Lemon
4 件の小説触れられない距離で君を好きになる③
第三章 ――夜の悪化―― ナースコールの小さな電子音が、静まり返った夜の病棟に鋭く響いた。 その音の下で、伊織は澪の手をそっと握り、落ち着いた声で告げた。 「春坂さん、腕をここに。今から採血するよ」 看護師がテキパキと器具を整え、針が肌に触れる。 刺さった瞬間、澪はほんの少し眉をひそめただけだった。 声を上げない強さが、逆に伊織の胸を締めつける。 彼女は痛みに強いわけじゃない。 ただ、誰にも迷惑をかけまいと、痛みを噛みしめて飲み込んでしまうだけなのだ。 ⸻ 数十分後。 ナースステーションに戻った伊織は、画面に映る数値に思わず背筋が冷えるのを感じた。 白血球、前回の半分以下。 ヘモグロビン、急落。 血小板、危険域の一歩手前。 (……こんなに急激に?) 胸の奥で何かが鈍く落ちる感覚。 悪化は覚悟していた。 しかし “ここまでの速度” は想定以上だった。 夜勤スタッフに声をかけ、指示を矢継ぎ早に出す。 「追加検査と輸血の準備を急いで。できるだけ早く頼む」 声は落ち着いているのに、内側は焦燥でざわついていた。 ⸻ 病室に戻ると、澪はベッドに腰を下ろし、毛布を胸の前でぎゅっと抱えていた。 蒼白な頬。 少し開いた口から浅く震える呼吸。 夜の照明に照らされたその姿は、あまりにか細く見える。 「春坂さん、血液の数値が下がっている。今夜中に追加で確認するよ」 慎重に言うと、澪はゆっくり顔をあげた。 目の光が弱く揺れている。 「……せんせい……また、迷惑……かけて……」 その言葉に、胸がぎゅっと掴まれるような痛み。 なぜ君は、こんな状態でも自分を責めるんだ。 「迷惑なんかじゃない。 君が知らせてくれたから、すぐ対応できてるんだよ」 言いながら、彼女の震える肩にそっと手を置く。 その瞬間、澪の肩の緊張がふっと緩んだ。 頼ることが怖いと言っていた彼女が、ほんの少しだけ重さを預けてくれた気がした。 ⸻ 追加検査を終えると、さらに数値の低下が確認され、すぐに輸血と点滴の準備が整った。 「春坂さん、少しだけ我慢ね」 伊織は、いつも以上に柔らかな声で言った。 だがその目には、医師としての鋭い緊張が宿っている。 針が刺さると、澪の指先が震えた。 それでも必死に笑おうと唇を上げる。 「……こわい……でも……せんせいが……そばに……いるから……」 震えながら出たその言葉に、伊織の胸は強く揺れた。 医師としての距離を保とうとする理性が、ひどく遠く感じられる。 恐怖と信頼が入り混じった澪の目を見て、胸の奥で何かが静かに崩れていく。 (……守らなきゃ。 どんな手を使ってでも、この子を……) 仕事としてではない。 もっと、名前もつけられない衝動として。 ⸻ 輸血が進み、時間が経つにつれて、澪の呼吸は少しずつ安定していった。 頬にわずかに色が戻り、目の焦点もゆっくりと合い始める。 その変化に、伊織は胸の奥の強張りがようやくほぐれていくのを感じた。 「……せんせい……ありがとう……」 小さく、それでもはっきりとした声。 その笑顔は弱く儚いのに、伊織には痛いほどまぶしく見えた。 「春坂さんが頑張ったんだ。僕はただ……」 言いかけて、飲み込む。 僕はただ――君を失いたくなかっただけだ。 そんな言葉を吐くわけにはいかない。 ⸻ 澪が眠りについた後、伊織はベッドの横の椅子に座り、その呼吸を見守り続けた。 夜の病棟は静かで、輸血ポンプの規則的な音だけが響く。 彼女の細い指。 軽く開いた口。 胸の上下するたびにかすかに揺れる毛布。 一つひとつが、なぜか胸を締めつけた。 (……この子を、守りたい。 理由なんていらない。 ただその感情だけが……どうしようもなく確かだ) 医師として越えてはならない線を、胸の内側で何かが静かに踏み越えた気がした。 夜の白い光が澪を照らし、伊織の揺れる影だけが壁に長く伸びていた。
触れられない距離で君を好きになる-補足シーン-
第二章補足シーン ――白い廊下の温度―― ◆涙の余韻(澪視点) 伊織が病室を出て、扉が静かに閉まった。 それなのに、しばらく澪は身体を動かせなかった。 泣いたあとの呼吸はまだ浅いまま。 涙の跡が乾きかけた頬が、少しひんやりする。 毛布を握りしめたまま、ぼんやり天井を見つめた。 (……先生、優しかったな) 胸の奥がじんと熱くなった。 あんなふうに泣いたのは、何年ぶりだろう。 泣いても怒られなくて、迷惑だと責められなくて―― 「大丈夫。俺がいるから」 その声だけが、耳の奥に残っている。 本当は、泣くつもりなんてなかった。 泣く理由なんて、ただの甘えだと思っていた。 優しい人の前で泣くなんて、迷惑だとずっと思っていた。 けど。 涙をこらえながら笑っても、 伊織は何も言わずに、ただそばにいてくれた。 そのことが胸を締めつける。 (……先生の前だと、強がれない) そう気づいた瞬間、胸の奥がざわついた。 強がれないのは、弱くなってるのか。 それとも――やっと泣ける場所を見つけたのか。 自分でも、わからなかった。 ⸻ ◆診察室に戻れない理由(伊織視点) 扉を閉めたあと、伊織は数歩歩いて足を止めた。 白い廊下に、澪の泣き声の余韻が残っている気がした。 (俺は……何をしてるんだ) 医者として当然の対応。 泣く患者を落ち着かせるのは職務の一部だ。 そう言い聞かせても、胸の奥に変なざわめきが残っていた。 澪の涙は、とても静かな音だった。 でも、その静かさが胸に響き続けていた。 ――助けてって言えない子の涙は、重い。 そんな言葉が頭に浮かぶ。 廊下に置いた自分の足音だけが、やけに響く。 「……集中しろ。仕事だ」 そう呟いてみても、澪の震える笑顔が視界にちらつく。 泣きながら笑おうとするあの表情。 自分に迷惑をかけまいと必死に強がる姿。 (あんな顔……子どもがする顔じゃないのに) 胸の奥が、ずきっと痛んだ。 彼女が抱えているものは病名だけじゃない。 過去の傷も、感情の癖も、自己犠牲も―― 全部が彼女の呼吸を浅くしている。 そのことに気づくたび、 “患者”としてだけ区切ることが、少し苦しくなる。 (……どうしてこんなに気になるんだろう) 答えは出ない。 出したらいけない気もする。 ただ確かに、何かが胸の奥で動きはじめていた。 ⸻ ◆ガラス越しのまどろみ 廊下の窓から、角度を変えて病室の中が少しだけ見えた。 澪が毛布に包まれ、静かに目を閉じている姿が映る。 泣き疲れた顔をしている。 その姿に胸が締めつけられ、 伊織は目をそらそうとした――が、そらせなかった。 (……守らないと、と思ってしまう) その感情が何なのか、まだわからない。 恋でも、同情でも、責任でもない。 もっと曖昧で、もっとやさしい、形のない感情だった。 伊織は深く息を吸い、白い天井を見上げた。 どうしてこんな気持ちになるのか。 なぜこの子だけが、自分の心を揺らすのか。 答えがないまま、 でも確かに胸に芽生えたこの感情が、 これから大きな動きを生む予感だけは―― どうしても否定できなかった。 ――静かな悪化の始まり――** 深夜二時。消灯からずいぶん経った病棟は、いつものように静かだった。ナースステーションの淡い灯りだけが、薄暗い廊下をぼんやり照らしている。 氷川伊織は、カルテの確認を終えようとしていた。けれど、ページを閉じる直前、ある名前が目に入り、指先が止まった。 ──春坂澪。 あの電話の日から、澪は以前より少しだけ無理をして笑うことが増えた。 看護師からの申し送りは「特に変わりなし」だったけれど、伊織の胸にはどうしても拭えない小さな違和感が残っていた。 なにか、ある。 けれど、それが何なのかまだ言語化できない──。 そんな思いが心に巣のように残り、伊織は結局カルテを閉じずに立ち上がった。 「……少しだけ、様子を見にいこう」 自分でも理由は説明できない。ただ、行かなければいけない気がした。 ⸻ 廊下を歩き、澪の病室の前で足を止める。 ドア越しに聞こえてきたのは、かすかに乱れた呼吸の音。 伊織の胸がざわ、と揺れた。 ノックしてドアを開けると、薄暗い部屋の中で澪が膝を抱えて丸まっていた。 額には細かい汗、呼吸は浅く、肩がわずかに震えている。 「……春坂さん?」 照明を最小限につけると、澪がゆっくり顔を上げた。 その目は、いつもより白く濁っていて、焦点が合っていない。 「せんせ……」 声はひどく弱かった。 「どうした? どこか苦しい?」 近づこうとすると、澪は小さく首を振った。 否定ではなかった。振る力すらない、弱々しい仕草。 「なんか……急に、寒くて……身体が、へんな感じ……」 伊織は澪の手にそっと触れた。 ひどく、冷たい。 そこで見つけた。 ベッド脇のゴミ箱に丸められたティッシュ。そのいくつかに、薄い血の滲み。 胸の奥がゆっくりと沈むようにざわめいた。 「春坂さん……鼻血、出てた?」 澪は気付いていないように、ぼんやり瞬きをした。 「え……あ、ちょっと……でも大丈夫……」 強がりの笑顔を作ろうとしたが、失敗して、唇だけが震えた。 伊織はすぐにナースコールを押した。 この寒気、出血、倦怠感── 血液数値の急激な低下のサインだ。 「春坂さん、すぐ検査するよ。今夜のうちに」 「……ごめんね、せんせい。わたし、また……迷惑かけてばっかり……」 「迷惑なんかじゃない。 僕は君の主治医なんだ。頼ってほしい」 優しく言っても、澪は首を振った。 「……頼りたいのに……頼るの、こわい…… また誰かを困らせちゃう気がして……」 伊織は澪の肩に手を置いた。 壊れ物に触れるみたいに、慎重に、でも迷いなく。 「困らないよ。むしろ……」 言いかけて、飲み込む。 むしろ、君を守れないほうが僕は怖い。 自分の胸の奥で何度も形を変えながら膨らんでいく、説明できない感情。 医師として線を引くべきなのに、澪を見るたびにその境界線が揺れる。 なのに今は、そんな葛藤すら押し流すように、ただ一つの衝動が胸を支配していた。 ──この子を失いたくない。 その思いが、恐ろしいほど鮮明だった。
触れられない距離で君を好きになる②
第二章 ――静かな変化―― ◆白い朝のはじまり(伊織視点) 翌朝、病棟に差し込む陽はやわらかく、それでも白い壁や天井に跳ね返って、どこか無機質な明るさを作っていた。 伊織はカルテを確認しながら、無意識に氷川の名前へ指先を止めていた。 ――昨日の涙。 ――笑おうとしながら泣いてしまった横顔。 ――「先生が来てくれてよかった」という言葉。 患者から向けられる言葉には慣れているはずなのに、なぜだかその一言が胸に残っていた。 (今日も……あんなふうに泣いていなければいいけど。) そんなふうに考える自分に、伊織は少し驚く。 関わりすぎるのは良くないと頭ではわかっているのに、胸のどこかで心配が離れなかった。 ◆病室の朝 ノックをすると、部屋の奥から明るい声が返ってきた。 「はーい!」 その一声だけで、伊織の肩の力が少し抜ける。 扉を開けると、氷川は毛布にくるまりながら、春の陽だまりみたいな笑顔を向けた。 「先生、おはようございます!」 「おはよう。……よく眠れた?」 その問いに、氷川の表情がかすかに揺れた。 ほんの一瞬の影――強がりが習慣になった子特有の、あれだ。 「うん、大丈夫。昨日ちゃんと寝れました」 (たぶん、本当じゃないな。) 追い詰めるように聞くのは違う。 涙のあとを誰にも見られたくない子に、必要以上の負担をかけるつもりはなかった。 ◆小さな異変 診察に移り、伊織は聴診器を当てる。 いつもは規則正しい呼吸をしているはずの氷川だが―― 今日はどこか浅い。 胸の上下が、ゆっくりなのに不自然で、息をため込むような動き。 「苦しくない?」 問いかけると、彼女は一拍置いてから、明るく笑って見せた。 「だいじょうぶですよ。平気です。」 その“平気”が軽やかすぎて、逆に重さを隠しているのがわかる。 (何か……違う。) 昨日の涙のあとを引きずっているのか。 それとも、もっと前から抱えていたものが顔を出したのか。 胸の奥にざわりとした感情が渦巻く。 病室を出たところで、看護師がひそやかに声をかけてきた。 「先生、昨日……かなり泣いてましたよ。あの子。」 伊織は足を止める。 「……泣いてた?」 「ええ。面会のあと、ずっと。 誰かに聞かれたくなかったみたいで、声を殺して。 あそこまで静かに泣ける子って、相当我慢強いですよ。」 その言葉が、胸の深い場所に落ちていく。 ――声を出さずに泣く。 ――誰にも迷惑をかけないように泣く。 そんな泣き方を、何度繰り返してきたのだろう。 (そんなに……ひとりで耐えてきたのか。) 昨日の、笑いながら泣いた姿が蘇る。 氷川は泣き方さえ、周りへ配慮してしまう。 その“優しさ”は、もはや傷の一部になっていた。 医局に戻る途中、伊織はふと立ち止まった。 午前の検査が終わり、病室へ戻ると携帯が震えた。 画面には「母」の文字。 胸の奥が、少しだけ温かくなる。 会えない日が多くても、母の声は安心に近い何かを運んでくれた。 「もしもし、澪? 今、大丈夫?」 母の声は、疲れを隠すように明るかった。 その“無理してる声”が、澪は嫌でもわかってしまう。 「うん、大丈夫だよ。検査も終わったし」 「そう……よかった。今日も仕事が長引いてね、 行けそうにないの。本当にごめんね……。」 ああ、また謝ってる。 その瞬間、胸のどこかがきゅっと縮む。 「謝らないで。お母さんのせいじゃないよ」 そう言いながら、明るく笑う。 電話越しでも笑顔だと伝わるように、声色まで整えてしまう自分が嫌だった。 「先生は優しい? ちゃんとご飯食べてる?」 「うん。氷川先生、すごく優しいよ」 そう言った途端、鼻の奥がつんと痛んだ。 優しさに触れると涙が出そうになる。 でもそれを悟られたくなくて、ぐっと息を飲み込む。 「本当にごめんね、澪……そばにいてあげられなくて……」 その言葉が刺さる。 お母さんが悪いわけじゃない。 むしろ被害者なのに、自分を責め続けてる。 だから澪は泣くわけにはいかなかった。 「私は元気だよ。大丈夫。仕事がんばって」 その明るさに、母はほっとしたように息をついた。 「……うん。ありがとうね。明日こそ行けるようにするから」 「うん。待ってるね」 そう言って電話を切った瞬間、 胸を支えていた糸がぷつり、と切れた。 携帯をそっとベッドの上に置いた瞬間、 呼吸が不規則になる。胸の真ん中が熱くて苦しい。 「……っ、あ……」 声にならない声が漏れる。 まぶたの奥から熱が溢れ、ぽろ、ぽろ、と涙が落ちた。 さっきまでの明るさが嘘みたいに、 身体の力が抜けていく。 「だいじょうぶ……大丈夫……」 自分に言い聞かせても、涙は止まらない。 どうして泣いてるんだろう。 お母さんが悪いわけじゃないのに。 大好きなのに。わかってるのに。 「……っく……ひっ……」 声を殺す癖は、幼い頃に身についたものだ。 泣き声を出すと怒鳴られた日々の名残。 だから苦しくても、泣き方すら静かだった。 胸が上下し、喉が詰まり、息が吸えない。 涙だけが、勝手に溢れ続けた。 そんなとき―― コン、コン と軽いノック音がした。 澪は慌てて涙を拭く。 笑顔をつくろうとしても、頬が濡れていてうまく笑えなかった。 ◆笑顔のまま崩れる ドアを開けた伊織は、 ベッドの上で震える肩を見て一瞬息を止めた。 澪が振り返り、無理に笑う。 「せん、せ……大丈夫です……あは……」 笑っているのに、涙が頬を伝っていた。 その矛盾が痛いほど胸に刺さる。 「……泣いてるじゃないか」 静かな声で言うと、澪はさらに笑った。 「ちが……あの、だめで……すみません……」 泣いちゃいけない。 先生に迷惑かけちゃいけない。 そう言うように、必死に笑う。 その必死さが、逆に伊織の胸を締めつけた。 伊織は急いで近寄らず、 でも逃げ道を作らない絶妙な距離でそっとしゃがむ。 「謝らなくていい。泣いてもいい」 落ち着いた声で言うと、澪はぎゅっと目をつむった。 「……っ、だめ……笑わなきゃって……思って……」 「笑わなくていい。泣きたいときは泣いていい」 その瞬間、澪の肩がふっと落ちた。 張り詰めていた糸が緩むように、 顔を覆って泣き声を漏らす。 「ひっ……ごめん、なさい……っ」 伊織は触れない距離で、ただそばにいた。 「大丈夫。俺がいるから」 その言葉が呼吸のリズムになるまで、 澪が泣き疲れて肩を震わせなくなるまで、 ずっと静かに見守った。 白い朝の中で、 二人の間に流れた時間は、とても静かで、 でも確かな何かを運んでいた。 いつもなら午前の回診をこなしたあと、デスクに戻ってカルテ整理をする。 でも今日は、どうしても足が向かなかった。 (あの子……また一人で泣いてないだろうか。) 胸の奥のざわりが形になり、伊織は踵を返す。 廊下を歩くたびに、白い床の反射光が視界に揺れた。 その無機質な光が、氷川の昨夜の涙を思い出させる。 ――泣きたいのに、泣いてはいけない場所だと思っている。 ――笑いたくないのに、笑わなきゃいけないと思っている。 そんな子を、またひとりにしていいのか。 その違和感は、もはや予感に近かった。 (きっと……今日は、行くべきだ。) 伊織は静かに歩き出した。 彼女の涙が落ちる前に、そばにいるために。 ◆形のない揺らぎ 澪が泣き疲れ、呼吸が少しずつ落ち着いていく。 握りしめたシーツがゆるみ、肩の震えも徐々に小さくなる。 伊織は安心させるつもりで、静かに声を落とした。 「……大丈夫。ここにいる」 その言葉は医師として当たり前の言葉のはずなのに、 胸の奥に微かに痛いほどの温度が残った。 澪は涙で濡れた目を指の甲で拭いながら、小さく笑った。 「先生……来てくれて良かった……です」 “来てくれて良かった” 患者から言われて慣れているはずの一言だった。 でも――今、聞いたその言葉は、なぜか重さが違った。 (なんで……こんなに重く響くんだ?) 自分でも理由がわからない。 医師として、患者から頼られるのは当然だ。 それ以上の意味をそこに見出してはいけないはずだった。 それでも。 涙をこらえきれずに崩れた少女の姿が、 無理に笑おうとして震える唇が、 泣きながら「ごめんなさい」と言ったあの声が、 胸の奥に沈んで消えずにいた。 (俺は……何をこんなに気にしてる?) 答えが見えないまま、 でも、はっきりとわかったことがひとつだけある。 ――澪をひとりにはしたくない。 医者として当然の思い。 そう言い聞かせるたびに、胸の奥がわずかに軋んだ。 少女は再び毛布に身体を沈め、 涙のあとを残した頬に、少しだけ疲れをにじませている。 「今日はもう休んでいい。……頑張りすぎないようにな」 そう言って立ち上がったものの、 病室の扉を閉める瞬間、伊織は振り返ってしまった。 澪はベッドの上で静かに目を閉じ、 その表情は、ほんの少しだけ――救われたように見えた。 胸がきゅ、と締めつけられる。 (……なんだ、この感じ。) 説明のつかない重さ。 見過ごせないと感じる予感のようなもの。 そしてほんのわずかな、守りたいと思ってしまう気持ち。 それが何なのか、まだわからない。 ただ、伊織は気づいてしまった。 ――この子の涙は、俺の心に触れてしまった。 その事実だけが、白い光の中でくっきりと浮かんでいた。
触れられない距離で君を好きになる
◆ プロローグ 白い部屋は、いつも少しだけ冷たい。 漂う消毒液の匂いは、春坂澪にとって“痛みの合図”でもあり、“生きている証拠”でもある。 17年のうち、何度この匂いに包まれたのだろう。 ただ、今日の白はいつもと違った。 ――ここから何かが動き始める。 そんな予感が、胸の奥のどこかで細く揺れていた。 ⸻ ◆ 登場人物プロフィール 春坂 澪(はるさか みお)/17歳(高校2年) • 病名:急性リンパ性白血病(ALL) • 幼い頃から入退院を繰り返し、学校生活は“続いたことがない”。 • 明るく笑って周囲に合わせるが、 「迷惑をかけたくない」 が強すぎて本音を飲み込む癖がある。 • 過去に父親からの虐待。 その中で、母を守れなかった自分を今も責めている。 • パニック発作・過呼吸の既往。 感情が溢れそうになると“笑う”ことで蓋をする。 • 医療者の前ではいつも“いい子”。でも―― 氷川伊織の前だけ、なぜか涙が触れてしまいそうになる。 ⸻ 氷川 伊織(ひかわ いおり)/25歳(内科医・2年目) • 若いが落ち着きがあり、距離感のとり方がうまい。 • 観察が鋭く、患者の“心の揺れ”に誰より早く気づくタイプ。 • 幼い頃から、医療者だらけの家族の中で“痛みのある日常”を見て育った。 • 私生活は不器用で、仕事優先。 • 初診の瞬間、澪の「笑いながら泣きそうな目」に気づく。 その理由を、急がず、追わず、そっと見守る医師。 ⸻ 春坂 由衣(はるさか ゆい)/母・39歳 • シングルマザー。 • DVで受け続けた傷と、守れなかった罪悪感を背負っている。 • 経済的に厳しく、掛け持ちで働き、病院に頻繁には来られない。 • 澪を深く愛しているが、自分を「母親失格」だと信じ込んでいる。 • 澪はその罪悪感を敏感に感じ、ますます弱音を言えない。 ◆ 第一章 「白い部屋に落ちる影」 白いカーテンが、風に触れたように微かに揺れた。 仕切りの向こうでは誰かの足音、遠くでナースコールの電子音。 世界は淡々と流れているのに、澪の胸の中だけは張りつめていた。 ベッドに腰掛けると、マットレスが“受け止めるように”沈む。 そこでようやく、自分がまたここに戻ってきたことを理解する。 十七歳の春坂澪は、人生の半分を病院で過ごしてきた。 慣れているはずなのに、慣れることなんて一度もなかった。 カーテンが音もなく開く。 カルテとタブレットを手にした氷川伊織が入ってきた。 若いのに落ち着いた歩き方で、椅子を引く仕草すら静かだ。 「初めまして。主治医になりました、氷川です。」 柔らかい声。けれど芯のある声音だった。 澪は反射で笑顔を作った。 “いい子”の顔は、もう身体に染みついている。 「春坂澪です。よろしくお願いします。」 伊織はその笑顔をまっすぐ見つめた。 観察するでもなく、探るでもなく―― ただ、“隠した何か”にそっと触れるように目を細める。 「緊張してる?」 「えっ……そんなことないです。」 嘘をつくとき、自分でも気づかない癖がある。 声が少しだけ浮く。唇が触れるように揺れる。 伊織は、それにすぐ気づいた。 「そっか。じゃあ少し話を聞かせて。」 距離を取りつつ、威圧しない高さで椅子に座る。 “この医師は、近づき方を知っている”――澪はそう思った。 「体の痛みはありますか?」 「ないです。大丈夫です。」 「無理してない?」 その一言が胸を突いた。 “どうしてわかるの?”――言葉にならず喉でつかえる。 「無理なんて……してません。」 それも嘘だった。 伊織は息を吸い、無理に突っ込まず微かに間を置いた。 「学校には行けてた?」 「……行けたり、行けなかったり。 友達に迷惑かけちゃうので……」 「迷惑?」 その声色は否定ではなく、澪が傷つかないよう慎重に柔らかかった。 「病気のことで心配かけちゃうから。」 また笑ってしまう。 癖。反射。身を守る術。 笑った瞬間、視界の端で伊織の表情がわずかに変わった。 気づかれた――そう思った。 「春坂さん。」 「……はい。」 「無理に笑わなくていいよ。 ここは、強いふりをしなくていい場所だから。」 胸の奥で、何かが軋んだ。 「……ごめんなさい。」 「どうして謝るの?」 「泣きそうで……医者の前でこんなの、よくないかなって……」 伊織は穏やかに首を振る。 「泣きそうなときは、泣いていい。 あなたは患者さんなんだから。」 優しいのに、優しさで傷がほどけていく感じがして苦しい。 「お母さんとは……どう?」 その問いは慎重で、ふれた場所が痛くないか確かめるようだった。 「来れないだけで……私のことを嫌いとかじゃなくて…… 母は……私を守れなかったことを、ずっと……謝って……」 声が震えて、言葉が落ちていく。 そこまで聞いて、伊織は質問を止めた。 「大丈夫。話したくないことは、言わなくていい。 話したくなったときでいい。」 追い詰めない優しさ。 人に触れられることの少ない澪には、それが逆に胸に刺さった。 涙がひとつ、ぽたり、と落ちた。 静かな音で。 伊織は驚かず、騒がず、ただそっとティッシュを横に置く。 「ありがとう。話してくれて。」 その一言で、澪は悟った。 ――この人の前では、強がれない。 白い部屋に、ほんのわずか影が落ちた気がした。 それは恐怖ではなく、 長い時間かけて凍っていた心が“やっと揺れ始めた影”だった。 ◆ 第一章 「白い部屋に落ちる影」――続き 初診が終わり、静かになった病室には エアコンの風の音と、遠くのナースステーションのざわめきだけが残っていた。 澪はベッドに横向きに座り、 さっき伊織が置いていったティッシュを膝の上に置いたまま、 ぼんやりと指先で折り目をつけていた。 涙が出たあとの胸の奥は、不思議と軽い。 でも、軽さの下に沈んでいる重い石はそのままだ。 ――お母さん、怒ってないかな。 そんな考えが、胸を締めつける。 その瞬間、枕元のスマホが震えた。 画面には「お母さん」の名前。 タイミングが良すぎて、 まるで伊織が気づいた“なにか”を、 母にまで届かせてしまったような気がして怖くなる。 澪は深呼吸を一度して、通話ボタンを押した。 「……もしもし。」 『澪? 今、大丈夫?』 母・由衣の声は、少し息を切らしたようだった。 きっと仕事の休憩の合間に、急いで電話してきたんだ。 「うん、大丈夫だよ。初診、終わったよ。」 明るく言ったつもりなのに、 声が自分でもわかるほど少しだけ震えていた。 『そっか……ごめんね、行けなくて。』 電話の向こうで、小さく息を詰めるような音がした。 また始まった―― そう思われる前に、澪は慌てて言葉をかぶせる。 「大丈夫だよ! 本当に! お母さんが来れないの、別に……平気だから。」 『平気なわけないでしょ。 ……あんたが、またひとりで頑張ってるの、わかってるから。』 その声は、 謝りと後悔と心配が全部混ざった、 ずっと変わらない“お母さんの声”だった。 胸がじん、と熱くなる。 「頑張ってるつもりじゃないよ……。 普通だよ。いつも通り。」 そう言った途端、 “いつも通り=ひとりで耐えている自分”を 自分で突きつけられたようで、 喉の奥がきゅっと締まった。 『澪……泣いてない?』 「泣いてないよ。」 一瞬で出た返事。 条件反射のように。 でも、鼻の奥がつんとしているのを母は絶対気づいている。 『ごめんね……本当に…… あんたを守れなくて……』 その言葉は、聞き慣れているはずなのに 今日はひどく胸に刺さった。 「守れなかったなんて言わないでよ…… お母さんが一番、私の味方だから……」 言った瞬間、目に涙がにじんだ。 伊織の言葉が蘇る。 ――泣きそうなときは、泣いていい。 でも、母には泣き声を聞かせたくなかった。 ぐっと唇を噛む。 『澪。無理しないでね。 行けるときは絶対行くから。 先生のこととか、治療のこととか……また教えて。』 「うん……」 小さく頷くと、声が震えてしまいそうで それ以上言葉を続けられなかった。 沈黙。 電話越しに、お互いの息づかいだけが聞こえる。 『……澪。大好きだよ。』 その一言で、 澪の胸の奥の“重い石”が少しだけ溶けた。 「……私もだよ。」 電話を切ったあと、 澪はゆっくりと天井を見上げた。 病室の白はやっぱり冷たい。 でも―― さっきよりほんの少し、 色があるように思えた。 ◆ 第一章 「白い部屋に落ちる影」 ――続き② 通話が途切れると、病室に静寂が戻った。 スマホの画面がふっと暗くなる。 さっきまで母の声が響いていたはずなのに、 まるでそれが幻だったみたいに、音が消える。 澪はゆっくり息を吸った。 涙なんて見せていないし、声もちゃんと明るかったはず。 「大丈夫」って伝えられた。 ――ちゃんとできた。 ――迷惑かけなかった。 そう思った瞬間だった。 胸の奥から、ずっと押し込めていた何かが ひゅっと浮上してくる。 「……っ」 喉が震えて、息が漏れた。 さっきまで、ちゃんと笑えていたのに。 電話が終わった途端、 体の中の支えが全部なくなったみたいだった。 止めようとしたのに、 涙がぽたりと膝の上に落ちる。 「なんで……今……」 自分に言い聞かせるように呟いたけれど、 涙はひとつ、またひとつ、静かに零れ落ちた。 うつむいたまま、 声を殺して肩を震わせる。 誰にも、見られたくなかった。 ――そのはずだった。 「春坂さん?」 控えめなノック。 そして、ゆっくり扉が開く音。 澪は咄嗟に顔を上げた。 視界がぼやけて、涙で滲む。 そこにいたのは、 白衣の裾を揺らして立っている伊織だった。 偶然、見回りの途中らしい。 けれど、その表情は偶然とは思えないほど 一瞬で状況を理解していた。 「……氷川先生……」 声を出そうとしたけど、 涙のせいでくぐもってしまう。 笑わなきゃ。 “いつもの私”に戻らなきゃ。 澪は慌てて口角を上げた。 涙で濡れたまま、それでも笑おうとした。 「だ、だいじょうぶ……です…… ちょっと……電話で……」 笑っているのに、 涙がぼろぼろ落ちる矛盾。 自分がいちばん嫌いな姿。 けれど伊織は、 困ったようにも、哀れむようにも見えなかった。 ただ、静かに近づいてきた。 「泣いてる時に笑わなくていいよ。」 その言葉が、 澪の無理していた部分を真っ直ぐ貫いた。 「……泣く……つもりじゃ……なくて…… なんか、勝手に……」 「うん。 勝手に出る涙のほうが、本当の涙だよ。」 そう言って、 伊織は距離を詰めずに、ベッドのそばに腰を下ろした。 手を伸ばすことはしない。 触れようともしない。 けれど―― 逃げても追いかけず、 黙って苦しみを見てくれる距離だった。 澪は胸を押さえて、 かすれた声で言った。 「すみません……こんなの…… 患者なのに……」 伊織はゆっくり首を振った。 「患者だから、だよ。 弱いところを見せていいのは、 ここしかないんだから。」 その声があまりにも優しくて、 澪の涙は止まらなかった。 泣きながら笑ってしまう。 笑いながら泣いてしまう。 「先生の前だと……なんか…… だめです……」 「だめじゃないよ。」 伊織の目が、 “強がらなくていいよ” そう言っているようで、 澪はまた、小さく肩を震わせた。 その夜、 澪は初めて“我慢しなくていい大人”に出会ったことを 本能で理解していた。