みかん
98 件の小説ルートワート一家
スパイリーは、ごく普通の家で育った。 朝になれば学校へ行き、帰れば食卓に座り、夜になれば眠る。特別裕福でも、極端に貧しいわけでもない。どこにでもある家庭、どこにでもいる少年。 少なくとも、外から見ればそうだった。 本人もまた、自分を「普通の子供」だと思っていた。友達と笑い、遊び、時には怒られ、時には夢を語る。どこにでもある人生の断片を、何の疑いもなく受け入れていた。 父ロベルトは、何も語らなかった。 あの夜の契約も、真実も、すべて胸の奥に沈めたまま。 「まだ早い」 そう思っていた。 息子には、できるだけ“普通”を与えたかった。あまりにも歪で、あまりにも取り返しのつかない現実を、幼い心に背負わせるには早すぎると考えていた。 だからこそ、日常を守った。 何も知らないまま笑う息子の姿が、どこか救いでもあったからだ。 しかし、その“普通”は、あまりにも不自然な土台の上に築かれていた。 母アン。 教育に縛られ、青春を奪われ、内側に溜め込んだ欲望を爆発させた女。抑圧された時間の反動は激しく、やがて彼女を制御不能な領域へと押し上げた。 愛情を求め、同時にそれを壊し続ける矛盾。満たされない心を埋めるために、際限なく他者へと手を伸ばす存在。 父ロベルト。 一見すれば誠実で、理性的で、落ち着いた男。しかしその内側には、極めて冷たい判断力が潜んでいた。 自らも裏切りながら、相手の裏切りには罰を下そうとする狂気。そしてその結果として誰かが死んでも、それは構わないとする独善的合理性。 感情ではなく、結果で物事を測る男。 そして、血。 アンが関係を持った男——北欧の長身で、整った顔立ちを持つ男。その遺伝子は、確かにスパイリーの中に流れていた。 高い身長の素質、整った骨格、そして人を惹きつける外見。 だが、それだけではない。 その裏側にあるもの。 抑圧された欲望、歪んだ愛情、冷酷な決断、そして——無関係な誰かの死。 それらが、見えない形で混ざり合っていた。 血と狂気と決断と死。 それらすべてが、偶然でも必然でもなく、一つの存在に収束している。 それが、スパイリー・ルートワートだった。 夕方、スパイリーは公園で笑っていた。 友達とボールを蹴り合い、転んで、また立ち上がる。無邪気で、何の影もない笑顔。 その姿を遠くから見ていたロベルトは、ふと目を細めた。 (……普通だ) そう思った。 普通の子供。どこにでもいる、ただの少年。 だが同時に、別の思考が頭をよぎる。 (いや、違う) あの子は、普通ではない。 まだ何も知らないだけだ。
双方不倫
アンの不倫は、あまりにもあっけなく露見した。 ロベルトが単身赴任から帰ってきた夜のことだった。玄関を開けた瞬間、久々の自宅の匂いが鼻をくすぐる。懐かしさと安堵、その奥にわずかな違和感が混ざっていた。 「ただいま」 返事はない。リビングの明かりはついている。アンは家にいるはずだ。靴を脱ぎ、ゆっくりと歩みを進めると、水の流れる音が聞こえた。どうやらトイレにいるらしい。 そのとき、テーブルの上に置かれた一冊のアルバムが目に入った。 見覚えがない。 ロベルトは何気なく手に取った。軽い気持ちだった。だが、そのページを一枚めくった瞬間、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。 写真。 男。 また別の男。 さらに別の男。 クラブのネオン、ホテルのベッド、異国の街並み、笑顔のアン。見たことのない顔をしている。数十枚ではない。数百でもない。ページをめくるたびに、同じ光景が繰り返される。 「……なんだこれは」 声が低く漏れた。手が震えていた。 そのとき、トイレのドアが開いた。 「ロベルト? 帰ってたの——」 言葉が止まる。アンの視線がアルバムに落ちる。その一瞬で、すべてを悟った。 「……違うの、これは、その……」 アンは駆け寄り、必死に言葉を並べる。だが、言葉は意味をなさない。ただ音として空気を震わせるだけだった。 「説明しろ」 ロベルトの声は静かだった。しかし、その静けさは怒号よりも重かった。 「……ごめんなさい」 それしか出てこない。 二歳の子供が、隣の部屋で眠っている。その現実だけが、妙に生々しく存在していた。 ロベルトはアルバムを閉じた。怒りはあった。裏切りもあった。しかし、それ以上に、何かが冷めていく音が、自分の内側で確かに響いていた。 その夜だった。 部屋の空気が変わった。 誰かがいる。 振り返ると、そこに立っていたのは、あの男だった。契約者。以前、一度だけ現れた存在。 「ご無沙汰していますな」 穏やかな声。まるで旧友のような口調。 ロベルトは無言で見つめた。 「どうです? 気持ちは変わりましたか?」 数秒の沈黙。 その間に、ロベルトの中で何かが整理されていく。怒り、悲しみ、裏切り。それらが一つの結論に収束する。 「……書けばいいんだな」 契約者は微笑んだ。どこまでも人間らしい笑みだった。 差し出された紙。そこには細かな文字が並んでいる。ロベルトは目を通さなかった。ただ、ペンを取り、名前を書いた。 「妻の命ひとつで、スパイリーが“全て”を手にするなら……結構だ」 それが答えだった。 契約者は深く頷き、紙を回収する。その一瞬、ロベルトの視界に、ほんのわずかな違和感が映った。 契約書の端に、小さく書かれた一文。 ——生物学的な配偶者。 だが、その言葉は、彼の意識に残らなかった。 契約者は静かに消えた。 翌朝。 ロベルトは目を覚まし、天井を見つめた。昨夜の出来事が現実だったのか、夢だったのか、一瞬わからなくなる。 罪悪感が、遅れてやってきた。 (……やりすぎたか) だが、すぐに打ち消す。 (いや、あの女は裏切った) 自分に言い聞かせるように、ベッドから起き上がる。 リビングに向かう。 そこに、アンがいた。 「おはよう」 何事もなかったかのように、微笑んでいる。 ロベルトは立ち尽くした。 「……生きてるのか」 「え?」 アンは不思議そうに首をかしげる。 ロベルトはすぐに部屋に戻り、携帯を取り出した。そして、契約者に連絡を入れる。 「まだ、執行されてないのか?」 数秒後、返ってきた声は、相変わらず穏やかだった。 「いえ、もう亡くなりましたよ」 ロベルトの眉が動く。 「……どういうことだ」 その頃。 遠く離れた異国の地で、一人の若い女が死亡していた。死因は不明。外傷はあるが、証拠は何も残っていない。まるで、完璧に計算された“消去”だった。 ニュースにも小さく載る程度の出来事。 誰も深くは追わない。 だが、それが“契約の履行”だった。 ロベルトはゆっくりと理解する。 点と点が繋がる。 アンの不倫。自分の不倫。そして、契約書の一文。 生物学的な配偶者。 「……そういうことか」 声が低く落ちる。 スパイリーは、自分の子ではない。 アンと、あの男——ジョニーの子供。 そして、自分にもまた、知らぬ間に子供がいた。赴任先で関係を持った女との間に。 契約は、正確に履行された。 アンは生きている。 スパイリーは力を得る。 そして、犠牲になったのは——名前も深く覚えていない女。 ロベルトは窓の外を見た。 朝の光が街を照らしている。 静かだった。 あまりにも静かすぎた。 そして、心の奥底で、何かが決定的に壊れた。 (……不倫して良かった) その思考は、驚くほど自然に浮かんだ。 罪悪感は消えていた。代わりに残ったのは、合理性だけだった。 愛する妻は無事。 息子は特別な存在になった。 失われたのは、どうでもいい存在。 すべてが、都合よく収まっている。 ロベルトは、ゆっくりと笑った。 その笑みは、人間のものだったが、どこか決定的に、人間らしさを欠いていた。
アンとロベルト
アンの生活は、大学進学を境に大きく変わった。 それまでの過保護で息の詰まるような日々は、少しずつ緩んでいった。 完全に自由になったわけではない。だが、少なくとも“管理される子供”からは抜け出せた。 十九歳のアンは、ようやく思った。 (普通の若者になれたかもしれない) 授業のあとに友人とカフェに行く。何気ない会話で笑う。予定も、自分で決める。 それだけのことが、彼女にとっては新鮮だった。 そして、恋愛も。 これまで抑え込まれていた感情が、一気に動き出した。 男とデートに行くことにも、親は何も言わなくなった。誰かと一緒に時間を過ごすこと、そのものが楽しかった。 遅れてやってきた青春。 アンは、それを取り戻すように生きていた。 二十歳のとき、ロベルトと出会う。 同い年の青年だった。 落ち着いた性格で、誠実で、アンとは対照的なタイプ。だが、その安定感に、アンはどこか安心した。 二人はすぐに距離を縮めた。 そして、結婚した。 周囲から見れば、順調で、幸せな人生だった。 だが—— アンの中では、何かが終わっていなかった。 むしろ、始まったばかりだった。 自由を知ってしまったこと。 抑圧されていた時間の長さ。 それらが、彼女の中で強い反動となって残っていた。 ロベルトとの生活は穏やかだった。だが、その穏やかさが、どこか物足りなく感じる瞬間もあった。 やがて、ロベルトは仕事で単身赴任となる。 家を空ける時間が増えた。 その空白に、アンの内側にあった衝動が入り込む。 最初は軽いものだった。 「少し遊ぶだけ」 そんな感覚だった。 だが、それはすぐに加速していく。 アンは、不倫に足を踏み入れた。 そして、それはやがて“習慣”になった。 様々な場所へ行った。 そこで出会う男たち。 新しい刺激。 贅沢な時間。 その一つ一つが、アンの中の空白を埋めていく。 いや、埋めている“気がしていた”。 彼女は止まらなかった。 むしろ、止められなかった。 あの頃、遊べなかった時間。 抑えつけられていた欲求。 それを取り返すように、アンは動き続けた。 街で、ふと目に入る光景がある。 公園で遊ぶ子供たち。 制服姿で笑い合うカップル。 そのどれもが、穏やかで、自然で、当たり前のもの。 本来なら、微笑ましいはずの光景。 だがアンは、それを素直に受け取れなかった。 胸の奥に、ざらついた感情が湧き上がる。 嫉妬。 奪われた時間への怒り。 取り戻せない過去への執着。 (私は、あれを知らない) その思いが、彼女をさらに突き動かす。 だから、遊ぶ。 止まらないほどに。 激しく、速く。 心と身体を満たすために。 満たされないものを、無理やり埋めるように。 アンは走り続けた。 どこに向かっているのかも、わからないまま。
過保護
アンの両親は、いわゆる「普通に優秀な大人」だった。 派手さはないが、堅実で、真面目で、社会的にも問題のない人間。仕事もきちんとこなし、家庭も守る。 ただ一つ特徴があるとすれば——心配性だった。 そして、その心配性は“愛情”として、アンに向けられていた。 両親にとって、それは当たり前のことだった。 子供の将来を思い、失敗しないように導く。危険を避けさせ、正しい道を歩ませる。 それが「良い親」だと、疑いもなく信じていた。 幼少期、アンはまだ自由だった。 幼稚園や、小学校低学年の頃までは、友達と遊ぶこともあった。公園で走り回り、他愛のないことで笑う。 だが、その時間は長くは続かなかった。 小学校三年生。 アンは中学受験の塾に入れられた。 最初は週に数回だった。それでも、彼女にとっては十分に重かった。 「なんで、こんなに勉強するの?」 そう思いながらも、親の期待に応えようと机に向かう。 だが、学年が上がるにつれて、状況は変わっていく。 塾の回数は増え、時間も伸びていく。 気づけば、小学六年生の頃には、ほぼ毎日塾に通っていた。 帰宅は夜遅く。 眠い目をこすりながら問題を解き、次の日もまた同じ生活を繰り返す。 アンの目は、少しずつ光を失っていった。 「いい学校に行けば、人生は救われる」 その言葉を、何度も何度も聞かされた。 やがてそれは、疑うことのない“前提”になった。 遊びたい、という感情は、徐々に押し潰されていく。 友達に誘われることもなくなった。 というより、誘われても断るしかない。 最初は何度か声をかけられた。 「アン、一緒に遊ぼうよ」 そのたびに、彼女は申し訳なさそうに答える。 「ごめん、今日塾なの」 それが続くうちに、誰も誘わなくなった。 気づけば、クラスメイトたちは当たり前のように遊んでいる。 公園で、ゲームで、笑いながら。 一年に何百日も。 アンは、その光景を遠くから見るだけだった。 (私…何回遊んだことあるんだろう) 数えられるほどしか、なかった。 一回か、二回か。 それだけだった。 やがて迎えた、中学受験。 アンは全力で勉強した。 親の期待に応えるために。 自分の人生がかかっていると信じて。 だが—— 第一志望には、落ちた。 その瞬間、アンは崩れた。 泣き崩れた。 努力が足りなかったのか。自分が悪いのか。それとも—— 何が正しかったのか、わからなかった。 それでも、第二志望には受かっていた。 「よかったじゃない」 親はそう言った。 アンも、そう思うことにした。 (やっと終わった) そう、思った。 だが、それは終わりではなかった。 新しい始まりだった。 「中学の範囲、先にやっておきなさい」 「定期テストは1位を取ってほしい」 期待は、形を変えて続いていく。 アンは理解していた。 親は自分を愛している。 だからこそ、応えなければならない。 その思いが、彼女を縛る。 逃げるという選択肢は、なかった。 愛情とプレッシャーが、同時にのしかかる。 優しさの中にある、見えない強制。 否定されているわけではない。 だが、自由でもない。 その歪みは、静かに蓄積されていく。
思春期のアン
アン・ルートワートは、学生時代、目立つ存在ではなかった。 教室の後ろの方で、静かに座っているタイプ。誰かと積極的に話すこともなく、かといって完全に孤立しているわけでもない。 ただ、“印象に残らない”。 そんな存在だった。 身長は155cmほど。特別に可愛いわけでもなく、派手さもない。声も小さく、自己主張も弱い。 いわゆる、陰に溶けるタイプの少女だった。 だが、内側にはちゃんと感情があった。 誰かと遊びたい。誰かと笑いたい。恋愛もしてみたい。 普通の高校生が持つ、ごく自然な欲求。 ある日、アンは勇気を出した。 クラスの男子に、小さな声で言った。 「ねえ…今度、一緒に映画行かない?」 男子は少し驚いたが、やがて笑って答えた。 「いいよ」 それだけのことだった。 特別なことではない。どこにでもある、高校生のささやかなデート。 映画を観て、少し話して、帰る。 それだけで、アンの世界は少し明るくなった。 だが—— その小さな変化は、家では許されなかった。 高校二年、春。 「アン、あなた男と遊んだの?!」 帰宅するなり、母の怒声が飛んだ。 アンは驚いて言葉を返す。 「いや、クラスの男の子と映画観に行っただけだよ?」 その言葉は、火に油を注ぐだけだった。 「子供がそんな不良じみたことしちゃいけません!」 母の声は鋭く、容赦がなかった。 「恋愛にうつつを抜かしてると受験に落ちるわ! 勉強しなさい!」 アンは何も言い返せなかった。 ただ立ち尽くす。 父もそこにいた。怒鳴りはしない。むしろ穏やかな口調だった。 だが、その言葉は別の意味で歪んでいた。 「アンは大学院に行くんだろ? 頭良いからな」 優しい声で、笑いながら続ける。 「恋愛なんか24歳くらいまでしなくていいぞ」 その“優しさ”が、逆に重かった。 否定ではない。だが、許容でもない。 人生のレールを、静かに敷かれていく感覚。 アンは、17歳だった。 もう子供ではないはずなのに、まるで小学生のように扱われる。 何をするにも管理される。 どこに行くのか、誰と会うのか、何時に帰るのか。 すべてに目が向けられていた。 部屋に戻ったあと、アンはベッドに座り込んだ。 何もしていないのに、悪いことをしたような気分になる。 胸の奥が、じわじわと重くなる。 (なんで…) 小さく、心の中で呟く。 (映画観に行っただけじゃん…) その“普通”が、許されない。 その違和感は、やがて怒りに変わっていく。 (くそっ…) 声には出さない。ただ、心の奥で何かが歪んでいく。 抑えられた欲求。 否定された感情。 管理され続けた思春期。 それらは消えることなく、静かに蓄積されていった。 やがてそれは、別の形で噴き出すことになる。 誰にも止められない形で。 この時のアンは、まだ知らない。 自分の中に生まれたその歪みが、 後にどれほど強い衝動となって現れるのかを。
アンの不倫
スパイリー・ルートワートの母、アン・ルートワート。 その名は、後に奇妙な運命の中心に立つことになるが、この頃の彼女は、ただ一人の女だった。 時は、スパイリーが生まれる数年前へと遡る。 彼女は、倫理を踏み外していた。 罪を犯したわけではない。だが、道徳から外れていた。 不倫だった。 夫、ロベルト・ルートワートは仕事で家を空けることが多かった。単身赴任という形で、長い時間を別々に過ごしていた。 その空白を、アンは埋めていた。 愛ではない。退屈でもない。もっと曖昧で、もっと衝動的なもの。 彼女は、スウェーデンの男たちと関係を持っていた。 一人ではない。 その夜の相手は、ジョニー・マリ。 身長は195cm。均整の取れた肉体に、彫刻のような顔立ち。視線ひとつで人を惹きつける男だった。 だが、特別ではない。 少なくとも、この街では。 ストックホルムには、こういう男が珍しくなかった。高身長で、整った顔で、身体も鍛えられている。そんな男たちが、まるで当たり前のように存在していた。 アンは、そういう世界にいた。 その夜、二人はクラブにいた。 重低音が響き、光が断続的に瞬く空間。人々は酒を片手に、音に身を任せている。 アンも、その中に溶け込んでいた。 ジョニーが手を差し出す。 「踊ろう」 アンは微笑んで、その手を取る。 二人はフロアに出た。 身体が自然とリズムに乗る。音楽に合わせて、距離が近づく。触れるか触れないかの、絶妙な距離。 ジョニーは低い声で言った。 「君、綺麗だな」 ありきたりな言葉。 だが、その声と視線には重みがあった。 アンは軽く笑う。 「そういうの、みんなに言ってるでしょ?」 「いや、今日は君だけだ」 嘘か本当かはどうでもよかった。 その場の空気がすべてだった。 アンは知っていた。これは長く続くものではないと。明日には終わる関係かもしれない。 それでも構わなかった。 むしろ、その軽さが心地よかった。 夫がいない夜。 誰にも縛られない時間。 音楽と、酒と、身体の熱。 アンは、そのすべてに身を委ねていた。
契約者
スパイリーがこの世に生まれる、その直前の出来事。 それは、誰にも知られていない、ひとつの選択の物語だった。 夜だった。 まだ静かな住宅街。家の中では、出産を間近に控えた妻が横になっている。 その時、玄関のベルが鳴った。 こんな時間に誰だ、と父は思いながら扉を開ける。 そこに立っていたのは、見たこともない男だった。 年齢は分からない。若くも見えるし、老いているようにも見える。服装もどこの国のものか判別がつかない。 ただひとつ確かなのは——異様だ、ということだった。 男は微笑んでいた。 「おめでとうございます。もうすぐ、お子さんが生まれますね」 父は警戒した。 「……誰だ、お前」 男は軽く一礼する。 「契約者、とでも呼んでください」 その言葉の意味は分からない。しかし、直感的に“普通ではない”と感じた。 男は続ける。 「あなたの子供に、特別な力を授けることができます」 父は眉をひそめた。 「帰れ。そういうのは間に合ってる」 だが男は動じない。 むしろ楽しそうに、言葉を重ねた。 「“ガチャ人間”です。毎日一度、世界中のあらゆる分野の頂点にいる人間の能力を引き当てることができる」 父の動きが、わずかに止まった。 「スポーツでも、学問でも、芸術でも、容姿でも、富でも。どんな才能でも手に入る。引いたその日、その力を完全に使いこなせる」 静かな夜に、その言葉だけがやけに現実味を持って響く。 「……そんなもの、あるわけないだろ」 父はそう言いながらも、完全には否定しきれていなかった。 男はゆっくりと、核心に触れる。 「代償はひとつです」 そして、はっきりと言った。 「あなたの妻は、出産と同時に死にます」 空気が凍った。 一瞬、時間が止まったように感じた。 父は、何も言わなかった。 言葉を探す必要すらなかった。 そして、即答した。 「駄目だ」 一切の迷いもなかった。 男は、少しだけ目を細める。 「本当に?」 「本当だ」 「あなたの子供は、世界の頂点に立てる存在になります。それでも?」 父は一歩前に出た。 「無論だ」 その声には、怒りでも恐怖でもなく、ただ揺るぎない意思があった。 「そんなもんいらねえよ」 男はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。 「……そうですか」 その笑みは、どこか満足げだった。 「では、この話はなかったことに」 男は静かに背を向ける。そして、闇の中に溶けるように消えた。 扉の外には、もう誰もいなかった。 風だけが、かすかに吹いている。 父はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがてゆっくりと振り返る。 家の中から、妻の声が聞こえた。 「どうしたの?」 その声を聞いた瞬間、父は少しだけ息を吐いた。 「なんでもねえよ」 そう言って、扉を閉める。
全部
スパイリーの幼少期は、決して特別なものではなかった。 どこにでもあるような家。どこにでもいるような家族。豪華でもなければ、極端に貧しいわけでもない、ごく普通の生活。 ただ一つ、彼の中で強く光っていたものがあった。 それが、「金持ちになりたい」という願いだった。 ある日の夕方。テレビでは高級車や豪邸が映し出されていた。成功者の特集番組だった。 スパイリーは食い入るようにそれを見ていた。 「パパ、俺お金持ちになる!」 突然そう言い出した息子に、父は少しだけ驚き、そして笑った。 「おお、いいじゃないか。何にお金を使うんだ?」 スパイリーは少し考えてから、真っ直ぐに答えた。 「全部」 父は思わず吹き出した。 「全部ってなんだよ」 「だって、全部欲しいもん。でっかい家も、速い車も、かっこいい服も。あと…すごい人にもなりたい」 “すごい人”という言葉は、まだ曖昧だった。 スポーツ選手かもしれないし、テレビに出る有名人かもしれないし、金をたくさん持っている社長かもしれない。 でも、共通していたのはひとつ。 「上」にいる人間になりたい、という感覚だった。 父はその様子を見ながら、少しだけ真面目な顔になる。 「じゃあな、そのためにはどうする?」 スパイリーは少し黙った。まだ幼い頭で、答えを探す。 やがて、小さく口を開いた。 「強くなる」 「ほう」 「強いやつが勝つんでしょ?」 単純で、しかし本質を突いた答えだった。 父はゆっくり頷いた。 「そうだな。強いやつは、いろんな意味で上に行ける」 その日から、スパイリーの中で“強さ”と“金”は結びついた。 学校では目立つ存在ではなかった。運動も勉強も、最初から飛び抜けていたわけではない。 ただ、ひとつだけ違った。 “上に行きたい”という欲望の強さ。 誰かが褒められれば悔しいと思った。誰かが成功すれば、自分もそこに行きたいと感じた。 そして同時に、現実も理解していた。 (俺、別に天才じゃねえな) スポーツをやっても、トップには届かない。勉強でも、上には上がいる。 何か一つで突き抜けるタイプではない。 その事実は、子供ながらにちゃんと理解していた。 だからこそ、彼は考えた。 (全部欲しいなら、どうすればいい?) その答えは、ずっと見つからなかった。 だが、その「全部欲しい」という欲望だけは、一度も消えることはなかった。 やがて時は流れ、少年は大人になり—— “ガチャ人間”という、世界でも異質な存在へと変わっていく。 その原点は、あの夕方の、何気ない一言だった。 「全部」 その言葉には、子供の無邪気さと同時に、 底の見えない欲望が、確かに宿っていた。
王国の10番
スパイリーは、これまでにも何度か“当たり”を引いてきた。 その中でも特に印象に残っているのが、日本のトップリーグであるJ1で活躍する選手を引き当てたときだった。 あの日、彼はただの遊びのつもりで、友人たちと河川敷に集まっていた。いつも通りの草サッカー。だがボールに触れた瞬間、世界が変わった。 足が軽い。いや、軽いというより「思考と同じ速度で動く」。ボールを扱う感覚も異様だった。まるで足ではなく、手で直接触れているような精密さ。トラップも、ドリブルも、パスも、すべてが寸分の狂いもなく決まる。 相手が何人いようと関係なかった。抜こうと思えば抜けるし、止めようと思えば止められる。試合というより、操作に近かった。 「うわ……これがJ1の天才か」 あのときの感動は、今でもはっきり覚えている。素人の自分から見れば、まさに“完成された存在”だった。 それからスパイリーは、何度もガチャを引いた。科学者の頭脳に憧れた日もあれば、ランウェイモデルの体に惹かれた日もある。気づけば、何百回も引いていた。 そして、今日。 ついに引き当てたのが、Neymar Jrだった。 最初は半信半疑だった。だがボールを一度触った瞬間、その疑いは完全に消えた。 ワンタッチ。 それだけで、理解してしまった。 (あのときとは……モノが違う) 以前引いたJ1の選手も、間違いなく天才だった。90分間、すべてのプレーを高い精度でこなし続ける、常人離れした存在。それでも―― ネイマールは、そのさらに上にいた。 タッチの繊細さが違う。ボールが足に吸い付くというより、意思を共有しているようだった。ドリブルの軌道は予測不能でありながら、完全に制御されている。力の入れ方、抜き方、リズム、視野、すべてが芸術の領域に達していた。 「……なんだこれ」 思わず漏れた声に、自分でも驚く。 同じ“サッカー選手”という括りで語っていたことが、馬鹿らしくなる。次元が違う。比べること自体が間違いだと、身体が理解していた。 その日の夕方、スパイリーは友人のジョニーと河川敷でボールを蹴っていた。ジョニーは、この能力を知る唯一の男だ。 ジョニーが雑に蹴ったパスが飛んでくる。コースも強さもバラバラな、普通ならトラップに苦労するボール。 だがスパイリーの足元に来た瞬間、ピタリと止まった。 まるで接着剤でも塗られているかのように、ボールが吸い付く。 「おいおい……今の止め方、なんだよ」 ジョニーが笑いながら言う。 「この才能……どうやらネイを引いたのはマジみたいだな。どんな奇跡だよ」 スパイリーは軽くリフティングを始める。ボールが上下するたびに、体が自然とリズムを刻む。無理に合わせている感覚はない。むしろ、ボールの方が自分に合わせているようだった。 「ああ……ネイマールって、やべえんだな」 軽くドリブルに移る。加速、減速、フェイント。どれも考える前に体が動く。しかも、その一つ一つが異様に美しい。 「こりゃ世界獲るわ」 自分の口から出た言葉に、妙な納得感があった。 スパイリーは、その後もボールを蹴り続けた。10回、100回、1000回。どれだけ触っても、この感覚は薄れない。むしろ、触れるほどに深くなる。 サッカー選手なんて、どのレベルも天才だと思っていた。だが違う。同じ天才でも、階層がある。その頂点に近い存在は、他のすべてを霞ませる。 夕焼けの河川敷で、スパイリーは静かにボールを止めた。 足元に収まるその感覚を、もう一度確かめる。 そして、小さく呟いた。 「これが……“王国の10番”か」
ガチャ人間
スパイリーという男がいた。 年齢は不詳。国籍も経歴も、一切わからない。気づけばどこかにいて、気づけば消えている。そんな存在だった。 ただ一つだけ、確かなことがある。 彼は「ガチャ人間」だった。 スパイリーは、特別な力を持っている。 この世界に存在する“トップ層の人間”――スポーツ選手、俳優、科学者、モデル、格闘家。ジャンルは問わない。何か一つでも頂点に近い才能を持つ者たちを、「手札」として引き当てることができる。 そして、引いたその日。 彼はその人物と“同じ力”を手に入れる。 1日1回だけ引けるガチャ。 それだけで、人生がまるごと変わる。 しかも気に入れば、その手札を維持したまま、何日でも使い続けることができる。新しく引かなければ、その力は消えない。 つまり――当たりを引けば、それを握り続けるだけでいい。 ある朝、スパイリーはホテルの一室にいた。 カーテンの隙間から差し込む光。まだ静かな時間帯。彼はベッドの端に腰掛け、軽く首を鳴らした。 「さぁ、良い手札こい…!」 その声は、どこか子供のようでもあり、狂気じみてもいた。 今日の狙いは決まっている。 スポーツ選手。 できればサッカーかバスケ。できるなら世界トップレベル。理想は一部リーグのスターか、NBA級の怪物。 「頼むぞ……今日は当てる」 目を閉じる。 意識を集中させる。 そして、引いた。 空間が、わずかに歪む。 見えないはずの“カード”が、ゆっくりと浮かび上がる。 スパイリーは目を開けた。 次の瞬間。 「……は?」 一拍遅れて、理解が追いつく。 そこにあった名前。 Neymar Jr 背番号、10。 写真の中の男は、軽やかな笑みを浮かべていた。 スパイリーの全身に、電流のような感覚が走る。 「はは……おい、嘘だろ……」 手が震える。 呼吸が荒くなる。 そして次の瞬間、彼は立ち上がり、部屋の中で叫んだ。 「うおおおおおおお!!!!!!」 当たりどころの話ではない。 これは“特大”だ。 世界トップクラスのサッカー選手。その技術、そのセンス、その身体操作。そのすべてが、今この瞬間、自分のものになる。 スパイリーはゆっくりと手を握る。 感覚が違う。 軽い。しなやかで、無駄がない。関節の一つ一つが、信じられないほど滑らかに動く。 「これが……ネイマールか」 思わず笑みがこぼれる。 ほんの数秒前まで、ただの男だったはずなのに。 今はもう違う。 世界の頂点に立つプレイヤーの身体を、そのまま手に入れている。 「今日の俺は……最強だな」 そう呟き、スパイリーは鏡の前に立った。 そこに映っているのは、見た目は変わらない自分。 だが中身は、完全に別物だった。 この力を使えば、何ができるか。 どこまで行けるか。 その可能性を考えた瞬間、また脳が熱くなる。 そして彼は、静かに笑った。 「さて……遊ぶか」