「親友でなくなる日」
『大親友へ』
彼女からの手紙を見る度に僕はあの頃を思い出す。
彼女は僕の初恋だった。高校生活が始まる登校初日、僕は一目惚れをした。風に吹かれサラサラと揺れる美しく長い髪にキリッとした目つき、すっきりとした鼻に誰をも魅了するほどの小さい顔が僕の心を射抜いた。
クラス発表の紙が張り出されていたので自分のクラスを確かめ、教室へ向かい席に着くと彼女が同じクラスにいて、僕は人生全ての運を使い切ったのではないかと思ってしまった。が、ここで浮かれてはいけない。中学の頃、人当たりが悪いと散々いじめられていたあの時を境に極力周りと距離を置こうと決めていた。しかし、どうしてか目の前にいる天使と目が合ってしまった。僕は目を逸らしたが遅かった。彼女はこちらを見るとどこか弱々しい足取りで僕の席へ近付き、
「席隣だね、これからよろしくね」とだけ言い、去っていった。息が止まるかと思った。
その日は午前で学校が終わるため、大半の人たちは部活動の体験に行くのだが、僕はそんなのに興味は一切なく、一分一秒でも早く家に帰りたかった。下駄箱で靴を履き替えていた時、彼女とばったり遭遇した。僕と目が合う。そしてなぜかにこっと笑い、
「部活、体験とか行かないの?」
と話を持ちかけてきた。どう答えようか迷っている僕を見て何かを察したらしく、
「よかったら少し付き合ってよ」
と天地がひっくり返っても起きないだろうことが現実となったのでしどろもどろになった。しかし、僕は頷いていたんだろうか、気付けば学校の門から少し離れた場所にある桜並木の道を彼女と歩いていた。
「あのさ、名前聞いてないんだけど?」と言った直後にどうしてこんなことしか言えないのかと自分を殴りたくなる。
「恵梨香、めぐむになしにかおりってかく」
と揶揄する目で言われるものだから、思わず
「バカにしてるのかよ」
と半分怒り、半分笑いを込めた言葉をぶつけてしまった。
「どうして、漢字は他にもあるでしょ」と当然のことを言われ言葉を失った僕を見て彼女がまた笑う。
「君ってどこ中?」と聞かれ中学の頃の話をしたくなかった僕は
「どこでもいいだろ」
と素っ気なく返すと、
「えー気になるんだけど教えてくれないの」
と思わせぶりなやつにありがちな返答をしてくるのでほんといい意味で困る。話を変え、
「そんなことより、何に付き合えばいいんだよ」
と相変わらず冷たい言葉をかけると、
「こうやってつまらん話をすること」と言っては、「でも今日はもう十分、ありがとうわがままに付き合ってもらって、じゃあまた明日」と手を振った後の背中からどこか寂しい影を落としながら帰って行った。しばらくして自分の名前を言っていなかったことを思い出した。やっぱ僕は最低だ。
数学の授業で板書を写していると、横から消しゴムが飛んできた。彼女だった。恵梨香と名乗る彼女の苗字は須藤だった。彼女の友達がそう呼んでいるのを聞いた。消しゴムのカバーの中には小さく折りたたまれた白い紙が入っていた。広げると『そういえば名前何?』と小さな字で書かれていた。僕は『石橋圭人』と書き、消しゴムのカバーに入れ、彼女がしたように消しゴムを投げた。一番後ろの席だからバレないと思っていたが先生に気付かれた。
「おいっ、石橋、授業中になげていいのは質問だけだ。この問題の答え、分かるか」と聞かれたので、
「ルート5」
と答える。
「悔しいが正解だ、だが、問題が合ってたからって消しゴムを投げていい理由にはならんからな」
と至極真っ当なことを言われた。隣を見ると彼女はくすくすと笑っていた。いろんな意味でむかつく。世に出て使うかも分からない数学の公式なんかより彼女に好きになってもらうための正しい公式を覚えたいなんて本人を前にして言えないが確かにそう願っていた。
昼休み、彼女が友達と弁当を食べに歩いて行く姿を教室から眺めていると、後ろから声を掛けられた。
「おまえ、さっき先生から怒られてたな」
と片手で肩を軽く叩かれ、
「俺、慎二っていうの、よろしくな」
と言った後、
「あの子かわいいよな」
と彼女の方を向いた。誰とも関わりたくなかったが、ああ、そうだなとだけは返した。すると、
「弁当、一緒に食わねえ?」と突然誘われ、一人で食べるからとも言えたのだろうが、この手のやつは何回断ろうがまた誘ってくるに違いないと感じ、渋々一緒に食べることにした。
「さっき俺がかわいいって言った子いるだろ」
まさか、
「俺あの子に告白するつもりなんだ」
心臓が飛び出る思いだった。弁当を食っていたら吐きだしていただろうなという安堵なんて感じる余裕もなかった。
「だから、なんというか、応援してくれねえか、おまえ恵梨香ちゃんと楽しそうに二人で話しているって友達みんなが言ってたぞ」
相変わらず噂話とは本当に怖いものだとも思ったが、そんなことより彼女がもし彼の告白を受け入れたらと考えると焦燥感に駆られた。
「まあそういうことだから頼む」
僕は応援するわけないだろと心の内で叫びながら、それでも無言で頷き、弁当の中のスクランブルエッグにかぶりついた。
あれから二カ月が過ぎ、全クラスで高校に入学して初の旅行に行くことになった。遊園地に美術館、最後に海で遊ぶという流れだ。僕は行きの新幹線でずっと一人そわそわしていた。隣には彼女が座っており、時々僕を見つめては名前呼びで、「圭人くんってこういう経験あんまりないでしょ」
とからかい混じりに聞いてきたので、思わずかっとなり、
「そんなことねえよ、人との心の距離が分かんねえからじっとできないだけ」
と余計な一言を付け加えてしまい、一人で反省会を行った。絶対引かれるだろうなと思っていたが、そんなこともなく、
「じゃあ私と似てるのかもね」とむしろ同情に近い言葉を返された。僕と君が似ている?そんなはずないだろ。天と地ほどの差がある僕と彼女のどこが似ているのか、そんなことをこの旅行中ずっと考えていた。
僕はそれなりにこの旅行を楽しんだ。それは彼女と班が一緒だったからというのもある。遊園地では絶叫が苦手で怯える僕を彼女はからかい、美術館では
「私にもこれ描けるかな」
と彼女が言うので、
「不器用なのに?」
と遊園地の時の仕返しをしてやった。海辺ではこの旅行イベントの一つである砂浜競走をした。彼女と対戦することになり、僕が勝つと彼女は頬をふくらませ、
「ねぇちょっとくらい手を抜いてくれてもよかったんじゃない?」
などと矢継ぎ早に文句を言ってきた。そんな彼女のことが愛おしくて仕方がなかった。いろんな所へ行けたという楽しさもあったが、なにより彼女と側にいられ、同じ時を過ごし、以前よりも打ち解けて話せるようになり、距離が縮まったことが何よりも僕の幸せだった。彼女は僕に幸せをくれた。それがきっかけかは分からないが次第に僕は人との心の距離を掴めるようになっていった。他のクラスメイトとも少しずつ話せるようになり、慎二とも冗談を言い合える仲にまでなっていった。もしかしたらこれから僕は中学の時には夢にも思わなかった高校生活を送れるのかもしれない。僅かながらも確かにそう期待している自分がどこかにいた。
だが、そんな穏やかな世界にも、終わりを伝えるチャイムがなろうとしていた。
旅行が終わり、次の日は休日だったので家でごろごろしながらも彼女に告白する決心を固めていた。絶対成功させたい。僕は彼女に手紙を書くことにした。この強い気持ちが僕の手を動かす原動力だ。この手紙を告白と一緒に渡そうと心に決めていた。しかし、その日の夜気持ちがあまりにたかぶり一睡もできなかった。月曜日、僕は風邪をひき、病院に行くとインフルだと診断された。一日でも早く学校に行きたいと親に懇願したが、周りに移したらだめだからと結局五日間学校を休むことになり、次に学校へ行ったのは休日をまたぎ、インフルにかかった一週間後だった。
普段通り学校に着くと、下足室に入る。普段通り靴を履き替えようと上履きを見ると紙くずやチョークの粉らしきものが大量に入れられていた。とても嫌な予感がした。急いで教室に向かい中に入るとみんな僕を見てはすぐに目を逸らした。席まで行くと机の上には油性マジックで『てめえまじ何なの』だの『早く消えろ』だのと隈なく書かれていた。僕は何が起こっているのか状況を理解すると同時に中学の頃を思い出していた。あの頃人との上手な接し方が分からなくて、思ったことはすぐ口に出てしまう僕はこれと同じようないじめを受けていた。二度とあんなことは起こらないと思って油断していたこの愚かな心を責めてもどうしようもないことは分かっているが、どうしても自分を許すことができなかった。こんなことをしたのは一体誰なのか。他に僕と関わったことで被害を受けた人はいないか。ハッとなり隣を見るが彼女の姿も荷物もそこにはなく、代わりに僕と同じように机の上には『誰にでもいい顔しやがって、うっとうしいんだよ』などとありとあらゆる悪口が書かれていた。頭が真っ白になった。
僕は教室を飛び出した。僕のせいだ。中学の頃の僕を知っている誰かの仕業に違いない。しかし、こんな時でさえ僕は彼女に告白したいという気持ちがあった。しかし、まずしなければならないのは彼女に謝ることだ。こうなってしまった今、中学の頃何があったのかも全て打ち明ける義務が僕にはある。校内にはいないみたいなので門の外から少し離れたところで待ち伏せすることにした。よく晴れた空に色はなく、六月の昼だというのに暑さもそれほど感じなかった。待っても待っても彼女はやってこない。昼が過ぎやがて夕方になった。結局彼女は一度も姿を現すことはなかった。
彼女が死んだという話を聞いたのはそれから数週間後のことだ。死因は肺がんだった。先生によると、自室に引きこもる彼女の母親が何度呼んでも返事がないので部屋に入るとうつ伏せの状態で右手を伸ばし倒れていたのだという。前々から余命宣告は受けていたものの生徒には内密にとのことだった。机に書かれていた悪口の犯人は同じクラスの近藤さんだった。実は旅行の宿泊先で慎二が須藤さんに告白したが振られたのだという。近藤さんは前々から慎二のことが好きで彼女も旅行の際に告白したそうだが、「俺は須藤さんのことが好きなんだ、だからごめん」とあっさり断られたとのことだった。はらわたが煮え繰り返る思いになり、我慢の限界だった近藤さんは須藤さんが僕のことを好きだから慎二の告白を断ったのだと思い、僕たちの机に悪口を書いては上履きにチョークの削りカスや紙くずを入れ、僕と須藤さんとの関係を引き裂こうとしていたのだと知った。
僕は彼女と親しくしていたクラスの女子から彼女の家の場所を教えてもらい、事前に彼女の母親と連絡の上、駅前で菓子折りを買い、挨拶をしに行くことにした。
名前は電話で伝えてあり、
「あなたが圭人くんね、どうぞ上がって」
と温かく出迎えてくれた。お線香をあげ、手を合わせると、
「これ、あなたにぜひ読んで欲しいの、あの子が死んだ時に床に落ちてるのを拾って気になったから中を見さしてもらったわ、ごめんなさいね」
と丁寧な口調で伝えられると、母親から白い手紙を受け取った。開いてみるとそこには消しゴムカバーに入っていたあの小さな手紙と同じ懐かしい丁寧な彼女の字が書かれていた。
『 大親友へ
この手紙を圭人くんが見ている頃に私はもう死んでいるのかな。こんなこと今言うのは違うと思うけど、私、あなたの何でも言えちゃう精神に憧れていました。私はあなたと同じで、人と関わるのが苦手でかなり内気な性格です。だからいろんな人と話してたの、実はかなり無理してたんだ。でも余命宣告されて悔いが残らないように出来るだけ多くの人と話したいなっていう気持ちが先行して、そんな中で私を最も支えてくれたのが君の存在だった。圭人くん、あなた気付いてないでしょ。桜並木でつまらない話にあなたが付き合ってくれた時、私はほんとに気持ちが救われたんだ。まああの頃の君はかなり冷たかったけどね笑
でもそんな素直なところを羨ましく思ったのが私。消しゴム投げたのを先生にバレた時の君の顔、旅行の遊園地で絶叫系に怯える顔と全くおんなじじゃんと君に直接伝えたいんだけど死期が間近だから直接言えるかどうか。あとごめん。これ一番に謝らないといけないのに。君の机に悪口が書いてあったよね。あれ、私が原因なんだ。誰かから聞いてるかもしれないけど私が慎二君の告白を断ったことで彼を好きな近藤さんが怒って私の机に、そして断ったのは私と君をよく話すところをよく見るから、私が君に好意を抱いているのだと近藤は思い君の机にも書いたんだと思う。だから全部私が悪いの。本当にごめんなさい。最後にひとつ、お願いがあります。これから先、君に恋人ができても私とは大切な親友でいてください。大好きだよ。』
彼女の母親が僕の手元にそっとティッシュを置いてくれるまで、僕は目から滴れ落ちる雫の存在に気付かなかった。
「恵梨香、あなたのことよく話していたわ。学校でありのままに話せる友達ができてものすごく喜んでた。あの子とずっと仲良くしてくれてありがとう」
涙を拭いながら
「こちらこそ、ありがとうございます」
と伝え、僕は他にもたくさんの彼女との思い出話を彼女の母親に話した。
あれから10ヶ月が過ぎ、クラス発表の日がやってきた。慎二とはあれから仲良くなり今では僕の大事な友達だ。近藤さんはあの日から一時期周りから距離を置かれたものの時間が過ぎたこともあり、また人が集まるようになった。
須藤さんとは親友ではなく仲睦まじい恋人として関わっていく日はもうやってくることはない。それでも僕は今はいない彼女との、彼女が願う新しい関係性を大切にしたいと思う。君と恋ができたから。