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素人ですが不定期で投稿します。 よかったらご覧下さい! 完結作→"Caminando"    →"まちのあじ"

チケット

「だああああああ!!!!」 部屋に響き渡る俺の叫声。 それに驚いて飼い猫は飛び上がり、棚の後ろの物陰に身を隠した。 そんな事などお構いなしに、俺は畳もうと思った洗濯物のポケットを見つめて立ち尽くした。 「チケットが………………。」 その中にはグジャグジャに丸まった紙クズが、昨日まで夏フェスのチケットだったものが入っていたからだ。 焦ってそれを必死に伸ばしても後の祭り、すっかり印刷は擦り切れてその切れ端がボロボロと床を汚すだけだった。 「ど……………………」 どうしよう………………と、俺は頭を抱えた。 毎年応募し続けてやっと手に入れたチケット、そしてその夏フェスはずっと気になるあの子を誘っていたのだ。 バンド好きの彼女と距離を縮める絶好の機会だったのに……俺はそれを最も簡単に手放してしまった。 俺は急いで携帯を手に取り、何か救済措置はないのかとイベントの公式ページを読み漁った。 『グッズ購入について』 違う! 『会場へのアクセスについて』 違う!! 『出演アーティストからのコメント』 違ぁ〜〜〜〜〜う!!! 『チケットを紛失、またはご持参になられていないお客様はご来場頂けません。』 「っ…………………!」 いや、分かってたけどね……? こうなったのも100%俺が悪いけどね………? でもそんな無機質に……そんな無情な言葉を投げかけなくてもいいんじゃない………? もはや俺には現実を受け止めるしかなく、しょげて力の入らなくなった指先で彼女に事の経緯を綴ったメッセージを送った。 ……………勇気出したのになぁ。 あの子を誘うならこれしかないって、俺があの子を楽しませられるならこれしかないんだって。 そうやって思い切って誘ったのになぁ…………。 俺って………俺って……………ダメなヤツだなぁ…………。 ピロンッ 不意に俺の携帯の着信音が鳴った。 涙目を擦ってその画面を見ると、彼女からメッセージが2件送られてきていた。 「…………………!」 『そうなっちゃったものは仕方ない!』 『でも歌う気満々だったから、代わりにカラオケに付き合う事!』 驚愕、落胆、そして気遣い。 そのメッセージには彼女の感情の全てが集約されており、最底辺に沈んだ俺の心をそっと引き上げてくれた。 きっと彼女のこういうところが、芯もありつつ最高に優しいところが俺は好きなんだ。 そんな彼女とだからこそ、俺はこんなにも夏フェスに行きたかったんだ。 俺が携帯をギュッと握りしめると、その掌の中でまた一つ通知音が鳴り響いた。 『分かりましたか??』 分かりました、分かりすぎるほど分かりました。 あなたの歌に全力でコールを贈る事を約束します。 俺も全力で歌う事を約束します。 情けない俺のせいでこうなってしまったけど、その日を最高の夏の思い出にする事を約束します。 『はい!仰せのままに!』 いつもの街の一角で、君と最高の夏フェスを開催する事を誓います。

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チケット

#26 味

侑李 「え………!?」 宏人 「………………。」 俺の言葉を聞いた瞬間、侑李ちゃんは両手で口を覆って言葉を詰まらせた。 当事者である俺たちでさえ病気が分かった時は受け入れ難かったのだ、当然の反応だろう。 しかし、彼女が病院に行く時背中を押してくれた以上はしっかりと結果を伝えなければいけない。少し時間は経ってしまったが、そう思った俺はこうなるのを覚悟で若葉に起きた現状を伝えた。 侑李 「…………ごめんなさい、私……宏人さんがこんな事になってるなんて………。」 宏人 「……いや、侑李ちゃんがあの時ああ言ってくれたから早くに発見できたんだよ。本当感謝してるよ、ありがとう。」 侑李 「………栗山さんと横下さんには伝えたんですか?」 宏人 「いや、でも今日伝えるつもりだよ。俺もやっと頭が整理できたしさ。」 侑李 「そう………ですか………。」 彼女にこんな顔はさせたくなかったが、隠していてもいつかは公にしないといけない事だ。 その時に伝わるよりかは今の方がずっとマシだろうと言う考えだった。 侑李 「あ…………あのっ……!」 宏人 「ん……?」 侑李 「本当に………宏人さんは大丈夫なんですか……?」 宏人 「…………!」 しかし、俺はところどころで何度も気づかされるんだ。 "黒地侑李"と言う女の子は、若葉に負けないくらい芯が強く他人を思いやれる人間だと言う事を。 宏人 「……ああ。」 侑李 「私にできる事ならなんでもします……。だから……無理しないで下さいね………?」 宏人 「………うん、ありがとう。」 何よりも俺が寄りかかりたくなる言葉だった。 でも、これ以上情けない姿を見せて周りに救われるわけにはいかない。 病気と闘い抜いて若葉を幸せにする、そのためには他でもない俺本人がしっかりする他ないのだ。そう心に決めていた俺は精一杯の笑顔を作ってそう言い残し、見栄の防壁を硬く張った。 侑李 「宏人さん………………。」 それから侑李ちゃんはしばらく俺を眺めていたが、俺はそんな彼女を振り切るように歩を進めて少し休憩時間終わりよりも早く現場へと戻った。 やがて午後の業務が始まり、周りの心配の目を他所に俺はとにかく仕事に打ち込んだ。 もう情けない姿は誰にも見せはしない、その一心で……ただひたすらに。 宏人 「じゃ、お疲れ様です。」 栗山 「ああ、お疲れ。」 横下 「おー、お疲れさん。」 そうしている内に定時を迎え、俺は真っ先に帰り支度と挨拶を済ませた。 栗山さんと横下さんはなるだけいつもと変わらない様子で俺に返事をくれたが、この係で誰よりも心配性そうな侑李ちゃんだけはそうはいかなかった様だ。 宏人 「侑李ちゃんも、お疲れ様。」 侑李 「は……はいっ……お疲れ様でした…………あのっ………!」 宏人 「……………ん?」 侑李 「え……えと………その…………。」 口籠もりながら前で組んだ指を忙しなく動かすその様子に、とにかく彼女が俺に気を遣ってくれている事はよく伝わった。 でも、今の俺にはそれは必要ないんだ。 とっくに状況を受け入れて、覚悟は決まっている今の俺には────── 宏人 「ゴメン、今日はちょっと急ぐからまた今度に。」 侑李 「…………はい。」 内心彼女には感謝しかない。 だが、それを伝えたところで会話の順序が混濁するだけである。 それに何より今は真っ直ぐ帰りたい、帰らなければならない。 こうしている間にも若葉の病状は悪い方へと進行し、何か日常に差し支えているかも知れないからだ。俺が側にいなければならない、あいつの側にいられるのは俺だけだ。 そんな思いを胸に秘め、俺はやや無愛想とも取れる言葉を言い残して職場を後にした。 帰り道、やたらにハンドルを握る手が汗ばんだ。 赤信号が長く感じ、曲がり角と流れるラジオが煩わしく思えた。 自然と右足はペダルを強く踏み込み、乾く喉を潤す飲み物を買っていない事を後になって気づいた。 今はただ会いたい、若葉に会いたい。 会って今日の出来事を聞いて、何を覚え何を忘れたのかを確認したい、しなければならない。 余裕のない俺とは裏腹に太陽は空に留まる時間を伸ばし、それが傾くよりも先に俺はアパートの駐車場にやや傾いて車を停車させて部屋に帰った。 宏人 「た……ただいま………!」 若葉 「あらまお帰り、今日はちょっと早かったね。」 宏人 「早く顔が見たかったんだよ……。」 若葉 「もーおませさん、そんな事言っても夜ご飯しか出てこないよ?」 宏人 「……そうだよな。」 若葉 「さあさ!早く着替えて手を洗って来なさい、準備はしとくから。」 宏人 「ああ………そうするよ。」 何も変わらないいつもの笑顔、軽い口ぶり、少し薄めの味噌汁の味。 それが俺にとっての当たり前であり、何よりの幸せだ。 でも、若葉がアルツハイマーな以上、これを失いかける時は必ずやってくる。 その時に凛とした姿勢で立ち向かい、この大切な時間を失わずにいられるために。 俺は何を犠牲にしても日々に争い続ける、そして今日がその第一歩だ。 もう何も迷わない、もう何も狼狽えない。 朝から変わらないそんな思いを心に留め、俺は若葉の作ってくれた夕飯をまた一口噛み締めた。 不思議な事に、その日の夕食はあまり味がしない気がした。

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#26 味

夏を生きる皆様へ

西に傾く太陽は街を照らす時間を次第に減らしていく。 もうすぐすれば夕方は涼しくなり、対して日中は"残暑残暑"と忌み嫌われる様になるのだろう。 夏の隣人たちが躍動する西宮の舞台、今年もその終わりが近づいてきた。 肌に塗りたくったサンオイルはすっかり染み込み、僕の身体を焦げ茶色に染めていく。 あ〜………夏が終わる…………。 毎年の事なのに、どうしてこんなに切なくなるのだろう。 「な〜〜に黄昏てんの?」 「ほら!挨拶役がそんなんじゃ締まらないだろ!?」 後ろから聞こえる仲間たちの声、みんな集まって持ち寄り浜辺でBBQ。 香ばしい炭火の匂いと脂の焼ける音、さざ波に包まれるよりも心地よい体感がそこにある。 「悪い悪い!よ〜〜しそれでは………。」 宿題に遊びにスポーツに暴れまくった学生様へ。 右へ左へお盆を忙しなく費やした大人様へ。 激しい台風に立ち向かった多くの皆様へ。 休み明けを頑張ったサラリーマン様やOL様へ。 今日も変わらず家事をこなした専業主婦様へ。 夏を謳歌した日本中の皆様へ!!!! とれない疲れにGood bye! 我らを攻める熱線にサヨナラ! 今年の夏の思い出には再見! まだまだ残っている課題にはadiós! 「色々あるけどとりあえず……………!」 乾杯〜〜〜〜〜!!!!!!!

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夏を生きる皆様へ

祈り〜涙の軌道 Mr.Children

気づけないでいてゴメンね。 年々増し続ける寒さの中で、君の手はこんなに悴んでいたんだね。 それを僕が握って、僕の体温が少しずつ君に移ると同時に君が笑うと、このまま時間が止まったらなんて思う。 だけどそれと同じだけ、自分に嫌気が差す。 横にいる君の手が冷えていた事に気づけないのもそう、君とのこれからについて夢見たり憂いたりと、感情の行き先を頭の中で行ったり来たりさせているのもそう。 思っている分だけの行動ができない自分の不甲斐なさに、いつも嫌気を感じているんだ。 「なんか落ち込んでる?」 「………………いいや?」 「ほんとに……………?」 こちらを覗き込む君の目。 きっとそんな僕の思いを察知して、今の言葉の中の嘘を探しているんだね。 「馬鹿だな、そんなに見ても何も出て来やしないよ。」 僕は笑ってそう答える。 本当はちゃんと伝えたい、なるだけ手を加えていない僕の本心を。 でも、臆病な僕にはそれができないから、いつもこうして常套手段を使ってその場を切り抜けるんだ。 いつの間にか、こうして本心を隠す事が多くなった。 君を思いからこそ、君を悲しませたくないからこそ、こうして心にカーテンを掛ける。 見慣れた場所はいつの間にか違う顔を見せてるように思えて、「純粋」とか「素直」って言葉が嫌いになって、それって大人になった僕に邪気があるからなんだよね。 忘れたい事を掘り起こして、みんなで語り合って似たり寄ったりだなって繋がって、そうやって過ごしている毎日だ。 「手、冷たいでしょ?」 「うん、だからこうしてるんだよ。」 「…………そっか、ありがと。」 でも、その中で……その中だからこそ、失くしたくないものが増えたんだ。 棚にあるお揃いの皿、旅行先で買ったお土産、2人で変顔をして撮った写真。 …………………そして君。 これまでも、そしてこれからも君は笑って泣いて心を揺らす。 その度光が灯って輝いて、僕はそれが消えないように見守りたいと思う。 結局これが僕の想いの全て、色んな感情の終着点。 だから君の心の軌道に寄り添って、できるならささやかな色を添えたいと思う。 「………?」 「あ、ゴメンゴメンっ!痛かった!?」 「ううん、いつもよりあったかかったよ。」 気づけば強く握っていた君の手が、もういいよって少し体温を返してくれた。 その時決めたんだ、今の自分とは別れるんだって。 夢に現実的じゃないって泥を塗りつけていた弱い自分を抜け出すんだって。 例え誰かに夢想家だって揶揄されたとしても、この決意は絶対に揺るがない。 少し前までの自分へ。 さようなら、さようなら、さようなら。 「春になったらさ、一緒に行きたいところあるんだ。」 「どんなとこ?」 「綺麗な川のあるところ、そこで弁当食べてのんびりしたい。」 「したい!私もしたい!ピクニック!!」 綺麗な川に笹舟を浮かべて、その軌道を眺めよう。 僕ら溢れた悲しみや寂しさと、そして小さな祈りを乗せたその笹舟の軌道を……。 Mr.Children 「祈り〜涙の軌道(2012年)」 作詞:桜井和寿 作曲:桜井和寿 映画「僕等がいた 前篇」主題歌

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祈り〜涙の軌道 Mr.Children

#25 1つの家族

若葉 「それからもう一つ、3人と……お父さんに伝えたい事があったの。私たち、前に日帰りで旅行に行ってたでしょ?その時宏人がね……結婚しようって言ってくれたんだっ!」 若葉は満開の笑顔を咲かせ、この世でいちばん幸せそうな様子でそう話した。 若葉 「嬉しかった……ほんとに嬉しかったの!病気が分かる前の事だったけどね、私その言葉があったから頑張れるの!!だから私は不幸なんかじゃない、私は今幸せなんだよ!!」 宏人 「っ………ふ…………うっ………!」 涙がとめどなく溢れ、俺は両手で顔を塞がずにはいられなかった。 ただこれは悔しさの涙じゃない、決意の涙だった。 こんなに大切な存在を…これからも続くはずの幸せな日々を、病気なんかに奪われてたまるかと言う、弱気なのはこの瞬間を最後にしてそいつに立ち向かうと言う、そんな決意の涙だった。 葉子 「っ…………………!」 若葉 「……お母さん、そんな顔しないで?私はちゃんと生きてるよ。ちゃんと幸せに生きてる、お母さんを1人になんてしないから。」 葉子 「うぅ……う……わか………ばぁぁあ……っ………!」 おばさんも堰を切った様に泣き出し、それを見ていた俺の両親も目を赤くしてその光景を見つめていた。 きっとみんなおじさんを亡くした時の事を思い出し、絶望的な不安に駆られていたのだろう。 それを払拭したのは、そしてこうしてみんなを元気づけるのは他でもなく、いつも若葉だ。 若葉が"幸せ"と言う以上、俺たちはいつまでも暗い顔をするわけにはいかない。 この日、俺だけじゃなく俺たち家族みんなが病気に立ち向かう勇気を得たのだった。 貴丈 「宏人。」 宏人 「………親父。」 少し時間が経ち、俺は玄関先にて物思いに耽っていると親父に声をかけられた。 俺の親父は普段はおちゃらけた性格で飲み屋を転々としている様な呑兵衛だが、この日は目の色を少し変え、いつもより落ち着いた物言いで俺と会話を交わした。 貴丈 「お前は大丈夫なのか?」 宏人 「大丈夫……って言うより、まだ何も飲み込めてねえよ…。…ただ………………。」 貴丈 「……ただ?」 本音を言えるとしたら、この瞬間、この人にしかないだろう。 宏人 「……怖い………怖いんだよ。おじさんの時みたいに……急に大事な人が…若葉がいなくなる事を考えるのが……。」 貴丈 「………………。」 宏人 「分かってる……俺がしっかりしなきゃいけないって……。分かってる…………そんな事ちゃんと分かってるんだよ………。」 でも俺は、と言う言葉は使いたくなかった。 どれだけ言い訳をしてもこの現実には通用しないと、そうこの数日で突きつけられ続けているから。当の本人である若葉は言い訳など1つもしていないから。 そうしてその言葉を避けてより一層文脈がめちゃくちゃになってしまう、しかしこの動揺こそ、今の俺の心中を何よりもはっきりと表していた。 貴丈 「……和ちゃんは、俺にとって最高の飲み相手だったよ。」 宏人 「…………え。」 そうして頭を抱える俺に、親父は遠くを眺めながら懐かしむ様に語りかけた。 貴丈 「同じ街で同じ時期に子供を持って、同じ様な悩みを抱えてたからな。色々共感もできたし、色んな事をアドバイスし合ったりもした。お前ら2人の成長も……そうやって飲んで話しながら見て来たんだよ。」 宏人 「………………。」 貴丈 「和ちゃんが死んで…それができなくなって、色んな店を歩いて飲み相手を探したよ。……でもな、結局和ちゃんみたいに心から何でも話せる相手は見つからなかったよ。」 宏人 「親父…………。」 親父があちこち飲み屋を放浪する様になったのはおじさんが亡くなってからだった。 今になって思えば、それは親友を亡くした親父が寂しさを紛らわすためにしていた行動だったのだろう。それだけ親父とおじさんの関係が深いのは誰よりも知っていたし、だからこそ、親父は先日俺と交わした酒をあんなに嬉しそうに飲み干していたのだなと、そう思った。 貴丈 「宏人、前にも言ったが、お前とワカちゃんは俺たち4人の子供だ。それはお前らが結婚しようが、ワカちゃんが病気だろうが変わる事はない。だからお前らは、俺らの前では何も隠すな。」 宏人 「…………!」 貴丈 「辛かったら辛いと言えばいい、泣きたくなったら泣けばいい。甘えなんかじゃない、それは俺たち家族のルールだからな。いつまでもチビの頃のまま、俺たち3人の親を目一杯頼ればいい。」 宏人 「………………………………!!」 貴丈 「ただ1つだけ、ここで決心しろ。お前は、これからはワカちゃんの前で情けない姿を見せるな。結婚したいって思うほどあの子が大切なら、精一杯見栄を張って立ち向かえ。あの子に1番近いお前にしかできない、今何よりも大切な事だ。」 情けない、若葉の病気が分かってから、俺がずっと感じ続けていた気持ちだ。 戸惑って焦って、決心する事すらできずに若葉の振る舞いに救われ続け、支えるはずの若葉に支えられ続けていたからだ。 そんな俺に向けられた、親として、そして1人の大人の男としての親父の言葉だった。 それは俺たち2人のために数え切れない苦労や覚悟を背負ってきた親父と、そんな親父に言葉を託したおじさんからの叱咤と激励の様に思えて、俺はやっとその決心を言葉に表す事ができた。 宏人 「…………約束するよ、若葉と一緒に立ち向かうって………!」 親父は少し片眉を上げ、俺の背中を強めに2度叩いた。 その手に背筋を直され、俺はやっと俯いていた顔を上げて前を見る事ができたのだった。 その後、少しして俺たちは実家を後にした。 3人は俺たちを玄関先まで見送りに出て来てくれて、俺はやっと整った色んな思いを感謝の言葉に込めて礼を伝えた。 俺の両親はいつもの如く軽いノリで明るい空気を作りながら送り出してくれて、おばさんはまだ現実を受け止め切れていない表情をしていたが、ひと言「ありがとうね。」と伝えてくれた。 宏人 「若葉。」 若葉 「んー?」 宏人 「……………。」 若葉 「……………!」 帰り道、人気のなくなった路地で俺は何も言わずに若葉を抱きしめた。 これはあの日俺のこの行為を阻んだ隔たりを取っ払い、心から若葉と闘う事を決めた意思表示だ。それが分かっているからこそ、若葉は少し驚いてはいたが黙って俺の背中に手を回し、抱きしめ返してくれたんだろう。 俺たちの幸せな日々を…これからの未来を、病気なんかに奪われてたまるもんか。 現実を憎んでも仕方はないが、俺は精一杯の反骨精神を夜空に向けてその温もりを胸に留めた。 こうして本格的に俺たちの、俺たち1つの家族の闘病生活が始まった。

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#25 1つの家族

アパート

……………………いる。 私は決して姿を見たわけでもないし、何か物音が立った訳でもない。 でも、確かに感じるんだ。 仕事から帰りまだ真っ暗の部屋、鍵は確かに掛けたはずなのに。 ……………………この部屋には何かがいる。 恐る恐る、一歩一歩。 それに気づかれないように、何かにぶつからないように。 靴下の摩擦だけを頼りに……私は部屋の中へと足を進める。 駅近セパレートのアパートの角部屋、数ヶ月前に高校を卒業した私はこの春からここに住んでいる。 かなりの良物件のはずなのに、何故だかここは格安で売れ残っていた。 新卒の私に経済的な余裕などあるはずもなく、私は迷わず初の一人暮らしの部屋をここに決めた。 はじめはただのラッキーだと思っていた。 でも、ここに住む日数が経つにつれて…それが真反対だと気付かされたのだ。 だって夜になると包まれるから。 上手くは説明できないけれど、宵闇よりも濃厚なその真っ黒の雰囲気に。 光すら塗りつぶしてしまいそうなほどの重すぎるその空気に。 そして今日は一段とそれが深かった。 そんな中に踏み入ってしまった私はとある事を思い出していた。 それはこの部屋に決める前、とあるサイトでこの物件を見つけた時のこと。 レビューの件数はゼロだったのに、なぜかこんなコメントだけは残されていた。 「みつけないで。」 今日まで穴場のこの物件へ興味を引くために大家さんがふざけたのだと思っていた。 それを偶然発見した私はその罠にまんまと引っかかったのだと思っていた。 でも………でもそれは違ったのだと、今になって気付いた。 あの言葉を残したのは大家さんではない、きっとこいつなんだ。 だからと言って、引くわけにはいかない。 年季の入ったボロの部屋だけど、それでもここは私が初めて手に入れた城なのだ。 お金を払って、部屋を飾り付けて、毎日ここで暮らすのは私なんだ。 だから会って伝えるんだ。 「ここから出て行って。」と伝えるんだ。 ひた………ひた………ずず…………。 自分の足音が恐ろしい、汗が吹き出して止まらない。 覚悟を決めろ…………私の城を取り返すんだ…………。 心に誓った私は手を伸ばし、より一層ドス黒さを感じる2段の押し入れの襖に指を掛けた。 そして両目を見開き、精一杯の力を込めてその隔たりをずらし退けた。 「………………………あ。」 そこあったのは小さな衣装ケースと片し忘れの段ボール。 確かに身に覚えのある物が置かれていて、他には何も異変はなかった。 何ら変わりのない光景に胸の鼓動は緩まり、同時に強張っていた全身の力が抜けて腰が砕けた。 そして私は情けなく膝を折り、その場に崩れ落ちた。 そいつが下段にいるとも思わずに。 そいつと目線を合わせてしまうとも知らずに。 見つけないでって言ったよね…………? 言ったよねええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ

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アパート

Dayoff of Kiss

とある休日、家にはいつも通りの音が響きた渡る。 俺たちの間に生まれてくれた小さな生命の大きな泣き声だ。 「でぇやああああああ!!!!」 「あーごめんごめんって!でもこれはな…………。」 「わあおっきな声、どうしたの?」 それを必死に宥める俺だが、いつも結局こうして嫁の力を借りずには収められない。 新米パパとは辛いものである。 「ちょっと目を離したら机にあった刺身を食べようとしたんだよ……。それもわさびとくっついてたやつ……。」 「あらあら、それはパパがお仕事頑張ったからお休みに食べるおつまみだよ?それにあなたには生モノはまーだちょっと早いかな。」 「でぇやあああああああ!!!びぃいやああああああ!!!」 「…………………。」 ウチの娘はとにかくよく食べよく眠る。 それに他の家の話を聞いているとぐずる事も少ないお利口さんだが、こうして泣き始めるとなかなか時間がかかってしまうのだ。 そして泣き出すきっかけはほとんど、こうして大好きな食べる事を取り上げた時だ。 「よ〜しそんなに何か食べたいなら…………。」 そんな娘に俺が必死に編み出した作戦、それは自分の唇を差し上げる事だった。 かなり恥ずかしいし親バカな作戦だが、口に何かが触れるなら少しは落ち着くだろう。 ………何より、娘にキスする口実を作るためだけど。 「む〜〜〜〜!」 「あらあら、じゃあママのもっ。」 その思いは嫁も同じ、どこか嫌がる素振りを見せた娘の唇をサラッと奪ってみせた。 俺の時はバタついたのに、嫁の唇に触れた途端に娘はご機嫌そうにがっついていた。 それを見た俺はやや凹み、スキンケアをする事と入念に髭を剃る事を決意した。 「ぷはあっ!死んじゃう死んじゃう!」 「はは……、ママのにはやたらがっつくなぁ。」 「きゃっきゃっ!」 「も〜ママのお口無くなっちゃうでしょ!」 凹んでいる暇などない、この幸せな時間を少しでも堪能しなくては! そう心に誓った俺が閉じていた目を開けると、すぐ近くには嫁の顔があった。 そしてニコリと一つ微笑んで、今度は円滑に俺の唇を盗んで見せた。 「パパの貰っとくね、私のが無くなっちゃわないよーに。」 「コラコラ………。」 「ダメ?」 「………いや、じゃあ俺のが無くならないよーに、俺はママのを……。」 「?」 そこからは娘を混ぜてのお祭り騒ぎ。 なんて幸せなデイオフ………今日はなんて素晴らしいキスの日だろう。 仕事頑張ってよかったああああ!!!!

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Dayoff of Kiss

#24 伝えたい事

若年性アルツハイマー型認知症。 それは日常での物忘れから始まり、次第に大切な記憶までも失ってしまう病だ。 発症者が高齢者を中心とする認知症が若者に見られるケースであり、進行すると本人は身体的、精神的に追い込まれて日常生活を生きる力が失われる。 そして合併症や個人差によって様々だが、進行を遅らせる以外の治療法がない現在では、根本的に完治する事はない病とされている。 その病気を知れば知るほど、俺は目の前が真っ暗になった。 ずっと隣で過ごして来た大好きな若葉が、誰よりも思い出を大切にするあの若葉がこんな病気になってしまうなんて思っても見なかったからだ。 幸せなひと時に浸って忘れていた「世界は残酷だ。」と言う感情を、おじさんの死以来俺は思い出した。 若葉 「ただいま。」 貴丈 「ワカちゃんお帰り!久しぶりだな!」 値架 「ほんとほんと!さ、上がって!」 葉子 「ヒロちゃんもお帰りなさい〜!」 宏人 「…………うん、ただいま。」 そしてその事実を、俺たちに起こった現実を、伝えなければならない人たちがいる。 そのために重い腰を何とか動かし、俺たちは週末に実家へと帰省した。 住んでいた時よりも少し狭く感じるその家には両親、そしておばさんもいて、昔から変わらないその光景だからこそ、俺の心は痛いくらいに締め付けられた。 値架 「で、話って?」 貴丈 「おいおい急かすなって、大切な話なんだよ。」 宏人 「あ……ああ……、話すよ。」 そわそわした様子で目を輝かす両親、恐らく結婚の報告だとでも思っているのだろう。 本当はそんな希望を持てる様な話をするために帰って来たかった、そのために家を出て同棲を始めたはずだった。 俺たちがそうしてもらった分、今度は若葉と2人で幸せを返していくと…そう決めたはずだった。 宏人 「…………………。」 葉子 「ヒロちゃん……?」 宏人 「っ………………。」 若葉 「…………………。」 …………こんな話をするはずじゃなかったんだ。 若葉 「………あのね。私、病気なの。」 宏人 「……………!」 沈黙を切り裂き、そう声を上げたのは若葉だった。 貴丈 「……………え。」 葉子 「びょう………き………?」 値架 「病院って……………!?」 3人の反応は病院での俺と同じ、鳩が豆鉄砲を食った様なものだった。 こんなに元気で普段通りに見える若葉からそんな事を伝えられたんだ、当然だろう。 前置きも無しにこんな突飛推しもない様な事を伝えられて、受け止められるはずないだろう。 だからこそ、俺が伝えなくちゃいけなかった。 いちばん辛いのは若葉本人、それは間違いないのだから。 若葉 「…うん、若年性アルツハイマー病。知ってるかもだけど、若い人がなる認知症の1つなの。」 葉子 「……………………!」 値架 「ワカちゃんが……認知症………?」 貴丈 「そんな……いつから……?」 若葉 「まだ初期段階で、私たちも最近知ったんだよね。」 若葉がそう振ってくれたおかげで、俺はようやく口を開く事ができた。 宏人 「………最近、若葉が頭を怪我して病院に行ったんだ。そしたら違う専門の診察を受けろって言われて……そこで……。」 値架 「何か……何か一緒に住んでて異変はあったの?」 宏人 「……俺も気づかなかったんだ。……ただ何か普段とは違うとは感じてて……その時に病院に行ってればよかったって………。」 後悔してももう遅い、それは重々承知の上だ。 だけどこうしていないと、明確に暗くなる産まれ育ったこの場所の雰囲気に押しつぶされてしまいそうな気がした。 俺はいつもそうなんだ。 病気が分かった時だってそう、若葉の異変を感じた時もそう、結婚を約束した時だって、いつも逃げてばかりのダメな奴なんだと、この時ほどそう思った瞬間はなかった。 若葉 「ね、宏人はちゃんと見てくれてたんだよ。」 宏人 「………………!」 若葉 「進行はゆっくりだしいつの間にかなってる病気なのに、宏人はこうやって私の変化に気づいてくれてたんだよ。私はそれが分かったから、病気でも幸せだと思ったよ。」 宏人 「若葉っ……………!」 そんな俺を救ってくれるのは、いつも若葉なんだと思い出した。 俺がどれだけ自分を否定しても、蔑んでも、見放しても。 暗闇へ歩き出そうとする俺を抱き寄せて連れ戻し、それも俺だよって肯定してくれるのは、他でもない若葉でしかないのだと、そう思い出した。 若葉 「それからもう一つ、3人と……お父さんに伝えたい事があったの。」 そしてもう一つ、本来は何よりも先に伝えたい事を口にするのも…それもいつも若葉なんだ。 俺たちの間に起こった、もう一つの変化を………。

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#24 伝えたい事

#23 隔たり

瞬間、時が止まった。 川のせせらぎの音も、蝉の鳴き声も、そして荒ぶっていた俺の鼓動も。 将来について真剣に考え、そしてそのための努力を重ねていたはずの幸せな日々は、この瞬間に全て奪い去られた。 宏人 「………アルツ………ハイマー…?」 先生 「……はい。先ほど草野さんの脳のレントゲンを撮らせていただきましたが、一般的な方のものと比較すると明らかな萎縮が見られます。加えて────」 宏人 「ちょっと!!…………ちょっと待って下さいよ……!」 当然、俺はそんな現実を突きつけられて受け入れられるはずがない。 だって……だって俺の知る若葉は、しっかり者で決断が早くて……そして、俺の事を誰よりも覚えてくれているやつだったから。 俺はアルツハイマーに詳しいわけではないし、当然医学に精通しているわけもない。 それでも、若葉がこの病気とは程遠い人間だと言う事くらいは分かるのだ。 宏人 「若葉がアルツハイマーって………そんなわけないですよ………。頭を怪我しただけで……日常生活だって変わりなく過ごしてるんですよ……?症状なんて何も……………それに………それに若葉はっ…………!」 若葉 「宏人………………………。」 自分でも何を言ってるのか分からなかった。 とにかく今を否定したくて、この現実から目を背けたくて、とにかく口を動かそうとした。 しかし、知識も達者な口もない俺はそれも長くは続けられなかった。 やがて言葉に詰まり間が空いた時、先生は俺の目をしっかりと見つめて口を開いた。 先生 「……先ほどお待ち頂いていた時に行ったのは記憶力と判断力の検査です。私はその結果とレントゲンを見てこの診断をお伝えしました。脳の萎縮、記憶力と判断力の著しい低下は…アルツハイマーの典型的な初期症状です。」 宏人 「……………!」 若葉 「……………。」 先生 「私もこの仕事を続けている以上、当人やその周りの方々のお気持ちは少し理解しているつもりです。だから今後の話をするより先に、お伝えしたい事があります。この病気はあなたの様な身近な方の支えなくしては向き合えない。……突然の事でお辛いでしょうが、まずはそれを理解して下さい。」 言い訳、逃げ道、否定。 そんな色んな言葉を思い浮かべたが、そのひと言にはどんなものも通用しなかった。 今起きている事は紛れもない真実なのだと、俺自身が直感でそう理解してしまったからだ。 とっ散らかっていた脳内の一部がその言葉で整理されたからこそ、俺にはもうどうする事もできなくなってしまったのだ。 それからの事はほとんど覚えていない。 真実の大枠こそ理解し得ど、それ以上の事は今の俺には膨大すぎる情報量だったのだ。 拒否反応とも言える本能が取る行動と若葉のパートナーとしての理性の思いを葛藤させ、空返事で先生の話す病気の説明などを聞いているうち、気づけばその日受ける診察の全てが終わってしまっていた。 若葉 「宏人。」 宏人 「………………!」 若葉 「行こっか。」 俺は情けない事に若葉に連れられる形で病院を出た。 外は太陽と月の混じった朱色がかった空になっていて、遠くでは小さい頃からよく聞いてきた名前も分からない鳥の鳴き声が聞こえてきた。 何ら変わりのないいつもの街の風景、それでも俺たちは変わらずにはいられない事を思うと、何だかとても心のアザが滲み痛んだ。 気づけば病院を出てしばらく車を走らせており、俺たちの家の方向へと向かう曲がり角でウインカーを出したその時、若葉は思い出した様に口を開いた。 若葉 「あ、まだ帰らないでね。」 宏人 「え…………。」 若葉 「今日はカフェ奢ってくれる約束でしょ?忘れたとは言わせないからね。」 宏人 「あ………ああ、そっか……そうだったな……。」 正直そんな気分ではなかったが、約束は約束だ。 俺は車を自宅から遠ざけ、行った事のないカフェへと向かわせた。 後になって思えば、この時も若葉は俺との何気ない時間をしっかりと覚えてくれていたのだなと思うが、俺はそんな大切な事すら気づけないほどにまだ動揺していた。 それからカフェに着き、席に座って注文をしている間も若葉は普段と変わりなく、対する俺だけがあからさまに元気を失っている状況が続いた。 そして居ても立っても居られず、俺はコーヒーが運ばれてきた少し後に恐る恐る若葉に向けて声を発した。 宏人 「………大丈夫か?」 若葉 「んー?」 宏人 「……急にこんな事になって………若葉は大丈夫なのか……?」 思い切っては見たものの、やはり上手く言葉が出せなかった。 美味そうに約束のパフェを頬張るその姿は本当にいつも通りで、だからこそ俺には若葉が強がっている様にしか見えなかった。 何かが変わってしまった時、最も残酷なのは世界がいつも通り回っている事実だと言う事をおじさんを亡くした時に知っているからこそ、若葉もそれを思いながら必死に順応しようとしているのではないかと思えたからだ。 若葉 「大丈夫……って言うか、実感ないのが本音かな。」 宏人 「え………。」 若葉 「だってほら、先生の言ってた事は私たちには詳しく分からない事だし。それに宏人が言ってたみたいに、日常生活を普通に過ごしてるのも事実だしね。急に病気だって言われても、私全然変わってませんよー?って感じ。」 軽い口振り、微笑む時の流し目、八の字になる眉。 みんな俺の良く知る若葉でしかなかった。 それでも、俺にはこの時の若葉の心情を読み取る事ができなかった。 ただ1つ…たった1つのそれだけは、次に若葉から発された言葉によって理解できた。 若葉 「……それに、今の私には宏人がいてくれる。病気になっても記憶が無くなっても、それが変わるわけじゃない。どんな状況だとしても…私はそれだけで十分だよ?」 宏人 「若葉…………。」 若葉は今も、今まで以上に俺を必要としている。 辛くないはずがないこの状況で、俺を唯一の光と思ってくれているんだ。 先生の言った通り、俺もこの現状を受け入れ、理解し、そして支えなければならない。 俺も……いや、俺こそが覚悟を決めなければならないんだ。 若葉 「これからも……側にいてくれる?」 宏人 「っ………………。」 分かってる、分かってるんだ。 宏人 「……ああ、当たり前だろ。」 ああ……若葉が愛おしくて仕方がない。 こんなにも俺を必要としてくれて、大切に思ってくれる存在など他にない。 傷ついた若葉を抱きしめたい。大丈夫だよって言ってやりたい。 だけど、この時の俺はそれができなかった。 カフェに馴染んだお洒落なテーブルが隔たったからではない。 俺にはその器量が……立ち向かうと一歩踏み出す勇気がなかった。 若葉を幸せにすると誓ったはずなのに、俺には人生を賭ける覚悟が決められなかったんだ。 その臆病さが視界を歪めせて遮り、分厚い隔たりとなったんだ。 若葉 「………ありがとう。」 宏人 「…………………。」 俺は小さい頃から何も変わらない、臆病なただの弱虫だ。 大切な時に行動できず好機を失ってから後悔ばかりする、それが俺なんだ。 そんな俺の心を煽るかの様に、空では暗闇が青色を飲み込み、真っ黒に侵食しようとしていた。

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#23 隔たり

#22 止水

俺にとって、若葉は幼馴染であり、彼女であり、日々を生きる理由でもある。 若葉が俺に与えてくれたたくさんのものを、今度はパートナーとして返していきたい。 そしてその先に、俺たちだけが創り上げられる等身大の幸せがあると信じている。 何があっても俺が若葉を、若葉と過ごす日々を守ると、そう決めているんだ。 宏人 「さ、行くぞ。」 若葉 「う〜………やだなぁ………。」 宏人 「何のために仕事休んだんだよ、付いてるから大丈夫だって。」 若葉 「うん………。」 昨日の侑李ちゃんに背中を押され、俺は若葉を連れて病院に行く事にした。 栗山さんと横下さんには週末にと言ったが、 栗山 『明日行け。有給はこう言う時に使うもんだろ。』 横下 『そーそー!それにウチには優秀な新人がいるから、お前なんかいなくても平気平気!』 と返され、病院嫌いの若葉を説得して翌日の今日に行く事となった。 2人は決して優しく言ってくれたわけではないが、きっと後ろめたさのある俺を無理矢理にでも送り出すための言葉だろう。そんな2人の下でだからこそ、俺はこうしてやって来れたんだ。 宏人 「帰りカフェで何か奢ってやるからさ、ほら行くぞ。」 若葉 「ほんと!?なら行く行くー!!」 宏人 「現金なやつ………。」 そうやってごねる若葉の手を引いて、俺は車を走らせ病院へと向かった。 やっぱりどこか心配ではあったが本人は至って元気そうだし、これは念の為の検査である。 互いに安心するため、何もない事を確認するためだと思っていた。 …………そう、そう思ってたんだ。 看護師「草野さーん、草野若葉さーんっ。」 宏人 「はーい、ほら。」 若葉 「うん…………。」 受付を済ませ待合室で名前が呼ばれるのを待っている時も、若葉は終始落ち着かない様子だった。と言うのも、若葉はおじさんを亡くしたのがこの街唯一のこの大きな病院であり、その現場として少しトラウマになっているのだ。 その思いは俺も一緒であまり長居したくない場所ではあるし、心は騒めく。 俺はそんな若葉の背中を摩り、落ち着かせてその時を待った。 先生 「どうされました?」 若葉 「一昨日に職場で頭を…………。」 やがて診察が始まり、若葉は暗い表情ながらも事の経緯を丁寧に説明した。 子供っぽい一面もあるが、結局こう言うところを見てると若葉はしっかり者だと思う。 そうして診察は進み、俺らではよくわからない機械にて色んな検査を行った後、その結果が出るのを待つために俺たちは一旦病室を後にした。 やがてまた若葉の名前が呼ばれ俺たちは病室へと戻り椅子に座り直した。 なんて事ない、これで心配も杞憂に終わるだろう、そう思った矢先に先生が口にしたのは意外な言葉だった。 先生 「別の階の違う専門の診察を受けて下さい。」 宏人 「……………え。」 若葉 「………………。」 外科では判断しかねる事態が若葉に起こっている、それを告げられたのだ。 俺は呆気に取られ若葉は黙っていたが、俺たちにはその言葉を聞く以外の選択肢はない。 指定された専門医の待つ階へと移動すると、すぐに若葉の名前が呼ばれた。 若葉 「宏人、ここで待ってて。」 宏人 「え………お……おい若葉っ!」 若葉 「………………。」 若葉はそう呟いた後、自分の名前を呼ぶ俺を笑顔で静止して足早に診察室へと消えていった。 その穏やかな笑顔には見覚えがあり、生前おじさんが俺にいつも贈ってくれていたものそのものだと、後になって気づいた。 そして若葉が診察中に俺を部屋に入れなかった事。その理由は恐らく、若葉は心のどこかで今日の結末がそうなる事を理解していたのだと、最近になってそう話してくれた。 宏人 「若葉っ………!」 若葉 「…………宏人。」 宏人 「………………!」 若葉 「入って……一緒に話、聞こ?」 時が少し経ち、外では7日目を迎えたであろう蝉が何とか鳴き声を上げ、それを諭すかの様に遠くで流れる川のせせらぎが響いている頃だった。 診察室のスライドドアがゆっくりと開き、その向こうの照明に照らされた若葉が俺の名前を呼んだ。付き合いの長い俺が見た事のないほどの憂いの笑顔を浮かべて。 そしてその笑顔が作られる直前の刹那に見えた若葉の蒼白な表情は、俺の心を抉り取るのには十分過ぎるほど哀しいものだった。 でも、俺はまだ何も知らない。 若葉の側に立ち続ける者として、結婚を約束した相手として、俺は若葉に起きているその"何か"を知らなければならない。 それを思い出し、俺は震える膝に無理矢理力を込めて診察室へと足を踏み入れた。 先生 「ご家族の方……ですか?」 宏人 「あ……えと……。」 若葉 「同棲している人で、私の家族みたいな人です。」 宏人 「……………!」 先生 「それはそれは……では、お話ししなければなりませんね。」 宏人 「あの……若葉は大丈夫なんですか……?何の診察を──────」 若葉 「………………宏人。」 先生 「…………単刀直入に申し上げます。」 焦ってそう問い詰めた俺の肩に手を添え、若葉はまた穏やかな笑顔で俺を静止した。 そして先生が口を開いたその瞬間、俺の中で生まれていた違和感と言う名の点たちが繋がり、俺たちに密かに襲い掛かっていた現実を突きつけた。 先生 「草野さんには、若年性アルツハイマー型認知症の症状が見られています。」 宏人 「え………………?」 若葉 「…………………。」 外から聞こえる川のせせらぎが、その時だけ止まった様に思えた。

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#22 止水