東真直の随筆

東真直の随筆

東真直自身のことを書きます。

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東真直

かいたりうったり。

TikTok小説家、東真直の自己紹介。2022/2/10

 Noveleeをお楽しみの皆様、初めまして。TikTok小説家の東真直(あずままさなお)と申します。突然こちらにお邪魔したぼくですが、ちゃんと自己紹介を行ったことがなかったので、改めてこの場をお借りして、それに変えさせて頂ければと思います。ちなみにサムネの画像が金髪なのは、事実ぼくの髪が一部だけ金髪だからです。それでは本題に入ります。  TikTokで文章を書くなんてことを始めたのは、今から約2年前。当時はまだ小さなベンチャー企業の会社員でした。会社を辞めることは決めていて、辞めた後の自分に何ができるのだろう。そう思ったとき、ぼくにあったのは文章、声、動画編集、そしてSNSの知識でした。当時の職はYouTuberのマネージャーだったもので。  それら自分が持っている武器を総動員した結果、TikTokで小説を書く、というスタイルに行きつきました。現在はTikTok小説家として、日々500~1000文字前後の短編を動画化して投稿しながら、小説の執筆と販売、それらを行う自分の出版社『株式会社東仁社』の社長として経営なんかもしています。  TikToker、小説家、経営者。三足の草鞋を未だ履きこなせてはいませんが、どれも自分が選んだ道なので、それなりに楽しくやっています。  そんなぼくはここ最近、深刻なスランプに入っています。正直なところを申し上げますと、今こうして物語ではなく、日記のようなものを書いているのも、そのスランプ故だったりするのです。そしてぼくはスランプの原因が、なんとなくわかっているのです。恐らく、この一言に尽きるのでしょう。 「上手く書こうとし過ぎてる」  ぼくがこれまでTikTokで活動してこれたのは、文章が上手いからでも、声が良いからでも、当然イケメンだからでもありません。自分より文章の上手い人間も、物語の才能も、イケボもイケメンも数え切れないほどいます。そんな中で、こんなぼくが有難いことに19万人もの読者の方々に恵まれたのは、彼らの苦悩や想いを物語を通して、代弁してきたからです。  自分の口では言いづらいこと、誰にも相談できないこと。そんなどこにも向けられない心を、ぼくの物語を通して、昇華してくれているのではないかと思っています。ぼくの読者の多くは中高生です。彼らが共感し、共鳴し、ときに尊敬したり好きになったりしてくれた、ぼくが書いた物語の登場人物達は、彼らに語りかける、ぼくの分身のようでもありました。ぼくもかつて、そのように悩んできました。そして今、25歳になった今でも悩み続けています。歳を重ねたところで、悩むことにそう大差はありません。  閑話休題。  上手く書こうとし過ぎている。つまりは、ここ最近のぼくは『小説としての巧さ』ばかりに気を取られ、肝心な若い彼らの心を動かすことが、疎かになっていたように思うのです。伏線を貼り、綺麗な文章を書き、上手いと言わせて、だからなんだと言うのでしょう。そんな小難しい小説よりも、彼ら彼女らの心に必要な何かを、書かなければならなかった。きっと学生のときの自分は、そういう物語を求めていただろうから。  ぼくは小説を書きますが、しかし小説がほとんど読めません。昨年を通して読んだ小説は、1.2冊だったかと思います。買ってはみるし、読んでもみるけれど、どうしても活字が読めません。ぼくは、活字の読めない小説家なのです。でもだからこそ、ぼくの読者には同じように小説を普段読まない人も多くいます。「小説は普段読まないけど、東さんの小説なら読める!」そう言ってもらえるのです。それが何より嬉しく、同時に自分が中高生の時、自分もそんな本に出会っていれば、読書をもう少しできたのかな、なんて思ったりします。  上手い小説なんて、書けなくていい。  綺麗な文章なんて、書けなくていい。  そんなものは、世に溢れかえるほどいる真っ当な小説家の方々にお任せすればよいのです。ぼくは下手でもいいから、小説が読めない人だって読める小説を。活字が読めない人だって読める文章を。それが、TikTok小説家としての使命のようなものであるとすら、思うのです。それなのにぼくは、上手くなろうとした。自分が書ける幅が広がること、表現の選択肢が増えることは悪いことではない。けれどそれらは「どうだ上手く書けただろう!」と威張る為にあるのではなく、あくまで伝える為の手段に過ぎないということを、忘れてはならなかったのです。  長々とした自己紹介、というよりは自分の中の整理となってしまいましたが、ここらで終わりにしようと思います。最後にもう一度、ぼくの自己紹介を簡単にしてから、終わろうと思います。  ぼくの名前は、東真直。  TikTokerでも無ければ、小説家でもない。  職業、TikTok小説家。

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1分だけぼくにください。2022/3/3

こんにちは 初めましての方も いらっしゃることでしょう TikTok小説家の東です TikTokで小説を書いています ぼくも自分で何を言っているか 最近よくわかりません 本題ですが今日は二つ お話があります 一つは短編集『月と話す』が ただ今関東を中心に 未来屋書店さんで発売中です そしてもう一つの方が重要です それは是非買ってください ということです 宣伝ではありますが 話したいことは宣伝ではありません 小説家になるにはどうしたらいいのか それは出版社の賞に応募して受賞し 書店に本を並べて頂く あるいは小説投稿サイトにて 人気な作品に声がかかる これが普通かと思います ですがぼくはその どちらでもありません ぼくは誰からも声なんて かからなかった だから自分で刷りました 多くの書店に並べる為に 自分で出版社を作りました 執筆も経営もSNSも 全て自分でやりました もちろん沢山の出会いと 人々に支えながらようやく 書店に本が並びました ただの一般人の本ですが 未来屋書店さんではどこも 大々的に展開して頂いています ただの個人にこんなこと 本来はあり得ないことです ですがありえました 誰もやっていないだけだった ただの一般人の本を 全国に並べる それがぼくと ぼくの読者の夢です だからお願いします 買ってください その一冊が売れることは 売上になるとか そんなことではありません 小説を書くあらゆる人の 新しい希望の道になります ぼくがその道を示します 夢の叶え方は一つではないと 置ける場所があって 買ってくれる人がいるなら それはもう立派な小説家であると 今はまだ関東です ですが活動を始めて約二年 やっとここまで来ました ここで売れればやっと 全国展開が見えてきます 夢など無かったぼくですが ここまできたら見てみたい 他の出版社を通すことなく 大手仲卸会社の力も借りず 全国に届く本の姿を それはぼくの読者の夢であり 同時に文章を書くあらゆる人の 希望になると信じています 長々とお付き合い頂き ありがとうございました 関東50店舗以上の 未来屋書店にて 東真直の短編集『月と話す』 好評発売中です それでは書店で会いましょう

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天霧ケイは何者か2022/4/5

「天霧さんを一言で表すなら、天才ですかね。俺も別に経験豊富な編集者ってわけじゃありませんが、彼の文章を読んだときはビビりました。はじめて会ったときは、その迫力っていうんですかね。とても同い年には見えませんでした。ただ納得もしたんです。ああ、人じゃないんだって」 「天霧先生の作品に出会ったのは中学生のときです。それから呪われたように先生の作品を読み漁りました。先生は筆が早くて、ひと月に一冊のペースで書かれていたんです。それは嬉しかったのですが、でもファンの間では不安もありました。命と引き換えに書いてるんじゃないかって」 「ケイくんはよくうちのお店に来てました。いつも一人で来て、いつも同じ安酒を呑むからすぐ覚えました。小説家さんってあんまり儲からないのかなと思ってましたが、たまに女性を連れて来ると、気前良くお金を使うんです。なんかそれが、自分には価値が無いって言ってるみたいで」 「天霧ケイに思う事は、死んでくれ。それだけです。フラれたからじゃありません。付き合ったからわかるんです。こんなことを言うのは気が引けますが、あの人は生きてちゃダメなんです。あの人にとって他人に関わることは文の肥やしでしかない。人の生き血を啜る、化け物なんです」 「ケイちゃんとは、最近連絡取ってなかったなぁ。でもケイちゃんと言えば、やっぱりヒーローですね。ぼく、小学生のときはよく虐められていて。その度にケイちゃんが助けてくれたんです。今のケイちゃんはよく知らないけど、ぼくの中のケイちゃんはカッコ良くて、とても優しい人」 「突如文壇を騒がせ、唐突に行方を眩ませた天才小説家、天霧ケイ。ある人は称え、ある人は罵倒する。実態の無い貴方は、一体今どこにいますか。もしこの動画を見ていたら、連絡を下さい。記者としてこの事件を取材してきましたが、今は一人の人間として。貴方の苦悩を理解したい」 「私にとって小説とは、酷くくだらないものだった。無意味な文字の羅列が偽物を作るだけだった。けれど人々はそれを求め、私もそれに応えた。嘘を書く為に嘘をつき、嘘を誠とする為また嘘をついた。そうしていつしか何が誠だったのか忘れた。いらない才能など、無ければ良かった」 「ケイちゃんへ。覚えてる?私と結婚の約束したお寺。忘れたとか言わせないから。そこにいるんでしょ。だから手紙だけ送るね。ケイちゃんは嘘つきじゃないよ。沢山の人を助けたよ。少しくらい休んだって大丈夫。元気になったら今度は自分の為に、筆を取って下さい。一ファンより」 (天霧ケイは何者か 完) 天霧ケイは、心優しい少年だった。 自分のことよりもまず他人に目がいった。 虐められている人を見れば放っておくことができなかった。 また素直で真っ直ぐな少年でもあった。 幼馴染の少女とよく寺で遊び、その子に恋をした。 結婚を申し込んだのは幼さ故だったかもしれない。 ただ結婚の意味は理解してはいなくとも、 愛を伝える大切さは幼くして理解していた。 そんな彼が変わり始めたのは、小説家になってからだった。 高校生にして受賞しその才能を開花させた彼を、 周囲は放っておかなかった。 次第に、これまでいた人々はその影を潜め、 代わりに沢山の大人と、 顔も知らない期待を寄せた誰かが集まってきた。 目の前の誰かの力になりたい。 そんな彼は次第に、誰かわからない沢山の人の力にならなければ。 に、変わっていった。 天才と呼ばれた彼だったが、 しかし自らの経験で書けるものには限界がある。 彼は書く為に、あらゆる経験を積むようになった。 美味くもない酒を呑み、楽しくもない女遊びをした。 いくら呑んでも味などわからないから、 一人の時は安酒で十分だった。 空虚な関わりはいずれ相手にバレ、傷つけた。 その経験をもって、彼は新しい小説を書き続けた。 段々と何の為に自分は書いているのかわからなくなった。 書く為に嘘をつき、嘘の為に嘘をついた彼には。 もう自分が誰なのかを知る術はなかった。 天霧ケイは何者か、それぞれの証言のみで書かれた本作は約一年半前の作品だ。これまでのシリーズもの同様、全く先は考えず書き始めた。タイトルだけが浮かび、では恐らくミステリー的な流れになるんだろうと思っていた。けれど、一人。また一人と考えながら証言を書いているうちに、「何者か」を知りたいのは、天霧ケイ自身なのではと思い始めた。これほどまでに様々な見え方をされている本人こそが、最も自分というものを理解できていないのではないかと。その時、このタイトルを付けた意味がわかった。恐らくこの作品の正確なタイトルは、これだったのだ。 天霧「天霧ケイは何者か」 目の前の誰かを助けたいと思っていただけの少年は、 いつしか沢山の人々の器となっていた。 器に考えることは許されない。 誰を助けることも、器に注がれた総意がそれを決めるからだ。 天霧ケイは天才小説家と言う名の、器だった。 だがせめてもの救いは、 彼には過去を知る友人や幼馴染がいたことだった。 時間はかかるのかもしれないが、きっと彼は器を壊し。 自らの為に、また身近な誰かの為に筆を取れるのだと信じている。 いや、信じたいから、そう書いたのかもしれない。 いつかぼくがぼく自身を忘れる日が来た時に、 きっと救われると、思いたくて。 (この後書きもまた、一年半前に書いたものである)

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「仕方がない」で生きていい2022/4/6

とある友人に一冊の本をもらった。 『20代で得た知見』という本だ。 あらゆる人が二十代で経験したこと、 また学んだことを著者が一冊の本にまとめたものだ。 この本は最後の一行が最高に面白かったのだが、 重要なのはそこではなく、 ぼくは友人にもらう前からその本を持っていたことだ。 お互い二十代も後半に差し掛かってきた頃合いだ。 彼が「この本絶対東くん好きだと思う!」と差し出した時は、 考えていることが同じ過ぎて笑ってしまった。 と、ここまでは余談であり導入だ。 本のことを思い出したのは、 ぼくも一つ書き残したくなったからだろう。 東真直、20代で得た知見の一つの話。 「仕方がない」で生きていいというものだ。 ぼくの好きな歌でこんな歌詞がある。 『予想外に際立つ力を、  可能性と呼ぶのだけはやめてくれ』 十代のぼくはまだ見ぬ可能性に心躍らせたものだった。 そして二十代も後半に差し掛かった今、 その可能性とやらを収束させる方向へ人生の舵を切っている。 まだ何者でもなかった東少年にとって、 可能性とは希望そのものだった。 今の自分がどれだけ未熟でチンケな存在だったとしても、 可能性という言葉がそれら全てを肯定してくれた。 しかし今のぼくにとって可能性という言葉の意味は異なる。 それはまるで、終わりのない旅路。 果てしない荒野の先に見える、蜃気楼。 可能性があるということほど、絶望を覚えることはない。 これまで自分なりに、旅をしてきたつもりだ。 希望を繋いで可能性を見出し、この足で歩いてきた。 だがふと立ち止まったとき、こう思ったのだ。 「一体いつまで自分は、この旅を続けるのだろうか」と。 次の町に着いたら、そのまた次の町を目指すのだろうか。 この足を少し休めても、それは次の旅の準備に過ぎない。 一体自分はなんのために、可能性とやらを追うのだろう。 夢とやらを追うのだろう。 これまで旅ができていたのは、ある種の不満からだった。 それは今の自分に対してであり、環境に対してだったかもしれない。 しかし旅路の果てに気が付けば、ぼくはぼくに満足していた。 黄金も名誉も何もかも、別にぼくの欲しいものではなかった。 なのにどうして次の町へ、危険を冒して向かう必要があるのだろう。 幼い頃は一生同じ町で生きる人間の気持ちが理解できなかった。 一度都会へ出てみれば世界だって変わるのに。 どうしてそんな狭い世界の中で閉じこもっているのだろうかと。 けれどそれは例え東京にいようと、 あるいはニューヨークに住んでいようと違いのないことなのだ。 ならば次は月を目指すか、はたまた太陽を目指すのか。 『まだ見ぬ世界』『まだ見ぬ可能性』に限りはない。 地方をバカにする人間もまた、所詮東京という地方の人間に過ぎないのだ。 だからこそぼくは思う。 「仕方がない」で生きていい。 無理に旅を続けなくていい。 無理に旅が好きだと思い込まなくていい。 その場所が自分の居場所だと感じられたのなら、 それ以上の世界を知らないまま死んでいったっていい。 どの道誰もがどこかでは、見切りをつけなければならない。 仕方なく、朝起きればいい。 仕方なく、勉強すればいい。 仕方なく、仕事すればいい。 仕方なく、書けばいい。 仕方なく、生きればいい。 仕方なくと、納得できること。 納得できて、仕方のないままやれること。 それが自分の居場所なのかもと、今は思う。 いつか古本屋でも開いて、自分の本を細々と売りたい。

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ぼくの夢2022/4/9

こんばんは、小説家の東です。 今回はぼくの『夢』についてお話ししようと思います。 幼い頃はウサギさんになりたかった。 そのせいで母に沢山人参を食べさせられました。 中学生の頃は漫画家になりたかった。 高校生の頃は映画監督になりたかった。 大学生の頃は声優になりたかった。 そして小説家になりたかった。 ぼくの人生はずっと『何か』になりたい人生でした。 しかし最近はあまりそういった『何か』がありませんでした。 一応書店に本が並んで、ぼくはそれで満足でした。 物語を書きたかっただけだったのです。 でもそれが叶ってしまった。 では今の自分は一体何の為に書くのだろう。 そんな迷いが生じていました。 ここまで無理をしてきたツケが回ってきたのか、 体が動かなくなりました。 精神科では鬱病一歩手前だと言われました。 今は毎晩薬を飲みながら心と体を休ませています。 夢も無くなり心と体の限界を知った。 それなのにぼくはこれから何を目指すというのか。 人生に絶望して生きるにはまだ二十五歳は若過ぎる。 そんなときに思い出したのです。 ぼくにはまだ、叶えていない夢がありました。 昔から、叶えたかった夢がありました。 それはとある『景色を見ること』です。 大学生の頃から朧げながら思い浮かべ続けている景色。 それはこんなものでした。 電車のようなものに乗っていて、 外を眺めながら何やら手元で書いています。 以上、おしまいです。 ぼくはこの景色を見たいのです。 もっと言うならこの景色の真相が知りたい。 あの電車はなんという電車だったのか。 走っていたのはどこだったのか。 あの景色の中にいた自分は何歳だったのか。 そこでぼくは何を書いていたのか。 それはこれまで思い描いたどんな夢よりも、 叶えることが困難な夢のように思われました。 何をどうしたらそのシーンと同じになるのか、 皆目見当がつかないからです。 ただ電車に乗ったところで、 なんとなくそこで書いているのが、 今書いている途中の小説ではない気がしました。 目指そうと思っても目指すことのできない景色。 その正体を知ることがぼくの今の夢でした。 あの景色に至る為に今どうすればいいのか、 ヒントはたった一つだけのように思います。 書くこと。 書き続けること。 いつかあの景色の中で書いていたのは、 これなんだと確信が持てる作品に辿り着くまで。 とにかく書いて書いて書き続けること。 そうすればいつかあの景色に自然と、 辿り着くような気がしているのです。 小説家にも社長にもTikTokerにも興味なんてない。 ただ頭に浮かび続けるあの景色の中にいたい。 誰もが目指すことのできる『何か』ではなく、 東真直しか目指すことのできない『景色』が、 そこにありました。 ぼくはやっと、本当の夢を見つけた心持ちになりました。 物語のように生きる。 いつかあの景色と出会うまで。

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いらない子2022/5/5

ぼくは自分のことを そう思って生きてきました 『いらない子』 親に直接そのように 言われたわけではありません 親がそのように直接 自分の親に言われたのです ぼくはその愚痴を聞いただけ 毎晩毎晩聞かされただけ 毎晩毎晩毎晩毎晩 『自分はいらない子だった』と するとそれは不思議なもので 愚痴を二十年間聞かされると ぼくが『いらない子』のように どんどん錯覚してくるのです 気が付けばぼくは 親に愛されていながらも 『いらない子』だと思ってしまう 悲しい化け物になりました 普段は忘れているその呪いも ふとした時に思い出します 例えば書店で全く売れていない 自分の本を見たときとか ゴールデンウィークまで それが書店にぼくの本が 置いておける期限です ですが棚にはまだ沢山 売れ残った子達がいます あの子達はぼくと 同じなんだと思いました 『社会にとって、いらない子』 調子に乗っていたのかもしれません 例え数十万人のフォロワーがいても わざわざお金を払ってまで 偽物の小説家もどきの本は買わない 書店にぼくとぼくの子供達は 必要とされてはいなかった これからは身の程を弁えて 世界の片隅で暮らします もう我儘は言いません 小説家なんて嘯(うそぶ)きません だからどうか 「『いらない』なんて言わないで」

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無限のルービックキューブ2022/6/5

人生はルービックキューブのようなものだ 一面を揃えたままでは 二面は揃えることができない 二面を揃える為には 作った一面を崩す必要がある そして一面と二面の揃え方は 全く別物なのだ だが二面を揃えたとしても 当然終わりではない 次は六面を揃えたくなる その為には揃えた二面を 崩す必要がある 一面を崩す勇気を持つ者だけが 二面を揃えることができる 二面を崩す勇気を持つ者だけが 六面を揃えることができる しかし人生という無限の玩具は 六面どころでは終わらない 次は十面揃えたくなる その次は百面揃えたくなる 他人が揃えている面を揃えたくなる 何面あるかは誰も知らない 確かにわかっていることは 次を揃える為には絶対に 今揃えた分を崩す必要があることだ 誰もがどこかで諦める 一面で満足する者もいれば 二面で満足する者もいる 百面まで揃えて初めて 道の果てしなさに絶望する者もいる 揃える面に終わりなどないから 「それならば」とぼくは思う 次の面を揃えることを 生きる目的にしてはならない 次の面を揃える行為自体を 楽しんだらよいのではないかと 結果を評価するのが他人だ 過程を楽しめるのが自分だ さぁ明日も生きていこう 共に次の面を揃えに (小説家『東真直』より)

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すみませんでした2022/6/10

 こんにちは、東です。  ぼくは今、川沿いのお散歩コースにあるベンチに腰掛け、木漏れ日を背にこの文章を書いています。早速本題の『すみませんでした』の内容ですが、ちらほらと書いていた『昨日は死に損ねたもので』の連載を辞めようというのがまず一つです。どうでもいい人がほとんどだと思うので、この話題はこれまでにしておきます。  本題はもう一つの方で、では東は何に謝っているのかといえば、それが自分でもよくわからないのです。思い当たる節はいくつかあります。最近の自分の文章に納得がいかないこと、SNSが伸びないこと、経営が上手くいかないこと、それに伴いお金がないこと。苦しい理由を考え出したらキリがないけれど、しかしそのどれもが本質的な問題ではないような気がしました。  動画が伸びたり伸びなかったり、お金が無かったり(これに関しては充分にあったことがない)、そんなことはぼくにとって、当たり前のことだからです。いつものこと、それなのに突然それらが気になってきたということは、もっと根の部分に課題があるということなのでしょう。そして恐らくぼくはその課題が何か、わかっている。わかっているくせに、それと向き合うことを恐れ、逃げていることに対して、ぼくは『すみませんでした』と許しを求めているのかもしれませんでした。  自身の課題を抽象的に表すならば、それもまたいくつかあります。やりたいことの限界、自身の才能の限界、本当は何も持っていない自身を認識してしまったこと。中途半端に書いた『昨日は死に損ねたもので』は現在二十五歳のぼくが、五年後の未来を想像して書いたものでしたが、案外今の心境をそのまま書き連ねただけだったのかもしれません。「かもしれません」ばかりを多用するあたり、文章に対する自信の無さが伺えて、書きながら苦笑しています。  かつては一度書き始めた連載を途中で投げ出すことは、あまりありませんでした。けれど最近は段々と、途中で「これ、面白くないな」と早々に見切りを付けて諦めることが多くなりました。仮に書き上げたとしても、主戦場であるTikTokに向けた動画化しないことが増えました。  何を書いても、過去を越えられない。  文章も生きることも何もかも、この二年で上手くなった『気になっていた』だけなのかもしれません。本当は何一つ進んでおらず、寧ろ受けた評価の分だけ自身を過大評価し、変わること、努力することを怠ったツケが、今になって回ってきたように思うのです。SNSという武器の手入ればかりをして、肝心の肉体を鍛えてこなかったような、そんなイメージでしょうか。  「本当の戦士に、剣はいらぬ」  ぼくの好きな漫画の台詞です。この言葉に強く感銘を受けたのとは裏腹に、ぼく自身はというと、剣が無ければ何もできない人間に成り下がっていました。自分自身の精神も、肉体も、会社を辞めたあの日から実はそう変わってはいなかった。戦場から逃げ、逃げた先で傷つかない日々を送る間に、傷のつかない自分の体を「強くなったからだ」と錯覚したに過ぎなかったのです。傷つかないのは、ただ戦場に立っていなかっただけなのに。  斬れもしないナマクラを片手に、呑気に草原で戦争ごっこをしていた子供。それが恐らく、ぼくという人間だったのでしょう。しかし現実という戦うべき何かは、いつまでもぼくを『ごっこ遊びの世界』に居続けさせてはくれないのです。  今月の売り上げは?  次の作品の執筆は?  それって売れるんですか?  わかってる、わかってるから。    すみませんでした。

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読みたいことを、書けばいい。2022/6/11

 こんにちは、小説家の東です。  今回のタイトルは、ぼくが約二年半前に文章を書くきっかけをくれた、一冊の本の題名になっています。 『読みたいことを、書けばいい。』著:田中泰延  この本に影響を受け文章を書き始め、書くことに悩み、そしてまたこの答えに帰ってきた。これからそんな話をしようと思います。と言っても、ここから語る内容を読む必要は、実のところ無いのです。何故なら答えはもうすでに、タイトルに書いてあるのですから。だから以降の文章は、ただの蛇足。無駄の塊。けれど、いいのです。書きたかったんだもん。  ぼくにとって文章を書くということは、やりたいことでした。会社を辞めて背水の陣だったぼくは、ひたすら書き続けました。TikTokという動画メディアで『音で再生される小説』というのは物珍しかったのか、素人同然のぼくには気がつけば十九万人ものフォロワーさんが集まりました。けれど、そこで一つの終わりがやってきました。  十万人を超えてからフォロワー数は伸び悩み、再生回数にもバラツキが出始めました。最初は書きたいことを、ただがむしゃらに書いていればよかった。けれど当然、吐き出すだけでは無くなります。ぼくはどんどんと、書きたいことを失っていきました。  もっと新しいことを、もっと別の何かを書かなければ!ぼくの焦りは日々つのっていくばかりでした。動画に絵をつけたり、実写動画を作ったり、様々なことをしましたが、明確にこれといった新しい道筋は見えませんでした。そんな迷走を、ぼくは二年近く続けてきました。  読みたいことを、書けばいい。確かに最初はそうだった。でもそんなもの、もう無かった。書き切ってしまった。ならこれからは、どうやって書けばいいのか。二年間悩んだ末に、今のぼくが出した答えはこれでした。 「何回でも同じの書けばいいんじゃね?」  突然アホになったわけではありません。いやアホじゃんと言われてしまえばそうかもしれないけれど、そんな言い方しなくてもいいじゃないかぁ!  閑話休題。  つまりは、こういうことなのです。ぼくはこれまで自然と『一度書いたことは、もう書いてはならない』と思ってきました。例えば、恋愛ものを書いたなら、もう恋愛ものは自分の書く選択肢から外れるといった具合です。この勘違いこそが、ぼくの『新しい何かを求め続ける』という病の根源だったのです。  例えば牛丼屋を経営していたとして、日々牛丼を食べるお客さんを見て「毎日牛丼を食べていたら、飽きてしまう!明日からは麻婆豆腐を作ろう!」と思い立ち、麻婆豆腐しか出さない店になったとします。  その店に果たして、これまで来てくれたお客さんは、来るのでしょうか?  店主が内心牛丼屋なんかやりたくなくて、本当は麻婆豆腐屋をやりたいのだとしたら、ゼロからのスタートも悪くはないかもしれません。けれど牛丼屋をやりたくてやっていて、勝手に不安になって、客の為と的外れな麻婆豆腐屋になってしまったら、それは店主にとってもお客さんにとっても不幸なことではないでしょうか。  きっとぼくは、そんな嘘のような愚かしいことをやっていたのです。  読者を喜ばせる為にと、新メニューの開発ばかりに気を取られ、肝心の『元々自分の書きたいものに集まってくれた人達』であることを、忘れてしまっていたのです。書きたいことは、読みたいことは、もう書き切ったのかもしれない。それでもいいじゃないか。何度だって同じことを、読みたいことを書き続ければいいじゃないか。どうせ読者なんて過去に読んだものをそんなに覚えちゃいないんだから。  忘れてるよ、きっとそうだよ。  忘れろよ、忘れろ!  日々似たような毎日に嫌気がさして、想像できる未来に嫌気がさして、ぼくは会社を辞めて書く道を選びました。けれど書いた先で辿り着いたのは、会社員時代と同様に、同じことを書き続けるということでした。けれどね、だからって無意味なんかじゃないんです。同じことを書いたとしても、人は上手くなるんですから。  アルバイトで同じ仕事をしているのに、接客が丁寧だったり、作業が早い先輩がいたはずです。仕事の内容は同じだったかもしれない、けれど彼らは続けることにより、相手に与える満足度を高めることに成功していました。突拍子のないアイデアも、劇的な戦略も、奇抜な発想も必要なかった。必要だったのは、ただ『前よりも上手くなる』ことだけだったのだと、思ったのです。それはバイトでも、会社員でも、文章でも、あるいは自転車の練習だって同じことだった。  それに意識しなくても、ぼくは昔と書いていることが、そんなに変わっていなかったのです。過去の自分の作品を読んで、やっぱり面白いなと思う自分がいました。当時より知識も経験も増えた。けれどそれが自分というメイン商品の上に覆いかぶさり、隠し、大切なことを見えなくしてしまっていたのです。  上手い文章が書きたかったわけじゃない。読みたいものを書く為に、それを出来るだけ伝える為の技術が欲しかっただけだった。それなのに技術や知識に振り回されてしまっては、元も子も孫もないじゃないか。何をやってるんだよ金髪豚野郎!(東は現在一部金髪です)  閑話休題。  とまぁそんなわけで、これからは過去に書いた焼き直しをして、読んだものなど忘れてしまった馬鹿な読者達に「え?こういうの書いたことありませんけど?」みたいな顔をして牛丼を出し続けていこうと思いましたとさ。ただし、前よりも丁寧に。前よりもわかりやすく。前よりも面白く。前よりも楽しく。  ぼくの才能は、無くなったわけじゃなかった。寧ろ読みたいことを粗方書き切った、ここがスタートラインだ。今日のぼくは、その才能をもっと生かせる。明日のぼくは、更に生かせるはずだ。少しずつでいい。その少しずつの進歩が、まだ見ぬ物語を読ませてくれることだろう。  さぁ、明日も生きていこう。  読みたいことを、書けばいい。

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