姫宮
2 件の小説きなこ
あるところに、百年以上を生き、尻尾が裂けた猫又がいた。 夫や子猫達には先立たれ、一人寂しく、しかし平和な生活を送っていた。 これはそんな猫又と、猫又が愛してしまった人間達の哀しいお話。 わしには好きな男がいる。 その男は、人間だった。 名は和臣と言う。 その男には愛する妻と、一人娘がいた。 妻の名は美世。 娘の名前は和美。 和美はまだ七歳で、和臣に似たぱっちりとした瞳と、美世に似た綺麗な栗色の髪の可愛らしい娘だった。 わしは時々その家に忍び込んでは、和美の膝に座り撫でられていた。 それを見て近づく和臣に擦り寄り、顎を撫でてもらう。 「みゃあお」 「よしよし、きなこ」 わしは和臣達からきなこと呼ばれていた。 好きな男とその家族につけられた名前。 気に入らないわけがなかった。 春のポカポカとした陽射しに、三人と一匹でうとうとする。 この時間が何より好きだった。 堪らなく幸せな時間だった。 そんな日常が変わってしまったのは、季節が春から夏へ、夏から秋に変わり、涼しくなってきた頃だった。 遊びに出かけた和美が、いつもならとっくに帰っているはずの時間になっても帰って来ない。 日が暮れ、門限を過ぎても帰って来ないと言う。 さすがにおかしいと思った夫婦は、娘を探しに家を出た。 「和美はどこだ!」 「和美、和美……」 「きなこ、お願いだ、和美を探してくれ!」 必死な和臣と美世を見て、わしは走り出した。 もちろん、和美を探しに。 和美が行きそうなところ、和美がよく話してくれたところ。 和美の通う小学校、よく友人と遊ぶ公園、たまに和臣達と行っていたらしい映画館、遊園地、植物園。 どこを探しても、和美は見つからなかった。 走り疲れてヘトヘトになって、それでもまだ探していた。 和臣の笑顔を、美世の優しい顔を、失いたくない。 和美がいないと、あの一家は壊れてしまう。 二人の、たった一人の愛娘なのだ。 少し水を飲もうと思い河川敷に寄った時だ。 見知らぬ男達が、土を掘り返し、また埋めたかのような場所に立っていた。 男の手にはシャベル。 嫌な予感がした。 そっと草むらをかき分け近づいてみる。 男達はわしには気づくことなく、話を続けている。 「可愛い子だったな」 「殺すには惜しかったけど、警察にバレるよりいいよな……仕方ない、よな。そうだろ?」 「ああ。早く逃げようぜ。捜索願が出されてるかもしれない。サツが来る前に帰ろう」 男達は停まっていた黒い車に乗り込み、さっさとどこかへ走って行ってしまった。 「……」 きっと、ここに埋められたのは──。 わしは、猫又。 人間に化けることのできる猫。 和臣と美世の、悲しむ顔を見たくない。 ただその一心で、和美の姿に化けた。 耳と尻尾がなくなり、栗色の髪の毛になったことを確認すると、和臣達の家へと急いだ。 街灯がちらほらと点いた夜道を走る。 きっと二人は今も必死に探している、和美の帰りを待っている。 家の前に着くと、一つ深呼吸。 額には汗が浮いていた。 ドアノブに手をかけると、鍵がかかっていなかった。 二人は家にいる。 そのままドアノブを捻り、扉を開ける。 「パパ!ママ!ただいま!」 「和美!?」 「和美……!」 「遅くなってごめんなさい!道に迷っちゃったの!」 よくもまぁ、こんなにスラスラと嘘が吐けるものだ。 「いいの。いいのよ、無事に帰って来てよかった……!」 美世は泣き笑いでわしを抱きしめた。 その隣で和臣は安心したように息を吐いた。 それから始まった、和美に化けたわしと、和美の両親との日常。 不思議なものだった。 最初からわしはこの家に生まれた、人間の娘だったんじゃないかと思うくらいに、二人はわしのことを信じて疑わなかった。 きなこでいた頃には気づけなかった発見がたくさんあった。 和臣は寝る前に和美の頬にキスをすること。 美世の料理がとても美味しいこと。 二人が、誰よりも何よりも、和美を愛していること。 ある日、美世がふと思いついたように言った。 「和美。そういえば、最近きなこちゃん来ないわね?」 和臣も思い出したように言った。 「きなこに和美を探すよう頼んでから見てないな」 「そうね……確かに」 「車にでも轢かれて死んじまったんじゃないのか……?」 死んでしまったのは、お主らの娘だ、とは言えるわけがなく。 「死んじゃったのかな……きなこ……」 わしはわしを殺した。 和美の行方不明から一年と少しが経った、ある冬の日。 その日はすごく寒かった。 窓の外には雪がちらついていた。 和臣がストーブをつけてくれ、美世が温かいスープを作ってくれた。 もうとっくに人間の生活には慣れて、スープだって人間のように飲める。 この時が、和臣を愛し、和臣の愛する家族を愛したわしの、二人との最後の幸せな時間だった。 呼び鈴が鳴った。 「はーい」 美世が玄関へと出て行く。 わしは和臣と並んでストーブに手を翳していた。 「どういうこと?だって和美は部屋に!」 「ん?」 和臣が腰を上げ、玄関へと出て行く。 「……まさか」 嫌な予感は、的中するものだ。 玄関へと向かうと、そこには警察が数人、写真を持って立っていた。 困惑する和臣と美世。 写真には、和美の遺体が写っていた。 背後のわしに気づいた二人は、そっと振り向いた。 わしは涙を一つ零して、猫の姿へと、戻った。 「……!」 警察は驚いて、自分の目を疑うような表情をしていたけれど、和臣と美世は何かを察したかのような顔をして、泣き崩れた。 ごめんなさい。 和美に化けて、二人を裏切ってしまった。 ごめんなさい。 わし如きが、人間を愛して。 その日の夜、和臣と美世は心中した。
少し甘くて、苦すぎる恋だった。
午前七時に設定した目覚まし時計がけたたましく叫ぶ。右手で時計を黙らせた俺はまだすっきりとしない頭を持ち上げて欠伸をする。 自らの体温で暖まっている布団を捲ってそろりとベッドから足を出すと、フローリングの床に着地した足裏が凍える。 冬の真っ只中、朝に起きるのが苦痛で仕方がない。叶うなら一日中毛布に包まっていたい。そう思いながらもカーテンを開けて朝日を部屋に取り込むと漸く目が覚める。 俺、夕凪(ゆうなぎ)には好きな女性がいる。 今日はその人──ひまりさんに会う予定があるからと、念入りに顔を洗って髪をセットした。 それからスマートフォンを見ると、通知が一件。 ひまりさんからのおはようの挨拶だった。 自然と頬が緩むのを自覚しながら、おはようございますと返信して財布とスマホを尻ポケットに突っ込んで家を出た。 歩いていると体が暖まったな、ひまりさんも暖かくしてるかな。空が澄み渡っている。喫茶店に着いたらメロンソーダが飲みたい、でもやっぱり格好つけてコーヒーかな。取り留めのない思考を楽しみながら到着したのは最近新しく開いたばかりの喫茶店。 朝早いのもあってか店内は客が少ない。まだひまりさんは来ていないようだった。 太陽の光が差し込む窓際の席に座るとすぐに店員が水を持ってきた。 「ご注文お決まりでしたら」 「あ、メロンソーダで」 「メロンソーダ、かしこまりました」 ひまりさんが来る前に飲み干してグラスを下げてもらおう。それからコーヒーを頼んで優雅に談笑。我ながらいい案だと思ったのに、予想より早くカランコロンと入店のベルが鳴りひまりさんが入ってきた。 ひまりさんはすぐに俺を見つけて目の前の席に着いた。 「お待たせ。なぁに、その顔」 「いや、なんでもないっす」 まだメロンソーダは来ていない。 「頼んだの?飲み物」 「あ、はい。まぁ……」 我ながら歯切れが悪い。 「何よ」 怪訝そうに見つめられるといたたまれなくなる。見栄を張るためなのだ、コーヒーを頼もうと思ったのは。メロンソーダが悪いわけではない。メロンソーダは美味しいので罪はない。 「メロンソーダでございます」 「あっ、ありがとうございます……」 ひまりさんは不思議そうに首を傾げて「コーヒーを」と注文した。 暫く飲み物を飲みながら世間話をして、唐突にひまりさんが言った。 「私、彼氏がいなかったらゆうちゃんと付き合ってた」 ドキッとした。 俺はひまりさんが好きだ。けれどひまりさんには恋人がいる。俺はただの友達で、いや、もしかしたらただの大学の後輩で。だから気持ちを伝えたことはなかったし、こうして会うのもいつもひまりさんからの誘いだった。告白したところでどうなることでもないし、略奪しようなんて考えていなかった。ひまりさんを困らせたいわけでもなかった。 「それは嬉しいことを言ってくれますね」 だから当たり障りのない返事をしたのに。 「ゆうちゃん好きだよ」 なんで、そんなにも俺の心を揺さぶってくるんですか。 「……俺も好きっすよ、ひまりさん」 ひまりさんは俺をゆうちゃんと呼ぶ。 可愛い名前だねって、ひまりさんは言う。 俺自身、自分の名前は好きだった。 好きな人達に呼ばれる自分の名が好きだ。 ゆうちゃんと呼んでくれるひまりさんが好きだ。 ひまりさんが、好きだ。 ひまりさんは彼氏と長く付き合っているらしいけれど、あまり恋愛絡みの話を聞くことはない。 だから俺もひまりさんと話していて辛くなることはなかったし、友人でも、先輩後輩の関係でも不満なんてなかった。 このままでよかったし、ひまりさんが幸せならそれでよかった。幸せそうな笑顔を見られたら俺は幸せだった。たまに会って笑いかけてもらえたら、それだけでよかった。 それなのに、ひまりさんがある日突然、彼氏と別れると言い出した。 「え?なんでっすか」 「浮気された。ありえない、もうどうすればいいの。浮気したくせに、私と別れたくないって、意味がわからないよ」 絞り出された声には涙が滲んでいて、酷く辛そうだった。 「それは……、別れたいんすか?ひまりさんは」 「別れたい。だってもうやってけない。私はあいつを愛せない」 俺は恋人に浮気されたことも、その上で別れたいと言われたこともない。だから別れたいなら別れたらいいんじゃないかと安直に思ったのだ。そこに私情はなかった。ひまりさんが俺を見ればいいなんて一ミリも考えていなかった。あくまでひまりさんの気持ちを考えたつもりだった。 「そうっすか、なら、別れればいいっすよ」 その言葉が逆鱗に触れて、ひまりさんは泣きながら怒った。 「ゆうちゃんは何もわかってない!ちゃんと考えてるかのように言わないで!」 突然怒りの矛先が向けられたことに圧倒された俺が言えたのは謝罪の言葉だけだった。 「……すみません」 「もう二度と私に話を聞くなんて言わないでよ!」 「……」 錯乱した彼女には、俺の言葉は一つも届かなかった。 その日から連絡が途絶えて、もう、話すこともないのだろうと落胆した。けれどそれも仕方のないことと思えた。彼女にとって、思った以上に彼氏の存在が大きかったのだろう。ずっと傍にいた俺を突き放すくらいには。 「……ちゃんと考えてるかのように、か」 考えているつもりなだけで、何も考えられていないのか。ひまりさんが苦しいだけなら別れればいいと思った、それじゃダメだったのか。考えたって答えは出なかった。 それでも俺はひまりさんのことを考えては会いたい、話したいと思った。性懲りもなくひまりさんにメッセージを送ろうとしては消して、そんなことの繰り返しで数ヶ月が過ぎた。馬鹿馬鹿しいとは思いつつ、やっぱりどうしても話したかった。もう一度会って、謝りたかった。あんな風に怒鳴られたって俺がひまりさんを恋い慕う気持ちは変わらなかった。恋人とどうなったのかはわからない、何も音沙汰はない。ひまりさんはもう俺と話したくなんかないのかもしれない、だから連絡もない。それでも、それでも。 なかなか動かない指を従わせて、メッセージを送信した。 「ひまりさん、夕凪です。ひまりさんと話したいです。ひまりさんが落ち着いたなら、返信ください。俺もずっと、色々考えました。また関係をやり直したいです」 ひまりさんにメッセージを送る上で、こんなにも緊張したことがあっただろうか。突き放されるのが怖くて体が強ばる。それでもスマホを見つめ続けた。少しして既読が着いて、ポンとひまりさんからの返信が表示された。 「ごめん、ゆうちゃん。もう今は落ち着いたよ。私も、今ならやり直せると思う」 久しぶりに会ったひまりさんは、いつの間にか新しくできた彼氏に強く依存していた。 「しゅうが好きなの。好きで好きで仕方ないの。私はしゅうを愛してる。これが求めてたものなのよ」 人が変わったと思った。ひまりさんはこんな人じゃなかった。違う。恍惚とした表情で恋人への愛を語るひまりさんなんて、見たことがない。 「そうっすか」 「しゅうが悲しんでたら私も悲しいし、しゅうが喜んでると死ぬほど嬉しい。私はしゅうのために生きて、しゅうのために死ぬ」 「いいっすね、幸せそうで本当によかったです」 表面では笑って取り繕っても、心の奥底で、苦しいと思った。奥の底で感情が暴れ回る。 俺はこれを知っている。ひまりさんの感情を知っている。依存がどんなものかを知っている。 自分の身を滅ぼすほど人を愛することが、どんなものか。これが、どれだけ自分を苦しめるか。 俺が、その愛という名の執着で、どれだけ苦しんできたかを──ひまりさんは知らない。 「愛してるの。ただただ愛してる」 「……くだらない愛っすね」 口をついて出ただけだった。笑って幸せを祝福することに、心が耐えられなかったのかもしれない。 やめさせたい。やめて欲しい。そんな愛を振りかざさないで欲しい。 「……くだらなくても、私達は確かに愛し合ってる。だからそれでいいの。他の何もいらない」 「幸せになんかなれないっすよ」 自分が止められない。このままじゃひまりさんを傷つける。傷つけてしまうことに気づいているのに、止められない。 「幸せよ。私達は自分達の首を絞め合うことで幸せになれる。しゅうは私のモノで、私はしゅうのモノ。それが私達の幸せなの」 ──もうダメだ。 「ひまりさん、落ちぶれたっすね。失望しました」 自分の吐き捨てた言葉に自分で驚く。 「ふふ。そうかな」 笑うひまりさんを見て、もう何も言えない気がした。喉が締め付けられたように声が出ない。焦燥が体中を駆け回るのに、どうしたって今のひまりさんを止められる気がしなかった。 「……本当、見損ないました」 何とか振り絞った言葉を置いて、俺はその場を去った。 ひまりさんと出会う前、俺には恋人がいた。 色白で色素の薄い髪が綺麗な女の子だった。 彼女は、たぶん、心が壊れていたのだと思う。 「ゆうがいれば他に何も要らないよ」 彼女の口癖だった。 「私がいれば他に何も要らないよね?」 いつも悲しそうな顔をしている彼女を、愛しているつもりだった。だけどきっとそれは愛ではなくて、依存で執着だった。彼女が俺を求めるのが当たり前、俺は彼女を求めるのが当たり前。そうやって二人だけの世界に閉じこもって、そうして、いつしか俺も壊れた。 気づいた時には手遅れで、二人一緒に居るのに辛く苦しいだけだった。苦しみさえも愛だと勘違いして、溺れて。窒息した。 「……こんにちは、ひまりさん」 「……ゆうちゃん」 大学の構内で、元気がなさそうなひまりさんを見かけて──つい、声をかけてしまった。 「どうしたんすか?元気がなさそうですね」 その問いの答えは、聞く前からわかっていた。すぐに、聞いたことを後悔するだろう。 「しゅうと喧嘩したの。しゅうが落ち込んでて、私はしゅうに自分のできることをしてあげたいのに、しゅうはそれが鬱陶しいって。私には何もできない」 聞かない方がいいことを聞いた、馬鹿な自分。恋人のことだなんて分かりきっていたじゃないか。溺れるひまりさんを掬い上げることなんて出来ないって、もう知ってるじゃないか。 「何もできないけど、私はしゅうを救いたいの。私にはしゅうしかいないから。しゅうには私しかいないから、私が」 「ひまりさんには何もできないっすよ。周りも見えてないあなたに何が見えるんすか、笑わせないでください」 「……」 言い過ぎた。恋人と喧嘩して悩んでいる人にかける言葉じゃない。それに気づいた時にはもう遅い。俺は彼女を、少なからず傷付けただろう。 「……すみません。俺は力になれないっすね」 今更取り繕ったって意味がない、放った言葉はひまりさんを突き刺したのに。 「ううん。いいの」 ひまりさんには表情がなかった。いいの、なんて。思ってないくせに。 「……また話しましょう。元気出してください」 「うん、またね」 俺じゃなくても話を聞いてくれる人はいるだろう。 『もう二度と私に話を聞くなんて言わないでよ!』 元彼に浮気された時のひまりさんの言葉が脳内を反響する。 俺が話を聞こうとするのは間違いなんだろうな。掬い上げようとすることだって間違いで、俺がひまりさんにできることなんてもう何もなくて。 ひまりさんが求めているのは今の彼氏で、今の彼氏と溺れて死ぬことで。 ──でも、その苦しみは本当に、ひまりさんの望んだものだったのか? それからまた月日が流れて、俺に恋人ができた。 ひまりさんへの気持ちは蓋をして、彼女とはきちんと向き合えている。それなりに順調に交際できているし、安定した仲を築けている。 それをきっかけに、ひまりさんと二人で酒を飲むことになった。 お互いに恋人がいる状態で会うのは初めてだった。 「久しぶりだね」 「お久しぶりです」 俺はビール缶、ひまりさんはチューハイの缶を手に世間話をする。 「だから大学が嫌でさー」 「そんなこともあるっすよねぇ」 どこにでもあるような大学への不満を口にするひまりさんとそれに同調する俺の間に、不意に沈黙が降りる。 その沈黙が、少しだけ、苦しい。 「……ゆうちゃん好きだよー」 ひまりさんの言葉にふっと緊張が解れる。そんなことを言われたのは、ひまりさんが元彼に浮気される前までだ。あの頃から季節は一周して、いつの間にか冬が来ていた。アルコールで体が温まって気持ちがいい。 「ありがと。俺もひまりさん好きっすよ」 「ふふ。最近お酒ばっか飲んでるなぁ」 宙を見つめたひまりさんがぼんやりと言う。 「そうなんすか?」 「うん。だって、寂しいんだもん」 本当に寂しそうに机に視線を落とす。その仕草が、表情が、なぜか心に刺さった。 「……共依存とか言わずに、俺にしとけばよかったのに」 冗談混じりに笑って言ってみせたけれど、本気だった。本心からそう思った。きっと俺の心の奥底で暴れ回っていたモノの正体は、これだったのだ。彼氏がいても、それでもよかったはずなのに。 「ふふふ、言ってくれるじゃないの」 ひまりさんが微笑む。 「彼氏がいなかったら付き合ってた、とか言ってくれてましたしね。気づいたら彼氏できてるし、共依存だなんて、色々思うとこはあるっすよ」 じわじわと、心に刺さったトゲから痛みが広がる。気づかないうちに刺さったトゲは既に血を滲ませていた。 「……まあ、そうだよね」 少し考えたように、ひまりさんが言う。 「私もこんなことになるとは、だよ。なにが私にとっての最善かなんて結局今でもわからない。幸せは幸せ。大好きは大好き、愛してる。けど寂しい。底なし沼の寂しさ」 その寂しそうな目を見て、悲しくなる。そうだろう。その感情は俺も知っている。依存して依存されて、執着して執着されて、深みに嵌れば嵌るほどに寂しさは増す。いつまで経っても満たされることはない底なし沼。 「だからゆうちゃんに好きって言いながらごめんって思う。巻き込んでごめんって、私の自分勝手さに」 「いいっすよ。俺が、たぶん、ひまりさんにイライラしてたのもそういうことなんでしょうね。今気づいたっすもん、俺」 自嘲する俺にひまりさんはわざとらしくキョトンとして見せた。 「ん?というと?」 「察してくださいよ。言えませんよ」 「えーやだ」 子供みたいなひまりさん。 「やだじゃないっすよ、ひまりさん」 「言ってくれてもいいのに」 無邪気な悪魔。 「今更言っても、意味ないっすもん」 「うん、知ってるよ」 急に大人びた顔つきになるひまりさんに、悲しくなった。わかってる、わかった上で。 「……でしょう」 「そういうのが苦しくて実らないこと、知ってる」 「そうっすね」 「それでも、好きな気持ちは変わらないことも知ってる」 「……そうっすねぇ」 こういうところが、好きだったのだ。とぼけたフリしてわかってる、何も考えてないように見せかけて本当は色んなことを考えてる。きっととっくの昔に俺の気持ちにも気づいていたんでしょう? 「……好きって言える関係は、幸せなのかな」 「幸せなんじゃないんすか。好きって言えない関係の方が、苦しいっすよ」 なんだか泣きそうな気持ちだった。酷く辛かった。ひまりさんに恋人がいて、それでも一緒にいて、形はあの頃と変わらないのに。今はあの頃とは違うんだ。 「んー、確かに。……じゃあ、関係に名前はつけられないけど。でも私はゆうちゃんのことすごく好きよ」 「でもそれは俺の感情とは違うもの。っすよね?」 「……うん。そうかもしれない」 「ほら。その気持ちに恋って名前は、つかない」 「……ごめん、苦しめてないかな」 泣きたかった。叫びたかった。 苦しかった。切なくて、痛くて、苦しい。 俺は彼女を好きだった。ずっと前から好きだったのだ。 お互いに恋人がいるのに、どうしてこんなに──どうしようもなく苦しい。俺は、こんなにもひまりさんを好きだった。 「じゃあ、また」 「うん、またね」 外は雨が降っている。冷たい雨に濡れることも厭わず家路を辿る。 顔に降りかかる雨が涙と区別がつかなくなる。 また、の約束は破るつもりでした。もうひまりさんには会わない。もうこれ以上一緒にはいられない。この先はきっと何も変わらない。せめて幸せだけは願っていたいけれど。 さようなら、大好きなひまりさん。