などはどうでも良くないがどうでもいいのである。男がフェラーリで薔薇の花束でも片手にお迎えすればいい。その食事に向かう車内での会話や 「今日は一段とステキだよ。キレイだよ」 なんてマンガの世界のストーリーを求めている。果てに食事がそのままドライブになっても怒りはしない。 「コンビニで豚まんでも買うわわたし」 ぐらいに女性には、その時、その時の幸福感や特別感が欲しいのであって、有り余る予算から店員に 「ほれ取っとけ」 と札束を渡してもかっこ悪いだけでときめかない。知らないけどもカバンに一億円入ってるにも 「なぁ?頼むわ~もうちょいまけてや?まぁ頼むって~」 汗かいて必死になっておればお金を大切にしている姿勢や、店員とも仲良く笑いながら対応している姿に微笑むものでもあり、それも含めて女性は男の全てを観て、確認し判断をしている。もしもさっきの時計を電話で 「欲しいの」 と言ってきた時に 「直ちに買って参りました」 では、女性は楽しくないのである。 「一緒にフランス行こうか?」 「いついつ一緒に買いに行こうか?」 「時計のエンブレムに婚約指輪のダイヤを仕込むのにしばらくかかる」 最後は冗談としても、過程を楽しんで結果までしっかりものにする、これが女性である。 この女性と言うのは男には絶対に理解が出来ないのであって、男と女が元々一つで離れて二体になったとするなら、大体は真逆である。こっちが追えば逃げるし、この時計が似合うと言えばそれが好みでも違うと言い、なら何が欲しいと聞けば悩んで考えて、やっぱりそれでいいと言う。 男には白く見える物が女性には赤く見えている。色の事では無くて考え方、ものの捉え方としてはまるで別の生き物のように。 女性にもさまざまに考えの人がいて、何にどこに焦点を当てているのか分からないけれど、私が愛している女性はこんな女性である。
無駄な喧嘩は無駄なだけ
(辞めたはずの他人への深追いや余計な関与…) 人は死ぬまで後悔と反省を繰り返して、成る人はそれなりになって行くのだろうけども。これはもう人の深層心理としてはどうしようも無い部分もあると思う。 【坊主憎けりゃ袈裟まで憎い】 そこではその人にとっては、拍手喝采の胴上げの如く行いや生き方をしたとしても 【腑に落ちない】 【鬱陶しい 受け容れれない】 どうしてもそれは存在してしまう。過去の言われ様や、そんな人間だ。と思い込む進行形の先入観はまぁ拭い去る事は難しい。 一つの気になる会話を見つけて、Web版でよくよく気持ちをフラットにして今のアカウントに変えてから、見てみる時がある。反論的な意見に対しても「ムカつきを堪えているな」と言葉の端端に重いパンチを繰り出している人もいるし、話した想いが何も届かずにすり抜けていると言える人もいる。 まず、第一前提はアプリでの滞在歴やポジション、平均の閲覧数やとかも一切関係が無く、初期一人目の者も今日参加した者も全くの対等である事。 別アカウントで書いた事もある、鶴の一声すらも百対零にはなり得ないこと。百人がいて、九十九人に絶賛される言葉すら最後の一人には、追い込んで病や自殺にすらしてしまう事も有り得ると言うこと。その病や自殺に追い込んだあとに九十九人に 「アナタは間違ってはいない」 と慰めをもらったとて、一人を破滅させた事実はもう変わり様が無い。中には相当な敵対心から、我を見失っている人もいるだろうか。全ての人が誰かの思い込みの統一感は出せない。 初耳の人には私も気が重いが、二十年も獄中で生活をして、大人の施設で二十六歳から上は八十歳も九十歳も仲良くする努力は、普通の社会生活では想像すら出来ないと思う。自慢でも何でも無くて、ほぼほぼの押すべき所も引く所も自然と身には付いてる。今はあまり関係無いよ?それは私が内情を知っていたから。本部登録を済ませたヤクザは、薬物の自己使用の刑務所は破門であり、お務めを終えてもう一度面倒を見てくれと、組織に戻る時に指をちぎらないといけない。 すると、誰にもバレバレであり一般企業には就職出来ないんよね。普通の人には、小指の第一関節の先が無い。程度に思っているのかも知れないけど、両手の小指は丸々、薬指も第二関節から上が無い、中指すら第一か第二関節の先が無い。いるんよそんな人。誰にも関係無い与太話やけど、人差し指と親指は落とさないと決まりもあるんやな。これはヒットマンとして人生を捨てる時なのか?自決する時に引き金を引ける様に。 と言う世界で、最高幹部の弟として何百人の叔父貴、叔父さんとして様々な相談を受ける時に、このポジションは安易に発言してはいけないんよ。どんなに切実な困り果てた内容でも、右が正解と思っても前も左も後ろも警戒しながら右に行けとか、言ってはいけないんよ。ただ最後まで全ての話しを黙って聞いて 「それで?お前はどうしたい?」 しか言えないんよね。使用者責任とか、右で失敗したとかの問題では無くて、仮に百人の甥っ子がいたとして、あまりに可愛いからと一言出したら他の九十九人から 「アイツだけ特別ですか?」 「俺はどうでもいいのですか?」 こんな話しになるんよ。その話しとここのとある問題かな?似たり遠からずなんよ。ある一定のチカラを持つと言うことは、どんな何にも我慢しか無いんよ。率先して意見を出してみたり、安易に良くも悪くも口出ししてみたりするべきでは無いんよな。 それは本音の本心を隠しても、同調する者が出て来るんよ。嫌われたくないとか半目になれないってやつかな? それと、ここはあくまで尊敬の意を持ち続け無いといけないところ。さっきの初期一人目と今日参加の者も同等とは言うけども、あまりに作家歴が長い先輩に対して、おまけに相当の年配者に対して許可も得ずに、友達みたいにいきなりタメ口で話してみたり、それは違うと思うんやな。 私もミスるよ。大方は年下、年上問わずに感情が昂らない限りは敬語を使う様にしてる。けども勘違いからなーなーになってしまうんやな。個人的に付き合いが有って、遊んだとかご飯食べに行ったとか旅行を共にしたとかなら良いのかも知れない。誰にでも、その一線と言うのは有るんよ。 これも、それに気付けるのか?反省が出来るのか?次から無いようにしようと思えるのか?または、分かっていても気付いて無い振りしてとぼけ続けるのか?僅かな差が先の人生には大きく差が出るよ。 どんな何の話しでも、吸収出来る人は誰かの職業作家さんでもいいし、ここの作家さんの作品でもいいし、読むだけでは終わらないんよね。使う言葉とか、リズミカルな流れとか、改行の仕方とか、読みやすいもあるんやろけど、それをどんな気持ちで何を伝えたくて、少しでも一人にでも書いてる気持ちを理解して欲しいはずの創作中の姿を想像もしてみる。 はっきりと言って自殺願望ものでも、どん底からのハッピー絡みの結局どん底でもいいと思うのだな。それが小説やろ?誰も理解出来ない究極のどエロ小説でもいいのなら、登場人物が全員次々に死んで、主人公まで死んでから最後に私もこう死にます。と創作しても 「おいおい、大丈夫か?それ」 と心配させると言う味やんか。 私は、今までに色んな小説を書いたように結構様々な有り得ない体験はしてる。はっきり言って 「なんで?こんな人生せなあかんの?」 思ってるよ。ドMやんか。理由も分からず幸せから遠ざかって生きてる。単なるアホやでこれは。けども間違って無いと思うからしてるのであって、自分で納得してるからいいのよ別に。 と言う事で。昨日は効きまくった睡眠薬が全く効かずに、今日は役所になけなしの残りの保護費を取りに行くから、ここまでにしますけども。 私から言いたい事は、受け容れれない否定こそが結局はアナタの為なんやでってこと。 なんなら深いい話しに投稿しておいて!嘘やけど。 誰とでも仲良く。これは刑務所で培った真実かな人生の よろしくっ!
我流SNS投稿作戦
つぶやきにすると連発になるから、、、。 本音で少し話します。ここで一旦身を引く丁度良いタイミングだったし。 Xの場合は、小説の長文を読む事すら面倒くさい人が正直多いです。 ここ数日、投稿を連発して来たのは、140文字が基本の投稿文字で、今の時代にどれだけ連続で読破出来る人がいるのか? 仏教書並みの小説を読む人はどれぐらいいてるのか? 私はずっとFacebookも、Twitterも嫌いだった。 私の場合は、副業の責任者をしていた事から、自分の招待投稿で仲間集めをしました。 全く関係ない人から 「それは合法ですか?警察に通報しますね」 と言われた事など、何度も有るし、内容も確認もせずお試しすらせず 「お前は詐欺師だ」 と言われた事もしょっちゅうだったし。 これもここでも書いた事は有るのだけど、同じコピペを連発する様な恩師では無かった。当時二十五歳の美人ドイツ人が幹部をしていて 「今、少しお邪魔してもいい?話せる?仕事はなにをしている?稼ぐ気は無いか?」 TikTokのDMで話し掛けて来て、散々に惚けた。 「は?副業?要らんけど?どっか行ったら詐欺師は」 それを何度か繰り返して、結局はあまりに可愛い対応に、私はスカウトされた。 一日で覚えれる仕事内容を、二ヶ月は掛けさせては 「お前?私のLINEはすぐに確認しなさい。即返事をしなさい」私は私で 「ハニー?本場のビールとソーセージを送ってくれよ」 「上司にハニーはやめなさい」 スクショを送って来ては 「いい?一番初めはこの画面になるから、ここをクリックするの。分かる?出来る?そう、そしたら次はこうなるからここをクリック」 一日で覚えれるこれを二ヶ月掛けた。 「もういい。私が元金をお前の口座に入れる。命令だ、やれ、お前はリーダーをやれ」 この四年前の出来事から、SNS中毒になってしまった。 その外国人達のLINEは一回で、小説並みの長文で、コミュニケーションを取って来る。Twitterの140文字制限なんかゴミの様に思えた。 またFacebookの投稿には文字数制限は無かった。今は知らない。 このTwitterでの小説投稿の反応を知りたかったのだけど、今も理解しているのは、完全なる活字離れ。そして、文字がぎっしり詰まった物ほど閲覧数の伸びは薄い。 今も私はTwitter、Xに何の興味も無い。他人の投稿などほぼ一切見ないし、フォロー、フォロワーも過去は拘ったけど、もう今は一人も要らない。この無関係の人からの変に多いフォローは、無駄な過信、勘違いを生む。見ていたら、フォロワーの数と閲覧数が全くと関係していない。要するに、機嫌取りフォローをしているだけと取れる。 投稿に対する返答も 「それ最高ですね」 「めっちゃ分かります」 「凄いっすね」 内容が無い。おだてているだけとも取れた。 最近、私は投稿内容を少しだけ変えてきた。よく読んだら笑える内容に。 フォロー、フォロワーこそいないが投稿後すぐに、何百程度は行く。お堅い話しより 「今から私のセックスの自撮り動画を載せます」みたいな、俗っぽい話しが好きなんやな。 さすがにセックス載せますは投稿はして来てないけど。 当然、難しい小説よりも、笑える投稿が楽しい。それは理解は出来る。私の小説の人気確認には何も関係が無い。 作戦としては 「なんかおもろい投稿もするし、小説も投稿するし、どんな人なんやろう? 」とだけ思って貰えばもう、頻繁に投稿する必要が無い。ぐらいの事はもう終わらせて来た。 失礼ながら、本気で小説家を求めるなら、Twitterにいる人間は査定には入らない。通勤電車で、単行本を読んでいる。そんな人はSNSなんかしていない。意味の有るのか無いのか、分からない情報が要らない人は多いから。 また年齢層も有るかな、ある一定以上の年齢の人は興味すらない。 下らないホントかウソかも分かりもしない、SNSで時間を無駄にしたいならすればいいし、それが人生の役に立つと思ってるなら、放っておけばいいと思う。 要するに、お金持ちに媚びるだけの話し。 全部の全部が下らないとは、私も言わない。闇バイト、薬物売人、腐るほどの無駄な情報も平気で載っている。 また、結構な文字数なってる。 とにかく、自分の小説の人気を測るのに、SNS上の閲覧数はなんの確認値にも一切ならない。未来に小説を読んで頂くのは、ちゃんと単行本を読む人だから。その人の読みたい内容か、興味は持って貰えないかなんかは、SNSでは全く査定は出来ない。 それはここも含めた、投稿アプリ全てに対して同じ。 だから、あまり閲覧数にばかりに気を向けない様に。 これはここで話した事もある。東野先生ですら、初期作品で全くと売れない時代も体験をされている。 SNS遊びをする時間があるなら、一つでも読んで、一つでも書いて 「なんか?読みたいなぁ?この人の作品、、、」を繰り返し行くしか無いと思う。 誰も…険しいよ。その道は。 おやすみなさい
謎の経典
永く、瞑想の末に想いを馳せた仏への答えを出す。 他の宗経、宗派への言葉は重く慎んで、私の産まれまた、産まれながらに親の勝手にてそこに存在し続けるその意味を話したい。 悩んで、考え続けて、それはそうなのか?また違った時に私の未来の処遇はどうなる?と深く既に後悔とそれを話す事の恐怖を身に味わいながら。 【南無妙法蓮華経】 この教理を説く宗祖の想いは最後に述べたい。 まず、妙法蓮華経。 これは釈迦の生涯での、とある地点でのあくまで人間世界では、関係無いと思われる己身の心の中での戦いの逸話であり、内容の全てが智恵の具わった者で無いと全く理解の出来ないこと。例えば、方便品第二の舎利弗であろうが、如来寿量品第十六の弥勒菩薩であっても我ら人間には、認識や姿も想像も実在性が確認出来ないこと。 また、法華経の全編の中に説かれる大通知勝仏の子供の16人の中に含む 兄阿弥陀如来 弟釈迦如来 これすら、我ら人間には絶対に感知出来ない存在であること。それは、物語や歴史ではどうあっても、釈迦は普通に生きた、あくまで人間であり。死んだ後の成仏やらは我ら人間には理解の出来ないこと。 例えば、この法華経の二十八品に限っては、釈迦のそれを説くと決めた、また心に想いの宿った時にはその本人が悟りの境地を得て、間違い無く成仏していなければ説明に理が無いこと。 また、及んではそれを説いて釈迦のその後の人生とは何だったのか?になる事。 釈迦、八十数年の人生にて、わずか3.40日間で説かれたこの法華経が人間を成仏させる経となるならば、他を説いたり、それ以外の彼の人生とは何だったのか?そして成仏とは一体に何を指すのか? 私の想いの至ったその人間世界での幸せや楽しみとは、その人間の手作りの本尊に祈り、拝む時間よりもそれ以外の事を行う時間の方が絶対に必要である事。 私が在籍させられて教わった内容に拠ると、朝、昼、晩の勤行とまた一日に三千遍の題目を仏道に至る道と述べて、それを行う時間は即ち人間世界での時間を失う事になってしまうこと。 私の意見としては、その時間は人間世界での逃げを意味して、仏に想いを馳せている無駄な時間と言える。 その時間よりも、友達と話し、仲間と過ごし、恋人と共有する方が遥かに人間としての時間であること。 それぞれが各々に、人生で在るべき全て。それはごく当たり前になにかを成功する者も、しない者も長寿の者も短命の者も存在して当然であること。 個人、個人の努力や能力によってその祈りを行なおうがしなかろうが、それは普通であること。 もし、その教義をそのまま実行したらば、誰もが救われなくば既に有り得ないこと。 【南無妙法蓮華経】とは 釈迦己心の物語のこの法華経二十八品をかなりのちの中国の僧の鳩摩羅什が、引き伸ばして創作した造語であること。 それを踏まえて、釈迦、法華経や鳩摩羅什、南無妙法蓮華経自体に別に法力や功力は無いと思われること。 この本尊の内容 大体において、十羅刹女やら上行菩薩やら第六天魔王や全てが人間の目には見えない存在であること。 そして、その本尊の中に作成者の当人の日蓮の名が堂々と記されていること。 これの意味は、どうみても本当に仏の世界にいるのか?いないのか?はっきりとしない存在らになにかを祈ることになり、また人間として生きた日蓮が認識できる筈が無いことであること。 ましてや、法華経二十八品に説く、この中に現れる神仏の羅列であるならば、別に名を記す必要が一切とないこと。 ことから、それを唱えた時間の対する浄土での存在時間が有るのか?無いのか?は知らないが、人間世界での時間を奪っている事は間違いないとは言える。 それを信じて、行って、間違い無く自分が人生が変化していると認識出来るなら別にそれはそれで構わないが、もし死ぬ時に想いを馳せる時間があって本当の神仏に 「お前は大切な短い、尊い人生のこの時間に紙切れの前で何をしていた?」と言われても各々の責任である。 もちろんに本当の神仏とは、その本尊に祈る心すら丸見えであって、自分の幸せがとか、身の周りの事をだとか、あわよくば名声や金銭等と祈っていた時に、逆鱗に触れる事も間違いないだろう。 そして、これらのタチの悪いのは、例えその時にその本尊の力や何かを神仏に説明をしたとしても、その中の当人たちは何も誰も唱えてくれとはお願いしていないと平気で逃げれる事にもある。 自分の人生の責任は結局は全て、自分でしか取れない。 その祈っている時間よりも、仕事を探す時間が、子供も家族と恋人と接する時間が大切だと。未来に神仏に言われてももう取り返しは付かない。 また、その責任すら誰にも持っても行けない。 それを分かって、これからの有るのか?無いのか?不明な成仏を願うならば、別に好きにすればいいと思う。 極論は、人間と神仏が対とするならば、人間の哀れな欲望を神仏が叶えて、自由にさせるとは思えない。 最後にこの本尊を作成した本人の想いであるが、その行き着いた先でその無駄時間に対する叱りを経た後に、新たな修行先を決めるために創った物とするならば、私に意見は出せないが、鎌倉時代のなんの情報も無い僧侶にその力があるとも思えない。