千莵

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千莵

今年度は頑張って投稿頻度を上げたいです!

インスタント宇宙旅行 〜上弦の月〜

「……なに、これ?」  部屋の中央には、人が中に入れそうなほど巨大な白い立方体があった。  壁や床と同じような白色なのに、それだけが妙な存在感を放っている。  表面には継ぎ目らしいものもなく、輪郭をなぞるように淡い白い光が浮かんでいた。 「すごいでしょ?」  隣で星来が得意げに笑う。 「これはね、NOAって言って、めっちゃ簡単に行きたい場所に行くための乗り物だよ!」 「…………」  正直、何を言っているのかよく分からない。そんな私の様子を見て星来は「んー……何て説明すればいいのかなぁ」と呟いていた。  星来が辺りを見回したあと、突然声を上げた。 「あっ、柊ちゃん! ちょっとこっちに来て~!」  柊と呼ばれた小柄な女性が、なんだろうというような顔でこちらへやってくる。 「お疲れ様です、センパイ。……っていうか、今日はお休みでは?」 「そうだよ。今日は遊びに来たの。それで、私の友達にNOAの説明をしてほしいなぁ~っと。お願いしてもいい?」  星来が上目遣いでお願いすると、柊さんは少し呆れたように笑った。 「センパイらしいですね」 「でしょ?」 「褒めてませんよ」  柊さんは私の方へ向き直る。 「色々すみません、センパイが。改めまして、柊といいます。この人の後輩で同じ研究室の者です」  私は「お願いします」と言って軽く会釈をした。 「NOAは正式には、 Next generation Orbital Ark。 簡単に言えば、登録された地点へ移動するための乗り物です」 「登録された地点?」 「はい。NOAの中には操作パネルがあって、目的地ごとに割り振られた四桁の番号を入力します」 「四桁?」 「はい。一桁目が大きな分類。地球か宇宙かを示しています。二桁目が地域やエリア。そして最後の二桁が、その場所の詳しい到着地点です」 「なるほど……」  少しずつ、仕組みが分かってきた。 「ちなみに、最後の二桁を『00』にすると、その地域の基準地点へ移動します」 「基準地点?」 「はい。例えば――」  柊さんが操作パネルの方を指差す。 「月なら、2100です」 「2100?」 「2が宇宙、1が月。そして最後の00が基準地点を表しています」 「……エレベーターみたい」 「イメージとしては近いですね」  柊さんが操作パネルを指差した。 「……本当に月へ行けるんだ」 「はい」  その答えを聞いても、まだ実感が湧かなかった。  すると星来が、楽しそうに口を開く。 「じゃあ、実際に行ってみる?」 「……え?」 「そのためにこの研究所に来たんだよ、せっかくの休みなんだし気分転換とでも思えば良いよ!」  あまりにもあっさりと言われて、私は思わず笑ってしまった。 「……行ってみたい」 「決まり!」  NOAの内部は、外観からは想像できないほど普通だった。 「……エレベーターみたい」  白い壁に、数字の並んだ操作パネル。  星来がその前に立つ。 「じゃあ、行くよ」  2、1、0、0。  四つの数字が順番に入力される。  画面に、 DESTINATION:MOON と表示された。 「……月」  その文字を見つめる。 「本当に行くんだね」 「うん」  星来が決定ボタンを押した。  淡い白い光が、視界を覆う。  次の瞬間―― 「……着いた」  窓の向こうには、黒い宇宙が広がっていた。  そして、その中に浮かぶ青い星。 「……地球」  思わず呟く。 「冴夜」 「なに?」 「月へようこそ」  私はしばらく、その景色から目を離せなかった。

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インスタント宇宙旅行 〜上弦の月〜

インスタント宇宙旅行 〜三日月〜

いつもより少しだけ優雅に朝食を済ませ、着替えのためクローゼットを開いた。  最近は職場と家を往復するだけの生活だった。  おしゃれをする暇なんて、ほとんどなかった。  だから、クローゼットの中には一度も袖を通していない服がたくさん眠っている。 「これもいいな……」  服を選ぶ、腕を通す、ズボンを履く。  一つ一つの動作をするたびに、胸の奥から何かが湧き上がってくる。  まるで、子供の頃に戻ったみたいだった。  準備を終え、スマートフォンをいじっていると――  インターホンが鳴った。 「来た!」  勢いよく玄関へ向かう。  扉を開ける。 「おはよう!」 「うわっ!」  星来が驚いて後ずさる。 「びっくりするじゃん!」 「ごめんごめん、待ちきれなくて…」  星来が、じっと私を見る。 「何?」 「いや……」  少し考えてから、呟いた。 「昨日とは別人すぎる……」 「そうかな?」 「まぁでも、こんなに楽しみにしてくれてたんじゃあ、期待には応えないとね」 「そういえばさぁ今日、どこに行くの?」 「んんー?」  星来がいたずらっぽく笑う。 「それは、ついてからのお楽しみ」 「えぇ〜」 「さっ、行くよ!」 「ちょっと待って!」  星来に引っ張られるようにして、私は家を出た。  車の運転は星来に任せた。  いつもなら自分で運転している道も、今日は助手席から眺める。  流れていく景色を、ぼんやりと見る。  すると―― 「あれ?」 「どうしたの?」 「こんなところに新しい店あったんだね」 「……」  星来が少し引いたような顔をする。 「何?」 「いや……この店、二ヶ月以上前からあるけど」 「えっ?」  思わず店の方を見る。  本当に、見覚えのない店だった。 (……そうだったんだ)  当時の私は、それほどまでに周りを見る余裕がなかったのだろう。  毎日、会社と家を往復する。  仕事をする。  眠る。  また仕事へ行く。  ただ、それだけ。 (今なら分かる)  昨日までの自分は―― (異常だったんだ)  見慣れた道路を外れ、さらにしばらく走る。  やがて、星来が車を停めた。 「はいっ」  星来がシートベルトを外す。 「とうちゃーく」  車を降りる。  目の前に、大きな建物があった。  その正面には、こう書かれている。   『的場研究所』 「……研究所?」  私は建物を見上げる。 「ここは?」 「私の職場」 「……ん?」  私は星来を見る。 (お出かけで、星来の職場に来るなんて……) 「ほら、入るよ」 「ちょっと、星来?」  慌てて後を追う。  研究所の中へ入ると、星来は鞄から社員証のようなものを取り出した。  入口にいた職員へ提示する。 「こんにちは、この子も一緒にお願いします」  そう言って、星来は私を手で示した。 「分かりました」と言って職員は私を見る。 「では、こちらの書類に記入をお願いします。それから、こちらを持っていてください」  渡されたのは、小さなバッジだった。 『的場研究所 関係者』  そう書かれている。  言われるままに書類へ必要事項を記入し、バッジを胸元につける。  そうして、私は星来について研究所の奥へ進んでいった。  廊下を歩くと見慣れない設備や機械がたくさんあった。  いったい、ここで何を研究しているのだろう。  そんな疑問を抱えながら歩いていると、星来が一つの扉の前で足を止めた。  扉の横には、こう書かれている。 『第二開発室』  星来がこちらを見る。 「着いたよ。…ちょっと驚くかも」 「……?」  星来が扉を開ける。  その瞬間。  淡い白い光が、視界いっぱいに広がった。 「……なに、これ」  部屋の中央。  そこには――  人が中に入れそうなほど巨大な、白い立方体があった。  機械のようにも見えるけれど、どこか違う。  表面には継ぎ目すらほとんどなく、ただ静かに、淡い光を放っている。  私はその場に立ち尽くした。  星来は、そんな私の反応を見て、どこか楽しそうに笑っていた。

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インスタント宇宙旅行 〜三日月〜

インスタント宇宙旅行 〜新月 Ⅱ〜

ぼんやりとした頭で、周囲を見回す。  白い壁。  白い天井。  そして、自分が横たわっているベッド。 (……病院?)  どうして自分が病院にいるのか。  そもそも、何があったのか。 (なんで病院にいるんだっけ……?)  必死に記憶を辿ろうとする。  けれど、頭がうまく働かない。  そんな時だった。  病室の扉が開いた。 「目が覚めたんですね」  看護師が入ってくる。 「このまま働いていたら、危ないところでしたよ」 「……えっ?」 「まだ身体がしっかり休めていないみたいなので、もう少し寝ていてくださいね」 「もう少し……?でも、仕事が…」 「仕事のことは考えなくていいですから。今はしっかり休んでください」  それだけ言い残して、看護師は部屋を出ていった。 (仕事のことは考えなくていい、か……)  そんなことを言われても、と思う。  けれど、今は考える気力すらなかった。  私は再び目を閉じた。  そして、言われた通りに眠った。      * * *  次に目を覚ました時には、先ほどよりも頭がすっきりしていた。  時計を見る。  どうやら、しっかり三時間ほど眠ったらしい。  その後、いくつか検査を受けた。  結果、大きな問題はなかった。  ただし―― 「しばらくは、しっかり休みを取るようにしてくださいね」  結局、言われたことはそれだけだった。 「……はい」  返事をしながら、自分でも分かっていた。  今回倒れたのは、身体が限界だったからだ。  このまま同じ生活を続ければ、また倒れるかもしれない。  それでも。 (仕事……どうしよう)  そんなことを考えてしまう自分が、少し嫌になった。 「今日はもう帰って大丈夫ですよ」  看護師にそう言われ、私は病院を出る準備を始めた。  病院の外へ出る。  久しぶりに感じる外の空気は、思っていたよりも気持ちよかった。 「冴夜、迎えにきたよ!」 「……ん?」  声のした方を見る。  そこには、見慣れた顔があった。学生時代の大親友だ。 「星来?どうしてここに?」 「良かったぁ〜!冴夜のお母さんから倒れたって聞いて…  もう、ほんっっっとうに心配したんだよ!」  今にも泣きそうな顔で、星来が駆け寄ってくる。 「大丈夫なの?」 「うん。もう帰っていいって」 「そっかぁ……」  星来は大きく息を吐いた。  どうやら、かなり心配をかけたらしい。 「ごめんね」 「謝らなくていいよ」  そう言って、星来は私の顔をじっと見る。 「……本当に大丈夫?」 「大丈夫だって」 「このあと仕事に戻ろうとか思ってないよね?」 「それは…」  私は言葉に詰まる。  すると、星来は呆れたようにため息をついた。 「やっぱり」 「いや、でも……」 「今日は休み」 「え?」 「今日も、明日も」 「明日も?」 「そう。明日も休んで」 「でも……」 「いいから」  星来は有無を言わせない顔をしていた。 「明日、出かけるから」 「……どこに?」 「それは明日のお楽しみ。とにかく、今日はちゃんと休む!」 「……はい」  こうして、私は星来に連れられるようにして病院を後にした。  駐車場へ向かう途中、星来がふと思い出したように口を開く。 「そういえば、会社には連絡したの?」 「あっ……」  忘れていた。という私の様子を察したのか、 「じゃあ、今しよう」と星来にスマホを出すよう促された私は会社へ電話をかけた。 「もしもし、星野です。部長、あの……今日と明日なんですけど、」 『星野さん、もう大丈夫なんだったら、今から戻ってこられるよね?』 「えっと……」  やっぱり、そう来るか。 「今日は大事を取って休みたいのですが……」 『でも、他の人も頑張ってるんだから――』  その言葉を聞いた瞬間、隣にいた星来が手を伸ばした。 「貸して」 「え?」  スマートフォンをひったくられる。 「ちょっと、星来!」 「もしもし」  星来が電話口に向かって話す。 「冴夜は今日と明日、休ませますから」  それだけ言って、電話を切った。 「……え?」 「はい、終わり」 「いやいやいや!」 「何?」 「それだけ!?」 「十分でしょ」 「絶対、あとで怒られるよ……」 「冴夜が倒れたことの方が問題でしょ」  そう言って、星来は歩き始める。 「ほら、帰るよ」 「……はい」  私はその後を追った。  帰り道。  車の中で、私は窓の外を眺めていた。  いつも通っているはずの道。  けれど、今日は少しだけ違って見える。 「ねぇ、星来」 「ん?」 「明日、どこ行くの?」 「だ・か・ら、秘密だってば」 「教えてよ〜」 「ダメ」 「なんで?」 「楽しみがなくなるから」 「それはそうだけど……」 「明日になれば分かるよ。それに、たまにはこういう日があってもいいでしょ?」 「こういう日?」 「仕事のことを考えない日」  その言葉に、私は少しだけ黙った。  仕事のことを考えない。  そんな日は、いつ以来だろう。 「……そうだね」  窓の外を見る。 「たまには、いいかもね」 「でしょ?」  星来が笑う。 「じゃあ、明日迎えに行くから」 「うん」 「絶対に寝坊しないでよ」 「分かってるって」 「また明日ね〜」  星来に「また明日。」と返事をして車を降りる。      * * *  翌朝。  目覚ましが鳴る前に、目が覚めた。  いつもより身体が軽い。  頭もすっきりしている。  ここ最近、こんな感覚を味わったことがなかった。  カーテンを開ける。  窓の外には、いつもと変わらない景色が広がっていた。  見慣れた建物。  見慣れた道路。  見慣れた空。  なのに。 「……いい朝だなぁ」  なぜだか、今日はいつもより綺麗に見えた。 (よし)  私は大きく伸びをする。 (準備しますか!)

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インスタント宇宙旅行 〜新月 Ⅱ〜

インスタント宇宙旅行 〜新月 Ⅰ〜

「はぁ〜……」  背伸びをしながら、デスクの上に置かれた時計を確認する。  時刻は、まだ日付が変わる前だった。 (いつもよりはマシかな)  そんなことを思いながら、散らかったデスクの上を片付けていく。  いつもなら、午前零時を過ぎても帰れないことが多い。今日みたいに日付が変わる前に仕事を終えられる日は、むしろ珍しかった。  荷物をまとめて会社を出る。  駐車場まで歩き、車に乗り込むと、カーナビのテレビをつけた。  チャンネルをいくつか変えてみる。  ニュース、ドラマ、バラエティ。  どれも、今の自分には面白いと感じられなかった。 (……ラジオでいっか)  画面をラジオへ切り替え、適当な周波数に合わせる。 『……今日からペルセウス座流星群がよく見られるという予報なんだけど、天気が曇りだから見えないかもねー……あれっ、ピークはいつだっけ?』  女性パーソナリティの明るい声が、静かな車内に響く。 『……明後日!? 確か明後日は全国的に快晴だったよね? みーちゃんさん、良かったじゃん! 親子で天体観測、楽しんで〜!』  楽しそうな声に続いて、次の投稿を紹介する声が流れ始める。 『……続きまして、ラジオネーム――』 (天体観測ねぇ〜……)  ぼんやりと前方を見つめながら、ハンドルを握る。 (空見たって、星見えないしなぁ〜) 「帰りたいな……」  ぽつりと呟いた。  その言葉が誰に向けたものなのか、自分でもよく分からなかった。  ただ、疲れていた。  その後は、ラジオの声を聞き流しながら、いつもの道を走っていく。  街中に並んでいた看板の明かりや街灯が、いつの間にか少しずつ遠ざかっていく。  窓の外の景色は、いつの間にか田舎とそう変わらないものになっていた。  夜の道路を照らすのは、車のヘッドライトだけ。  周囲に人の気配はない。  そんな景色を見ているうちに、眠気が少しずつ襲ってきた。  しばらくして、借りているアパートが見えてくる。 (……ああ、着いた)  駐車場に車を停める。 (荷物は……まぁ、いっか)  今から荷物を持って部屋まで運ぶのが、ひどく面倒に思えた。  スマートフォンだけを手に取ると、車に鍵をかける。  そのまま自分の部屋へ向かった。  そして、玄関の前まで来たところで足を止める。 「……ん?」  扉の前に、段ボール箱が置かれていた。  送り主の名前を確認する。    『星野冴夜』  宛名を見ただけで、なんとなく誰から送られてきたものなのか分かった。 (お母さんかな)  案の定、依頼主の欄には『星野久子』と書かれている。  持ち上げてみる。 「……重っ」  思わず声が漏れた。  なんとか部屋の中へ運び込み、玄関の扉を閉めた。  そして、そのまま玄関の床に転がる。 「はぁ〜……」  冷たい床が気持ちいい。 (もう、ここで寝ようかな……)  ベッドまでの距離が、今はひどく遠く感じる。  このままここで寝てしまえば、明日の朝には体中が痛くなっているだろう。  以前、同じことをして散々な目に遭ったことを思い出す。 (……あんな思いは勘弁だな)  重たい身体を起こす。 (仕方ない。ベッドまで頑張るか)      * * *  満足な睡眠を取れないまま、今日も朝が来てしまった。 (なんか……いつもよりだるい……)  目を覚ました瞬間から、身体が重い。  けれど、きっと気持ちの問題だ。  そう自分に言い聞かせながら、いつものように身支度を始める。  朝食を済ませ、家を出る。  車を走らせる。  いつもの道。  いつもの景色。  いつもの時間。  なのに、今日は何もかもが重かった。  いつもの倍の時間がかかったような気がしながら、ようやく職場へ到着する。  デスクに座っても、身体のだるさは消えなかった。 「星野さん、少し良いかな?」  声をかけられた。 「はい」  返事をして、立ち上がろうとする。  その瞬間――  足元がふらついた。 (あっ)  視界が傾く。 (倒れる……)  頭では理解していた。  けれど、身体は動かなかった。  そのまま重力に従うように、身体が床へ向かっていく。 「ちょっ、大丈夫!? 星野さん! 星野さ――」 (やばい……)  声が遠くなる。 (起きれ……)  身体に力を入れようとする。 (起きれ、ない……)  そこで、私の意識は途切れた。      * * *  次に目を開けた時、そこは見知らぬ場所だった。 (……どこ?)

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インスタント宇宙旅行 〜新月 Ⅰ〜

一灯の螢

蛍は、消えたものだと思っていた。 昔は当たり前のように見えていた小さな光も、いつからか人の暮らしの明かりに紛れ、気づけば探さなければ見つからないものになっていた。 だから彼女は、山へ向かった。 もう一度だけ、あの光を見たかった。 理由など、それだけでよかった。 夜の山道は静かだった。 風が木々を揺らす音と、自分の足音だけが聞こえる。 しばらく歩いた先で、彼女は足を止めた。 そこにあるはずのないものがあったからだ。 大きな屋敷。 古い木造の建物なのに、不思議と朽ちた印象はなく、まるで誰かが今も暮らしているようだった。 迷いながら近づくと、声がした。 「蛍を探しているのですか?」 振り向くと、そこには一人の青年が立っていた。 白い肌に、落ち着いた和装姿。 この場所に馴染みすぎていて、逆に不自然だった。 青年は彼女を屋敷の中へ案内した。 そして、静かな声で話し始める。 「昔は、この辺りにもたくさんの蛍がいたんです」 「夜になると、小川の周りが光でいっぱいになるほどに」 青年は窓の外を見る。 「でも……小川の水が濁ってしまって」 「今ではもう、蛍を見ることは難しくなりました」 その言葉には、失われたものを惜しむような寂しさがあった。 彼女は、そんな青年の横顔を見つめていた。 すると青年は、ふいに微笑む。 「ですが」 「一つだけ、いいものをお見せしましょう」 青年が開けた障子の向こう。 そこには、ありえないほどの光が広がっていた。 蛍だった。 無数の蛍が、縁側の向こうで舞っている。 暗闇の中に浮かぶ小さな命の光。 時間が止まったような、美しい景色だった。 「綺麗でしょう?」 青年は笑っていた。 先ほどまで見せていた悲しげな表情はなく、まるで大切な宝物を誰かと分かち合えたことを喜んでいるようだった。 その笑顔を見ながら、彼女は違和感に気づく。 (……でも) (この人は、蛍はもう見られないって言っていたはず) そう思った瞬間だった。 景色が揺らいだ。 音が遠ざかる。 蛍の光も、屋敷も、青年の姿も、指の隙間から零れるように消えていく。 そして――。 目を開けると、彼女は一人で立っていた。 目の前にあるのは、古びた屋敷。 先ほどまでの温かな灯りはなく、ただ静かに佇んでいるだけだった。 「……夢だったのかな」 そう呟きながら、彼女は屋敷の中へ入った。 そこには、先ほど見たものと同じ障子があった。 ゆっくり開く。 しかし、向こう側に広がっていたのは蛍の光ではなかった。 伸びた草。 荒れた庭。 忘れ去られた場所。 彼女が振り返り、帰ろうとした時。 一つの光が、視界の端を横切った。 蛍だった。 たった一匹。 小さな、小さな光。 それはまるで、誰かが最後に残した灯火のように夜の中へ消えていった。 彼女はしばらく、その場所を動けなかった。 蛍はもう、いないのかもしれない。 それでも――。 確かに、そこには一つだけ残っていた。 一灯の螢が。

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一灯の螢

神々の鳥籠

遠い昔、祖父はずっと私に言い聞かせていた。 「空にはな、神様が住んでいるんだ。そこはわしらが行って邪魔をしちゃぁならんよ。」と。 この国で育った子は皆、同じように教えられている。 それがこの国が信仰する宗教における唯一の禁忌だから。 破ったものは、国の中で最も高い白塔から飛び降りることになっていた。 そして私は今、その塔の最上階に立っていた。 何度目の死になるのかすら分からない。 私の人生は一体どこで狂ってしまったのか、気づけばこの時をずっと繰り返している。 一歩踏み出せば見飽きた景色が広がっている。 後ろには自らを教皇と名乗る者の気色悪い笑顔があった。 「さっさと前に出ろ」 監視人が冷たく言い放つ。 「早く飛び降りろ」と言っているも同義だ。 小さくため息をついてからまた一歩、前に出る。 神なんかの赦しを得ずとも、いっそ悪魔にでも願えばこの地獄を終わらせてくれるだろうか。 「…もう、終わらせて…」 そうして最後の一歩を踏み出した時、 『その望み、叶えてあげようか?』 と頭に直接響くような声がした。 「えっ、」 空中に投げ出した体がぴたりと止まる。 「誰…?」と聞いてみても答えはなかった。 「…私の願いを叶えてくれるの?」 『望むなら。ただし相応の対価は頂く。』 「……それなら、翼が欲しい。この世界から逃げ出したいの。」 くぐもった笑いがどこかで鳴った。 声が止んだと思えば、背中が重くなって振り向くと視界の隅に黒い羽が見えた。 今度はふわりと体が浮く。 _____飛べる。ついに、ようやく、 でも何かが違う。 大事なことを忘れているかのような喪失感が少し残った。 あぁ、そっか。 「これは私の望むものじゃなかった」 その瞬間、黒く大きな翼は無数の小さな羽へと崩れた。 「…きれい」 雲が晴れた青い空に舞う黒い羽。 この景色に包まれながら、私の体はまた堕ちていく。

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神々の鳥籠

 水籠り

打ち寄せる波のリズムが心地いい。  海が、海が僕を誘っている 僕の周りの人たちは何も悪くない 温かい食卓も、くだらない話で笑う声も… でも違った。 その全てが、僕の心を沈めていくみたいで …何もかもがどうでもいい。 そうやって全てを手放すことができたなら、僕の心はどんなに軽くなるのだろうか 気づけば、身体は真っ直ぐに海へと進んでいた。 ひんやりとした海水が足を濡らしていく。  これでいいんだ。 そのまま、体はさらに海に浸っていく。 水中の見えざる手が僕の耳を塞いでくれている気がした。  あぁ、なんて静かな世界なんだ 海面には微かに月明かりが浮かんでいるが それもだんだんと小さくなっていく 意識もぼんやりとしてきた頃、誰かがこっちに手を差し伸べていた 頼むから、こっちに手を…向けないで… 僕は、その手を___________

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 水籠り

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「先生、今日もお見舞いありがとう。」 そう言って病室で微笑む彼女は本来なら同じ教室にいるはずだった僕の教え子だ。 「先生、今日は何を教えてくれるの?」 「今日はね…」 最近はいつもちょっとした授業をしていた。というのも数ヶ月前、彼女から「いつでも学校に戻ってみんなと授業を受けられるように少しずつでいいから勉強を教えて」と頼まれて、それを承諾した結果だ。 「……今日はこの辺で終わりにしておこう。続きはまた今度ね。」 彼女にそう告げると、 「はい、先生さようなら。」 とにっこりしながら軽くお辞儀をした。その様子を確認して僕は病室を後にする。この流れだっていつも通りのことだ。 でも、僕が次に会話をしたのは1ヶ月以上も後のことになった。 「先生、こんにちは。今日は授業じゃなくてお話をしたいな。」 僕は椅子に座って彼女が話し出すのを待った。 「最近よく考えるんだよね、もしもみんなと一緒に授業受けたり、遊んだり…そうゆう日常が私にまた戻ってきたらみたいなことを」  …君は、何をしたいと思ったの? 「そしたら友達と色々お話ししたいし、部活にだって入ってみたかったけどね。何より、教室でみんなと先生の授業を受けたかった。」 そう話す彼女の声は震えていた。 「私の残りの時間が少ないかもって思ったら、もしかしたら私の想像は想像でしかなくなるのかなって考えたら、悔しくて……でも、だからこそ今のうちにやりたいことをしなきゃって。」  そっか、…僕にも手伝えるかな? 「私がやりたいことはね、お世話になった人たちにありがとうって伝えるの。だから、今、先生にも言うね。」  うん。 「先生、私を1人の生徒として接し続けていただき本当にありがとうございました。私はとても嬉しかったです。残りわずかの時間ですが、もう少しだけ私に授業をしてください。」  こちらこそありがとう。 「本当は直接言えたら良かったんだけれど、恥ずかしくて録音しちゃった……これでも伝わるのかなぁ?」 ここで彼女の話は終わってしまった。 カチッとラジカセは音を立てて、開いたところからカセットテープが見えた。 それを手に取り眺めていると、ラジカセが涙で濡れていた。

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