でぃぐだぁ
4 件の小説春日の琥珀色
春の暖かい陽気に誘われて、僕は昼を少しすぎた平日の街を足の向くままに歩いていた。ただ平日というだけなのに、何だか新鮮で、いつも見ているはずの風景もどこか違って見えた。 いつの間にか、僕は知らない路地に迷い込んでいた。立ち止まって辺りを見渡すと、ひっそりと建物と建物に挟まるように佇む古びた扉を見つけた。何となく惹かれて近づいてみると、どうやら書房のようだ。僕は磁石に引かれるように扉に手をかけていた。 真っ先に目に入ったのは、四方の壁を埋め尽くす本の数々。古い紙とインクの匂いが鼻腔を撫でる。本棚は天井に届きそうなほど高く、中央の天窓からは春の麗らかな日差しがそれらを照らしていた。 「いらっしゃいませ」 正面からの声に、慌てて目線を下げる。カウンターにいたのは、琥珀色の眼鏡をかけた穏やかな風貌の青年だった。 眼鏡の奥の瞳が、深く、優しく細められる。 「どうぞ、お好きにご覧になってください。何かあれば、僕はここにいますので、いつでも聞いてくださいね」 「あ、ありがとうございます」 短く答えた自分の声が、案外震えていることに気づいて狼狽える。青年はすでに手元の本に視線を落としていたが、ページの端を弄る指先、わずかに傾ける首の角度、先ほど向けられた優しい物腰――その一つ一つが、僕の知っている「誰か」を連想させた。いつどこで見て、それが誰なのか。霧の向こう側を透かすように、どうしても思い出せない。僕はあえて彼から目を逸らし、棚に並んだ本の背表紙を撫でるように眺めていく。けれど、意識の半分はカウンターの向こう側に置き去りにしたままで、題名など頭に入ってこなかった。時折、彼がページをめくる「パラ」という音が宙に浮いて、それも書架の奥深くへと吸い込まれるように消えていく。その消えゆく音に誘われるように、僕の心もまた、深い静寂のどこかに捕らわれてしまったようだった。 どれだけ時間が経っただろうか。ふと顔を上げると、天窓から差し込んでいた柔らかな白光はいつの間にか消え、古びた背表紙たちは燃えるような茜色に染まっていた。 後ろ髪を引かれる思いでカウンターへ向かう。彼に丁寧に挨拶をして外に出る。そこにはいつもの騒がしい日常が流れていた。少し歩いて振り返る。しかし、あの扉は物陰に隠れてしまっていた。拳を軽く握り、まだ微かに残っている扉の重みを確かめながら、鼻腔にこびりついた紙の匂いを道連れに、静かに、しかし軽い足取りで家路を辿る。 明日はもう少し話してみよう。なんて、思いながら。
夢を見る
この世界はモノクロだ。 色がまるでない。 朝、目を覚ませばいつもの天井があって、体を起こせば見慣れた部屋がある。決まり切った手順で身支度を整え仕事へ向かう。それなりに作業をこなして、また同じ部屋へ帰ってくる。その繰り返しだ。まるで歯車のように、規則的に決められた動きを繰り返す。新しく上映された映画も、すれ違う人々も、会社の友人でさえ、私の心を揺らすことはない。 「想定内」 「常識内」 どれもこれも、そこまでだ。 この世は意外性というものが欠けている。否、生活というプログラムにはぎ落とされてしまっているのかもしれない。 だから私は夢を見る。私は夢で毎日違う人間になる。 ある日は冒険家で自由気ままに旅をする。 またある日は学生として机に向かう。 魔法を操り、重力に囚われず空を自由に飛翔する日もある。 その時間だけは、世界に色がある。何万通りもの人生を、夢の中で生きることができるのだ。 けれど夢は永遠ではない。終わりが近づくと、決まって空を飛べなくなる。自由は少しずつ奪われ、重力が私を地上へ引きずり下ろす。そして目が覚める。そこにあるのは色のない朝と歯車が回り出す音だけだ。 「現世は夢 夜の夢こそ まこと」という言葉を聞いたことがある。夢の中にこそ、変わり映えのない世界に埋もれた本当の自分がいるのかもしれない。 だから私は夢を見る。 せめて寝ている間だけでも、自由と高揚を求めて。
呪い
私には恋人がいた。 彼は、いつも優しくて、とてもいい人だった。 歩く速さを自然と合わせてくれる人だった。私が立ち止まれば何も言わずに待ち、視線がショーウィンドウに向かえば、さりげなく「見ていく?」と聞いてくれる。そんな些細な気遣いを、私は愛していた。 彼が一緒に街に行こうと誘ってきた。 私は喜んでその誘いに頷き、特にこれといった目的もなく、ゆったりと二人で時間を過ごした。 賑わった商店街に入る。 何やら前方が騒がしい。人々がざわつき、次第に道の中心が空いていく。 その隙間を縫うように、一人の男が走ってきた。 手には、刃物が握られている。 「危ないっ!」 彼が私を突き飛ばした。 何が起きたのか、すぐには理解できなかった。 転んだ衝撃で視界が揺れ、遅れて振り返る。 そこに、血溜まりの中でうずくまる彼がいた。 何を、しているのだろう? なんでここに、こんなに血が……。 あぁ、そうか。 彼は私を庇って、刺されたのだ。 この出血では、もう助からない。 そう思った瞬間、胸の奥がひどく冷えた。 誰かが叫ぶ声が聞こえる。 鼓膜が、やけに強く震える。 うるさい。 うるさい。 うるさい。 喉が焼けるように痛い。 息が、うまく吸えない。 ――――叫んでいるのは、自分自身だった。 その後のことは、よく覚えていない。 気づけば私は、ふらつく足で自宅に戻っていた。 机の上に、手紙が置かれている。 一輪の、小さな花が添えられていた。 それは、彼の筆跡だった。 『先に謝らせてほしい。本当にごめん。 今日こうなるように、少し前から準備してたんだ。 君に危害が行かないようにしっかり人選したんだよ。 これを読んでるってことは、無事に家に帰って来れたんだね。 よかった。 目の前で僕が死ねば、君の中に僕だけが残ると思ったんだ。 君の人生に僕を刻み込めると思ったんだ。 ありがとう。 君に看取られる僕は、きっと幸せ者だ。』 手紙を置く。 視線が、花に落ちた。 小さくて、淡い青色の花。 彼が好きだと言っていた花だ。 「勿忘草」 花言葉は、「私を忘れないで」。 私にとってこの花は、最後に彼が遺した最上級の呪いだった。
いつか自分の声で
僕は外で声が出せない。家ではあんなに家族と楽しくおしゃべりできるのに。 今日はクラス替えをしてから初めての学校。教室に入り、自分の席を探す。窓際だ。よかった。両隣に人がいるよりずっと気楽で、教室の中で一番好きな席だ。 席に座って一息ついたところで不意に声をかけられる。 「はじめまして。なぁ、名前なんていうの?」 あぁ、まただ。わかっていたことだ。わかっていたことだが、それでもこの時間が一番嫌い。声をかけられると、自分の喉は石になってしまったと勘違いするくらい重く、固くなる。心の中ではその声に答えたくて叫んでいるのに。 緊張と申し訳なさで目が合わせられない。声も、出ない。 「なんだよ。無視かよ。」 ベーっと舌を出して威嚇してから去っていく。 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。 また嫌われてしまった。ほんとは、みんなと仲良くしたいのに。いつも同じところで立ち止まってしまう。 「ねぇねぇ。はじめまして。僕、ユウタっていうの。おとなり同士、よろしくね。」 答えられない。一秒、また一秒と時間が経つにつれて空気が重くなっていくのを感じる。周囲は騒がしいはずなのに、時計の針が動く音が脳に響く。結局、彼の言葉に答えることはできなかった。 それでも彼は、毎日話しかけてくる。 「おはよう。」 「(おはよう!ユウタくん!)」 「今日の給食なんだろうね。」 「(なんだろうね。こんだてひょう一緒に見にいこう!)」 「ねぇ、みてみて。折り紙でカエル作った。君にあげる!」 「(ありがとう!上手だね。すごい!)」 「あ、消しゴム落ちたよ。よいしょ…。はい!」 「(ありがとう)」 言いたいことはたくさんあるのに、それらはすべて僕の喉から出ることはない。彼に言いたかった「ありがとう」がお腹の中に溜まっていく。それでも彼は、何を言っても答えない僕に対して、他の子と何も変わらない態度で接してくれた。 明日。明日こそはちゃんとお礼をしなくちゃ。 「おはよう」 彼がいつも通りの優しい声で挨拶をしてくる。 今だ! 昨日の夜、家で何回もシミュレーションして準備をしてきた。その成果を発揮する時が来た。 机のお道具箱から、算数で使うホワイトボードとボードペンを取り出す。 ありがとう 緊張で手が震えて文字が歪んでしまった。余計な力が入っているせいで書くスピードも遅い。 それでもバッと彼の前に突き出す。 下を向いているせいで彼の表情は見れない。 一拍間があって、彼の今までにないくらい明るい声が鼓膜を震わせる。 「うん!どういたしまして!」 それは、僕と彼との初めての会話だった。 まだ彼の目を見ることはできないし、ホワイトボードじゃないと会話ができないけど。声が出せる日がいつ来るのかわからないけど。いつかちゃんと、彼の顔を見て、自分の声で、自分の意思で、ありがとうと言えたら。彼はどんな反応をしてくれるのだろうか。