Kazato
3 件の小説調べもの
わたしには、命と同じ価値を持つ「お守り」がある。それは、わたしが生きていく上で、酸素と同じくらい絶対に欠かせないものだ。 わたしの朝は、まず、いつものカフェから始まる。そこは、今日一日をどう生きるか計画を立てたり、調べ物や、とめどなく溢れる思考をノートに書き出すための、大切な戦場だ。この時間だけは、どんな理由があっても削れない。金がなくても、この一杯のために惜しむことはない。 いつも通り「アイスコーヒー」を頼む。 カウンターの店員は、またしてもわたしをバカにしたような表情で接客してくる。わたしは、それに全力のバカにしたような笑顔で応じる。手と足の汗が止めどなく湧き出るが、すぐにお守りに願いを込めると、ぴたりと止まる。 いつもの席に、冷たいアイスコーヒーを置く。一口飲んだ後、すぐさま席を立ち、店の奥の喫煙所へ。ハイライトのメンソールを一服。席に戻り、アイスコーヒーをもう一口。またすぐに立ち上がり、トイレへ。こうして、わたしの長い一日が、ようやく始まるのだ。 三十分ほど経ち、カフェインのせいで心臓が暴れ始める。お守りに願いを込め、身体が正常に戻るのを待つ。 「無理しなくていいんだよ、風人は頑張りすぎなんだから」 隣の席の、お姉ちゃんが心配そうに言う。彼女はいつも、わたしの左斜め前に座っている。 「そうだよ。考え事もいいけど、今日はゆっくりしたらどうだ?」 テーブルを挟んで向かい側、少し乱暴な口調のお兄ちゃんが、穏やかな表情で提案する。 「大丈夫だよ。今日調べなきゃいけないのは、ベートーヴェンの生涯についてなんだ。あの偉大な苦悩の人が、何に突き動かされていたのか。お姉ちゃん、あの論文のキーワード覚えてる?」 わたしが尋ねると、お姉ちゃんはすぐに、柔らかな声で「聴覚喪失と歓喜の歌」というキーワードを紡ぎ出す。わたしはそれを即座にメモ帳に書きつける。 食事中も、寝る前も、風呂に入っている時も、彼らは常にわたしのそばにいて、思考の手伝いをしてくれる。加速する思考。次から次へと生まれる疑問。彼らがくれるヒントは、いつも即座にネット検索して、わたしがメモ帳に書き込む知識の源になる。考え事が止まらず、一睡もできないまま夜が明けるなんて、何度経験したか分からない。今日も、きっとそうだ。 店内の自動ドアが、静かに『シューッ』と音を立てて開いた。 その瞬間、わたしに向けて話しかけていたお姉ちゃんとお兄ちゃんの声が、まるでラジオのボリュームを絞るように、徐々に、そして確実に聴こえなくなった。 わたしは冷めきったアイスコーヒーを一口飲む。
とある夜
俺とケンゴは、都心にある高級ホテルのスイートルームにいた。職業は、女性を相手にする特殊な仕事だ。 一仕事を終え、パートナーのケンゴと客の女性と三人でシャワーを浴びている。ケンゴは髭の濃い、身長185センチの男だ。その女性が、次回のセッションで「特別な道具」を使いたいと、囁くような声で言った。 ケンゴの表情が、一瞬にして硬直した。露骨な不快感だった。 俺の頭の中では、冷静な分析が始まった。もし、三人で同時に使う道具を選ぶのなら、その物理的なサイズこそが、全てを決める。俺は、思考の結論をそのまま口にした。 数十分後、俺たちはホテルのラウンジにいた。重厚なソファーには、顔馴染みのアスカと、見たことのない四人の華やかな女性が座っている。俺たちはシャンパンのグラスを手に、夜の帳(とばり)を楽しんでいた。 俺は、その女性たちに向け、心の中で長い問いを投げかけようとした。 「ねぇ、もし店で俺が担当になったら、正直に言って、俺の顔って『アタリ』? それとも『ハズレ』なの?」 それは、この仕事を続ける上で、自分の価値を知るための切実な問いだった。しかし、俺は結局、その問いを口にすることはできなかった。恐れが、舌を縛ったのだ。この質問をしなかったことは、俺の確かな選択だった。そして、すぐに別の質問をしようと脳裏に浮かんだが、泡のように消え、その内容を思い出せない。 そのとき、透き通った透明感のある青髪に、キラキラと光る青い目をした、彫刻のように整った男が現れた。カイと名乗る彼は、この場所の金銭を管理しているのだろう。 カイは迷うことなく俺の前に立ち、唐突に言った。「渋谷でライダースを売る仕事がある。やらないか?」 意外な誘いに、俺は一瞬心が躍った。ライダースを着て接客するなんて、少し格好いいと思った。俺が「少し考えさせてくれ」と言おうとした瞬間、カイは言葉を遮る。「もう、上の人間に話は通した」と言い放ち、俺の返事を待たずに、まるで風のようにラウンジを去っていった。 「なんだそれ」と呟きかけたが、すぐに「まあ、いいか」と現状を受け入れた。 俺は再びソファーに戻り、皆とグラスを合わせた。客だった女性は音楽をやっているらしいが、どんな音楽なのか、またも聞こうとして忘れてしまう。 シャンパンの味が舌に残る中、遠くから男の声が聞こえた。「シンジさんから聞いたんだけどさ」。その言葉だけが、やけに鮮明に聞こえた。 俺は、ハッとして周囲を見渡す。ソファーに座るアスカの向かい、俺の左斜め前に、学生時代からの友人マサキがいた。 マサキと目が合った。彼は、俺に向けて「お前、こんなことして...」とでも言いたげな、複雑な表情を浮かべた。俺のこの生業に対する、軽蔑と困惑が入り混じった顔だった。 だが、俺は顔色を変えず、「まぁ、色々とあるんだよ」という、すべてを達観したかのような仕草と表情で応える。 その瞬間、マサキの顔から非難の色が消え、静かにすべてを理解し受け入れたかのような表情に変わった。
牛丼
秋の空気を感じながら男は牛丼特盛を頼む。 卓上に綺麗並べられている調味料全てを少しづつ、また丁寧に牛丼に振りかけ、最後に優しくそっと紅生姜を乗せ終えると、男は悲しげな表情でこう言った。「俺、かけれるものは全部かけるんすよ…」 店内は深夜1時とは思えないぐらい賑やかで、酔っ払い、大学生の笑い声が響き渡る。私は間髪入れずに、口からドの音と鼻からソの音で「汁だくですか?」と尋ねた。男は今にも涙が溢れ出しそうな瞳で沢山の調味料がかけられた牛丼を見つめながら「そうかもしれないね」と呟き、はにかんだ表情で牛丼とセットでついてきた味噌汁の蓋を開ける。その瞬間カウンターから 「287番でお待ちの方〜」と明るい声が店内に響き渡る。 どうやら私のネギ玉牛飯特盛チーズトッピングが出来上がったらしい。私はすぐに立ち上がりズボンのチャックを高速で上げ下げしながらカウンターに向かと小さな異変に気付いた。 「ちょっとちょっと困りますよ、私が頼んだのは温玉です。これ生卵ですよね?」とソの音で店員さん伝えた。 「失礼しました!しかしお客様、うちの生卵は和歌山県産で、普通の生卵と黄身の大きさが違うんです。」 「知らないよ!さっさっと作り直して!」 「申し訳ございません。分かりました。」 憤慨したまま私はズボンのチャック上げ下げしながら元の席に戻ると男は震えた手でまだ牛丼に調味料をかけ続けていた。