融解

融解
 ある農園で、害獣に悩む気細い農夫が一匹の猫を飼い始めた。その猫はラガマハと呼ばれているが、よく分からない。とにかく猫は広大な農場を一匹で守り、よく働いた。農夫にとって初めての飼い猫だったが、共に平穏な日常を過ごした。  それから幾つか日が経ち、一匹だと広すぎると心配した農夫がもう一匹の猫を連れてきた。しかし二匹の猫は役目を忘れ喧嘩し始めた。困った農夫は縞模様の目立つ大きな猫をつれてきた。しかしその猫は程なくして、他の二匹を連れて農園を出てしまった。次に農夫は気の強い猫を連れてきた。誰にも従わない気高い猫。やがて害獣はすっかり見なくなった。気を良くした農夫はその猫を可愛がったが、愛着は爪とぎの後回しにされた。その態度は男の元妻に似ていた。  ある日男は気をおかしくしたのか、その猫の気持ちを知ろうと、自分も農園の番人になってみた。顔を限りなく土に近づけるように姿勢を屈めた、ちょうどビニールハウスの脚をくぐれるぐらいに。男はそれをたまらなく楽しがった。それその行為がというより、おおよそ非人間的な習性をおもしろがったのだろう。俗に阿呆らしいと言う格好だ。そんな境地に浸るのも、たまには大切なのかもしれない。ここであえてたまにと記したのは私がその男の結末を知っているからだ。  太陽がその目を細め地平に隠れ始める頃、そいつは草叢から飛翔し、雲を掻っ攫ったのち、地面に落下すると暈けた温室へ滑走し、潜伏した。  外周するだけでその日の役目を終えてしまうぐらい広大な農場の中心に大きな母屋がある。使い古されてはいるが内は小綺麗にされている。2階の屋根近くの部屋に男の寝室があった。男の誕生日会はその部屋で開かれた。ケーキは男の妻がつくった。飼い猫も同席し、二人と一匹で特別な日を祝った。蝋燭に灯された火は控えめだが、その農場で一番明るい光を放っていた。ここで注意してほしいのは、男という表記についてだ。ここで祝われている男はあの農夫のことではない。そのため、妻というのも農夫と結ばれた女という意味ではない。私の表現および文構成が拙いのを謝罪する。もはや謝罪より、謝罪をしている自分の惨めさの気晴らしが私を代表しているのだけれども、ともあれ男と農夫は別だ。しかし何を言おうとその母屋は農夫のものであったし、その農場も彼の懸命さによって広げられた領土であったはずだ。そして何より農夫は確かにその日その農場にいた。諸君は気になるのではなかろうか。農夫が一体その日どこで何をしていたのか。もしか自分の居場所を奪われたのだろうか。では彼のことはこれから猫もどきと呼ぼう。これからお話しするのはとある農場での物語。母屋の住人が何者で、猫もどきは何か。その変身の物語について。  その日猫もどきはその農場にいた。自分の農場に。太陽が死ねば月が目覚め、月が死ねば太陽が目覚める。大地から芽吹いた息吹は、川のせせらぎとなって小石をかき出し、海へ注がれる。そしてやがて水蒸気になり山へと運ばれる。我々もその循環の一部である。猫もどきはもうそのことも忘れてしまった。夫妻の催しは、陽が目覚める頃に静けさを取り戻した。それを合図と受け取ったのか、あるいは種の本能の偶然か、猫もどきは温室より活動を始めた。ビニールに張りついた水滴をひと舐めふた舐め。顔を左右に揺らし、その振動は肩の垣根を越え背筋の痙攣に重なり尻まで伝わる。その伝達の最終地点より下、両後ろ足を土に食い込むように深く踏み込み、構えると、一気に解き放って飛翔した。その日最初の飛翔である。その頃夫妻は誕生日会を終え寝室で寝ていた。その日のために遠い都会からケーキや蝋燭を注文していたので、当日はよほど舞い上がったのだろう。楽しんだあとは深い眠りに落ちるのが常套だ。  夫妻は農場を購入した当時、その農場では獰猛な獣がでると聞いていたため、外周に電気柵を設置し、対害獣用機関銃セットを購入して農場の入り口付近に置いた。その土地を購入してから一年を迎えたが、被害は一度も起こらなかった。誕生日会にはその記念も込められていたらしい。被害が起こらなかったことではなく、一周年の記念である。夫妻はすっかり害獣のことを忘れていた。彼らは記念の日に縁起が悪いと、防犯センサーを消し、対害獣セットの電源も落としていた。これがいけなかった。猫もどきの出入りを許してしまったのだ。猫もどきは一週間をかけて農場内を慎重に、思慮深く進行した。  猫もどきが猫もどきになった日、空は淀んだ緑色をしていた。見たこともないような色だったことを覚えている。その淀みに月も逃げてしまいそうだった。その日我々は農場近くの山を散歩していた。我々には私と縞模様の猫が含まれる。異常な皮膚の震えにふと農場に目をやると、農夫が顔を隠すように地面にうずくまっているのが見えた。縞模様もその様子を見ていた。彼は私に、その記録をするように命じた。突然農夫は顔を空へ近づけると、脅威的な速度で飛翔した。あまりの出来事に彼を見失ってしまった。次に彼を見たのはそれからだいぶ後だった。   木々の葉が高揚し、互いに発情した様子を揺さぶりながら見せ合う。かと思えば急激に衰退する時期。猫もどきは農場のすぐ隣を流れる小川に頭をつっこみ、両足を天空に開いている状態で見つかった。第一発見者は私だった。様子を見ようと近づくと、膝を抱え込むように身体を丸め川を石のように転がっていった。それが猫もどきの習性なのだろうか。私は後を追いかけたがすぐにやめてしまった。それが自然の道理なのだと思った。  次にそいつを発見するのにそれほど時間はかからなかった。ちょうどその頃、月エネルギー伝導システムが山に配備され始めていた。詳しくは知らないが、簡単に言うと太陽光発電のエネルギー源を月に代替した、いわば月光発電だ。どうやら一つ違うのは、自然に対して不思議な、予測不能な作用があるらしい。導入されてからというもの、ざわめき、どす黒い触手を茎の裂け目から垂れ流す草木があちこちで発見された。その触手は、縞模様によるとオウムガイのものに似ているらしい。山の猪の多くは、その触手に魅せられその場をぐるぐる回転しだすという奇行を披露するようになった。猫もどきを見つけた時も、同じような気持ち悪さを感じた。しかし態勢が違った。というのも、背を地面と一体化させ、四肢のすべてを薄暗い曇り空へ差し出し、顔は虚に見えるが舌を高速で出し入れさせていた。生物というのはその本能により、無心といえる状態でも感覚のどこかは生存のために向けられている。少しの草の揺れに緊張するのも、生存本能の一種だ。けれどもそいつの態度からは生存を放り投げたような腐った臭いがした。死んでいるかとさえ思った。私の本能は興味に先越され、いつの間にかその静寂を観察していた。真上に向けられた手足を見ると、完全な静止を疑うぐらい硬直してた。心臓を地面に埋めたと感じるぐらい微動だにしないその姿勢は、完璧な擬態だった。もとからそこにいたと言われれば信じてしまうだろう。しかし決して見失わないのは、その異質さがあまりにも周囲を攻撃していたからだ。地面にも、木の上にも、空にも存在しない。ましてや水中にも。それは虚に浮かぶ飛行艇。海から陸へ上がった進化の話が本当なら次の進化は虚への進出なのかもしれない。そんなことを考えると妙に寒気がしたのでその阿呆面な表情を拝もうと顔に目を向けた瞬間、寒気は悪寒へ変わった。その瞳が確かに私の顔を捉えていた。いや顔ではない、目だ!途端に背筋が姿勢保持の指令に神経支配され、その緊張が微弱な痙攣を生み出す。私は逃げるよりも、下手に刺激を与えまいと様子を窺うことにした。もし動ける距離にいても動かなかっただろう。そんな気がしたのはきっとこのあまりの恐怖のせいだ。猫もどきは背中を地面に這わせた状態から檸檬汁を飛ばすように一気に飛び上がった。そして空中で身体を回転させ、前足から着地した。我々が見せるような見事な着地だった。それでもなお瞳は私を捕らえたままだった。しばらく見つめ合っていると、白い塵が地面に現れ始めた。私は凍える声で少し話しませんかと言った。休戦協定を兼ねた束の間を提案したのだ。すると猫もどきは両目を魚のように移動させ、額を歪まし三日月の皺を何重にも作り出した。あまりの流動っぷりに、舌が喉の奥に落っこちそうだった。前足の先を目一杯広げると体重を鋭い爪が輝る十本の指と掌に乗せ後ろ足を浮かせた。両足の間から液体が発射された。溶けたプラスチックに生魚の身を擦り付けたような悪臭が真っ白な地面を犯した。それは本人の身体より奥に落ちたため詳しくは確認できなかったが、白塵が視界を遮っても強烈な臭いが主張をやめなかったので自然と意識はそれに向けられた。ここでさらに詳細を付け加えると、猫もどきの見た目についてだが、猫もどき以前に身につけていた装備は全て解除されている。両太腿と胸、背中に体毛が集中しており頭頂部は皮膚が露出している。よく見ると陰部が常に硬直しているのが確認できる。その表情からは何も読み取れそうになかった。何かを語りかけているように見えるし、ただ虚空を眺めているように見える。結局猫もどきは何も語らず、両足を掲げたまま後退し山を降りた。
三好潤啓