三好潤啓
2 件の小説融解
ある農園で、害獣に悩む気細い農夫が一匹の猫を飼い始めた。その猫はラガマハと呼ばれているが、よく分からない。とにかく猫は広大な農場を一匹で守り、よく働いた。農夫にとって初めての飼い猫だったが、共に平穏な日常を過ごした。 それから幾つか日が経ち、一匹だと広すぎると心配した農夫がもう一匹の猫を連れてきた。しかし二匹の猫は役目を忘れ喧嘩し始めた。困った農夫は縞模様の目立つ大きな猫をつれてきた。しかしその猫は程なくして、他の二匹を連れて農園を出てしまった。次に農夫は気の強い猫を連れてきた。誰にも従わない気高い猫。やがて害獣はすっかり見なくなった。気を良くした農夫はその猫を可愛がったが、愛着は爪とぎの後回しにされた。その態度は男の元妻に似ていた。 ある日男は気をおかしくしたのか、その猫の気持ちを知ろうと、自分も農園の番人になってみた。顔を限りなく土に近づけるように姿勢を屈めた、ちょうどビニールハウスの脚をくぐれるぐらいに。男はそれをたまらなく楽しがった。それその行為がというより、おおよそ非人間的な習性をおもしろがったのだろう。俗に阿呆らしいと言う格好だ。そんな境地に浸るのも、たまには大切なのかもしれない。ここであえてたまにと記したのは私がその男の結末を知っているからだ。 太陽がその目を細め地平に隠れ始める頃、そいつは草叢から飛翔し、雲を掻っ攫ったのち、地面に落下すると暈けた温室へ滑走し、潜伏した。 外周するだけでその日の役目を終えてしまうぐらい広大な農場の中心に大きな母屋がある。使い古されてはいるが内は小綺麗にされている。2階の屋根近くの部屋に男の寝室があった。男の誕生日会はその部屋で開かれた。ケーキは男の妻がつくった。飼い猫も同席し、二人と一匹で特別な日を祝った。蝋燭に灯された火は控えめだが、その農場で一番明るい光を放っていた。ここで注意してほしいのは、男という表記についてだ。ここで祝われている男はあの農夫のことではない。そのため、妻というのも農夫と結ばれた女という意味ではない。私の表現および文構成が拙いのを謝罪する。もはや謝罪より、謝罪をしている自分の惨めさの気晴らしが私を代表しているのだけれども、ともあれ男と農夫は別だ。しかし何を言おうとその母屋は農夫のものであったし、その農場も彼の懸命さによって広げられた領土であったはずだ。そして何より農夫は確かにその日その農場にいた。諸君は気になるのではなかろうか。農夫が一体その日どこで何をしていたのか。もしか自分の居場所を奪われたのだろうか。では彼のことはこれから猫もどきと呼ぼう。これからお話しするのはとある農場での物語。母屋の住人が何者で、猫もどきは何か。その変身の物語について。 その日猫もどきはその農場にいた。自分の農場に。太陽が死ねば月が目覚め、月が死ねば太陽が目覚める。大地から芽吹いた息吹は、川のせせらぎとなって小石をかき出し、海へ注がれる。そしてやがて水蒸気になり山へと運ばれる。我々もその循環の一部である。猫もどきはもうそのことも忘れてしまった。夫妻の催しは、陽が目覚める頃に静けさを取り戻した。それを合図と受け取ったのか、あるいは種の本能の偶然か、猫もどきは温室より活動を始めた。ビニールに張りついた水滴をひと舐めふた舐め。顔を左右に揺らし、その振動は肩の垣根を越え背筋の痙攣に重なり尻まで伝わる。その伝達の最終地点より下、両後ろ足を土に食い込むように深く踏み込み、構えると、一気に解き放って飛翔した。その日最初の飛翔である。その頃夫妻は誕生日会を終え寝室で寝ていた。その日のために遠い都会からケーキや蝋燭を注文していたので、当日はよほど舞い上がったのだろう。楽しんだあとは深い眠りに落ちるのが常套だ。 夫妻は農場を購入した当時、その農場では獰猛な獣がでると聞いていたため、外周に電気柵を設置し、対害獣用機関銃セットを購入して農場の入り口付近に置いた。その土地を購入してから一年を迎えたが、被害は一度も起こらなかった。誕生日会にはその記念も込められていたらしい。被害が起こらなかったことではなく、一周年の記念である。夫妻はすっかり害獣のことを忘れていた。彼らは記念の日に縁起が悪いと、防犯センサーを消し、対害獣セットの電源も落としていた。これがいけなかった。猫もどきの出入りを許してしまったのだ。猫もどきは一週間をかけて農場内を慎重に、思慮深く進行した。 猫もどきが猫もどきになった日、空は淀んだ緑色をしていた。見たこともないような色だったことを覚えている。その淀みに月も逃げてしまいそうだった。その日我々は農場近くの山を散歩していた。我々には私と縞模様の猫が含まれる。異常な皮膚の震えにふと農場に目をやると、農夫が顔を隠すように地面にうずくまっているのが見えた。縞模様もその様子を見ていた。彼は私に、その記録をするように命じた。突然農夫は顔を空へ近づけると、脅威的な速度で飛翔した。あまりの出来事に彼を見失ってしまった。次に彼を見たのはそれからだいぶ後だった。 木々の葉が高揚し、互いに発情した様子を揺さぶりながら見せ合う。かと思えば急激に衰退する時期。猫もどきは農場のすぐ隣を流れる小川に頭をつっこみ、両足を天空に開いている状態で見つかった。第一発見者は私だった。様子を見ようと近づくと、膝を抱え込むように身体を丸め川を石のように転がっていった。それが猫もどきの習性なのだろうか。私は後を追いかけたがすぐにやめてしまった。それが自然の道理なのだと思った。 次にそいつを発見するのにそれほど時間はかからなかった。ちょうどその頃、月エネルギー伝導システムが山に配備され始めていた。詳しくは知らないが、簡単に言うと太陽光発電のエネルギー源を月に代替した、いわば月光発電だ。どうやら一つ違うのは、自然に対して不思議な、予測不能な作用があるらしい。導入されてからというもの、ざわめき、どす黒い触手を茎の裂け目から垂れ流す草木があちこちで発見された。その触手は、縞模様によるとオウムガイのものに似ているらしい。山の猪の多くは、その触手に魅せられその場をぐるぐる回転しだすという奇行を披露するようになった。猫もどきを見つけた時も、同じような気持ち悪さを感じた。しかし態勢が違った。というのも、背を地面と一体化させ、四肢のすべてを薄暗い曇り空へ差し出し、顔は虚に見えるが舌を高速で出し入れさせていた。生物というのはその本能により、無心といえる状態でも感覚のどこかは生存のために向けられている。少しの草の揺れに緊張するのも、生存本能の一種だ。けれどもそいつの態度からは生存を放り投げたような腐った臭いがした。死んでいるかとさえ思った。私の本能は興味に先越され、いつの間にかその静寂を観察していた。真上に向けられた手足を見ると、完全な静止を疑うぐらい硬直してた。心臓を地面に埋めたと感じるぐらい微動だにしないその姿勢は、完璧な擬態だった。もとからそこにいたと言われれば信じてしまうだろう。しかし決して見失わないのは、その異質さがあまりにも周囲を攻撃していたからだ。地面にも、木の上にも、空にも存在しない。ましてや水中にも。それは虚に浮かぶ飛行艇。海から陸へ上がった進化の話が本当なら次の進化は虚への進出なのかもしれない。そんなことを考えると妙に寒気がしたのでその阿呆面な表情を拝もうと顔に目を向けた瞬間、寒気は悪寒へ変わった。その瞳が確かに私の顔を捉えていた。いや顔ではない、目だ!途端に背筋が姿勢保持の指令に神経支配され、その緊張が微弱な痙攣を生み出す。私は逃げるよりも、下手に刺激を与えまいと様子を窺うことにした。もし動ける距離にいても動かなかっただろう。そんな気がしたのはきっとこのあまりの恐怖のせいだ。猫もどきは背中を地面に這わせた状態から檸檬汁を飛ばすように一気に飛び上がった。そして空中で身体を回転させ、前足から着地した。我々が見せるような見事な着地だった。それでもなお瞳は私を捕らえたままだった。しばらく見つめ合っていると、白い塵が地面に現れ始めた。私は凍える声で少し話しませんかと言った。休戦協定を兼ねた束の間を提案したのだ。すると猫もどきは両目を魚のように移動させ、額を歪まし三日月の皺を何重にも作り出した。あまりの流動っぷりに、舌が喉の奥に落っこちそうだった。前足の先を目一杯広げると体重を鋭い爪が輝る十本の指と掌に乗せ後ろ足を浮かせた。両足の間から液体が発射された。溶けたプラスチックに生魚の身を擦り付けたような悪臭が真っ白な地面を犯した。それは本人の身体より奥に落ちたため詳しくは確認できなかったが、白塵が視界を遮っても強烈な臭いが主張をやめなかったので自然と意識はそれに向けられた。ここでさらに詳細を付け加えると、猫もどきの見た目についてだが、猫もどき以前に身につけていた装備は全て解除されている。両太腿と胸、背中に体毛が集中しており頭頂部は皮膚が露出している。よく見ると陰部が常に硬直しているのが確認できる。その表情からは何も読み取れそうになかった。何かを語りかけているように見えるし、ただ虚空を眺めているように見える。結局猫もどきは何も語らず、両足を掲げたまま後退し山を降りた。 告白をしよう。もうすでに気づいている諸君もいるだろうが、私の正体は農場の最初の番人であり、農夫の最初の飼い猫だ。縞模様の後を追って農場を出た。この記録は縞模様によって与えられた使命だ。命令の理由について彼からは「山のため」としか言われなかった。二匹目の猫とは番いになった。たまに喧嘩し、漣のように愛し合った。今は別居している。というのも、彼女はいま母屋で暮らしているのだ。なぜそうなったのかよく覚えてないが、成り行きというものだろう。あまり思い出せない。気づけば母屋に人が住むようになり、気づけば彼女もそこにいた。いたと断言できるのは、彼女の方から知らせてくれたからである。今自分は慎ましくとも安全な生活をしている、という内容だった。狩りの誘いもしてきた。たまには山に出たいのだろう。彼女が幸せなのは大変満足だし、私のことを想ってくれているのなら尚である。不定期だったが彼女はよく「知らせ」をくれた。農場のこと、作物のこと、夫妻のこと、誕生日のこと。たまに母屋に来て欲しいとお願いされることもあった。母屋に行くと彼女は決まって二階の窓から顔を出していた。狩の誘いはするくせに、いざ出かけるとなると疲れるという。それに夫妻が彼女を家猫だと認識しているため、外に出ると脱走だと思われて面倒なのだとか。そうやって話しながら世界の移り変わりを乗り越えていった。しかしどんなに盛り上がっても猫もどきの話をしてくることはなかった。ずっと母屋にいるのならその存在には気づかないはずだし、何より私からもその話題を出すことはなかったので当然と言えば当然である。そもそも、農夫が猫もどきになった日、あの頃妻は隣山で暮らしていた。縄張りの拡大と管理という縞模様からの指令である。それから無人になった農場を夫妻が購入し、妻もそれに合わせる形で母屋に移住した。縞模様の命令を無視したことになるが、そこまでしてどうして夫妻についていったのかはよく分からない。もしかしたら風の噂で変身について聞いていて、己の身を案じて決断したのかもしれないが聞いているのだとしたら私に隠す真意が不明である。ただ一度だけ尋ねたことがあったっけ。農夫について。彼女は山で彼に拾われたのち農場に連れてこられた。その後は私との競争に夢中で農夫のことはよく覚えていないらしい。あまり印象にないとのこと。彼女の内面はか弱く繊細だ。よく覚えていないというのは、そのままの意味かもしれないし、彼女の場合、思い出したくないという可能性もあるのだ。 誕生日の翌日の朝、私は母屋の隣の小屋でじっとしていた。その日妻との初めての外出する予定だった。何度かその機会はあったのだが、先に残した通り妻は母屋での生活に慣れ外出することをとことん嫌がった。その日はきっと夫妻も疲れて寝ているだろうから、外出にはちょうどいいと考えた。朝日が昇る頃を約束していたが、いつまで待っても妻は現れなかった。きっと怠けているか、久しぶりの再会に緊張しているのだろう。それでも一向に来ないので、母屋に入ろうかと思った。しかしそうしなかったのは心配するのが少し恐ろしかったからである。もしも妻が残酷な陰謀に巻き込まれていたらと考えると、妄想に輪郭が帯びてくる。私は考えるのを止め小屋中の小石を数え始めた。そしていつの間にか草臥れてしまっていた。 夢を見ているような浮遊感と恐ろしいほどの冷たさが私にまとわりついた。息を吐くと気泡が顔をくすぐった。見下ろすと一点に光が集まっていたのでそこへ向かって泳いでいった。進んでいるうちに底に到達していた。いくら進んでも光に照らされることはなかった。あるいは方向を見失っているだけで私の背はすでに光を感じているのかもしれない。暗いのが怖いわけではない、自分がどこにいるのか分からないのが不安だった。私は妻を思い出していた。彼女は内向的な性格だった。内気で心を開くのに時間がかかるタイプだ。我々が出会った時はどういうわけか、その気質が誤作動を起こし私に噛みついてきた。それが彼女なりの生存本能だったのかもしれない。彼女は自分から行動を起こすことを滅多にしなかった。常に後出しの対応だったが、私には隔てなく接してくれた。いつの日か隣山の山猫がこちらに来たことがあった。彼は友好的な印象だったが、彼女は私の後ろに隠れ土草をいじるので精一杯だった。しかしたまに私が都会からさまざまな品を持って帰ってくると興味津々に話しかけてくれた。私が持った帰ってきたほとんどは大したことのない代物だったが、それでも彼女はずっとそれらに夢中だった。よく覚えているのはデジタル時計を持って帰ってきた日のことだ。彼女は目を丸くし私に次々質問した。それの使い方や構造、どこで拾ってきたのか。都会までは山を二つ越えなくてはならないので、道中は危険が溢れている。それでも都会に出かけたのは彼女の喜ぶ顔が見たかったからだし、それに彼女を危険に合わせたくなかったので、遠出する時は私だけ。たまに縞模様も一緒についてきてくれた。彼女を連れていくことはなかった。デジタル時計は今までで一番興奮していた。一定時間経過すると、数字が変わる仕組みをすぐに理解した。数字の意味もすぐに覚えた。私が狩に出かけると、戻ってくるまでの時間を測ったり、それに慣れてくると今度は5分で帰ってきてねと私を困らせた。一緒に狩に出ると大体は彼女が先に獲物を手に入れた。と言っても、彼女が特別上手かった訳ではなく、むしろ私より下手だった。燕を捕まえるのにも、いつも擦り傷だらけで帰ってきた。諦めの悪い必死な性格が、成功の鍵らしい。私の狩が上手くいかない日は自分が囮になって陽動してくれたり、食事の時間になると私には食べさせないと冗談を言ったりもした。楽しい時間を共に過ごした。彼女は冗談が好きだった。私も好きだった。でもいつまでもふざけていると縞模様に叱られるので、彼が見ていない隙を狙ってお互いの腹を小突き合った。 目を覚ますと、上裸の夫妻が屈んで私を撫でていた。もう夕暮れだった。夫妻は私を抱えて母屋の中へ入った。農夫の時よりだいぶ内装は変わっていて明るい印象だった。なんだか寂しかった。台所の様子もすっかり生活の気配を感じられるようになっていた。私は机の上に乗せられた。夫妻は私の腹を撫でた。指先で舐めるように。寝起きの心地よさに甘えていたかったが唐突に妻のことを思い出したので私は飛び跳ねるように机から降りた。二階へ続く階段がある。なんとなくその先に妻がいる気がした。階段下から上を覗くと二階の照明は消されているのが分かった。私は一段上がるとそこに落ち着いてしまった。決して上がれないわけではなかった。どうしてもそこにいたかったわけでもない。どうにかして妻に会わないといけないのだが、普遍的な安心感があった。特に何も考えずじっとしていると二階から物音がした。見上げると奴はすぐそばまで来ていた。農夫が最後に飼った猫である。「えっと、あの、二階に他の猫はいますか」「どうだろうな」「どうって、毛並みの整った綺麗なのがいるでしょう?」「綺麗なのはいるよ」「居場所は分かりませんかね」「あの可愛いやつだろう?さっき安心しきった顔で寝ているのを見かけたよ」「どこでですか」「場所は伝えられないな」「どうして、」「彼女のプライベートだからね。睡眠なんて気を許した場所でしかしないだろう?他人に教えてたまるか」「私は彼女の夫なんです」言うつもりはなかったがつい口から出てしまった。「ああ。君が噂の」噂については気になったが聞いても長話になるか本題を遠回しにされそうなのでとにかく妻のことを尋ねた。「彼女から知らせを受け取ってるよ」八段上から毛玉が落とされた。これは猫同士の秘密の会話でつかう道具だ。毛玉を爪でほどきながら隠された伝言を受け取る。古典的な手段だがこれが一番手軽である。相変わらず雑な結び方だった。少し苦労して解読すると、とにかく今私の目の前にいる猫のことは気にするな、という内容だった。こいつは自尊心の塊で相手にしない方がいいらしい。まあ特段悪いやつじゃないし困っていると手助けもしてくれるからむしろ利用してしまえと、そんな感じらしい。相変わらず彼女らしい。これが彼女の証であることに変わりはないが、肝心なのはその居場所だ。今どこで息をしているのかが一向に分からない。奴の言う安心して居眠りできる場所がどこなのか、夫である私には教えてくれたっていいじゃないか。ところが奴は意味深なくらい明かしてくれなかった。何度問いかけても話が共倒れしっぱなしだったので二階へ行くことは一旦諦め一階を探すことにした。ベランダに出ると吸殻ととうもろこしの匂いがした。雲に隠れた空に一瞬月が咲き麦畑を照らしたのは、きっとそこに潜んでいる猫もどきからの警告だろう。私はそれを啓示と受けると一階のすべての窓を開けた。次に玄関と、裏門を開放した。最後の扉を開けると猫もどきを招き入れた。彼は母屋に入ると無性に天井を見上げて何かを確認しているような仕草を見せた。そして右手首を曲げ首筋に沿って口まで運ぶと舌で幾度も舐めた。私はその時はじめて猫もどきに愛着が生まれた。時を同じくして二階から唸り声が聴こえた。階段へ戻るとさっきの猫はいなかったが依然として二階は暗闇だった。一階から洩れる光は、二階までの四段と三段の間付近まで届いていた。それより上は光の届かない領域になっている。私は闇の入り口に立つと妻の顔を思い出した。変な期待は抱いていないつもりだったが、今思えば確かにこの時、私は妻が自分の迎えを待っているのだと錯覚していた。そのため闇へ踏み込むのに少しも躊躇しなかった。二階へ上がるとさっきと同じような唸り声が聴こえた。唸り声というより扉の軋む音に近い。音の聴こえた方に近づくと、さらに続けて軋む音がした。それは声ではないと確信した。何者かが爪で金属を引っ掻いているのだ。夫妻が誕生日を祝っていた部屋の前に来ると、その扉の向こうでまた音がした。今度は低い音で、重さを感じた。私は引き返そうとしたが再度扉に向き合った。この扉には猫用の小さな戸がついているので、そこから入ることにした。暗闇の中で二匹の猫が交わっていた。見えづらい暗がりの中でも正体は確認できたが、脅かしてやろうと思い照明をつけることにした。どうせ一方はさっきの意地悪な奴で、もう一匹は夫妻が都会かどっかから連れてきた猫だ。もちろんその一匹と面識はないが、なんだ、三匹も飼っていたなんて、とんだ猫好きに養われて羨ましいな。いっそ私もこの母屋に住み着いてやろうか、と思った。でも安寧に不可欠なものをまだ見つけられていない。彼女はどこにいるんだろう。きっと私を見つけたら飛び跳ねて抱きついてくるだろう。そんな自惚れの想像をするのはなんとも言えない温もりを与えてくれた。このひと時を邪魔されたくなかったので、脅かすのは後にすることにした。隣の部屋にはバルコニーがついており男が煙草を吸っていた。このバルコニーは以前はなかった。私は開いていた窓の隙間をすり抜けてバルコニーに出た。男の隣に座ったが、男は私に気づいていないようだった。星の存在が空一面に証明され、煙草の煙が儚い手を屋根に伸ばす。男の妻が部屋に入ってきた。私を探していたようである。滑舌のせいかよく聞き取れなかったがあまりいい内容ではなかった。どうやら私を食卓に乗せたのは、単に私を愛でるためではなく、私を捕食するためだったようだ。さすがに食べられたくはなかったので、女の股をすり抜け急いで寝室へ戻った。すぐに照明をつけてあの猫を頼ろうとした。私をここまでさせたのは捕食への恐怖ではなく、猫を食の一つに数える種の人間がこの母屋にいるという事実だった。私は第一に妻のことが心配だった。その後すぐに照明をつけたことを後悔した。私が知らない顔だと決めつけていたあの雌猫は私の妻だった。二匹は窓際にいた。あの猫が私に気づいて言った。「おお。また来たのか。」「さっきはすぐに部屋を出てしまったから、言ってくれれば話しかけていたのに」妻と目が合った。自分がとっているポーズに恥じらいを感じたのか、申し訳なさそうに少し萎縮した。私がいつまでも返答しないので、雄猫はまた腰を振り始めた。妻は首を捻り振動を全身で受け止めた。さっきよりも大胆に腰を突き出し、身体を仰け反らした。私は雄猫に飛びかかろうとしたが誰かを傷つけることはよくないことだと思い辞めた。ましてや妻の前なので野蛮な真似はしたくなかった。二匹の影はベッドまで伸びていた。雄猫が抽挿をやめると彼女は喉を鳴らして残念そうな顔をした。奴は彼女を撫でると台から降りベッドの脇に置いてあるバケツぐらいの小さな黒板に爪で線を引いた。そういえば夫妻のどっちかは元々学校の先生でその懐かしさから、ふざけておもちゃの黒板を寝室に置いたのらしい。前に彼女から聞いたんだっけ。山育ちの彼女は黒板のことを知らず焦げた木の皮だと勘違いしていた。威嚇じゃないよ、と奴が言った。私に言ったらしい。「する度にこうやって印をつけてるんだ。今日の分はここ」奴が指した箇所を見ると、五本の線が引かれていた。よく見ると黒板の隅々に同じような線が雑に引かれてあった。少なくとも三十ぐらいは引かれてあった。私は何を血迷ったのか相手を挑発してしまった。「まだそれぐらいなの?僕なら一周はしてるよ」すると奴はベットの下から一冊のノートを取り出し、間の抜けた顔で「もともとはこっちに書いていたんだ。ほら、もう余白がないだろ?もう一冊欲しいんだけど、それが手に入るまではお遊びってことでこの黒板に記してるんだ。なあに、ちょっとした思いつきだよ。意外と彼女が乗り気でさ、彼女の方からやってみようよって言ったんだぜ」彼女は窓の外を眺めていた。その視線は遠くにありそうだった。あんな発言したが、僕らはただ子供が欲しかっただけだった。けれども恵まれなかった。すると奴も、、。窓際に奴が到着すると彼女は遅いよ、と言った。そんな気がした。彼女に挿入し交じ合いが再開した。始まるとその瞬間にも彼女はよがりながらガラスに身体を押し当て、下から奴の首に前足を絡ませた。空から洩れる銀色の皓々とした光が彼らの影をより鮮烈に投写した。はじめの交錯以降、彼女の視線に私が重なることは一度もなかった。奴の目的は種の存続ではなく、快楽なんだ。僕とは違う。とんだ下衆に付き合わされてもちっとも嬉しくないはずだ。 一階のあるところに、収納部屋がある。踏み外してしまわないよう階段を慎重に降りて向かった。収納部屋といっても部屋と呼ぶには倉庫すぎるし、倉庫と呼ぶには小さすぎる。ちょうど台所から対角上に位置している。ここを隠れ場所にしたのは台所から溢れる煮えたぎった匂いから逃れたかったからなのかもしれない。私が母屋を出なかったのは妻への未練ではなく、もうそんな体力が残ってなかったからである。私は部屋に入ってすぐのところに置いてある戸付きの棚に身を隠した。中は蒸し暑かった。じっとしていても汗が止まらないので、自然と体を横たえていた。背中を丸めるとため息が漏れた。結局彼女が私にくれた「知らせ」は自分を偽り送ったものなのだろうか。そして、もしそうなのだとしたら、いつからそうしていたのだろう。私はただサディスティックな嘘に嘲笑われただけなのか。きっと何か事情があるんだ。私には言えない、ある種の恥じらいを持ち込まないとできないような話が。そう思うと窓の外を眺めていた彼女の態度にも説明がつきそうだった。そう思うことで精一杯だった。私の想像力はそれ以上の詮索を拒絶していた。棚に侵入した際に舞い上がった埃のむず痒さが私の鼻先を掠める。私は小さな棚の中で静かに沈殿していた。黙りこくって積もる埃よりもずっと深く。口先に何か当たるので噛んでみるとそれは自分の尾だった。痛みはなかった。動く様子もなかった。なんだか呼吸しづらいので肺を一杯運動させ、空気を吸い込んだ。そうしていると肩がだんだん痙攣し全身が震え始めた。そして喉の奥から嗚咽が出てくるようになると初めて、自分が泣いていることに気が付いた。息を吸い込むたびに喉がそれを拒むようにえずいた。胸から腹の辺りが熱を帯び、それを抑えようとすればするほど震えが込み上げてきた。(ねえ、どうして、、)行き場のない言葉ほど虚しさを連れてくるものはない。その事実が途端に私を苦しめた。口が渇き、舌の痺れを覚えた。背中はさらに丸みを増した。足先の皮下に糸虫が体を擦り付けている感覚が走ったので、錯覚だと思いつつ糸虫を潰殺するように掻きむしった。足先から毛がどんどん抜けていった。もう終わりにしたい、私の脳裏に自動車の行き交う街が浮かんできた。縄でがんじがらめにされた膨張しすぎた集団。頭を上げると見える、顔に影を縫われた集団。子供の頃の私はよくその縫い目を渡り亘り、走り奔った。けれども彼らはいつも何かに夢中そうで、私に気づくことはなかった。胸の奥で太陽が飜るのを感じた。夏は遠くへ過ぎていき、矢張り虚しさが残った。 ある日縞模様から聞いた話だが、今度この農場のすぐ近くに列車の線路が引かれるらしい。この沿線は都会から引かれていて、すでに隣の山まできているようだ。たとえばもし駅舎が近くにできたとしたら、どれぐらいの人が降りるのだろうか。ここら辺の名所といったら、幼い風を運ぶなだらかな丘陵と山の奥にある静かな滝ぐらいだ。線路は農場の隣を通るのか、それとも山を切り拓いて進むのか。どちらにせよ、ここが賑やかになるのはいいことなのかもしれない。もし駅ができるならどうかたくさんの客に降りて欲しい。どうかこの狂った世界を知って欲しい。 焦げた匂いがして目を覚ますと、目の前に猫もどきがいた。収納の戸を自分で開いたらしく、私のことをじっと見つめていた。顔の右半分が酷くただれていた。もしかすると台所の調理場にうっかり近づいてしまったのかもしれない。朦朧とする意識の中にはこの可哀想な農夫しかいなかった。この全能の使者に私の身の内を告白しようか。どんな答えが返ってきたって構わない。いやむしろ返事なんかしないでほしい。私の惨状を取るに足らない態度で払い捨ててほしい。戯言にしてくれればきっと私の気持ちも軽くなるだろうから。そうだ、近くの小川に猫もどきを連れて行こう。そこで冷やせば火傷も幾分落ち着くだろう。外は暑いがあそこの川水ならきっと冷たいはずだ。そのまま山へ行って丁度いい草を探そう。効き目があるかは分からないが、少しは治りも早くなるだろう。縞模様にも聞いてみるか、彼なら私の身の上を絵空事として受け流さず真摯になってくれるだろう。猫もどきの顔にそっと触れると滲みたのか、背中を仰け反らした。私はごめんよと言い、部屋の外を確認すると彼を連れて行こうとした。廊下には誰もいないことを伝えても動こうとはしなかった。動こうとしないということは動く必要がないということだ。この母屋の中を探索することにした。部屋はいろんなもので散らかっていたが、火傷に効くようなものはなかった。私は部屋を出て台所へ向かうことにした。部屋の扉を少しづつ開け左右を確認すると、彼らには真似できない素早い動きで台所へ近づいた。そして右前足を踏み入れようとした瞬間、目の前の光景がぐらついた。地面が90度回転するような感覚がしたので、落っこちないようになんとか床に這ずくばった。しかし手遅れだった。私は調理台まで吹っ飛ばされ、鉄の板を叩きつけられた。私を掴んだのは男だった。遅れて妻の方もやってきた。例にもよって何を言っているのかよく分からなかったが、とにかく私は痛みを受け入れもう一度眠ることにした。 瞬きの隙間にすべての 責任が剥がされて いきている実感が 麻痺していく まるで 澄み切った瞳のような 危うい美しさ 農夫が猫もどきに変身した理由は彼の心中にあるのかもしれない。彼が最後の猫を飼い始めてから随分経ち、私も山での生活に慣れてきた頃。ある日農場に黒い服を着た三人の男と一人の女がやってきた。男たちは農場を無人のビル内を点検する作業員のように見回し、誰の許可を得たのか、我が物顔で母屋に入って行った。その頃農夫は近くの川で涼んでおり今から母屋に帰るところだった。私は母屋の東側にある丘からその様子を眺めていた。農夫は長く急な石階段を上がり母屋の前まで来た。玄関の戸に手をかけようとした瞬間、それよりも先に訪問者が戸を開けた。数回言葉を交わすと男と農夫は隣の小屋へ向かった。何かを探しているようだった。その間母屋に残った男と女は何をしていたかというと、これはよく見えなかったので正確には分からないが、カメラらしきものを部屋中に設置していた。ベランダにも付けていたのでこの時やっとそれが高周波音響装置だということが分かった。子供の頃よく街で見かけたが、基本的に猫よけで使用されることがほとんどだ。男と農夫が小屋から戻り母屋に入ると同じタイミングで女が裏口から出てきた。彼女は手に持っていた書類越しに母屋を写真に収めた。そのまま女は仲間を置いて農場の入り口で待機していた黒いタクシーに乗り込むとそのまま離れていってしまった。その日母屋から人が出てくることはなかった。次の日、同じように男たちがやってきた。今度は白衣のようなものを着た体格のいい男三人だった。彼らは一人一人大きさの違う鞄を手にし特に気にする様子もなく母屋へ一直線に向かった。黒服の男が戸口で待っていて、そのまま彼らを招き入れた。中で何が行われていたのかよく分からなかったが、しばらくすると今度は三人の黒服が鞄を持って母屋から出てきた。続いて白衣の男たちがビニールの塊を担いで出てきた。すぐに包まれているのが農夫だと分かった。彼らはビニールから農夫の頭だけを出すと母屋のすぐ前にある温室の隣に設置されている温湯殺菌専用機のゲージの中に入れた。それしその様子をカメラで何枚も撮影した。個の価値判断の根底にあるのは集団の中における価値相対のコンテクストなのだ。集団社会で生きていくためにはそのコンテクストへの理解を示さなければならない。しかし集団の中では多数が評価した価値が絶対的で、この移り変わりは歯車のように社会にねじ込まれている。しかし集団、社会の進化にはその歯車の回転に抗う力が必要になる。連帯の進行を逆行する個が集団を前進させる。男たちはビニールに火をつけた。気づけばかき曇り、あたりは暗くなっていた。上空から縄梯子が降りてきた。彼らはそれにつかまりそのまま飛び去っていった。農夫は必死に身体を揺らしビニールをほどこうともがいていた。雨が降り出したので私は山に帰ることにした。巣穴に戻る途中、温室の方を振り返ったが農夫の姿はなかった。代わりにビニールだけが抜け殻のように残されていた。思い出した、今私を解体しようとしている女はあの時農場を下見に来た女と同じだ。農夫の元妻と関係があるかは分からない。 切断された私の手足は紐に括りつけられ窓の庇に吊るされた。よく見ると爪が短く、平たくなっていた。毛もほとんど抜け落ちていた。私は新聞紙の広げられた机に横たえられていた。女が私の頭を押さえている間、男が自動鋸(のこぎり)を私の首に当てた。私はここでようやく助けを求めた。何度叫んでも応答がない。今度は名前で呼んでみた。喉を魚の小骨が行ったり来たりするような痛みが襲った。猫もどきから反応が返ってくることはなかった。口の中にこびりつく砂のような歯切れの悪い音が、私の首をゆっくりと開いていった。私は灼熱の痛みに悶絶しながら、ぼやけた天井を見つめ考えた。もし彼女との間に子供ができていたら。そういえば街生まれの雌猫は子供を授かれないという噂があった。彼女は山育ちだが山生まれとは言っていない。頭を横にもたれ、身体の下に広げられている新聞の見出しを見つけた。「月エネルギー伝導システムの撤去が決定!」日付を見ると今日から全国的に作業が開始されるらしい。システムの影響は自然だけではなく人間にも良くない予兆を感じさせたらしい。都市部では気の狂った輩がよく見られるようになり、国はそれをシステムが原因だと結論づけた。 切り離された胴体は煮えたぎる鍋へ投下された。女は鍋に素手で突っ込みかき回した。尿のような匂いが鼻をついた。夫妻は穿いていたものを脱ぎ、全裸になった。二人とも逆立ちし、互いに足先を絡ませながら台所から出ていった。 玄関から何かが侵入する音が聞こえた。その正体は私の目の前に来た。縞模様だった。彼は私の頭を縄で縛り担ぐとそのまま玄関へ向かった。その途中、階段の一段目の踊り場で腰を下ろしている猫もどきと遭遇した。焼きただれていた箇所はどろどろに融けていた。顔の半分からゴムのような白さの混ざった鮮やかな血が溢れ出ていた。助けを求めるような弱々しい目をしていたが、縞模様が彼に構うことはなかった。縞模様が母屋を出る時まで彼はずっとこちらを見つめていた。だんだんと遠くなりひとつの灯のように揺らぎ始めると階段の上から男が落下してきて彼に覆い被さるようにぶつかった。猫もどきはその衝撃で頭を大きく揺らし霧のような血飛沫をあげた。そのまま床にへばりつくとこの世のものとは思えない奇声を発し、喉を掻きむしった。かつてガラスのように鋭かった爪は平たいバターナイフのようになっていた。両手を血まみれにしながら喉を掻きむしると、穴の空いた風船から空気が洩れる時のような音がその場の狂気を貫き私たちを母屋から追い出した。私たちは山へ向かった。その道中、作業用トラックが何台か道の脇に止まっているのが見えた。それからは縞模様の背で寝たり起きたりを繰り返し、それはもうあっという間のことで、気づけば私たちは山の中にいた。縞模様は私を滝の裏へ運んだ。そこには小さな洞窟があり、いつも「テラプロニデクス」が置いてあった。今まで縞模様が用途を示してくれたことはなかったので、そこで初めて使い方を知った。テラプロニデクスは駅に置いてある消化器入れぐらいの形で銀色の枠の中に透明な水甕が挟まっている。中は液体で満たされているが、物質は不明。容器の後ろには蜘蛛の巣のようにびっしりとコードが入り組んでいる。それを縞模様が弄ると液体が音を立て泡立った。その中に私の頭部を入れると縞模様は滝をくぐり消えてしまった。 その日、付近の山で火事があったらしい。撤去作業をしていた人たちなどはみんな避難できた。出火元は不明で人為的かどうかも分からないという。炎は波のように木々を覆っていき、遠くから見ても確認できるぐらいの大火災になったと、、私はその話を誰かから聞いたわけではないがその光景が見えた。それは夢ではなく、照りつける灼熱の日差しのように私の肌を縮こませ、悪夢のあとの安心感を私に与えた。農場が燃えているのが見えた。渓谷の底に打ちつける滝の轟音のような、叫びに近い振動が頬を僅かに揺らし続けた。 農場があった場所で一人と、五匹の猫の焼死体が見つかった。山岳警備隊によると、特に猫の死体は損傷が激しく、一匹と判断するのにも苦労したという。 昨夜、わたしの頭蓋骨が透けていた それは灰色のガラス温室で 裏返しに芽吹いた夢が うっすらと曇りを呼んでいたから
砂時計
朝のビル風は 議事録みたいに冷たい 名刺には何も書かれていない 沈黙が発言権をもって 空の紙コップが 最後に結論をこぼす 疲れ果てた上着のチャックを首元まで上げる。羽田から自宅まで一時間半。四日間の古都旅行は、懐かしい匂いにゆらぐ車中で終わりを迎えようとしている。帰宅。ソファにもたれかかると、私を無視して一夜は過ぎた。週末の後部座席に取り残されようだ。旅をした日々を思い浮かべると、夏の熱気のように纏わりついていた疲労は露となり、頬をつたい落ちていく。机上には旅の土産が佇んでいる。市場で買った砂時計。ひっくり返すと、中の砂が慌てて落ちだす。それを眺めていると、異国の街を歩いた高揚がひりひりと蘇る。リュックから、一冊のノートを取り出した。旅の記録が記されたそれの表紙には、「古都トレド紀行」と書かれてある。その一ページ目を、もの見たさと、ほんの少しの恥じらいをもってめくった。 2024/10/11(金) 財布を二つと常備薬。パスポートに服と地球の歩き方。何度も確認する。旅に大荷物は敵だ。ようやく掴んだ有給休暇なんだ。怠惰は置いていく。その他諸々の所在も確かめる。日本全国を旅した私にとってこれは、ただの作業でしかない。ただ今回は初の国際線。空港で迷うことも想定内である。 出発まで時間が少しあるので、この記録を書いている。ほとんどの旅で欠かしたことのない習慣だ。ただ一つ、忌まわしきは鳴門海峡。あの時の高波は私の具合をとことん悪くし、とうとう記録も断念となった。 壁に吊るされた時計に目をやる。怠慢な長針は、三度にわたる私の目配せに気付いたのか、ようやく動きだした。出発の時が来た。続きは空港で書く。 07:32。空港。最初の不安はあっけなく消えた。行きの電車で何度も案内図を見た甲斐があった。何度も押し寄せる眠気を必死に内に抑え、出国手続きを済ませた。私はロビーで静かに座っている。早く着きすぎたのかもしれない。目の前にアイスクリームの自販機が置かれてある。人気のない灰色の空間に私と二人、見つめ合っている。私は押し止めない四角い発光に気まずくなり、ついに硬貨を入れた。抹茶アイスを食べた。搭乗まで残り二時間。 旅の目的地はトレド。スペインの都市だ。スペインの首都といえばマドリードだが、かつてはトレドがその名を冠していた。人々に「スペインに一日しかいないならトレドへ」と言わしめるほどに人気が高い。イスラム様式とキリスト様式の混在する世界的にも貴重な建築物が数多く見られる他、街全体は細い路地によって結ばれている。一九八六年には街そのものが世界遺産に登録された。羽田からトレドまで直行便はないので、まずはミュンヘンへ飛び、そこで別の飛行機に乗り継いでマドリードまで。その後バスでトレドに入る。土、日で観光し、順調にいけば、月曜には自宅に着く。「トレド」には特別な思い入れがある。液晶越しに少年時代、実家の団欒から見たその街並みは、こうして大人になった今も頭を離れない。 空港内のラウンジで暇を過ごす。太い帯のような時間がねばり気を伴い過ぎていく。それにしてもさっきから飛行機の離着陸を見ているのだが、まわりの人たちは何を思って座っているのだろう。母国への郷愁だろう。またはようやくか、それともあっという間に終わった出張の出来に満足か、それとも不満を抱いているのだろう。もしかしたら意外と、私のような旅行者がほとんどなのかも。親子連れもそこそこいる。どちらにせよ、ベンチに座って飛行機を眺めている人々の顔を見ると、その引力に引っ張られそうになる。寂しくて空っぽな情緒に、搭乗の呼び出しアナウンスが重い油のようにのしかかる。日々を生きていると、何をするにも気が起きてくれない。日は昇り、私を通り越してさよならを言う。私はそれを面倒くさそうな目つきで無視するが、まもなく深い孤独がやってくる。空虚な日々。少し仮眠をとることにした。残り一時間。 いよいよ搭乗。自分は窓際の席だった。左には別の旅行客のペアが座っている。ガラス越しに東京湾を眺める。夢の街への期待が、滑走路を力強く走り出した。 離陸してからどれくらいが経ったのだろうか、飛行機は雲の中を飛んでいた。半開きの瞼を擦る。ところで、「雲行きが怪しい」という言葉がある。旅と天候の関わりは切り離せない。天気には顔がある。お天道様がにこりとすれば、街は門を開けてなんびとを迎え入れる。怒られよう日には、しんと拗ねて窓を閉める。私のような旅人には、風情を少し変える、ぐらいまでで勘弁してほしいのだが。旅の天秤は、天のみぞ量れるのだ。 12:20。ミュンヘン到着。乗り継ぎまで時間が空くので少しだけ観光する。ふいに消えた日本語をつい探してしまう。国際的な話し声があちらこちらから聞こえてくる。しかしこれはあくまでも「トレド」旅行なので、ここでの記録は割愛する。 24:02。マドリード到着。すぐにホテルに向かった。シングルベッドと、必要最低限の休養設備が置かれてある、退屈な部屋だ。洗面台に置かれある鏡の汚れにも気になる。日本のホテルと比べると、もっと文句をつけたくなるが、英気を養うため、特につけ足さず今日はこれにて眠る。 10/11(土)06:14 ホテルの窓に ふたり並んだ影がある でもよく見ると それは カーテンのシワと 僕の独り言だった ホテルの窓から外を見ると、通りにはちらほら水溜りができていた。空は鈍色の雲で覆われている。雨がまた降りださないことを祈るばかりだ。異国でした最初の食事は、香ばしいコーヒーの香りや食器をつつく音が、朝の束の間を和やかに漂い―そんな私が期待した、洒落たものではなかった。私と同じ目的を持った旅客達が、忙しなくプレートを運んでいた。平凡なトーストに、フルーツ、コーヒー。生ハムの塩気は眠気を吹き飛ばしてくれた。 支度をすまし、ホテル発トレド行きのバスを待つ。後ろを振り向くと、自分がホテルの入り口まで続く長い列の最前にいることに気づいた。朝早く出発した甲斐があった。ときどき腕を上げて時計に目をやる。バスは少し遅れてやって来た。丸みを帯びた長い車体。乗り口は前輪側にあった。車体が近づくと赤いバス会社の名前ロゴらしいものが目に入る。乗り方には特に困らなかった。隣に座った英語圏の三人組旅行客。彼らも私と同様、トレドを観光したらまたこのホテルに戻るらしい。バスが動き始めると、トレドの景色で胸の奥が染めあがった。他の乗客達の話し声が段々と大きくなっていく。彼らが指差す方を、私もつられて見た。スペインの田園地帯が広がり、それを村の家々が囲む。その遥か遠くには古城が小さくも見える。トレドに近づけば近づくほど、街並みは時代を遡るようにゆっくりと、古風な雰囲気を醸していった。 学生時代に買った小型カメラは、今でも愛用している。当時の自分にとってだいぶ覚悟のいる値段だったため、今でも愛着が消えない。撮った写真を現像してノートに貼るのも、旅の楽しみの一つだ。 09:45。トレド到着。遂に着いた。ガラス越しに反射する自分の顔など気にも留めず、新品のおもちゃに飛びつく子供のように興奮に躍り上がった。性急な心は体を置いて、先にバスから降りてしまった。負けん気な体は置いてかれまいと、急いで心に追いつく。足元を見ると、石畳の小道が続いていた。その道を辿って顔を上げると、中世の要塞が現れた。冷たい風が背中を押す。かつて夢見た景色がここにある。異国から来た自分の服装は、そこでは浮いているようにも思えた。 展望台までの階段を上り切ると、「初めてトレドに来た観光客が迷子になる」という話を思い出した。細い路地の集合はまるで迷路だ。壁を石灰で塗られたはずの家々は、その歴史の長さ故か、本来の色を忘れ、砂色に落ち着いていた。 近くのベンチで記録を書いていると、雨が降ってきた。折りたたみ傘を持っていたが使わず、近くの教会まで走った。雨が止むまでその歴史的建築を見学してみることに。門をくぐると、まず、入り口から奥の祭壇まで続く真っ直ぐな通路が目を引く。その道の左右には礼拝者の為の長椅子が置かれていた。祭壇には何十体もの天使の彫刻が飾られていて、天井からは尖頭アーチがこちらを見下ろしていた。まるで、いや、文下手な私が表現するにはおこがましい。ああいうのを芸術の極致と言うのだろう。実を言うとこの街に着いてからはずっとこの調子だ。その影響下にあるのはどうやら私だけではないようで、祭壇の横に飾られた絵画には黒山のような人だかりができていた。その様子を写真にでも収めようした、その時になって気付いた。私としたことが、ベンチに手提げを忘れていたのだ。手提げの中には財布やこの大事なノートが入っていた。ベンチ付近に人は見えなかったため、万が一のことはないと思った、が、、。最悪の状況ほど鮮明に想像してしまうものだ。急いで取りに戻った。石階段を駆け上がった。ベンチの上に置いてけぼりになった黒いかばん。中身を確認する間も無く教会へ走った。来た道を段飛ばしで下り、走った。街路に聳える灯柱に右手を伸ばして、遠心力に身を任した。投げ出された体は、吸い込まれるように教会の入り口へ迫る。石畳に弾かれる雨粒が勢いを増し、私の焦燥の炎に息を吹きかける。濡れ鼠で教会に駆け込み、床に跪く。中身が無事か、沈まぬ太陽にすがるように願った。その時の私にとって、周りからの視線などはどうでもよかった。多分、本当に濡れた鼠を見るように私を見下ろしてたのだろうな。かつて同じ様な事があった。あれは旅行というのにまだ慣れていなかった頃だ。人間は万策尽きた時、都合の良い理想に頼るのだ。だが結局口先だけで、本当は万策など試してもいない。自分たちの置かれた状況を全て何かのせいにして―云々。同じ事態が、いやそれ以上の事がついさっき起こったのだ。幸運にも万が一のことは避ける事ができた。財布の中身はちゃんとあるし、カメラだって、特に盗まれた物もない。唯一の不満要素は濡れた全身ぐらいで、肝心の記録帳は役立たずにならず生存していた。まあ、だからこそこの記録を書けているわけだが。しばらく項垂れていると、誰かが羽織るものを掛けてくれた。肌に伝わる温もりが、心の中へと波紋のように広がる。正午を知らせる鐘の音が、滴る雨粒を彼方へ吹き飛ばすように何度も響き渡った。 上着を替えて教会の入り口、屋根の下から外を見る。目の前には噴水のある広場があり、そこを抜けた先には教会がある。その建物の上部にはステンドグラスの薔薇窓があるが、雲に光を奪われたかのように静かだった。その教会の入り口から礼拝を済ました人々がぞろぞろと出て来た。昼食の時間が迫っていた。 「Bar Restaurante Luden」と呼ばれるそのバーは、トレド大聖堂から0.3kmのところにある。昼はそこで済ますことにした。「トレドに行くなら寄るべし」とガイドブックに載るだけあって行列ができていた。私もその列に参加した。あまりの空腹にくたびれていると、ようやく自分の席が空いたようだ。店の中に入ると、用心深いウェイターが奥の席まで案内してくれた。彼は無口でどうやら英語は話せなそうだった。注文したが、この混み様では来るのも時間がかかるだろう。ノートにこれまでの事を書き留める。香ばしいガーリックやオリーブオイルの匂いが部屋に立ち籠め、誰もが外にいる時よりも口数少なくフォークを進めていた。しばらくして料理がやってきた。豚の赤身の肉やグリーンピース、チョリソなどをトマトソースで煮込んだ「カルカムサス」、アーモンドの粉と砂糖でできた「マサパン」など。どれもトレドの名物だ。 13:49。食事を終え街に出ると、雨はすっかり上がっていた。雲行きはとても怪しそうには見えなかった。その後は気の向くまま街を周ることにした。濡れた路地を歩くのも、ガイドブックには載っていない楽しさがあった。路地の端から伸びる暖かな陽射しが店のショーウィンドウに並ぶ工芸品に光沢をもたらす。市場では地元の芸術家が作品を披露していた。彼が作ったのであろうか、かわいげな木枠が目を引く砂時計がちょこんと、横縞絨毯の隅に忘れられていた。他の作品は全て売れたのであろうが、行く人来る人皆彼女を無視していた。売れ残りである。はじめは寂しそうに見えたが、こうして遠くから眺めていると、彼女は高飛車にすましているように思えた。溶かしたビターチョコレートのような木枠をすらりとのばし、その隙間から、たしかに何かが私の目と合った。旅の想い出としてそれを買った。 砂時計を見ると少年時代の景色を思い出す。これは実家の話だが、私と、私の姉の部屋を繋ぐ渡り廊下には棚があって、その上に砂時計が置いてあった。それがどこの土産なのかは憶えていないし、そもそもそれが土産だったのかもわからない。一つ確かなのは、私がそれにやけに熱中していたことだ。砂時計とは今でもおもしろく思える。中央のくびれた容器の中に微細な砂を入れ、上側から下側への砂の移動によって時間の経過を計る。ごく家庭的な時計、この場合、置き時計でも掛け時計でも構わないのだが、電池をいれれば、針は円を描き動き続けるのに対し、しかし、こいつは砂が落ちきると、それをまたひっくり返す必要がある。無論、時計とは用途が違うため、それに四六時中生活を握られることはないのだが、私はどうもそれを気にしていたらしい。暇な時間があればよくひっくり返して、砂の流動を眺めていた。硝子の中に閉じ込められた砂は私にとって永久そのものだった。私にとって、砂時計の「ひっくり返す」という行為は、時間の不可逆を打倒してくれる秘密の希望なのだ。ひっくり返してしばらく経ち、進行中の時計を再度ひっくり返す。そうすると、上の玻璃が砂を吐き出しているように見えるのだ。一度嚥下されたものが、位置の逆転によって逆流する。それは時計の針が逆行するのに等しく思えた。その間私はそばから離れない。耳を傾けると微かに聞こえる、砂の流れる音。そよ風の通る草原のように聞こえたのは、私が子供だったからなのだろうか。そういえば父親はよく少年期の私を、「壊れた砂時計のような子」などと称していた。 「アルカサル」とは、スペイン語で王宮、王城の意味だ。スペイン各地に点在し、当然トレドにもそれはあるので寄ってみた。石壁に刻まれた古傷。時の痕跡を背負い、悠久の詩を囁いている。壁に開けられた小さな狭間から絶景を臨んだ。教会「シナゴーグデルトランシト」には、ユダヤ教に纏わる魅力的な美術品が展示されてあった。かつてトレドは、カトリック、イスラム教、ユダヤ教という3つの多様で繁栄した文化の故郷として有名だった。後者の豊かな歴史を発見するのに、此処ほどふさわしい場所はないだろう。サント・トマス教会の静けさや、サン・フアン・デ・ロス・レイエス広場の賑わい。トレドの美は歩きながら感じることができる。 気付けばあっという間に時間が経っていた。ホテルに戻る時間だ。サン・マルティン橋から、夕陽に照らされ幻想的な美しさを放つテグス川を眺めた。私の故郷には歴史的な跡地が沢山ある。この川が抱く街も、遥か昔から人々によって大切に守られてきたと思うと感慨深い。だが、それは当たり前の事ではない。連日ニュースで、紛争によって破壊された街が報道される。言葉を失った物語の断片。旧ユダヤ人街の静けさは、かつてここに住んでいた人々の叫びにも聴こえた。遠く離れた地に住む私だが、他人顔はできなかった。言葉は違えど、私たちは同じ朝陽を眺め、同じ夜陰に怯えるこの星の住民なのだ。 バス停までの道中、路地裏を通ると、昼に味わった懐かしい香りが漂った。真っ直ぐに続く通路。地面に残る小さな水たまりに灯光が反射する。奥の暗闇から大きなバックパックを背負った三人組がやって来た。街灯の光に照らされると、それらは行きのバスで見た顔だとわかった。一灯の下、すれ違う影達。会話が耳に入る。彼らの目的地もバス停のようだった。言葉は疲れ果てて、自分たちの歩んでいる道すらも分からぬようだった。 街は静謐の中に包まれ、街灯が古い石壁に柔らかな光を投影する。遠くから聞こえる教会の鐘の音や、夜に霞んでいく建物の灯。異国の地での旅だが、独りだとは感じなかった。美と歴史の調和、「古都トレド」。 バスにはギリギリ間に合った。あの三人の姿はなかった。出発すると、街は次第に遠ざかっていき、一点の光に見えた。 10/12(日)10:13 昨夜はホテルに戻り食事をした後、すぐに寝てしまった。今日は悠長にしていられない。夕方にはバスで空港に戻らなくてはならないからだ。マドリード観光はすぐに終わることだろう。記録を書く気力も無くなってきた。 マドリードを出発した飛行機は、一時間半かけて私をミュンヘンまで運んだ。旅の名残を留めるには十分すぎる時間だった。 20:20。日本行きの便は、日を跨いだ後のことなので、予約していたホテルに泊まった。部屋の調子は整然としていた。手から荷物を離した途端ベッドに倒れ込んだ。体重がシーツに融けていき、見つめる天井がぐにゃりと曲がった。 10/13(月)16:39 羽田空港。これから三回電車を乗り継ぐ。乱れた身なりを整える。自宅まで一時間半。 頬を拭いて、予定よりも長尺になった旅行記譚を閉じる。積年の夢が叶ってよかった。言葉では表せられない、言葉では埋め尽くせないぐらい充実した旅だった。私は未だ週末の後部座席から抜け出せないでいる。机の上の砂時計は溶けた水飴のようにぼやけている。砂が落ちる音に耳を澄ませながら、私は少しずつ、何かを取り戻しているような気がしていた。トレドに馳せた想いが姿を変えていく。次行く時はいつになるだろうか。夢想は完全に過去のものとなった。私のトレドは、この砂時計の中で永遠になったのだ。砂。流動。砂時計が示す時間へのアプローチ。 玻璃の中の砂が全て落ちきるのを見届けると、もう一度ひっくり返して、机に置いた。