中山大二
2 件の小説快楽のファシズム-空虚-
第二章 空虚 佐久間翼 東京都大田区田園調布生まれ。 彼は日本で3本の指に入る、大手ゼネコン会社を代々経営する財閥一族の中に性を享けた。 3歳の時、全国で最も有名なインターナショナルスクールへ通い始め、そこでは柔軟に英語を吸収し、翼はバイリンガルな幼稚園児へと成長していった。 5歳の時になった頃には、日常会話の半分を英語で話すようになっていた。 両親も日常会話程度の英語なら話す事は出来たので、日々の暮らしの中で家族が英語を使うことは普通の事になっていた。 翼は映画を見る事をとても好む少年だったため、良い英語も、悪い英語も、だんだんと使うようになったのである。 ある日の夕方、翼の母親の流華が言った。 「翼、パパが仕事から帰ってきたらすぐにご飯にするから、早くオモチャを片付けてちょうだい」 すると5歳の翼は母親の目を見て言った。 「Shut up【黙って】」 流華は驚き、あまりの酷い言葉に情景反射的に翼を平手打ちしてしまったのだ。 次の瞬間、翼は大声で泣き出し、母親を睨みつけ、もう一言放ったのだ。 「FUCK!NO WAY!【クソ!ありえない!】」 そんな事を言われた流華は流石に唖然とし、そのまま翼は庭へ出て行ってしまったのだ。 英語圏の国でも流石に5歳児が使わない英語であった。 そして流華はその夜、翼の父である直樹にその日の事を話した。すると直樹はこう言った。 「翼はまだ子供じゃないか、母親のお前がそんなに癇癪を起こしてどうするんだ。言葉で怒るのはいいが、流石に叩くのはダメだぞ」 父親の直樹は少しイライラした様子で流華に言った。 「そんなこと言ったってしょうがないじゃないの!あの子、毎日毎日映画ばかり見てて全然部屋から出て来ないし。きっと映画のせいよ!」 流華は直樹に少し怒り口調で言った。 「なんだその口の聞き方は!誰に向かって口を聞いてるんだ!お前の教育がしっかりしていないからだ!そんな言葉を言われたからって、大事な一人息子を叩くことないだろ!ちょっとこっちに来い!」 直樹は怒りにまみれ、流華の髪の毛を強く引っ張った。 そして鈍い音がした。 −ドンッ! 直樹は流華の顔を机に叩きつけた。 その衝撃で流華は鼻血を出し、口から血も流れていた。 「す、すみませんでした……私が全て悪いんです……あなたの気が済むまで殴って下さい」 血で汚れた口から吐き出すように直樹に言った。 「また翼を叩いたら、俺もお前を叩く。いいな?」 直樹は低い声で流華に言った。 「はい……すみませんでした」 流華は謝った。 その時だった。 −ガチャッ− ドアが開き、そこには翼が立っていた。 「パパ!ママに叩かれた!もっと殴って!ママ大嫌い!もっともっとたくさん殴って!」 隼雄は直樹に言い、流華を睨みつけた。 「また翼を叩いたら、次はもっとママを叩いてあげるからね。なんでも正直にパパに話すんだぞ。その代わり、もう汚い英語を使うんじゃ無い」 「………」 翼の顔は急に険しくなり、直樹のことを睨みつけた。 「なんだその目は!」 直樹は翼を怒鳴った。 だが、翼は黙って部屋を出て行った。 流華はその場で崩れ落ちるように座り込み、直樹は流華の横へ行った。 「流華、ごめんな…。俺が全部悪いんだ。気がついた時には勝手に流華の髪を引っ張ってたんた…。わかってるのに自分じゃ止められなかったんだ」 さっき流華を机に叩きつけた時の態度とは正反対の直樹だった。 しかし、流華は落ち着いていた。 そんな直樹のことを流華は抱き寄せ、頭を撫でた。 「なおくん、私はいいのよ。私を叩いて落ち着いたでんしょ?心配しなくていいの。でもほら、私の口から血が出てるのわかる?」 流華は自分の口を指差し、そのまま直樹の口にキスをした。 そして、流華は血を含んだ唾を直樹の顔へ吐いた。 「おい、このクソ男。」 流華はとても冷酷な目で吐き捨てるように直樹に言った。 直樹は涙を流しながら流華に抱きついた。 「………」 その光景を、翼はドアの隙間から覗き込んでいた。
快楽のファシズム−逮捕−
第一章 逮捕 「58室、番号!」 施錠された分厚い鉄扉の小窓から、偉そうな刑務官が佐久間を睨みつけた。 佐久間は刑務官の態度に動じる事無く、夕食後の点検は普段と変わらない低い声で返答した。 「1038番」 東京拘置所D棟6階の独居房、58室に自分の声が微かに響いた。 事件は2020年12月28日の事だった。 いつものように覚醒剤密売の仕事を終えた佐久間だったが、この日はいつもより疲れが溜まっていた。 「たまにはゆっくり休もう」 佐久間はそんなことを考えながら帰路を急いだ。 ほぼ毎日、東京都内23区、時間がある時には埼玉や千葉まで網を広げ、覚醒剤の密売を繰り返していた。 そのため内定捜査を恐れ、なるべく自宅には戻らずビジネスホテルやラブホテルを泊まり歩いていた。帰るのは月に1〜2回程度。 所謂、覚醒剤を使っている人間の勘繰りというものだ。 仕事柄常に覚醒剤を注射し、眠ることなく売買を繰り返す佐久間は、気がつけば自分自身がポン中【覚醒剤中毒者】になっていた。 ポン中になれば、寝ずに気絶するまで仕事をするというのは有名な話だ。 客には注射器を刺したまま寝るやつも居る。 そんなポン中に時間を守る奴など居ないに等しい。 そして寝る事なく4日目を迎えた佐久間の体は悲鳴を上げていた。 新宿通りを走り帰路を急ぐ佐久間は、四谷3丁目あたりで自販機を見つけた為、路肩へ車を寄せ停車した。 覚醒剤と冬の寒さで冷え切った体を、缶コーヒーで温めようと思ったのだ。 車から降り、自販機に向かって歩き始めた時だった。 「お兄さん、少しいいですか?」 嫌な予感がした。 振り返ったところには、柔道家のように耳の潰れた体格の良い男性警察官と、恐らく30代後半であろう小太りの女性警察官2人が後ろに立っていたのだ。 パトカーを見た佐久間はすぐに察した。 警視庁四谷警察署自動車警ら隊。 よく警察の密着関係の番組に出てくる職質のプロフェッショナル【自ら隊】だ。 よりによって警察官の中でも、最も優秀な職質のエリートに職務質問を受けることになったのだ。 その瞬間、佐久間は咄嗟に言葉を発した。 「マジかよ……」 その声は2人の警察官には届かず、男性警察官は間髪入れずに佐久間に職務質問をしてきた。 「お兄さん、名前なんていうの?どこに住んでるの?今からどこへ行く予定なの?仕事は何してるの?」 見る限りでは佐久間の方が明らかに歳上だが、男性警察官は敬語を使う事無く、タメ口で次々に質問してきた。 佐久間は、その横柄な口調にジワジワと苛立っていた。 そして男性警察官が身分証を提示するよう言ってきた。 佐久間は何も問題は無いと自己暗示をし、何事も無く素直に免許証を提出した。 「失礼な事聞いてしまうけど、今まで捕まったことはある?」 免許証を渡すと同時に質問された。 「あぁ?あるよ。それがなんだよ?」 佐久間は少しだけ口調を荒げてしまった。 10年以上前になるが、詐欺や器物破損で逮捕歴はある。しかし薬物の逮捕は一度も無かった。 薬物での逮捕歴が無ければ、なかなか尿検査までされないと思っていた。今までも何回も職務質問をすり抜けて来た佐久間には自信があった。 密売していた覚醒剤や注射器も全て売り切っていたため、車には何も残って無かったのだ。 佐久間への質問を終えた男性警察官は、なにやら無線で四谷警察署に連絡している。 そしてもう1人の女性警察官が、いきなり佐久間の瞳にライトを照らしたのだ。 佐久間はバツの悪い顔をし、目を背けたが、彼の瞳孔は縮まる事はなかった。 佐久間の腕には無数のタトゥーがある。しかし、タトゥーでは誤魔化しきれないほどの注射痕が女性警察官の目に留まった。 「これ、なんの傷痕なんですか?」 女性警察官が佐久間に聞く。 「2人してうるせーな。この前、病院で採血した時に看護師が下手くそだから、何度も針を刺されたんだよ。つーか一体なんだよ?俺がネタ食ってるって疑ってんだろ?マジ時間無ぇから。もういいだろ?車にも何も無ぇだろ?ボディーチェックでもなんでもしろよ!」 佐久間は開いた瞳孔を気にする事なく女性警察官を凝視しながら少し怒鳴り気味に答えたのだった。 「………本当にそうなんですか?何かご病気されてらっしゃるのですか?佐久間さん、少し落ち着いて下さい。少しご協力して頂きたい事があるので、署までご同行願います」 佐久間は舌打ちして女性警察官を睨みつけた。 「無理無理。時間が無ぇって言っただろ。俺もやる事があるんだよ。早くどけよ!」 佐久間は怒鳴りつけ、踵を返した。 しかし、1台…2台…3台…ほんの数分の間にパトカーが5台に増え、佐久間は10人を超える警察官に囲まれていた。 ここまで警察と揉めてしまったらそのまま帰る事が出来ないことを分かっていた。 騒いで警察官に囲まれるという、ポン中の典型的な部分が出てしまった事を佐久間は後悔していた。だが、頭のどこかで何かを観念していたかもしれない。 佐久間はほんの数時間前に、前日から利用していたビジネスホテルの部屋で覚醒剤0.1gを水で溶かして自身の体に注射していたのだ。 覚醒剤の作用で気持ちが大きく昂っているため、感情をうまくコントロールする事が難しくなっていた。 公執行妨害になるギリギリのラインで 「こんなの違法職質だ!訴えてやるから!お前の名前なんだよ?警察手帳見せろよ!おい!」 と、佐久間は目が合う警察官1人1人に喧嘩腰に怒鳴り散らかしていた。 しかし、気がついた時には両脇を警官に抱えられパトカーに乗せられていた。 しょうがなく佐久間は任意同行に応じた。 警視庁四谷警察署。到着後早々に、任意で尿検査を促された。 しかし、佐久間は拒否し続けていた。 「佐久間さん、拒否し続けるようでしたら、こちらにも考えがありますので」 取り調べをしていた薬銃【薬物銃器対策】の刑事が言った。 「だから小便なんて出ねぇっつってんだろ!この時間どうやって返してくれんだよ?あぁ?俺も暇じゃねぇんだよ!忙しいんだよ!」 佐久間が任意で同行を求められ、四谷警察署に到着した時刻は午後11時だった。 しかし、薬銃の刑事が時計を見たところ、取調室の時計の針は午前6時を指していた。窓の鉄格子の隙間から日が入り始め、四谷警察署に到着してから既に7時間が経過していた。 気がつけば、翌朝になっていたのだ。 その間、佐久間は机の下に携帯を隠し、携帯の中身全てを初期化していた。逮捕後にSNSのメッセージのやり取りがめくれると、営利の疑いが加えられ、更に隠れ家が見つかる可能性、そこに隠してあった大量のネタや道具【注射器】が出て来てしまった場合、佐久間は麻薬特例法を免れる事が厳しくなるからだ。 そうなったら実刑が確定する。しかも5年上となる事は分かっていたのだ。 佐久間が眠気に耐えられずウトウトとし始めた時、取り調べをしていた薬銃の刑事1人が、さすがに痺れをきらし席を外した。 それから5分程が過ぎた時だった。 −ドカン!− 蹴ったように強くドアが開けられ、佐久間はいきなりの音にビクっと目を覚ました。 そこに立っていたのは、捜査4課【組織犯罪対策課】の比嘉という刑事だった。 わざわざ佐久間の取調室にやって来たのだ。 比嘉刑事の階級は警部補だが、薬物汚染が広がる新宿区管轄、そして毎日ヤクザを専門的に相手をしている堂々のマル暴だ。 「お前が佐久間か?何ごねてんだよ。おい、小便が出ねぇなんて餓鬼みたいな事言ってんじゃねぇよ!お前は俺がここへ来た理由が分かるよな?分かるんだったら素直に尿検査に応じろ。従わないようなら、身体捜査令状の手続きを始める」 佐久間はその瞬間、全てを察した。 自分がここで警察に従わないと、自分が関わるヤクザや他の麻薬密売組織にこの件が飛び火し、自分とは別の人間達が逮捕される可能性が出てくると思い、たくさんの迷惑が掛かると考えたのだ。 佐久間は仕方なく尿を提出し、検査に応じた。 案の定、覚醒剤使用の反応が出た。 その後、佐久間の尿は科学捜査研究所に届けられ、2時間ほどの精密な鑑定を行なったところ、佐久間の尿から塩酸メチルアミノプロパン【覚醒剤】を含む塩分若干量の反応が検出されたのだ。 「午前8時31分。覚醒剤取締法違反により、緊急逮捕。おい佐久間、とりあえず先に携帯を出せ」 既に朝日が昇った四谷警察署の中で、比嘉刑事が佐久間に手錠を掛けた。 「俺は覚醒剤なんてやってない」 覚醒剤を使い、4日間起き続けていた佐久間は意識が朦朧とし始め、話が出来ないと判断した比嘉刑事は取り調べを中止し、身体検査をした後、そのまま四谷警察署内の留置所に佐久間の身柄を移した。 佐久間は飯も食わず死んだように寝た。 人間は4日間起き続けると、そう簡単には起きない。 その後丸一日が過ぎたが、佐久間は未だ留置所の中で横になっていた。 佐久間が収容されている留置所の部屋は第三居室。そして、警察署の留置所内ではプライバシー保護の為、被疑者の事を番号で呼ぶ。佐久間もその番号が付けられた。 「おい!93番、起きろ。今日は順送だ」 朝食は茶碗一杯分の白米にミートボールが1つ、壺漬けが3枚ほど、当たり前のように冷飯だ。それに即席味噌汁。 佐久間は久々の食事を獣のように食した。当たり前の事だが、白米やお菜のおかわりは出来ない。その代わりに、お茶をおかわり出来る。佐久間はお茶で腹を満たそうとしたのだ。 もう一杯貰おうとした時だった。 「担当さん、お茶ください」 鉄格子の向こうから食事を監視する警察官に遠慮気味に言った。 「残念だなぁ!もう今日は終わりだ」 留置課の太った警察官が答えた。 佐久間は警察官を黙って睨みつけた。 留置所の居室には食器口と呼ばれる、食事や手紙を居室内に入れる為のA4サイズ程の大きさの開口がある。 佐久間はそこに食器を叩きつけるようにして置いた。 シャブの切れ目で佐久間は苛立っているのだ。 「93番、今日は順送が入っているぞ。あと30分したら出発だ」 警察官は面と向かって伝えたが、佐久間は返事もせず、目も合わす事は無かった。 そして30分後に再度手錠を掛けられ、次に腰縄を付けられ護送者に乗り、東京地方検察庁に送られた。 被疑者が留置されている間、留置所の外へ出る時には必ず手錠を掛けられる。署内で留置所から取調室へ移動するだけでも腰縄までしっかりと付けられる。留置されれば、留置所以外は全て手錠と腰縄が付けられる生活が余儀なくされる。 順送された東京地方検察庁の地下では、東京都内の全ての警察署から、その日に裁判を受けるもの、検事調べを受けるもの、拘置所へ移送されるもの等、約80人程の被疑者が集まっている。そしてその全員が手錠をされているのだ。 まさに異様な光景とはこの事だ。 私語厳禁。会釈も禁止。もしそれを破った場合には、警察官の怒鳴り声が地下に響く。あまりに酷い場合は公務執行妨害で逮捕までされるのだ。 その日も若い男が警察官と揉めていた。 そんな最中、佐久間は番号を呼ばれ、別の部屋に移動した。入り口のドアには「録画・録音中」という張り紙がされていた。 佐久間はため息をついたが、黙って部屋に入り、その後裁判官が佐久間の陳述を聞いた。 だが、佐久間はその場でも答えを曲げる事はなかった。 「俺は覚醒剤なんてやってない」 佐久間はこの言葉を繰り返した。 否認や一部黙秘の供述を繰り返す佐久間は、接見等禁止措置となった。 裁判官は証拠隠滅の恐れがあると判断したのだ。 そして佐久間は四谷警察署に戻り、覚醒剤取締法違反被疑事件により、10日間の拘留延長措置が決定した。まだまだ取り調べがあるからだ。 佐久間は逮捕される数ヶ月前からSNSで覚醒剤を手売りしていた。 密売の売り上げが波に乗った頃だった。 手押しした場所がヤクザの縄張りだったことが見つかった。 「最近、ネタを配達するタトゥーの男が居る」 そんな情報がヤクザのもとに入ったのだ。 アンダーグランドの情報網を舐めてはいけない。 そして指定した場所へやって来た、客を装ったヤクザにシャブを渡した瞬間、顔を殴られそのまま車で拉致された。 ヤクザの事務所でブルーシートを敷かれ、佐久間は結束バンドで手足を縛られた。 そして、金属バットや木刀など、ありとあらゆるもので全身を殴られ、集団リンチに遭った。 しかし、何度でも起き上がる姿がヤクザの目に留まり、1人の男が笑った。 それはその組織の中でも上層部に座る若頭の浅野と言う男だった。若頭の浅野は佐久間に言った。 「お前、なかなか面白い奴だな。そんなにシャブが好きなのか?」 佐久間は答えた。 「あぁ。好きで何が悪い?あんた達のシマでネタ売った事は謝る。だが、俺の生きる術だ。俺は売買を止める気は無い」 浅野は笑った。そして一瞬で真顔になり佐久間に言った。 「おい小僧、先にネタ渡してやっから、10日間で50万に変えてこい。いいな?」 そう言った浅野は佐久間に紙袋と覚醒剤の入った注射器一本を投げた。 「中にはシャブ30gとポンプ【注射器】が50本が入ってる。一本だけ投げた注射器に入ってるネタはその30gと同じものだ。50万に到達して余ったネタとポンプは、売るなり自分で使うなり好きにすりゃあいい。とりあえずテスターだ。今すぐ打ってみろ」 佐久間は血だらけの中、ヤクザから投げられたシャブの入った注射器のキャップを外し、すぐに浅野の目の前でそれを打った。 その瞬間、絞められて傷だらけになった体の痛みが全く無くなった。代わりに体が軽くなり、そして興奮感が襲って来た。 「このシャブは上物だな」 佐久間は言った。 浅野はニヤリと笑った。 「ヤクザを舐めんじゃねぇぞ小僧。期限は10日間だ」 佐久間は驚いた。これほどの上物のネタが、今までに取引したことの無い程の、安値だったからだ。 そしてその後、佐久間は東南アジア、または南米経由から、ヤクザを通じて日本へ流れ込む品質の良い薬物全般を取り扱う密売人となったのだ。 販売する場所はヤクザに管理され、新たな場所で売る場合は、そのシマを管理する別のヤクザの事務所まで、若頭の浅野と共に挨拶に行った。 シャブ【覚醒剤】、ガンジャ【大麻】、チャリ【コカイン】、バツ【MDMA】、曲げ【LSD】、リーン【コデイン】、処方薬。 佐久間は「薬」と呼ばれるものを、頼まれた品物は昼夜関係なく、どこへでも売りに行った。 全ては自分の生きていく金、そして自身の快楽の為でしかなかった。 「生きる意味」 そんな事は考えたことがない。 今が楽しければ何でも良い。 現実から目を背けられるなら何でも良い。 薬物を使う意味もよく分からなくなっていた。 いつものルーチンワーク。 密売仕事の前には、インスリン用の注射器に覚醒剤を目盛20のところまで入れる。 ペットボトルのキャップに注いだ軟水を覚醒剤の入った注射器で吸い上げ、爪で注射器を叩き振動させ溶かし、ギリギリまで空気を抜く。 そして右の二の腕を靴下でキツく縛り、浮き出た静脈に注射器の針を刺す。 血が戻ってきた瞬間一気に押し込む。 そして針を抜き、腕を上げる。 佐久間はそれを何回繰り返したのだろう。 注射器の種類はキャップの色で呼び名が変わる。 白いキャップの注射器はシロペン。シロペンは針が細く詰まりやすい。 赤いキャップの注射器はアカペン。アカペンは針が太いし、最近はなかなか手に入らなくなっていた。 だから佐久間は、オレンジのキャップで一番流通量が多く、糖尿病患者が使用するインスリン用の注射器「オレペン」を好んで使った。 そして針を抜いた佐久間は1秒で完全にぶっ飛んでいたのだ。 毎日のスタートは斜切りにしたストローで覚醒剤を注射器に入れるところから始まる。 そんなジャンキー生活が20年目を迎えようとしていた時、3回目の逮捕を迎えた。 佐久間はとてつもないジャンキーだったが、薬物絡みで逮捕されたのは、これが初めてだった。 2020年12月28日。 缶コーヒーを買おうとした事がキッカケで、とてつもなく長い拘留生活が始まったのであった。