小野。
7 件の小説私という人間。
十七歳。 田舎の空は、今日も静かに広がっている。 私はみんなの前で、道化のように身をよじり、 声を張り上げ、笑いを誘う。 まるで、それが私という存在のすべてであるかのように。 けれど、家に帰ると、世界は急に音を失う。 胸の奥で、不安が膨らみ、呼吸が浅くなる。 あの沈黙の中では、笑い方さえ思い出せない。 高校を辞めた理由を、人は好き勝手に語る。 「頭が悪くて、ついていけなかったらしい」 そんな噂が風のように流れていく。 でも、本当は違う。 理由など、どこにもなかった。 ただ、ある日突然、教室という箱の中で、 息をすることができなくなっただけだ。 皆の視線が針のように肌を刺し、 言葉を発しようとするたびに、喉が閉ざされた。 友達と話すのは嫌いじゃない。 むしろ楽しい。 私は、笑うのが得意だから。 多分、友達は多い方だと思う。 けれど、誰も気づかない。 私の声の裏で、何かが軋んでいることに。 誰も見ようとしない。 私の腕に刻まれた無数の線に。 私の笑い声に沈んだ微かな「助けて」に。 あの一言を言えたなら。 世界は少しだけ、優しかったのだろうか。 そんなことを考えて、毎日同じ夜を過ごす。 馬鹿だな。私は。
夜
夜はいい。静かで、暗く、そして心を沈める。 夜はいい。空には無数の星が瞬き、私を遠い世界へ誘う。 夜はいい。あなたを腕に抱き、眠りへ身を委ねられるから。 毎日、夜は訪れる。毎日、夜は過ぎ去る。 それは当たり前のようで、決して当たり前ではない。 夜が来ない世界など、想像することすらできない。 窓の外の風は、夜に溶け込み、物音ひとつなく世界を包む。 街灯の光も、月の光も、 夜の静けさの前ではただのささやきにすぎない。 私はその静寂に耳を澄まし、呼吸を合わせるように心を静める。 時折、遠くの犬の声や、車のライトが一瞬走り抜けるけれど、 それもまた、夜の深さを際立たせる小さな彩りに過ぎない。 私はその中で、あなたの温もりを感じながら、 一日の重さをそっと手放し、夜の腕の中で溶けてゆく。 いつか、この夜も消えてしまうのだろうか。 そんな思いを胸に、私は今日も、変わらぬ夜の中に身を沈める。 そして、星のひとつひとつにささやく。 「ありがとう」と。 今、この夜があることに、ただ心から、ありがとうと。
絶望
朝、目を覚ますと、髪が網のように絡まり合っている。 指を通そうとすればするほど、 ほどけるどころか結び目は固くなる。 外に出れば、風を切って自転車を漕ぐたびに、 小さな虫たちが顔に突撃してくる。 あれは偶然ではないのかもしれない。 世界が、わざわざ私を選んで、 小さな不快を投げつけている気がする。 ひと息つこうと立ち寄った店では、 いつも買っていた大好きなお菓子が棚から消えている。 「製造終了のお知らせ」という短い貼り紙は、 小さな訃報だ こうして一日が始まる。 髪は絡まり、虫はぶつかり、お菓子は消え、 心はじわじわ磨り減っていく。 世の中、小さな絶望で満ちている。 それでも私は生きている。 それが唯一の希望なのかもしれない。
親友
あれほど仲が良かったのに。 私とあなたは小学校から同じ時を過ごしてきた。 毎日、同じ道を歩いて、同じ砂を踏んで、同じ夕焼けを見た。 同じ先生に怒られて、同じように泣いて、同じように笑った。 高校に入ったら、離れた。私には夢があったから。 それでも、私とあなたは遊んだ。やたらと遊んだ。 夏休みなんて、ほとんど毎日、朝から晩まで。 私たちはただの親友を越えた何かになっていた。 喧嘩もした。互いに拒絶した。 それでも、また近づいた。 気まぐれでくっついたり離れたりする鉄くずと磁石みたいに。 楽しい夢は、必ず終わる。 私は高校をやめた。あなたもやめた。 バイトを始めて、金を稼いだ。 その金で遠くへ行って、見よう見まねで化粧して、髪を染めた。 私たちは、大人になりたくて仕方なかった。 やがて、あなたはバイトに行かなくなった。連絡はない。 遊びの誘いには返事をするくせに、仕事の話になると無言。 そして、金を借りるようになった。 最初は千円。次に三千円。 やがて三万円。 金額が膨れるたび、あなたのまわりの人間が減っていった。 けどあなたは気づかなかった。 可哀想だと思った。本気で救ってあげたいと思った。 でも、あなたは聞いてくれなかった。 金は人の価値観を腐らせる。 恋愛は人の思考をねじ曲げる。 ごめんね。 私は、ここであなたを切り捨てる。 私があなたを嫌いになってしまう前に。 あなたが楽しい思い出で終わるように。 To the friend I once loved.
蜻蛉
彼はふらりと現れた。 私の目の前で、羽をバチバチ鳴らしながら。鬱陶しい、と思った。 けれど、手を伸ばして追い払う勇気はない。 触れたら壊れてしまいそうで、それ以上に、触れたくなかった。 細く、赤い体。 昼間の光を受けて、かすかに光る。 大きな目玉で部屋を見回し、見境もなく窓に突撃する。 あぁ、そこは閉まっているのに。何度も、何度も。 やがて羽音は遠のき、静寂が訪れた。 部屋が急に広くなったようで、胸の奥がざわつく。 耳を澄ませても壁時計の音だけがやけに大きく響くだけだ。 私は椅子から立ち上がり、部屋の隅をのぞいた。 カーテンの陰。ずっと掃除もしていなかった。 あなたは、クモの巣に絡め取られていた。 羽を震わせてもがき、そのたび糸はきしみ、さらに絡まる。 やがて、動かなくなる。 細い体はまだ赤く、美しかった。 私はただ見ていた。 助けようとは思わなかった。 残されたのは、張り詰めた糸と、乾き始めた赤い骸だけ。
恍惚の人
あなたは恍惚の人。 あなたが好きだった。 眠る時も食事をする時も私はあなたを思う。 息をする間を惜しんで私はあなたを思う。 病に伏しても、だれかに罵られても、私はあなたを思う。 あなたがほかの女を腕に抱く時も、 知らない女と笑う時も、 ずっとずっとずっと。 この愛情は最早狂気。 異常なのは分かっている。 気味悪がられるのも。 それでもやめられない執着。 私は私が怖い。 愛情を超えた感情を抱いてしまう醜く歪んだ私が。 私自身が。 それでも私はあなたを思う。 この心臓を抉ってあなたの掌に置きたい。 この鼓動を、あなたに聴かせたい。 そしたらあなたはどうするのですか。 他の女を抱くように優しく抱きしめますか。 それとも足で踏み躙りますか。 いや踏み潰されてもいい。 あなたの手で壊されるのならば私に後悔はない。 操れぬ感情に身を委ねて。 私は思うままにあなただけを想い続ける。
明け方、其故、愛
あなたを見た瞬間に脳の中で何かが切れた。 今日もいつもと変わらない日々。 毎日働いて、たまの休みに家事をして。 すぐに過ぎ去る週末とすぐに訪れる月曜の憂鬱。 この暗闇に消えてしまいたい、とまで思った。 夜になれば、機械の光を浴びて、意識をゆっくり腐らせる。 だからこそ衝撃だった。 濃い化粧に派手な刺青。 剃られた眉とパーマのロン毛。 美しくて美しくてたまらなかった。 気が付けば貴方の軌跡を必死に遡っていた。 ひとつ残らず。全部。 時が過ぎるのさえ忘れて。 ああ、明け方だ。 今日も私は仕事に出向く。