まみむめもず
3 件の小説まみむめもず
基本的に読み専でございます。 たまにお話を書いているとかいないとか。 今一番欲しいものは、生きてるだけで褒めてくれる友達です。 Twitter→ @mameuchiMoz
グラスと白黒
グラスから滴り落ちる水滴が、コースターに水たまりを作っている。空調の効いた休日のカフェには、楽し気なカップルや写真撮影に勤しむ女性があふれていた。 流行りのカフェというのは、どうしてこんなにも落ち着かないんだろう。フォトジェニックなメニュー、北欧モダン雑貨の数々、目の前で必死に汗を流すアイスコーヒー、正面に座るお洒落ないとこのお姉ちゃん。 取り囲む全てが「不格好なお前が来る場所じゃないよ」と囁いている気がする。 被害妄想に苛まれる私に向かって、いとこのさっちゃんはさらりとこう言った。 「それは、恋だよ」 驚く私の動きに合わせて、積まれた氷がからんと揺れた。 「こ、恋?」 「そう、恋。お魚じゃないよ、こっちのほうだよ」 太陽のように爛々とした声と、指で作られたハートマークが返ってくる。 鯉ではなく恋。そんなことは会話の流れですぐに分かった。疑問符を浮かべたのは、私の感情を表す言葉として『恋』という単語が選ばれてしまったから。 私は眉を寄せてさっちゃんを凝視した。 「私の話、ちゃんと聞いてた?」 「もちろん。全て飲み込んだ上で恋じゃんって言ったよ」 「そんなわけないじゃん!」 「まあまあ落ち着いて」 さっちゃんはカフェラテが注がれたグラスの淵を人差し指でなぞった。 二層に分離したカフェラテは日焼けした野球少年の腕みたいで、彼女の指を彩る青のマニキュアが良く映えている。 さっちゃん。いとこの沙由ちゃん。年齢のことを聞くといつも怒られるから曖昧になっているけれど、おそらく五歳くらい年上の女の子。 彼女は昔から私のことを可愛がってくれていて、折を見てこうして話を聞いてくれる。 そんな彼女に「なぜか部活の先輩に強く当たってしまう」と話題を吹っ掛けたところ、それは恋だと言われてしまった。 私はストローでコーヒーを吸い込んだ。口に広がる苦みが頭に上った血をゆっくりと下ろしてく。グラスから浮かび上がる汗が、また一つぽたりとコースターを濡らした。 「なんでそう思ったの?」 「理由はいっぱいあるけども」 さっちゃんはくるくるとストローを回して、カフェラテを口に含んだ。グラスの中で揺れる白色が、じんわりと茶色に馴染んでいく。 艶めいた唇が、丁寧に話をまとめ始めた。 「とりあえず聞いた内容を整理するね。夏休みも欠かさず部活に行ってるんでしょ?」 「うん。講習があるからついでに」 「部活には麻衣子とその先輩の二人だけ。それなのに絶対に行かないとダメなの?」 「ううん。基本的に自由参加のスタンスだから」 「その先輩のこと、嫌い?」 「……わかんない。でも、気付いたら酷いこと言っちゃってるから、好きじゃないんだろうなとは思う」 「なるほど」 自動音声のように淡々した私の答えを聞き終えて、さっちゃんはこれでもかというほど口角を上げた。 想定内の答えだったんだろうか? 満足げな彼女の様子で、どんどん体温が上がってくる。 「な、なんで笑うの?」 「だってぇ。かわいいんだもん。やっぱりかなり濃い目の恋だよこれは。エスプレッソだよ」 さっちゃんはどちらかというと美人という括りに入ると思うけれど、浮かべる表情がたまにいたずらめいて幼い。 そのアンバランスさがなんだか艶っぽくて、私は手元のコーヒーに視線を落とした。 「仮に私が先輩のことを、す、好きだとして、普通好きな人に嫌われる行動ってとらないんじゃないの?」 「あたしの目には、典型的な好き避けに見えるよ」 「……好き避け?」 「好きだからこそ恥ずかしくてきつく当たっちゃうってやつね。ツンデレのほうがわかりやすかったかな?」 「高校生にもなってそんな……。単に行動がムカつくからきつくあたっちゃうんだと――」 「腹が立つなら行かなきゃいいじゃん。なんで部活に行くの? 部室に行かないと出来ないことがあるの?」 あえて深く考えてこなかったことを詰められて、私は首を絞められたようにきゅっと押し黙ってしまう。 他の部員が辞めてしまってかわいそうだったからとか、ゆっくりできる場所が欲しいからだとか、反論の種になりそうなものはいくつか見つかったけれど、どれも弾にするには弱い。 だって、どれもわざわざ欠かさず部活に出席しているという壁を破れるとは思えないから。 部活に行かないと出来ないことなんてない。さっちゃんの言う通り、ムカつくなら行かなきゃいい。でも多分、それは出来ない。いくら頭を捻ってみても、堂々と返せる言葉が見つからなかった。 ストローに口を付けたままうんうんと唸る私を見て、さっちゃんは顔じゅうの筋肉を弛緩させて口を開いた。 「探偵さんみたいな詰め方しちゃったけど、そこらへんは後付けなんだよね。実は一番の恋ポイントがあります!」 「……なに?」 さっちゃんはぴんと人差し指を上げる。癖のある髪が店内照明を吸い込んで、艶やかに揺れた。 「先輩のことを話すときの麻衣子の顔、へにゃっとしてるんだもん。すぐわかっちゃった。しのぶれど色に出でにけりわが恋は、だね」 さっちゃんは嘘をつかない。コーヒーのように苦いことも、砂糖のように甘いことも、包み隠さず彼女の感性に従って口に出してくれる。 だから私は急いで両手で顔を覆った。顔中が熱くてアイスコーヒーを飲んだけど、今度は苦み程度じゃ落ち着きは帰ってこなかった。 へにゃっとした顔なんてした覚えはない。覚えがないから質が悪い。私は自分が意図していないタイミングで顔を蕩けさせていたことになってしまう。しかもよりによって先輩の話をしているときに。 店内に流れる穏やかなBGMを遮り、さっちゃんの声が流れてくる。 「試しに好きという仮定で自分の行動を思い返してごらん。なんの違和感もないはずだから」 好きだから欠かさず部活に行って、好きだから気付かれたくなくて毒を吐いて、好きだから話すときに顔がにやけちゃって、照れ隠しで無関心を装っている私。 何の矛盾もなく事柄が並んでしまい、我ながらぞっとした。そして、ここまでわかりやすい感情から目を背けていたということにも、加えてぞっとした。 「い、や、ちょっと待って。私ってひょっとして物凄く先輩のことが好きなの?」 「あたしには最初からそう見えてたけど」 「やばぁ」 思考の混乱がそのまま言語中枢に影響を及ぼしてしまう。自覚してしまうと、もう自分自身が恋をしているとしか思えなくなってしまった。 いつ、どこで、なぜ。良いところがひとつもないとは言えないけれど、それでも好きになるには弱すぎる。 「好きになる要素なんて全然ないのに」 「好きって感情はそういうものだと思うよ。あたしだって好きな物事全部に理由を付けられるわけじゃないし、麻衣子もそうじゃない?」 「それもそうだけど」 「そもそも感覚を正確に判断できるほど、人間は良くできてないからね」 さっちゃんの指がストローをこつんと弾いた。あんなに分離していたミルクとコーヒーは、綺麗に混ざり合ってグラスを彩っている。 見つかってしまった。自分の恋心とやらが。そしてこの感情が『好き』なのであれば、私はしっかりと伝え方を間違ってしまっている。 先輩はあと半年くらいで卒業してしまうのに、私がやったことといえば悪態を吐き続けているだけだ。 急に自分の行動が不安になり、私はすがるようにさっちゃんに声を向けた。 「……どうしよ、どうすればいいかな? ひどいこといっぱいしたから、もう嫌われてるかもしれない」 甘い甘いシロップを注がれた私の脳は、もうすっかりと苦みを失ってしまっているようだ。「そんなわけないじゃん!」と勢いよく言葉を返していた私はもういない。代わりに姿を現したのは、濃い恋色に染まってしまった私。 さっちゃんは変わらず笑顔のまま言葉を返してきた。 「相手がどう思っていようと、麻衣子の気持ちが変わるわけじゃないでしょ? 今後は余計なことを考えず、自分の気持ちに正直に先輩とお話ししてごらん。まずはそこからだと思うよ」 「……うん」 「まあ性格もあるしいきなりは難しいと思うから、ちょっとずつね。少しずつ少しずつ、自分の気持ちを混ぜていけば、きっと本心は伝わるよ」 「頑張ってみる。ありがと」 「また一つ、青春を救ってしまったようだね」 さっちゃんは満足げにカフェラテを飲み干した。 彼女が今までにいくつの青春を救ってきたかなんて知る由もないけれど、少なくとも私の視界は少し開けた気がした。 今更焦ったって仕方がない。やったことが覆るわけでもないし、すぐに全部をオープンに話ができる気もしないし。 少しずつ、ちゃんと自分の気持ちを織り交ぜる事から始めてみよう。 さっちゃんに合わせてコーヒーを啜る。氷が溶けて薄まったアメリカーノからこぼれる香りが、ふわりと鼻を抜けていった。 私は朗らかに笑みを浮かべ、さっちゃんに視線を向けた。 「こんなに親身で魅力的で顔も良いのに、なんでさっちゃんには彼氏がいないの?」 「痛いところ突いてくるじゃん。あたしには好き避けなんてしなくていいんだよ」 「いや、今のは本心からの質問だよ。ツンじゃないよ」 「ぐっ……。こ、こっちが聞きたいくらいだよ! あたしだって、麻衣子くらいの歳の頃にはちゃんと青春してたんだからね⁉︎」 突っ伏したさっちゃんの動きに合わせて、グラスの底でふんぞり返る氷が滑り落ちた。 彼女のように振舞えたら、きっとこんな不器用な悩みも浮かばなかっただろう。でもこんな私の感覚をも肯定してくれた彼女のおかげで、少しだけ自信を持てた気がする。 あんなにお洒落に見えていた店内のオブジェクトたちも、今や私の気おくれを生むに足りない。 窓の外の空は、厚い雲を携えてどんよりとした顔をしている。明日は雨が降るかもしれない。 憂鬱な天気に反し、雲の切れた私の心が、空になったグラスの中で踊るように弾んでいた。
雪の打ち上げ花火
「ああもう! 納期直前に仕様変更とかありえないんですけど!」 がんがんという鈍い音でキーボードを叩きながら、沙由が薄く光る画面に言葉をぶつけた。 時刻は十九時二十五分。本来公休と指定されている土曜日のオフィスには、私と沙由以外の姿は見られない。 今日だけでも二桁回は聞いた彼女の呪詛通り、納期直前になってクライアントからの仕様変更要望があったため、私たちは休日を返上してパソコンの画面と睨めっこを続けている。 平たく言えば休日出勤。慣れてしまった私とは違い、入社して数か月の沙由の機嫌を損ねるには十分な出来事だったようだ。 私はインスタントコーヒーで喉を潤わせ、慰めを込めて彼女の頬を突いた。 「もう何回も聞いたよ。耳に胼胝がたくさんできちゃう」 「だってぇ。あんなにたくさん会議もしたのに……」 「そうだよね。でも、仕様変更は珍しいことじゃないから」 「せっかくの休日が台無しですよぉ」 膨らんだ頬の弾力が、私の指を押し返す。まったくもってその通りであるけれど、代休が貰えるし手当もしっかり支給されるから、労働力の前貸しと思えば痛くない。 むしろ徹夜を避けられる猶予があるだけ、この仕様変更はマシな部類に入るのだ。この感性が会社からの洗脳に近いことは、沙由の反応を見て何となくわかった。 今回の私は彼女の教育係として作業を手伝っているだけ。個人的には可愛い後輩が憤慨している以外のマイナス要素は見当たらない。 私はデスクの一番下の引き出しからチョコレート菓子を取り出し、むくれる彼女の口にそれを放り込んだ。 キーボードから手を離した沙由は、「あまぁ」というとろけた声を漏らし、黙々とチョコレートを咀嚼し始める。彼女の動きに合わせて、椅子が低い金属音を奏でる。 「おいしい?」 「おいひいでふ。お菓子くれる雪さん好きー」 「ふふっ、よかった。ちょっと休憩しようか」 「わーい」 もう一かけら沙由の口にチョコレート菓子を放り込む。彼女は一口目のような多幸感に溢れた表情を浮かべて口を動かした。 小動物に餌を与えているような気分だ。ナチュラルにこういった仕草が出来る彼女は、同性の私から見ても可愛いと思える。おまけでいえば、こういう可愛げが自分にもあれば、なんてことも思う。 ――そんなものがあったってどうせ持て余すくせに。 一日オフィスに張り付いていた疲れは、しっかりと私に無駄な思考をもたらしているらしい。 一服しに行こう。私は沙由の頭を撫でて立ち上がり、ポーチを片手にオフィスの出口へと足を進めた。私の背中に張り付くように、沙由も腰を上げる。 「煙草ですか?」 「うん。コンビニまで行くけど、何か買ってこようか?」 「いえ、あたしも行きます!」 鞄から財布とカードキーを取り出した彼女は、私の背中にぴったりと張り付きながら足を動かした。 非喫煙者の彼女をわざわざ温い空気の中に連れ出すのは気が引けるけれど、本人がそう望むのであれば遮ることもあるまい。 私は小さく笑みを返し、彼女を連れ近所のコンビニへと向かった。 ビルから出ると、溶けたチョコレートのようにどろりとした湿気が私たちを包み込んだ。 八月も終わりに差し掛かっているけれど、夜にはまだまだ涼しさがない。いっそ空気がからりと乾いてくれていればいいのに、水分を多く含んだ空気が息苦しさを後押しした。 私が意地でも口にしなかった言葉を、沙由はあっさりと吐き出した。 「蒸し暑い……」 「そうだね。欲しいもの言ってくれれば代わりに買ってきたのに」 「いいんです! 雪さんと一緒なら、この暑さももはやご褒美です!」 沙由はアスファルトを力強く蹴り、私の腕に絡みついた。じっとりとした汗の感触を覆うほどさわやかな香水の香りが流れる。 コンビニまで徒歩五分。懐いてくれるのは大いに結構だけれど、暑いので勘弁して欲しい。 そんな彼女越しに駅のほうを見ると、休日というだけでは説明がつかないほどの人の流れが、駅から溢れている様子が映った。 浴衣で歩くカップルや笑顔を咲かせる家族たちが、どこか一点を目指し足を進めている。 浴衣、団扇、首元の涼しげなアップヘア。夏だな、と思った。蒸し暑さでは想起されなかった感想が、瞬く間に私の気分を上げた。 近くでお祭りでもやっているのだろうか? 私は腕に絡まり続ける沙由に尋ねる。 「人が多いね。何かのイベントかな?」 「きっと琴川の花火大会ですよ!」 「ああ、なるほど」 琴川、会社から二十分程歩いた場所にある一級河川。毎年この時期になると、有名な花火大会が開催されており、遠方から足を運ぶ人間も少なくない。 私と同じように人混みに顔を向けた沙由は、小さく息を吐いた。 「いいなぁ花火大会。今年は全然夏っぽいこと出来なかったし、彼氏と行きたかったなぁ」 つまらなさそうな言葉尻に合わせ、彼女の腕にきゅっと力が入る。休日出勤に何度も文句を言っていたのはそういうことだったのか。 私は薄く笑みを返し、薬指にはめた指輪をそっとなぞった。 「なるほど。そりゃクライアントに毒も吐きたくなるよね」 「いえいえ、あの毒は純粋な毒ですよ」 「えっ」 どうやら早計だったようだ。沙由は私から身を離し、堂々と胸を張った。 「この問題の焦点は、あたしに彼氏がいないことなのです!」 「ああ、そっちか」 目視できる距離まで迫ったコンビニを背に、沙由は器用に足を動かした。 「仕事ばっかりで出会いもないし、職場には恋愛の気配もないし……。はぁ、恋がしたい」 「同期の金山君は? 仲良さそうじゃん」 「あんなクソガキ、恋愛対象として見られませんよぉ」 「ひどいこと言うね」 そう言いながらも、私は肩を揺らして笑った。沙由は時折とても言葉が汚い。でも私は沙由のそういう取り繕っていない俗っぽいところも嫌いじゃない。 私たちはそのまま冗談を言い合い笑いながら、いつもより混みあったコンビニで買い物を済ませ、灰皿の元へと向かう。 ただ灰皿が一つ置かれただけの喫煙所には、珍しく人影が見られなかった。 私がポーチから煙草とライターを取り出すと、それに合わせるように沙由はパックジュースにストローを通した。 誰かが吐いたであろう唾液の痕、名前も知らない気味の悪い虫の死骸、立ち込める紫煙の匂い。景色のどれを切り取っても美しいとは言えない喫煙所から眺めると、未だ途切れず踊るように流れる人混みが、異国の風景のように遠く見えた。 火を着けようと煙草を咥えたところで、沙由が私の左手で光る指輪を見て呟いた。 「雪さんは彼氏さんと花火大会に行かなくて良かったんですか? 仕事に付き合わせちゃったあたしが言うことじゃないとは思うんですけど……」 申し訳なさそうにそう言った沙由の視線から逃げるように、私は煙草に火をつけた。 彼氏という言葉で、私の背中に汗が湧いてくる。じわりと燃える葉先から、ゆらゆらと煙が漏れる。 一吸い。バニラのような甘い香りが肺へと流れ込む。大きく吸い込んだ息を吐き出すと、紫煙が人だかりの姿を隠した。 「今日のことは気にしないで良いって言ってるでしょ? これでも私、沙由の教育係なんだから」 あえて話題を選別して、私は言葉を返した。それを聞いて沙由の眉が更にへの字に曲がる。 「でも、わざわざ休みの日に手を借りて……。すいません」 「謝らなくていいって。そもそもたった半年であの仕事を任されることがすごいんだから」 「いえ、そんな」 「沙由の呑み込みの早さは、教育係としては鼻高々だよ。いつもありがとう」 「雪さぁん」 沙由は微かな鳴き声を上げ、上目づかいで私を見つめた。 私の言葉に嘘はない。入社当初の私に比べたら、沙由のなんと優秀なことか。……その本心を逃げ口上に使ってしまったことは問題だろうけれど。 私は煙を吸い込んで、ゆっくりとそれを空気に潜らせた。 「それでも申し訳ないって言うんなら、代休に食べ歩きしたいから付き合って。パワハラで手打ちとしましょう」 「食べ歩き……。行きます! 行きたいです!」 「ふふっ。決まりだね」 笑みを浮かべ、沙由はストローに口を着けた。 こういうところで「行きたい」という言葉を発してくれるから、私はこの子が可愛く思えて仕方がないのだ。 素直で、楽しいも辛いもすんなり吐き出せて、だから助けてやりたいと思える。煙を吐き出すだけの私とは違う。 空いた手で沙由の頭を撫でると、ほぼ同時に少し離れた空から、割れるような音と歓声が聞こえてきた。 花火大会が始まったのだろう。開始に間に合わなかった人達が、空に向け携帯電話を構え始める。 高々と上がる花火が、次々と空を彩っていく。絵の具を流し込んだバケツのように、夏の夜が色を変えていった。 ――また吐き出す機会を逃しちゃったな。 じわりじわりと手元の灰が伸びていく。同じ火なのに、こちらには花火のような美しさはまるでない。 「花火が始まりましたね! ああんもう、ビル邪魔ー!」 「オフィスからならもうちょっと見えるかも。戻ろっか」 「はい! 雪さんと花火デート、ふひっ」 「おばか。まだ仕事が残ってるよ」 最後に大きく煙を吸い込み、私は灰皿に火種を擦りつけた。人の流れ混ざらず、オフィスのほうへと足を進める。 花火に対し嬌声をあげる沙由の傍ら、私の頭には白いもやのような思い出が浮かび上がってきた。 『雪乃は最後まで俺を頼ってくれなかったね』 元彼氏が別れ際に言い放った最後の一言。正直思い当たる節は山ほどあった。 弱い自分を見せてがっかりされるのが怖くて、私は誰にも弱音が吐けない。それが良くないことだと思いながらも、嫌なことや辛いことを表面には出さず、平気な顔をしてしまう。おそらくこういったところが可愛くなかったんだろう。 要は臆病者の見栄っ張りなんだ私は。 この指輪だってそう。 別れてから二週間経った今も、私は何食わぬ顔をして薬指にペアリングを付け続けている。 断言できるが、未練などではない。これを外すと周りに弱い自分を露呈してしまうような気がして、外すことができない。結果として残ったのは、振られたという劣悪なカードを出し渋っている私。 事実、さっき私は「彼氏と行かないのか」という沙由の言葉から逃げた。しかもかっこいい先輩という隠れ蓑を使って。卑怯な逃げ方をしてまで、弱みを煙に巻いてしまったのだ。 こんな状況がいつまでも続くわけがないのに。 次から次へと花火が上がる。こつりこつりという靴音の隙間から、花火の音が心臓を叩いてくる。 ――かっこわるいなぁ、私。 沙由の言葉と花火をきっかけに、情けない自分の姿が浮き彫りになってしまった。 表面を綺麗に取り繕っても、中身は怖がって弱音を吐けない不格好な私。そのギャップに苦しんでいるのは、他でもない自分自身なのだ。 導火線が湿気て打ち上がらなかった想いたちが、ちりちりと音を立てて胸を焦がし始める。 出来もしないのに弱い自分を隠しながら生きるのはもうやめよう。 花火の音に背中を押され、私は薬指にはめた指輪に手をかけた。 「あのさ、沙由」 「なんですかぁ?」 「私が弱音を吐いちゃうような先輩でも、ちゃんと尊敬してくれる?」 あまりに唐突だった私の言葉を、沙由は意外にもあっさりと飲み込んだ。 「あったりまえです! あたしは強気な雪さんが好きなんじゃなくて、後輩思いで優しい雪さんが好きなんです。弱音を吐いてもらえたら、むしろもっと好きになっちゃうかもしれないです!」 沙由は満開の笑みを咲かせて、自信満々にそう言った。最初から台本が用意されていたような、私の欲しいものがたくさん詰まった言葉だった。 最後の一歩を踏み出させるには、十分すぎる一発。私はそっと指輪を外した。 「そっか。ありがとう」 沙由に背を向け、私は空に向けて勢いよく指輪を投げた。明かりの少ない闇に浮かんだシルバーは、瞬く間に目で追えなくなってしまう。 あの先はおそらく川だっただろうか。あんなに軽い物だったのに、私の身体はとてつもない重量から解放されたように軽くなった。 「ゆ、雪さん? いったい何を? ……ゆ、指輪を投げたんですか?」 「うん。あれはもういらないから。雪乃流打ち上げ花火だよ」 「ええー! なんでぇ?」 「実はね――」 大きく息を吸い込み、私は初めて弱みを吐き出した。 目を丸くする沙由の背景で、色鮮やかな光彩がぱちりと弾ける。 心臓を打ち抜くような花火の音は、新たな私を祝うファンファーレのように小気味よく鳴り続けた。
雨の隠れ家
ひどく雨が降っている。 僕は視線を手元の書籍から窓の外に移した。 幾重にも重なった厚い雲が時間感覚を奪い、鈍い照明にすら目が眩む。締め切った窓越しでも聞こえるほど激しい雨音が、やかましく文芸部室に響いていた。 炎天下でも大雨でも、文芸部の活動になんら影響はない。読んで書いての繰り返しのおかげで、八月下旬になった今でも僕の肌は白く艶めいている。 空調が効いて快適なこの部屋とは違い、おそらく外には水あめのようにどろりとした湿気が蔓延っていることだろう。それだけで帰宅意欲が奪われてしまう。 「まだ帰らないんですか?」 僕は正面の席から飛んできた声に視線を向ける。雨音にかき消されそうな細い声を出した彼女は、不機嫌そうにノートパソコンの画面を見ていた。 肩口で切りそろえられた髪は静止画のように背景に固定され、息遣いすらも感じられない。 僕も合わせるように再び書籍に目を戻した。 「もう少し残るよ。雨も強いし、帰る気にならない」 「そうですか。待っていてもどうせ止まないんですから、早く帰ればいいのに」 「そう言う弓削さんは帰らないの?」 「帰りません」 「そっか」 「はい」 彼女は短く言葉を切って、キーボードを叩き始める。 自分からコミュニケーションを取ろうとしてきたくせに、彼女はこちらを向く気配もない。毎度のことなので気にも留めないが、どうやら僕は彼女にあまり良く思われていないらしい。 弓削麻衣子、二人しかいない文芸部員の片割れ。 次々と辞めていった部員たちに合わせることもなく、沈没間近の文芸部に乗り続けてくれている慈悲深い彼女ではあるけれど、彼女の言葉にはどこかいつも角があった。僕の方が先輩なのに。 雨音に合わせるように、かたりかたりとキーボードを叩く音が響く。 そもそもこの部室で言葉が飛び交うことはそう多くないから、無言の間に焦りも緊張も感じない。 ただ何となく、僕は本をめくる手を止め彼女に言葉を向けた。 「弓削さんは雨って好き?」 彼女の手は止まらない。しかし薄い呼吸の後、彼女はゆっくりと言葉を吐き出した。 「……落ち着くので多少は」 「へ、へえ。なるほど」 「ここまで強いと耳障りですけど」 「耳障り……」 普段なら無視されていてもおかしくない問答だったのに、珍しく彼女から言葉が返ってきたせいで、オウム返しをすることしかできなかった。 再び会話が途切れる。僕は逃げるように本のページをめくった。 わずかばかりの間の後、うっすら視線を上げると、あろうことかこちらを向いていた彼女と目が合ってしまう。 「先輩はどうなんですか?」 「えっ?」 「雨、好きなんですか? 話題を振ってきたからには、それはそれは素敵な話を用意してくださっていることでしょう。楽しみです」 彼女はノートパソコンを閉じた。どうやら本格的に会話をしてくれるようだ。滅多にない大雨の日には、付随してこんな珍しいことも起こるのか。 しかし、なんとなく話題を振ってしまっただけで、彼女が求めるような崇高な話など僕は持ち合わせていなかった。 おそらくそれをわかった上で、彼女は言葉を返してきたのだろう。意地が悪いことこの上ない。 僕は大急ぎでエピソードの引き出しを開け始めた。 「僕は……。あんまり好きじゃないかな」 「なぜですか?」 「なぜって……」 わざとらしい期待を含んだ彼女の瞳に見つめられ、僕はごくりと唾を飲み込んだ。その視線に応えるべく、必死に脳を回転させる。 ――雨。雨音は弓削さんの言葉通り落ち着くし、昔からインドア派だった僕は、雨のせいで不利益を被ったことなどほとんどない。 せいぜい傘をさす手間が増えるくらいで、嫌いになるほどでもない。 だったらなぜ僕は、雨が好きじゃないと言ったんだろうか? 傘のようにくるくると回っていた僕の脳は、ようやく幼少期の記憶にたどり着いた。 「弓削さんは、秘密基地って作ったことある?」 「秘密基地……ですか? ないです」 「そっか。女の子だもんね」 「今の時代、女の子だからだとかそういう言葉は吐かないほうが良いですよ」 「厳しいなぁ」 「で? 秘密基地がなんなんですか? 回りくどいのは嫌いです」 彼女は色素の薄い唇を尖らせた。見下したと取られてしまったのだろうか。秘密基地の作成経験くらいでマウントを取る気など微塵もないけれど、彼女に隙を見せたのは失敗だった。 僕は仕切りなおすように息を吸って、あの頃の夏の香りに想いを馳せた。 「昔、秘密基地を作ったことがあったんだよ。山奥の藪の中、放課後に物を持ち寄ったり、本当に仲のいい友達同士にだけ場所を教えたり、大人から隠れて悪いことをしている気がして楽しかったなぁ」 「雨の話はどこに?」 「まあ最後まで聞いてよ」 僕は本を閉じて窓の外を眺める。少し勢いを落としたかと思われた雨は、未だ姿を捉えられるほど強く降り続いていた。 「作ってから二週間くらい経った頃かな。今日みたいな大雨が降ってね。秘密基地には屋根がなくて、僕たちの二週間はあっという間に水に流されちゃったんだ。そこで熱が冷めちゃって、みんなが集まることもなくなったし、秘密基地を作ろうって言い出す子もいなくなった。そんな寂しい思い出があるから、雨はあんまり好きじゃない。楽しかったことも全部流されちゃいそうで」 「散々期待させた割に、ありきたりな思い出話でがっかりです」 「僕は期待してだなんて言ってないよ」 「言葉の裏を読んでこその文芸部でしょう?」 「はいはい。つまんない話をして期待を裏切ってごめんね」 僕は視線を正面の彼女に向ける。彼女は見定めるように僕を見つめていた。うっかり世間話を始めただけで、こんな仕打ちを受けるとは思わなかった。 秘密基地。当時は相当なショックを受けていたはずなのに、今の今まで僕はこの思い出のことをすっかり忘れていた。 後輩の圧に負けて思い出したのはすごく情けないけれど、かつての切ない気持ちが今の自分の状況と重なってしまう。 部室の扉を眺める。以前はもう少し彩りがあった部員簿には、もう僕たちの名前しかない。 「また秘密基地が無くなっちゃいますね」 僕の視線が部員簿に向いた直後、彼女はいつも通り不愛想にそう言った。 僕の心理を汲み取ったであろう彼女の言葉は、抽象的だったけれどあっさり理解できた。僕は苦笑いと頷きだけを彼女に返した。 部活動を継続させるためには最低でも十人の部員が必要だというのが、この学校のルールだ。定員を割ってしまって半年近く経つ文芸部の寿命は、おそらくそう長くはない。 廃部の空気を察して辞めていった部員たちに反し、僕も彼女もそれを理解した上で今ここにいる。流されていく秘密基地を、いつもと変わらぬ顔をしてただただ眺め続けている。 僕は立ち上がり窓のほうに足を進めた。夏の匂いを感じたくて窓の鍵に指をかけたけれど、窓に身体をぶつけ続ける雨の勢いに気圧され手を下ろす。 「弓削さんはどうかわからないけれど、僕はこの部室に居心地の良さを感じていたんだ。みんなで作品を持ち寄ったり、好きな小説の話をしたりさ。だから無くなるのは寂しい。でもこんな状況になってようやく気が付いたよ。僕は部室が好きなんじゃなくて、志を同じくして集まった仲間がいる環境が好きなんだって。秘密基地も、きっとそうだったんだろうな」 「私は……今でもここが居心地のいい場所だと思っていますよ。いつか崩れるとわかっていても」 「意外。珍しいね」 「喧嘩なら買いますが?」 「違う違う。共感が嬉しかっただけだよ」 僕は笑みを浮かべて振り返った。彼女はわざわざこちらに身体を向けて僕の言葉を聞いていたらしい。珍しいことに、少しばかり口角が上がっている気もする。 わずかな変化だったけれど、角しかない彼女が可愛らしく映った。 いつも不機嫌そうな顔でノートパソコンに文字を打ち込み、親の仇のような目で僕を見て、世間話の一つもままならない彼女が、居心地の良さを覚えていただなんて。 背後でけたたましい音を立てる雨が雪に変わってしまっても、今の僕なら多分驚かない。 しかし、あと半年もすれば卒業してしまう僕とは違って、彼女にはまだまだ青春を謳歌する時間がある。 こんなにも珍しいことが続く日だから、僕も珍しく余計な先輩風を吹かせたくなってしまった。 僕は笑顔を浮かべたまま彼女に言葉を向けた。 「でもさ、弓削さんもみんなみたいに、早めに新しい部活を見つけたほうが良いよ。こんなところに来ても、つまらない話しかできない僕がいるだけだから」 いつも通りの自分を下げた軽口だったけれど、その言葉で彼女の顔つきが鋭くなる。 「なんで……そんなことを言うんですか?」 「えっ?」 「まさか、今の話をしておいて、私がなぜ毎日この部室に来ているかがわかっていないんですか?」 彼女は立ち上がり、豪雨にも負けない威圧感を僕に向けた。普段から鋭い目が雷鳴のように光っている。 そんなに怒りを買うような言葉を放っただろうか? 僕はうろたえながら思考を巡らせる。その姿がさらなる油を注いだのか、彼女は大きく息を吸って言葉を続けた。 「そもそもみんなが辞めても私がこの部に残った時点で、少しは気付くべきでしょう? 文を書いたり読んだりするくらい、本来家でもできるんです! あろうことかこのタイミングで早めに新しい部活を見つけろだなんて――。先輩も同じ気持ちなんだって思って、嬉しかったのに」 「ちょ、ちょっと待って。すごくまずい事を言ったって事は理解できたから」 「もういいです。先輩の間抜け! 行間くらいちゃんと読めバカ!」 彼女は吐き捨てるようにそう言って、荷物を纏めて教室を飛び出していった。僕の背後では未だ強い雨が戦慄いている。 僕は呆気にとられたまま窓に身体を預けた。じっとりとした空気で上がる体温が思考を温める。 彼女はこの場所に居心地の良さを感じていて、毎日足を運んでくれていて、他の部員が辞めてもこの部に残ってくれた。 理由なんて考えたこともなかったけれど、彼女の言葉からして、彼女は家でも出来ることをわざわざこの部室で行っていたのだ。僕がいるだけのこの部室で。 去り際の彼女の悲痛な顔が脳に浮かぶ。密かに育てていた感情を踏み躙られた様な、そんな顔。 棘だらけで立ち入れない言葉の奥に隠されていた何かを、僕はずっと見落としていたらしい。 仕方ないじゃないか。そもそも僕は彼女に嫌われていると思っていたんだから。 いや、言い訳は本人に伝えればいい。幸い雨脚が弱まる気配はないし、呼び止める口実ならいくらでもある。 崩れかけたこの秘密基地には、このまま水に流すわけにはいかないものが眠っている気がして、僕は彼女の後を追うように急いで教室を飛び出した。