本条凛子

3 件の小説
Profile picture

本条凛子

少しずつ小説を書いています。 載せる予定だった小説の草稿がどっか行って泣いた

ほおずき弓

 お盆がはじまる頃、田舎では墓や仏間に飾る花を買うのに躍起になる。乳白色から黄色、の大きな菊から甘い匂いの花やら夏に出回るリンドウ──長持ちするやつはだいたいすぐなくなる。全て、ではないが、いい花は早いもの勝ちと言わんばかりに、遅れてきた客どもを笑うかのように弱々しく、半日も保たない小さな花だけがぽつんと桶に残される。  あれがない、これがない、と負け組の客どもは店員たちを困らせた。  早く来ればいいだけの話じゃあないのかね。無いものは無いのだよ。  律子は無いものねだりの客どもを見た。溜め息ばかりの客と生返事ばかりの店員を視界の端っこに収める。そんな律子の手には、しっかりと瑞々しい花の束が握られている。咲きかけの百合の花が小さな鼻を生意気にもくすぐった。 「へっくしょい」  女らしからぬくしゃみをハンケチで収めた。人前では女らしく、しおしおとしているのだが、今ので鼻水がぴゅっと出てしまったが素知らぬふりをして拭う。  耳が熱っぽいのも知らぬふり。  律子は花選びに勤しむことにした。  白ばかりじゃあ味気ない。否。赤も入れるべきではないだろうか。今度は黄色──いやいや緑が足りない。ん。多いかもしれぬ。  結局は予算額が超えてしまった。大きくなってしまった花の束を抱え、律子はうんうん唸って帰路を急ぐ。 「おかえりなさい、りつねぇさん」  妹の瑠璃子が玄関できゅうりをかじって出迎えた。祭りで配られた見栄えのしないうちわを煽っている。 「ただいま。蘭子姉さんは」 「部屋で読書」  簡単に言ってくれるな。脱力して律子はただ買ってきた花どもを降ろす。玄関いっぱいに広げられた花どもを二人で眺めては、はあ、と吐いた。気付けば外で、求愛ばかりに勤しむ蝉どもの姦しさが耳に入った。 「買いすぎだよ」 「やっぱりそうかしらん」 「そうだよ」  でも、と律子は反する。 「仏さんにも出すんだからいいでしょ」 「でも多いってりつねぇさん」  ふふんと笑い、瑠璃子はきゅうりを食べ終えたその白魚の手で百合の虚勢をはじめた。  咲いたら咲いたで美しい百合だが、律子は好きではない。強い匂いは、鼻をドブにつけたみたいに駄目にする。そして律子を最も鬱々とさせるのは百合のおしべだ。花粉が付く。悔しいことに服に花粉がつけば、なかなか取れやしない。前にお気に入りの服がお蔵入りになってしまった。無様なことに瑠璃子の前で赤子のごとく泣き喚いてしまった。  おしべを取るのは、以来律子ではなく、瑠璃子の役目である。  ぷつん。ぷつん。  淡々とおしべの去勢が終わったあと、飾るために組み立てなくてはいけない。 「母さんはどこに行ったのかしらん」 「仏壇にやるお菓子を買いに行ってる」  どっちでもいいや。瑠璃子は頬杖をついて律子の作業を眺める。あまりにも痛い視線を寄越すのでついきつく見返してしまうのであった。 「瑠璃子。あんた、刺繍はどうしたの。可愛い図案見つけたって嬉しそうだったじゃないの」 「うーん、飽きた」  こいつほど簡単に趣味を捨てる奴があるだろうか。 「前も水彩にはまった、なんて言ってたじゃない」 「それも止めたの」 「なんでまた」 「それよりも早くしようよ。おじいちゃん、寂しがってるよ」  瑠璃子に上手くはぐらかされた。口が達者な妹は持つと苦労する。しかし確かに愛妹の言うとおりである。律子は慌てて残りの花どもを組み立てた。  鏡合わせのようにまとめて、部屋にこもる蘭子を引きずり出した。愚痴愚痴と文句を垂れているが無視だ。行く途中でその言葉もなくなって静かになるのを姉妹は知っている。そして、母の帰りを待つのはもう数年前かららりる姉妹──名前のはじまりがラ行続きのためよく言われた──は諦めている。  母の父──らりる姉妹にとっては祖父になる。祖父は十年も前に他界した。 「墓が近いって便利でいい」  サンダルの瑠璃子がほがらかに言って、墓場の水道からもらってきた水を満遍なくかけた。格安の柔らかいブラシで軽く掃いて汚れを落とす。跳ね返る飛沫に猿みたいな悲鳴を蘭子が零したが、瑠璃子は素知らぬふりだ。  上と下の姉妹のじゃれあいを遠目で見つめる律子は脱力するばかりだ。きっちりと化粧をし、よそ行きの服を着てきたのが馬鹿馬鹿しいったらありゃしない。  りぼんのついたカンカン帽の淵を握って目を隠す。  祖父が死んだ日は二月の寒い夜だったと言うのに、お盆というやつはどうして。ネチネチとした熱苦しい天気に、帰ってこようとするのか。それを定めたのが神であろうと仏であろうと、律子にとっては嫌なことである。  お盆が嫌いなのさ。 「母さんをおいてきてよかったのかしらん」  墓を綺麗に掃除した瑠璃子が律子に問う。返事したのは蘭子だった。 「別にいいんじゃないの。毎年墓参りのたびに泣かれてもねぇ」  祖父が大好きだった母は祖父の話題になるといつも目元を哀しげに濁らせる。それを慰めるのはいつもらりる姉妹のうち律子の仕事だ。  色々思い募ることがあるらしい。しかし、その複雑で迷解たる情など、別個体である、らりる姉妹には空想上の同調しかできない。  花を供え、線香の心地いいしみったれた匂いを灯す。三人並んで手を合わす。先に顔を上げたのは蘭子だった。 「充分でしょ」  つられて瑠璃子が。律子が。  暑いだの怠いだの文句を言う二人のあとを、律子はついていく。  相も変わらず周囲は蝉どもの求愛ばかりだ。暑さでイカれてしまっているんじゃあないのかね。お盆のうんざりさは続く。なによりこの時期になると親戚という枠組みの他人が、思い出したように結婚だの恋人だのキャリアだの、馬鹿馬鹿しいことに盛り上がるのだ。それは何故か律子の方に集中砲火するもので、たまったもんじゃあない。  祖父が生きていたらまた違ったのか。最近まだ存命である母方の祖母はそろそろ認知症の、これまたよくある、名前の思い出せないという症状を出していた。  祖父が死んだ日を、律子は覚えている。あれは真夜中だったはずだ。  入退院を繰り返した祖父がまた病院に緊急搬送されて慌てて病院に駆け込んだ。狼狽える母と父、蘭子と瑠璃子と一緒に病院のよく分からない別室で待機。  ビクビクと怯えている母の姿をぼんやりと見つめながら、律子はゆっくりしていた。  というのも、どうせすぐよくなると思っていたのだ。ただ、時間が進むごとに空気は冷えていった。もとより落ち着きのない蘭子まで見るからに慌て出し、母の顔色は土色になり、父の表情は固くなった。呑気にゲームのことを気にしていた瑠璃子でさえも泣きそうになって。  予感はしていたのだ。  また元気に家へと帰る姿の予想図は何故か、何故か、まるで夢のように色鮮やかすぎたから。  父母のどちらかが言ったことかは思い出せないが、姉妹は先に家に戻ることになった。灰色の境界線にいるような感覚のまま、床につき、次の日がくることを淡々と待つ。これが苦痛だった。  時間が進んでいるのかわからない。時計の針は動いているはずなのに、動いている気が全くしなかった。  苦痛の先に、朝の先に、祖父の訃報の電話が先に来た。  葬式はそれなりに人が来た。社交的で絵画とハーモニカが趣味だった祖父との同好の人たちが多かったのだ。祖父への言葉が粛々と紡がれるなか、律子は涙を流さなかった。  慌てて来た伯父と伯母たち。そして律子以外の家族は全員顔を覆っていたというのに。何故か一滴も漏らさなかった。  泣かないまま、祖父は、真っ白な骨になった。  家に帰ったら回覧板が回って来た。瑠璃子も蘭子も、やる気なさげに律子に押し付けると、麦茶を飲むと言って家のなかに引っ込んでしまう。  そうだろうと思ったの。律子は呆れながらも嫌いにはなれない姉と妹に一杯の麦茶を恵んでもらうことにする。喉を潤しながら回覧板に目を通す。  我が家にはなんの利にも害にもならないおしらせばかりではあったが、律子は回覧板を律儀に読むことになんら疑問を持たなかった。むしろ読み物の一種になっている。 「見たから回してくるね」 「ん」  これからきゅうりでベンツを作るのだ、と瑠璃子が危なげにナイフを持った手を振って見送る。蘭子は言わずもがな、読書の続きとやらに耽り出した。  回覧板に次に目を通すのは、隣の平屋一階の夫婦だ。らりる姉妹と同年代の娘たちがおり、すでに孫がいる。ただ訳ありなのか時々律子たちを娘のように接する。回覧板を持っていくと奥さんが笑顔で出迎えた。 「ありがとうね、律子ちゃん」 「いえ」  律子の視界の端に赤いものが入る。見れば赤い鬼灯が玄関の収納棚の上に飾られている。水につけていないので枝には皺が寄って瑞々しさのかけらもなく、弓なりに曲がっていた。曲線の内側に垂れる真っ赤な灯篭が六つほど。鬼灯へと向けられた律子の視線に奥さんは気づいたようだ。 「ドライにしてもあまり違和感ないでしょ」  同意を求められたが律子は頷くだけで留めた。  渇いて枯れた鬼灯の姿を、家に戻っても頭の隅から振り払えないでいた。あの干からびた弓なりの枝、赤い鬼灯の浮いた血管のような筋。死の間際まで細くなっていった祖父と重なってしまう。  ちょうど帰ってきた母が心配そうに律子を見る。手には瑞々しい鬼灯があった。 「買ったのよ。毎年忘れちゃってたけど、今年は忘れなかったわ」  玄関に横たえられる形で飾られる鬼灯に汗が止まらなかった。まるで祖父そのものを家にあげたみたいで緊張が走る。  律子の緊張など知らぬ母は朗らかに笑って墓参りへと出掛けた。  ぴしゃりと網戸が閉まられ、母が物陰に消えた。律子は唖然と玄関に座りこむ。視線が釘付けになったのはもちろん鬼灯だ。まだまっすぐで弓なりにはなってはいないが、この暑さだ。時間の問題だろう。じわじわと弱っていくように干からびてしまうのだ。  ああ。  嗚呼。  顔を覆い、律子は目眩に酔う。  思うに母は忘れてたのではなく、わざと鬼灯を買ってこなかったのだ。祖父が帰ってこないために。理由はいくらでもあげることはできる。どうせ母のことだ。変なプライドがあって祖父のことで泣いている姿を見せたくなったのだろう。買ってきたということは、母のなかで祖父に対する哀愁が吹っ切れてしまったのだろう。  一方律子は未だ吹っ切れてはいなかった。母が羨ましかった。  お盆など嫌いだ。  暑いし、親戚どもは理不尽だし、そして何より、先祖が帰ってくると言いながら祖父が帰ってきた試しなど確固たるものではないということだ。実際に半透明の祖父が玄関に立っていたら、微笑んでいたら、律子は喜んでお盆を迎え入れた。 「嘘つき」  お盆は故人が帰省するのだと言った、遠い昔の朧げになった誰かを責める。小学校の教員だったかもしれない、理不尽な親戚だったかもしれない。もしかしたらブラウン管テレビに映った赤の他人だったかも。  とにかく律子は後悔ばかりと怒りの混じった思いをどうするか考えあぐねている。  赤い鬼灯が光った気がした。気づけば暗闇で律子は鬼灯を握って立っている。ぼんやりとした光は間違いなく鬼灯の果実から溢れていた。  玄関にいたはずなのに暗闇に突然放り出されても、律子は全く不思議と恐怖を感じずにいた。ただ真っ直ぐに行けばいいのだろうと、信じて進む。根拠はないが、自信だけは十二分にあった。  裸足が硬い暗闇の床を踏みしめる。飽きもせずに暗闇であるが、自然と歩みを止めることはなく、吸い寄せられる。  ついには幻聴か分からぬが、ハーモニカの音がしはじめた。足元を灯していた鬼灯を掲げ、ハーモニカの音源を捜した。  捜して、律子は、ようやく立ち止まった。  明確ではないが朧げに見える。自分よりも細い体、皺だらけの皮膚、曲がった背中。そして漂う独特の油絵の具の香り。星屑をかき集めたような椅子に座ってハーモニカをただ吹いている。 「おじいちゃん」  鬼灯を落として祖父に駆け寄った。間違いない。祖父だ。ぼんやりしているが丸い眼鏡に優しそうな顔は、間違いなく十年前に他界した祖父だった。  あるのは後悔ばかりだ。  その皺だらけの手で頭を撫でられたかった。  褒めると可愛いくらいに笑うから。  もっと話をしておけばよかった。  小さい頃よく変なことを聞いては困らせていた。  ああ、嗚呼、違う。  違うのだ。  一番後悔しているのは。 「もっとそばにいればよかった……!」  あと一歩のところで律子は立ち止まり、祖父を見つめた。  そして気づく。  祖父の姿がぼんやりとして目に映るのは、自身の目から水が出て溢れてしまっているせいだということを。  下瞼に収まりきらなかった涙が頬を伝う。大粒の透明真珠は暗闇の床に落ちて砕けた。 「おじいちゃん」  孫がそばにいるのに祖父はハーモニカを吹く手を止めなかった。 「おじいちゃん、ごめんなさい」  言わなくては。全部。 「おじいちゃん」  呼ぶたびに喉の奥が焼ける。目の奥も熱い。 「大好きだったの、おじいちゃん」  震えていて声はうまく出ない。 「だ、いすき、な、のっ」  きっとこれからもずっと、律子にとって祖父は一部だ。  蹲って律子はみっともなく泣きじゃくった。十年間溜めていたものを吐き出すくらいには泣いたと思う。  鼻水も、涙も、拭うことなくただ泣いた。  少し経って、ハーモニカの音が止む。 「律子ちゃん、おおきくなったね」  軽やかに頭が撫でられる。律子は祖父がこちらを見たのだと知って、顔を上げた。 「あんた、玄関で何泣いてるの」  律子はまた気づけば玄関にいた。座り込んで涙を流しながら、座り込んでいる。 「おじいちゃんは」 「墓参りのことかしらん。行ったわよ」  違う。言いかけて律子は気づく。座り込んでいた足元に鬼灯が落ちていた。母が買ってきた鬼灯だ。  しかし、不思議なことに、その鬼灯は曲がっていた。枯れて、細くなった枝に瑞々しさのなくなった真っ赤な果実。触れば果実はかさかさと乾いた音がした。 「おじいちゃん」  呟いた瞬間、律子の耳をハーモニカの音が通り過ぎる。  お盆だけと言わず、ずっとそばにいるよ。

2
1

葬儀屋

 私は葬儀屋だ。  葬儀会場は一番天国に近い場所にある。  山脈に食い込むように石を積み上げられた高い塔がそれだ。いつから建てられたかわからないけれど、私のひいおじいさんのさらにひいおじいさん……もっとひいひいおじいさんの頃から塔はあったらしい。古いから今ではすっかり、どこから来たのか花が咲いている。  風通しも良くて、天に近い冷たい風が私の体を撫でていくのが、いつも好きである。  実は言うと塔の下に私は行ったことがない。きっとそこには螺旋の階段があって、そこから死者を連れてくるのだろう。お父さんもおじいさんも行ったことがないけど、おそらくそうだなのだと教えてくれた。  その日、木の上で休んでいると、死の匂いがした。私たち葬儀屋の仕事の始まりを告げる匂いだ。  塔の上に急げば、塔の下からたくさんの人が現れた。  葬儀はいつも塔の上で行われるのが慣わしだ。円形の中央に彼らは集まって、ギラギラとひかる何かを振り回し、歌を歌い、そして涙をこぼして帰っていく。  私は同僚と一緒になってそれを見守った。  それからようやく中央に集まる。  見合わせて、死者を見る。  小さくなってしまった死者を見るたび、私は言いようの知れない何かに囚われる。  死者の生前はどうだったのだろうか。  彼らは知らない、空の冷たい風の気持ちよさを。  木の上で休む居心地さを。  かくいう私は、大地を歩くことはほんの少ししかない。  囚われるのはどうやら私だけのようで、同僚たちは一心不乱に働く。  ああ、こうなってしまっては、私も働かなくては。  口を開ける。  小さな一欠片の死者に嘴を食い込ませた。  私は葬儀屋。そして死者を澄み切った空へ運ぶ者。

7
0

息をするように死んでくれ

 それなりに交流のあった伯母の火葬が済んで今、墓へと向かっている。バスに揺られ、私はぼんやりと伯母の骨を思い出した。  白くて脆かった。  細い箸で摘んで小さな壺に入れる淡々とした作業に命の終わりがこれかと拍子抜けしたものだ。  焼かれる寸前まで伯母の瞼は動かなかった。  ああ、死んだのだ。と思って一拍思い直す。  いいや。伯母はとっくの昔に死んでいたのだ。  一年前くらいからおむつの匂いがした小さな個室のベッドで伯母は生かされていた。会うたびに皮膚の皺が濃くなって、増えて、枯れていく。  従兄弟の嫁は穏やかに子どもたちに決まって言うのだ。 「おばあちゃんに挨拶してあげなさい」 「きっと喜ぶから」  果たしてそうなのだろうか。私は疑問で仕方なかった。  おばあちゃん、来たよ。無邪気な子どもが言う。  虚ろになりかけた細い目がゆっくり動いて、また盛りの過ぎた紫陽花のような首がゆっくり傾いて、私たちを見る。  掠れた声が干からびた口から出るたびに、苦悶を感じた。  やはり生かされているのだ。  バスが伯母の墓になる場所に辿り着いた時、雲一つない空が私たちを焼く。  綺麗な日に納骨されて幸せな人だ。  目眩がした。  息子三人を産んだ伯母。  料理が得意だった伯母。  末の嫁である姉が辛い時に助けに来てくれた伯母。  長男一家の隣に住んでた伯母。  長男の嫁を最期まで悩ませた伯母。  子が発達障害だと知って悩む姉に「援助はしませんからね」と冷たく言い放った伯母。  それでもあなたは伯母だから。  私は優しいから、ずっと思ってました。  息をするように死んでくれって。

8
1