かさね

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かさね

スタジオ「かさね」 日常のすきまに入れるほどの小さなお話。

                   裸を暴く。              痣は小さく。    紫は濃く。         撫でた指先は熱く。 それを慰めと      呼ばぬ。 いたい           開けないで。       大好き    ほしい            消したい 憎いわ              変わらないで。          私を見て。  夜が怖い。         見ないで   醜いの     恥ずかしい  はずかしい 誰でもいいから、私を隠して。     言って  私でも いいって。       汚くてもいいよ  君のまま       艶やかな唇 恍惚    私の輪郭 従属 貴方の指先          呼吸の仕方を教えて。    執着 ホクロ アイシテル   可愛い 苦しいの               貴方だけを見させて。       抱かれている腕は。                     貴方じゃないの。                                  恥ずかしいわ。       ね。

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ら

「かさねがさねのこう」

晩秋、弦は深く。 独りごちた言葉は濁らぬ。 湿気の代わりに纏わりつく寒さ。 これもまた良し。 蝋燭、一本は暗く。 温めうるものなし。 夜をぼやかすほのかな陽炎。 いと愛しき。 水上、奏は柔らかく。 夜を陽のあたる処となす。 故に隠された小石の哀しみ。 これもまた美し。 よって、愛しみ此処に有り。 故に哀しきは隠れず。 流れゆく時は刹那。 乾いたものを潤すことなり。 人の心も然り。 雨、降りたる跡は。 泥と塵が溜まりぬ。 水は流れるとする。 故に澄みはあらず。 この水、涙と言う。 塵、泥を地として。 水、いつかは沁みこむことなし。 己の流れを知り、分かれるなり。 塵、泥は濁ったままにあらず。 また澄むとする。 其れを生きると言うなり。                「重々の幸」

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「かさねがさねのこう」

ひみつごと

学校を休んだ。 彼が付け足してくれた予定。 「体育・ハンドボール」 不器用に添えられた優しさ。 「だいすき」 そう言ったのは、ひみつごと。 落とした消しゴム。 ノートをとるふりをして。 少しだけ横目から見てみる。 とって、くれるかなぁ。 結構、遠いから立ちたくないなぁ。 前を向いたまま、 私の机にそっと置いてくれた。 我儘な私の考えることに気づいてくれたことに 胸がきゅん、としたのはひみつごと。 「明日って、雨?」 「そうじゃないか」 「お前、雷好きだよな」 「…」 「なんだ」 「…」 「その顔を今すぐやめろ」 私の目を当たり前のように見てくれる、 あなたが好きです。 そう思ったのは、ひみつごと。 思春期のくせして、 熱があるときに、私の額に手を当てるのは。 とても卑怯だと思います。 あなたの目の細め方が好きです。 あなたの優しさを全部つめこんだみたいだから。 あなたの横顔が好きです。 目を伏せるとき、あなたの睫毛が夜を帯びるの。 でも、全部ひみつごとにします。 あなたにこれ以上抱えてほしくないの。 「ばいばい」 同じ文字数だけ、だいすきを伝えるね。

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ひみつごと

じゅういちまいめ

風に攫ってもらうので、 小さなひっかかりは抱えずに。 忘れてどうか明日を生きてください。 拝啓、君へ。 冬の寒さが少しずつ行進し始めました。 秋をほんのちょっとだけ残して。 さつまいもを食べるのにいい時期です。 今日はとても哀しい物語を読みました。 ヨンネという少年の話です。 いつも涙はダバダバと出るので、 ポロポロと泣くという経験は初めてでした。 今ごろ、君は何をしているのでしょうか。 部屋の照明はちゃんと点けてくださいね。 目が悪くなって、私が分からないなんてことがあったら、 私、ダバダバ泣きますからね。 読書家の君のことですから、 ヨンネ君のことは知っていると思います。 えぇ、その通りです。 「もしもし、おほしさま。」です。 私はこの話のある文がとても好きです。 君はこの話を覚えてないということでお願いします。 「僕がもし石ころで、翡翠色なんて綺麗な色じゃなくても。 僕は僕でよかったって言いたいんだ」 だから、おほしさま、 雲で隠れしまうほどの光なんだ、と。 あなたは悲しまなくていいんだ。 ヨンネ君はもう尽きかけの蝋燭を、 空に掲げてそう笑っていました。 夜の雨はとても冷たいので、 ベランダに出ても体を冷やさぬようご自愛くださいませ。 追申。 君が石ころになったら。 私は宝物のように両手でくるんで、温めましょう。

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じゅういちまいめ

水深700mより

寂しいよ。 水深700mくらい寂しいんだ。 大好きだ。 この両手をめいいっぱいに広げても、 抱えきれないほど。 どのくらい、なんて言わなくていいよ。 度合いなんかで君のことを抱きしめるかどうか、 決めたりしないから。 寂しいときは寂しいとだけ言えばいい。 その深さを測るべきなのは、 僕の方だ。 君から寂しさの大きさを申告しなくても、 抱きしめるから。 例えなくたっていいんだ。 空が美しかったことや、 雲の形がおもしろかったこと。 君が何に怒って、 何に泣いたのか。 誰と笑って、 ひとりぼっちになったときの寂しさを。 君はもう一度再現しなくていい。 言葉に出すほど。 そのことを君は言葉の中で体験していく。 苦しいときに、 これ以上傷つかないために吐き出して、 吐き出した言葉に君が傷つけられたとき、 苦しさの説明をしなくていいんだ。 僕が知っているから。 伝わっているの。 どれだけ困っているのか、 悲しんでいるのか、 苦しいのか、 それを伝えないと、手を差し伸べてくれないのなら、 それを知らないと、手を差し伸べないのなら、 僕たちはどうやって、笑えるのか。 どうやって、泣くのだ。 自分では全て受け止めきれずに溢れた悲しみが、 泥沼になって、僕たちの身を沈めていく。 そうやって、生きて。 僕たちは何を楽しむ。 何に笑い、何に泣いて、何に泣くのか。 みんな夕焼けの色の名を、より優雅に、美しく、 伝えるのにやっきになって。 カメラ越しにしか、 あとでコメントをもらうことしか気にならなくなって、 ふと足を止めた理由を、 ひとことで表す言葉を忘れていくんだ。

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水深700mより

ひかり、ひかる

スタジオ「かさね」    引用ーー「大和物語」 その若宮さまを見たとき。 この世にこれほどに綺麗な男のひとがいる、ということを。 わたしは初めて知った。 わたしは主人である「かつらのみこさま」にお仕えしていた。 みこさまがあつよしさまにご挨拶なされている様子を、 ずっと遠くから見ていた。 物腰穏やかで、 冬のおてんとうさまのような優しい目をしたひとだった。 夏がやってきた。 まだ一度も若宮さまとお話したことはない。 それでもよかった。 一介の使用人と話したことなど、 若宮さまが気になさる必要はないのだから。 抑え込めば抑えるほど、 恋心が溢れ出してきたころ。 やっとわたしは恋をしていた、と知った。 どうせもう見ることが叶わないようなひと。 隣に立つなど、夢の中だけ。 「ねぇ、その蛍捕まえてくれないかな」 だから若宮さまが話しかけてくれるなんて、 思いもしなかったの。 少し驚いている私に不思議そうに首を傾けて、 あれ、と指先を伸ばす。 それは美しい蛍たち。 「畏まりました」 網なんて持っていないので、 袖に蛍を入れて、若宮さまに渡した。 つつめどもかくれぬものは夏虫の身よりあまれる思ひなり    隠そうと包みこみましたが、袖からもれる光のように、    私の貴方への想いは溢れ出してしまうのです。 心震えるような恋はしなかった。 身を灼きつくすような想いではなかった。 けれど。 たしかに、溢れ出してそれでもなお。 ほのかに光る宝石のような恋心だったのだ。

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ひかり、ひかる

きんき

スタジオ「かさね」 繭に閉じ込められる、とよく世間では言う。 美しさだけを奪われて続け、 羽があるのに自由のない、 儚さだけを抱えた、と。 少しだけ笑ってしまう。 まるで彼女に合いやしない。 その中でも、彼女は幸福そうに笑っている。 人に夢と書いて儚いと読むけれど、 彼女は決してなにも風に攫われたりしない。 あの美しい髪の一本まで。 気高く彼女で在り続ける。 誰よりも、何よりも。 俺はずっと知っている。 その頬に熱が帯びること。 唇が桃色にふっくらとふくらんでいること。 それは俺が触れて確かめたもの。 手放したくないと抱きしめ、 手の隙間から溢れたことから目を逸らしたこと。 「私は自由よ」と潤んだ目に、 頷いてやれなかったこと。 別に富豪の娘でも、 尊き家柄の子というわけではなかった。 何か身分で俺たちを邪魔する、というものはなかった。 親たちは、「いつか大きいやくそくごとをしよう」と そう言う俺たちに微笑んでいた。 「結婚はできない」と。 子供ながらに分かっていた。 法律の問題でもない。 ただ、漠然とその規律があった。 破れば、相手の存在ごと消えてしまうような。 何があっても破れないきまり。 でも好きにならないというのは無理な話で、 二人で必死に隠していた。 漠然とした規律である時点で、 それは一般の規律でないこと、 規律を作った相手が人ではないこと。 それくらいは分かっていたはずなのに。 言葉に出さないだけで、隠せると思っていた。 態度に出さないだけで、隠せると思っていた。 一度だけ、堪えきれずに 「好きだよ」と言ったことがある。 彼女は目を見開いて、俺の口に手を当てた。 「ダメよ、ダメなの」 震えながら、その優しい目から涙を溢していた。 涙を伸ばしてぬぐおうと伸ばした左手に、 薬指はなかった。 ひゅっと、息を呑んだ。 彼女は俺の手にしがみつきながら泣いていた。 言葉は許してもらえなかった。 指輪をはめる指だったのは、きっと残酷な警告だ。 彼女の隣にいないとき、 俺の薬指はたしかにあった。 それから、何度か体の部分を持っていかれた。 言葉に出したのは、あれ以降ないというのに。 二度目は保健室、 彼女は血をとられた。 「好き」を止めなかった代償らしい。 貧血で倒れていた。 駆けつけたときにはもう倒れていて、 彼女に気がつかれてしまえば、 きっとこの気持ちは彼女の全てを奪ってしまうと、 俺は知った。次は右の小指をとられた。 三度目は、クラスメイトに言われた。 「あなたね、時々あの子のこと、とても愛おしそうに見つめるの。あぁ、無理だ。あぁ、早くこの気持ちを止めないと、なんて思ったのに、止めれなかったんだ」 俺が好きだ、と告白した綺麗な目をした女子だった。 幸せに、とその子が言わなかったのは、 もう何か感じていたからかもしれない。 第三者に気づかれたとき、 俺は右目をとられた。 何度もそんなことを繰り返した。 言葉にも態度にも、出さないと努力した。 彼女を感じて、 彼女に触れることのできる体の一部を、 俺は残しておきたかった。 それでも俺はまだ若かったのだ。 彼女に代償を求められずとも、 彼女は俺の一部がなくなるたびにその頬を濡らした。 愛を堪えれば堪えるほど、 それは溢れ出して彼女を傷つけた。 「ねぇ。私がいると貴方は生きれない」 もう両目がないわ。 片耳しか残っていない。 右腕も左足も、 口も、鼻も。 あなたにはもう、何も残ってないの。 聴力をとられた耳は、 もう彼女の声を聞くことができない。 吐息と、 抱きしめられないというのに、俺の胸の中で泣いている、 その振動だけ。 すうと息を吸う揺れがした。 「愛してるわ。誰よりも何よりも」 禁忌に触れた痺れを感じた。 目を開ければ、 俺は息をしていた。 小鳥の囀りで目を覚ました。 光の眩しさを手で隠し、 肌寒いと、足を布団の中へ潜り込ませていた。 初めにできたことは、 嗚咽を堪えきれずに、泣き叫んだことだけである。 人生の中で一番言わないでほしかった言葉と、 この身を殺しても彼女に言うべきだった言葉は、 残酷なほど、純粋で。 全くと言っていいほど、同じ言葉だった。

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きんき

桜蝋流し

ぼんやりと花明かりが見える。 それはあけぼのの中。 霧で届ききらぬ日の光。 ふと誰かの後ろ姿を見た気がした。 「もし、そこのお方。お待ちくださいませ」 まだこの時刻では危のうございます、と言いかけた。 その方はふっと口角を上げて、 指を唇の上に置いた。 風が吹き、濃霧を連れてくる。 「お待ちになって…」 聞こえないと知っていながら出した声はひどくか細いものだった。 見覚えのある背中だけ、 ずっと瞼の裏にこびりついて、離れなかった。 ーーその男が愛してやまない人だと誰が思ったであろうか。 嗚呼、そうかこれは夢なのか、と。 行方が分からぬことを何処か遠くで聞いていた。 穏やかな海の上で舟に揺られているような感覚。 きっと、違うでしょう。 彼はあんな風な憂いた背など見せない。 ではなぜこうも胸が騒ぐ。 意味もなく文箱を開けては閉じるを繰り返す。 何度そうしても、彼からもらった歌はそこにある。 私がおくった歌の写しもある。 彼がいた証は残っているというのに。 彼の存在ごと、夢ではないかと思ってしまう。 なんとひどい夢だろう。 私を哀れに思って、夢だと自覚させてくれているのだろうか。 夢の中で眠れば、実際の私が目を覚ます、と聞いたことがある。 そう思って、少し机に腕を置きその上に頭をのせた。 あぁ、早く抜け出したいものだ。 「〜ー様、目をお覚ましくださいまし」 目を開けてそこにあるのは開きかけの文箱。 それは涙を滲ませていた。 「夢、ではなかったのね」 乳母が不思議そうに首を傾げている。 「なんでもないわ」 そういえば、と脳裏に彼の微笑みが浮かんでくる。 そういえば、あの人の文を渡してくれる声色を覚えていない。 微笑む気配も、 何一つとして。 ただ、御簾越しに感じるひだまりのような穏やかさと、 「それでは、失礼するね」と去る背中だけ。 瞼の奥にこびりついて、離れない。 そういえば、 そういえば、彼と今朝の男の背が似ている。 そよ風だけで消えてしまいそうな、 霧ですぐに隠れてしまうような、 儚い灰のような背中。 花の枝をわたくしに届けてくれた指先。 きっと、その指には花びらが一枚のっていたはずだ、 ふぅっと息で遠くへ飛ばした音が聞こえたのだから。 「ふゆの」 ーー花の香りはするかい? えぇ。 ーーそうか。 えぇ。 ーー少し、窮屈かな。 いいえ。貴方がいらっしゃるもの。 ーー…そうか。 秋風が御簾を揺らした。 少しだけ、彼が見えた。 ーーあぁ。 冬の陽のようなそんな目を、貴方はしていらっしゃるのね。 灯台の火で花びらを燃やした。 一枚、一枚。 灰は風が持ってゆく。 一枚、一枚。 たしかに、ほのかな花の香りをさせて。 灰にかえる。 風が私に残したほんのすこしの花の灰。 「いつか、見せてあげましょう」と、 語ってくれた美しい山の話を思い出す。 「とても、澄んだ小川があるんだ」 紅葉なんて近くにはなくて。 ひとはそこで歌を詠みたがらないけれど。 ひらけた野原の隅で流れているんだ。 木々に隠されて、野原自体知っているひとはいないさ。 そこなら、君もきっと御簾で顔を隠さなくても、 お淑やかに少し顔を伏せなくとも、 走り回ったって、誰も気づきはしないよ。 ーー君はとても窮屈そうだ。 えぇ。 とても、とても。窮屈だったわ。 だから、わたくしは貴方に連れていってもらわなくとも。 わたくしから行くわ。 もう来てしまっているけれど。 野の香り、 鳥の声、 寒さを秘める木々たち。 澄んだ小川。 貴方の言った通りよ。 美しくて、美しくて。 鮮やかで目が痛いほどなの。 灰を、小川に流した。 桜ではない、 彼が名を教えてくれなかった花。 桜の灰じゃ、未練があるみたいでしょ。 大丈夫よ。 夢に出てこなくとも、わたくしは寂しくないわ。 春の名をもつ貴方には。 「ふゆのも、春は少し暖かくてまどろんでしまうの」 だから、そこだけにしてね。 冬のちかく。 秋風が髪を巻き上げて、愛おしそうに靡かせた。

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桜蝋流し

ほおのふれかた

浮気をしてもいい?、と彼に聞いた。 「いいよ」と困った顔をして微笑っていた。 あなた以外とキスをするのよ。 うん。 あなた以外と抱きしめ合うの。 うん。 それでもいいの?、と言った私の声は震えていた。 それでもいいよ、と抱きしめられた。 伝えるのはそれでいいの、と少し目を細めて問われた。 いやよ。 我儘だなぁ。 大好き。 愛してるは帰ってきたから言うよ。 待ってる。 浮気をしに行くのに、 「行ってきます」が口から滑り出た。 「行ってらっしゃい」 白い首元が私の目を誘う。 昨夜に彼にしがみついて泣いていたから 彼の胸元がはだけていた。 「君はいつでも、忠実だね」 苦笑しながら、彼は口付けを落とした。 「もっと嬉しい顔を出来ないのか」 「出来ないわ」 「まぁ仕方ねぇな」 「えぇ」 「少しは悪びれる表情の練習でもしたらどうだ」 「嫌よ」 「さようですか」 口付けを出来るか、知らない男に。 ただでさえ悪い目つきを楼主はよりいっそう悪くした。 「無理よ、と言いたいところだけど出来るわ」 何年この商売やってきたと思ってるの。 「そうか」 ふと楼主は口元を少しだけ緩めた。 「あの頃は何ふり構わず、男ばっかり誘っていたのに」 「黙れくそ楼主」 「口悪りぃよ。お前ら全員揃って」 着いてこいと顎をクイっと扉の方へ向けた。 床に伏している男がいた。 「スイ」 かつて私を買っていた男だった。 「どういうこと。まだ大丈夫だって言ったじゃない!」 悲鳴が喉から溢れ出る。 「そう言わないと、お前は来ないだろ」 薄情だもんな、と悪びれずに楼主は言った。 「スイ」 この男は私の名前しか呼ばない。 一晩買ったくせに、私を抱こうとすらしなかった。 芸もいらない。 媚もいらない。 ただそこに在てくれ、と言った男は。 愛おしそうに私の頬を撫でた。 私が彼以外に唯一唇を許したひとだった。 「楼主。このひとを私は知っているわ」 だから、別に口付けなんてたいしたことないのよ。 「これほどに変わり果ててもか」 「えぇ」 ーーだって、このひと。大好きな私がここにいるのに。 お帰りも久しいねも。何一つ言わないのよ。 「そうか」 最後にこの客が言ったんだ。 スイに逢わせてくれって。 悔いなく成仏できるから、と。 「そう」 髪を耳にかけて、その男に口付けを落とした。 少しだけ目を開いて、 動こうとした唇を私は止めた。 「ごめんなさい。 私薄情ものだから、その言葉は別の人に取っておくの」 その男は開いた目を伏せて、少し目尻を下げた。 「よかったな」と。 たしかにそのひとは言った気がする。 「えぇ」 荒んだ以外の笑みを、最後にちゃんと見せられただろうか。 「ただいま」 「お帰り」 少し複雑な気分だね、と。 あのひとと同じ触れ方で、彼は私の頬に触れた。 帰ってきたから言うよ。 「愛してる」

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