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19 件の小説別れたいのに別れられない
「もう終わりにしよう。」 その言葉を、何度心の中で繰り返しただろう。 会えば苦しい。 会えなければもっと苦しい。 そんな恋が、この世にはある。 ⸻ 彼とは、決して出会ってはいけない人だった。 出会う時期さえ違えば。 あと十年早ければ。 あるいは十年遅ければ。 きっと堂々と隣を歩けた。 でも運命は、残酷なほど遅かった。 彼には守るべき生活があり、私にも捨てられない現実があった。 だから私たちは、 恋人でもなく、 家族でもなく、 友人というには近すぎる関係を続けていた。 ⸻ 「もう連絡しない。」 そう送った夜。 五分後には画面を見つめ、 十分後には通知音を待ち、 朝には眠れないまま仕事へ向かった。 返事は来なかった。 来ないことを望んだはずなのに。 胸が締めつけられて、 息ができなくなった。 愛しているのか。 執着しているだけなのか。 もう、その違いすら分からない。 ⸻ 数日後。 「元気?」 たった二文字。 それだけで涙があふれた。 馬鹿だと思う。 こんな簡単な言葉一つで、 決意なんて音もなく崩れてしまう自分が情けなかった。 「元気だよ。」 嘘だった。 あなたがいない毎日は、 何も元気じゃない。 ⸻ 一緒にいても未来はない。 別れても幸せになれる保証なんてない。 それでも会えば、 彼はいつも私の好きだった笑顔で笑う。 「ちゃんと食べてる?」 「無理するなよ。」 そんな何気ない言葉が、 私の心を何度も救ってしまう。 だから離れられない。 愛だけじゃない。 長い時間の中で積み重ねた情が、 私たちを縛っていた。 ⸻ ある雨の日。 駅の改札で彼が言った。 「お前が幸せなら、それでいい。」 優しい言葉だった。 だけど私は知っていた。 本当に幸せを願うなら、 手を離さなければならないことを。 それでも彼は私の手を握った。 私も振りほどけなかった。 愛とは時に、 相手を自由にすることだという。 だけど情は違う。 寂しさも、 罪悪感も、 思い出も、 笑った日々も。 すべてを抱きしめたまま、 「離したくない」と願ってしまう。 ⸻ 「またね。」 その言葉は約束ではなく、 別れを先延ばしにする魔法だった。 次があると思うから、 今日の別れに耐えられる。 でも、本当は分かっている。 いつか必ず、 「またね」が言えない日が来ることを。 その日、私は泣くだろう。 彼もきっと笑えない。 それでも時間だけは、 何もなかったように流れていく。 恋は終わることがある。 愛は薄れることもある。 だけど情だけは、 静かに心の奥へ沈み、 消えない傷跡のように生き続ける。 だから私は今日も思う。 別れたい。 あなたを忘れて、 普通の幸せを見つけたい。 なのに―― 玄関を出るたび、 季節が変わるたび、 雨の匂いがするたび、 あなたを探してしまう。 これが愛なのか。 それとも情なのか。 今となっては、もう答えはいらない。 ただ一つ確かなのは、 あなたを失う痛みよりも、 あなたと生きられない現実のほうが、 ずっと苦しいということだけだった。
夏の思い出
夏の思い出 ― 線香花火が消えるまで ― 夏祭りの帰り道。 浴衣の裾を揺らしながら、美咲は小さな紙袋を大事そうに抱えていた。 「最後に、線香花火しよう。」 隣を歩く蒼は、少し照れくさそうに笑った。 二人が川辺へ着く頃には、夜空を彩っていた大きな花火も終わり、聞こえるのは虫の声と川のせせらぎだけ。 一本目の線香花火に火を灯す。 小さな火玉は、まるで命を宿した星のように揺れながら、静かに光を広げていく。 「知ってる?」 美咲がそっと口を開く。 「線香花火って、人の一生みたいなんだって。」 蒼は頷いた。 火花が勢いよく咲く時間もあれば 静かに揺れる時間もある。 そして最後は、誰にも 気づかれないくらい静かに消えていく。 二人は何も言わず、その小さな光を見つめていた。 やがて、美咲が小さく笑う。 「来年も、一緒に見られるかな。」 蒼は少しだけ空を見上げた。 「来年も、その次の夏も。」 そう答えながらも、心のどこかで分かっていた。 高校を卒業すれば、それぞれ違う街へ進むことを。 二本目の線香花火に火をつける。 風が少し吹いて、火玉が揺れた。 思わず二人は顔を見合わせて笑う。 その笑顔は、夏の夜風よりも優しかった。 最後の一粒が、ぽとりと落ちる。 その瞬間、蒼はそっと美咲の手を握った。 驚いた美咲は、少しだけ頬を赤く染める。 「また夏になったら、この場所で。」 「うん。」 それだけで十分だった。 約束は短い言葉ほど 心の奥深くに残るものだから。 それから十年。 美咲は久しぶりに、あの川辺を訪れた。 夜風も、川の音も、あの日と何ひとつ変わらない。 鞄の中から一本の線香花火を取り出し 静かに火を灯す。 小さな火花が、夜空の星と語り合うように揺れていた。 「元気にしていますか。」 風に乗せたその言葉は 誰にも届かないかもしれない。 それでも、美咲は微笑んだ。 夏の思い出は、終わるものではない。 心の中で何度も灯り、何度も 優しく輝き続けるものだから。 線香花火の最後の光が、静かに夜へ溶けていく。 その小さな光は、あの日交わした約束のように、いつまでも胸の奥で消えることなく、優しく夏を照らし続けていた。
優しさと哀しみの欠片
雨上がりの夕暮れ。 空にはまだ薄い雲が残り、その隙間から柔らかな茜色の光が街を包んでいた。 小さな花屋で働く紗季は、一輪だけ売れ残った白いガーベラを手に、いつもの帰り道を歩いていた。 その花は、誰にも選ばれなかった花。 けれど紗季には、どこか自分と重なって見えた。 公園のベンチには、一人の老人が静かに座っていた。 「その花、きれいだね。」 優しく笑う老人に、紗季は少し照れながら答える。 「売れ残っちゃった花なんです。」 老人は首を横に振った。 「違うよ。最後まで待っていた花なんだ。」 その言葉が胸に染みた。 誰にも必要とされないと思っていたものも、本当は”出会う相手を待っているだけ”なのかもしれない。 それから毎週、紗季は老人に会いに行くようになった。 季節の花を一本ずつ持って。 老人は花の名前よりも、その花に込められた気持ちを話す人だった。 「桜は別れじゃない。『また会おう』の花。」 「ひまわりは強さじゃない。誰かを照らそうとする優しさ。」 「かすみ草は脇役じゃない。一緒に咲く幸せを知っている花。」 紗季は少しずつ笑顔を取り戻していった。 けれど、秋風が吹き始めた頃。 いつものベンチに老人の姿はなかった。 代わりに、小さな封筒が置かれていた。 中には一枚の手紙。 「ありがとう。 君のおかげで、最後の季節は花の香りに包まれて過ごせました。 本当は病院を抜け出して会いに来ていたんだ。 もう長くはないと知っていた。 だから君の笑顔を見られる時間が、私の宝物だった。 君は、自分では気づいていないけれど、人を救える優しさを持っている。 どうかその優しさを、これからも大切に。」 手紙には、一輪の押し花が添えられていた。 あの日の白いガーベラだった。 紗季は涙をこぼした。 悲しいはずなのに、その涙はどこか温かかった。 それから何年もの月日が流れた。 紗季は自分の花屋を開いた。 店の名前は――「欠片(かけら)」。 店の片隅には、小さな額縁が飾られている。 色あせた白いガーベラの押し花。 その下には、たった一行だけ。 「優しさは、誰かの人生にそっと咲く花。」 今日もまた、一輪の花を選ぶ人がいる。 もしかしたら、その人も気づいていないだけで、心のどこかに悲しみの欠片を抱えているのかもしれない。 だから紗季は、花を渡すたびに小さく微笑む。 「この花が、あなたの明日を少しだけ優しくできますように。」 夕暮れの風が店先の花を揺らす。 空には一番星が静かに輝き始めていた。 誰かと過ごした時間は、別れの日に終わるのではない。 優しさとして誰かの心に残り、その人がまた別の誰かへ手渡していく。 そうして世界は、目には見えない小さな優しさの欠片で、少しずつ満たされていくのだった。
犯人はもう死んでいる(続編)
薄暗い倉庫の中で、その声だけが異様にはっきりと響いた。 「七人目が来た。」 相沢は咄嗟に拳銃を抜き、振り返る。 「誰だ!」 返事はない。 懐中電灯の光だけが、埃の舞う空間を細く切り裂いていく。 その時だった。 ――コツ。 ――コツ。 誰かが、倉庫の奥を歩いている。 靴音はゆっくりと近づいてくる。 だが照らしても、誰もいない。 音だけが確実に迫っていた。 「……出てこい!」 相沢が叫んだ瞬間、懐中電灯が消えた。 完全な闇。 耳元で荒い息遣いが聞こえる。 誰かが、すぐ後ろに立っている。 だが、その息は冷たい。 まるで死人が吐く息のようだった。 カチッ。 懐中電灯が再び点く。 そこには古い姿見が一枚、立て掛けられていた。 鏡には相沢一人しか映っていない。 ……いや。 一人ではなかった。 相沢の肩越しに、七人の人影が並んでいる。 全員、顔がない。 黒く塗り潰されたように、何も見えない。 慌てて振り返る。 誰もいない。 もう一度鏡を見る。 今度は八人になっていた。 最後尾の人物だけが、ゆっくりと首を上げる。 その顔は―― 相沢自身だった。 「……っ!」 鏡が音もなく砕け散る。 無数の破片が床へ飛び散り、一枚だけ大きな破片が相沢の足元へ滑ってきた。 そこには血文字が浮かび上がる。 『お前は本当に相沢か?』 その瞬間、携帯電話が鳴った。 非通知。 恐る恐る出ると、女性の泣き声が聞こえた。 「お願い……思い出して……。」 「誰だ?」 「あなたが、一番最初なの。」 通話は切れた。 その声に、相沢は妙な既視感を覚える。 幼い頃、夢の中で何度も聞いた子守歌。 電話の向こうの女性は、その歌を最後に口ずさんでいた。 しかし相沢には、その歌を知るはずがなかった。 彼は幼い頃、両親を事故で亡くし、施設で育ったことになっている。 「……施設?」 胸の奥がざわつく。 戸籍も、卒業証書も、警察学校の記録も、すべて本物だった。 それなのに、幼少期の写真だけが一枚も存在しない。 「まさか……。」 急いで警察庁のデータベースへ照会をかける。 しかし画面には信じられない表示が現れた。 《該当人物:相沢誠》 検索結果:存在しません。 「そんな馬鹿な……!」 直属の上司へ電話をかける。 「課長! データが消えています!」 受話器の向こうで沈黙が流れる。 やがて、課長は震える声で答えた。 「……君は誰だ?」 「何を言ってるんです。相沢です!」 「相沢という刑事は、この署には一度も配属されたことがない。」 電話が切れた。 背筋を冷たい汗が流れる。 署へ戻るしかない。 倉庫を飛び出し、パトカーを走らせる。 三十分後、警視庁捜査一課。 そこには見慣れた景色があった。 だが、誰一人として相沢に気づかない。 肩がぶつかっても、刑事たちは振り返りもしない。 「おい! 聞こえないのか!」 叫んでも、誰も反応しない。 自分の机があるはずの場所には、別の若い刑事が座っていた。 机の名札には、 「新堂 誠」 と書かれている。 そして、その若い刑事の腕には―― 相沢と同じ腕時計。 同じ紺色のネクタイ。 同じ黒い手帳。 その刑事はふと立ち上がり、こちらを見た。 初めて目が合う。 ゆっくりと口元だけが笑う。 「ようやく気づいたか。」 低い声だった。 駅のホームで聞いた声。 法廷で聞いた第一発見者の声。 老人の声。 すべて同じ声だった。 「この事件には最初から犯人なんていない。」 「存在を忘れられた者が、一人ずつ次の”存在”を奪っていく。」 「君が六人目だった。」 「そして今――」 男は静かに腕時計を見る。 止まっていたはずの秒針が、突然動き出した。 カチ。 カチ。 カチ。 その音に合わせるように、署内の全員が一斉にこちらを向く。 誰もが同じ笑顔を浮かべ、同じ言葉を口にした。 「八人目が来る。」 その瞬間、相沢の記憶の奥底に、封印されていた光景が蘇る。 古びた一軒家。 リビングに並ぶ八人の家族。 そして、その中で一人だけ、最初から写真に写っていなかった少年。 その少年の名前は―― 相沢誠。 彼は「忘れられた」のではない。 二十年前、この事件を終わらせるために、自ら世界から存在を消す儀式の”生贄”となった、最初の犠牲者だった。 だから戸籍も、写真も、記憶も、少しずつ世界から削り取られていた。 そして今、封印が解けたことで、「存在を忘れられた者」が再び目を覚まそうとしている。 だが、それは終わりではなかった。 警視庁地下の証拠品保管庫。 誰も開けたことのない、封印された金庫の中で、一台の古いブラウン管テレビが、電源も入っていないのに白い砂嵐を映し始める。 やがて画面に、かすれた文字が浮かび上がった。 『犯人は、まだ生きている。』 その文字を見た者は、この世にまだ誰もいなかった。
愛の裏側
「この恋は、誰にも知られてはいけない。」 そう言ったのは、彼だった。 彼――蒼介は、家庭を持つ男。 私は仕事で出会い、恋に落ちてしまった。 最初は罪悪感しかなかった。 それでも彼は、私の手を握りながら囁いた。 「君だけは失いたくない。」 その言葉を信じた日から、私は戻れなくなった。 ある冬の夜。 彼から一本のメッセージが届く。 『もう連絡しないでほしい。』 理由は書かれていなかった。 電話をかけても出ない。 職場にも姿を見せない。 まるで最初から存在しなかった人のように、彼は消えた。 数日後。 ニュースで知る。 ある高級マンションで男性が転落死した、と。 名前は伏せられていた。 だが映り込んだ部屋のベランダを見た瞬間、私は凍りつく。 あの夜景を、知っていた。 彼の部屋だった。 事故なのか。 自ら命を絶ったのか。 それとも——。 私は真実を知りたくて動き始める。 すると、知らない番号から電話が鳴った。 「……もう探さないでください。」 女の声だった。 「あなたも巻き込まれます。」 そのまま切れた。 背筋が冷えた。 彼には私の知らない秘密があったのか。 奥様なのか。 別の恋人なのか。 それとも——。 彼の遺品が整理された頃、一冊の手帳が私のもとへ匿名で届いた。 最後のページには、震える文字でこう書かれていた。 「もし僕に何かあったら、信じてほしい。 君を裏切ったわけじゃない。」 ページをめくるたび、見知らぬ人物の名前や日付、意味深なメモが並んでいた。 「監視されている。」 「もう時間がない。」 そして最後のページには、一枚の写真。 そこには笑う私と彼。 その写真の端には、こちらを見つめる見知らぬ人物が、小さく写り込んでいた。 誰も気づかなかった、その視線。 私だけが気づいてしまった。 窓の外を見る。 向かいのビル。 黒いコートの人物が、こちらをじっと見ている。 目が合った瞬間、その人影は静かに姿を消した。 あの日から私は確信している。 彼の死は終わりではなかった。 本当の物語は、そこから始まったのだから。
星降る夜に君を見つけた
街の灯りが眠りにつく頃。 小さな丘の上で、紗季はいつものように 夜空を見上げていた。 「今日も、きれい。」 そう呟いても、返事をする人はいない。 大切な人との別れから一年。 笑うことはできても、心のどこかに小さな穴が空いたままだった。 そんな夜だった。 流れ星が、一筋。 けれど、それは消えなかった。 まるで誰かが夜空に糸を引くように、ゆっくりと優しく輝き続けていた。 「お願いごと…まだ間に合うかな。」 紗季が目を閉じると、風がふわりと髪を揺らした。 「願いは、もう届いているよ。」 振り向くと、一人の青年が立っていた。 どこか儚く、それでいて星明かりのように 温かな笑顔。 「あなたは…?」 「星を届ける仕事をしているんだ。」 少し不思議なその言葉に、紗季は思わず笑った。 その日から二人は、毎晩丘で会うようになった。 星座の話。 月の満ち欠け。 流れ星の秘密。 青年は言った。 「人は悲しいとき、空を見上げる。 だから星は、下を向いてしまった心を少しだけ持ち上げるためにあるんだ。」 その言葉は、少しずつ紗季の心をほどいていった。 笑うことを忘れていた彼女は、いつしか心から笑えるようになっていた。 そして迎えた、満天の星が降る夜。 青年は静かに微笑んだ。 「今日で、お別れなんだ。」 「え……?」 「僕は人の心に灯りが戻るまでしか、ここにいられない。」 涙があふれた。 「もっと、一緒にいたい。」 青年はそっと紗季の手を包んだ。 「君はもう、一人じゃない。 君の中には、たくさんの星が灯っているから。」 その瞬間、青年の姿は夜空へと溶けるように消えていった。 無数の星が、一斉に瞬いた。 まるで「ありがとう」と囁くように。 ——数年後。 紗季は同じ丘で、小さな望遠鏡をのぞく子どもたちに星の話をしていた。 「星ってね、遠くにあるようで、本当は心のすぐそばにあるの。」 そのとき、一つの流れ星が夜空を駆け抜けた。 ふわりと風が吹く。 どこからともなく、あの懐かしい声が聞こえた気がした。 「笑っていてくれて、ありがとう。」 紗季は夜空へ微笑み返した。 「こちらこそ、ありがとう。」 涙は流れていた。 でも、その涙は悲しみではなく、誰かを想えた幸せの涙だった。 星は今日も、誰かの恋を見守りながら静かに輝いている。 そして本当に愛した人は、離れてしまっても消えることはない。 夜空のどこかで、あなたが笑うたび、一番明るい星になって微笑んでいるから。
優月夜
夏の終わり。 月が静かに浮かぶ夜、優月(ゆづき)はひとり、小さな丘へ向かった。 昼間の暑さが嘘のように風はやさしく、草花は月明かりを浴びて銀色に揺れている。 「今日も、お疲れさま。」 誰に言うでもなく、小さくつぶやく。 その言葉は、いつも自分自身へ向けるものだった。 頑張りすぎた日も。 涙をこらえた日も。 笑顔を作り続けた日も。 優月は、この丘で月を見上げる。 すると、不思議なことが起きる。 夜風がそっと頬を撫でるたび、胸の奥にしまっていた悲しみが、少しずつ空へ溶けていくのだ。 その夜、一匹の白い猫が優月の隣へやって来た。 何も言わず、ただ寄り添う。 優月は微笑み、猫の背中を優しく撫でた。 「ありがとう。」 猫は小さく「にゃあ」と鳴くと、月を見上げる。 まるで、 「ひとりじゃないよ。」 そう伝えてくれているようだった。 雲がゆっくり流れ、月がさらに明るく輝く。 その光は、誰かを急かすことも、責めることもない。 ただ静かに照らし続ける。 優月は目を閉じて深く息を吸った。 「明日も、少しだけ頑張ろう。」 その”少しだけ”が、今の自分にはちょうどいい。 夜は、頑張る人の心をそっと休ませるためにあるのかもしれない。 帰り道。 白い猫はいつの間にか姿を消していた。 けれど優月の胸には、小さな温もりだけが残っていた。 空を見上げると、月が微笑んでいるようだった。 そして今夜もまた、優しい月明かりは、誰かの疲れた心を静かに包み込んでいた。
トトがくれた言葉
雨が降る春の日。 小さな路地で、一匹の白黒猫が震えていた。 「大丈夫?」 しゃがみこんだ少女の名前は、言ノ葉(ことのは)。 猫は弱々しく「にゃあ」と鳴いた。 「今日から、あなたはトトね。」 その日から、一人と一匹の暮らしが始まった。 言ノ葉は嬉しい日も悲しい日も、全部トトに話した。 学校で褒められたこと。 友達とケンカしたこと。 将来の夢。 そして、誰にも言えない涙。 トトは何も話さない。 ただ、いつも隣で静かに聞いてくれた。 その温もりだけで、言ノ葉は何度も救われた。 ⸻ 十数年が過ぎた。 トトの顔は白くなり、歩く速度もゆっくりになっていた。 ある夜、言ノ葉はトトを抱きながら泣いた。 「お願い…。まだ行かないで。」 トトは優しく目を細め、小さく喉を鳴らした。 まるで、 「大丈夫。」 そう言っているようだった。 翌朝。 窓から朝日が差し込む中、トトは言ノ葉の腕の中で、静かに眠るように旅立った。 ⸻ 言ノ葉は毎日泣いた。 家に帰るたび、 「ただいま。」 と言ってしまう。 返事はない。 足元に駆け寄る小さな影もない。 静かな部屋が、こんなにも寂しいなんて知らなかった。 ⸻ 一年後。 春風が吹くあの日と同じ季節。 言ノ葉は公園のベンチに座っていた。 すると、一匹の小さな子猫が近づいてきた。 その瞳は、どこか懐かしかった。 子猫は何も怖がらず、言ノ葉の膝に飛び乗る。 その瞬間、春風がふわりと吹いた。 桜の花びらが舞う。 どこからか聞こえた気がした。 「泣かないで。」 「ありがとう。」 言ノ葉は空を見上げて微笑んだ。 「こちらこそ…ありがとう、トト。」 その日、初めて涙が温かかった。 ⸻ 人はいつか別れる。 でも、本当に大切な存在は、 いなくなるのではない。 思い出になり、 勇気になり、 生きる力になって、 ずっと心の中で生き続ける。 だから今日も、言ノ葉は歩いていく。 胸の中で、小さな足音を感じながら。 トトは、今も隣にいる。
犯人はもう死んでいる(続編)
相沢は思わず写真を取り落とした。 乾いた音が、静まり返った捜査一課に響く。 「どうした?」 先輩刑事の声にも答えられない。 写真には確かに、自分が写っていた。 今日着ている紺色のネクタイ。 左手首の腕時計。 ポケットから少しだけ覗く黒い手帳。 すべて今この瞬間の姿だった。 「……あり得ない。」 急いで現像所へ鑑定を依頼した。 結果は翌朝には出た。 「加工の痕跡はありません。撮影されたのは少なくとも二十年以上前です。」 その言葉に、部屋の空気が凍りつく。 二十年前。 相沢は、まだ生まれてすらいなかった。 その夜、自宅へ戻る途中。 駅のホームで、背後から低い声が聞こえた。 「六人目を探すな。」 振り返る。 誰もいない。 電車が通過し、風だけが吹き抜ける。 しかし足元には、一枚の紙が落ちていた。 そこには老人の筆跡と一致する文字で書かれていた。 『時計を見るな。』 反射的に腕時計へ目を落とす。 時刻は午後十一時五十九分。 その瞬間だった。 秒針が止まる。 カチ… という音を最後に、一秒たりとも動かなくなった。 同時に駅構内の照明が一斉に消えた。 暗闇。 ざわめく乗客。 非常灯だけが赤く点滅している。 その赤い光の中に、一人だけ動かない人影が立っていた。 リビングの写真に写っていた”六人目”。 輪郭だけがぼんやりと浮かび上がる。 顔だけは、どうしても見えない。 相沢は恐怖を押し殺し、一歩踏み出した。 「お前は誰だ!」 人影は静かに首を傾ける。 そして、口だけがゆっくりと動いた。 「犯人は、もう死んでいる。」 聞き覚えのある声だった。 それは法廷で証言した、事件の第一発見者の声。 だが、その人物は昨夜、自宅で首を吊って死亡していた。 照明が戻る。 眩しさに目を細め、再び前を見る。 人影は消えていた。 代わりにホームの床には、小さな鍵が一つだけ落ちている。 鍵には番号が刻まれていた。 ――「306」。 翌朝、その番号を手がかりに市内の古い貸倉庫を調べた相沢は、306号室の扉を開ける。 中には埃をかぶった古い家具が並んでいた。 壁一面には、老人の家族写真が貼られている。 一枚、また一枚。 どれも少しずつ違う。 ある写真では妻が消え、別の写真では長男が消え、さらに別の写真では孫娘がいない。 そして最後の一枚。 そこには誰もいなかった。 空っぽのリビングだけが写っている。 写真の裏には、赤黒いインクで一文だけ。 『存在を忘れられた者から、この家族写真は書き換わる。』 その瞬間、背後で倉庫の扉が勢いよく閉まった。 重い金属音が響く。 暗闇の中、誰かが相沢のすぐ耳元で囁いた。 「七人目が来た。」
白い百合は最後に笑う(続編)
第二章 「差出人不明」 深夜二時。 震える指で、私は玄関に置かれた白い百合を拾い上げた。 花はまだ新しい。 誰かが、ほんの数分前までここにいた証拠だった。 添えられた紙には、ただ一行。 「次は、あなたの番。」 私はすぐにドアを開けた。 廊下には誰もいない。 非常階段も、エレベーターも静まり返っている。 なのに、どこからか視線を感じた。 まるで暗闇そのものが、私を見ているようだった。 ⸻ 翌朝。 私は警察へ行こうか迷った。 だが、何を説明する? 「百合が置かれていました。」 それだけでは、ただのいたずらだと思われるだろう。 そう自分に言い聞かせ、花をゴミ箱へ捨てた。 その夜だった。 スマートフォンが震えた。 差出人不明。 動画が一つだけ届いている。 再生すると、私の背中が映っていた。 スーパーで買い物をしている私。 信号待ちをしている私。 昨日、百合を拾う私。 すべて、誰かが至近距離から撮影していた。 最後に画面が暗転し、白い文字が浮かぶ。 「今度は逃げられない。」 私は息を呑んだ。 誰かが、ずっと私を見ている。 ⸻ それから奇妙な出来事が続いた。 鍵を閉めたはずの窓が開いている。 誰もいない部屋から足音が聞こえる。 鏡には、指でなぞったような文字。 「復讐は楽しかった?」 私は何度も拭いた。 それでも翌朝になると、また同じ文字が浮かんでいた。 眠れない夜が続いた。 食欲も消えた。 神経は限界だった。 ⸻ ある日、郵便受けに古いUSBメモリが入っていた。 恐る恐るパソコンへ差し込む。 画面には監視カメラの映像が映し出された。 蓮が一人、人気のない公園を歩いている。 撮影日は―― 私が彼と最後に会った翌日。 突然、黒いフードをかぶった人物が現れる。 蓮は何かを叫び、逃げ出す。 映像はそこで途切れた。 最後に画面へ文字が現れる。 「あなたは本当に彼を最後に見た人ですか?」 私の心臓が止まりそうになった。 あの日、私はホテルを出た。 その後の蓮のことは知らない。 ……本当に知らない。 なのに、どうして。 どうして私が疑われるような映像を持っているの? ⸻ 震えながらパソコンを閉じようとした、その時だった。 画面が勝手に切り替わる。 そこに映ったのは、私の部屋。 今、この瞬間の映像だった。 私は椅子に座り、青ざめた顔で画面を見つめている。 その映像の右端。 カーテンの陰から、黒い手袋をした誰かの手が、ゆっくりと現れた。 私は反射的に振り返る。 誰もいない。 しかし、カーテンは風もないのに、ゆっくりと揺れていた。 その瞬間。 耳元で、かすれるような声がした。 「ようやく、気づいたね。」 私は悲鳴を上げた。 けれど部屋には、私以外、誰もいないはずだった――。 (第三章へ続く)