愛
あまりに理解が難しくて恐らくはこの愛とは遥か過去の仏陀の愛やキリストの愛ならば人にとって人生の永遠と呼ばれる存在はあるのかもしれないが、異性への愛や親への愛も友や挙句には我が子でも共に生きる関係で有るとき、それは儚い。 その時その時に激しく喜怒哀楽の感情を露わにする弱き人間と言う生き物にとっては、日常に余裕が無くても学校や仕事や家事、毎日の生活に金銭的な悩みやストレスがあっても、極端に言えば何も無くてもその日の気分、機嫌でその崇高な愛を感じ取れない事もあり何かが、誰かが捧げてくれた大切な愛を無駄にしてしまう時も数多く過ごしてしまう。 幼い頃、物心つかぬ時ならば食べ物をくれるとか小遣いを貰えると言う感情を入れないフラットな状況のとき、それは有り難くて素直に嬉しい。哀しいかな年齢の経験から相手は邪心も無く布施、奉仕の心から施してくれる有難みにでも、食べ物であるなら何が入っているか分からずに何となく気持ち悪い。現金を含めた資物で在るならば、余計な深読みまでしてしまう。「貧乏と思って憐れんでいるのか?」そう、貴方は貧乏だから憐れんでくれている。何もひねくれずに憐れみを受ければ良い。プライドや羞恥心や頑固さやら素直さを失ってしまった年齢的経験者は、相手の差し出した愛を逃してしまう事はそれは多い。またお金と言う直接な物に対してならそれしか目に入っていない、一万円と言うお札に目も魂も心も暖かい人格までも奪われてしまい「なぜ、この人はわざわざ大切なお金を渡してくれるのだろう?」「このお金を頂いて本当に大丈夫なのだろうか?この人は困ったりしないのだろうか?」まではまだ良くて「いつかどうせ返せと言ってくるな、変な借りを作ってしまったな」といきなり受けた愛を否定的に心の負い目に感じてしまう時もあります。 「返して欲しい」と言われたら言われた時に対応すればいいだけで、本当に相手がどう思っているのかもはっきり分かりもしないのに邪推はしなくてもいいだろうし、言ってきた時に「今は持ち合わせが少なくて」と逃げればいいだろうしその時の経済状況がどうあろうとも、千円でも一万円でも好きに遣えるお金をくれても貸してくれても手に乗せてくれたのだから、困っていたら遣えばいいし遣い道が無いなら手元に置けばいいだろうし、もっと言えば熨斗と菓子折でも付けてお返しする。ぐらいの感謝があってもおかしくは無い大切な愛でもあります。何とかなるなら有難くない、何ともならないから有難い。これは受け取る側の事情であって相手が行っている事は同じこと。その同じ内容の事に自分の事情で勝手に感謝の思いは変えなくていいと思うのですね。 今はもう本当に少なくなりました。部屋に籠っては携帯電話で全てを満たす生活から、お隣さんの顔も知らないとか話した事が無い、顔を合わせても挨拶をするのが恥ずかしい、何を話せばいいのか?分からない。「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」だけで構わない。無理に面白い話題を捻繰り出さなくてもいいし、別にいい奴と思われる必要すらない。荷物を持ったご老人でも別にそれを持たないといけない理由など存在もしない。顔を合わせて無視をしてしまう、言葉が思いつかなかった。思いつかなくてもいいし、挨拶だけこれで充分である。 そのご老人が可愛い笑顔で「少し持ってくれる?」と言えばあまりの可愛さに持ってしまうものなのだ。無理だと言ったところでも
傾奇者~カズ~
傾奇者~カズ~