傾奇者~カズ~
36 件の小説ヒットマン
世界の中でも、特に機密性に守られてこの特例措置会議には、その時々の話しのターゲットは呼ばれる事も無かった。 「やはり…少しやりすぎているようだな」 「あぁ、なにか全世界の権力を独り占めしていると誤解しているかのようにも」 「それで?ここまでの世界の破壊を招いた男への制裁は?」 「新世紀の神の意向は…」 「万民の目の前での…蜂の巣、全身の滅多撃ちだ」 「だろうな。そもそもが米国の一切の軍事、軍備は他の国への牽制だけの意味しか無かった。それを本人がコケにされただ、舐められただの理由で他の国へ戦争を仕掛けたとき、全てを奪い取らねばならない。それと、この歴史的にも六百年にもならない考えの浅い国が大嫌いだった」 「この場で私情を入れるのはやめておけ」 「それで?いつ何処でそれを決行するんだ?」 「ヤツの海外への表敬訪問のとき、何故なのか警備は薄い。それなりのSPは付いているが、もうかのケネディ大統領の悲劇は忘れられさられているかの様だ。簡単な事、ヤツの車から降りた無防備なときに、周囲のデパート、アパート、ビルのあらゆるところから、全てがその国民に化けたヒットマンからの壮絶な銃撃を避けられる訳がないはずだ」 「どこで?」 「極力、治安の悪い国でなければならない。中途半端に平和な国では、どうせ国家賠償の問題にしてくる。米国は銃社会である。その返しを食らえばいい」 「口を慎め」 「ヤツの中東なんかの戦争への出来もしない和平交渉なんかは狙い目だな。今年の末頃、ロシア、イタリア、フランス、イラン、イラク、インド、パキスタン、中国、カタール、ドイツ、イギリス、これらの国の殺戮部隊にヤツが夜の晩餐会の時に車から降りた瞬間に、周りのSPもろとも息も出来なくしてしまう」 この世界への爆撃を与えながら、ノーベル平和賞を口に出すところ、物作りが下手なくせに貿易のマイナスを意味不明な関税で、世界の経済を完全に狂わせたこと、そしてその後に米国人にチキンとまで呼ばれた、敵意を剥かれてからの弱気ぶりがギリシャでの神の王国の復活を、目の前にしていた神話の神々には目障りでしかなかった。 どんな秘密めいた会議も、必ずとスパイもいるものだ。この中にも、ボールペン式のレコーダーに入った全ての話しを速攻にアメリカ領事館を通して、ホワイトハウスに送り付けた者がいた。 策はあるのか? 米国の大統領よ…。
凱旋門賞
こんな時間に特にすることすらなく、周りをまたも冷めさせまくっては、その日暮しをしているわたくしにとっては、何も夢の欠片も感じる事もないフランスかイギリスかで競馬の凱旋門賞をしている様だ。 この感覚も本当に夢の無い野郎と言われればそうであり、なんにも否定をする気にも肯定する気にもなりもしない。 こんな外国で超有名馬ばかりに大金をはたいていないで、地方の新馬戦での六頭から九頭ぐらいのかなり獲る可能性の高い(よく分からないから馬券を(取る)のか、(獲る)のかのどちらの字が合ってるのかすら興味もない。 もうかれこれ、三十分はこのテレビをしていると思うが、よく考えたら海外の宝くじは買ってはいけない筈なのに、なぜこの外国の競馬は良いんだ?昔はサッカーもトトカルチョと呼ばれ違法だった。野球も開帳賭博罪で逮捕されていた筈だ。いまや、楽天銀行の野球もサッカーもバスケすらある。 他にも、オッズパークや色んなアプリでも平気で競輪や競艇、競馬の馬券を売っている。あの〜法律はどこに行ったのだろうかな。そのうちに個人的にインチキくさい宝くじが売り出されても、寺銭が国に上がるなら違法でなくなりそうな予感すらさせる。 そしていつも通りに、日本の有力馬の話題ばかりをしている。私の記憶では、この凱旋門賞で日本馬が勝ったと聞いた事もない。 もうすでに結果も出ているから話すが、全然ダメだった。これもいつも通りのこと。さんざんに日本でのGワンのレースを燻し銀に勝ち進んだとて、勝てないのだ。勝手な憶測であるけど、日本の狭い厩舎で散歩と草を主食に過ごしても、雄大に走り回る外国馬には勝てない(気がする)夢を持ってる人にはごめん。関係ない話しでもないが、ロバートやデニーロが乗る日本馬が頻繁に勝つ様になった頃から何か胡散臭さを実はこっそりと感じていた。 岡部幸雄が武豊が勝てないなどとはなんなのだと。 しかし、しかしながらも先ほどのインチキこの上ない日本発の宝くじで、世界中のマネーを根こそぎ奪えるのであればいつかはやってみたいな。その手段は知恵を絞れば必ずあると思いたい。 おやすみ 人は別に気張らずにカッコも付けずに、適当に生きているのが一番楽しい。 よく、私の生まれた環境は境遇は最悪だったとか見かけはするのだが、そんなことは誰一人と省かれることもなく全員が常に考えていると思う。 今の私よりもあの人は楽しいだろうか?幸せだろうか?と思う心はもう自分勝手に自らを陥れている。筈だと思うな。 再度おやすみ🌙 ロバートだったのか、デニーロだったのか、デムーロだったのか 本当にとことんなんでいいや。寝よ寝よっ
ささやかなパーティー
たこ焼き なんとなくタイトルを悩んでみたが、特に目を引くタイトルにはなりそうもないので普通にしてみた。 たこ焼き タコ焼き 蛸焼き 書いてみたところでやはりべつに普通で良かった気になり安心した。 焼き肉奉行 鍋奉行 中華取り奉行 めんどくさい奴が多いなかでも、このたこ焼き奉行だけは任せて欲しい。 なにも、良いとこ取りをする心算もない。買い出しから、具材を並べるところまでを任せてくれればいいのだ。 この家庭でのたこ焼きパーティーは、それぞれの好みの具材を焼くというみんなのエスカレートするクライマックスを盗み取る事はしてはいけない。なんなのか、このたこ焼き棒というのか、たこ焼きピックを持つと車のハンドルを握ると似た様な、性格の本性が垣間見える時もある。 周りを結構と無視しての自分の焼き陣地取り、早めの我が陣地へのラード塗り、まだ完全な具材は決まってはいないが、とりあえずネタ(たこ焼きの素)を適量と入れて暖める者と。これは、自分の焼き場の確保とこれよりこちらには侵入するな!と言葉なき威圧も存在する。 たこ焼き粉を適量の水で溶かしてそれなりの味にしようなどとは、悪いがど素人とよばせてもらいたい。生粋の大阪人の俺には、そのたこ焼き粉を溶かした液にもこだわりまくったダシをいれないとたこ焼きとは呼ばない。これにも実は、各家庭の秘伝がある。大袈裟でもない。あるからだ。昆布とカツオの普通のダシで普通を余儀なくされる者や、昨日のカニ鍋からの雑炊を、これには当然に他の魚類の風味豊かなダシも、鳥や椎茸などのうまみを得意げにこれみよがしに一升瓶で持参する。その日の牡蠣やホタテで勝負に出ようとする者もいる。 大阪人同士のたこ焼きパーティーは、絶対に負けられない戦いを含んでいる。 また、餃子パーティーも似たりだろうか。 具材にタコは二割と言ったところか、キムチにチーズ、ウニにかに味噌にと濃厚な味ばかりを選んで持参する。旨みが濃いければ濃いほどに勝利に近づく謎のパーティーである。 焼き肉の特殊な部位も好まれる。ホルモン系のミノやシマチョウなんかは人気だ。 最後のほうは肉も無くなり、タレだけでも焼いて食べたりもする。 このたこ焼きパーティーは実に奥深い。 合わない具材がないからだ。 また仲間とたこ焼きパーティーをする時は、こんなものが合うのか?と思う具材で楽しんで欲しい。それでも、普通の屋台のたこ焼きでも充分に楽しめるのがまたいいなぁ
創価学会の闇
まずは、どうしても哀しいかな…この宗教団体の拝む御本尊は何も魂の宿らぬニセ本尊と呼ばれ、また事実がそうである。 正直、私は全てに投げやりになり、この確認を為さないままに答えを出してしまう愚行の寸前でもあった。 創価学会を破門にした、日蓮正宗の本門。危なかった、何故なのかどうあっても脱退を認めない創価学会にあって、その私の一縷の勇気とも呼べる日蓮正宗の寺門を叩いて御本尊を拝謁するまでは、真実は分からなかった。 創価学会第二代会長 戸田城聖談 「日蓮大聖人の真実のお教えは、独一本門といい、文底秘沈というも、みな一閻浮提総与の三大秘法の大御本尊を根本としたお教えでなくてはならない。この教えは、今日末法においては、富士大石寺にこそあれ、ほかにはないのである」 別に私は、この創価学会の第二代会長の何も知らない。そして、所詮は私たちの様に真理に疎く、いつまでも迷いから醒めない者を迷いの凡夫、そう凡夫と呼ばれるべき存在に相違もない。だからこそ、別にわざわざと否定も肯定もすべきでも無いやたらと難しく、おまけに恐らくは最終的にもそれ相応の答えすら出せもしないであろう事に、異論を唱えてみたい。 そしてから、仏祖釈尊から日本の日蓮大聖人となり、もはやもうそこが亡き創価学会第三代名誉会長の池田氏がたどり着いた、世界へ広宣流布されるべく一つの宗教の着地点とするときに、これは宗門から破門されてもなお、日蓮正宗に三大秘法の御本尊が存在していることを分かっていたのか?私の遠い記憶には、その実の墓標こそこの富士にあると聞いた事もある。事実は分からない。で、あるとするならば、もうそろそろ何処に真実の御本尊があるだとか、そちらは違いこちらがそうだなどはやめて、法華講が一体となり、真実の御本尊であるならば分け隔て無く与えられて、仏法の真理である抜苦与楽、世界の真の平和に動くべき時であると思っている。 実は私は、これは在るべきであると。それも違うのか、なにがあってもそうあって欲しいと心底願い、またその甚遠なる母親の誠の愛に依って、今の私すらもこの世に存在していると確信に近い誤解を未だにしている。 それは私の兄弟としては、 兄が二人と、この世では縁の持てなかった水子としての実弟の男だけの兄弟であることからも、家族に女性は母だけだったことも大きく起因している。 別のところでは、既に書いたこともあるのだが、その母親のお腹に宿ったときから、陣痛のところまでを私はそのお腹の中で、母の聖教新聞の配達にお付き合いをしたからに他ならない。 その男だけの家族にとっては、その母の生命を賭けて全てを費やした、創価学会の活動の全てが私を創り上げた。これは、私の最高の自慢の母のことなのでここは許していただきたい。 法華経に曰く としたいところでも、早速であるが、釈迦の法華経をのちの僧、鳩摩羅什なる者が勝手に 「妙法蓮華経」と名付け その一人の勝手な名付けにすら、勝手な意味付けをも為して (妙) 即ち、この上なく妙なる。これは字の意味合いとしては (非常に優れている)だとかと訳される。 さらには (妙法) もう単純に、非常に優れた法とされて、おまけに蓮華経とのこの蓮華とは文字通りに、汚れた水から派生しては美しい花を咲かせる、蓮の花のことである。よく、この経は鳩摩羅什の名訳であるとか言われる。だから、その一人の勝手な訳なのだ。 と思い続けている。ところが色んな書物も読み漁り、挙げ句には日蓮宗門の読み物や、私の一家がその生命までも掛けた創価学会に於いては、あまりに法華経に通じている筈の哲学者なる者があり得ない話しへと昇華させた話しをしている。どういう風にも、釈尊の説かれた法華経ではこの最高のリズムと呼ばれる 「ポポポーポーポーポーポー」 には辿り着き様がないのだ。 それは決して 「なむみょうほうれんげきょう」 でもなく、かと言って他にそのリズムを奏でる経典や経文もまたなく、同じ七字の南無阿弥陀仏と唱えてもなにか違う様に感じてしまう。実はこの様に書いてはいても、僅かばかりに恥ずかしい想いもしている。生物に死に変わり生まれ変わりと有るのかは分からない。が、もしや何度もその死に変わり生まれ変わりとしている者には、鼻で笑われる様な話しをしているのではないのか?と意味のわからない事を思いながら、その実は決して世の中の全てが何も一つにもなりもしていない。それは、何も釈迦を根本とした仏教が絶対的な幸せへの道標でも無い事も世界を見ても歴然としている。のくせにこの今は亡き創価学会の第三代名誉会長はほぼほぼ全世界へと広宣流布してしまった。これはとても、その鎌倉時代の僧侶の教義の云々が理解されたとは思い難いから、それよりも何よりも、この「ポポポーポーポーポーポー」の単純なリズムが生命を躍動させ、また生きながらに成仏と呼ばれる何かを成していくのではないのだろうかと思わざるを得なくなってゆく。何度も繰り返すがそのままではない。けども限りなくそのリズムに近い音律がこの題目ではないのだろうか。そして、それは恐らくは言葉の意味だとか、釈尊の説いた意味だとかを超越されたもっと簡単に言えば、特には何も意味はないのだが、その謎のリズムが人生を整わせてしまう様な不思議な音律となるのではないのか? そうでないとするならば、二千五百年前の釈尊から、八百年前の僧侶に至り、その時代に一人が得た悟りとも言える教義が今の今日までも脈脈と受け継がれる筈がない。ましてや、世界でも有数の難語の日本語の現代人も読み解くのは難しい言葉たちを今の世界中で拡がり続けるのはある意味究極の謎でもある。 今度は汚れた水の中から、美しい蓮華を咲かせる。ここらはもう釈迦の本意とは何も関係すらないといえる。 釈迦の本当の言葉なのか?などの難しい歴史上の問題はあるとしても、それ以前に既に釈迦本人の遺した言葉ですらないのだ。確かにこの宗祖の時代には、何も真実は伝わらなかった。それは理解されたとしても、今の歴史がある程度ははっきりとする時代にまで、誰かの造語を何かの名目にする意味は理解する必要性はない。 もしも、その全てを理解していた上で、宗教団体としての本来の在るべき姿にない様に利用したとするならば、これは(仏)を何かの利欲の為に利用したとあるならば、それ相応の罪業ともいえるべき大悪業でもあろう。 私なりの、この創価学会に対する違和感の初めは、まだ幼い頃の小学校にもあがらないときだったろうか。一応は元々の冨士大石寺の日蓮正宗だといってはいる。私自身は宗教、宗門に対しての敵対心は無いので、正直にいえばこの教団が破門になった経緯だとか、宗門側の法主におちゃめな破廉恥があろうがそんな事は気にもしない。 むしろ 「私たちは汚れこの上ないたかが人間だろう?門籍であろうが肉を食らい、酒を呑み、女を抱いてなんの問題がある?」 とも思うし 「おいおい?だから、釈迦は妻子もいて、豚食って亡くなったんだろ?肉を食えよ。女なら抱けよ」 とも思う。もっといえば私には、なぜ未だに釈迦もしていない剃髪をわざわざしているのか?謎でしかない。 そこらはまた後に話すとして、先ほどの 法華経に曰く だが 再度、言わせてもらうが私には母はこの上ない存在である。から、それが経文に合う、合わないは別としても 妙法蓮華経観世音普門品第二十五には この経を深く信じて、子を思い悩むときには、男子には容姿端麗、利発、勇猛なること。女子には、容姿端麗、心優しく、愛嬌に溢れ。などとある。 そして、これは観世音菩薩のチカラなのだと。それとおまけに男の子が欲しいと思えばそうなり、女の子が欲しいと思えばまたそうなるとも。 ここらはあくまで私の勝手な想像の域は越えれないが、私の父は、子育ての何も知らず、また母に協力も薄く、もしも私が女の子だったときには、父は更なる腑抜けになっていたかも知れないと、母が心のどこかで思うことがあったのならば、母の観世音力が優ったのだと思う。 それは、母が自分の生命の如くに私を愛してくれたことを確信なき理由としたい。 そして勝手な憶測である。 この教団への違和感に戻るが、私の物心の付いた頃にはもう仏教教団のなにも存在はしていなかった。単なる一人舞台ともいえて、そこを信じる誰でもといっても過言でもなく、この教団の者はいったい何に仏というものを見据えているのか?不明でもあった。 その現代人の一人の偉人伝のみを語り続けて、凄い、素晴らしい人物だとしか話しが聞けないのだ。 当時から、私は物事に対しては単純に、フラットに考えることが出来た。また、その法華経といわれる経文の理解も早かった。当然にそこには、勝手に久遠元初の仏と呼ばれる日蓮の御書といわれる書物も目に入らない。もちろんに我が家は、私には生まれながらの創価学会の家族だったので、その一切も目には入れなかった。 結局のところは、その法華経とやらで何をどう、幸せにしようとしているのか?また出来ることがあるのか? それは結局はなんなのか?ぐらいに私の人生への意味合いは別になかった。また家に来る折伏隊たちは、口を酸っぱくして「神仏にすがる信心でない」とかいってくる。 別にすがるの意味すら分からない私には 「じゃあ、何を思ってそれ唱えてんの?」程度のこと。 はっきりといえば、その法華経の肝心、肝要だとか言い訳はするが、あまりに長い二十八章からなる、長編物語の二章と十六章だけを読誦すれば良いと誤魔化したのではないのか?私にこれをなんの為に釈迦がわざわざ説いたのかも分からない。けど、自作の物語のポツリ、ポツリと読んでもらって釈迦には本意なのだろうか? また深く、内容を精査してみると、その第二章の方便品第二と呼ばれる中の最後のなぜか三回も読み直す部分、この教団には重要視される様だが、十如是と呼ばれるところになるが 「如是相 即ち顔 如是性 即ち性格 如是体 即ち体 如是力 即ち力 如是作 即ちそれらの作用 如是因 即ちそれらの元の因のなるもの 如是縁 即ち縁から成る 如是果 その結果 如是報 即ちその報せ 如是本末究竟等 即ちその全ては一体である」 私もこんなことを調べたのはもう相当に昔であり、少し本来の意義とは違うのかも知れない。 私の述べたい事は、そんな小さな話しではなくて、これ自体がのちの天台大師の一念三千の法理だとか、釈迦の述べたこの肝心、肝要の十如是すらもサンスクリット原典には五如是ほどしかないとされていることだ。 もうここだけで、妙法蓮華経という偽名と、天台大師や伝教大師などの作為も否定は出来ないことを問題としている。そして、釈迦という人物の誠の言葉なのか?というところ。仏舎利などと呼ばれる遺骨から、その釈迦と呼ばれる人物の実在性は立証されている。とはいえ、全てが言い伝えの伝説の様な話しであって、ある書物に依ると産まれてから死ぬまでの全てが、弟子から弟子への口伝による歴史であり、その存在を書物にされたのは死後、五百年ものちにポツリ、またポツリと書き出されたとある。今の日本で話すならば、西暦千五百年と少しといった歴史上の人物が、こうした、ああいった、最後はこうやって死んでいった。となってしまう、もうそれは神聖なる仏陀であろうが本当に悟りを開いた賢者であろうが、一言の、一つの行動に対しての真偽はどこの誰にも証明は為されることはないと思う。 今に、豊臣秀吉公はあれを語り、行い、誰に何をして、正式な嫁は誰それで、子供は何人で、親はいつに亡くなり、友達の三郎はどうなっただとかが分かるはずがないからだ。 大坂城を誰かに命じて築城させたのはそうなのだろう。でも、本当にか?豊臣秀吉を名乗った影武者ではない証拠はいったいどこに?朝鮮に出兵したのは本当にヤツなのか?写真の一枚でも見せてみろよ?これがその写真か?で、この写真は誰なんだコイツは。そんな話しにならないだろうか? 人の人に対する口伝などは、たとえその本人を実際に知っていたとしても、内容はすり替えられてしまうものではないだろうか。 乾いた喉に一杯の水をもらったとて、その嬉し過ぎる記憶はいつの日か 「砂糖水だった気もする」 「ほろ酔いになった様な」 「エネルギッシュな神秘の液体だった」 人の一生だけの間でも、その程度の物事の美化はあってもおかしくはない。それが、五十年、六十年の人生の時代だとして、五世代も六世代も真実が口伝で伝えられている。これは正直にあり得ない。 ましてや、その弟子と呼ばれる全てが何も、嘘も偽りも利害も、仏教というものを一切と自我損得の無しに紛れもなく伝えたと、誰が死刑か酒池肉林の宴かの境で死刑を選んでも、何一つの嘘のない真実だと言えるのだろうか。何度も話すが、生きてその姿を見た者は別としても、二代目、三代目はもう顔も声も何も知らないのだ。その酒池肉林の宴には 「私にその全てを伝えた者の話しにも嘘がない」 ことの膨大なる裁判書類も必要となる。その過程で、彼に伝えた者は人生で一度の盗みをしてしまった。風邪を引いたと嘘を付いて仕事をサボった。これにより、彼は死刑となってしまうだろうか。 それぐらいに、人が死んでから五百年以上も経って書物にされたものに、一切の真実はないといっても過言でもないだろう。 この法華経とは、あまり普通に読まれはしないところ、序品といったあたりだが、平気で文殊菩薩や、弥勒菩薩、日月燈明仏、あげればキリもないのだが、他にも阿弥陀如来の極楽浄土にいるはずの観世音菩薩も出るし、勢至菩薩も出る。多宝如来といって、釈迦がこの法華経を説いたことを真実だと認める仏も現れる。 誰なんだ?その多宝如来は?顔は?姿は?せめて五十年に一度ぐらいはこの世界に顔を出してから言えよ。 または、竜王の娘が文殊菩薩に法華経の教えの解読度を語り、これが経典唯一とされる女人即成仏相とされているが、どこの竜なんだ?どこにいるやつなんだそれは?これは女人が成仏するにあたり、男の姿に変わったとあるが、今はそれはどこで見れるんだ?なんの話しなんだいったい?程度の話しである。 まず、この釈迦の説いた法華経とは、過去永遠から未来永遠までのいわば今なお継続されている物語の途中経過であり、ここまで学べば菩薩へと。ここからは神へと。ここからは如来だね。なんてことはまずない。ただ単に、この宇宙の全ての森羅万象は不変且つ不常であることの話しでしかない。 それは、我らがどう知恵を絞ろうが、理解の出来ない無限の過去からの神仏の救いの元で存在している私たちであり、未来仏の阿弥陀如来もここの私たちをしっかりと観ている。といったことや、釈迦の次期仏の弥勒菩薩でさえも求名と呼ばれた、名声ばかりを求めては失敗を繰り返して文殊菩薩に叱られてばかりいる。が、それでも如来になれるといった努力を促すといえば私の創作話しの様になってしまうが、だいたいそんなところである。 そもそもが、法華経と呼ばれる話し自体が存在はしていない。その釈迦仏の瞑想の長さを測ることは出来ないが、相当の期間の瞑想を終えてからようやく、方便品第二からはじまる 現代語訳 「その時に世尊は従三昧から安じて座より起きて舎利弗に告げる」 この時点でもう、釈迦の悟りは行き着いているからだ。依って、この法華経とは釈迦の悟りの内容ではなく、事後談話といった意味合いが強いと思われる。 当たり前だ。この時代には無かったであろう様々なことが今にはある。あちこちで人が殺し合う戦争や、死ぬまで牢獄の刑罰などもこの頃の釈迦仏は予想もしていないだろう。それも含めた、現在進行形での壮大なる物語という意味だと勝手に捉えている。 その勝手とは、釈迦死後の五十六億七千万年後の未来仏の弥勒如来が語られているからとしておきたい。ただし、法華経自体にはその明確な年数は表示はされてはいない。 そして、この教団なのだが、数が何かと誤解しているのか。ずっと破門を食らった本門になるのだろうが、日蓮正宗に敵対していた。あとの与太話はどうでもいいが、破門を食らえば活動は出来ない。当たり前の事であって、それを数に物を言わせては、宗門を嘲笑ったり、おちゃめをいじってみたりとはするべきではないからだ。 その時、その時の宗門のトップが如何であれども、ここは日蓮をトップに見ているのか?弟子の日寛をトップと見ているのか?はたまた、意味不明な広宣流布の活動家の現代人をトップに見ているのか?よくは分からないのだが、歴々とされた宗門のトップはこれは一人しかいないし、また存在してはいけない。もうここの勘違いから様々な宗派の枝分かれは止める事も出来ない。 まぁ、事実なのならば別に書いてもいいのだろう。ただし、本当にその現実が真実だとかは私は知らないし、この説明にも責任も取らない。 宗門の主が、女性を買った。要するに売春をしたと教団は罵るのだが、先の私なりの「大変、人間らしいじゃないか?」は別としても、ならばその教団にはそれをする者は一人もいないのか?もっと悪どい輩はいないのか?仏教を金銭に変えたり、自伝を売って稼いでるやつはいないのか?私服を肥やしている輩は? そこらとこのおちゃめも私は何度のことなのか?深くは知らないし興味もない。それは人間らしいおちゃめとしか思いもしないから。それをいつまでも分派が本門を笑いものにし続けた。一つの組織のトップを見ればだいたいの活動も分かる。この教団の広宣流布隊長はあまりにも、自分自身を神格化してしまった。 先に述べておきたいが、この広宣流布とは、法華経の中に説かれるある時に地面が壮大に割れて、その地中から次々に湧いて出てきた(地面から湧いた)地涌の菩薩の六百万恒河沙のその最上師の上行菩薩に釈迦仏が、この法華経を後世ののち、末代まで広く流布せよっ! そののちに末法初期に生まれた日蓮本人が、私はその上行菩薩の再誕だと言い出す始末で、もっと言えばこの彼は、法華経十六章の如来寿量品で仏とは永遠の寿命であり、それは私こと釈迦であると説かれたことも蔑ろにしては、私は教主釈尊よりも前から存在している久遠元初の仏だと言いだしてしまった。 さっきの地涌の菩薩あたりからの話しの展開からでは 「なに?広宣流布って?」 これが当たり前の認識であって、その上行菩薩の再誕だとか、だから法華経を広めているだとか、挙げ句にはこの教団は師弟不ニだとか、師の教えは絶対に護るべきとの謎の意志操作もあるが、ともかく、地面から湧いた者の最上師に釈迦仏が委託をしてから、それの生まれ変わりが何故か末法の坊主であり、それらを信じて世界を広宣流布の為に飛び回ったとさ。 とさは失礼かも知れないが、常識のある通常人であるならば 「で?なにやってんのそれ?」 これが普通であるだろう。 そして、くどい様だが、南無妙法蓮華経の言葉も名訳者の造語。この教団の本尊に至っては末法の本仏(これも後で説明したい)の日蓮の直筆でなくて弟子の日寛の代筆のもの。この教団からのお買上げには一幅三千円を必要とする。一閻浮提総与が聞いて呆れてしまう。印刷物ならば、せめて配ろう。それはいい。 末法の本仏であるが、釈迦の説いた、正法時代、像法時代、そして末法時代とある。 これはその釈迦の遺訓に反旗を翻しているのか?先の弥勒菩薩の如来への修行達成までは、救われないと釈迦仏はいっている。悟りも悟る者も悟りへの道すらないとも。私利私欲のみが蔓延り、仏のなんたるかも消え去ってしまうと。と断言している。もう遅い、してしまっている。 その末法の初期に、これはここから万年を超える、いや弥勒の登場までを考えるとそれは相当に長い暗黒の世界の予言である。 その初っ端にも関わらず、その末法を救うだとか、この末法にこそ現れるべきしてこの世に生を受けたとか。 釈迦仏の言葉の何を信じようとしているのか?法を説けばそれに生命を賭けて、末法だといえば救うと言いだす。 私は仏陀ではない、当然に。だが、もうこの段階では釈迦をも超えた遥かなる存在たちには見えているのではないだろうか。 末法になるといった矢先に宗派の枝分かれを繰り返しては、その未来といった今の時代にまたはもっと先にも余計に迷わせる元凶はいったいに誰が作り出したのかを。 釈迦を信じるなら、信じるで 「もう何をしてもダメだ。せめて笑って生きて笑って死んでいこう」 だけでよかったのかも知れないし、時が戦国時代やその前後ならば宗教戦争もあったのだろうか。よく聞くのは、阿弥陀念仏宗と日蓮法華宗との争いとは言われるが、法華経自体にはどちらにせよ、阿弥陀如来が全てを救いとると明示されている。 繰り返すが、その鎌倉時代には情報も薄いのだろう。おまけにインドから西遊記の世界をこちらに向けて伝教して、途中では内容も相当に手も加えられたとも思う。 それが、この今の時代にもなってから、まだ宗派の揉め事をしているのはなんなのだ?権力欲、金銭欲、支配欲、名声欲などのゴミの様な意識に間違いがない。 本気で平和を願う者が、敵対してまで何かをする必要がなく、その敵対する何かが気に食わないなら共に共存すればいい。一つの寺として、半分に分けて仲良く違う仏か神をお参りすればいい。 別に宗派は違えども元々がみな兄弟の人類との認識を持つ人徳が残っているならば、手を合わす神仏は違うが、同じ気持ちで世界の為に頑張りましょう。ぐらいの仲間意識すら持ちもしない。私に言わせたら、どれの欲なのかは分からないが強欲過ぎると言わざるを得ない。 さらに私なりの違和感は続く。ここら辺は、その宗派自体も指標にしているのだろうから、敢えて述べるが私の今だに自らが脱退を申し述べるにも、なぜか許可をしない悪徳教団だけの話しとしたい。因みに、その教団が話すには、今やなんの関係すらない生まれた茨木市のことを話しているのだろうが、そこの幹部と話せという一方的な脱退の拒絶だった。再度いうが、私の場合は親の勝手で生まれながらに在籍をしている。その在籍している本人が脱退を申し述べるにあたっては、これを許可もしない。ここは充分にチカラの有る顧問弁護士とも相談をしている。 はっきりといって、私はいったん敵とみなすと断じて一切の手は抜かない。だからこそ、これの成り立ちから教義からまた、今なお存在意義を示しもしないこの教団の壊滅を心より願っている。 さて、違和感であるが、ここはどうしてもこの男が、広宣流布の筆頭主が死してなお代名詞と君臨しているからどうしようもない。 この主は、頻繁に久遠元初の書物の説明を繰り返しては、他の宗派を貶して、また笑いごとにしていた。例えば 「法華経には十如是があり、相(姿)からその存在する因縁までを説いている。他の経典にはそれすらない」云々。 これは、人が花の美しさを話す(説く)のに 「その咲いている姿そのものが素晴らしい」では物足りない様で 「咲いていた花が草と朽ちていき、種子を土に還して、水や太陽の恵みを得て、地中の虫や飛ぶ昆虫などの協力を得て、奇跡的に我が目の前に存在してくれている」 この様な説明がこの世の全ての森羅万象に必要であるようだ。なら、この世の全ての元素についての説明は?はじめて見た鳥の体内の全ては?酸性雨の成分なんかは?人の寿命の計算法は? これからも未来にずっと変わりゆく、何もかもにそんな説明はしていられない。 だけでもなく 「火のない湿った木から火を出す信心を」とか、とにかく意味が分からなかった。 「大聖人は十羅刹女が仏前にて法華経を信じる者の守護を誓っていると声高に申し述べている」 これが、本当にこの世での出来事なのだと言いたいのであれば、なんともし難い。 まぁ、私自身は別に嫌いではないのだが、法華経こそが世界を救うべく法だとか、立正安国論を時の執権に差し出したとか、念仏無間地獄、禅宗天魔の所業、律は国賊、真言は亡国とまで話した熱意は買いたいがやはり意味は不明と言わざるを得ない。 そのこの人間の世界の話しでは無さそうなことを、人類の平和だとか、そのやけに法華経に身を費やした末法の主の書物に詳しいことが、もしも何かの偉人伝となっているとするならば、どうしようもなく、またその書物の真髄を究めたからと心酔するのであれば、そもそもが平和とは程遠いと言わざるを得ない。 これを書くにあたり、私の決定打は私の母の脳酵素による死であった。その人生の終わりには、もう誰が誰なのかも分かりもしていない。今の時代に七十半ばという没年齢が妥当なのかも分からない。けど、その姿を目の当たりにしてきた私には悲惨にしか見えなかった。 今、考えてもそれはやはり違うとは思う。それは、同じ世界で生きている人間同士のことであるのならば、その誰かの為に必死に祈るのではなく、直接に声を掛けるべきだと当たり前の確信がある。よくあるのが 「あなたの健康と幸せを、いい人生を祈っている」 なんてのがある。そして、最悪は 「祈ったが無駄だった」 これは、その本人とよくよく語っていこう。 「体調はどうだ?」 「やりたいことは?」 「欲しいものは?」 「何がうれしいんだ?」 子供が泣いていたら、理由を聞いてあげて、共に解決しないといけないだろうし、関係のないところに祈りをぶつけるよりも、楽しい気持ちに笑わせてあげたほうがいいのだろうし、好きな外食にでも行ったほうがそれは子供には幸せなのだろう。 私もよく言われた方だった。それは学生時代からの素行が良くなかったこともあるのかも知れないが、それならば、何が不満であるのか?どうすれば楽しそうにするのか?そこらも変なものに祈るよりは特に家族であるのだから、話し合って解決をするのがごく普通であろう。 人の手で、努力でなんとかなる様なことは決して神仏はなんともしない。これは、私の幼い頃からの想いでもあったし、絶対に治らないと言われた不治の病だとか、もう会えない誰かと会わせて欲しいとか、これは死別も含めた縁の切れた者を意味する。 簡単にいえば、神でも仏でも先祖霊でも座敷童子でもなんでもいいから、普段は絶対に会えない者に夢の中でいいから会わせろ。といった内容でなければ神仏は動きはしない。そう思っていた。 交通事故に遭わない様にだとか、無差別殺人に遭わない様にとかいうのは、個人の努力でなんともなるのだから。また、良い学校だとか、就職にしても、良縁に巡り会うなんてのも本人の努力次第でなんとでもなる。 そうゆう思いであった。要するにその前で何かを祈る行為自体に否定的であった。金銭の問題なら仕事をするしかないのだろうし、自分に自信がないのならば、稼いで、全身を整形でもすればいいし、歌が下手なら練習をしろ。ただそれだけだった。仮に二十歳を超えてから、あと二十センチの身長を。といくら、死ぬまで祈ろうと無理なものは無理なのだ。 単なる、神仏への感覚の違いといえばそうだけど、生まれてから出会った全て以外は関係がない。これが結論である。物心の付かないときから、庭先で小動物が死んでいたら土を掘って埋めてあげる。これにも、意味があるのか無いのかは分からない。が、その行為が好きな神仏は喜ぶのだろうし、死んだあとに 「この私の亡き骸は誰がどうするのだろうか」 と見ているかも知れない。その僅かな一つの行為が何かを喜ばせて、少しの幸せに導くのならば、その小動物が神仏なのだろうし、その姿を遠くの窓越しから見ていて 「あの子お墓に埋めてあげてたよ」 と噂をしてくれて、よき方向にいくのならば、それも神仏なのだろうから。 話しが相当とずれましたが、再度軌道修正を。 私なりには、一般の人には「なにをそんなに大袈裟に?」 と思われたり、笑われたりとするのかも知れないが、これは、これでなかなかに若い頃の生活環境としては劣悪なものだったといいたい。そもそもが何も興味がなかった私には、座談会とか会合とでもいうのだろうか、私は参加はしない。けども、大好きな母がそこに連れ去られていってしまう。その間は、私は昔ながらのアパートで数時間を一人で過ごさないといけなかった。確かに何も分からないほどの子供時分でもないが、兄の二人が祖父母の家で生活をはじめてから、八歳か九歳ぐらいからだが、週に何日かの何時間かを一人で過ごした。たかが、そんなことに寂しかったからとか、辛かったという話しではなくて、少しだけ視野を広げてみれば、この状況は私だけではなくて、日本中の、世界中のどこかで起こっている宗教を理由とした虐待なのではないのか? 虐待とは言葉はキツいかも知れないが、そんなものに興味が無くて、普通なら母に甘えれた時間が紛れもなく奪われたのならば虐待でも間違ってもいないだろう。 よくあること、出掛けている方は悪気もなく当たり前の日常の行いであるが、片や、家に一人で残された方の私にとっては、それがたとえノーベル活動賞の如き行いであっても、全くと不要なのだ。それはそうであろう。 父を含めた両親が(私は今だに父を親と認めていない)どの様な善行をしようが、その私の一人ぼっちの時間の言い訳になるわけがないからだ。親子であるならば、共に行動をした上で為した何かを誇ることは許されても、我が子を家に一人で残したままで何を行おうとも、そんなものは虐待以外のなんでもないといいたい。 私には、幼い頃からずっとその思いが消えることもなかった。 そして大人になりいま、その様にして、その切ない想いをした過去に遡ってまでも、その宗教への全てが別に何もないと確信と言えるほどの断定を得た今に、もうこの先にこの変な宗教を理由に孤独を味わう幼い子があってはならない。 また、それは幼い子だけでもなくて、気分を害されてまで無理やりに、折伏という名のかなり気持ちの悪い勧誘を受けるべきでもないし、まだ序盤ともいえるここまでのこの法華経のだいたいの実態を知ってなお、他人の気を害してまで推し勧める理由があるとするならば、本気でその生命に染まりきった毒素を抜いたほうが良いと思われる。 だいたいが、仏教徒とは釈迦仏の様な人生を歩みたいのか?はたまた、釈迦自身は歩めなかったが言葉の中で理想とした在るべき人生を歩みたいのか?のどちらを求めているのかということになるのかとも思われる。 よく、今や携帯の動画などでも溢れている釈迦はこの様に説いたとか、これが仏陀の悟りのなんとかだとかがあるが、それすら先ほどの死後からうん百年もしてからの、名言、格言、金言であるのならば釈迦本人には失礼ながらも 「彼本人の言葉ではなくて、のちの誰かの創作」 これが理論的、または常識的に普通であろうと思う。そういった話しになればなるほどに、全ての釈迦仏の悟りとはいったい?となってきてはしまうが、私は断言してこの死後から五百年ものちの歴史といわれる事実に、全ての真実性を感じ取ることは出来ない。 これは、私の釈迦仏への気持ちではなく、この釈迦仏が説いたとされて且つそれを信仰の旗印にして、一切の神力やなんの作用も為さない紙切れについての真実を話しているだけのこと。 一、釈迦の真実の逸話かどうかさえ真偽のはっきりしないこと 二、そうであったとして、人の人生に関与する話しではないこと 三、最終的にも、だからなんなのだといえる話しであること もっと私なりの異論は尽きることもないのだが、単純な話しの一つとして、この中の第二章の方便品であるが、これはそもそもが釈迦のこれまで説いてきた全ては、仮の教えであり、方便であってから、こちらが真実の教えであるだとかの能書きである。 私に言わせたならば、その過去の全ての教えとやらを学びきった上でも、こちらを拝見して納得したのならまだ理解もしたい。他の何も調べも学びも知ろうとすらしない者らが、釈迦はこれを本当の真実だと語ったからそうなのだ。これは、情けないほどに知識力も洞察力も勉学力も薄いとしか断言は出来ない。 再三に繰り返すが、紙に書き残される五百年以上も前の男の一言だから。そんなことに対して、この彼がこういった、話したなどと熱弁することは思い切って言わせてもらうが、無駄、無意味である。 これも、釈迦仏を仏陀を信じるのか?信じないのか?などの奇妙な解決論もいつかは必要なのだろうが、私なりには、信じても、信じなくてもどちらでもいい。これがまともな正解であろうと思う ましてや、この一人の人生の中での、さらに本当なのか?嘘なのか?どれを真実として虚とするのか? と考えだしたとき、それは全てが嘘、妄言、虚言だととって構わないだろう。というよりはそうするべきだと思われる。歴史的な確実な証明、証拠の存在しないことに、ここに至っては言葉の有る無しんてことには、永遠の揉め事の原因に、永遠の水掛け論の発起人に他ならないのだから。 その、どれが本当でまた嘘でと誰が探り出しても、もうどこからも何も出てこない。この辺りまでをお読みになられた方の中で 「そんなことは有り得ない。釈迦仏は、釈迦如来は、釈迦牟尼仏は、仏陀は、シッダルタは全てが真実なのだ」 と誰もが納得できる証明書類と共に最高裁判所に提出できる誰がいるというのか?いるわけがない。この世に遺されているのが、話した内容だけ。だから。別に遺骨も何も語りもしないだろう。それが聖者の遺骨だとしても。 と、これを書いてる今ですら本当に私は物事の真理が何も見えてはいないと自負している。 その上でもって、この何故か脱退をさせないニセ本尊をずっと拝む団体が、今や日本の政治活動としての微力ながらも連立与党として存在している事にも、また時期を於いて思いを書いてみたい。それは、結局のところに何も叶わない三大秘法でもない御本尊に祈りを続けている教団の政党が一体に何を成そうとしているのか?の私の意見である。 因みにここ最近に創価学会が破門になる前に、富士大石寺を本門とした三大秘法の大御本尊を授受、授戒したとは言え得度、即ち坊主になれるまで最低でも五年はこの信心が必要だと門前払いを喰らい、まだまだ信じた中でも文句を述べ続ける覚悟を持って私の最後の人生の終着点にさえまだなお 「お前はまだまだ何も真理を分かってはいない」 と言われていると思いながら実行していこうと思っている。
無限罰
亜貴は、この春に高校二年になった。何気ない小学校時代を過ごし、また何気ない中学時代を過ごした。 周りの同級生達とも、特別に変わる何かを持ち併せているわけでもなく、スポーツにも成績にも目立つ存在でも無かった。 ただ、母親は私と暮らす父とは離縁をして、今やどこでくらしているのかも私は知らなかった。 〜小学三年からだった〜 当たり前の様に、毎日を平凡そうに過ごして、学校の友達にももちろん先生にも悟られることもなかった。 それがどこの家庭にもある普通とは思ってはいなかったが、その私なりの秘密だけは誰に語ることも出来なかった。 〜善も悪も無い。私の人生そのものにも存在しない〜 分かっていて、分かってない振りを続けた。その行為が人の理性の範疇から外れていたことすらも。 〜今はそのときではない。必ず、私のこの手で最高の罪苦を味わわせてあげるから〜 その私にとっての、生きるのか?死ぬのか?の小学校の三年から、あまりに長かったチャンスの到来まで七年を必要とした。 一 面倒くさいだけの、月曜日の六時限をようやく終えて、亜貴は、駅前の図書館で数冊の本を借りて、スターバックスでアイスティーを片手に活字を追っていた。 お金がないわけではないのだが、何週かの遅れ程度であれば無料で借りれる図書館の本を愛読していた。ちゃんと週刊誌もあるし、人気作家の棚には超新刊こそないものの、その作家なら聞いたことのある代表作はだいたいと並べられている。 私が書店で、最新刊と呼ばれる書籍を購入するのは、北方謙三という作家の水滸伝シリーズだった。なにか、ファミコンのロールプレイングゲームをしているかの様な、敵なのか?実は魂胆があって近づいて来たのか?様々な要素はあるのだろうが、結局はみんなが惹かれあって仲間になっていく。 初めは敵とした者すら、気の置けない最高の仲間となっていく。 そんな話しが大好きだった。 その壮大な物語が大好きなのも、心の奥底では 「私にも最高の仲間を」 「そんな人徳を私に」 その願いがあったことは否定はしない。私の心は、精神は、肉体は、この上なく最大の悲鳴を上げながらこの世界という地獄を生きてきた。 とはいえ、そんな人生に理不尽が重なったからといっても、僅かな一生という短い期間に全てが帳消しになるとか、甘い考えももってすらいない。それも、水滸伝も含めた様々な物語小説から学んだ、人の念、これは怨念だとか、誰かに対する恨みの念を意味するが、そんなものは晴らせることなくこの世を無残に去った物語を知っている。 源頼朝を逃した平清盛が頼朝により滅ぼされたこと、兄と慕った義経をも無惨に殺害した頼朝。 天下取り目前で自ら、火の中で滅した織田信長。 また、名もなき民が強姦され、全てを奪われ、殺されたとて、その怨念すら別にどこにもいきもしない。 だから、私のこんな世の中から比べたら、なんてことのない様な苦痛如きで、私なりのハッピーエンドになるとも別に意識すらしていない。 それは理解はしていても、ふと思うこともある。本当に、この世で受けた屈辱や苦痛やあらゆることを、個人の心の中に閉まったままで終わってしまうのだろうか?死に変わり、生まれ変わりとして、いつの日にかはやり返すときは来るのではないのだろうか? 〜袖触れ合うも多生の縁〜 生きている一生でたかが袖が触れ合うのも過去のなん生にもよる縁があるのならば、故意でも悪意のない事故でも、過去の精算とも言える宇宙の真理があるのでは無いのか?極端にいえば、この世で三歳の無辜の者が殺される。これはこれで、遠い過去の世にその三歳の子は同じ様なことをしたのではないのか? 〜やめよっ答えの出ない禅問答をまたしてる〜 夕方の五時半を時計が差したところで、高美から電話が鳴る。 「亜貴?何してんの?今から時間取れる?」 「うん、いつものスタバだから。どうしたの?」 「幸也が遊ばないか?って。別の学校の友達といるから。だって」 「いいよ。何時にどこ?」 「亜貴がOKだと連絡してからまた連絡するから」 「わかった」 二 私の学校でも、少しヤンチャちっくな幸也は、色んな遊び方を知っていた。他の学校もそうだけど、この学校でも先輩や後輩たちとも友達が多くて、学校でもタバコやお酒で問題になったりとしていた。確か、ついこないだまで停学だったはずだ。その辺の話しも聞いてみよう。 駅の裏手側で待ち合わせをして、高美と会ってからマクドのシェイクを飲みながら幸也を待った。制服でも、変形と呼ばれる服装の幸也はもちろん私服でも洒落ている。ジーパンに上は薄いカラシ色のジャケットを着て、その友達とやらと笑いながらこちらを指差している。 念の為に友達をスキャン、色白に茶色の毛の長めのウルフカット。 「八十二点」 私は、友達が平均的に出す点数よりも低い数字を出す。それは、男性を恋愛対象には見ないし、なにかどの言葉も「私と肉体関係を持ちたいだけじゃないの?」と、若い男女にとっては当たり前なのかも知れないその感情も、亜貴にはシラけさせた。 恋に興味が無いわけではない。バレンタインにはコンサートのチケットも渡す。デートもしたい。笑顔で買い物をして、食事をして、共に朝を迎えても構わない。 構わないというよりも、その恋愛に恋焦がれていた。私は生まれながらの何かの罪があったのだろうか?離婚した母を追い掛ける術は無かった。 〜逃げる様に父から去った〜 まだ小学校にあがる前のその出来事には、もう私には何とも出来ない。けども、私の遠からぬはずの予想からは、おそらくそうなのだろう。母は、なにがあろうとももう逃げるしか道がなかった。 もしそこに私の存在があるならば、いつの日にかは母の居場所も分かるかも知れない。私には分かる、母は生命の恐怖を全身に感じながら、私に詫びながらそうせざるを得なかったのだと。 幸也が微笑んで声をかけてくる。 「待った?少し向こうに車停めてるから、走りながらまず弘樹との距離を縮めよっ」 「く、くるま?」 「あぁ、この弘樹はヤンチャ君でな?同じ二年だけど一つ年上でな 笑」 「おい?即バラすのか?」 「高二で成人の免許持ち、それが売りだろう?」 「向こうにレクサスを停めてる。行こう」 レクサスと聞いて、ワクワクとしてしまったが、かなり年代落ちの黒煙生ガス排出車だった。 「ところで幸也?最近の停学はなんやったの?」 「警察に補導されたよ」 「なにして?」 「深夜徘徊」 「だけ?」 「だから停学なんだろ?話したら見せしめだとよ」 「聞いて損した」 「本番はそのあとだったからな」 「本番?」 「それよりもこの弘樹な?顔が広いんだぜ」 「このあとまだ時間はあるよな?ゆっくりスペース行こっか」 「ゆっくり?」 「あまり、人の多くないところだ。いいだろ?」 「亜貴?時間は?」 「全然大丈夫。家に居場所は無いから」 「カラオケでええか」 「うん」 よく分からないがカラオケボックスに入った。 三 店員に 「生ビールを四つとポテトと唐揚げのセット、ピザのマルゲとおつまみもセット」すかさず幸也が注文をして、「あっソーセージとチーズの盛り合わせも」高美が追撃する。 カラオケのテクニックは、弘樹は「八十二点」から「六十三点」にランクを下げた。オンチもさる事ながら、全体的に声が甲高い。福山雅治の様なシブい低音が聴きたかったが、何を歌っているのか?よく分からなかった。 「それで?わざわざ人を避けたのはなに?」 高美が幸也に尋ねると、幸也が弘樹に目配せをする。 「これな?その停学になったときの本番でな?はっきりいって時間がズレてたら俺は終わっていた」 「弘樹?」 あぁ、といって弘樹が靴下の裏から銀紙に包まれたもの、小さなビニール袋に入ったものを取り出した。 〜一目で分かる。違法薬物〜 亜貴の目の色が極端に変わっている。 「幸也?いつからそんなくだらないものを扱う様になったの?」 「もしかして、私たちに勧めてるの?帰るわよ?」 「まだ、何も話していない。おまけにコレが高美の思う様なものなのかさえも」 「幸也?さっき確かに警察に捕まる時間がズレると終わるとそれは?」 「高美?これはいったいに何に見えてるんだ?誰にでも分かる刑務所直行品にか?」 「当たり前でしょう?そしてなんでわざわざ私たちにそれを見せるのかも分からないけど?」 「高美?弘樹の先輩たち、これは金儲けにはとんでもない才覚があってな。この先輩らにはどうしても目の上のたんこぶがある。ヤクザだ」 「弘樹?それをやり過ぎて頭をやられたの?意味が全く分からない」 「なら、分かりやすく教えてやる。違法薬物は触らない、外国人犯罪者とは関わりを持たないと豪語する、ヤクザの壊滅に出る」 さらに首を傾げる高美は 「何回言わせるの?その壮大な話しと私たちとの繋がりが分からない」 「その通り、この話しと高美と亜貴は何も関係がない。ただ、俺の高美に対する気持ちを知ってる高美だけが俺の本音を聞いておけばいい」 「高美?男が何かを為そうとするときには、その本気度を話すには心底惚れた女だけで構わない」 高美はもう何も言わなかった。 少し潤んだ瞳を上目遣いで弘樹に向けただけで。 それよりもずっと目の色を変えて、考えごとをしているかの様に見える亜貴が分からなかった。なぜ違法薬物に対して何も話しもしないのか?また、高美から見ても全てがうわの空の様な、この話しの一部始終がまるで耳に入ってもいないかの様な亜貴は、少し不気味でもあった。 四 車で亜貴と高美をお互いの家まで送るという弘樹に 「ここでいい」 と、駅前で降ろしてもらった。高美なりに、さっきからの亜貴の様子がどうしても気になったからだ。 「どうした?なんかあったの?」 「ん?いやね、さっきの弘樹くんの話しだけど、結局はどうゆうことなの?」 「なんで?この意味不明なことになんの興味が?」 「高美は、意味不明のこの意味の何が分かったの?」 「分からない。全然」 「どうやって、違法薬物で稼ぐヤクザの壊滅をするの?出来るの?」 「なんか、気になる?もう一回呼ぼっか、弘樹を」 「うん。ごめん」 二十分ほどで戻ってきた弘樹は 「さっき聞けよ」 と言いながらなんだか嬉しそうだった。(生命より大切)と誰にでも話す高美に会えるのが嬉しいのだろう。 「一切関わらせないぞ」と念を押してから 「なにが聞きたい?」と言ってきた。 「あっ亜貴がね、少し話しを聞きたいって」 「どうした?亜貴ちゃん?話せることと無理なこととがあるけど」 「私、全く意味が分からなくてさ、どうゆうことなの?その薬物を何するの?」 「絶対に何があっても、誰にも話さないと約束出来るなら」 「約束する」 「いい?絶対だからね?もう暴力団と呼ばれる者たちはほぼ資金源がないとされている。挙げ句にはヤミ金の面倒を見たり、SNSで人をゴミの様に捨て駒にして詐欺をさせたりとしている」 「そうみたいだね」 「けども、ニュースでも分かる様に一人の逮捕は簡単に上部団体の逮捕に至る。理由はもう無い資金源に焦るからなんだ。ずっとつづく上部団体への上納金をなんとかかき集めようと躍起になる。法の疎い者は捕まってから、裁判の過程で利用されていたことに気付く。弁護士に求刑の予想を聞いて愕然ともするだろう」 「そこにはもう、別に恩も義理も何もなく一時の金儲けの利用というだけしかお互いの存在価値もない」 弘樹くんの話しはよく分かる様な、分からない様な感じで要約を掴めなかった。 「それとこの話しは何が繋がってるの?」 「今の時代に、違法薬物とは誰が仕入れて、誰が何のために売ったりすると思う?」 「それは、分かるけど」 「その資金源を絶つとはそれの撲滅を意味する」 「その、つまりは?」 「全部が全部でなくても構わない。もしも、頻繁に使用者に死人が出たらどうなると思う?」 〜密売人イコール殺人者〜 「この犯罪の刑罰は相当に厳罰化されて世から抹殺される」 実は弘樹の仲間たちの上の方は、これで廃人の様になった者、廃人になった者、生活も人生も奪われきった者、はっきりといえばトップの身内が、これは仲間も含めて相当数と狂った人生を味わわされた。 トップの考えとは、誰かを廃人にして金儲けをすることではない。その汚れた世界からの脱却を求めている。その有志の集まりといえば分かりやすいかな? トップの資金力はハンパではない。中国から仕入れるそれに致死量を遥かに超える農薬や毒劇物を混ぜ込む。 亜貴が息を呑んだ。 「違法薬物に致死量を超える毒を?」 亜貴は何気に納得した様に笑顔で 「よく分かった。ありがとう」 といって高美と帰路に着いた。
Cry Baby 【復讐】
阿修羅王×帝釈天王 一… (その遥か昔から…帝釈怒れば、阿修羅は逃げ回り挙げ句は葉の陰に隠れ恐れおののいたと言われる…その阿修羅王にとって屈辱の歴史からまた数億年を経て) 三面六臂の王は、永くその面(顔)を怒りの面と涙の面とを、本人の気付かぬままに往復させて深い瞑想状態に入っていた。 過去のあまりに無様な我が一族のやられ様に、怒りを越えて涙を流しては、また心底に宿した己の誓いによって、怒りの心でゆっくり、またゆっくりとその機会を…熟すのを待ち続けた。 「おのれ…帝釈天王」 「許さぬ…帝釈天王」 帝釈天王とは、この地球を含めた南閻浮提や他、一閻浮提の絶対的中心の、須弥山の山頂からまだ天に向かって浮かぶ神界の王である。 また同様の守護神として、梵天王が遠く離れた神界に住んでいる。 共に平和と調和の為に、悪しき存在を征伐していた。 この阿修羅とは、そもそもが敵対する何かがいないと、存在を示す事も本来から出来ない存在であって、それはそれで、またどんな存在にも絶対の安定の無い事や、常に気を付けて全てが生きていくべく戒めとしての役割も持った神である。 人間の世界なら、幸福絶頂の最中にガンが進行していた。また、いつ如何なる状態であろうと殺、事故、病、災害といつ終わるかも知れない儚い生命。 としての象徴であり簡単な言葉ならば【油断大敵】の象徴なら分かりやすいだろう。 驕る平家は久しからず…どんな事であろうとも、傲慢になるべきではない。 実るほどこうべを垂れる稲穂かな。 謙虚さや、控える重みを人間世界に身を持って教えている神ともいえる。 仏教神では有るが、この三面六臂や六面八臂とは、一人でそれぐらいの活躍を行う。 その代名詞ともなっている。 二… 阿修羅王は、その永遠の如く長い生命での、始まりからを瞑想にて思い返していた。 「何故に帝釈天に征伐されないといけなくなったのか?」 「また、何故に我が一族は勝てないのか?」 「帝釈天にも必ずしも、弱点があるはず」 阿修羅も神の部族であるから、その生命尽きる時にはその一人の阿修羅としての生涯を、最後はその王へと魂を遺して伝達した。 どの阿修羅もその生命尽きる原因は帝釈天の征伐であり、無数対無数の永き戦いからは、致命の一撃を与えた場所、油断するポイント、攻撃を加えた場面などを王が瞑想の中で膨大なデータとして全身に刻んでゆく。 ~こう攻めてくればこう返し~ ~この角度とタイミングならばどう傷を与える~ その無数のデータからは弱点と言える部分も見え隠れする。 あくまで一身二腕の普通の人間型の帝釈天は、この六臂で二本の腕を抑えた時に無防備になっている。 四本で捕まえて、後の二本での攻撃は為す術無しのデータが多い。腕力自体は少し帝釈天が強い様だが、それでも四本ならば身動きが取れなくなっている。が、ずっと腕を取る事も出来ていない。帝釈天と梵天を守護する四天王が助けに入る事が多く確認される。毘沙門天、持国天、広目天、増長天らが。 その助けを入れさせないのは、一体一での戦いに周囲に子供たちを配置するしか無い。帝釈の子供らと、我が一族とを北、南、東、西のいずれかの閻浮提で戦わせて、我と帝釈天の王とだけが届かない次元空間に移動するしか無い。 そう、この地球と言う生命惺がある銀河の地球から計算した太陽の真裏、八百億阿僧祇由旬ばかり離れた所ならば生物は何も存在していない。 ~絶対に邪魔は入らない~ そもそも、我ら阿修羅も帝釈天も神であるから、卑怯な戦いは出来ないのだ。あくまで力と力のぶつかり合いしか無い。 ~それが神なのだ。 歴史を遠く、遠く過去まで遡り魂の欠片たちの記憶を探っていく。戦いの始まった頃は、互角以上の戦いをしていたのに、勝率の目が低くなる度に子らは、その帝釈天の姿で逃げまどうように成り果ててしまった。 ならば、その大元の戦いで互角以上の戦いが我と帝釈の王とで可能な筈だ。 三面の王にとって、この遥か過去から全ての一族の記憶を身に宿すのは、誠に耐え難い苦痛でもあった。 子らが受けた痛みも死の恐怖も、朽ちていく様もこの一身に戻り、まだまだその哀れさに涙も止まらず、それに拠る怒りとで知らぬ間に面を往復させる。 全てが愛おしい身を分けた分身。 一人、また一人と最後の魂の記憶を見る度に涙は枯れる事も無く、ただただ怒りは増幅されてゆく。 王の知らぬ間に、哀しみと怒りの骨頂の心の状態から本人も気付かぬ内に、六臂が十臂に進化していた。 また、半眼での瞑想の時間のあまりの長さから、その半眼での状態で三面全てに怨念の如くに染み付いた。 それほどに心を痛めて、一族の苦痛を味わい、涙と怒りを往復させた王への軍神の褒美だったのか。 これによって、阿修羅王は十本の腕と、三方をずっと見据える目を得る事に成功した。 過去の見定めと、進化を遂げた阿修羅の王が眼を開けると、真紫のオーラを全身に纏っていた。 三… 全身から真紫のオーラを、また三方を常に見渡す新しい眼と、細くなった分より早く動く様になった十本の腕でゆっくりと宿敵を探しに行く。 さんざんに泣いた さんざんに怒った 一族の死にゆく辛さをこの身に全て刻み、壊れそうな心とその最後の想いから届く (絶対に奴を殺して欲しい) の強い恨みが我れを弱くはしなかった。 深く目を閉じて、もはやこの魂に染まりきった不倶戴天の息吹を感じ取る。 ~右斜め上かなり遠くに~ ゆっくり、ゆっくりとそこに向かって飛んだ。 気付かぬ間に、残っている我が子達が数千億の軍になって我れに付いてきていた。 ふと後ろを振り返り (全てが集まっている…) これは今に人の世に伝えられる歴史から、数え切れない年月を経て最後の戦い…それを意味していた。 ~人に化けて嫁、子供のいる者~ ~天界の軍神にやられて闇で過ごした者~ ~この神の世界を追われた者たち~ 【我が一族の恨みを今こそ…】 全てが我が子であるから、我れの心は全てに届いた。そして我れ一人が新しい身体になって、全身からまた口から吐かれる真紫のオーラで一族を包んでゆく。 そして、遠い天界へと全員で向かうとその時に。 「待って。私たちも」 天界の主として、悪しきを征伐する帝釈天とはいえ、僅かな汚れを嫌うがあまりに、天界から追放した部族も多かった。 ~夜叉の部族 ~鬼の部族 ~羅刹国の部族 ~その起点となる人の死して下に堕ちた者 これらも結局は帝釈天に断罪されて、その過酷な運命を辿る事になり、なにも話しも聞かないまた生前の罪だけを見てそうした帝釈天に恨みを持っていた。 王は全てに告げた。 「この先少しに一つの惑星がある。ここで食べ、飲み、寝て英気を養う。また思い残す事の無いように部族の隔てを失くして子を残せ」 「子を残す?」 永くどの部族も子孫を残す事を禁じられて、今の苦を無くしたい想いしか無くなってしまい、もう楽しいとか、快楽とは完全に無縁であった。 その惑星とは、王がこの展開になって来て急遽神の力で創った不足の無い世界である。 ここに滞在すること二十日、今の人間世界での千二百年に相当した。
第一章
ここ近年まで、全くと私はその人物を…知ってはいたが、知らなかった。 むしろ、テレビに映っていても他の出演者を…これもまだ控えめに、チャンネルは変えていた。今に一つの政党のトップとして、メロリンキューと言われるオバケみたいな被りものすら、私は見た事が無かった。何かのウワサで、たけしの元気が出るテレビのダンス甲子園が出身だと言われても、本当に見た事も無いし知らなかった。 僅かに知っていたのは、ミナミの帝王での 「アニキ アニキ」と帝王の舎弟をしていた記憶しかない。その彼の出演していたミナミの帝王すら、最後まで見た事も無い。だから、ミナミの帝王でのなん作に出ていたのかも分からない。 当然に、このタレントが何か政治家になろうとしている。なった。おまけに誰にも特段相手にされずに、私の故郷でも 「あれはあかんで」 ぐらいの噂らしい噂にもなりもしていない。 《れいわ新撰組》 代表 山本太郎 この誰も見てない一人の男は、とある映像では(泣きながら 日本のみんな 生きてくれよ)とか言っている。 私はその誰かを見る時に、顔、面構えを気にする。私も何も興味も、もちろん期待も何もない。それは、この日本には絶対に潰し様の無い自由民主党が存在していて、他のどの政党もどうやってこの巨大政党と蜜月関係を結ぶのか?しか考えていない世の慣例でもあった。 何年前であったのか、国会での様子を目にした時に 「ん?一切と官僚の作成した書類を見ていない…」 またその国会であれ、全国への演説集会でも、適当に選んだ誰かの質問に自分の知識で話している。 私が気になりだしたのは、そこからだった。何処の誰かも分からない、いち質問者に対して、涙を流している。そして今の国に対して、堂々と戦っている。段々と興味が出て来て、色んな国会中継や、ネットに溢れる動画も見てみると 「なんか…このオッサン、タレントしてた時より顔が若くないか?」 私の二年程の先輩になるのだろうが、あのミナミの帝王の時から一体、何年が経っているのだろう。私の彼を観たミナミの帝王は近年の話しでは無い。それは私が一切と二時間もの映画を観れた機会が無かったからに他ならない。 はっきりとはしない、だけど十年では決して済まない筈の相当な過去に、その売れないタレントを観た気がする。 もっとはっきりと言えば、そのミナミの帝王時代よりも完全に若く見えている。 全てが顔が、見た目が若いから何がどうとは言わない。言えない。 私は人相学も何も知らないど素人であるが、心と生き方が容姿に反映している。 ことぐらいはなんとなくは分かる。これは今や動画で溢れる、都市伝説みたいな話しの様でまた違う。 笑って生きた人には沢山の笑い皺が、眉間にしわを寄せ続けた人には眉の間に深い溝が、全員がそうだとは言わないが生き方は容姿に多少は影響を与えている。 ことは大筋間違えてはいないと思う。 全然関係ない話しになるが、金さん銀さんはそれは可愛らしいお顔をされていた。 顔だけが全てではなくとも、目力や眼光と言った部分には人生は現れるものと思われる。 この辺はこの売れなかった元タレントの政治家が、まさに天職を探し当てたとも言えるのか、本人が最大に輝く場所を見つけたのだろう。 人の前だけでそれらしくする。普段の日々にはさして何もないとしても。 普段から色んな人と接して、脳の休まる時も忘れて対話、電話にと話しをしていればボケた事は言わない、言えない。 また、政治家と言うその場、その時の問題を解決すれば良いとはまた違う日本の全てを考えながら、海外との関係も視野に入れながら被災者や、生活保護者の事も、奨学金で困る学生の事も、社会の職事情も物価も何もかもを知る能力は、政治家になるだけで全てが満たされた者らには決して理解出来る筈もなく、今やこの一人の出現に金欲政治家は焦り出したとも見える。 なにか、この男の追随をしている様にしか見えなくなって行く。おまけにコピーはコピーらしく似たりの発言はするものの、結局は操られている者には逆らえないのか、これは財務省だとか、この国の慣例とも言われる税金を奪うにはあっさりと手段は選ばないが、その奪った税金からの還元はあまりに薄いこれを意味している。 それに足して、その強引に国民を苦しめまくって奪った血税を、それになんの意味が有るのか、日本人の被災者よりも外国の戦争などしている国に平気でなん十億円、なん百億円と送っている。 私の意見では、憲法改正だどうだの前に今現在は、兵器を持たないいち国家なので、一切の軍事用資金は不要だと思われる。その大金をあってはいけない戦勝国の米国に奪われ続ける事態は、早々に手を打たなければならない。そもそもが日本が米国になど負ける要素が無いのだから。 この過去はもう消し去る事は未来永劫に不可能な事で 「いざとなれば、一千万の特攻を出す」 と言えば、何処の国ももう寝れもしないだろう。今度はその一つの特攻に水爆を載せる。とでも言えばあまりの恐ろしさに口も聞けなくなる。 これは空言を語るのではないし、幸いに私たちのある世代までは実際に祖父や祖父の父辺りならば、その事実自体を知っている戦争現役世代だとも言える。 「もういい、私の祖父と同じ様にお前らに飛びたい」 とでも言えば、決して笑い飛ばせる話しでも無いとも思われる。 断言して、私自身はとことんにあの戦争の敗戦には納得はしていない。たった二発の飛行機から落とされた物で戦争に勝てるのならば、今の日本の総人口の一億数千万の爆弾を落とせる事は出来る。 しかも、最後まで操縦するから命中率も違う。全てが日本の怖い部分だけを抜き取られる結果と成り下がってしまった。 今の米国を見てみたらいい。いったいになんの同盟なのか、君たちの同盟国とそうでない国との差はいったい何処に有るのか、もう解りもしない。 ここら辺は、この元タレントと私とでは意見の隔たりは有るのだろうが、本来は全てに恵まれたこの国の国民を苦しみから救いたい。との根底が同じならばそう大きくは変わりもしないと思われる。 完全に牙を抜かれた日本の惨状に現れた一人の男。政治家たる者がもう政治とはなんなのかすら理解をしていない今に不思議と現れた男。と思うしかない。 私はこの元タレントに全霊を掛けて付き合う心算も、日本の危機に関して負ける動きをする心算もまた無く、私の生きて来た過程からは、あらゆるカマシを放り込みながら要らない者はとっとと去ってもらう。 私はこの 【山本太郎】 の名前が日本を救うのには、最高だと思っている。 日本の大半はまだまだ山林であり、日の本の太郎。 これほどに、日本人最高傑作の名前があるのだろうか。 日本人なら知らない者はいない、桃太郎、金太郎、浦島太郎、和太郎 最後は私のいちびりではあるが、とにかくこの山本太郎の名前こそ日本のなにかを変えるべく使命を持ち併せた、男だと今は信じている。 つづく
のろのろと
昨日観ていた夢を追いかけて、昨日に日を戻して今日を生きている。その夢は確かに、僕の求めていた未来への指標となるかの様に…。 こんなにも、夢の内容をハッキリクッキリと憶えている事自体が、余計に僕のこれからに妙なるチカラをくれると信じたからだった。 「よ、よぉーし」 夢の中では、いつもの弱音ばかりを考える僕では無くて、大豪邸に住んで、たくさんの社員が楽しく、笑顔に暇の無い明るい会社の社長を僕はしていた。運転手付きの大きな車で、家を出る時はそれは綺麗な奥さんに笑顔で毎日、毎日と幸せな《いってらっしゃい》をされている。子供も笑顔で手を振ってくれている。 まだ、中学生の僕がそれを観て出来ることは、とにかく会社とは?経営とは?幸せな家庭を築くのには何が必要なのか?を考え出すのがスタートと思った。いつもは朝から憂鬱な気分で始まるけど、今日は違う。思いっきり歯を磨いて、メンソール入りの洗顔料で一つ、一つの毛穴を綺麗にしていく。その間に熱めのお湯を湯船に沸かして、キノコご飯のタイマーを入れた後、ヘチマタオルで全身をピカピカに磨き上げていく。足の裏から、指の間も、普段は気にしない自分の大切な全身を綺麗に洗い上げる。これ自体が、その夢を観る前の僕では無かった事だった。 「ありがとうな!僕のカラダ」 入念に入念に、きちんと自分と向き合い見た事の無いホクロを発見したりとする。 鏡では無く、自分の目でしっかりと全身を確認していく。 「脚の筋肉はこれで足りてるのか?」 「この弱々しい腹筋ではダメなのか?」 「細い、この腕ではあの会社は持ち続けれない」 ~あまりに情けないこのボディ 夢の中の僕と全然違う。あの威風堂々とした口ヒゲに、シブいロマンスグレーヘアー、あの顔色はゴルフ焼けなんだと思う。 一つの夢が新しい僕を、未来を創っていく。 【継続はチカラ也】 今日の、このやけに気持ちの良い毎朝を続けていこうと決めた。あの笑顔に溢れた会社だから、そして僕が社長なのだから……。 そこまでは、絶対に何があってもくじけずにやっていこう。 全身の磨き上げを終えて、シャンプーで髪も洗ってから、ドライヤーで優しく乾かして、キノコご飯と納豆と玉子焼きとみそ汁を食べる。 今月の残っている予算は、二週間で五万円がある。先月のやりくり帳と見比べて、とりあえずは一冊だけを《やる気の法則》という本を買いにいく。 まだまだ、僕のその夢の到達点には充分過ぎるほどの時間がある。大丈夫…大丈夫。 若くして、この世を交通事故で去った両親の遺影が、もともと優しそうなその顔が、更に微笑みを増やしている事は、僕はこの時は分かってはいなかった。
お題 チーズバーガーも食べれない貧困人
人生のキセキの言霊たち 一 【でも ありがとう】 生きていると、当たり前ではあるけども、泣きたい時も、切ない時も、死にたい時も、他人と何かを比べてしまったり、時にはアイツなんか死んでしまえばいいのに。私がこの手で殺めてやろうか? 普段の生活でも、学校での毎日でも、職場でも上司のしばきたい指示にも、様々な我慢や辛抱など、誰にでもそれは面白く無いことは、日常生活にこちらを狙いうちにする様に 「私を狙うのはなんなの?」 と、悲劇のヒロインになってしまうほどの、心の揺さぶりがあります。 少しなのかも知れない。けども、例えば 「あのボケ、殴ったろか?イヤ、我慢がならん。いっそのこと」 いけない気持ちになったとしても あぁしばきたい。 【でも ありがとう】 と自分勝手にでも付け加える事により ん?ありがとう? そう?そうなん?そうか? と、軽い気持ちを得れることはあります。 でもありがとう その時の想い、気持ちから何を得て、どんな成長があって、自分の未来にどう影響をするのか?何も無いのかもしれない。結果的にはそれを考える事は、人生に於いてマイナスだけなのかもしれない。が、その問題についての最終的に自分が出す答えを導いてくれる。今はそれはとても腹が立ち、はらわたが煮えくり返り 「なんで、あのボケの事でため息をつく?今日のご馳走を台無しにしてくれる?この最愛のパートナーと喧嘩をさせる?」 色んなその引き金からのマイナス点すらも、他人にため息をつく意味を、無意味さを少しは考慮させてくれる有難みをくれます。 これはもっと心を、人間性を大きくして、思考の中ではどうしてもイラついてしまい、ため息をついてる自分は確かにいるのだが、貴方の人生のひと幕の中では、貴方がため息をついているのであって、その時間に於いては、無駄な思考を切り替える速さの大切さを、自分にプラスにならない感情の、時を減らす努力をさせてくれます。 そのボケの引き金により 「今日のご馳走が台無しに?あのボケのせいで?いや、いかん。生命の源となる食事たちには関係がない。お米も、お魚も、お肉も、お野菜も、何もかもがわたしの生命の為に死んでくれている。あのボケにこの味を損なわせる事などさせない。あのボケにそんな力は存在させない」 これは、その時の気持ちであっても、他の場面でもどんな辛苦があろうとも、食事は楽しく、美味しくいただく練習、習慣付けとなり短い人生に於いては、今確かに口にするもの、それはもしかしたら、もう二度と食べれない最後かも知れない。究極はいま、自分に大災害が襲いかかり、即時に生命が終わる様な事態になると、この世の名残りの、最後の食事となるもの。それに対して 「あのボケのムカつきのせいで味が何も無かった?」 「あの有名な、そして私自身の最後の晩餐がボケのせいで?」 こんな情けない感情は、そのボケにも関係も無く、自分の人生を哀れにしただけであって、そのボケに責任も持って行けないですし、死んで、あの世とやらで 「おいっ?ボケ?お前がムカつかせたから、最後の晩餐を台無しにした。責任を取れいっ」 と言っても、もはや何とも出来ぬこと。 「ええ。なら私の最後の晩餐をお試しください」 などとぬかした時には、あの世で殺さないといけなくなるので、その展開を事前に避ける。心が怒り、我を見失ったとき、大きく深呼吸を六回は行い、もう一度内容を頭で精査し、最善策を取る。これは言い争いのとき私の大原則であり、子供の頃の様に顔面に二、三発入れたら良いとゆうものでもなく、大人としては、どの解決法が誰かに認められて、また後にも引かせず、そのボケも適度に持ち上げておけるかも、器量を観られます。 「ムカついたよお前?ムカつきは私の最大の喜びだ。ありがとう」 と、でも皮肉を言っておけば、相手は一体何だったのか?良くは分からないけども、ありがとうと言っている。なんかお礼を言ってるな、と意味不明ながら思ってくれます。 これは、別に相手がこちらに対して、言葉が通じていない。意味を分かっていない。と取られてもしめしめもんで、そのボケとの関係がどうあろうとも、もうその件からは完全避難、触れられることも無く、即ち何故かマウントまで取られての追撃は無くなります。自分に深く関係があり、避けて通れない相手のときは、こんな事はその件が時効消滅してから 「おうっ。あの時のとぼけは上手かったか?」 とでも、その件を考えていた風を、また計略だった風を話せば、相手は 「キチガイと思ったが、分かってやっていたのか?ほう、大人だな」 まったく人生に関係が無い、こちらの視界に入っていない相手の時は 「もう何も聞かなくて良い。勝手に周りに何とでも噂を流せ」 で良いと思います。 まず、人に人の噂をする。悪い噂を。 こんな事は誰も別に聞きたくもなく、それを聞いて、聞かされた方が愉快になる事もなく 「本人に言ったらええのになぁ」 「だから?それで?」 程度のことで、また噂などはその時の暇潰し、会話の種であって、話してる本人より、聞いている方の温度は低いです。 私は、人がどんな噂をしようが気にはしませんが、それは私が、そんな人生だったから。言えば、本当に有ろうが、無かろうが、自分の優越感を満たす為、揚げ足を取るとの言葉も有りますが、 人間は一度気にすると、もうこれは幼い時の好きな人に似たような感覚で、ちょっかいを出したくなるものです。全員が絶対にそうとも言いきれない。あくまで経験上、体験の上では、どう接したら良いのか?その一言、行動で相手はどう考えるのか?動くのか?そのお試しで失敗した時は、虎の尾を踏んだ様な怒りも買うし、私は 「あっちがう。そうじゃない」 心で しまった感を感じて 話すきっかけが欲しかった。 視界に入りたかった。 相手にして欲しかった。 と、後悔する時は多く有ります。 ここまででも、色んな心の移り変わりは有ります。が、全てに 〈でも ありがとう〉 と、自分の中で結論を出してみると あぁ、そうか。今にその答えをくれた事すらも、結局はアイツなんだな。 それは、同じ世界で生きる、あくまで仲間なんです。その、どうしても理解しあえない相手すら、言わば何かのソウルメイトであって、どんな件でも、同じイラつきは感じたのかも知れない。心の変化の、ターニングポイントになる人間。こそは 【でも ありがとう】 こんな事は中々、もう会えなくなってからか、探してもどうしようもなくなって、誰にでも訪れる、親、友、誰かの死に絶対感じる、悪い思い出など無くなってしまい、何故か良かった記憶しか無くなる。に、似ています。 人間など、所詮は誰とでも仲良くしたい。これは、疲れるからです。想って、イライラする事が。憎み続けるなんて体力はまぁ持てない。どこかで、私はどんな苦手な、嫌いな相手でも、呑みに誘います。男同士で有れば、車の話しなら合うのか?好みの女性の話しなら合うのか?子供の頃にした留守番の話しなのか?行かされた買い物の話しなのか?必ず、どんな嫌いと思っていた人にも、ふとしたキッカケは存在して、これもまた不思議なもので、鬱陶しいやつほど、共通点が多いのか、一度わだかまりが溶け、仲良くなってしまったら、喧嘩したら駆けつけよう。なんか助けてあげよう。私はそれは多かったです。 二 【てこと ないけど】 自分を後から苦しめてしまう弱気な言動をしてしまった時に 学校休みたい 今日は元気が出ない 今日はイライラする やる気すらない 一人で過ごしたい 私の夢は叶わない あ〜楽しくない 風邪でも引いたかなぁ 【てこと ないけど】 風邪は是非、数日はお薬を飲んで熱を測って寝てからで良いし、病院には行きましょう。 マイナス意識からマイナス思考に移り、マイナス行動となりマイナス人生になってしまう。 ならば、一言をそっとお尻に付けてあげることで意識から思考へ変わる時か、思考から行動の時なのか。 どうせどれも過去にしないといけない。単なる感情で一人勝手に底まで落ちきらなくても 「あぁ〜今日は仕事でめっちゃ疲れた〜【てことないけど】」 そう、疲れてないからこの後もデートも出来るし遊びにも行ける。 あ〜しんど〜。から勝手に疲労モードに陥る時に七文字だけ 【てことないけど】 人の感覚や気持ちはそうだと思えば大体そうなるものであり、微熱で喉が痛い時でも空気の乾燥からと思えばそうだし、コロナで死ぬと思えば布団から出るのも億劫になるものでもある。 出来る、大丈夫と想い、声を出し半紙にでも (絶対出来るし大丈夫) と書いて貼っておけば気持ちでは絶対に大丈夫で出来るのである。 自分の夢は紙に書いて目に付く所に貼った方がいいと言うのは、忘れないためと常にそれを意識する事と、自分の字で絶対に大丈夫と書いてる事で、真実味も現実味も出るのであって、偉人の格言を貼っても 「コイツはそうやな」 で終わってしまう時も多くあるものです。またその名言に「ええな〜」と浸るだけになる事もあり、自分の字で想いを書くとその字に魂が込もっている様な素晴らしい錯覚に陥り、諦めて「またの機会に」と剥がしてしまわない限りはそこに全力を向ける事が可能です。 それは自作の神さまの如くに自分を鼓舞奮起させるものである。 これは何かを達成したとかでは無くて心持ちの問題として、非常に有意義であると思うのです。 それを見ても「禁煙」と書いてもスッパスパやっているなら書いた時間の無駄、自分の行いに唾を吐いている様なもので 「せめて剥がせや」 と家族に言われて無意味に、無努力家のレッテルを貼った後悔も、自分だけで受けないといけなくなります。 その貼り付ける半紙と自らが自分に付けた言葉とは、似たような事で自己暗示の意味が有ると思います。 声に出して付けましょう。過去にそのまま後悔した何かに 【てこと ないけど】 を。 三 【それっおもろい】 友達や恋人や誰とでも同じ時を過ごす時に、あまりにシラけて気分を損ない出来ることなら一発殴ってやりたい。 言葉の魔力とはその意味で場の雰囲気も話した方も、言われた方もその言葉に操られてその様に展開して行く。 言えば、葬式でみんなが哀しみでシクシク泣いている。 「なんだ?どこなんだ?」 ずっと含み笑いしているのが聞こえて来ると、誰かが釣られて笑いそれが連鎖し大爆笑になっていた。 ぐらいの力があるものです。 だから極力に場をシラケさせる言葉は言わない様にする。それはその言葉自体がその場を創ってしまうから。 通りすがりに主婦達の井戸端会議から文句、愚痴の羅列を聞いてしまうとそれが誰の事を話しているのかは分からないが、余計な事を小耳に挟んでしまった。 何故かおもろくないものです。逆にどこ誰の所で赤ちゃんが産まれた。結婚した。懸賞で良い物が当たった等のブラス要因であったら、こちらもまた前向きになるのと同じ事で、常にモチベーションに良く作用する言葉を日常から使う事で、それも癖のものでどんなに嫌な事が辛い事があろうが、勝手に自ら話した言葉で自分が勇気付いてそれを乗り越えている。言霊の力とはそう在ります。 心が変われば意識が変わる意識が変われば言葉が変わり、言葉が変わると行動が変わる。行動が変われば習慣が変わり習慣が変われば全てが変わる全てが変わると言うことはもう未来も運命も変わってしまっている。 その運命を変えるとは何も人の前だけで取り繕う事でも無くて、一人でも周りに誰もいなくても、テレビ相手に話し掛ける時ですら意識をして良い言葉を使う様にする。心が意識、それは脳、頭で考える事でありそれはそのまま言葉となって現れる。普段から毎日が楽しく無いのに人の前でだけ、私は毎日を幸せに過ごしていると言ってもその雰囲気まで出て来ない。 ただそれは単なる心持ちであって、不足な毎日に文句や愚痴やひねくれた想い、言葉を出しているとその言霊で余計に自分の周りは嫌なものにもなるし、何をしても一切楽しく無い。私であれば楽しかったキャバクラで女性を酔わせたハニーソングでも唄ってみたり、最愛に聴かせた曲を唄い一人で思い出し恥ずかしに陥ったり、けどもそれは場を暗くはさせない。 言葉を出している時は不要な考えはしない。脳がストレスを感じないならその唄っている時間はマイナス思考にはならない。 私はナルシストであって自分の歌声に酔って泣ける時すらある。涙ストレス解消法と言うのが存在するけども、一石二鳥にも三鳥にもなってしまう。 僅かにお前それ?クソおもんないの?の代わりに 【それっおもろい】 に変換して話すだけで友達も機嫌を良くしてくれます。場も和みまたおもろないの代わりにおもろいを使った事も、常に良い言葉を使う練習になって結局はシラけさせた友達を救うのでは無くて、自分の未来を救っていると気付く事によってその習慣の重大性も、今つまらない自分こそがつまらないと悟って、さっさと楽しい今を創る喜びになっていきます。 【それっおもろい】 何もこれだけでもなくて、人が何かのミスをしていたら、そんな所は突っ込まずに 「お前のそのミスった時の顔はエラい男前やなぁ?カッコええわ」 とでも言っておけば良いのである。ミスった事は本人が一番分かっている。そこに一味カラシを刷り込む必要は無いのです。 それも毎日に人に毒を吐かない日常を、否定的な物言いをしない日々を送らない事には油断した時にアッサリと出てしまうのです。 例えば今日一日を過ごして、納得がいかない。心がスッキリとしていないときには、それはその時の対応を失敗しているのであって、思い出して何かをしようと思っても手遅れと言う時もあります。それをいつまでも悩んで、考えても良い方向にはいきません。 とっとと私の失敗だったと諦めて忘れた方がいいのです。 今日の何かを 今の何かを 楽しくさせない何もかもに大声で 【それっおもろい】 日常を変えて行く事は何も難しくありませんよ。 腹が立ってムカついて壁に穴を開けようが、泣こうが寝れない日を過ごしたとしても。その姿自体が 【それっおもろい】 先祖さまも見守る神仏もそう思うに違いありません。 【それっおもろいなぁ】 四 【うわっぜいたく】 私は決して裕福な幼少期を 青年期を 壮年期を 老齢期を 死の際を 「少し言い過ぎてるよ?キミ?」 と突っ込んでも何も楽しく無い人生を今も歩んでいる。 自分の今が幸せなのか満たされているのかは心持ちの問題でもあり、それはもしかしたら誰かには羨むべく今日を生きているのかも分からない。 金銭欲や物欲も極端に少ない事もあって、また一般に寂しいとか辛いとか苦労とする事を意に介さない、お金が無くても諦めてしまえばそれは別にどうでもいい事でもある。 例えば家賃が払えないとか携帯の支払いが出来ないとか何かがあって、それは死を意味するのか?仕事も無くて家を追い出されてそれは死ぬのか?最悪と言っては叱られるが手荷物だけで何処かのお寺の門を潜ったらいいのかも知れないし、住込み寮で日払い可能な仕事をすればいいのかも知れないし、この国に在っては人様に迷惑を掛けない形で警察の留置場に行けば、三食と屋根付きのと兎に角死にまではしない。 なら別に時の流れに任せてみる人生のひと幕があってもいいのでは無いのか?あれをしなさい、これをしなさいとは言うけどもしないとどうなのか?それが普通から離れてみると思うのであり、別に何処かで転々と生活募金を募ってもいいでは無いか、全てのインターホンを押して 「少し食べ物を」 と頼んでもいいでは無いか。人間とゆうのはこの日本国にあって本当に飢え死になど出来るのだろうか?レストランや食堂でも後払いであるのなら、飢え死にまではしないのでは無いのか。 その全ての何もかもに対して 「うわっぜいたく」 あらゆる自らの体験、経験とは先駆者がいようがそれは聞いた話ではなく、良くも悪くも実体験として味わえるのならチョーぜいたくと思うのです。 この年齢から来るのか全てに対して (笑わないと損) (楽しまないと損) (喜ばないと損) (感謝しないと損) (感動しないと損) 自分自身がどんな境遇にあろうともその今の折角に感じれる全ては生命の魂の震える程の最高の出来事であってそれこそが 生きている証 だと思うのです。 死にたいとは生きてるから思える事で、死んだ人が死にたいと思う事があるのだろうか?私たちは普段から生きてるから生きたいとは思わないし、今の生命の奇跡を目の当たりにするのはバッサリと腕を切り落としてもいいし、何箇所かの癌が見つかって明日に手術で取り去ってしまう、でもいいし身体は元気なのに失明したでもいいでしょうか?人が死にたいとか辛いとか言えるのは、不足が無い証拠とも言える。 もしも両目の視力を完全に失って生きるときに恐らくは、死にたいとは思わないし言わない。大体に死にたくとも刃物が何処にあるのかも、ビルの屋上への階段はどこなのか?完全に目を閉じて過ごしてみると死にようが無い。 そう、絶対に絶望的な未来しかなかろうが死を選べない。 その盲目の人と同じ元気な身体で両目も見えてる人が死にたいと言っている。 我儘を言っている様にしか聞こえないだろうか。それは目だけでなく何とか必死に今日を頑張って生きたいと願う者が耳にした時に、もう生命のカウントダウンが終わりを迎えている人が聞いたら、どう思うのだろうか?嫌でも絶対に迎えないといけない死に何を憧れを抱いているのか?心配しなくても今日も今も一秒、一秒と墓にしか歩けない人生で何を考えているのか?何処かの極楽浄土とやらで永遠に死ねない生命ならばまだ分かる。 絶対に避けられないそこに向かいながら。もし本当に死にたいのなら明日の朝に絶対に目が醒めない自分を想像してみたらいい。 この世でもっとやりたい事やまだ未経験の事や行きたい所などがつぎつぎと出てくるに違いない。頭の何処かでこれは錯覚だちゃんと明日は目が醒めると思っては勝手に思い込んではいるけど、それも絶対でもなくで可能性としては有り得る。寝てる間の大災害でも、人間にいつ死が訪れるか等は誰も分からない。からこそ頑張らなくてもいいがせめて笑う毎日が大切なのだと思うのです。笑っていると何が良いのか?人は笑う為に生きると思うのであり、幸福とは笑う事だと思うのです。笑っている時のストレスの無さやその笑いの原因は何なのかは個人、個人だけれども。気分も身体も心も病んでいると心からは笑えない。今も不幸のどん底を表明する人には一体にいつ笑ったのか?何が笑えたのか?記憶の中にまだその思い出があるのならば、何も病んでもいない。ただその全ては単なる 贅の極み だと言うことです。 一体に死んでから何を目にする?何を食べる?身体の痛みも辛いもしんどいも切ないも死にたいも死んでどうやって思える? 人間として今が辛い時には、お金が無いならもっと無い人を想像して、寂しいならもっと寂しい人を想い、死にたいと考えた時には本当にこの今の時間に、愛する人に無差別殺人で病気で事故で生命を失っている人はいる。 ならばその人が出来なかったこともしたかった事ももう絶対に出来ないその人の代わりに出来る 私 はその 存在 は うわっぜいたく と言うことなのです。 人間としてのぜいたくとはお金が無くとも 山に入り込んで最高の森林浴をヒーリングをして綺麗な空気を吸い、遠目に走り去る鹿やイノシシや熊でも様々な野獣を眺めて、下にはバッタもコオロギもカブト虫もダンゴムシも色んな昆虫を相手に遊んで、あちらこちらからバタバタっと飛び去る野鳥たちに双眼鏡を向け、家族や仲間と美味しいバーベキューでもすればいい。 よく宗教家や寺の門前に人として産まれるは奇跡だとか稀有だとか言うけど、そんな事は思わない。存在すべくしてこの世に存在している。両親の大きな愛からの使命としての。 今日の今の貴方の全ては おいっぜいたくだよあんた? 笑って生きましょう。 よっぜいたくっ ぜいたくだね〜 ええぞっそのぜいたく この恥ずかしい程のぜいたくものめ
野球⚾️ダルシム軍襲来⚾️
ヨガっファイアーー さてっ日本選抜の先攻で試合開始です。 一番、センター、クロマっティー さぁ注目の第一球は…ダルシム投げたっっとそのまま腕がキャッチャーダルシムまで伸びて?ストッライクっ! これは手が出ません 第二球を投げたっと同時にボールとダルシムが消えて〜クロマティの前で現れてから〜ストッライク! これは打てないクロマティ ストレートの三振か? 投げたっっ 緩めの真ん中か?これはチャンスだクロマティ おっと?マウンドから火の玉が飛んできて〜クロマティ前でボールを包む。熱そうに避けるクロマティ。三振だ ヨガっファイアーっ!! 二番、サード、落合〜 余裕のピッチャーダルシム 投げましたっ また緩い真ん中だ、後から火の玉か?ん?ダルシム、連続では吐けないようだ 落合、思いっきり振った〜ボールを捉えたぞ〜 これは文句無しにレフトスタンドに飛び込みそうだ かなりの上段に一直線に打球は飛んでいる 余裕の表情でガッツポーズをしながらゆっくりと一塁を回る落合 おっと?レフトダルシムの腕と?九人全員の腕がボールに向かって伸びているぞ?ショートダルシムが見事キャッチ!! ~ヨガっのびーる~ 不満げにベンチに帰る落合 ずっと首を傾げています 三番、ライト、イチロー 日本選抜で唯一のヒッター、イチローです。期待しましょう ヨガっファイアーっ おっといきなり火で包みながらのど真ん中、、、余裕ですねピッチャーダルシム 次は伸びるか消えるかしかないぞ?どうするダルシム やっぱり消えたっ目を瞑り、気配を読みに行くイチロー、、振った〜 「ギャッ」 おぉダルシムの腰に一撃を与えたようださすがイチロー ツーストライクから これしか残っていない腕が伸びるやつ、、、ダルシムがボールを持ったままでそのボールに当てにいくイチロー、、、 「ギャッ」 ボールを離してしまったダルシムの手からボールがセンター方向に、、、いかない、、ファーストダルシムの腕がボールまで伸びてキャッチの瞬間にアウト スリーアウトチェンジ ダルシム軍の攻撃です 全部ダルシムと呼びましょう 一番、セカンド、ダルシム ピッチャー江川初球を投げましたっ思いっきり曲がるカーブか? ダルシムの腕が伸びて〜ちょうど中間辺りでバントをするダルシム、、、ボールがバットに当たる瞬間には足が一塁ベースまで届いているので当然セーフ やれやれとため息を吐きながら気を取り直す江川 二番、キャッチャー、ダルシム チラっと一塁を見てから投げたっ おぉっと?一塁を踏んだまま腕だけが二塁に届いて?余裕の盗塁成功っ この盗塁はどうしようも無いか?江川?