ぺるしゃねこ
2 件の小説私と世界
部屋のカーテンの隙間から照りつけるような光が漏れていた。 外は快晴かもしれないという期待は、すぐにその通りだということを証明した。 カーテンを開けると、全身にこれでもかというくらいの剥き出しの自然が私を包み込む。 この光にいるうちは、自分は「大丈夫」だと思えるようになった。 この家は、南に向いているので午後になると、洗濯物をするときには絶好の日差しになるのだ。 そうして、家にいるのは勿体無い気分になっていき、一刻も早くここから出ないといけないと思った。 思い立った気分が損なわれないうちに、体は自然に外に出るために準備を始めていた。 カフェに行くつもりだったので、パソコンとタブレットを後ろカバンのポケットに押し込みチャックを閉める。 この音を聞くと、自分は強制的に外に行かなくてはいけない気がして、それが心地いい時がある。 春の日差しを感じていた 薄手のジャケットを羽織った。午後だし、暑いともお思ったが、カフェを出る頃には少し肌寒くなるかもしれないと思って、持っていくことにした。 この春から暑さに向かうまでの、絶妙な気温差が生まれる期間にはいつもどうしていいのか困っている。 洗濯機に洗濯物が入れられているのが、視界に入ってきた。 洗濯物を回してから、家を出た方が明日の負担も減らせると思った。 しかし、今この天気の中で、行きたいという思いも先行していることに気がついていた。 気づいたら、玄関に立ち靴を履いて、ドアノブを捻っていた。 共用廊下に出た途端に感じた、日差しの強さと心地のいい温かさに部屋の中にいた自分と、今の自分が別の生き物のように思えた。 風が頬に当たるのも気持ちが良かった。もういっそのこと、今から少し遠くに行きたいという気分に染まっていくのがわかった。 2階から1階へと通じる階段を降りる。駐車場を形作っている人工的に舗装された黒いゴツゴツした表面の地表に靴裏が接した時、自分は生きているのではないかという瑞々しい実感みたいなものを得た。 このような感覚は、意識的にならないとなかなか味わえるものではなくなってしまった。 今では、何をするにもどこへいくにしても、手にすっぽりおさまる小型端末を持って行かないと一種の不安になるくらい私たちの生活に浸透したスマホは、人々の時間と世界との感覚をここから遠ざける。 こんなにも自然を感じられる機会があるのならばと、私は自然に体を委ねたくなった。 車内に入るなり、近場のカフェではなく、少しドライブも兼ねて海沿いのカフェに行こうと思った。 近くには、大きな湖がある。 海ではないが風が気持ちよかったし、気持ちはすっかりドライブに包まれていた。 そうして、私を構成するすべての人工物から、のらりくらり離れるように、アクセルをゆっくり踏み始めた。
焦燥
絶えず流れてくる。情報の渦が、暗い室内で寝転ぶ自分の顔を明るく浮き彫りにする。 それに、明確な拒否感を覚えたのはいつからだったろう。 自分を規定するのは、周りの反応であるという言葉を聞いた。 その言葉を聞いた時、何も考えずに感覚的に確かにそうだという感覚と、全てを同意できない違和感が頭に残った。 皆が好き勝手に発信して、好き勝手に発言することのできるネット媒体の普及によって、自分が決められてしまうというのは酷く息苦しさのようなものを感じる。 周りが自分を決めるのであれば、今自分が考えている思考や、選択も自由意志がないように思える。 周りは、何もしていなくても何をしていても絶えず評価してくる。 やすやすと他人の心を詮索しても問題がないだろうと思う人が、大多数のこの世界で、自分が表立って出す情報によって全てを判断される。 画面の中で、140文字程度の文字の羅列が自分の網膜を刺激する。様々な人の日常が滲み出ている。日常なのか、演出されたポーズなのかはこちらからはわからない。 切り取られた情報によって、感情の行方が様々な方向へと導かれる。 限定的な情報をもとに、たくさんの人が各々の判断をして好き勝手に発言している。 これっぽっちの文字列で自分や、他の誰かの存在が規定されてしまうのか。 そんなにネットというものは狭いものだったのかと、嫌気がさしてくる。 それでいて、世間体は『人の目を気にしないで堂々と生きよう』と高らかに銘打っている。それが、美とされて持て囃されている。 苦しみは他人と比較することだと。さも自分達はそうしてきてますよと言わんばかりに。 実際は比較せざるを得ないこの世の中で、そんな言葉を掲げても大した意味を持たない。 そこまで考えて、片手に握られた端末を離せないでいる。 カーテンから朧げな光が部屋に侵入してきたのがわかった途端、瞼を閉じた。